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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第十章 嵐の前

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 私立月舘学園は、ざわめいていた。それというのもこの週末、列島に大型の台風が上陸するというのである。学寮に残った数少ない生徒たちが揃って食堂で夕食を取り終える頃には、既に温室のような硝子窓の外では、黒々としたシルエットの木々がひしめき合い、暗澹たる雲が猛スピードで星のない夜空をたなびいていた。
 苺火が鹿蹄館に戻ると、既に二階の談話室のソファーには星野の姿があった。テーブルの上に置かれた小型ラジオからは、アナウンサーが台風の只中から現地の状況を伝える声が、絶え間なく辺りにあふれている。がらんどうの廊下に、ノイズ混じりの音はよく響く。星野は腕組みをして視線を落とし、流れ出す音にじっと聴き入っている様子である。苺火は何気なく談話室に足を踏み入れ、星野に声をかけた。
「星野、晴知らない?」
 星野は振り向きざま、そこにある苺火の姿を眉をひそめて見上げた。だが、それは星野の癖のようなものであり、何も怒っているとかそういうわけではないことを、既に苺火は熟知している。この場合、ちょっと怪訝に思ったくらいのものだろう。
「ちっこいの? 知らねえよ。いないのか?」
 苺火は静まり返った二階の廊下を改めて見渡した。中等部の二年生のうち、夏期休暇中も寮に残っているのは、苺火と星野、そして晴だけである。
「昨日の晩ごはんのあとから、姿が見えないんだ。どこに行っちゃったんだろ」
 夏休みに入ってからも、苺火は基本的に晴と行動を共にしていた。星野は何をするにも、一人でいることの方が多い。それでも以前より格段に、二人のあいだで何気なく交わされる言葉は増えた。肝試し大会での一件によるところが、何より大きい。
「さあな。夏休みだから、浮かれてあちこちほっつき歩いてんじゃねえの?」
「でも、今夜は台風が来るんだよ。風も荒れてきてるし、じきに雨も降ってきそうだ」
 苺火は心配そうに窓の外を見やった。雲は更にスピードを速め、より一層濃く低く立ち込めてきている。星野は一つため息をつくと、さほど興味もなさそうに前に向き直った。
「心配しなくても、酷くなる前に帰ってくるだろ。あいつだって、馬鹿じゃねえんだし」
「そうだといいんだけど」
 心細そうに呟く苺火をよそに、星野は退屈そうにうんと伸びをした。
「それにあいついねえと、静かで丁度いいや」
「元気な奴だからね」
 苺火は思わずくすっと笑った。星野は呆れて、横目でちらっと苺火を見やる。
「元気っていう限度を超してるだろ、あれは。お前、よくあんな五月蝿いのと四六時中つるんでられるなあ。俺、絶対無理」
 その言葉には、さすがにちょっと苦笑せざるを得ない。
「これまでは忍がストッパーになってくれてたからね。忍がいないと、確かにちょっと大変だ。現に今も、ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃうし……」
 そのまま何となく、苺火は押し黙る。星野も再び視線を落としたまま、何も言わない。びょおびょおと風が吹き荒ぶ音が、静まり返った談話室に谺する。ラジオのアナウンサーだけが、相変わらず台風の様子を、ひっきりなしに実況し続けている。
「──なあ、桐島」
 沈黙を破ったのは、星野だった。
「ん?」
 苺火は何気なく返事を返す。星野は何か、酷く考え込んでいるふうに見えた。
