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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第十章 嵐の前

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 翌日は晴天だった。そこかしこで、木々の枝葉を伝う雫が、ぴちょん、ぴちょんと、軽やかに跳ね回っている。まさしく、台風一過というやつである。
 苺火は朝一番で時計塔に制服を取りにいくと──早朝にも関わらず、鶫美は表の薔薇園で、昨夜の嵐による薔薇たちへの被害の様子を見ているところだった。制服はすっかり乾いていて、その日の真っ青な空のように溌剌としていた──一旦は鹿蹄館の自室に戻って制服に着替えた。
 この日、星野にも晴にも、苺火はまだ顔を合わせてはいなかった。晴は相変わらず姿を見せていないし、星野はこの時間であれば、もしかするとまだ寝ているかもしれない。
 苺火は静まり返った鹿蹄館の階段を下りると、三和土(たたき)に運動靴を転がし、足を滑り込ませた。足の向かう先は、既に決まっている。
 久しぶりに間近で目の当たりにする花蝶館は、やはり小綺麗に、慎ましく佇み、苺火をほんの僅か拒絶していた。苺火はこれまで幾度となくそうしてきたように、頭を低くして壁際を進み、整然と並ぶ窓の内の一つ前で足を止めた。そろりと手を伸ばし、コンコン、と窓をノックする。控えめな、小さな手が、カーテンの隙間からそっと現れる。
「合言葉をどうぞ」
 久方ぶりに聞くその言葉は、以前と寸分も違わず、苺火をその懐へと導き入れてくれる。
「〝ユニコーンの心臓〟」
 厳かな祈りのように、苺火は応える。
 旧式のクレセント錠が回され、窓が開かれると、レースのカーテンがそよ風にゆったりとたなびいた。その淡い光の向こうに、薄花色の眼差しの少女は、スカートの前で丁寧に手を組み合わせて佇んでいた。靴を脱ぎ、窓のサッシュを跨いだ苺火は、その小さな少女──花魚子と視線を交わすと、微かに微笑んだ。
「久しぶりだね、花魚子ちゃん。起きててよかったよ」
「お久しぶりです、桐島さん」
 花魚子もふうわりと、苺火の目を見て微笑み返す。
「肝試し大会の日、見かけなかったね。どうしたの」
 努めて沈着に、苺火は花魚子の前を横切り、ベッドのふちに腰を下ろした。花魚子も歩み寄ってきて、苺火の隣に浅く腰をかける。
「ここのところ体調があまりよくなくて、お部屋でお休みを頂いていました。桐島さんの事故のこともお兄ちゃんから聞いてはいたのですが……。お見舞いにも行けず、すみません」
 苺火は笑って、首を横に振った。
「ううん、元々大した怪我じゃなかったし、気にしないで。花魚子ちゃんこそ、大丈夫? 僕、ここにいて平気?」
「はい。今日は調子がいいんです」
「そう」
 苺火は短く相槌を打ち、何から話したものかと俯く。緩やかに組まれた自分の両手が、視界に映る。
「──肝試し大会の時の話、夜鷹から聞いた? 同じ班の奴が、無くし物して」
 逡巡の末、苺火は最も無難であると思われる話題を選んだ。
「ええ、少し」
 花魚子がくすりと笑うのが、気配で伝わってくる。
「あいつ、変わったよな。僕の友達の大事なもの、一緒に探してくれたんだ。前だったら考えられないよ。花魚子ちゃんも、あいつが周りに馴染めてきて、嬉しいんじゃない? あ、あとこれはこっちの話だけど、こないだ蜜蜂が学園に来てたらしくてさ」
 苺火はいつになく、饒舌になっている。
「前に話したろ? ほら、僕の三つ上の。あいつ、僕のところに顔も出さずに帰っちゃったらしくてさ、薄情だよなあ。花魚子ちゃんだって、兄さんがいるならこの気持ちわかるだろ? ここまで来たならちょっとくらい顔見せに来てくれたって、」
「桐島さん」
 ふと、硬質な声音が、苺火の言葉を遮る。花魚子は迷いのない、真っ直ぐな瞳で、苺火を射抜いている。まるで苺火の心の全てを見透かしているかのように。
「あなたが私に話したいのは、本当にそんなことですか。もっと他に私にお話があって、ここに来たのではないんですか」
