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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第九章 蜜蜂と薔薇園

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 辺りの様子に気を配りながら、靴の爪先を僅かな窪みに引っかけ、木登りと同じ要領で煉瓦塀をするすると這い上る。天辺を跨いでしまえば、あとはもうこっちのものだ。体の向きを変えて、上った分だけ下ってしまえばそれでいい──と、気を抜いたのが運の尽きだった。
「あっ、」
 靴の底がずるりと煉瓦の上を滑る、嫌な感触が足の裏を伝わり、支えるものをなくした体はそのまま真っ逆さまに翡翠の植え込みの只中に落下した。
 どしん! という鈍い音が辺りに響き渡る。
()ったあい……!」
 落ちた拍子に地面にぶつけた腰をさすっていると、誰かががさがさと近くの茂みを掻き分ける気配がした。
「……みっちゃん?」
 驚いて顔を上げると、ピンク・ブラウンの長髪を無造作に結い上げた二階堂鶫美がきょとんとした様子で、薔薇の木立のあいだからひょっこり顔を覗かせている。
 暫く惚けたようにその顔を見上げていた蜜蜂は、やがてはっと我に返ると、開きっぱなしだった脚を急いで閉じた。
「……見ましたか?」
 スカートの裾を押さえて、ジトリと鶫美を睨み上げる。対する鶫美は、真顔である。
「見てません。仮にみっちゃんの色気のないシマシマパンツを見たとしても、僕は何とも思いません」
「やっぱり見たんじゃないですか!」
 蜜蜂は顔を赤くして、ますます強くスカートの裾を押さえて憤慨した。
「見てません。ただ、みっちゃんならこんなパンツ履いてそうだなあっていうのを何となく想像して言ってみただけです」
「セクハラで訴えますよ!?」
「それは嫌です。あのね、きみが無類のシマシマ好きなのは知ってるけど、下着までシマシマなのはさすがにどうかと思うよ?」
「放っといて下さい!」
 顔を真っ赤にしたまま、蜜蜂がぷいとそっぽを向いてしまったので、鶫美はようやく相好を崩し、苦笑した。
「相変わらずお転婆だねえ。わざわざそんなところから入ってこなくても、裏門が開いてるでしょ? というかまず、壁を越えるのが既に重大な法破りなわけだけど」
 蜜蜂はぶすっとして、唇を尖らせた。
「先生をびっくりさせようと思ったんです。……ちょっと、失敗しちゃいましたけど。それと、その言い方やめて下さい。私もういい年なんですよ?」
「あはは、そうだったね」
 少しも反省の色なく、鶫美はくすくすと可笑しそうに笑った。
「とにかく、いつまでもそんな格好してないで、こっちにいらっしゃい。紅茶くらいお出ししますから」
「……はい」
 翡翠の植え込みに体を埋めたまま、蜜蜂は渋々頷いた。

「どうぞ」
 ガーデンテーブルと揃いのチェアの一脚に腰を下ろした蜜蜂の前に、カップとソーサーがことりと置かれ、続いてテーブルの真ん中に、ミルクとシュガーポットが整然と並べられた。同じように、自分の前にもカップとソーサーを並べると、鶫美は空いたもう片方のチェアに腰かけ、何とはなしに蜜蜂を眺めた。
 蜜蜂は暫く眩しそうに、テーブルの上に揃えられた二客のティーセットを見つめていたが、やがてそっとカップを手に取ると、優美な曲線を描くふちに唇を宛てがい、紅茶をひとくち啜った。伏せられた睫毛が、陽射しを集めて淡くけぶる。鶫美はそれをとても美しいと思い、目を細めるが、蜜蜂はそんなことにはまるで気がついていない。
 口の中でその香りを味わい、小さな喉が温かな液体をこくんと飲み下すと、蜜蜂は小さく息をつき、うっとりと微笑んだ。
「──先生の紅茶、久しぶりです。こうしてティーセットを並べて貰うのも。薔薇のお世話をしている時と、ティーセットを扱う時の先生の手、私好きだったなあ」
