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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第七章 足音の鳴る方へ

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「桐島君、最近また何か一人で悩んでることがあるでしょう」
 ある日、いつものように明日葉と二人連れ立って、現代文のプリントを取りに職員室に向かっていると、突然明日葉が腰に手を当てて眉間にしわを寄せ、そんなことを言い出した。
「えっ、……そんなことないよ」
 一人では、と、内心で苺火はこっそり付け加える。何しろ今の苺火には、花魚子という心強い味方がいるのだ。
「ていうか、〝また〟って……僕、そんなによく悩んでる?」
「うん、悩んでる」
 返事は即座に返ってきて、苺火は苦笑する。確かに月舘に転校してきてから、苺火は何かに振り回されていなかった時というのがなかった気がする。女の子には何もかも、お見通しだというわけか。
「また夜鷹に何かされた? あたしと桜子でぶちのめしてあげようか?」
「大丈夫、」
 物騒な言葉に、苺火は急いで首を横に振った。
「別に星野に何かされたわけじゃないんだ。だから、大丈夫」
「そう? なら、いいんだけど」
 明日葉はまだ心配そうな顔をしていたが、結局は苺火の言葉を信じることにしたらしい。まだ眉間にしわを残してはいたが、そのまま押し黙り、前を向いた。
 そう、別段星野に何かされたとか、そういうわけではないのだ。ただ、何となく避けられているような気がする、それだけのことで。
「明日葉ちゃんは優しいんだね」
 ふと、思いついて、ぽつんと苺火は呟いた。
 明日葉にとってそれは本当に思いも寄らない言葉だった様子で、焦茶色の瞳を大きく見開き、まじまじと苺火を見た。
「優しい? あたしが?」
「うん。明日葉ちゃんは優しい」
 明日葉は暫く呆然としていたが、やがて我に返るとほろ苦く笑った。
「あたしは優しくなんかないよ。ただお節介なだけ。それで人様に鬱陶しがられちゃうことなんて、しょっちゅうだし」
 わざとおどけて言ってみせる明日葉が痛ましくて、
「でも、僕は嬉しかったよ」
 一生懸命苺火は言った。
 苺火が思い返していたのは、星野との口論の時に明日葉に救われたことや、星野に呼び出された苺火の身を案じてあとを追ってきてくれた時のことももちろんあったが、それだけではなかった。
 あの、奇妙な夢のことだ。体育の授業で怪我を負った保健室で見た、まるで自分が桜子その人になってしまったかのような、夢。
 あの時、桜子の中に渦巻いていたものは、ぐしゃぐしゃの、どす黒い感情ばかりで、夢の中では苺火もその感情にすっかり飲み込まれていた。しかし、夢から醒めた今となっては思うのだ。明日葉は、きっと誰よりも片割れのことを思って、雨の中をずぶ濡れになってまで、桜子を追いかけてきてくれたのだと。
「──あたしのこと優しいなんて言ってくれたの、桐島君がはじめてだよ」
 そう言って笑う明日葉は、笑っているのに、今にも泣き出しそうに見えた。
「そんな……」
 苺火は言い淀む。きっと心で泣いている女の子に、何と声をかけたらいいのかわからなかったのだ。人前で涙を見せようとしない、そんな明日葉の強がりは、どこか蜜蜂にも似ていて、苺火の胸を打ち震わせた。
 明日葉はふと立ち止まり、体ごと苺火に向き直った。つられて苺火も、足を止める。長い長い廊下の真ん中で、二人は向かい合う。
「あなたにどう接したらいいのか、ずっとわからなかった。桜子に聞いたでしょう、私たちが桐島君に興味を抱いたのは、桐島君が月舘の法を搔い潜ってやってきた闖入者だから、ただそれだけの理由じゃないって。本当のことを言えばね、桐島君、あたしはあなたのことが少し、怖かったの。だってあなたはあまりにも、異質(・・)だったから」
「──うん」
 木々のざわめきやメジロのさえずりに自身の存在を責め立てられた、あの日。自分自身への、ある一つの猜疑。
