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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第七章 足音の鳴る方へ

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 薄く瞼を開けた。
 無機質な、どこかで見た覚えのある天井が、ぼんやりと視界に映る。自分は果たしてどこで、この天井を見たのだったか。
 ──そうだ。体育の授業で怪我をした時に運ばれた、保健室だ。ぱっくりと割れた額の傷自体は縫うほどのものではなかったものの、どうにも気分が優れず、そのまま保健室のベッドで眠りこけてしまった時に、自分はこの天井を一度見ているのだ。
 ──いや、違う、ともう一人の苺火が言う。
 自分はもっと前からこの天井を知っている。正確にいうのであれば、この天井だけではない。この学園の何もかもをだ。思い返せば月舘の内と外とを隔てる壁を跨いだその瞬間から、自分には全てが懐かしく、親しみ深く思えたではないか。
 本当はもうわかっているんだろう、ともう一人の苺火は続ける。
 だって自分は(・・・・・・)見てしまったのだから(・・・・・・・・・・)
 ただ、その事実から、目を背けようとしているだけで──、
「桐島!」
 鋭く自分を呼ぶ声に、未だ微睡みのふちをたゆたっていた意識は急速に(うつつ)へと浮上した。視界の中に、一人の少年の顔が割り込んでくる。
「桐島、大丈夫か」
 時にケモノのような光を宿す双眸。それが今は、必死の色を宿して、懸命に苺火を呼んでいる。
「星野……」
 苺火は気怠さの残る体をどうにか叱咤して、星野の方に首を曲げた。ベッドの脇に置かれた丸椅子から立ち上がり、シーツの上に手を突いて、星野は苺火の顔を覗き込んでいる。
「気がついたみたいだな」
 ほっと安堵したように眉尻を下げて、気が抜けたように星野は相好を崩した。星野のそんな表情を、苺火ははじめて目の当たりにした。
「お前、時計塔の天辺から落ちたんだ。かすり傷程度の外傷だけで、あとはどこも異常ないそうだけどな。念のため、暫くここに泊まりだとよ」
「そうか、僕はあそこで……」
 再び天井に視線を戻し、額に腕をやって、苺火は鈍い思考で星野の言葉を反芻する。以前に体育の授業でぱっくりと割った額の傷は、今はもう跡形もなく消えている。
「そーだよ。ったくお前、あんなところで一人で何やってたんだよ。フツーなら死んでるぞ。それがかすり傷で済んじまうなんて、どんな悪運の持ち主だよ」
 ふと、星野の言動に違和感を感じ、苺火は眉をひそめた。
「一人……? 違う。僕はあそこで……あれは、確かに……」
「桐島?」
 星野が心配そうに、苺火の顔色を窺ってくる。
「──いや、何でもないよ」
 自分の身を案じてくれる星野を安心させるように、苺火は無理矢理笑顔を絞り出してみせた。
「そうか」
 星野は腑に落ちないのがありありと顔に浮かんでいるのが見て取れたが、苺火の体調を気遣ってか、それ以上深くは追求してこなかった。
 額に腕を当てがったまま、苺火はそっと目を閉じた。ひんやりとした心地が、熱く火照った額に心地いい。少し、熱があるのかもしれない。
「もう少し、寝てもいいかな。ちょっと、疲れちゃって。何だかすごく、眠いんだ……」
 星野は苺火の顔を覗き込んでいた体を起こすと、いつもの斜に構えた立ち姿に戻り、ため息をついた。
「ああ、寝ろ。今はとにかく、ゆっくり休め」
「ありがとう……」
 そう言うや否や、苺火は深い眠りの底に、真っ直ぐに沈んだ。

 夜鷹はなるべく音を立てないよう、静かに保健室の引き戸を閉めた。
 廊下には、既に古賀姉妹が待ち構えている。
「桐島君、大丈夫だった?」
 すぐさま明日葉が、心配そうに問うてくる。
「ああ、問題ない。疲れているみたいですぐにまた眠っちまったが、本当に何ともなさそうだった」
「そっか。よかった……」
 そう言って息をつく明日葉は、本当に心の底から安堵しているように見える。
「──それで、さっきの話、本当なんだろうな」
 星野は急に剣呑な表情になると、声をひそめて、双子にそう囁きかけた。明日葉は俄かに表情を引き締めると、こくりと頷いた。
「うん。はじめて会った時から、あたしも桜子もずっとそう感じているんだから、間違いないよ」
 明日葉は同意を求めるように桜子に視線を流し、夜鷹も念を押すように、暗黙の内に彼女に発言を求めた。腕組みをし、壁に背中を預けたまま押し黙っていた桜子は、視線を伏せたまま、静かにこう宣告した。
「いっちーの中には、たくさんいる(・・・・・・)

