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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第一章 時計塔の幽霊

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 始業前の職員室では、教師たちがあっちでもこっちでも、働き蜂のように忙しなく動き回っている。年度の初日ともなれば、その忙しさは想像するに難くなかった。古びた木製の引き戸を細く開けた隙間からこわごわ中を覗き込み、ごく当たり前の学校らしい光景がそこに広がっていることに、苺火はこの上ない安堵を覚えた。
 やっとまともな(・・・・)人間を見つけられた。それも、こんなにたくさんだ。やはりこの広大な敷地に、苺火はちっとも一人ぼっちなんかではなかったのだ。それにしても、各々が皆、やけに忙しそうにしていて、少し声をかけづらいな──。
 苺火はがたつく引き戸をどうにかこじ開け──これには少し、コツが要るのだ──職員室の中へ向かって、おずおずと声をかけた。
「あのう、すみません。今日から中等部の二年に転入することになっている、桐島苺火ですけど……」
「やあ、待っていたよ」
 予想に反して返事は背後から頭上に降ってきて、苺火は度肝を抜かれた。急いで後ろを振り返り、そこに立っていた男の風貌に、思わずあんぐりと口を開けた。
 ──髪が、桃色だ。しかも、長髪である。
 学校の中で見るもの、それも男性教員の姿としてはあまりにそぐわない姿に、苺火は呆気に取られていた。一応は顔にかからないようにという配慮からか、明るいピンク・ブラウンの髪の上半分ほどは高い位置で一つに結い上げられ、残りは無造作に肩や首回りに流されている。黒のハイネックの上に白衣を纏っているところを見ると、おそらくは理科系の教師だろう。香水でもつけているのか、何か甘ったるい香りを辺りに漂わせていた。
 マッドサイエンティスト──という言葉が、自然と苺火の脳裏に浮かんだ。厳格な法こそあれど、基本的にはかなり奔放な校風を持つ学園だとは聞いていたが、初っ端からこんな型破りの教師と相まみえることになろうとは、思いも寄らなかった。
 まさかこの男が、これから苺火が配属されるクラスの、新しい担任だというのだろうか。苺火の胸に、またしても一抹の不安がよぎる。
桐島苺火君(・・・・・)、だね」
 遠慮会釈なく、上から下までじろじろと眺め回してしまったにも関わらず、男は特に気を悪くしたふうもない。白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、さっきからずっと同じ、仮面のような微笑を貼りつけたままだ。垂れ目がちの瞳は思いのほか、優しげな光を宿しているようにも見える。風貌こそ奇抜なものの、存外に普通の教師なのかもしれない。或いは、他人からそういう視線を向けられることに、既に慣れきってしまっているのかも。何にせよ、人を見かけで判断してはいけないとは、昔からよく言ったものではないか。
「は、はい」
 そうはいっても動揺は隠しきれず、苺火は覚えず口籠った。
「何組に転入するの?」
「えっと、その──一組、ですが」
「それなら、木村先生のクラスだね。まだ若いけれど、しっかりとしたいい先生だよ。君のことも、しっかりサポートしてくれるだろう。安心して励むといい」
 男が目をやった先には、黙々とデスクワークに没頭する、堅実そうな眼鏡の男性教員の姿がある。そう言う男の方も随分若く見えるのだが、実際のところは一体いくつなのだろうか。ピンク・ブラウンの髪のせいで、なおのこと年齢不詳だ。それどころか、中性的な顔立ちと相まって、ぱっと見では性別さえ不詳に見える。目の前のマッドサイエンティストがクラスの担任ではないとわかり、失礼ながら苺火は些かほっとした。
「さあ、じきに始業の時刻だ。君もそろそろ、君の新しいクラスに向かわなくてはね」
 ポン、と軽い調子で肩に置かれたはずの男の手は、やけにずっしりと苺火の上にのしかかった。わけもない、正体のわからない不安は、相も変わらず苺火の胸の内に、暗雲のように立ち込めている。
 しかし幸い同じ教室に、時計塔のふもとで見たあの男子生徒の姿は見当たらなかった。退屈な始業式は、何事もなく過ぎる。列する教師陣の中に、職員室前で声をかけてきたマッドサイエンティストの姿を見つけ、苺火は改めてまじまじと、男の姿を遠目に観察することができた。担当のクラスこそ持っていないらしかったが、高等部教諭の一群に混じっているところを見ると、高等部の授業をおもに見ている教師なのだろう。そんな彼が、どうして中等部の一転入生に過ぎない自分のことを知っていたのだろうかと、ふと疑問がよぎる。男が本当に学園の教師であったのだという事実に対する、一抹の驚きもある。
 ああして並んでいるところを見ると、男のピンク・ブラウンの長髪は、ますます群を抜いて目立った。それに、式典の真っ最中だというのに白衣を身に纏い、ポケットに手を突っ込んだままなのも、彼だけだ。
 ──やっぱり、ちょっと変わった先生だったんだ。
 苺火はこっそりとそう思った。本来であれば生徒の風紀を正すべき教師陣が、彼のような個性派揃いであったらどうしようかと、内心少し心配していたのだ。どうやらそれはさすがに、苺火の杞憂であったらしい。