「ワタリの子って、聞いたことあるか」
 苺火の全ての動きが、その一瞬、止まった。苺火の見せた微細な変化を、研ぎ澄まされた星野の五感は鋭く察知した。
「桐島?」
 見上げた先で、苺火はふいと顔を背け、星野に背中を向けた。
「──ごめん。ちょっと気分が悪いみたいだ。部屋に戻るよ」
「あっ、ちょっとおい、待てよ!」
 逃げるように談話室をあとにしようとする苺火の腕を、星野は間一髪、立ち上がって捕まえた。掴んだ手が、微かに震えるのがわかった。
「知ってるんだな」
 問い正すように、星野は言う。
「知らないよ」
 苺火は星野の方を見ない。
「うそをつけ。だったらなんでそんなに動揺する」
 星野は険しい面持ちで、決して目を合わせようとしない苺火を睨む。
「知らないって言ってるだろ」
 吐き捨てるように苺火は言う。俯きがちの苺火の、薄く日に焼けた首筋が、星野の前に晒されている。その首筋に噛み付くように、星野は苺火を問い詰める。
「前にあの女と二階堂が、話してるの聞いたんだ。ワタリの子って、お前のことじゃないのか」
「僕をその名で呼ぶな!」
 苺火が俄かに声を荒げて叫び、星野に明らかな動揺が走った。
「な、何だよ。いきなり大声出すなよ」
 苺火の呼気が乱れていた。頭の底から、鈍い痛みが波のように押し寄せてくる。ふらふらと数歩よろめき、ずくりと疼くこめかみを押さえる。星野が慌てて掴んでいた腕を引っ張って、どうにか苺火をその場に立ち留まらせた。
 あの日、感じたあれ(・・)と同じだった。木々のざわめきやメジロのさえずりに自身の存在を責め立てられた、転校初日の朝。あの日からずっと感じ続けてきた、自分自身へのある一つの猜疑。その冷たい闇が今、くっきりと影を際立たせて、苺火の血管の細部に至るまで這い巡っている。あまりの事実に、苺火は愕然とする。呆然と、己に問いかける。
「僕は、一体誰だ……」
 意図を図り兼ねる言動に、星野が怪訝そうな顔をした。
「はあ? お前はお前だろ。他の何者でもない」
「違う! 僕は桐島苺火じゃないっ……、桐島苺火じゃなかった!」
 もはや苺火はすっかり平静さを欠いていた。取り乱し、誰へともなくがなり立てるように喚き散らす様は、普段の物静かな苺火からは想像もつかないものだった。苺火の豹変に、一度は不敵な態度を取った星野も、ひとまず苺火を諌めることに優先順位を定めた様子だった。星野は取り成すように、苺火の顔を覗き込んだ。
「何言ってんだよ、落ち着けよ。お前は桐島苺火だろ」
「僕は……!」
「苺火!」
 星野が苺火を自分のたもとに引き寄せようとするのと、苺火が星野を振り払おうともがくのは、同時だった。二つの力は拮抗し、苺火の体は衝撃のままに、談話室の壁に叩き付けられた。星野が、しまった、という顔をする。ずるずると壁を伝って、苺火はその場にうずくまった。
「もう嫌だ……」
 いつしかぽつぽつと、大粒の雨が窓を叩きはじめていた。雨は音を立てて窓を打ち、その雫が寄り集まっては、いくすじもの川となって複雑な模様を描いた。すっかり力をなくした苺火の腕は離さないまま、途方に暮れたように、星野もその場に屈み込んだ。
「苺火、」
「忍も晴もいなくなっちゃって、ガラガラと音を立てて世界が崩れていくみたいだ……。どうしてだよ……! お前といるとこんなことばっかりだ!」
 星野が、小さく息を飲んだ。苺火の腕を掴んでいた手が、緩やかにほどかれた。おもむろに、星野は立ち上がった。
「お前のそういうところが腹立つ……」
 地の底から這い渡るような声に、苺火もようやく我に返った。そろそろと、星野の顔を見上げる。顔に落ちる影の奥から、ケモノのようなマグマが、じっと苺火を捕らえていた。