「だけどあたし、思うわ。ううん、たった今、思ったの。あたし、桐島君を信じたい。あたしのこと優しいって言ってくれた桐島君を。こんなこと、桜子に言ったら、だからお姉ちゃんは甘いんだって、笑われちゃうかもしれないね。──それでも、」
 明日葉の手がそっと伸びてきて、苺火の手を包む。
 未来の警察官の手。小さくて、華奢な、ごくありふれた女の子の手だ。
「どうか負けないで、桐島君。これから先あなたの身に、どんな過酷な運命が降りかかろうとも。そして、どうか、夜鷹を──桐島君?」
 明日葉の言葉を、最後まで聞くことは叶わなかった。
 ぐらりと、視界が傾ぐ。急速に、目の前が暗くなる。底の見えないブラックホールに意識を引きずり込まれるような、そんな感覚。
「桐島君!」
 何が起こったのか、理解することができなかった。
 ただ、次第に遠のいていく明日葉の声を、薄れゆく意識の片隅に聞いていた。



 ABCDEFG──、
 幼い頃、パパがあたしたち(・・・・・)にくれた一台の古びたラジオ。小さなあたしたちにそれはとても大きくて重たかったけど、壊れかけのスピーカーから流れる様々な音は、あたしたち二人を魅了した。
 HIJKLMN──、
 あたしの歌えないアルファベットの歌を、桜子は聴いたそのままにそらんじて口ずさんだ。警察官としての才能だけじゃない。桜子は天才だった。だけどそのことで、あたしが妹を羨んだり妬んだりしたことは一度もない。あたしに足りないその分だけ、あたしは精一杯努力をした。桜子の歌声に、あたしは惜しみない拍手喝采を送った。
 OPQRSTU──、
〝あたしはえいごがだいすきよ〟
 ひらり、揃いのワンピースの裾を翻して優雅に一礼して見せた桜子は、そう言って屈託なく笑った。
〝だってあたしとどこかよその遠い国を、こんなにもつなげてくれるんだもの〟
 ある日あたしは桜子に尋ねた。
〝さくらこ、大きくなったら何になりたい? およめさん?〟
〝ううん。あたし、えいごをしゃべる人になりたいな〟
〝えいごを?〟
〝うん。そうしてあたしたちの国のことを、よその国の人に教えてあげるの〟
〝なれるよ、きっと。さくらこなら〟
〝なれるといいな、本当に〟
「それはだめだ」
 ──壊れた、ラジオ。
「桜子、お前には警察官としての才覚がある。お前にはパパのあとを継いで貰う」
 粉々に打ち砕かれた、夢。
 桜子はただ、自分にできることを言われるがままにこなしていただけに過ぎなかったのだ。結果としてそれが、彼女自身の懐に、不幸を招き込んだわけだけれど。
「──待って!」
 雨にずぶ濡れた背中を必死に追いかけた。
 追いついて、何をどうする、という具体的な展望があるわけではなかったけれど、今、桜子を一人ぼっちにさせてはいけないと思った。
「ねえ、帰ろう。帰って、パパにもう一回ちゃんとお願いしようよ。そうしたらパパだって、ちゃんとわかってくれるはずだよ。パパの意志ならあたしが継ぐから、心配しないで」
 わかっている。本当はわかっている。そんな甘えたことを聞き入れてくれるほど、パパは生易しい人じゃないって。
「大丈夫よ、あたし一人でも頑張るから──、」
「何を寝惚けたことを言っているの?」
 ──ほら、やっぱり。
「いつもいつもさあ、余計なお世話なんだよ。うざったいなあ」
 吐き捨てられた、言葉。
「それでももし、どうしてもそっちが引かないっていうんなら、こういうことになるよ──お姉ちゃん」
 桜子の手にはいつの間にか、ホルダーに収納されていたはずの特殊警棒が握られ、一縷の迷いも狂いもなく、あたしに向かって突きつけられている。
「──桜子」
 あたしは絶望する。こんなにも桜子を追い詰めてしまったことに。桜子の夢が完膚なきまでに打ち砕かれてしまったという事実に。
 頬を打つ雨が、冷たい。
〝おねえちゃんは?〟
〝え?〟
〝しょうらいのゆめ。おねえちゃんは何になりたいの?〟
〝あたし? ……あのね、だれにもないしょだよ。さくらこにだけ教えてあげる。あたしがなりたいのはね──よたかのおよめさん〟
 壊れたラジオ。途切れたアルファベットの歌。
 あたしの夢だけ叶えることはできないと思った。だからあたしはあたしの想いを、永久に封じた。



 ──加速している。
 そう、苺火は思う。夢と夢との狭間はどんどん狭まって、まるで苺火を急かすかのようだ。
 ──一体、何に向かって?