 沈黙。
 苺火の口元に浮かんでいた、笑みが消えた。
「──そう、だね。僕、また逃げようとしてた」
 苺火はそっと目を閉じ、一つ息をついてから再び目を開けると、自分を見つめ続ける花魚子と真っ向から視線を重ねた。薄花色の、透明な眼差し。
「ねえ、花魚子ちゃん。あの日。僕が事故にあった日。時計塔にいて僕を突き落としたのは、きみだったよね」
「ええ、そうです」
 花魚子は動じず、正面切って苺火を見つめたまま、端的にその言葉を肯定した。苺火の表情に、暗い影が落ちる。
「どうしてあんなことをしたの?」
「思い出して欲しかったから」
 花魚子は即座に答える。苺火は怪訝に思って、眉をひそめる。
「思い出す……? 何を?」
 と、苺火ははっとして、目の前の小さな少女を注視した。
「花魚子ちゃん。もしかしてきみは僕の、心が欠けたような感覚の理由を、知っているの?」
「はい、知っています」
 苺火はますますわけがわからないというふうに、花魚子を見つめる目を凝らした。目の前にいるのはどこからどう見ても、苺火のよく知る、ありふれた一人の少女だ。
「どうしてきみが、僕のことを?」
「桐島さん。私が眠っているところって、見たことがありますか?」
 唐突な話題の転換に、苺火は戸惑う。しかしすぐに、これも何か苺火の疑問を解き明かすのに必要なことなのだろうと思い直し、首を横に振る。
「いや。でも、それは不眠症だって……」
 花魚子がはじめて、後ろめたそうに目を逸らした。
「ごめんなさい、あれはうそなんです。不眠症といえども、睡眠を全く取らない人間などいるはずがありません。そうじゃなくて、私はそもそも、眠りを必要としない(・・・・・・・・・)んです」
「眠りを、必要としない……?」
 花魚子の言葉を反芻し、ややあって、その意味するところをようやく理解すると、苺火はシーツを跳ね飛ばさんばかりの勢いでベッドから立ち上がった。
「馬鹿な! そんな人間いるはずがない! そんなの人間じゃ、」
「そう。私は人間じゃないんです。私という肉体は、はじめから存在していないんです」
 花魚子の薄花色の瞳が、(しず)かに、透明に、透き通っている。
「何を言って、」
「私は、バケモノですから」
 苺火を見上げて、花魚子はにっこりと笑う。人形のように整い過ぎた笑顔で。
 苺火の肌が、ぞくりと粟立つ。
「桐島さん。もう一つ質問、いいですか?」
「う、うん」
 まだ動揺を隠しきれないまま、それでも苺火はどうにか頷いた。
「桐島さんのお姉さん、おいくつでしたっけ?」
「三つ上だから、十七だけど」
 またしても、的を得ない問いかけに、苺火は警戒しつつも答えた。
「十七歳ということは、高等部の二年ですよね」
「うん、高等部の……」
 言いかけて、苺火も違和感に気がつく。追い打ちをかけるように、花魚子が言う。
「桐島さんのお姉さんは、二階堂先生の教え子だった。つまり、お姉さんも私立月舘学園に通っていたということになります。そうですよね?」
 花魚子の瞳は、硝子玉のように微動だにせず苺火を捕らえている。
「そう、だ……。確かに蜜蜂も、月舘に……」
「それなのに、桐島さんだけがここにいて、お姉さんが今この学園にいないのは、何故ですか?」
 不意に視界がぐらりと傾いだ。ふらつく足取りで数歩歩み、部屋の壁に腕を突く。背後から、花魚子の可憐な声が淡々と鳴る。
「それだけではないはずです。あなたはこの学園とあなたが持ついくつもの奇妙な歪みや矛盾に気づいていながら、見て見ぬふりをしてきた。時計塔に上ることを無意識のうちに避けてきたこと。出席を取るときに、あなたの名前が一度も呼ばれたことがないこと。クラスのお友達の中にも、桐島さんと同じように名前を呼ばれていない方が、いらっしゃるんじゃないですか」
「僕、は……」
 苺火は小さく息を飲んだ。辿り着いたある一つの結論に、身体中の力が抜けていくのがわかった。
「──そうだ。僕は、本来ならここにいてはいけないはずの存在なんだ」
「思い出しましたか?」
 花魚子はもの柔らかに、苺火を見据えている。
「ああ。思い出したよ」