「誰にでもへらへら笑って、媚びへつらっていい顔して、本当の自分見せる勇気もない癖に、いざとなったら人のせいかよ。お前みたいなのを偽善者っつうんだ」
「周りの人間を片っ端から突っぱねてるお前よりはましだね、意気地なし」
 苺火は鼻で笑い飛ばした。睨み上げた先で、星野が眉を吊り上げる。
「何だと……?」
 半ばやけだった。苺火は壁に縋るようにして立ち上がると、星野の襟元に乱暴に掴みかかった。星野は無抵抗だった。体勢は逆転し、今度は苺火が星野を壁に押し付ける側になる。
「怖いんだろ、自分のせいで周りの人間が傷つくのが。肩肘張ってても、結局お前はそうやって他人から逃げてるだけじゃないか。そんなのは臆病者のすることじゃ、」
「お前に俺の何がわかる!」
 突如として星野が吼え、苺火はびくりと肩を震わせ、口を噤んだ。星野の瞳には、明白な怒りの色が見て取れた。
 それを目にした瞬間、苺火はぐしゃりと潰れて、ただの無様な紙屑のようになった。自分が何か取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、がたがたと、星野のシャツの襟と弁柄色のストライプのタイを纏めて掴み上げる手が震えはじめた。おしまいだ、何もかも。星野の襟元から震える指をゆるゆるとほどくや否や、苺火はぱっと身を翻し、談話室を飛び出した。
「逃げるのかよ!」
 背後から星野の声が追い打ちのようにかかったが、苺火はもう顧みもせず、ひと気のない鹿蹄館の階段を、転がり落ちるように駆けた。靴も履き替えずに飛び出した外では、木々がうねり、横殴りの雨が吹き荒んでいた。

 鳥飾りの裏門をくぐると、鶫美は丁寧に掛け金をかけ、一つ息をついた。
 職員室のラジオは、十四年ぶりの大型台風の来訪を告げていた。既に予報よりも早く、台風はこの丘陵地帯を襲っている。せっかく差した傘も、この雨風の前では全く意味を成さず、北棟から時計塔の裏門までのこの短い道のりのあいだに、鶫美は全身すっかり雨を被っていた。
 長期休暇中は、常日頃月舘で生活を送っている教師陣も、ほとんどは連休を取って里帰りをする。しかし鶫美はこの夏期休暇を、全て月舘で過ごすことに決めていた。
 むろん、何の理由もなくそんなことを決めたわけではない。そう決めるなりのれっきとした理由があったのだが──、
「……苺火君?」
 鶫美は驚いた。薔薇の木々のあいだを縫う石段を渡った先に、その理由である張本人の姿があったからだ。時計塔の外壁に背を預け、ドアの傍らで、膝を抱えている。その手は一冊の本がある。
 鶫美は急いで苺火の元に駆け寄ると、傘の中に少年の体を導き入れた。引き寄せた肩は濡れそぼり、温度を失った唇は蒼褪めている。もうどれほどのあいだ、少年がここでうずくまっていたのか想像もつかないほど、彼の纏った衣類はぐっしょりと水気を含んでいた。ややあって、ようやく鶫美の存在に気づいた様子で、苺火は虚ろな視線を上げた。
「どうしたの、こんなところで。こんなに冷えきって、ずぶ濡れじゃないか。風邪をひくよ。さあ、早く中に入って」
 腕を引かれるがままに苺火は立ち上がると、鶫美のあとに続いて、時計塔の中に足を踏み入れた。
 苺火を階下の私室に通すと、鶫美は電気を点け、この時分には埃を被っているばかりのガスストーブに火をくべた。
「シャワーそっちだから使って。服もずぶ濡れだから、着替えはこっちで適当に用意するよ。とにかく体を温めた方がいい」
