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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第八章 肝試し大会

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 終業式の朝は、昨夜の悪天候がうそのように快晴で、苺火はまだ日も昇りきらないうちから鹿蹄館の外に立っていた。むろん、晴のロケットを探すためである。
 結局、昨夜はロケットの行方やそのほかのいろいろなことが気になって、ほとんど眠ることが叶わなかった。いつまでもベッドの上に丸まっていても仕方がないので、窓の外が白みはじめるや否や、早々に部屋を飛び出してきてしまったのである。肝試し用のコースを示すビニールテープは、もうすっかり撤去されてしまっていたため、あの場所を探り当てられるかどうか心配だったが、それは杞憂に終わった。そこには既に、思いもかけない人物の姿があったからである。
「星野!」
「桐島、」
 もはやすっかり呼び慣れた名前を呼びながら駆け寄っていくと、地面に屈み込んでいた星野は、何か見られたくないところでも見られたかのように急いで立ち上がり、いつもの斜に構えた立ち姿を取ってみせた。しかし、泥にまみれた手とこの状況を見れば、星野がそこで何をしていたのかを察することは容易だった。
「晴のロケット……探してたの?」
 苺火が意外そうに尋ねると、触れられたくないところに触れてしまったのか、途端に星野はぎゃんぎゃんと吼え立てはじめた。
「早く目が醒めちまったからだからな! 別に! 断じて! あのちっこいののためなんかじゃねえぞ!」
「あー……はいはい。わかったよ」
 苺火は耳に指を突っ込んで、〝五月蝿い〟とジェスチャーで示してみせる。星野の照れ隠しは、ちょっぴり面倒だ。
「──お前も探しにきたのかよ」
 ひとしきり喚いてようやく少しばかり落ち着きを取り戻したのか、星野はじろりとこちらを睨んだ。
「うん、まあね。昨日はあんまり眠れなかったし、それに嵐でロケットが泥に埋もれちゃってるんじゃないかって、気になって」
「はっ、ご苦労なこったな」
 それは星野も同じだと思うのだが──と苺火は考えるが、例の如く口には出さずにおく。
「じゃあ、せっかくだし手分けして探そうか。この辺りはもう探した?」
 昨夜よりは大分視界のよくなった山道を見渡しながら、苺火は尋ねる。
「いや、まだだが」
「じゃあ星野はそっち、僕はこっちね」
「お、おう」
 てきぱきと指示を出す苺火に気圧されて、星野は暫しその場に棒立ちに取り残される。苺火はそんな星野は放ってさっさと自分の持ち場につくと、手際よく落ち葉をかきわけはじめた。星野もはっと我に返ると、急いで自分の持ち場を探しはじめた。
 やはり昨夜の嵐のせいで、地面はぬかるんでいた。ロケットが泥に埋もれてしまっていたら、見つけるのは至難の業なのではないか、と思うが、幸い晴も苺火も星野も夏休みは寮に居残り組だ。例え今日見つからずとも、探す時間はたっぷりとある。
 そこまで考えて、苺火ははたと手を止めた。
「──ねえ、星野」
「ん?」
 がさがさと落ち葉を掻き分けながら、星野は気のない返事を寄越す。
「星野はさ、晴の家族のことって、何か知ってたりする?」
 その質問には、星野は剣呑な顔つきで振り向いた。
「ああ? 俺がんなもん知るわけないだろ、一年の時だってほとんど話したことなかったんだぞ」
「いや、もしかしたらって思っただけなんだけど。やっぱり、そうだよね」
 やっぱり、という言葉が気に食わなかったのだろうか。星野は眉間のしわの数を増やすと、不機嫌そうに探索作業を再開した。
「……あいつの家族がどうかしたのか?」
 探索する手は休めぬままに、星野は問う。苺火もようやく手だけは動かしながら、答えた。
「うん……。昨日、夜眠れなくってさ、ふと気がついたんだけど……」