 どうして月舘に来てから、こうも似たような構図の夢ばかりを見るのだろう?
 いくら考えても答えは出ない。

 気がつくと、時計塔の前に立っていた。
 燦々と目映い午後の陽射しが、薔薇の木立の狭間から苺火を照らし出している。人を惑わせて止まない、咽せ返るような芳香が、辺り一面に充満している。
 これが現実なのか、はたまた夢か幻か、判断がつかなかった。
 苺火はぼんやりと、淡い色合いで統一された薔薇園を見渡し、それから目の前にある時計塔の正面ドアを見つめた。古びた木の扉。レバー式の真鍮ノブ。何かに突き動かされるように、ノブに向かって手を伸ばす。古い蝶番が軋みを上げる。思いもかけない軽さで、ドアは苺火を中へと導き入れる。
 講堂は清浄な静けさを保っている。高い場所に位置する窓から差し込むささやかな陽射しは、まるで異国の聖堂のような神秘的な面影を講堂に添えている。コツリ、コツリと踵が床を打つ音が谺し、苺火は講堂の中に数歩足を踏み入れる。背後でドアが、ゆっくりと閉まる。
 カンカンカンカンカン──。
 その時、不意に苺火の頭上で靴音が鳴った。
「誰?」
 苺火ははっと夢から醒めたような心地になり、音のした方を振り仰ぐ。音はそう遠くない。入り口のすぐ脇の、上階への螺旋階段からだ。見上げた先には誰もいない。ただ、螺旋階段を閉ざしていたはずの鉄格子の門だけが、そこに誰かがいたことを示すかのように微かに揺れている。
 苺火は猛然と、鉄格子の門をくぐり、螺旋階段を上りはじめた。
 カンカンカンカンカン──。
 苺火の少し先で、また音が鳴る。
「誰かいるの?」
 返事はない。
 螺旋階段はぐるぐると上階へと続く。規則的に、吹きさらしの小窓が現れる。音は苺火を惑わすように、苺火が耳を澄ませると止み、また階段を上りはじめると鳴る。視界の端を、白い服の裾を悪戯に靡かせて、すらりと細い足がよぎる。
五月(さつき)ちゃん?」
 咄嗟に思い当たった名前を、苺火は呼ぶ。
「ねえ、五月ちゃんなの?」
 ──返事はない。
 息が上がってきていた。何しろこの螺旋階段はとても急なのだ。それを、時計塔の天辺に向かって一気に駆け上がろうというのだから、元来運動神経のよくない苺火の体力が限界を迎えるのも時間の問題といえた。次第に足を止める頻度が高まってきていた。苺火の先を行く靴音は、苺火を導くように鳴っては止み、また再び鳴っては止んだ。靴音の主は、疲れというものを知らないように思えた。
 苺火は転校初日、月明かりの下を、白銀に光り輝くユニコーンに導かれたことを思い出していた。木々のあいだにしきりに見え隠れはしていたが、苺火が決して見失うことのないよう配慮してくれた、あの優しい月の眷属。今、苺火の先を行く靴音は、まるで真夜中の森のユニコーンと同じだ。慈愛に満ちていながら、気紛れな冷たさをも併せ持っている。
 苺火と靴音の主との追いかけっこが、どれほど続いた頃だったろうか。突如として階段が途切れ、苺火は息を切らしながらどうにか階段を上りきった。
 そこはこぢんまりとした部屋で、巨大な時計の制御室のようだった。懐中時計の中のからくりを、そのまま大きくしたような歯車や機械が、部屋の面積のほとんどを占めている。吹きさらしの窓が、その部屋だけは空に向かって大きく口を開けているため、広さの割に閉塞感はない。
 苺火は注意深く辺りを見渡しながら、部屋の中に足を踏み出した。ひと通り物陰を覗き込み、これ以上、上に行く設備もないことも確かめて、狐につままれたような気分になった。
 そこには、誰の姿もなかったのだ。
 さっき確かに見たはずの、華奢な足、軽やかな靴音。その主は、果たしてどこに行ってしまったのだろう?