 まだぼんやりとしている苺火をどうにか浴室にまで追いやると、鶫美は箪笥を引っくり返して苺火の体格に合う服を探し、タオルを用意した。脱衣所に苺火の気配がないことを確認してからそれらを運び込むと、曇り硝子の引き戸の向こうで、苺火がおもむろに、シャワーのコックを捻るところだった。頭の上からざんぶりと、苺火は湯を被る。曇り硝子越しに、少年の華奢な体躯が、その輪郭を艶かしく、朧に映し出していた。
 下着以外の衣類は回収して、ガスストーブのそばに吊るして乾かしてしまうことにする。紅茶の支度をしていると、苺火がシャワーを終えて鶫美の私室に戻ってきた。小柄な彼の体格を考えて、着替えも小さめのジャージを用意したのだが、それでも苺火には充分過ぎるほどだぼだぼだった。顔色は随分よくなって、頬の内側からうっすらと朱が差していた。
「すみません。急にこんな形でお邪魔してしまって、ジャージまで」
 苺火はぶすっとした顔つきのまま、伏し目がちにぼそぼそと謝った。
「僕のお古だけどね」
 テーブルに手際よくティーセットを並べながら、鶫美はその大きさのあまりに不釣り合いなことに、少し笑った。
「本当に、すみません」
 苺火はその場に立ち尽くしたまま、くぐもった声で繰り返した。
「いいんだよ。生徒の話を聞くのも、教師の役目ですから。こんな雨で手に持ってた本、無事だった?」
「ええ、まあ。元々、古い本でしたし」
 本というのは勿論、苺火が肌身離さず持ち歩いているあの本だ。何かあると無意識にそれに手を伸ばしてしまうのは、相変わらずだった。
「苺火君は、よく読書をしているみたいだね。担任の木村先生が言っていた。好きなの? 本」
 仕草だけで苺火にソファーを勧めながら、鶫美は自分もロッキング・チェアにかけ、ごく自然な素振りで尋ねた。身を固くしている苺火をまずは少しでもリラックスさせようと、無難に選んだ話題のように思えた。
「別に、好きじゃありません」
「へえ?」
 ところがその返事が意外なものだったらしく、鶫美の瞳が面白そうに光る。全くこの人はわかりやすいんだかそうじゃないんだか、と僅かに呆れながら、苺火は大層居心地が悪そうにソファーに浅くかけた。あの右目の奥には今も、シャンパンゴールドの(エトワール)が絶え間なく弾けているのだろうか、などという考えがぼんやりとよぎる。
 そう、本の内容にさほど興味はない。時折安息を求めて、その背をそっとなぞるだけだ。本はあくまでも、苺火が学園生活を当たり障りなく送るための手段に過ぎない。
「……で、」
 砂糖ふたさじとミルクを溶かして紅茶をひとくち啜ると、鶫美は興味深そうにしげしげと、縮こまっている苺火を眺めた。どうやらようやく、本題に入るらしい。
「どうしてこの嵐の中、あんなところに一人でうずくまってたのかな?」
 苺火は紅茶のカップをそっと手に取ると、口はつけないまま暫し逡巡し、それからますますぶすっとして、言った。
「星野と、喧嘩しました」
 あまりにも子供じみたその言葉に、鶫美は思わずぱちくりと目を瞬かせた。
「夜鷹君と?」
 苺火は相変わらず、鶫美と目を合わせない。気まぐれに紅茶をスプーンで掻き混ぜながら、鶫美はさも愉快そうににんまりと笑んだ。
「ははーん。それで僕のところに転がり込んできたわけだ?」
「ごめんなさい……」
 苺火はぶすっとするあまり、もう顔がくしゃくしゃに潰れてしまいそうになっている。鶫美は喉の奥で小さく笑うと、紅茶をまたひとくち啜った。
「苺火君はみっちゃんにそっくりだなあ」
 突然出た姉の名前は思いもかけないものだったようで、苺火は不意を突かれて面食らった様子で顔を上げた。
「どこが、ですか?」
「そうやってすぐに膝抱えて一人でいじけちゃうところとか。あと拗ねた時のぶすっとした顔ね。苺火君もみっちゃんもその顔してるとぶっちゃいくで、本当に可愛くないんだから」