 意を決して、振り返る。ベッドのふちに行儀よく腰かけた、小さな少女。薄花色の瞳と、くるくる、ふわふわと悪戯に靡く亜麻色の髪。まるで西洋の、陶磁器人形(ポーセリン・ドール)のような。
 彼女はもう、さっきまで苺火が知っていた〝星野花魚子〟という一人の人間ではない。
「きみは、僕だったんだね。花魚子ちゃん」
 密事を解き明かすように、消え入りそうな声で囁く。
「はい」
 申し訳なさそうに眉尻を下げて、花魚子は微笑する。
「私はあなた。あなたがお兄ちゃんから奪って、あなたのからだの一部としたもの」
 淀みなく苺火を見据えたまま、花魚子は言った。
「私はあなたがお兄ちゃんから盗った記憶の残滓。お兄ちゃんの思いとあなたのからだ、そして他のいろいろなものが偶然に重なって生まれてきた、亡霊のようなものです」
「──転入して最初に学園に足を踏み入れた時、廃屋から誰かに見られてるような気がした。あれも、きみ?」
 半ば放心状態にある苺火とは裏腹に、花魚子は落ち着き払っている。
「はい。私はずっと桐島さんを見ていました。あなたの内側から。そして外側から。私は、あなたですから」
 苺火はこめかみを押さえてふるふると首を横に振り、花魚子の隣に力なく腰を落とした。その表情は、唐突に突きつけられた無情な現実に、歪んでいる。
「駄目だ。こんなこと、夜鷹に言えるはずない……!」
「どうするおつもりですか」
 花魚子の言葉はどこまでも静謐に、苺火の心にじかに沁み入るように鳴る。
「……きみを夜鷹に返さなきゃ」
 その声は不思議と、苺火をも安寧へ(いざな)い、祈るように両手を組んだまま、苺火は正確に己のなすべき答えを導き出す。
「できますか?」
「やってやるさ」
 強い決意に満ちて、己に言い聞かせるように、一つの宣告が下される。
「この場所から、夜鷹を追放する」

 母に電話をしよう、と思い立ったのは、本当に他愛ない思いつきからだった。思い返せば、一時帰宅を余儀なくされる春期休暇を除いて、家には帰らないことを宣言はしていたものの、この夏期休暇を月舘で過ごすのにおいて、改まった連絡はしていなかった。ここはきちんと連絡を入れておくのが道理だろうと、今更ながらに思い立ったのである。
 鹿蹄館には各階に一台ずつ、前理事長の代から変わらない古びたダイヤル式の黒電話が据えられている。月舘の生徒たちは、皆自由にこの電話を使って親兄弟と連絡を取っていいことになっている。
 夜鷹は二階の階段の踊り場に据え置かれた黒電話の受話器を取ると、ダイヤルを回しはじめた。一つ回すたびに、ジジジ、とダイヤルが戻る黒電話は、その機械仕掛けの音がまた味わい深いものである。
 呼び鈴が二回ほど鳴ったところで、懐かしい声が夜鷹の耳に届いた。
『はい、星野です』
 今にも消え入りそうな女の声だ。疲れきってはいるが、若かりし頃はさぞ可憐に鳴ったであろうと思わせる、どこか花魚子にも似たか細い声。
「よお、母さん。俺だよ。元気してたか?」
 夜鷹がそう口にした途端、電話越しの女の蒼白い顔色が、一回りも二回りも健康的な薔薇色に色づいたように感じられた。
『まあ、夜鷹。あなたが連絡を寄越すなんて珍しいじゃないの』
 女は声を弾ませた。その一瞬だけは、女の纏う薄幸な雰囲気がいくらか薄らいだようにさえ感じられた。
「まあな。連絡が遅くなって悪かった。今年も夏休みは月舘に残るから、ひとこと言っとかなきゃって思ってたんだ」
 夜鷹は心なしか照れ臭そうに、久方ぶりの母の声を胸に刻み込む。
『まあまあ、そんなこといいのに。それより夜鷹、あなた何だか明るくなったんじゃない? 何かいいことでもあった?』
 その問いには、思わずぎくりと身構える。
「べ、別にいいことなんかねえよ。久しぶりだから、そう聞こえるだけだろ」
『あら、そうお?』
 女はくすくすと笑う。その声はもはやすっかり、たおやかな母のそれとなっている。
「ああ、でも、花魚子はこっちに来てから随分明るくなったんだ。明日葉と桜子もいるし、クラスに友達もできたらしい。毎日楽しそうにやってるよ。もう大分、体もよくなったんじゃないかな。やっぱり自然の中で療養させるのがあいつには合って……、」
『何を言ってるの?』