 ふと、苺火は吹きさらしの窓に目を留めた。外はもちろん、時計塔の遥か天辺、一歩間違えれば地上へと真っ逆さまだ。そら恐ろしくて近づいてすらいなかったのだが、あとこの小部屋で探していない場所といえばそれくらいしかなかった。
 苺火はおそるおそる、広く明るい窓辺へと近づいた。まさか靴音の主が、時計塔の外壁に張り付いているわけでもあるまいが──と、注意深く窓から身を乗り出した。
 空は青々と高く、高所ではこの日も風が吹き荒んでいた。時計塔の天辺であるこの場所からは、翠緑の丘陵地帯を、西棟の屋上から見るのよりももっと広々と見渡すことができる。見下ろした薔薇園は、蜜蜂の腕を掴んだと思ったら、その先に小鳥の少女──雪見五月がいた、あの奇妙な夢とそっくりそのまま同じだった。外壁にも当然ながら靴音の主がいないことを確認し、その高さに改めて身震いしながら体を引っ込めようとしたその刹那、
 ──背中に激しい、衝撃があった。
 事態を飲み込んだ時には既に、体躯の全ては宙空に投げ出されたあとだった。
 藁をも掴む思いでもがきながら、それでもどうにか体を折り曲げ、視界の隅に先ほどまで己の体躯があった窓を捕らえた。
 苺火を見下ろす、昏く冷淡な眼差しが、そこにあった。

 同時刻。星野夜鷹は放課後の教室から時計塔を何とはなしに眺め、思い耽っていた。
 当然ながら、あの女の言ったことを馬鹿正直に聞き入れるつもりなどさらさらない。次はどういった手段に出るかを、思案していたのである。
 しかし、実際に拳銃を目前に突きつけられるという体験をしたことで、明らかに夜鷹の判断は鈍っていた。桐島とも、自分の〝事情〟を打ち明けたあの日を最後に、接触を避けている。自分が明確な決断を下すまでに、万が一にでも桐島に女の魔の手が伸びることを回避するためだ。向こうからすれば何とも釈然としない話だろうが、これは致し方ない。
 問題は、これから自分がどう動くか、そして桐島とこれからも協力関係を結んでいてもいいのか、ということだった。
 渚を頼ってみようか、という考えが、頭の片隅をよぎる。
 渚とは、香西が殺されたあの日から、幾度か接触を図っていた。渚は素性の知れない青年だが、あれで信頼は置ける人間だ。心臓に誓うと言ったあの日の渚の言葉が内包していた真摯な響きを、夜鷹は柄にもなく信じきっていた。時計塔に再び忍び込んで〝砂貴子〟と名乗る女と二階堂の会話を盗み聞きするよう仕向けたのも、何を隠そう渚の差し金である。渚は、どうして彼がそんなことを知っているのかと不思議に思うようなことを、いくつも知っていた。夜鷹が彼を頼りたいと思うと、どこからともなく姿を現した。
 そんなふうに、様々なことに思いを馳せながら時計塔を眺めていると、ふと、視界の隅を、何かが横切ったような気がした。何だろうかと、不審に思って目を凝らす。そして今度こそ、夜鷹の洗練された動体視力は、その姿をはっきりと捕らえた。
「──あの馬鹿、何やってんだ!」
 そう言い放つが否か、けたたましい音を立てて椅子から立ち上がる。周囲の生徒たちがびくっとして夜鷹の方を見るが、そんなことも今の彼は意にも介さない。
「ちょっと、夜鷹!?」
 背後で桜子の呼ぶ声が聞こえたが、無視だ。夜鷹は教室を飛び出し、時計塔に向かって一目散に駆け出した。