 悪戯っぽく首を傾げて瞬く蜜蜂に、鶫美はにこりと笑う。
「僕たちがこうして会うのも、もう絶えて随分久しいからねえ。……それで? 今日は急にどうしたの?」
 蜜蜂の表情が、俄かに曇るのが見て取れた。
「……用事がなかったら、来ちゃいけませんか?」
「いいえ。でも、きみがこのタイミングで現れるなんて、何かの巡り合わせとしか思えないからね」
 蜜蜂の淡褐色(ヘーゼル)の瞳が、くるりと(めぐ)って鶫美を捕らえる。鶫美の薄茶色の瞳も、じっと蜜蜂を見つめている。暫しの沈黙が、二人のあいだに訪れる。
「──ねえ、みっちゃん。きみは、僕とさっちゃんを恨んでいる?」
 先に沈黙を破ったのは、鶫美だった。砂糖をふたさじも溶かし、ミルクを落として掻き混ぜれば、紅に澄み渡っていた液体はみるみるうちに濁っていく。透明な液体が、カップの中で見る間に拗れていく様に、蜜蜂もつられて視線を落とす。
「先生は相変わらず、意地が悪いんですね。そんなんだから、マッドサイエンティストって言われちゃうんですよ」
 蜜蜂は嘲るように笑う。まるで鶫美ではなく、己自身を嘲笑するかのように。
「僕はずるい男だからね。みっちゃんも、さっちゃんも、苺火君も、勇魚先輩も、それに冬馬(とうま)も──みんな振り捨てられないんだよ」
「私、すごく嫌な子なんです」
「ねえ、みっちゃん、」
 鶫美はやにわに視線を上げ、蜜蜂を呼んだ。
「さっちゃんが誰より大切に思っていたのは、僕はきみだと思うよ。そう、例えば冬馬よりもね」
「馬鹿なこと言わないで下さい」
 蜜蜂は怒ったふうに眉をつり上げ、しかしすぐに顔をくしゃりと歪めると、テーブルに拳を弱く打ちつけ、しおしおと項垂れた。
「五月はきっと、私のことが憎かったんだ。だからこんな……」
 ぽたり、ガーデンテーブルの上に、涙の珠がひとすじ落ちる。鶫美は思わずその薄い肩を抱こうと手を伸ばし、しかし触れる直前に何かに打たれたように思い留まり、音もなく手を引く。
「……泣き虫なところも、変わってないんだね」
 ぽつり、呟いた言葉は、当て所なく宙を彷徨って、大気に溶けて消える。
 濡れた頬をごしごしと手の甲で拭って、蜜蜂は無理に笑顔を作って顔を上げてみせた。痛ましい笑顔だった。鶫美は沈痛な面持ちで、彼女の強がりを見守った。
「苺火は……寮に残っているんですか」
「うん、残っているよ」
 ああ、やはり彼女は全て知った上で、ここを訪れたのだ。
 鶫美はその事実を、冷静に俯瞰する。
「あの子、元気にやってますか」
 蜜蜂はわざと明るい声でそう尋ねる。だから鶫美も、努めて何でもないふうを装って、答える。
「お友達ができてね。ちょっとアクシデントもあったけど、毎日楽しそうにやってるよ。でも、もう何か勘付いてはいるだろうね。時が訪れるのも、時間の問題……あ、」
 ふと、鶫美は西棟の屋上に目を留めた。そこには、一人の少年の姿がある。蜜蜂ははっと、その視線の先を仰いだ。
「……いるんですか? 苺火はあそこに」
「……うん。まあ、ね」
 鶫美は、言いづらそうに言葉を濁して頷いた。蜜蜂は大きく目を見開き、そこにある少年の姿を瞬きもせずに見つめた。
「あれが、苺火のお友達ですか」
「うん、星野夜鷹君。勇魚先輩の息子さんでもある」
 鶫美は観念して、素直にその事実を認めた。
「そう、ですか……」
 蜜蜂はまだ暫く、そこにある少年の姿を網膜に灼き付けようとするかのように懸命に見つめ続けていたが、やがて目を伏せると、悲しそうに俯いた。
「どうして──どうして私には、あの子が見えないんだろう。どうせなら私もあの子のこと、忘れてしまえたらよかった」
「みっちゃん、」
「血の呪い、なのね」
 何か口にしかける鶫美を遮って、蜜蜂はあまりにも絶望的なその言葉を紡ぎ出す。だから鶫美も、口を噤まざるを得ない。
 蜜蜂が、ふと顔を上げた。
「先生。本当はね、今日は先生に、お話があってここに来たんです」