 教室の中はあまりにも平和で、何より活気があった。既に馴染みの顔ぶれも多いのだろう。順々に行われていく自己紹介のさなかに、周囲からやんやと囃し立てられる生徒もいる。或いは気の利いた冗談の一つや二つ言って、笑いの渦を巻き起こす生徒もいる。ことに苺火の一つ前の茅崎(かやざき)という男子生徒は、ひと際男子からの支持が熱く、一身に声援を受け、しまいには拍手喝采といった具合だったので、続く苺火を気後れさせたほどだった。
 霧に包まれ、がらんどうに思えた校舎と、この教室が同じ場所とはとても思えず、始業前に身に降りかかった恐ろしい出来事の数々も、今、こうしていると、全て夢だったかのように思えるのだった。
「これからよろしくな、桐島」
 取り立てて見どころもない自己紹介を終えて席に着くと、隣の席の男子生徒が気さくに声をかけてきた。出席番号の早い彼は、既に自分の挨拶をし終えたあとだった。
「こちらこそ、よろしく。えっと……」
犬童忍(いんどうしのぶ)だよ。犬に(わらべ)で、いんどう。しのぶは、忍耐の忍。忍者の忍って言うより、かっこいいだろ?」
 (しのぶ)は短髪で体格のいい、いかにもスポーツ少年といった雰囲気の少年だった。大きな体の割に口調や物腰は穏やかで、どことなく朴訥な感じがする。クラスに溶け込めるか否かの最初の足がかりともいえる隣の席の生徒が、彼のような気のよさそうな少年であることに、苺火は心の底から安堵した。忍ならば学年でただ一人、二年次から転入となった苺火と他の生徒との、いい潤滑剤になってくれることだろう。
「さっきの桐島の自己紹介、やっぱり東京出身なんだなあって思ったよ。都会育ちって感じ、するもんなあ。洗練されたオーラっていうか、俺みたいな田舎者とは、どっか違うんだよな」
 クラスメイトの自己紹介はまだ続いていたが、忍は気にせず話しかけてきた。忍にとっては今更聞くまでもない挨拶なのかもしれない。
「僕のいたところはそんなに都会じゃないと思うよ」
 苺火は苦笑した。実際、蜜蜂たちと住む家は、都心からは外れた閑静な住宅街に立地する、小ぢんまりとしたアパートだ。
「東京だったら十分都会さ」
 肩をすくめて、忍は笑った。
「きみはどこから?」
「すげえ、田舎だよ。雪深い山間(やまあい)の村さ。あんまり訛ってないだろ? ここに来たばっかりの頃なんか、酷かったんだぜ。どこだと思う?」
 忍が雪国の出身であるということに、苺火は妙に納得してしまった。冬が来れば、きっとまじり気のない白一色に閉ざされる世界。そこで、両親や村人たちから外連味のない愛情を注がれて、忍は真っ直ぐに、あたたかな心を育んだのだろう。忍はそういう健やかさと、素朴な温もりを感じさせる少年だった。
 昼休みを迎える頃には、苺火はすっかり犬童忍というすがしい少年に、親しみを抱いていた。
 二、三年生にとっては実質的に年度の初日となる本日の段取りは、始業式のあと各クラスでのホームルーム、全校生徒が揃って食堂で昼食を取ったのち、自由行動。部活動ができるようになるのは明日からだから、大半の生徒は昼食後、寮の自室で荷開きに当たることになる。入学式は昨日既に済まされていて、式典には上級生は疎か、保護者でさえ同席は許されていない。それも月舘の、閉ざされた法の一つであるのだそうだ。
 とにかく、そういったこまごまとしたことも、忍は親切に教えてくれた。
「食堂は一階の渡り廊下を渡ったすぐ先だ。桐島も行こうぜ。他の奴もいるんだけど──、」
「転校生を捕まえるとは、でかしたぞっ、忍!」
 甲高くよく響く、威勢のいい声がしたかと思えば、その出どころを探すまでもなく小柄な人影が弾丸のように視界に突っ込んできたので、苺火は面食らった。当の忍はというと慣れた様子で、何故か忍の腕にぶら下がろうともがく相手をいなしている。
「こういう、ちょっと五月蝿い奴なんだけど、いいかな」
「五月蝿いとはなんだっ! 失敬だぞ!」
「あとはちょっと人見知りだよな、(はる)?」
「わーっ、わーっ! 余計なこと言うなよ、馬鹿!」
 晴、と呼ばれた少年は慌てた様子で、今度は忍をぽかすかと殴りはじめた。忍はこれも、片手で軽く受け流している。
 苺火も決して背が高い方ではないが、新たに現れたその少年は更に小柄だった。くるくるとよく動く、つり目がちの大きな瞳が印象的だ。どことなく、キツネ系の小動物を思わせる。すばしっこく、利発そうな顔立ちは、大柄でおおらかな忍とは対照的だった。
「悪いな、騒がしいのはこいつなりの照れ隠しなんだ。阿呆っぽいことばっかり言ってるけど、俺なんかよりずっと頭もいいし」
「茶々を入れんなよな!」
 当人の代わりに弁解する忍にすかさず晴が食いつき、そのまま二人のやや一方的な交戦が再びはじまってしまったので、苺火は反応するタイミングを完全に逃した。
 忍と晴のそれぞれが、中学二年生の男子生徒としては両極端な体格をしているせいで、二人のやり取りはまるで小学生の弟と、それを諌める高校生の兄だ。同い年にはとても見えない。各々を単体で見ればそれほど大袈裟な話ではないのだろうが、相乗効果というやつだ。あいだに入り込む余地もないので、苺火は感心して、二人をじっくり観察することができた。ある意味、いいコンビなのかもしれないと、苦笑混じりに考えていると、突然、晴がはっと我に返った様子でこちらを向いたので、つられて苺火もぎくりと身構えた。何かと思って見ていれば、罰の悪そうな表情から察するに、すっかり蚊帳の外に置いてけぼりになっている苺火にようやく気がついたらしい。晴は、忍の胸ぐらを掴んでいた手をおもむろに離すと、おずおずと前に進み出てきて、ぺこんと頭を下げた。
「あ、あのっ! よろしくな、桐島君!」
「ああ──えっと、うん。こちらこそ、よろしく」