 苺火はようやく相好を崩し、苦笑した。
「僕はともかく、蜜蜂に失礼ですよ、先生」
「うそうそ、訂正します。女の子はそんなぶっちゃいくな顔してたって可愛いものですよ。そして苺火君も可愛い」
「へんな冗談やめてくださいよ」
 苺火は苦笑気味に笑い、鶫美も優しい眼差しで笑う。張り詰めていた部屋の空気が、ようやくほんの僅か和らぐ。
「ふふ。苺火君はみっちゃんに似てるからついねー」
 しかしふと、苺火の顔からありとあらゆる感情が立ち所に消えた。すぐにまた再び、苺火は笑みの体裁を取り繕ったが、それはあまりにぎこちないものだった。未だ口をつけていないカップに視線を落として、苺火はほろ苦く笑った。
「僕と蜜蜂は似てなんかいませんよ」
 カップをソーサーに戻してテーブルに頬杖を突き、鶫美は試すように苺火を見つめた。
「本当の姉弟じゃないから?」
「──ええ」
 鶫美がその事実を既に認識していることにも、別段苺火は驚きはしない。
「でも、一緒に育ってるんだし、血の繋がりだってないわけじゃないでしょう」
「僕にとっては、忌むべき血です」
 つと、鶫美が視線を伏せた。
「お父さん、か」
「よくご存じなんですね」
 沈黙。時計の秒針の音が、二人きりの室内に響き渡る。時計塔の地下にあるこの部屋には、外の嵐の音も、ほんの微かにしか届かない。
「ねえ、苺火君」
「はい」
「苺火君はどうして、そんなにお父さんを憎んでいるの」
 苺火が視線を上げた。笑みのなり損ないは消え、苺火は真顔で鶫美を見据えている。二つの相反する視線が、部屋の空気を裂いて、交わる。
「それ、話さなくちゃいけませんか」
「いや。言いたくないならいいんだ」
 この話はこれで終わり、と言わんばかりに、鶫美は頬杖を突くのをやめ、すました顔で紅茶を啜った。苺火は相変わらず、紅茶のカップに口をつけない。
「こないだね、みっちゃんがここに来たよ」
「蜜蜂が?」
 またしても、思いがけない姉の話題に、苺火は毒気を抜かれた様子だった。
「うん。いじけ方がきみにそっくりだった」
 思い出して、鶫美はくすっと笑う。どうも当人たちには自覚がないようだが、二人がぶすっとしている時の顔は、本当によく似ているのだ。そんな鶫美の考えなど知る由もなく、苺火は姉の来訪に心底驚き、そして憤然とした。
「蜜蜂が学園に来てたなんて、僕知らなかった。何だよあいつ、顔くらい見せてくれればいいのに。家ではべたべたしてくる癖に、わかんない奴だなあ」
「会えない理由があるんじゃないの?」
「え?」
 何気なく口に出された謎かけのような言葉に、苺火は目を剥く。鶫美の瞳には、苺火を試すようなあの色が、再び舞い戻ってきている。
「いや、何でもないよ」
 鶫美は、ふっと目を逸らした。
「まあ、でも、今頃は夜鷹君も、きみと同じようにいじけちゃってるかもね。もっとも僕は彼に嫌われてるから、きみみたいにしおらしく僕のところに転がり込んできくるような真似は、彼はしないだろうけど」
 ようやく回帰した話題に、苺火は思わず苦笑した。
「あいつのあれは、意地張ってるだけだと思いますよ。もうほとんど、先生のことは疑ってないと思う。星野は先生と旧知の仲みたいだし、甘えてるところもあるんじゃないかな。ほら、あいつって、父親いないでしょ。まあ、こんなこと言ってるの聞かれたら、あいつにど突かれちゃいそうだけど」
 知らず、星野のフォローに回っている苺火に、鶫美は小さく微笑んだ。
「それだけ夜鷹君のことわかってるなら、大丈夫だね」
「……そうだといいです」
 照れ臭そうに、苺火はようやく紅茶をひとくち啜った。
「僕、もう行きますね。ジャージ、洗って返します。ありがとうございました」