 急に母の声が強張り、夜鷹は押し黙った。暫しの沈黙。女の息遣いが、張り詰めている。何かまずいことでも口にしてしまっただろうかと、じわり、焦燥に駆られる思考を猛スピードで回転させながら、夜鷹はこわごわ口を開いた。
「何って……花魚子のことだよ。今年から療養も兼ねて、月舘に通うことになってただろ」
『──花魚子はいないわ』
 女は言った。それは、夜鷹の理解の範疇を遥かに凌駕していた。夜鷹の思考が急速に色褪せる。無意識に、口元に乾いた笑みが浮かぶ。
「は……? 何わけのわからないこと言ってるんだよ、母さん。暫く会わないうちにボケちまったんじゃ、」
『いい加減にして、夜鷹!』
 突然、母が声を荒げ、夜鷹は絶句する。そんな母の声を、夜鷹は久しく聞いたことがなかった。父親がいなくなってしまった頃、取り乱して泣いていた母の声に、それは似ていた。これ以上、母に何と言葉をかければいいのかわからなかった。ただ固唾を飲んで、母の次の言葉を待つ。電話越しの母の吐息が、震えていた。
『あなたおかしいわ……どうしちゃったのよ。花魚子は──あなたの妹は、八年前に死んでしまったでしょう? 私だって、花魚子の死を、あの人の失踪を、まだ受け止めきれてない。でも、これは確かに現実なの。だからもう、おかしなことを言うのはやめて……!』
 夜鷹は混乱した。
 全く、わけがわからなかった。
 花魚子が、もう死んでいる?
 それも、八年も前に?
 いや、そんなはずはない、ともう一人の夜鷹が言う。花魚子は確かに、この一学期という期間を、自分と共に、月舘で過ごしたではないか。明日葉と桜子だって証人になってくれるだろうし、何より苺火とは、花魚子の部屋で幾度となく秘密を語らった。
 そうだ、花魚子が既に死んでいるなんて、あり得るはずがない。これはきっと悪い夢か、たちの悪い冗談の類に違いないのだ。
 そんなことあり得っこないさ、と笑い飛ばそうとして、母のすすり泣く微かな声音が、夜鷹の意思を揺るがせた。ごくりと、唾を飲む。
 母は、本気だ。花魚子は死んだのだと、本気でそう言っているのだ。
「──ああ、そうだったな。花魚子は八年前に死んだんだ。俺、おかしなこと言っちまったな。どうかしてたよ」
 昏迷とする意識の中、唇だけが淡々と、それでもどうにかこの場だけは、母を宥める言葉を紡ぎ出していた。
『夜鷹、』
「悪い、またかけるよ」
 まだ何か言い募ろうとする母を振り切って、夜鷹は乱暴に受話器を置いた。金属的な残響が、静まり返った鹿蹄館の廊下に(こだま)した。
 あまりのことに、眩暈がした。狂ってしまったのは自分なのか、それとも母なのか、わからなかった。花魚子の存在を、確かめなければならなかった。しかし今、花魚子の元を訪ねるのは、それはそれはとても恐ろしいことのように思えるのだった。
 縋るような思いで顔を跳ね上げた先、一階から二階への階段の中途に、怪訝そうに夜鷹を見やる苺火の姿があることに、夜鷹はようやく気がついた。
「夜鷹?」
 ひと目見て、夜鷹の様子がただならぬものであることに察しをつけたのだろう。苺火は心配そうに夜鷹の顔色を窺いながら、何の躊躇いもなくこちらに歩み寄ってきた。
「どうしたの? また何か妙な電話でもあったの?」
「苺火!」
 夜鷹は思わず、力の加減をすることも忘れて、苺火の肩に掴みかかった。
「わっ! ……何? 本当にどうしたの?」
 夜鷹の取り乱し様に、苺火は面食らったようだった。縋り付いてくる手を取り、そっと握り締める。
「落ち着いて。一体何があったの? ちゃんと順を追って話して」
 瞳を合わせて顔を覗き込んでくる苺火に、夜鷹は勢い込んで身を乗り出した。
「聞いてくれ、苺火! 母さんがおかしいんだ。花魚子が……、」
 そこまでまくし立てたところで、夜鷹は口を噤んだ。
「……夜鷹?」
 不思議そうに、苺火が首を傾げる。
 ──駄目だ、言えない。
 思考が冷えきっていくのがわかった。夜鷹は俯き、唇を噛み締めた。
 もし、狂っているのが自分だとしたら?
 花魚子などという存在は最初からこの場所になく、己の認識してきた花魚子という存在は全て幻想なのだとしたら?