 転校してきたのは苺火の方だというのに、晴の挨拶は初々しく、見た目の子供っぽさと相まって、つい微笑ましく見守ってしまう。忍がさりげなく目配せをしてきたので、苺火も晴には見つからないように、そっと笑い返した。嵐のような登場には驚かされたが、小さな体にはち切れんばかりの元気を詰め込んだ彼とも、どうやらうまくやっていけそうだ。でこぼこな忍と晴のコンビに囲まれて、わけもない不安に苛まれていた苺火の胸中も、ようやく晴れ渡っていくような気がした。
 事件が起こったのは、食堂へと向かう階段を三人で談笑しながら下っている最中のことだった。
「あれ? あれあれ?」
「な、何?」
 晴がふと、顔をずずいと寄せてこちらを覗き込んできたので、苺火は思わず身を退けた。──近い。どうも晴はパーソナルスペースが極端に狭いタイプの人間のようである。
「桐島君、よく見たら目がグリーンだね! ハーフなの? 自己紹介の時にはそんなこと言ってなかったと思うけど」
「──いや、僕はクォーターだよ」
 快活な晴の物言いに、やはり気づかれたか、と苺火は内心嘆息する。頭の回転が速い晴は、目敏さも人一倍のようだ。
「え、そうなのか?」
 忍はというと、隣の席でずっと話していたにも関わらず、苺火が混血であることには全く気がついていなかったらしい。晴に言われてはじめて、苺火の顔立ちや瞳の色を改めて観察し、あ、本当だ、という顔をしている。グリーン、といっても、苺火の虹彩は限りなく黒に近く、髪色といい、見た目はほとんど生粋の日本人と変わらないのだ。
「もしかして、あんまり触れられたくないことだった?」
 歯切れの悪い苺火の返答に、晴は不思議そうに目をぱちくりさせている。
「うーん……そう、だね。正直、自分がクォーターでいることで、僕自身はあまりいい思いをしたことがないというか。きみは、ハーフ? ……だよね。気に障ったら、ごめん」
 そう、晴の金茶の髪、黄玉(トパーズ)の瞳。ゲルマン系の遺伝子が外見にほとんど反映されなかった苺火とは違い、晴が混血であることは、誰の目にも一目瞭然なのだった。わかっていて敢えて言及しなかったのだが、苺火も混血だということがばれてしまった以上、ここは正直にうそ偽りのない自分の気持ちを話しておくべきだろう。その方が、今後の付き合いもより円滑に進むというものだ。
「ぜーんぜん、気にしなくてオッケー! 俺はそういうの、ちっとも気にしてないからさ。俺たちみたいのはもちろん、忍みたいなボンボンから、ちょっとわけありなのまで、月舘にはとにかくいろんなのがいるからね。だから桐島君も、ここではのびのびやればいいよ」
 そう言って、晴は器用にウィンクまで付け加えて見せた。
「俺のことは、いいだろ」
 ボンボン、と言われたのが気に食わなかったのか、忍は少し拗ねた様子で、唇を尖らせている。
「でも、どうしてそんなにいろんな人たちが?」
 何気なく、苺火が口にした問いかけには、晴は少し考え込んだようだった。その、ほんの僅かな一瞬に、苺火は彼の表向きの明るさ、おちゃらけた調子とは裏腹な、聡明な思慮深さを感じ取る。
「さあ、鷹揚な校風だからじゃないかな。ちょっと授業料はお高いけど、潤沢な環境で、一人一人の個性を大事に英才教育を受けられます、ってのを推してるみたいだから。だから、課外授業や部活動、行事やなんかはすっごく充実してるし、心理面や他の部分でのサポートもかなりしっかりしてると思うよ。ま、ちょっと……いや大分、都心からは離れてるし、最低限、入学試験をパスするだけの頭は必要になるんだけどね」
 チラ、と横目で忍を見やって、晴はわざとらしく肩をすくめてみせた。〝忍の頭でよく入学試験をパスできたよな〟とでも言いたげだ。ところがそんな晴の視線にも、忍は全く気づいていない。わざとではなく忍の場合、おそらく天然物の鈍感なのだろう。
「教師陣も、相当強烈なのばかりだぜ。特にあの、ピンク髪とか。始業式の時に前に立ってたの、桐島も見ただろ?」
 忍が、半ば呆れた顔で言ったので、ああ、と苺火は思い当たった。やはり月舘の生徒間でも、彼は知れた名物教師であるらしい。
「うん、あの白衣の……実はもうさっき、話したんだ。始業前に職員室の前で、声かけられて──、」
 その時だった。
「──がどうなってもいいんなら、無理強いはしねえけど?」
「──は関係ねえだろ!」
「おいおい──先輩への口の利き方ってもんが──、」
「体に教えてやらなきゃわかんねえのか?」
 階下から、明らかに不穏な気配を含んだ応酬が聞こえてきて、三人は思わず足を止め、顔を見合わせた。双方、相当に感情が昂っている様子で、会話の細部までは聞き取れないものの、とにかくかなり激しい口調で言い争っている。
「何だ?」
 まずは忍が注意深く、階段の踊り場からそっと階下を覗き込み、そしてあからさまに嫌そうに顔をしかめた。晴と苺火が何だ何だとそのあとに続き、眼下の光景に、苺火は思わずアッと声を上げそうになった。
 階段の中腹に佇む四人の生徒を遠巻きに取り囲むようにして、既に人だかりができている。しかし、階段の踊り場にいる苺火たちは、容易にその場の様子を見て取ることができた。
 こちら側に背を向けて立っている三人──つまり、階段の上手に立っている彼らは、体格の平均からして、苺火たちからすればおそらくは先輩に当たる生徒だ。忍を優に上回るほど体格のいい真ん中の生徒がリーダー格で、左右の二人はその取り巻きだろう。
 それよりも苺火の注意を引いたのは、他の三人に取り囲まれるようにして、しかし決して臆することなく立ち向かっている、一人の小柄な少年だった。