 ほとんど手つかずのままのカップをソーサーに戻して、苺火は席を立った。胸の内で、もう星野と和解する決意は固まっている。
「どういたしまして。相変わらず外は酷い嵐みたいだから、制服は次来る時までにこっちで乾かしておくよ。傘ある? 寮まで送っていこうか」
 一緒になってロッキング・チェアから腰を上げる鶫美に、苺火は笑った。
「送ってくって、女の子じゃないんですから。あ、でも傘だけ借りていいですか」
「もちろん。好きなのどうぞ」
 鶫美はにこりと笑った。
「あ、先生」
 先に立って階段を数歩上った苺火は、ふと思いついて振り返った。
「ん?」
 視線の先で鶫美は、如何にも人畜無害といった風情で首を傾げている。苺火は注意深く、鶫美の表情を観察した。
「たまに先生が、同い年くらいの女の人と一緒にいるって聞きました。それに星野、その女の人が、また先生とは別の男の人が一緒にいるところにも遭遇したみたいなんです。派手なスーツ着て、ちゃらちゃらした感じの。彼らは一体、誰なんですか」
 鶫美はぴくりとも、表情を動かさない。
「ごめんね。それは今は僕の口から、話すことはできない」
「……わかりました」
 あっさりと、苺火は引き下がる。もうこれ以上、何を尋ねても、能面のような笑みを貼り付けた鶫美にいとも容易く交わされてしまうであろうことは、想像するに難くなかったからだ。

 嵐に嬲られながら鹿蹄館へと元来た道を辿る。せっかく借りた傘も横殴りの雨の前にはさほど意味を成さず、鹿蹄館に辿り着く頃には今しがた身に纏ったばかりのジャージもすっかりずぶ濡れになっていた。これは、部屋に戻ったらもう一度着替えなくてはならないな、と思いながら傘を振って畳み、靴の泥を拭ってから二階へと続く階段を上った。
 階段を上りきった先の談話室に、星野の姿はなかった。
 もう自室に戻ってしまったのだろうか、と考えながら廊下を見渡して、苺火は驚いた。星野は自室に戻ってしまってはいなかった。苺火の部屋の前、ドアの脇の壁に背を預け、腕組みをしてじっと佇んでいた。
「星野!」
 苺火は急いで、長い廊下を星野に向かって駆け寄った。星野がおもむろに、視線を苺火の方へ寄越す。思わずすくんでしまいそうになる足を奮い立たせて、苺火は星野の前に立つ。びょおびょおと、風が窓をがたつかせる音の中、二つの視線がかち合う。
「星野、」
「ごめん」
 口を開きかけた途端、先手を切って言葉を遮られ、苺火は不意を突かれてきょとんとした。星野は酷くむすくれた顔つきでふっと瞼を伏せ、しかしそれが不機嫌などの類のためではないことは明らかだった。真っ直ぐな睫毛が、下を向いている。
「酷いこと、言ったよな」
 星野はぼそぼそと、謝罪の言葉を連ねる。
「僕だって」
 星野につられて苺火も、自分たちの足元に視線を落とす。揃いの二つのつま先。
「ただ、さっきのあの言葉を聞くと、心がざわざわする。平静で、いられなくなる。……ごめん。本当に、僕にもわからないんだ」
 慎重に、言葉を選び取りながら言い終えると、星野が鋭い眼差しで苺火を射抜いた。
「お前に謝らなきゃならないこと、他にもある」
「え?」
 何のことやら見当もつかず、苺火は狼狽えた。星野は罰が悪そうにまた視線を泳がせかけたが、今度はしっかりと苺火と視線を交わして、言った。
「はじめて出会った時、俺、お前にすごい態度悪かっただろ。階段で、助けて貰ったのに腕を振り払ったりとかして。あれ、ずっと謝らなきゃって思ってたんだ。悪かった」
 ああ、そんなことか、と思いながら、苺火は怪訝そうに眉を吊り上げた。
「ん? お前とはじめて会ったのは、時計塔の下だろ? まあ会ったって言っても、僕が一方的に睨まれただけだけど」