 にっこりと、不自然なまでに満面の笑みを浮かべて、蜜蜂は唐突に告白した。
「やっぱり私も、ワタリから逃れることはできませんでした」
 鶫美が俄かに顔色を変えた。
「──きみも、能力(ちから)に目覚めてしまった?」
「はい」
 蜜蜂は、整い過ぎた笑みを崩さない。
「きみは、どんな力を……?」
 顔を強張らせたまま、鶫美はこわごわと尋ねる。実ににこやかに、蜜蜂は答えた。
夢渡り(・・・)の力です。自分でコントロールはできません。いつ、渡りが起こるか、誰の夢に渡れるか、全てランダムです。ただし渡れるのは、今まで出会ったことのある人の夢に限られる、みたいですけれど」
 蜜蜂は、すっかり陶酔しきった様子で、紅の湖面を見つめた。
「どうせならもっと苺火や五月の役に立つ力がよかったけど……でも嬉しい。やっとヒトじゃなくなれたんだもの。二人と同じになれたんだもの……! 先生、私はもう、ヒトじゃないんです!」
「みっちゃん!」
 とうとう耐え兼ねて、鶫美はけたたましい音と共に椅子から立ち上がり、蜜蜂の両の肩を掴んでがくがくと揺さぶった。蜜蜂は抵抗することもせず、揺さぶられる力のままに、その体は頼りなく揺れた。
「きみは──人間だよ、どうしようもなく。苺火君も、さっちゃんも。みんな、人間だ」
 蜜蜂は俯いている。僅かに乱れた、飴色の髪の隙間から、乾ききった笑みがこぼれる。
「痛いです、先生。離して下さい。セクハラで訴えますよ」
「それは嫌だと言ったはずです」
 鶫美は真剣な眼差しで、決して目だけは合わせようとしない蜜蜂を見つめている。
「……それじゃあ先生は伯父のこと、人間だって言えるんですか」
 うわごとのように、蜜蜂は囁く。肩を掴む力は弱めないまま、鶫美はぐっと言葉に詰まる。長く伸びた爪が、薄手のブラウスの生地に食い込んでいる。
「ほら、違いますよね。あの人はバケモノです。私、知ってるんです。お母さんの夢を渡って見て(・・)しまったから」
 視線を地に落としたまま、蜜蜂の体はすっかり自らの重心を支えることを放棄して、唇だけが熱に浮かされたように言葉を紡ぎ続ける。
「ねえ、先生? 私、ずっと苺火と五月が羨ましかったんです。あの二人はいつも、私には理解の及ばない、遠い世界で生きていた。それは日陰者の馴れ合いだったのかもしれないけど、それでも構わない、私は二人と一緒になりたかった。悪い子になることでそれが叶うなら、それでもいいと思った」
 蜜蜂の言葉は、いつしか鶫美に向けられたものではなく、独白のそれとなっている。
「苺火は私の手の届かないところへ行ってしまって、五月はずっと眠り続けていて、お母さんもぱったりと家に帰ってこなくなって、私はひとりぼっちになった。さみしくて、さみしくて、さみしくて、ある日夢を見たんです。苺火の夢でした。それが私が渡った最初の夢でした。尤も、それに気づいたのはもっとあとになってからでしたけど」
 おもむろに、蜜蜂は顔を上げた。淡褐色(ヘーゼル)の瞳は涙に濡れている。そうして泣きながら、蜜蜂はくしゃくしゃと顔を歪めて笑っている。泣き濡れて、途方に暮れたその眼差しに、鶫美は酷く動揺する。
「先生、どうしよう……私、苺火に酷いこと言いました。傷つけたんです。だから、謝らなくちゃいけない。それで、夢を渡り続けているんです。眠る前に毎日、〝今日も夢を渡れますように〟ってお祈りします。そうしたら、前よりたくさん夢を渡れるようになりました。本当なら直接苺火のところに行って謝れたらいいんですけど、どうせ意地悪な先生のことですから、私をあの子に会わせてはくれないんでしょう?」
 蜜蜂の肩を固く掴んでいた手から、不意に力が抜けた。華奢な腕をずるずると伝って、男の手は重力に従ってすとんと落ちる。蜜蜂の唇は、三日月の笑みの形を描き続けている。二つの視線が絡み合い、交錯する。呆然と、鶫美は呟く。
「そんな力の使い方をしていたら、きみはどんどんヒトから遠ざかってしまうよ。伯父さんの末路を知っているきみなら、わかるだろう? あの人は確かに、バケモノになってしまった。だけどきみは今ならまだ、取り返しがつくんだよ」