 全身の毛を逆立て、牙を剥くケモノのようなその顔に、覚えがあった。
 今朝、時計塔の前で遭遇した、あの少年だ。
 相手の数にも、年の開きにも、ただの少しも物怖じしない、強い気迫に満ちた眼差しに、取り巻きの一人は、俄かに苛立った様子だった。 
「ンだよ、その目──生意気なんだよ、お前ッ!」
 そして、何の躊躇いもなく小柄な少年の肩を押し、階段から、突き落とした。
「危ないッ!」
「あっ、おい、桐島ッ……!」
 人だかりの中からどよめきと悲鳴が湧き起こったのと、苺火が人目も憚らずに四人の前に躍り出たのと、忍が焦りを滲ませた声を上げたのとは、ほとんど同時だった。三人組のリーダー格の生徒を半ば押しのけるようにして双方のあいだに入った苺火は、すんでのところで階段から落下しかけた少年の腕を捕らえることに成功した。
 背後から、突然飛び出してきた苺火に押しのけられたリーダー格の生徒は、一瞬(いか)ることも忘れ、ぽかんとまぬけに口を開け、目前の光景に見入っていた。しかしすぐに何が起こったのかを理解すると、唇を歪めて不適な笑みを浮かべ、面白そうに苺火を眺めた。
「──っは、古賀(こが)以外にまだお前に手を貸してくれる奴がいたとはね。ラッキーだったな、星野(ほしの)。それじゃあ放課後、待ってるぜ」
 リーダー格の生徒は、まだ戸惑いを繕いきれずにいる取り巻き二人を引き連れて、自然と道を開ける人だかりのあいだを悠然と通り抜け、階下へと姿を消した。二人の取り巻きたちは虎の威を借る狐、どうということもなさそうだが、あのリーダー格の生徒のカリスマ性と並々ならぬ自信だけは、だてではないということらしい。
「──大丈夫?」
 星野、と呼ばれた少年を引っ張り上げて立たせながら、苺火は、あれ、と思った。
 マグマが、出ていない。
 星野の手を捕らえた時には無我夢中で気がついていなかったが、時計塔のふもとで噴き上げていた暗澹たるマグマを、今の少年からは感じ取ることができなかった。だからこそ、苺火は瞬時に何の躊躇もなく少年に駆け寄り、その手を捕まえることができたのだ。
 拍子抜けだった。やはり最初に直感した通り、少年は学園の一生徒に過ぎなかったのだ。幽鬼のような形相に見えたのも、ただの思い過ごしだったのかもしれない。
 しかし、苺火が安堵したのもつかの間のことだった。苺火の顔を確かめるや否や、少年の纏う気配は一変した。その異変を察知し、忘れかけていた緊迫感が、ザッと音を立てて体中の血管を這い上る。
「お前は……!」
 呆気に取られる苺火の前で、少年を助け起こしたはずの手は乱暴に振り払われた。何が起こっているのかわけもわからず、苺火は目前の少年を呆然と見つめた。
「星野……」
 背後で忍が、苦々しげに呟くのが聞こえた。少年は忍の方にはちらりと一瞥をくれただけで、すぐにまた苺火に視線を戻した。用があるのは苺火だけ、ということらしい。
「お前、確か一組に転校してきた奴だよな」
 少年の声をまともに聞くのははじめてだった。威圧的ではあるが、まだあどけない響きを残した、少年らしい声だった。
「──そうだけど」
 警戒して答えながら、苺火はやはり少年からマグマが出ていない事実を冷静に分析していた。少なくとも今、苺火が少年から感じ取れるのは、憤怒や憎悪などといった激情の類ではなく、よくわからないものに対する、相応の警戒と疑念でしかなかった。殺気立ってはいるが、それも時計塔のふもとで目の当たりにしたものには遠く及ばない。忍の様子からするとおそらく同じ学年、それも何かしら曰くのある生徒ではあるようだが、自分とさほど相違ない立場だとわかってしまえば、どうということはない。こんな奴を脅威と恐れていたことが、急にばかばかしくなった。
 同時に、燻っていた怒りがむくむくと膨れ上がってきた。新しい生活が、せっかく順調にはじまろうとしていたのだ。それなのに、こいつは一度ならず二度までも自分の前に現れて、その平穏を脅かそうとする。それどころか二度目は、こちらが助けてやったにも関わらず礼の一つもなく、差し伸べたはずの手は乱暴に振り払われてしまった。
「どんなコネ使って入ったんだ?」
「はあ? コネ?」
 尋問じみた口調で問い正してくる少年を、苺火は苛立ちを隠そうともせずに見下げた。
「お、おいっ……!」
 思いがけず強気な態度に出た苺火に、晴が悲鳴のような声を上げる。ちょっと人見知りなところを除けば、怖いものなど何もなさそうに見える晴でさえ、不必要に星野を恐れている。こんな奴、何も恐れることなんてないのに、どうしてだろう?
 苺火の態度が気に食わなかったのか、星野は不快そうに眉を顰め、眉間に深く皺が刻み込まれた。
「月舘には厳格な校則──法がある。中途転入が認められていないというのもその法の一つだ。中等部と高等部の初年度にある入学試験をパスしない限り、本来であれば壁の内側に足を踏み入れることさえ不可能なはずだ。二年次からの転入を許可されたお前は、その法を免れた、特例中の特例なんだよ」
「へえ、それで?」
 おい、もうやめろ、と、駆け寄ってきた忍が視線で訴えかけてくるのがわかったが、苺火は気づかないふりをした。どうもこの星野という生徒は、転校生、すなわちよそ者であるところの苺火に、何かしらの因縁をつけたくて堪らないらしい。
 ──いいよ。受けて立とうじゃないか。
 人との摩擦を避け、極力諍いを起こさないように、愛想笑いを振り撒いて生きてきたはずなのに、この星野とかいう生徒相手には、不思議と腹を据えて向かい合いたい気持ちになるのだ。全身の血が高揚しているのが、自分でもわかる。──一体、何故?