 苺火はそこで、僅かに言い淀む。
「忍の家族の話は聞いたことあるんだ。十三人兄弟で、忍はちょうど真ん中、上からも下からも七番目だって」
「十三人!?」
 その数にはさすがに驚いたのか、星野が素っ頓狂な声を上げる。苺火は思わず少し笑った。
「そう、僕も最初は驚いた。でさ、忍、下の弟や妹たちが、可愛くて仕方ないんだって。でも、考えてみたら晴の家族の話って、一度も聞いたことなくて」
 忍が十三人兄弟であることを、あの奇妙な夢で知った翌日、試験勉強をしていた図書館で、苺火たち三人は家族の話で盛り上がったのだ。だが、思い返してみれば不自然なほど、晴は自分の家族のことだけは決して口にしていなかったように思う。
「夏休みも寮に残るみたいだし、家庭、複雑なのかな」
 そのまま悶々と考え耽ってしまった苺火に、呆れた様子で、星野はため息をついた。
「本人が言おうとしねえことを、俺たちが今ここでどうこう考えたって仕方ねえだろ」
「それは、そうだけど」
 至極真っ当なことをスッパリと言われて、苺火はぶすっとして星野の背中を軽く睨む。わかってはいても、気になるものは気になるのだ。
「それに、話したくなったら、あいつの方から話してくれるんじゃねえの。お前ら、友達なんだろ。今はたぶん、話す必要がないんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「そうかもしれない」
 何となく、星野の言う通りかもしれないというような気がしてきて、苺火は前に向き直った。
「星野、変わったね」
「あ?」
 急に何だ、とでも言いたげに、星野が振り向くのが気配でわかった。
「出会った頃から、悪ぶってても困ってる奴はほっとけないタイプだっていうのは知ってたけど、それが、わかりやすくなった」
「……そんなんじゃねえよ」
 また、星野が前を向く。落ち葉を掻き分ける音が、がさがさと響く。
「あと、すぐに怒らなくなった」
 苺火は続ける。
「昨日さ、聞こえてたんだろ? 周りが、僕たちのことどんなふうに言ってるか。怒るかと思った。でも、お前は怒らなかった。じっと、我慢してた」
 今度は意外そうに、星野は手を止め、苺火を振り返った。
 そう、苺火は本当は、昨日自分たちを揶揄する声を、ちゃんと聞き取っていたのだ。ただ、星野に更なる刺激を与えないようにと、終始聞こえないふりを決め込んでいたのだった。
「お前は大丈夫なのか。あんなふうに言われて」
「正直、腹立つよ」
 彼らへの苛立ちをぶつけるように、苺火はがむしゃらに落ち葉を掻き分けた。
「星野がろくでもないやつだとか、僕が自殺未遂だとか、勝手なことばっかり言いやがって。僕たちのこと、何にも知らない癖に、何様だよって思ったね。ホント言うと、あいつら一人残らず、あの場でぶっ飛ばしてやりたかったよ。まあ僕は温厚キャラで通してるんで、そんな昔のお前みたいなことはしないけどね」
 矢継ぎ早に言ってのけられた苺火の言葉に、星野は堪えきれない様子で笑った。
「お前って、案外気ィ強いよな」
「まあね」
 その事実を、苺火も否定はしない。星野に合わせて、くすっと笑う。
「お前も、変わったよ」
「え、」
 苺火はびっくりして、星野を振り向いた。星野は既に、ロケットの探索作業に戻っている。
「そうやってもやもやしてること、少し話してくれるようになった。もっとも、お前はまだなんか一人で抱え込んでること、あるみたいだけどな」
 言われて、苺火は思わずぎくりとする。
「あの事故のことだってそうだ。俺だけじゃなくて、教師にも黙秘貫いてるそうじゃねえか。そんなだから護衛なんかつけられちまうんだよ」
 どうして時計塔の天辺にいたのか、どのようにしてあの大窓から落ちたのか。苺火の容態が落ち着いてから、星野にも教師たちにも問い正されたが、苺火はそのどれにも答えてはいなかった。本来であれば月舘側から罰則が下されるはずの法破りだが、自殺の可能性も鑑みられて、その処遇は未だ保留となっている。