 蜜蜂は目を閉じ、ふるふると首を横に振った。花弁のようにすべらかな白い瞼が、鶫美の目前に無防備に晒され、そのふちをびっしりとふちどる睫毛──朝露のような涙の珠が、いくつも付いている──が、微かに震えた。
「いいんです。それが私の望みだから。そうしたら少しでも、あの子たちに近づけるような気がするから──」
 蜜蜂の色素の薄さにも似た、淡色(あわいろ)の薔薇の花が、うそぶいて咲いている。
 人を惑わせてやまないあの香りが、辺りに充満している──。



 金色の雨が降っていた。
 空は、晴れ。青空の端々に塗りたくられた、琥珀色。
 狐がお嫁に参るのだと人は言う。天が泣いているのだと人は言う。
 雨粒のひとつひとつは複雑に、幾重にも光を反射し、さながら金色のシャワーのように柔らかく、あたし(・・・)と世界とを包み込んでいる。
 その雨と同じようにか細く、ひとすじの歌声が鳴っていた。優しく、あたたかく、そしてどこか儚い。繊細な絹糸を束にしたような、そんな旋律。その歌声に誘われるように、あたしは匂い立つ薔薇の花を無我夢中で掻き分けた。紅一色の、薔薇園。咽せ返るような芳香に、眩暈がする。
 突如として、視界が拓けた。
 小洒落た西洋東屋(ガゼボ)。ガーデンテーブルと、揃いの二つのチェア。
 その更に先に、大きな屋敷があった。一階には広々とした出窓があり、窓は開いていた。窓辺には、あたしと同じ歳の頃の一人の少女が腰かけ、歌は俯いた少女の唇から細く紡がれ続けているのだった。少女の白いワンピースから覗くありとあらゆる部位は、包帯でぐるぐると巻かれ、少女の肌は顔と手足のほんの僅かな隙間を除き、見ることが叶わなかった。
 あたしは迷いなく歩を進めると、少女の前に仁王立ちに立ちはだかった。
 歌声が、途切れた。伏し目がちに歌い続けていた少女が、おもむろに顔を上げた。何の前触れもなしにあたしが現れたというのに──見ず知らずの屋敷の庭に、あたしは無断で立ち入っていた。その頃からあたしはお転婆で、木登りをしたり秘密基地ごっこをしたり、人様の家の庭に忍び込んだりなんて、しょっちゅうだった──少女はただ不思議そうに、あたしを見上げるばかりだった。
 少女の病的なまでの肌の白さとは裏腹な純度の高い漆黒に、あたしは内心驚いていた。顎の辺りで切り揃えられたウェーブのかかった烏の濡れ羽色の黒髪、あたしを見上げる二つの瞳はぽっかりと空いた昏い二つの穴のように底が見えず、あたしを畏怖させた。
「あんた、怪我してるの?」
 その、ほんの僅かな気後れを振り払うように、声を張ってあたしは尋ねた。我ながら、横柄な態度だったと思う。だけどそうでもしなければ、ぽっかりと空いた二つの穴に飲み込まれて、あたしという存在がなくなってしまいそうで、怖かったのだ。
「え、」
 今、ようやく目の前にあたしがいるという事実に気がついたとでもいうかのように、少女は小さく声を上げ、そしてやはり不思議そうに首を傾げた。その声も、まるでどこか遠い世界の遠い国から鳴っているかのように、現実味がないのだった。
「なんで、そんな包帯ぐるぐる巻きなの? ヘンよ、それ」
 偉そうに両の手を腰に当てて、あたしは更に尋ねた。暫くのあいだ、少女は惚けたようにあたしを見上げていたが、やがてそっと目を伏せ、今にも消え入りそうな声で言った。
「それは、わたしがいけない子だから……」
「おしおきをされたの!?」
 あたしはびっくりして、素っ頓狂な声を上げた。だって、それはあたしもママに叱られたことはあっても、そんなふうに包帯でぐるぐる巻きにされるほどこっ酷く叩かれたことなんて、一度もありはしなかったからだ。
「じゃあ、それをやったのはあんたのパパとママってこと?」
 少女はふるふると、首を横に振った。その仕草さえも美しく、あたしは黒髪のそよぐその様に、思わず見蕩れてしまったほどだった。少女の一挙一動は、まるで異国のお姫さまのように、とてもとても優雅だった。