「お前、身内に、鳥の会(・・・)の関係者がいるんじゃないか?」
 星野は急に声を押し殺し、額を付き合わせんばかりに苺火との距離を縮めてきた。
「いないよ、そんなの」
 それ以前にまず、〝鳥の会〟というのが何なのか、苺火にはさっぱりわからなかったが、とにかくそんな怪しげな会に心当たりはない。名前さえ聞いたことがないということは、苺火のたった二人きりの家族のうちに、その関係者もいないと見てまず間違いはないだろう。親戚とは元より交流がないし、そもそも親戚などというものがいるのかどうかすらも怪しい。コネなんて使うことは不可能に等しいはずだ。
「家族や親戚じゃなくてもいい。近しい知人に、そういう者がいるだろう」
「そういう話は聞いたことないな」
「言わないつもりか」
「言うことなんか何もないよ。僕はコネなんか使ってないんだから」
 瞬間、星野の瞳の底に、時計塔のふもとで目の当たりにしたあのマグマが閃いた気がして、苺火はぞくりとした。拳でも振り抜かれるのかと思いきや、そんな気配もない。そのまま星野が押し黙ってしまったので、辺りには不穏な沈黙の帳が下りた。
 一瞬のひるみは、苺火の頭にいくらかの冷静さを取り戻させた。いつの間にか自身が、奇妙な高揚、衝動によってのみ突き動かされていたことに気がつく。二人の応酬は、柄の悪い三人組との応酬から引き続き、食堂へと下る階段の只中で繰り広げられていたため、苺火と星野、そして傍らの忍を遠巻きに取り囲む人だかりは、先ほどよりも更に密度を増して、かなりの規模になってきている。今の今まで、そんな周囲の様子さえ目に入らないほど、星野との応酬に白熱してしまっていた。忍や、通りすがりの生徒たちが、固唾を飲んで事のなりゆきを見守っていることにも、たった今ようやく気がついた。そういえば人だかりの中に、さっきまでそこにいたはずの晴の姿が見当たらない──。
 苺火の意識が僅かに星野から逸れたその時、
「ちょっと夜鷹(よたか)、何してんの! 変な因縁つけるのやめなさいよね!」
 突然、頭上から降ってきた鋭い声に、苺火も、星野も──星野に限っては、視線だけを気怠げに、僅かに持ち上げて──その場にいた全員が、声のした方をはっと振り仰いだ。
 腰に手を当て、階段の踊り場に仁王立ちに佇んでいたのは、すらりと伸びやかな四肢を持つ女子生徒だった。あれは確か、苺火と同じクラスの生徒だ。まだクラスメイトの顔と名前はほとんど一致していなかったけれど、席が近かったのと、係決めの時に同じ現代文係に立候補していたのとで、彼女のことはなんとなく記憶に残っていた。
「いじめなんかするっていうんなら、うちのパパに電話して言いつけるわよ? 別に、今あたしがここで制裁してあげてもいいけど」
 忍や晴でさえ口出しできない相手に、たった一人の少女が物怖じもせずに立ち向かっている。いくら苺火が星野のことを恐るるに足らない相手だと認識しているとはいっても、少女の恐れの欠片もない毅然とした態度には、さすがに驚かずにはいられなかった。
「──別にいじめてねえよ。すぐ済む話だ」
 更に驚いたことに、子供じみた脅し文句のようなその言葉に、星野はあからさまに苦々しげな顔をして、彼女から目を逸らしたのだ。
 圧倒的に、少女の優勢だった。ここに来て、場の流れは一気に変わろうとしていた。観衆たちも、突如として一筋の彗星のように現れた少女に、全員が刮目していた。
「しらを切り通そうってんなら、今に後悔するぞ」
 それでもまだ、星野は苺火に咬みついてきたが、それが虚勢を張った逃げ口上に過ぎないことは、もはや誰の目にも明らかだった。
「夜鷹!」
 少女の鋭い一喝が飛ぶ。
「お前、いい加減に……!」
 心強い味方の登場に勢いづいたのか、それまで黙っていた忍までもが、星野に食ってかかる。
 そうでなくとも苺火にとって、星野夜鷹という少年は、とうに敵ではなくなっていた。彗星の少女が現れた時点で、既に苺火の勝利は決定的だった。
 いい加減、ただでは見逃してくれそうになくなってきた外野に、星野は悔しげに顔を歪め、短い舌打ちを残して、観衆を掻き分けながら──観衆たちのあいだからは俄かにどよめきと悲鳴が上がった──足早に階段を駆け下りていった。
「あ、ちょっと夜鷹!」
 彗星の少女が、慌ただしくそのあとを追っていく。
 逃げるように去っていく星野の背中を何気なく目で追って、苺火はまたしても、あれっ、と思った。星野の後ろを、親鳥のあとに続く雛のようにぴったりとくっついて、小走りに駆けていく女の子がいる。くるくる、ふわふわと悪戯に靡く亜麻色の髪が、まるで西洋の陶磁器人形(ポーセリン・ドール)のようだ。あんな女の子、さっきまでいただろうか。
 星野の姿が階下の曲がり角に消え、あと少しで女の子の姿も見えなくなってしまう──というところで、女の子はふと思い留まったように足を止めて、こちらを振り返った。すっと瞳の底を射抜いて、体の向こう側まで見透かされてしまいそうな、こぼれそうに大きな瞳とまともにかち合って、苺火はどきりとする。女の子はしばらく俯いて、何やらもじもじとスカートの前で手を弄んでいたかと思えば、申し訳なさそうな会釈を苺火に残し、ぱっと身を翻すと、星野のあとを追ってどこかへ行ってしまった。
「ごめんね、桐島君。あいつの言うこと、気にしなくていいからね」
 苺火と忍の脇を通り抜けていくすがら、彗星の少女が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「あ、うん……」