 だとしたら、きっとこんなことを話せば、苺火は自分をおかしな奴だと思うだろう。ひょっとしたら薄気味悪いと、自分を冷たく突き放すかもしれない。それはきっと、取り返しのつかないほどに──。
 苺火に、おかしな奴だと思われたくなかった。そう思えるほどの理性は、まだ残っていた。
「──何でもない」
 どうにかそれだけ、掠れた声で口にすることができた。
「夜鷹、」
 まだ心配そうに問い正そうとする苺火を、夜鷹は遮った。
「悪い。少し一人にさせてくれ」
 己の手を包み込む苺火の手をするりと振りほどき、夜鷹はもう顧みもせずに、鹿蹄館の階段を下った。その後ろ姿を見つめる苺火の冷然とした眼差しには、まるで気づきもしなかった。
 当て所なく、夜鷹は彷徨い歩いた。
 どう考えても、何かがおかしかった。現実のたがが外れて、世界線が一つずれてしまったかのような違和感が、夜鷹を支配し続けていた。高く澄み渡った空さえも、今はうそぶいて思える。
 鹿蹄館から校舎群までの坂を下り、いつの間にか、夜鷹は時計塔の前に辿り着いていた。鼓膜を震わす音に、はっと意識を引き戻されて足を止める。
 パチン、パチンという音が、時計塔を囲う分厚い煉瓦塀越しに響いていた。音の出どころにはすぐに思い当たる。二階堂が、薔薇の剪定をしているのだ。枝のはぜる音をぼんやりと聞きながら、煉瓦塀の天辺を見上げた。少し惑い、腹を据えると、時計塔の裏門に向かって再び歩を進める。緩やかな足取りとは裏腹に、気持ちは急いていた。
 二階堂にならば、多少妙に思われても構わない。ちょうどいいじゃないか。花魚子の存在を、確かめるのだ。
「──おや、夜鷹君。きみが正面切って(・・・・・)ここを訪れるなんて珍しい。どうしたんだい、そんな難しい顔をして。何ならお茶でもお出ししましょうか?」
 夜鷹の姿を視認するまでもなく、黒のハイネックにエプロン姿の二階堂は、薔薇の最後の一枝を切り落としてしまうと、にっこりと振り返った。相変わらず食えない男だと、夜鷹は内心で舌打ちをする。
「悪いが今はそんなもんに付き合ってる場合じゃねえんだよ」
 お決まりの誘いを苦々しげに切り捨てると、夜鷹は鋭く二階堂を睨み据えた。
「二階堂、単刀直入に訊く。何も考えずに、俺の質問に答えろ」
「教師に対する生徒の態度とも、質問をする側の態度とも、とても思えないけどね」
 二階堂はため息をつき、肩をすくめてみせた。
「余計な口を叩くな」
「まあいいでしょう。どうぞ」
 二階堂はあっさりと観念して、夜鷹の話を聞くことにしたらしい。大型の剪定ばさみを薔薇の茂みに立てかけると、悠然と夜鷹の前を横切り、ガーデンチェアの一つに腰を下ろした。長い睫毛を伏せ、退屈そうに、爪の長い指が弄ばれる。その様子を食い入るように見つめながら、夜鷹はごくりと唾を飲んだ。
「二階堂。俺の、妹を知っているか」
 二階堂の指の動きが止まった。能面のように貼り付いていた微笑が消え、何を考えているのか少しも読み取れない榛色の瞳が、すっと夜鷹を射抜いた。覚えず、身が強張る。
「きみに妹なんていないよ」
 静かに告げられた言葉に、刹那、思考が止まる。しかし次の瞬間には、新たな感情がふつふつと湧き起こっていた。
「なっ……! ふざけるな! いい加減なこと言ってんじゃねえ!」
 怒りだった。今まさに自分に降りかかっている正体の知れない事象に対して、ただ憤ることしか、夜鷹にはできなかった。今の夜鷹は、強大なケモノに対して無力に毛を逆立てる小動物と同じだった。
 二階堂は、夜鷹の激昂など意に介した様子もなく、すました顔で続けた。
「ふざけてなんかないよ。僕は正直に、ありのままの真実をきみに伝えただけさ。そう、何も考えずにね。それに、夜鷹君。もしかしてきみは、他の誰かにも、妹さんの存在を否定されたのではないのかな。確かきみはご実家では、お母様とご一緒だったはずだね。星野小夜子(ほしのさよこ)さん、僕も勇魚先輩がいた頃は随分親しくさせていただいていたものだよ。以前はよく笑い、とても美しく可憐で、それでいて聡明な女性だった。八年前を境に、まるで別人のようになってしまったけれどね。時折顔を合わせるたびにどんどんやつれ、生気さえ失っていくようだった。ねえ、夜鷹君。きみはその小夜子(さよこ)さんに何らかの理由で連絡を取り、話しているうちに妹さんの存在に関して齟齬が生まれたんだ。違うかい?」