「……ごめん」
 苺火は俯いた。星野は、ふっと短く息をついた。
「いいよ。お前が話したくなったら、聞いてやる。だからお前も、あのちっこいのにそうしてやれ」
「……うん」
「さ、探索続けようぜ。……っと、あった! これじゃね!?」
「え?」
 驚いて振り向けば、星野の手には泥にまみれているが、確かに金色のチェーンの付いたロケットが握られている。
「それだ!」
「やったー!」
 ロケットを握り締めた手を突き上げて、星野が歓声を上げる。すっかり日が昇り、青く高く晴れた空に、二人分の笑い声が響き渡った。

 流水ですすぐと、ロケットはすぐにその輝きを取り戻した。晴が言っていた通りの色形のものだ。中にも泥が入っていないか気になったが、晴のプライバシーのために洗浄は諦める。泥だらけになった顔や手も洗ってしまうと、二人はそのまま鹿蹄館の晴の部屋に直行した。
 星野が何度が乱暴に部屋のドアをノックすると、ややあって、ようやく気怠げな返事が返ってきた。晴のロケットの行方が気になってろくに眠れなかった苺火や、早朝からロケット探しに勤しんでいた星野を差し置いて、晴はぐっすりとお休みの真っ最中だったらしい。いつもお茶らけているのが、あんなにも動揺を露わにするほどに大事にしているロケットがなくなったというのに、さすが晴はこんな時でも紛うことなく晴である。
「ほれ。これで間違いないか」
 眠たげに目をこすりながらドアを開けた途端、目の前に突きつけられたそれに、晴は眠気も一瞬にして吹き飛んだ様子で、ぽかん、と大きく口を開けた。あんまりにもまぬけなその表情に、苺火は思わず星野の横で噴き出しそうになってしまったほどだった。
「……星野が見つけてくれたの?」
「桐島と一緒に探してな」
 星野はちょっと照れ臭そうに目を逸らして言う。
「見つけたのは星野だけどね」
 苺火が付け加えると、星野は〝余計なことは言わんでいい〟とでも言いたげに、恨めしげにこちらを睨んできたが、苺火は素知らぬふりを決め込んだ。
「星野、……星野ッ! ありがとお星野ぉ──!」
「うわっ! ひっつくんじゃねえ!」
 勢いよく、ひしと抱きつこうとする晴を、間一髪、星野は素早く避けたが、晴は興奮醒めやらぬ様子で、まだ星野に擦り寄ろうとしている。晴がこういう甘え方をしたがるのは、何も忍に限った話ではないらしい。
「へへっ。苺火もサンキューな!」
 ぐいぐいと星野に押しのけられるのを気にしたふうもなく、晴はニコニコと嬉しそうに笑った。
「うん」
 すっかりいつもの調子を取り戻した晴に、何だか苺火まで嬉しくなる。斯くして、晴のロケット騒動は、ひとまずその幕を下ろしたのだった。

「まさか、星野が見つけてくれるとはなあ」
 忍は、もう何度目かになるその台詞を口にした。
 あれから、晴と部屋の近い忍も外の騒ぎに気づいて起き出してきて、晴の部屋の前は軽いどんちゃん騒ぎになった。もちろん、苺火と星野の姿もあるその団欒は、他の生徒からの注目を浴びたが、そんなことも気にならないくらい、苺火は上機嫌だった。何しろ大切な友人の大切なロケットが見つかった上に、星野までもが晴のために、こんなにも動いてくれたのだ。これが嬉しくないはずがない。
 今は終業式も済み、苺火と星野と晴、居残り組で連れ立って、忍と古賀姉妹を正門まで見送っている最中である。許可なく壁を越えることは、例え見送りのためであっても厳罰の対象なのだ。
「ホント、驚きだわ。まさか夜鷹が見つけてくれちゃうなんてねえ」
 星野と親しい明日葉も、星野が率先して晴のロケット探しを手伝っていたことに関しては意外な様子で、物珍しそうに、相変わらず晴に懐かれている幼馴染みの姿を眺めている。
「意外とやるじゃん、夜鷹!」
 桜子はというと、さすがは細かいことは気にしない性分とあって、素直に幼馴染みの手柄を受け入れ、嬉しそうにしていた。
「星野、本当にありがとうなっ!」
 晴は、ロケットを大事そうに首にぶらさげ、懐にしまい込んで、何度も何度も星野にお礼を言った。