 因縁をつけてきたのは星野なのに、どうして彼女に謝られたのかもよくわからないまま、苺火はぼんやりと、彼女の後ろ頭が曲がり角に消えるのを見送った。
 一躍脚光を浴びていた星野と彗星の少女が行ってしまうと、観衆たちもやれ解散だ、見せ物は終わったと言わんばかりに、わらわらと周囲から引き始めた。苺火の方を見ながらひそひそと何事か囁き交わしている生徒も少なくはなかったが、当の苺火はというと、星野や彗星の少女、そして新たに現れた人形の女の子に気を取られていて、そんな視線にはまるで気がついていなかった。
「助かったみたいだねー」
 そこへ、生徒たちの流れに乗ってひょっこりと、晴が戻ってきた。一体どこに行っていたのか、のんびりと、気の抜けた調子で笑っている。
「お前、どこに逃げやがったのかと思ったら、古賀を呼びにいってたのかよ」
「うん。俺たちでどうこうするより、古賀さんに来て貰った方が安全だし、何より手っ取り早いと思ったからね」
 二人のやり取りから、苺火はようやく彗星の少女の苗字を思い出すことができた。三人組のリーダー格の生徒が口走っていた〝古賀〟というのは、おそらく彼女のことだろう。どうやら〝古賀さん〟があのタイミングのよさで現れてくれたのは、晴のおかげであったらしい。無邪気な笑顔とは裏腹に、やはり晴の言動は理知的で冷静だ。忍はいっそ呆れたような、一本取られたような、何ともいえない表情を浮かべている。おかげで苺火の胸の内でも、事の重大さと深刻さが、今になってじわじわと現実味を帯びてきた。
 周囲の生徒たちから、大袈裟なくらいに恐れられていた星野。古賀さんに来て貰った方が安全だという晴の言葉。そして今朝、己の目で目の当たりにした、幽鬼のように壮絶な星野の形相。さっきは売り言葉に買い言葉でなんとなくやり返してしまったが、苺火の転入が特例だとかも、言っていた気がする。そんなことは少しも聞かされていないけれど、果たしてあれは、本当なのだろうか。
「まあ、確かに今回はいい判断だったな。桐島も、さっきはちょっと頭に血が昇っちまってたみたいだし」
 顎に手を当てて考え込む忍の表情が、事の大きさをありありと物語っているかのようで、苺火をなおのこと焦燥に駆り立てた。
「今回はってなんだよぉー」
 相変わらず間延びした口調で、晴は自分の手柄を素直に褒めて貰えずご不満そうな様子である。
「ね……ねえ! さっきの子──古賀さんって、うちのクラスの子だよね? 僕と同じ現代文係に立候補してた……」
 二人がいつもの調子を取り戻してしまう前に、苺火は急いで尋ねた。
「うん? 係までは覚えてないけど、古賀さんなら星野の幼馴染みだよ。星野をやり込められるのは彼女と、その妹だけなんだ。それに古賀さんたち以外、あいつとまともに話そうと試みる奴なんて誰もいないんじゃないかな。ま、要するに桐島君は、月舘の誇る問題児・星野夜鷹クンと、転校初日からいきなり正面切って相まみえちゃったってわけ。それも、かなりコミュニケーション取れてた方。オメデトウ! って言うべきかな?」
 不服そうなジト目で忍を睨んでいた晴が、苺火の問いかけに応じて振り向いた時には、もうケロリとしている。忍は慣れきっているようだが、その切り替えの速さに、苺火はまだ些か思考が追いつかない。これも彼の、頭の回転の速さが成せる技なのだろうか。あの緊迫した状況下での咄嗟の機転に、晴がただ元気のよさだけが取り柄のちびっ子ではないことを、苺火も身をもって実感しはじめていた。
「あれで、いい方なんだ……」
 苺火も大分ヒートアップしてしまったとはいえ、元を正せば向こうが一方的に吹っかけてきた喧嘩だ。何を言っても聞く耳を持たれず、まともなコミュニケーションを築けていたとは到底言い難い。
「ほんと、桐島はよくあいつとあれだけ渡り合えたと思うよ。俺だって古賀がいなかったら、星野に〝お前〟なんて絶対言えねえもん。あいつ、なんかおっかないしさ」
 唸るように忍が言う。星野よりずっと体格のいい忍でさえ、それほどまでにあの少年に恐れを抱くのが、苺火には不思議でならなかった。蓋を開けてみればどうということはない。どこにでもいる、ただの粋がった不良だ。苺火は普段物静かだが、さっきの柄の悪い三人組や、星野のようなタイプの人間に物怖じする方ではないのだ。くだらないことばかりにエネルギーを費やして、愚かしく、低俗な人種だとさえ感じる。
「──あのさ、星野って、何でそんなにみんなに怖がられてるのかな」
 おずおずと切り出した言葉に、忍と晴は驚いて顔を見合わせ、それから苺火を見た。
「桐島君は怖くないのか!?」
 下手に答えようものなら喰われそうな勢いで晴の顔が迫ってきたので、苺火は思わず後ずさる。晴の、他人との物理的距離がやたらめったら近いところは、もう少しどうにかならないものだろうか。
「えーっと……晴、ちょっと離れて」
「まあ、確かに桐島は、あんまり星野のこと怖がっていないみたいに見えたな。転校してきたばっかりだし、お前の目に星野がどう映ってるのか、それは俺たちにはわからん。詳しい話の前にとりあえず──、」
 苺火の心中を察した忍があいだに入って、二人をひょいと引き離した。
「俺たち、通行の邪魔だ。こんなところで立ち話も何だし、話の続きは飯を食いながらってことにしようぜ」