「お父さんは、いないの。わたしをぶったのは、わたしのお母さん」
「そんなにぐるぐる巻きにされるなんて、一体何したのよ、あんた」
 あたしは呆れて、大袈裟にため息をついた。少女は首を傾げ、少し考えてから、言った。
「何もしていないと、思う」
 その答えに、あたしはますますわけがわからなくなった。
「はあ? それじゃあ一体全体どうして、あんたはそんなことになってるのよ」
 少女はまたとっくりと考え、それからひとつひとつ、言葉を選ぶようにしながら言った。
「何もしていないけど、いるだけで、わたしはいけないの。罰を受けなくちゃならないの。だって、わたしは、わるい子だから。お母さんが、いつもそう言うの。だからきっと、そうなんだと、思う」
 それきり少女が再び俯きがちに押し黙ってしまったので、辺りは金色の雨が薔薇の花弁や枝葉を打つ、さあさあという微かな音だけに飲み込まれた。
 あたしは呆然としていた。少女の言葉のあまりの惨たらしさに、頭がついていっていなかったというのもあるし、その言葉の内容とは裏腹な少女の声や表情の無感情な様が、そら恐ろしかったというのもある。
 ややあって、ようやく我に返ったあたしは、脳裏に張り付くおぞましさを振り捨てるように、ひと際大きく声を張り上げた。
「あたしはみつばち! あんたはだあれ!」
 それはあんまりにも今更な問いかけで、滑稽なようにも思えたが、あたしは必死だった。少女がはじめて驚きを露わにして、顔を上げた。いや、正確にいえば、少女が明白に感情を表にすることさえも、この時がはじめてだったかもしれない。
「……さつき」
「さつき! よく聞きなさいよ!」
 あたしは片手は腰に当てたまま、さつきに向かってびしりと人差し指を突き立てた。人を指差しちゃいけないと、どこかで習ったような気もするけれど、そんな細かいことはこの際どうでもいい。
「あんたは顔だってかわいいし! 髪も肌も爪の先までとってもきれいだわ! いるだけでいけないなんて、そんなこと、ありえっこないのよ! あんたのママはまちがってる!」
「でも……、」
「おだまんなさい!」
 何か言いかけるさつきを、あたしはぴしゃりと遮った。さつきは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、開きかけた口をおとなしく閉じた。あたしは気分がよくなり、心なしか気持ちまで大きくなっていた。
「いーい? さつき! あんたがいちゃいけないなんてこと、ぜったいぜったいありえない! 何ならあたしが、あんたはちゃんとここにいていい子なんだってこと、この手で証明してあげる! ぜったいぜったいまた来るからね! 覚えてなさいよ、あんた」
 言うが早いか、あたしはぱっと身を翻し、元来た道を一目散に駆け出した。不思議と気分が高揚していた。あたしの背中に痛いくらいに突き刺さるさつきの視線を、あたしはいつまでも、後ろに感じていた。
 その言葉通り、あたしは足繁くさつきの元に通った。さつきは大抵、広々とした窓辺に腰かけているか、庭のブランコでぼんやりとしているかの、どちらかだった。あたしがはじめてさつきと出会った時に聴いた、あの繊細な絹糸を束にしたような旋律を、いつも口ずさんでいた。それはどこか感情の欠落したようなさつきには不釣り合いなほどに優しくて、あたたかな歌声だったけれど、そんな些細な落差でさえも、さつきはあたしを魅了した。
 あたしはさつきに関してたくさんのことを知った。名前はゆきみさつきというのだということ。あたしと同じ、小学校四年生だということ。だけど今は、学校には行っていないのだということ。この広いお屋敷に、お母さんと二人暮らしなのだということ。お母さんは夜遅く、日付が変わる頃にならないと、家に帰ってこないのだということ。
「みつばちちゃんは、妖精さんなの?」