 はじめは怒りに打ち震えていた夜鷹も、二階堂が話を進めていくうちに驚愕に目を見張り、いつしか呆然と立ち尽くしていた。
「──どうして、それを」
 二階堂は、何も言わない。目前で静かに戦意を喪失していく夜鷹を、緩慢に眺めるばかりである。
 夜鷹は途方に暮れて(かぶり)を振った。
「それじゃあ、あいつは誰なんだよ……」
 と、それまで事もなげに夜鷹の様子を観察していた二階堂が、不意に視線を伏せ、円形のテーブルの縁をいやに爪の長い指でつとなぞった。
「この学園は息苦しいよね。こんなところに篭りっきりで、少し煮詰まっているんじゃないかい。たまには学園の外で、羽を伸ばしてきたらいい。外出許可なら僕が出そう」
 夜鷹は我に返った。唐突な申し出と思わせぶりな振る舞いを、不審に思って二階堂を睨む。
「どういうことだ」
 その言葉に応えるように、二階堂の瞳が再び夜鷹の姿を視界に捕らえ、静かな気迫に夜鷹は思わず気後れし、身を固くした。
「学園の外に出たら、よく考えてみることだ。きみのお母様が、どうしてあんなに痩せ細り、心すら荒ませてしまったのか」
 夜鷹は狼狽した。そんなこと、旧知の仲である二階堂も嫌というほどわかりきっているはずだ。
「それは、親父が俺たちを置いてどこかに消えちまったからで……、」
「本当に、それだけ?」
 二階堂の榛色の瞳が、じっと夜鷹を見据えている。

 星野夜鷹は半ば苛立ち、半ば困惑しながら、時計塔をあとにした。
 結局ここでも、望む答えを得ることはできなかった。二階堂が、何かを知っていることは確かだ。が、唐突に外出の提案をされたことで、うまくはぐらかされてしまったような気もする。それでも、月舘の分厚い壁の唯一の通風口である正門へと足が向かうのは、そうするほかにもはや、何の手立ても夜鷹には残されていなかったからだ。
 高くそびえ立つ青銅門の前で、夜鷹は足を止める。何度目の当たりにしても、校舎群を囲うひと続きの煉瓦塀と、時代錯誤の青銅門には、些か辟易してしまう。その境界線を越えるとなれば、尚更である。幾度一線を跨いでも、その一瞬にはぴりりと気が張り詰める。そうさせるだけの気高さと物々しさを、この壁という存在は確かに纏っているのだ。こんな状況にあっては、その緊張もひとしおである。
 夜鷹はごくりと唾を飲む。そしてひと思いに、壁の外側へと一歩を踏み出した。壁を越えても、当然ながら何事も起こることはない。夜鷹はほっと息をついて、少しその辺りを歩いてみようと考えた。自分が今までいかに閉塞的な環境に置かれていたかを思い知らされる。二階堂の言う通り、確かに時にはこういう気分転換も必要かもしれない。
「どこに行くの、お兄ちゃん」
 心臓が止まるかと思った。耳に馴染んだその声を、今更聞き違うはずもない。瑠璃唐草の花のように可憐な、それでいてよく通る声。
「──か、なこ」
 おそるおそる、声のしたすぐ背後を振り向いた。予想と寸分違わぬ姿が、そこにあった。
 全身から、一気に力が抜けていくのがわかった。心の底から深い安堵の息が洩れた。唇から自然と、力ない笑いがこぼれた。あまりにも当たり前の、わかりきっていたはずの事実を目の当たりにして、笑い出さずにはいられなかったのだ。こんなにも全てに対して疑心暗鬼になっていた自分が、滑稽に思えた。
「は、はは……。なんだ、花魚子。やっぱりお前はいるんじゃないか、なあ」
「何の話? お兄ちゃん」
 花魚子は不思議そうに首を傾げ、夜鷹を見上げている。紛うことなく、いつもの花魚子だ。
「いや、何でもないよ。ああ、うん、何でもないんだ」
 幾度も噛み締めるように、何でもない、と口にした。何もなかったのだ。そう、何もなかった。自分はただ少し疲れていて、きっと悪い白昼夢にでもうなされていたに過ぎないのだ。常とは異なる兄の様子に、花魚子もくすくすと笑い出した。