「別にそんなにありがたがることねえんだよ。俺らが好きで探してたんだから」
 星野は、そんなふうにお礼を言われることに慣れていないのか、先ほどから何とも居心地が悪そうに晴から視線を逸らし続けている。こちらも何とも星野らしいことである。
「それにしても、せっかく星野ともこうして話せるようになったのに、実家に帰らなきゃならないのはちょっと残念だな。まあ、新学期に入ったら、また宜しく頼むよ」
「──おう」
 星野はやっぱり照れ臭そうにしていたが、忍のその言葉を拒むことはしなかった。
「俺とは夏休み中も遊んでくれよなー!」
 晴がニコニコと、星野の顔を覗き込んでいる。
「ああそうか、お前は居残り組か……お前は五月蝿いからな……」
 星野がわざとらしくため息をついてみせるのに、晴はご不満そうに唇を尖らせた。
「えーっ、そんなつれないこと言うなよお! 俺、星野がロケット見つけてくれたこと、本当に感謝してるんだぜ!?」
「だからって勝手に懐かれても困る。あーあ、こんなことになるんなら協力なんかしてやるんじゃなかったな」
「ひっでえ!」
 晴が非難めいた声を上げるのにも、星野は素知らぬふりだ。
 そんな彼らのやり取りを、苺火は笑いながら見守っていた。あんなに頑なに、ケモノのように他人を拒絶していた星野が、今はこんなにも、級友たちに溶け込んでいる。それが苺火には、まるで自分のことのように嬉しかったのだ。
「苺火も、またな。晴が周りに迷惑かけないように、見ててやってくれ」
 心配性の忍はやっぱり、悪戯仔ギツネの飼い主だ。
「努力はするよ」
 元気いっぱいの晴を、自分に抑え込める気は到底せず、苺火は曖昧に苦笑した。
「お前らーっ、そんな俺がお荷物みたいに!」
 怒って忍に突進していく晴は、いつものように片手で軽くいなされてしまっている。
「夏風邪とかひくなよ」
「馬鹿は風邪ひかねえんだよ」
 苺火のかけた言葉には、忍はおどけて肩をすくめてみせた。
「それじゃあなーっ!」
 壁を越え、外の世界へ帰っていく三人を、晴はぶんぶんと大きく手を振って見送る。その、遠ざかっていく背中を、苺火は不意に大声で呼び止めたくなる。
 何故だかもう二度と、彼らに会えないような気が、苺火にはしたのだ。
「──静かになっちゃったね」
 やがて、三人の背中がもうすっかり見えなくなってしまっても、苺火はいつまでもそこに立ち尽くしていた。晴は既に、見送りに飽きて、一目散に鹿蹄館に駆け出してしまっている。だが、苺火にはどうにもその場を離れがたく思えて、未だ三人の背中が消えた森の小径を、ぼんやりと眺めているのだった。
「あのちっこいのがいるんだ、すぐにまた騒がしくなるだろ。それにこれでもう一度、じっくりと壁の内側を洗うことができる。……あの男のことも」
 最後の方は、覚えず押し殺した声となる。苺火はちらりと、小径の果てを見つめ続けている星野の横顔を窺った。
「僕が時計塔から落ちた時に星野が会ったっていう男の人だね」
「ああ、そうだ。二階堂と密会していた女と行動を共にしていた」
 苺火の時計塔からの落下事故の際、遭遇した不審な男のことを、星野は保健室で二人きりになった際に、苺火にも搔い摘んで話してあった。尤も、あの男の〝バケモノ〟発言のことは、苺火には伏せてある。星野自身、その言葉の意図を計り兼ねていたというのもあるし、何故だかその言葉は、苺火の触れてはいけない部分にじかに触れてしまう言葉のような気がしたのだ。
「その人も、鳥の会の構成員なのかな」
 そんな星野の気がかりなど知る由もなく、苺火は眉根を寄せて考え込んだふうだった。
「可能性は高いだろうな」
 もちろん、星野もその可能性はとうに視野に入れていた。ただ、あの女にしても新たに現れた男にしても、確信に至るまでの証拠を掴めずにいるのである。
「苺火ーっ! 星野ーっ! 何してんだよ、早く来いよーっ!」
