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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第六章 生贄の羊

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「俺が月舘に入学したのはほかでもない、親父を連れ戻すためだった。月舘に入学した当初、俺はまだ親父が月舘の内部に潜んでいると考えていた。他の教員や生徒同様、鳥の会の構成員は、壁の内側での生活を強いられることとなる。だから元々、親父は家を空けてることがほとんどだったんだけど、でも、あの日を境にぱったりと、連絡は途絶えたままだった。
 最初は親父を疑ったんだ。俺はほとんど家に帰ってこない親父をあまりよくは思ってなかったし、月舘は式典やなんかに保護者も立ち入れないような、前理事長の作った古いしきたりに則った妙な学園だろ? 親父に会わせろって俺や母さんが言い募っても、当然のように門前払いでさ、親父はその辺のシステムをうまいこと利用して家族を捨てたんだと、母さんに手を引かれてはじめて足を運んだ月舘をあとにしながら、俺は思った。
 俺が、どうにかして月舘に潜り込んでやろうと決意したのはその時だ。ここの生徒になっちまえば、堂々と〝壁〟の内側を探れる。俺は親父を見つけ出して、横っ面でもぶん殴って、性根を叩き直してやるって、馬鹿みたいに意気込んでた。勉強は好きじゃなかったけど、ここの試験に受かるためにいっぱい勉強もした。母さんに〝俺が必ず親父を連れ戻してきてやる〟って宣言までしてさ。母さんは消沈してて、力なく笑っただけだったけど、俺のやろうとしてることを止めようとはしなかった。そして十二歳になって、試験にも無事に合格して、俺は月舘に入学した。その時点で俺はもう、すっかり勝ち誇った気分でいたんだ。だけど、実際のところはそううまくはいかなかった。
 親父の捜索は難航した。何たって生徒たちは、鳥の会の奴らの、顔も、名前も、居場所も知らない。おかげで、鳥の会の構成員の一人は実は生徒の中に紛れ込んでいるだなんていう、根も葉もない噂が立った時期もあったくらいなんだ」
「えっ、生徒が理事会の構成員だなんて、そんなことってあり得るの?」
 驚いて、思わずそう口にした苺火に、星野は渋い顔をして首を横に振った。
「馬鹿、ただの噂だよ。冷静に考えてみろ、そんなことあるわけないだろ。鳥の会の構成員は校長よりも上位階級なんだぞ。教師の中に紛れ込んでるって可能性は否定はできないが、生徒の中に潜んでるってのは、この学園の妙なシステムを鑑みてもあり得ないね」
「そっか……そうだよね」
 苺火はほうっと安堵の息をついた。日頃、何気なく言葉を交わしている相手が、鳥の会の構成員かもしれないだなんて、そんなこと、とんでもない話だと思ったのだ。
「でも、火のないところに煙は立たないって言葉もあるように、全部が全部ただの噂ってわけでもなかったんじゃないかと俺は考えてる」
「というと?」
「まさにこんな噂があったのさ。〝二階堂鶫美は鳥の会の構成員だ〟」
 まだそんなことを抜かす星野に、苺火は呆れ返った。
「二階堂先生はいい人だよ。星野だって、先生はただちょっと悪戯ごころが働いて、規律を乱す僕たちを脅かしてただけだって、納得してたじゃないか」
「俺はまだあいつを完全に信用したわけじゃないとも言ったはずだ」
「星野……、」
「俺の立てた仮説はこうだ」
 言い募る苺火を無視して、星野は続けた。
「二階堂鶫美は鳥の会の構成員で、親父とは大学時代だけでなく、八年前にも交流があった。ところが例の事件で事態は一転。雪見五月が二階堂の兄と無理心中を謀る。鳥の会側は前理事長の遺志を尊重し、事が壁の外側にまで知れ渡るのを阻止しようとこの事件を事故として片付けたがったが、二階堂からすれば、自分の身内を殺されてはいそうですかと黙って受け入れられるはずもない。それで、他の構成員と二階堂は折り合いがつかなくなったのさ。