「あ?」
「え?」
 何やら話が噛み合っていないことに気がつき、互いをまじまじと見つめる。
「──ああ! あの時あそこにいたの、お前だったのか!」
 ややあって、星野がようやく思い当たった様子で声をあげた。
「気づいてなかったのかよ……」
 苺火は呆れて、がっくりと肩を落とす。てっきり時計塔の下でのあの無言の応酬があったからこそ、階段で再び邂逅した時あんな押し問答になったものだとばかり思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。つまり、苺火はあの時まさしく、月舘の誇る問題児、星野夜鷹に因縁をつけられた不幸な転校生でしかなかったというわけである。
「いや、あの時はもうさ、それどころじゃなかったんだ。始業式の前日に、へんな電話がかかってきてさ」
「電話?」
 不穏な言葉に、苺火は眉をひそめた。
「そ。最初は母さんが出たんだけど、すぐに俺を指名してきてさ。〝父親の行方を知りたければ、このことを誰にも話さず、明日の朝五時半に時計塔の下に来い〟って言うんだ。とうとう親父の手がかりを掴むことができる、って意気込んであそこに行ったら、ちょっと気を抜いた隙に背後から誰かに襲われて昏倒させられちまってさ。それでちょうど、意識が戻ったところだったんだ。あの時のことはよく覚えてないけど、電話の向こうから聞こえていたのは、そう、若い男の声だったな」
 星野の話を右から左へ聞き流しながら、苺火はぼんやりと、あの朝自分を襲ったあれ(・・)について思い返していた。
「──あれ(・・)を感じたわけじゃないの?」
あれ(・・)って何だ?」
 星野は、何のことだかさっぱりわからない、といった様子で、首を傾げる。
「ううん、何でもない……」
 苺火は何か、拍子抜けを食らったような気がして、曖昧に言葉を濁した。考えてみれば、自分でもまだあれ(・・)が何だったのか、きちんと言葉にすることが叶わないのだ。ずっとなあなあにしたまま、夏休みまで持ち越してしまった。そろそろ、潮時なのかもしれない。
「そうだよね。ちゃんとお前に話せるように、僕もはっきりさせなくちゃ」
 星野はまだ腑に落ちないような顔をしていたが、それ以上の追求をしてくるつもりはないようだった。
「あー、そうだ。あと俺ら、もしかして殺されるかも」
「は!?」
 唐突に耳に飛び込んだきた物騒な言葉に、苺火は面食らって素っ頓狂な声をあげた。星野はというと、悪びれたふうもなく、あっけらかんと笑っている。
「いや、その──例の言葉(・・・・)に関する話を盗み聞きしてた時、女の方に見つかっちゃってさあ。ここで聞いたことを誰かに話したら、そいつ諸共殺すって脅されてたんだよね。頭に血ィ上ってすっかり忘れてたわ。ワリーワリー」
「ワリーワリーって……それって僕が殺されたら、完全にお前のせいじゃないか!」
「だから謝ってんだろー?」
「謝って済む問題か!」
 憤慨する苺火をよそに、星野はどっかりとその場に腰を下ろして胡座を掻くと、両腕を頭の上で組んでうんと伸びをした。
「大丈夫だって。いざとなったら二人でそいつふんじばって、洗いざらい吐かせちまおうぜ」
 にやりと笑う星野の前に、苺火は呆れて屈み込む。
「勝てる相手なのかよ」
「わかんね。ま、死んだら死んだでその時だ」
 緊迫感の欠片もなく、欠伸混じりに言う星野に、苺火は思わず噴き出した。本当にこいつは、本当に、本物の、大問題児だ。
「全く、協力者がお前みたいな頭のネジのぶっ飛んだ奴だと苦労するよ……夜鷹」
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