 さつきは時折、そんなわけのわからないことを言って、あたしを困惑させた。
「はあ? 何わけわかんないこと言ってんのよ、あんた」
 あたしが感じたありのままのことを口にすると、
「だってみつばちちゃんは、はじめて会ったときからわたしのこときれいだって言ってくれた。ここにいてもいいって言ってくれた。何の役にも立たない、いけない子のわたしなんかのことを」
 そう言われてしまうと、あたしはもう何と返したらいいのかわからなくて、
「役に立つ必要なんかないんだよ。さつきはいけない子なんかじゃないよ」
 と言うしかないのだった。
 さつきが何か、とんでもないことに巻き込まれているらしいということに、あたしは薄々勘付いていた。さつきはいつも、包帯でぐるぐる巻きにされて、その体に生傷が絶えたことはなかったし、学校に行っていない理由も、あたしは何となく訊けずにいた。
 それでも確実に、さつきに変化の兆しが訪れていることも確かだった。昏い二つの穴のようだった瞳は、あたしの姿を見つけると、ぱっと明るい光を宿すようになった。またある時、あたしが、
「さつきは学校のともだちとは違う、あたしの秘密のともだちなんだよ」
 と言うと、
「わたしが、ともだち?」
 とびっくりしたような顔をするので、
「そうだよ、ともだちだよ。当然でしょ」
 と、今にして思えばさも偉そうに言ってやると、しばらくは〝ともだち〟という言葉の意味を何度も何度も確かめるように口にしていたけれど、やがて幸せそうに、
「うれしい……」
 と頬を染めるので、何だかあたしまで照れてしまって、その日は一日、随分乱暴な口を利いてしまったこともあった。それでもさつきは、そんなあたしに怒ることもなく、幸せそうに微笑んでいた。
 あたしとさつきのそんな秘密の逢瀬が、一年ほど続いたある日のことだった。
「ねえ、さつき。今日はちょっと、外に遊びにいってみない?」
 あたしは思いきって、さつきを外へと誘ってみた。その頃になると、さつきは随分表情豊かになっていて、あたしの申し出に、困ったような顔をして笑った。
「そうね、行けたらすてき。でも、ごめんなさい。わたし、お母さんに、ここから出ちゃだめって言われてるから……」
「だいじょうぶだよ!」
 あたしは必死に言い募った。さつきがお母さんから外出を禁じられていることは、もちろんあたしも知っていた。だから今日誘うのにも、随分勇気が要ったのだ。だってそれは確かに、さつきのお母さんが言う〝わるいこと〟に他ならなかったから。だけど小学校五年生ともなれば、ちょっとくらいのわるいことは、飛び越えてもいいような気に、あたしはなっていた。
「お母さんが帰ってくるのは、夜遅くなんでしょ。ちょっとそこの野原に行くだけだよ」
 さつきは少し悩んだふうだった。あたしはなおも言い募った。
「ね、だいじょうぶだよ。ちょっと野原を歩いて帰ってくるだけ。行こ?」
「……わかったわ」
 僅かに強張った顔で、さつきはとうとう頷いた。
 立派な青銅門と外との敷居を跨ぐ時、さつきがとても緊張しているのがわかった。さつきがこの青銅門をくぐるのはいつぶりのことなのだろうかと、あたしは密かに考えた。実をいえばあたしも、いつもは庭の方からこっそりと中に忍び込んでいて、このお屋敷のちゃんとした門から出入りするのはこの日がはじめてのことだったので、少しばかり緊張していた。二人で手を繋ぎ、いっせえのおせで、敷居を一気に飛び越えた。
 あたしたちが向かったのは、さつきのお屋敷から二ブロックほど先の、何の変哲もない空き地だった。雑草が好き放題に生え、今の季節はつくしん坊なんかも頭を出しはじめる。そんな何てことはない風景にも、さつきは物珍しそうに見入っていた。何しろさつきのお屋敷の庭には、紅一色の薔薇の花しか咲いていないのだ。
 あたしたちは手を繋いだまま、神聖な儀式のように空き地をゆっくりと一周し、短い帰路についた。
 本当に、ただそれだけだったのだ。