 時計塔の外壁、縦一列に、規則正しく並ぶ吹きさらしの小窓。その一つを上階へと向かって駆けていったのは、間違いなく自分の協力者、桐島苺火の姿だった。地下室の雪見五月ばかり気にかけていた彼が、どうして急に時計塔の上階になど足を踏み入れたのかも疑問だったが、何だか様子がおかしかったような気もする。そう、まるで何かを、追いかけているかのような──。
 兎にも角にも、引っ捕まえて問いただしてやらないことには自分の気が済まないと、ようやく時計塔のふもとまで辿り着いた夜鷹は、その天辺を見上げて、絶句した。
 そこにあったのは、今しも巨大な円盤の上の大窓から落下せんとする、桐島苺火の姿だったのである。
 宙空に、体躯の全てを放り出された桐島が、何か捕まるところを探すようにもがくのが、夜鷹の目にはスローモーションのように映った。ぐにゃりと体を捻り、たった今まで己の体があった窓を顧みる桐島は、驚愕に目を見張っているようにも見えた。
 あとはもう、呆気ないほど一瞬の出来事だった。
 桐島の体は重力に従って、地上に向かって直線を描き、真っ逆さまに落下した。
「おい、まじかよ……」
 呆然とぼやきながらも、奇妙な冷静さと正確さで、体だけは動いていた。柊木犀の抜け道に向かって、夜鷹の足は一縷の迷いなく駆けた。
 あれだけの高さから地面に叩き付けられたはずなのに、時計塔は不気味なまでの静けさを湛えていた。ただ、桐島が落下したと思しき地点から、どす黒い黒煙がもうもうと噴き出していたが、それが果たして何であるのかを、考える余裕は今の夜鷹にはなかった。
 素早く柊木犀の抜け道をくぐり抜けた。薔薇の木立を掻き分けて奥へと進んだ。視界が拓けたその先に、一人の男が佇んでいた。まるで夜鷹がそこから現れることをあらかじめわかっていたかのように、男は体をこちらに向けていた。
 真っ白な、派手なスーツを着込んでいる。胸元から、真紅のハンケチーフが覗いている。その腕にぐったりと抱えられているのは、時計塔の天辺から落下したはずの桐島だった。
「桐島!」
 夜鷹は蒼褪めて、急いで男に駆け寄った。
 夜鷹は驚いた。あれだけの高さから落ちていながら、桐島の体には目立った外傷もなく、安らかな寝顔で男に抱かれていたからだ。八年前、奇跡的に一命を取り留めたという、あの雪見五月のように。
「大丈夫。意識は失っているけど、命に別状はないよ」
 男はにこりと笑った。全体的に色素が薄く、男におそらくは異国の血が混ざっているであろうことに、夜鷹は今更のように気がついた。夜鷹の知る限り、壁の内側では見たことのない顔だ。その、涼しげな目元が、誰かに似ているような気がした。
「こいつを助けてくれたのか」
「うん、まあ、そんなところかな。その子は私にとってちょっと大事な子なんだ。死なれると困るんだよねえ、いろいろと」
 そう言って、男はまた笑う。
 笑顔は絶やさないまま、男は丁寧に、苺火の体を夜鷹の傍の、柔らかな草むらの上に横たえた。
「──しかし、」
 そしてにこやかに、男は言った。
「あの高さから落ちて死なないなんて、さすがはバケモノ(・・・・)だよねえ」
 夜鷹は俄かに顔色を変えた。
「──今、なんつった?」
「あれ? きみ、そんなにその子と一緒にいるのに知らなかったの?」
 男は心底不思議そうな顔をした。
 まるで何か穢れたものにでも触れたかのように手を(はた)いて立ち上がると、男はぞんざいに桐島を見下げ、ぐったりと横たわる彼をモノのように指差した。
「その子は、バケモノだよ?」
「ふざけんな……」
 握り締めた拳が、怒りに震えた。
 桐島が、バケモノだって?