「ふふ、へんなお兄ちゃん。いいから早くお部屋に戻りましょう? お外に行ったって、森ばっかりが広がってるだけだわ。それよりお部屋で、私とお話ししましょうよ」
 薄花色に透ける瞳が、悪戯っぽくくるりと廻って夜鷹を誘う。
「そうだな。早く部屋に……、」
 ふと、夜鷹はえも言われぬ奇妙な違和感に捕われた。元来た方へと踏み出しかけていた足を止め、花魚子の小さなつま先を見つめる。
「……花魚子? お前、どうしてその門からこっちに出てこないんだ?」
 そうなのだ。花魚子の体は境界線の内側にあり、決してそれ以上こちらに近づいてこようとはしない。普段の花魚子であれば、軽やかに駆け寄ってきて、夜鷹の手でもさらっていきそうな場面であるにも関わらず、だ。その事実が、何故か今は夜鷹を酷く不安に駆り立てた。
「だって私は外出許可を貰ってないもの」
 花魚子はにこにこと、しかしやはり頑なに、その一線を越えようとはしない。
 ──よく考えてみることだ。きみのお母様が、どうしてあんなに痩せ細り、心すら荒ませてしまったのか。
 二階堂の不可解な言動が、脳裏をよぎる。不自然なまでにぴたりと止まって、決して壁の内と外とを隔てる境界線を跨ごうとはしない花魚子のつま先。不吉な予感がこみ上げる。
「ちょっとくらいばれやしないさ。なあ花魚子、お前もたまには外に行こう」
「私は行けないわ」
 きっぱりと、花魚子は笑顔で撥ねつける。
「大丈夫だって。ほら、」
「駄目」
 焦燥に駆られつつも花魚子に歩み寄り、腕を引こうとした夜鷹の手を、花魚子は信じられないくらいの力で乱暴に振り払った。それは、か細い少女のものとはとても思えない、まるで大の男のそれを彷彿とさせるかのような、暴力的な力だった。
「かな、こ……」
 常日頃の花魚子であれば考えられない振る舞いに、夜鷹は凍りついた。
「駄目よ。私は行けないの。さっきからそう言ってるでしょう? いいから早くお部屋に戻って、私とお話ししましょうよ。話したいこと、たくさんあるのよ。そう、桐島さんが久しぶりに、遊びに来て下さったこととか」
 その時だった。
 人形のように整い過ぎた花魚子の微笑が不意にぐにゃりと歪み、夜鷹はぎょっとした。輪郭をなくし、どろどろに溶けきった花魚子の顔は、そのまま陽炎のように揺らぎ、幾重もの異なる形を織り成し──その中には、夜鷹の知っているものもあったような気がした。元の少女の微笑が、その合間にちかちかと瞬いた──そのおぞましい幻影に続くように、己の内で何かが激しくスパークし、白く滲む視界に夜鷹は覚えずよろめいた。
「お兄ちゃん!」
 倒れ込みそうになる夜鷹の体を、花魚子が咄嗟に支えようとする。
「触るな」
 自分でも驚くほど冷たい声が洩れ、花魚子は弾かれたようにぴたりと動きを止めた。
 全身が強張り、冷たい汗をかいていた。
 今、目の前にいるこれ(・・)は、自分の知っている妹ではない。
 本能が激しく、警鐘を鳴らした。
「お兄ちゃん……?」
 不安げにこちらを見つめてくる少女の形をしたモノ──それは再び、花魚子の姿を取り戻していた──を、夜鷹は鋭く睨んだ。
「俺をその名で呼ぶな。お前……誰だ?」
「何を言ってるの?」
 花魚子は困惑し、狼狽えた様子で、行き場をなくした手を持て余している。
「しらばっくれるな。……っ!」
 突然、膨大な量の情報が、夜鷹の内へと流れ込んでくる。その衝撃に、夜鷹の目の前は再び眩み、足をもつれさせる。
「お兄ちゃん、」
「違う!」
 おずおずと、心配そうに声をかけてくる花魚子を拒絶した声は、ほとんど悲鳴だった。膝に手を尽き、肩で大きく息をつく。酷く呼吸が乱れていた。冷や汗がぽたりと落ちて、地面に黒々としみを作っていくのを、底冷えのするような心地で見つめた。たった今、己の内に流れ込んできたものが、花魚子に関する全ての真実を物語っていた。