 そうだった。三人は食堂に向かう途中だったのだ。星野との遭遇で食欲もすっかり削がれてしまったけれど──と、晴が歓喜の雄叫びを上げながら一目散に階下へすっ飛んでいってしまったので、苺火はそれまでの物憂い気分も一気に吹き飛んで、唖然とした。晴の駆けていった先では生徒たちが、奇声を発しながら食堂まっしぐらのちびっ子に、度肝を抜かれている。まさかあれが、咄嗟の機転で古賀さんを呼びにいってくれた晴と同一人物だなんて。
「──さっきの今で、よくあんなに元気になれるもんだな、あいつ」
 隣で忍が、ぼそりと呟くのが聞こえた。
 全く、同感だった。

「桐島って意外と、喧嘩っ早いタイプ?」
 各々がテーブルに着いてしばらく経った頃、興味深そうに切り出してきたのは、忍だった。案の定、食事もろくに進まないままに、苺火は先ほどの星野との応酬を思い返していたところだった。
 コネ。鳥の会の関係者。どんなに思考を巡らせてみても、思い当たる節はない。転入するに当たって、試験だってちゃんとパスした。難癖をつけられるような謂れは何一つないはずだ。
 強いていえば、姉の蜜蜂が月舘に在学はしていたけれど、特に目立った功績もない一生徒に過ぎなかったはずだ。苺火の転入に際しても、それは蜜蜂を知る教師間で多少話題にはなったかもしれないが、そんなことは名高く歴史深い進学校において、苺火の合否には何の影響力も持たないことだろう。となると、やはり星野は目新しい転校生が気に食わず、因縁をつけたかっただけなのか。それとも本当に、何か根本的な勘違いをしているのだろうか。
 それに星野は、原則として月舘への中途転入は認められていないとも言っていた。あれは、本当だろうか。あるいはそれも、ただの星野の思い違いに過ぎないのだろうか。
 月舘の内と外とを深々と隔てる〝壁〟と〝法〟──。
 次々と浮かんでは消える疑問に悶々としていたところにいきなり声をかけられたものだから、我に返ったのと、不名誉なレッテルを貼られたくないのとで、苺火の反発は覚えず勢いづいた。
「いや、違うよ! 全然、断じて、そんなことはない!」
「お、おう。そうなのか?」
 前のめりの否定に、忍は気圧された様子だった。苺火はすぐさま、むきになってしまった自身を後悔した。
 これでは、逆効果だ。星野のような生徒と口論になってしまったことで、既に忍には血の気の多い、危ない奴だと警戒されつつあるかもしれない。せっかくできた新しい友人から、そんなふうに思われたくはなかった。
 ちなみに晴はというと、もうすっかり目の前の料理に夢中になっていたので、実質的に会話は苺火と忍、二人のあいだでのみ交わされる形となった。小柄な割に晴の食べっぷりは大したもので、すぐ隣の二人の会話が耳に届いているかどうかも疑わしかった。これだけ食べるのに、縦に小柄、横に痩せっぽちなのは、弾丸のようにあちこち飛び回っているからそっちにばかりエネルギーが行ってしまって、体の成長にまで食べた分が行き届かないのではないだろうか、と苺火は少し心配になった。
 とにかく晴に関しては、警戒されるだとかそういったことは、さほど気に病まずともよさそうだった。
 星野との口論からいくらか間も空いて、苺火はすっかり落ち着きを取り戻していた。冷静になればなるほど、どうしてあんな行動に出てしまったのかと、後悔の念ばかりが胸の内に押し寄せ、深淵な昏いとぐろを苺火の中に渦巻かせるのだった。
 確かに元はといえば向こうが吹っかけてきたことだ。苺火は右も左もわからぬうちに、どうやら名の知れた問題児であるらしいところの星野夜鷹に絡まれてしまった不運な転校生に過ぎない。
 それでも、と苺火は考える。
 苺火の性格上、あの場をもっと穏便にやり過ごすことだって、絶対にできたはずなのだ。あんなふうに喧嘩腰にならず、自らに与えられた〝不運な転校生〟というポジションをあくまでも演じきる選択肢を、苺火は迷わず選ぶべきだったのだ。
 人との摩擦はできる限り避けて通る。これまでの苺火ならば寸分の迷いもなくそうしていたに違いないのに、どうして今日に限ってあんなふうに頭に血を昇らせてしまったのか、自分でもわからなかった。殴り合いの喧嘩にでも発展していたらもっと大ごとになっていただろうし、その現場を教師にでも見つかっていたら、大切な家族や、新しい友人たちをも渦中に巻き込んでしまっていたかもしれない。幸い晴が古賀さんを呼んできてくれたからそうなる前に事なきを得たものの、あり得たかもしれない未来を思うと、背筋がうすら寒かった。
 あの時、鋭く昏い星野の瞳の奥に、一瞬閃いたマグマ。
 苺火は自らの手で、はじまったばかりの学園生活をぶち壊しにするところだったのだ。選択肢を、誤ったのだ。
「寧ろ、あんなふうに人目も忘れて誰かと言い争ったのなんて、はじめてなんだ。自分でも、さっきはどうかしてたと思う。二人にも迷惑かけちゃったよね、ごめん」
 自己嫌悪の泥が、苺火の足や肩や、体中に纏わりついて、重い。地面が緩やかな沼となって、体や目の前のテーブルごと、沼の底に沈み込んでいくような気がする。さっきまであんなに息巻いていたのがうそのように、苺火は憔悴しきっていた。
「いいってことよ!」
 口の周りに炒飯のご飯粒をつけた晴が、親指の代わりなのか、苺火の前に握り締めたスプーンをぐいと突き立ててきた。一応話は聞いていたのか、と苺火は苦笑する。晴の隣では忍が、情けなさそうな顔をして笑っていた。
「俺は何もしてないよ。いや、何もできなかった。瞬時に状況を判断して最善の動きを取れたのは、晴だけだよ」