 見ず知らずの少女のために、血相を変えて自分に食ってかかってきた。おっとりとしたところはどこか花魚子にも似ていて、こいつになら大切な妹を任せてもいいと思った。おとなしそうな外見の割に、頑固で肝の据わった性分を、近頃は好ましくも思っていた。
 その桐島が、どうしてこんな得体の知れない男にバケモノ呼ばわりされなくてはならない?
 男は無邪気に、ケタケタと笑った。
「やだなあ、ふざけてなんかないよぉ。その子は人を喰らって成長するバケモノ。人喰い鬼と呼んでもいいかもね。生まれながらにして、ヒトじゃなくなることが決まってたの。ホント、かわいそうだよねえ」
「てめえいい加減にっ……!」
 とうとうぶち切れた夜鷹が男に掴みかかろうとしたまさにその瞬間、
「いい加減にするのはあなたの方よ」
 はっとして声の鳴った方を見れば、いつの間に、どこから現れたのか、覚えのある姿がそこにあった。
 きっちりと巻かれたマリーゴールドの髪、つり目がちのきつい目元。
 先日夜鷹に銃を突きつけてきた、あの女だ。その彼女が、夜鷹と男のあいだに割って入り、冷ややかに夜鷹を見下ろしている。
「あんたは……」
 女の手には、先日夜鷹に突きつけられた拳銃が、この日も構えられていた。その銃口は今でこそ夜鷹を捕らえていないが、少しでも不審な動きがあれば即座に夜鷹に照準を定めることであろうことを、想像するのは容易かった。夜鷹は悔しさに歯嚙みした。
「ただでさえあなたは知りすぎているのよ? 身の程をわきまえた言動をして欲しいものだわ」
「さっすがぁ! お手柄だよ砂貴子ちゃん!」
 男の声だけが奇妙な甲高さで響き、ぱちぱちと一人女に拍手を送った。
「ちゃん付けはやめてちょうだい」
 女の表情は、ぴくりとも動かない。
「ゴメンゴメン! でもホント、お手柄。今のはちょっと、その子殺しちゃうところだったからさあ。貴重な人材を、一人失わずに済んだよ。私、キレやすいみたいだから」
 その言葉に、男の方も何か凶器を忍ばせているのかと、ぎょっとして視線を巡らせるも、そんな気配はない。男はどこからどう見ても手ぶらで、しかも悠然としている。
「そうか……あんたらグルかよ……」
 夜鷹は懐から、素早く折り畳み式の小型ナイフを取り出すと、その切っ先を女に向かって突きつけた。女の瞳が、面白いものを見るかのように揺れるのがわかった。
「あら、ちょっと見ないあいだに少しは逞しくなったみたいじゃないの、坊や。それ、このあいだも忍ばせてはいたんでしょう? もっとも前回は、ビビっちゃって出す隙もなかったようだけど」
「まあな。生憎、実践経験はないもんで」
 実際、それはその通りで、夜鷹は確かに小型ナイフを常時携帯はしていたが、人に向けるのはこれがはじめてのことだった。自分が他の生徒たちに、そんな噂をされていることも知ってはいたが、それはほんの偶然、うそから出た真だったというわけである。
「ふうん。その口の効き方、ド素人にしては大した度胸ね。心意気だけは誉めてあげるわ。でもね、坊や。人に獲物を向けるなら、自分も殺される覚悟を持たなくちゃならないのよ」
「あんたもな」
 女の手にした拳銃に目をやって、夜鷹は口角を無理矢理に持ち上げる。
「──ホント、口だけは達者」
 次の瞬間、咄嗟に何が起きたのかを理解することは叶わなかった。体がどさりと、草むらの上にくずおれる。痛みはあとから徐々に、腹の奥からせり上がってきた。女に右脇腹を、情け容赦のない力で蹴り上げられたのだ。
「ぐっ……!」
 意図せず呻き声が洩れる。立ち上がらなければ、と思うのに、体がいうことを聞かない。自分の命運もとうとう尽きたかと思われた、その時だった。