 二階堂は復讐に燃え上がった。そこで、いずれ雪見五月に自らの手で制裁を下すべく誰よりも声高にその無実を主張し、一方では鳥の会の構成員を順々に消していく。月舘のような特異な環境下で、顔も名前も割れていない奴らを消すことなんてそう難しいことじゃない。現に俺の親父はあの日を境に忽然と姿を消して、今日(こんにち)に至るまで消息不明だ。現理事長の月舘三日嗣が式典やなんかに顔を出さないのも、何てことはない、奴が既に死んでいるからだと考えれば全て辻褄が合う。
 もちろん、理事長を含め六人もの人間をこの世から消し去るなんて所業を、全て二階堂鶫美一人だけで行ったわけではなかった。そう、奴には協力者がいたんだ。それが、俺が幾度となく目撃しているあの女。どういうわけかは知らないが、まあ大方、二階堂の意向を知って、自らも消されることを恐れた鳥の会の構成員の一人ってところだろう。こうしてあの女の協力を得て、二階堂鶫美の完全犯罪は成立したってわけだ」
「無理があるよ」
 不服そうに唇を尖らせて、苺火が口を挟んだ。
「それじゃあ月舘は今、理事長不在の学園だっていうわけ?」
「そうかもしれないな」
 頷く星野には寸分の迷いもない。
「二階堂鶫美は名実ともに王の玉座を手に入れていたのさ。とうの昔にな」
「周りにはどう説明するの? 急に理事長の姿が見えなくなったら、二階堂先生が真っ先に疑われるんじゃない? だって、実のお兄さんが亡くなっているんだから」
「考えようはいくらでもあるさ。事件がきっかけとなって月舘三日嗣が病に伏したと説明してもいいし、前理事長のように時計塔に籠りきるようになったと言ってもいい。連絡係にあの女を使えば、鳥の会の構成員が既に消されていることにだって気づかれやしない。或いは二階堂鶫美はもう、月舘の理事長に成り上がっているのかもしれないな」
「まさか」
 苺火は目を剥いた。
「だって公には、月舘の理事長は月舘三日嗣先生だってことになっているんでしょ?」
「表向きは、な」
 星野はふん、と忌々しげに鼻を鳴らした。
「だがここは、鳥の会の議決一つで全てが決まる、そんな場所だ。二階堂が理事長に成り上がっている事実だって、隠そうと思えばいくらでも隠し通せる」
「そんなことをするメリットがない」
「いいや、あるね。兄貴が死んだそのタイミングで、二階堂鶫美が公的に理事長なんかになれば、それこそ警察の不審を買って事件に介入されてしまい兼ねない。それに、鳥の会の秘密を知る関係者が事の真相に薄々勘づいていたとしても、多くの人間を自ら手にかけた男を敵に回そうなんて誰が考える。誰だって自分の命は惜しいさ」
 苺火は押し黙った。
 あまりにも飛躍し過ぎている、と思う。しかし、仮に星野の立てた仮説が真実だとすれば、全て辻褄が合ってしまうのもまた事実だ。そして、壁の内側ではそれが実際に起こり得てしまうであろうということも。
 恐ろしい場所に来てしまった、と改めて思い知らされる。
 そして、自分はもう、そう簡単にここから逃げ出すことは叶わないのだろう、とも。
「──とにかく、」
 手摺りに体を預けていた星野が、ふっと苺火のそばを離れた。
「俺の〝事情〟はまあこんなところだ。俺がこのことをお前に話したからといって、俺たちの関係性に何か変化があるわけでもない。俺はこれまで通り、親父の行方の手がかりを探すだけだ。おそらくはもう、全てが終わってしまったあとだろうがな。だからお前もこれまで通り、お前の目的のために俺を利用できるだけ利用すればいい。
 話はそれだけだ。……それじゃあな」
 無理だよ、と、苺火は叫び出したいような衝動に駆られる。静かに離れていく背中に向かって何か言葉をかけようと振り返れば、全てを拒絶する頑なケモノのそれが苺火を拒む。
 届かない。あの、孤独なケモノの背中には。彼が彼の抱えた全てを白日の下に晒してもなお、その心までこじ開けることは叶わない。もしかするとこれから先永遠に、苺火はあの背中にほんの僅か触れることさえ叶わないのかもしれない。
 それでも、と苺火は思う。
 何も知らなかった頃には、もう戻れないのだ。