 香西殺害事件のほとぼりは、生徒たちの中で急速に収束しつつあった。学園には未だ警察の出入りが絶えず、香西の死は苺火の中で、まだ記憶に生々しい。しかし、多くの生徒たちにとって、それはすぐに日常の一部となった。
 そもそも月舘自体が、些か常識外れの場所であるのだ。月舘の生徒たちはあらゆる事象に対して、無意識下で順応性が高い。今更多少警察の姿が目につくようになったところで、さして大きな問題にはならなかった。寧ろ、学園でも随一の乱暴者の香西が死んで、その取り巻き二人も以来すっかりおとなしくなってしまったことで、生徒たちは以前よりも平穏無事な生活を送れているといってもよいほどだった。
 そうしてまた、忍と晴との関係も、時計塔からの落下事故をきっかけに、苺火の元に舞い戻ってきていた。忍と晴は足繁く、保健室での生活を余儀なくされる苺火の見舞いに来てくれた。離れて過ごした一ヶ月などまるでなかったかのように、苺火は自然と二人と打ち解けることができた。授業を受けることができないあいだの勉強は、忍や晴と一緒に保健室でノートを写しながら頭に叩き込んだ。
 月舘は三学期制の学園である。日々は過ぎ、一学期の期末考査が近づいてきていた。苺火の保健室生活は、期末考査を目前に、終わることが決まった。
「苺火、またお見舞いにきたぞー! ……ってうわ! 星野までいやがる!」
 元気いっぱいに飛び込んできたちびっ子は、ベッドの傍らの丸椅子に星野の姿があるのを見ると、あからさまに嫌そうに顔をしかめた。一方の星野はというと、こちらも〝人の顔見て嫌そうな顔すんじゃねえよ……〟と内心でぼやいているのがありありと顔に出ているのだが、当の本人はそんなことにはまるで気がついていない。
 意外なことに星野も、しばしば苺火の見舞いに来てくれたため、必然的に忍と晴とも鉢合わせることが多くなり、双方大変に不本意なことではあっただろうが、以前よりも確実にその距離は縮まっていた。あれほど星野を恐れていた晴も、今では星野に遠慮なくこんな軽口を叩く。忍にしても、星野に何気ない言葉をかける機会が増えた。
「苺火。調子、どうだ?」
 互いに嫌そうな顔をしている星野と晴はさておき、忍は真っ先に苺火の身を案じてきた。忍と晴がここで星野と鉢合わせる時は、大体いつもこんな感じだ。
「ああ、うん。そもそも怪我なんてかすり傷だけだし、全然大したことなかったんだ。ここでの生活も、期末考査の前には終わることになったよ」
 その言葉に、忍の表情が目に見えて明るくなった。
「なんだ、そうなのか。じゃあ、肝試し大会にも参加できそうだな」
「肝試し大会?」
 何のことかと不思議に思って首を傾げると、もう星野のことなどどうでもよくなったのか、晴がぱっと顔を輝かせてベッドに手を突き身を乗り出してきた。──近い。
「そ! 夏の恒例行事なんだ。期末のあと、全校生徒で壁の内側全域を使って行われる、壮大な肝試し大会!」
「へえ、楽しそうだね」
 頷きながら、如何にもオカルトマニアの晴が好きそうなイベントだと、苺火は笑った。
「それが終わったら、苺火とも暫くお別れだな」
 忍が、ほんの少しのさみしさを滲ませて笑う。
「ああ……そうだね」
 そうなのだ。諸々の出来事が重なってすっかり忘れていたが、じきに夏休み。それすなわち、級友たちとのつかの間の別れを意味する。ちなみに苺火はというと、星野と話し合って、引き続き月舘の内情を探るために夏休み中も鹿蹄館に残ることを既に決めていた。
 しんみりとする二人をよそに、晴だけがお気楽そうにケラケラと笑った。
「そーんなさみしそうな顔すんなよっ! 休みが明けたらまたすぐに会えるんだからさ」
「お前は寮に残る組だろ」
 そう、意外なことに晴も、夏休みは実家に帰らず、月舘に残るというのである。晴も当然ながら他の多くの生徒たちと同様、帰省するものだとばかり思っていた苺火は、はじめてそう告げられた時には驚いたものだった。何しろ賑やかなのを好む晴のことだから、夏休み中はほとんどの生徒が帰省し、がらんどうになるという学び舎から、てっきりまっしぐらに撤退するものだとばかり思っていたのだ。
「んじゃ、桐島。俺はもう行くから」
 親しげな三人のやり取りにそろそろ居心地が悪くなってきたのか、星野がいそいそと席を立った。
「あ、うん」
 苺火はぼんやりと、その背中を見送る。
「あ、そうだ、星野」
 ふと、忍が思いついたように声をかけた。
「ん?」
 その背中は、今日は忍を拒むことなく、足を止め、振り返る。
「よかったらお前も肝試し大会、どうだ? 去年はサボリだったろ」
 その言葉に、星野が目に見えて狼狽えるのがわかった。
「いや、俺はそういうのは……」
「そーだぞ星野! お前もたまにはちゃんとみんなといっしょにガッコーギョージに参加しろっ!」
 ここぞとばかりに晴がやんやと忍に加勢する。
「は? いや、だから、」
 珍しく困惑する星野が新鮮で、苺火もニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「それいいね。お前も来なよ、星野」
「桐島……」
 苺火の駄目押しに、とうとう星野が観念するのがわかった。
 斯くして、三人の賑わいの中に半ば強制的に星野も取り込まれ、星野は慣れない団欒の中で実に居心地が悪そうにしながら、その日の放課後を苺火たちと過ごすことになったのだった。
 苺火は予定通り、期末考査を前にして保健室生活から解放され、無事に教室で試験を受けることが叶った。きっちりと、折り目正しく整理された晴のノートのおかげで、ブランクなどなかったかのようにつつがなく試験をこなした苺火とは裏腹に、忍はやはり生気を失い短髪の(こうべ)を垂れていたが、それでもやはり試験後の肝試し大会が楽しみなのか、中間考査の時よりもその回復は早かった。そうしていよいよ、肝試し大会の日は訪れた。
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