「夜鷹!」
 彗星のような一陣の声とともに、鋭い矢が夜鷹の頬のすぐ脇を横切る。
「そりゃ!」
 続いて鈍器がヒュッと空を切る音と共に、何者かが男の前に躍り出る。
「……!」
「おっと」
 女は素早い身のこなしで数歩後ずさって矢を避け、男は余裕の態度で軽く身を引いた。
 明日葉と、桜子だった。明日葉はアーチェリーを、桜子は特殊警棒を、それぞれ構えている。
「明日葉、桜子……どうして」
 息を切らしながら夜鷹の視線が二人を順々に捕らえ、男は楽しくて仕方がないとでもいうふうに、目を輝かせた。
「おやおや、新しい味方の登場かい?」
「構うことないわ。行きましょ」
 女だけが拳銃を構えたまま動揺する素振りもなく、冷静な判断を下した。
 ナイフとアーチェリーと特殊警棒。確かに数は増えたが、三人寄ってたかっても拳銃に適う相手ではないのは明らかだった。
「トドメ差しとく?」
 未だ地べたに這いつくばったままの夜鷹を顎でしゃくって、男が女に問う。三人の子供たちのあいだに、一瞬緊張が走る。
「馬鹿。そいつの利用価値にはさっき言及したばかりでしょ?」
 しかし、整った眉を不快そうにひそめた女のひと言によって、すぐにその緊張はほどかれた。
「あっ、そっか。危ない危ない。ホント、砂貴子は頭がよくて助かるよ」
「貴方がすぐにカッとなり過ぎなのよ」
「ま、とにかく!」
 男はそんな物騒なやり取りなどなかったかのように、実に朗らかににこりと笑った。
「その子がどうにかなっちゃ困るって点で、私たちの利害は一致しているわけだ。お友達なんでしょ、そんなバケモノでも。せいぜい危ないことしないように、きみが見張っててあげてよね」
 男と女は連れ立ってどこぞへと去っていく。必死に抵抗する三人の子供たちなどまるで意中にないかのように、男はスーツの裾を、女はマリーゴールドの髪を靡かせて。
「待……て……ッ、」
 女の膝蹴りをもろに食らった脇腹をようやくいなした夜鷹が、立ち上がって男女のあとを追おうとするのに、背後から明日葉の鋭い一喝が飛んだ。
「夜鷹! 悔しいのはわかるけど、深追いは危険だわ。相手は本物の拳銃を持っているのよ」
「お姉ちゃんの言う通りだね。ここはひとまず、黙って身を引くしかないよ」
 あとを引き継いで、桜子が言う。双子がこのタイミングのよさで現れてくれたのは、おそらくは教室を飛び出していった夜鷹を目撃した桜子が、明日葉に声をかけて、一緒に駆けつけてくれたのだろう。
「クソッ……!」
 立ち上がりかけていた夜鷹は再び地面に膝を突き、悔しげに地面に拳を打ち付けた。
 派手なスーツの、見知らぬ男。新しい手がかりを掴む、チャンスだったのだ。それをみすみす、逃してしまった。自分の至らなさに、吐き気がした。
「それより、夜鷹……」
 夜鷹に駆け寄り、身を起こすのを手伝いながら、蒼褪めた顔で明日葉が言った。
「あの女の人、どこかで見覚えはない?」
 夜鷹は俄かに苛立って、明日葉を見やった。
「あの女? 何度も見てるよ、二階堂と一緒に陰でコソコソと……、」
「違う、そうじゃない。もっと昔だよ」
 そう言う桜子の表情が、強張っている。
「──どういうことだ」
 夜鷹は釈然としない顔つきで、双子を交互に見交わした。
「夜鷹も一度会ってる──あの人は、」
 明日葉の喉がこくんと動き、唾を飲んだ。
「パパが優秀な部下って言ってたあの刑事さんだよ」
 夜鷹は、大きく目を剥いた。
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