 ふと、遠ざかっていくその背中に既視感を覚える。自分はずっと以前から、この背中を知っていたような気がする。その既視感の理由は、苺火にはまだわからない。

「今日は実にいいお天気ですねえ。薔薇の花も、今日は一段と晴れやかな顔を見せているように思える。朝露がきらきらと光って、一つ一つの花がまるで稀有な宝石のようです。
 あ、知ってますか? 薔薇の花って、遥かな昔から人々の生活に大いに潤いを与えてきたんですよ。バビロニアのギルガメッシュ叙事詩に〝永遠の命を与えられる草には刺があり、薔薇のように手を刺すだろう〟と薔薇が登場しているんですが、それはおよそ四〇〇〇年も前のものです。彼のクレオパトラはローマ皇帝をもてなすために寝室に薔薇を敷き詰めたといいますし、紀元前、医学の父ヒポクラテスの頃には既に香りを楽しむ習慣があり、これを用いて病気を治療していたことが窺われる。ロードス島のコインにも薔薇が刻まれていましたし、アレキサンダー大王の時代には既に薔薇が栽培されていた記録も残っているんです。ローマ時代には薬としても使用され、産業や経済の発展にも関与してきました。水蒸気蒸留による製品は八世紀から九世紀ごろには中国やスペインにも市場が拡大していたんです。シャー・ジャハーンというインドの王様は、結婚式の時にお城の周りの堀をローズウォーターと薔薇の花弁で満たし、招待客はこれをボートで渡ったといわれていますし、〝千夜一夜物語〟のアラジンの魔法のランプでは、ローズウォーターが気つけ薬として用いられています。
 ね、薔薇って、人類と共に歩んできた、素晴らしい歴史を持つ花でしょう。ああ、もちろん、今日の貴女もこの薔薇のようにお綺麗ですよ。──砂貴子さん」
 パチン、と薔薇の枝葉の最後のひと枝を切り落として、二階堂鶫美はにっこりと後ろを振り返る。今日の二階堂は、黒のハイネックの上に珍しく白衣ではなく、園芸用のエプロンを纏っている。その背後では、マリーゴールドの巻き毛の女が、ガーデンテーブルと揃いのチェアの一脚に足を組み、優雅な仕草で紅茶を啜っている。女は俄かに苛立った様子で、この日もきっちりと巻かれた髪を、背中へと振り払った。
「貴方のその余計なお喋り、もう少しどうにかならないものかしら。いつ来ても耳障りで仕方ないわ」
「それはどうも、すみませんねえ。これはもう、癖みたいなものでして」
 二階堂は仮面の微笑を貼りつけたまま、女のそばに恭しく歩み寄る。桃色の髪は今日は無造作な団子状に結われ、余った髪は両の肩に流されている。
「生徒が一人、死んだそうね」
 おもむろに、女は話を切り出した。その言葉に、二階堂の表情が、ほんの僅か曇る。
「──ええ。香西暁(こうざいあきら)君。高等部の三年生でした」
 つり目がちのきつい目元が剣呑な光を増し、女は悔しげに唇を噛む。
「また守れなかったわ」
「貴女のせいじゃありません」
「いいえ、」
 女は(かぶり)を振って、まだ紅茶の残っているティーカップを丁寧にソーサーの上に置いた。濃い紅色に揺らぐ水面(みなも)に、俯いた女の顔がゆらりと映る。
「それでも死なせてしまったことに変わりはない。子供たちに解放を与えることこそが、私たちの成すべき最大の使命だというのに」
「砂貴子さん、」
 二階堂はガーデンテーブルに腕を突き、神経質そうに、整ったその眉根を寄せた。
「貴女は全てを一人で抱え込み過ぎている。もっとほかを頼るべきだ」
「これは全て私の責任。私がやるべきことなのよ」
「僕はそんなに頼りないですか」
 女はその日はじめて、僅かに表情を和らげて二階堂を見上げた。そうして微笑むと、女の容姿は意外にも、柔和なものに見えた。
「そうは言っていないわ。貴方はあちらとこちらの潤滑剤としてとてもいい働きをしてくれている。そのことにはとても感謝はしているの。ただ、貴方は本来であれば限りなく無関係な人間なのよ。だからできる限り、私は貴方の手を借りずして、世界が永遠の冬に閉ざされることを阻止しなくてはならない。そう考えているわ」
「僕はできる限り貴女のお手伝いをしたいと考えています」
「そういうわけにはいかないのよ。もっとも、もう十分過ぎるくらい、私は貴方を巻き込んでしまったけれど」