「そんな──古賀さんと一緒に加勢してくれただけで、充分だよ」
 予想外に忍が萎れた様子を見せたので、苺火は急いで忍のフォローに回った。忍が味方についてくれて嬉しかったのも、本当のことだ。大きな体に優しい心を持つ彼にも、いろいろと苺火にはわからないコンプレックスがあるのかもしれない。
「それにさ、助けたはずの奴にいきなりあんなふうに喧嘩吹っかけられたんじゃ、いくら温厚な人間だってかっとなっちまうのも無理ないって。喧嘩慣れしてないんだったら尚更大したもんさ。最初に星野に絡んでた三人組の前でも、桐島、少しの躊躇もなく、あいつを助けに出てっただろ。いざって時には肝が座ってるんだな、桐島は。俺なんか、体ばっかりでかくて、他はてんで駄目だから、羨ましいくらいだ。そう気に病むなよ」
「そう、なのかなあ……」
 始業前、既に一度星野と遭遇していることは、まだ他の誰にも話していなかった。同じ教室に姿がなかった時点で、もうあの少年と関わることも二度とないだろうと考えたし、安穏とした学園生活を送るために、あまりにも異質で奇天烈な今朝の出来事の数々は、一刻も早く胸の奥底に封印して、蓋をしてしまいたかった。しかし、それからいくらも経たぬうちに、少年は再び苺火の前に姿を現した。
 二人には、話しておくべきだろうか。時計塔のふもとで遭遇した星野は、階段で口論になった時のような、生易しい存在ではなかったこと。
 あれは、ヒトの形をした鬼だった。だからこそ、再び星野と対峙した時、殺気立ってはいてもちゃんと人間としてそこに在った星野に、苺火は一抹の安堵を覚え、相応の態度で立ち向かうことができたのだ。結果として、それが誤ちに繋がったともいえるけれど。
 しかし、星野がその小さな全身から噴き上げていた暗澹たるマグマをどう言葉に表せばいいものか苺火にはわからず、うまく言葉にできたところでそれを二人に信じて貰える自信もなかった。結局、曖昧に言葉を濁したまま、苺火は口を噤み、押し黙るに留まった。
 沈黙を、どう受け取ったのだろうか。忍が神妙な面持ちで話し始めた。
「あいつ──星野さ、ああいう奴だから、月舘に入学した当初からたちの悪い上級生に目ェつけられて、しょっちゅう呼び出し食らったりとかしてたんだよ。でも、複数人のグループ相手でも、一人残らず返り討ちにしてたって。あいつとまともに渡り合えたのは、香西(こうざい)──ああ、さっきの柄の悪い三人組のリーダー格な。腕っ節だけが取り柄って言われてる、空手部副主将。まあとにかく、あそこのグループだけだったって。それに、常に刃物を懐に忍ばせてる、なんて噂もあるんだ。話の出どころは定かじゃないし、本当に根も葉もない噂かもしれない。だけど、火のないところに煙は立たないって言うだろ。桐島は星野のこと、あんまり怖くないみたいだけど、そういう、何しでかすかわからない奴だってことは、念頭に置いておいた方がいいと思う。お前が危険な目に遭わないためにも、な」
「運動神経、すっごくいいんだよなー。だから最初の頃は運動部からのオファーもめちゃくちゃ多かったんだけど、今じゃ怖がっちゃって、誰も声かけないよ。勿体ないよね。あいつ、仲間外れでやんのー」
「仲間外れってのは、ちょっと違うと思うけどな」
 的外れな晴の言葉に、忍は思わずといった様子で苦笑したが、苺火はもう、そんな二人のやり取りに耳を傾けてはいなかった。
 刃物、という忍の言葉と、ぎらついた双眸とが重なる。目と鼻の先で、鋭く閃く銀色の切っ先。思考の表層に血痕のようにぽつりと現れたどす黒いしみは、じわじわと滲み、その面積を広げていく。
 もしかしたら、という疑念が頭をもたげる。
 もしかしたら、時計塔のふもとで見た幽鬼のような姿こそが、他の誰にも知られてはならない、そして過去にたちの悪い上級生たちをさんざ返り討ちにしてきたという、星野の本当の姿なのではないだろうか。偶然にもその姿を見てしまった苺火を、今も彼はどこかから虎視眈々と、狙っているのではないだろうか──。
「桐島、大丈夫か? ちょっと脅かし過ぎちゃったか?」
 自らの思考に没頭してしまった苺火の顔を、心配そうな忍と、まだもぐもぐと何かを頬張っている晴が覗き込む。
「いや──大丈夫だよ」
「そうか」
 そぞろな返事に、忍はまだ心配そうな顔をしていたけれど、大丈夫、の言葉にひとまずは納得してくれたようだった。
「古賀も言ってたけどさ、星野に何か言われても、ほんと気にしなくていいと思うぜ。というかできる限り、関わらない方がいいと思う──って言っても、あいつの方から吹っかけてきたら、難しいか。ああ、俺、矛盾したこと言ってるな。すまん」
「そうそ! とにかく、気にしないのがイチバーン! あいつはいつでも、全人類が自分の敵! みたいな顔してる奴だからねー」
 全人類が自分の敵。底抜けに明るい晴の声が、何故か錆のように鼓膜にこびりついた。
 例えばもしそれが、星野の生まれついた星の下の、運命(さだめ)なのだとしたら。晴の言う通り、本当に全人類が彼の敵なのだとしたら。苺火の想像の中で、それはとても恐ろしくて、悲しくて、さみしいことであるのだった。
 今、最優先に考えるべきは自らの身の安全であるはずなのに、独りぼっちのケモノの頑なで孤独な背中ばかりが、瞼の裏の暗がりに、泡沫のように浮かんでは、また闇に溶けるようにして、消えた。
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