「そうだ……花魚子は八年前に死んだんだ。風邪をこじらせて、肺炎で、それで……。その少しあとに、親父が失踪した。それで母さんは、心を病んでしまった……」
「思い出してしまったのね」
 花魚子の声が凛と冷たく響き、夜鷹はびくりと身を震わせる。顔を上げた先で、その声音とは裏腹に、花魚子は菩薩のように優しく微笑んでいる。
「でも大丈夫よ。こっちに来れば私たち、また今まで通りやっていけるわ」
 白い小さな両の手が、夜鷹に向かって広げられる。いたいけな笑顔は、己の知る幼い頃の花魚子そのもので、なおのこと夜鷹を惑わせる。
「ねえ、お兄ちゃん」
「いや、だ」
 夜鷹は思わず後ずさった。言い様のない恐怖が、全身を支配していた。
「お前は、誰だ。花魚子はもう、死んでいるはずだ。なのに、お前はここにいる。俺にはお前とこの場所で過ごした記憶がある。花魚子の皮を被った、お前は一体誰なんだ……?」
 その問いには答えず、代わりに花魚子は広げていた腕をゆっくりと下ろし、俯いた。
「そう。それじゃあ、仕方ないわね」
「かな、こ……?」
 その一瞬、目の前の不可解な存在に確かな妹の気配を感じたような気がして、夜鷹は戸惑う。小柄な少女は夜鷹を見上げて、寂しげに少し笑った。
「いいのよ、それでいいの。お兄ちゃんは間違ってなんかない。お兄ちゃんは紛うことなく、正しい選択をしたんだわ」
 その声はもう、先ほどまでの氷のような冷たさを纏ってはいない。ただ、夜鷹を抱き締めるように優しく、鼓膜を震わせる。たまらないようなその響きに、夜鷹は思考を掻き乱される。
「花魚子……お前やっぱり本当に、本当の花魚子なのか? まさか俺は今、幽霊でも見てるっていうのか? いや、だとしても、お前が本当に花魚子の幽霊だっていうなら、俺は一向に構わない。花魚子! それは、一体どういう……、」
「駄目よ。お兄ちゃんがそう望むのであれば、もうこっちへ来ては駄目」
 花魚子の方へと歩み寄ろうとする夜鷹を、柔和な、しかし有無を言わさぬ声が拒んだ。
「何、言って……、」
「さよなら、お兄ちゃん。短いあいだだったけど、もう一度星野花魚子としてお兄ちゃんの妹になれて、私幸せだったわ」
「花魚子、待て……!」
 ああ、彼女は確かに、星野花魚子だった。
 こぼれ咲くような笑顔は、確信へと変わる。追い縋ろうとする夜鷹を、小さな体をぶつけるようにして力いっぱい、花魚子は門の外へと突き飛ばした。
「さよなら」
 刹那、目映い光の洪水が、夜鷹を抱き止める。圧倒的な、収束と炸裂。そのさなかに、白銀に輝く美しいケモノの姿を、垣間見たような気がした。

「夜鷹君。難しいことを言うようだけど、僕を信じてはくれないだろうか」
 唐突に外出の提案した二階堂は、真剣な眼差しで夜鷹に言った。
「この学園の中で、真実を見極める眼を持つ者は僕ともう一人しかいない。だから、どうか」
 夜鷹はようやく、身構えていた心身から力を抜いた。目の前の男はやはり飄々としていて、何を考えているのかよくわからない。拮抗する視線を、先に逸らしたのは夜鷹だった。高い空を仰げば、一羽の小鳥が時計塔を囲う煉瓦塀の向こうへ、のどかに羽ばたいていくところだった。夜鷹に倣って、二階堂もまた目を細め、小鳥の行く末を追う。
「私立月舘学園……この学園は、一体……」
「儚き人の希みの城さ」
 含みのある物言いが気に留まって見やった二階堂の横顔は、涼しくもかなしげだった。
「僕は多くは語れないけど、これだけはきみに伝えておくよ。彼女は決して、悪いモノではないんだ。きみがこの場所に戻ってきて、また本当のことを見失ってしまったとしても、僕がちゃんと見張っておくから。だから、きみはきみ自身が正しいと思う選択をするといい」
「あんたは、何者なんだ」
 見定めるような眼差しに、二階堂はのどの奥で小さく笑い、真っ直ぐに視線を合わせて微笑んだ。
「僕は、時計塔の番人だよ。それだけさ」
「──わかった」
 短く応えると、夜鷹は踵を返し、時計塔をあとにした。
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