 女は顎に手を当て、すっと眩しそうに双眸を細めた。二階堂の榛色の瞳は、真剣な色を帯びて女を見つめ返している。その右目の奥のシャンパンゴールドの(エトワール)のことも、女は全て知っている。初夏の風がそよそよと、女のマリーゴールドの髪を揺らす。
「貴女の悲願は僕の願いでもあるのです」
 二階堂鶫美は静かにそう宣言した。
「ええ、そうね、わかっているわ。そのために一刻も早く、ワタリの子をどうにかしなくてはね」
 女は再びティーカップを手にすると、上品に一口啜った。そのすました横顔に、先ほどまでの柔和な面影はもうどこにもない。切れ長の、鋭い眼差しが二階堂から逸らされ、二階堂はもう自分の言葉が決して彼女には届かないことを知る。
「二階堂。今日はもうお下がりなさい。紅茶をありがとう、私はここでもう少しやることがあるから、あとでカップを片付けておいて頂戴」
「──貴女の御心のままに」
 影のようにひっそりと、二階堂は時計塔の講堂へと続く扉へ消えた。
 二階堂が、もうすっかり声の届かないところまで行ってしまったのを耳をそばだてて確認すると、女はやにわに声を張り上げた。
「いつまでもそんなところに隠れていないで、出ていらしたらどう?」
 暫くの沈黙があった。やがて落ち着いた足取りで、一人の少年が柊木犀の木陰から姿を現した。
「──最初から、全部お見通し、ってわけか」
 星野夜鷹少年だった。制服のポケットに両の手を突っ込み、斜に構えた立ち姿である。
「私と二階堂の話、聞いていたのね」
 女はカップを揺らしながら、面白いものを吟味するかのように微笑んで、夜鷹の姿を上から下までじっくりと眺め回した。
「さあ、どうだかな」
 夜鷹は唇を笑みの形に歪める。不遜な態度とは裏腹に、その額には初夏の蒸し暑さのためではない汗がじんわりと滲んでいる。
 女の顔から、俄かに表情が消えた。女は静かに紅茶を飲み干すと、空になったカップをソーサーの上に戻し、おもむろに立ち上がった。
 すらりと伸びやかな脚が地面を捕らえ、彼女が女性としては随分上背のあることがわかった。まるでファッション雑誌のページの上でポーズを取るモデルのようだ。爪先の尖った派手なハイヒールを履いていなくても、女性の平均を大幅に上回っていることは確かだろう。
「なかなかに肝が据わっておりますこと。感心ね」
 コツリ、コツリと、煉瓦を敷き詰めた小道を踏み締めて、女は夜鷹の方へ歩み寄ってくる。
 夜鷹はせせら笑った。
「そっちこそ、せっかく明日葉と桜子に作らせた盗聴器を、片っ端からぶっ壊して貰っちまったからな。これはもう、直々に出向くほかないと思ったんだ」
 不適な笑み。額に滲んだ汗が、透明な珠となってこめかみを伝う。
「それはご苦労なことね。でも……、」
「ひっ!」
 突如、脚を引っかけてをすっ転ばされたところ、肩をハイヒールで踏みつけられて地面に縫いつけられ、眼前に突きつけられたものに、夜鷹は思わず悲鳴を飲み込んだ。
 拳銃だった。黄色いBB(ビービー)弾が飛び出す遊戯銃のような、子供騙しの玩具のそれではない。本物の、人を殺せる、拳銃だ。幼い頃から古賀夫妻のそれを見てきた夜鷹には、すぐにそれがわかった。その銃口が、真っ直ぐに、夜鷹を捕らえている。
「命が惜しければ、これ以上大人の事情に首を突っ込むのはおやめなさい。そして、ここで聞いたことを誰にも話さぬこと。もちろん、あなたといっしょになって陰でこそこそやってる、桐島苺火にも、よ?」
「──あんたに隠し事は、どうやらできないみたいだな」
 それでもどうにか笑みの体裁だけは取り繕ったまま、夜鷹は銃口越しに女を睨んだ。とうとう全身から噴き出した冷や汗が、顎まで伝ってぽたりと落ちる。
「理解が早くて結構」
 なおも虚勢を張る夜鷹を、女は鼻で笑った。
「話せば、どうなる」
「殺すわよ。あなたも、知ってしまった人も、みんな」
「ははっ、訊くまでもなかったな」
 乾いた笑みを浮かべる夜鷹に、女は不思議そうにぱちくりと目を瞬かせた。