 あたしたちは確かに、〝わるいこと〟をしたのかもしれないけれど、悪気なんて少しもありはしなかった。
 恐ろしいものが、あたしたちを待ち構えていた。
 何が起こってしまったのかを、あたしは瞬時に理解していた。
「一体どこにいっていたの、五月」
 さつきのお屋敷の門の前に、一人の女が佇んでいた。あたしたちはその場に凍りついた。それがさつきの〝お母さん〟であることを、察することは容易だった。その女は、とても醜く年老いてはいたけれど、その目鼻立ちやウェーブのかかった顎までの髪は、さつきと生き写しだったからだ。しかし、あたしが想像していたどんな〝お母さん〟とも、そこに立っていた女は違っていた。女はさながら、哀れな小鳥を鳥籠に囚える魔女だった。
 本来なら今、ここにいないはずの女が、どうしてここにいるのか、わからなかった。同時に、あまりにも不運な自分の星の巡りを恨んだ。女は幽鬼のような形相で、あたしのことを睨んだ。
「あんたがこの子を誑かしたのね……」
 女の骨張った手が、乱暴にさつきのか細い手首を掴んだ。爪の伸びきったその手は、まさしく魔女のそれだった。さつきは呆気なくあたしの手を離れ、引っ張られた勢いのままに地面に膝を突いた。そんなことを気にも留めず、女はさつきを門の中へと引きずり込んだ。さつきの膝が擦り剥けて、包帯に血が滲んだ。
「こっちへいらっしゃい! 悪い子には罰を与えなくちゃ」
「いや!」
 さつきが悲鳴にも似た声を上げた。さつきがそんなふうに大声を出すところを、あたしははじめて目の当たりにした。魔女はぎょろりと目を剥いた。
「まあ、いつからお母さんにそんな口を叩くようになったの。やっぱりあの子におかしなことを吹き込まれたのね。性根を叩き直してあげなくちゃ」
 次の瞬間、何が起こったのか、あたしは咄嗟に理解することが叶わなかった。女の手が大きく振り抜かれ、さつきの体が血しぶきとともに吹き飛んだ。恐怖はあとから徐々に、あたしの体の底から押し寄せてきた。そうしているあいだにも、女は地面に力なく横たわるさつきに歩み寄り、更なる追撃を加えようとしていた。脚が、がくがくと震えた。
「だれか、だれか助けて!」
 あたしが腹の底から声を振り絞るのと、魔女がさつきに二度目の攻撃を与えるのは、同時だった。魔女はもう、留まることなく、さつきの美しい髪を掴み上げ、幾度も幾度もその頬を、顎を、腹を打った。
 あたしの悲鳴を聞きつけて、すぐそばの家から見知らぬおばさんが飛び出してきた。あたしはもう泣きじゃくりながら、おばさんの方にこけつまろびつ駆けた。
「まあまあ、お嬢ちゃん、どうしたの」
「あたしのせいでさつきが、さつきが死んじゃう……!」
 あたしの指差した先で、魔女がぐったりとなったさつきに暴行を加え続けているのを見て、おばさんはさっと血相を変えた。おばさんは急いで家の中に戻ると、今度は見知らぬおじさんを連れて飛び出してきた。おじさんはそこにある光景を見るや否や、何の躊躇いもなくさつきのお屋敷の中に飛び込んでいくと、背後から魔女を抑え込んだ。
「何よあんた、離しなさいよ!」
 魔女は喚き散らし、おじさんの顔を引っ掻いた。おじさんの頬からも小さな血しぶきが上がる。それでもどうにか、おじさんはさつきから魔女を引き剥がすことに成功した。
 騒ぎを聞きつけた近所の人達や、通りすがりの人達が、次第にさつきのお屋敷の周りに人だかりを作りはじめていた。中にはまだもがき続けている魔女を抑え込むために、おじさんに手を貸す男の人や、さつきに声をかけたり、息のあることや怪我の具合を確認したりする人もいた。あたしはその場に棒立ちに立ち尽くして、喚き続ける魔女とぐったりと横たわるさつきを呆然と見つめ続けていた。どこか遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
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