 その時、遠くから鳴った気の抜けるような明るい声に、二人は揃って振り向いた。見れば、晴はもう、鹿蹄館への道と花蝶館への道とに分かれる時計塔のふもとにまで辿り着いていて、こちらに向かって小さな体で元気いっぱいに手を振っているのだった。
「ああ、今行く!」
 苺火も声を張って手を振り、それに応える。
 十二時四十二分で時を止めた時計塔、そのふもと。苺火がはじめて星野に遭遇した場所だ。あの時は、まさか星野とこんなにも近しい仲になるなんて思ってもみなかった。
「──とにかく、」
 晴の方に向かって歩を進めようとした苺火を、星野の声が踏み留めた。
「夏休みは長いようで短い。一日一日を無駄にしないように、俺たちにできる精一杯をやるんだ」
「わかったよ」
 二人は互いに頷き合うと、苺火は足早に、星野はポケットに手を突っ込んだまま悠然と、晴の待つ時計塔に向かって歩きはじめた。

「やあ、星野夜鷹君」
 鹿蹄館の自室の扉を閉めると同時に、自分を呼ぶ声があった。夜鷹はじろりと、胡散臭い笑みを浮かべて窓際に佇む青年を一瞥する。
「お前か。暫く見ないと思ったら、相変わらず神出鬼没な奴だな」
「そいつはどうも」
 青年はにこりと笑う。つり目がちの目元が、そうしているとやはり強調される。
「褒めてねえよ」
 夜鷹はため息をつき、ベッドに腰を下ろした。
 渚と会うのは、五月の末、二階堂と件の女の動向を探るようにと指示を出されて以来だった。つまり、約半月のあいだ、渚はしばしば夜鷹の前に姿を現し、おおよそ一ヶ月半ものあいだ、夜鷹の前から忽然と姿を消していたことになる。そのあいだ、渚が果たしてどこで何をしていたのか、気にならないわけではなかったが、尋ねたところでこの食えない男は、いとも容易く夜鷹の問いかけをかわしてしまうであろうことは、想像するにかたくなかった。この男が二階堂たちの動向を探るよう夜鷹に仕向けた真意も、定かではない。〝永遠の冬〟〝ワタリの子〟──二つの謎めいた言葉を、夜鷹は手中に収めただけだ。
「元気そうで何よりだよ。尤もきみは、また何か考えなくてはならない命題に直面しているようだけれど」
 夜鷹は俯いたまま、何も答えなかった。制帽に翳る渚の瞳が、じっくりと吟味するように自分の姿を上から下まで眺め回しているのを、夜鷹は感じた。
「──渚、」
「ん?」
 渚は首を傾げる。夜鷹はごくりと唾を飲む。触れてはいけない核心に、きっと今、自分は触れようとしている。
桐島苺火は一体(・・・・・・・)何者なんだ(・・・・・)?」
 一拍の、沈黙があった。
「──桐島苺火は桐島苺火だよ。それ以外に、例えようもなくね」
 それは実に明白な答えだった。
 夜鷹は渚を見上げた。その表情からはいつの間にか、人を食ったようなあの笑みは消えていて、感情の読めない、昏い瞳だけが、夜鷹をじっと見下ろしていた。
「……ああ、そうか。お前はそういう奴だったな」
 夜鷹は自嘲する。愚かしい問いかけをしてしまった、実に。
「僕はただ、ありのままの事実を述べたまでだよ」
 渚はちらとも表情を変えずに言った。
 夜鷹はそれ以上の追求は諦めて、ため息をついた。
「渚。用がないならもう下がれ。お前のこととは関係なく、俺は俺なりに調べをつけてみる。いろいろと、な」
「──承知、」
 渚は少し笑った。ひらりと身を翻して、窓の外へ姿を消す。はじめこそ、二階から躊躇なく飛び降りる渚に、夜鷹は焦らされたものだが、今ではすっかり慣れたものだ。窓から下を見下ろせば、悠然とどこぞへ歩いていく渚の姿が目に留まることだろう。
 両手を組んで、夜鷹はじっと壁の一点を見つめる。必ず、あの男女の正体を突き止めてみせる。そして〝永遠の冬〟〝ワタリの子〟〝桐島苺火はバケモノ〟──その言葉の真意も。
 そんな固い決意が、夜鷹の胸の内にはあった。それがもはや、自分の目的のためだけの思いではなくなっていることにも、今の夜鷹は気がついてはいなかった。
+注意+
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