「あら、私なりに譲歩はしたつもりよ? 今回は特別に、貴方のこと見逃してあげるって言ってるんだから。私だってできれば貴方のような未来ある若者を殺したくはないし、若さ故の過ちっていうのは、誰にでもあるものだもの。だけど、覚えておきなさい。次は、ないわよ」
 女は妖しく微笑んで、夜鷹の肩から脚を退ける。夜鷹は素早く身を翻して女の下から転がり出ると、猫のように毛を逆立てて女に向き直った。女はくすくすと、喉の奥で可笑しそうに笑う。銃口は既に、夜鷹から狙いを外して下ろされている。
「貴方、なかなかいい線いってたわよ。もう二度と会わないといいわね、小さな探偵さん」
 夜鷹に背を向けて軽やかに手を振りながら、さえずるように、女は言う。
 呆然とその場に立ち尽くして、夜鷹は女を見送る。

 桐島苺火は悩んでいた。それというのもまた、件の星野夜鷹についてのことである。
 あの晩、星野の事情を半ば一方的に打ち明けられてから、一週間近くが経とうとしていた。星野はあんなことを言っていたが、それでも必然的に、自分たちの関係には変化が訪れるだろうと、苺火はそう考えていたのだ。ところが、いざ蓋を開けてみれば事態は苺火が想定していたのとは全く真逆の方向に転がっていたのである。
 あの日以来、どうも自分は星野に避けられているような気がすると、苺火はそう感じていた。転校してきたばかりの頃、唐突な絶交宣言をされた時と同じだ。目が合えば逸らされる。廊下ですれ違えば無視される。それは香西の事件で一時的に気まずくなったのとは、また異質なものだった。状況からすればあの時とは正反対、寧ろ二人の距離は縮まっていてもおかしくはないはずなのに、今の二人は加速度的にどんどん遠ざかっていくようでさえある。星野夜鷹という人間を、苺火は完全に持て余していた。
「どしたん、桐島」
 授業で使うプリントを、前の席の茅崎から回される時に、心配そうに声を潜めてそう声をかけられてしまうほどに、苺火は思い耽っていた。
 明日葉以外のクラスの人間と言葉を交わすのは、久しぶりだった。
「お兄ちゃんの身に、また何か桐島さんを巻き込みたくないと思わせるようなことがあったんじゃないでしょうか」
 顎に人差し指を当てて考え込みながら、花魚子は言った。
「僕を呼び出してから、ほんの数日のあいだに?」
 花魚子のベッドにごろりと横になりながら、苺火は尋ねる。
 花魚子の元には相変わらず足繁く通っていた。苺火は花魚子には何でも話した。花魚子といる時、ほかの誰と過ごすのよりも苺火は肩の力を抜けた。この日は、どうも自分は星野に避けられているような気がするのだと、花魚子に相談を持ちかけたところだ。もっとも、星野兄妹の父親の失踪のことを、花魚子の前ではっきりと口にするのは憚られて、〝星野に彼の事情の全てを打ち明けられた〟と、何となくぼやかした言い方を苺火はした。
「桐島さんや私の知らないところでも、お兄ちゃんは精力的に動いているようです。昼休み、ときどき姿を見かけないことがありますから。それでまた、何かあったんじゃないでしょうか。ほら、お兄ちゃん、自分の事情に極力他人を巻き込みたがらないところ、あるでしょう」
「ああ……」
 苺火は苦笑する。今にして思えば、一方的に成されたあの絶交宣言も、苺火を危険に巻き込みたくないが故だったのだろう。星野夜鷹はそういう少年だ。
「でも、一体何があったのかなあ……」
「さあ、それは私にも何とも……」
 花魚子は困ったように首を傾げた。
「──そういえばさ、花魚子ちゃんって、どんなに遅くに来ても、いつも起きてるよね」
 何とはなしに思いついて、苺火はベッドのふちにちょこんと腰かける花魚子を見上げた。時刻は二十三時過ぎ。消灯時間はとうに過ぎ、花魚子も既にネグリジェに着替えている。
 花魚子が一瞬、言葉に迷うのがわかった。
「──はい。私、不眠症なんです」
 曖昧に微笑んで、花魚子は言った。
「不眠症?」
 思いも寄らぬ言葉に、宙空をたゆたっていた意識は一気に現実に引き戻された。
「はい。病気をしてから、自律神経も安定しなくって、その関係で」
「そっか」
 幼少から体が弱く、月舘に入学するまでは学校にも満足に行けていなかったという花魚子。苺火は想像する。夜の病院。真の静寂の中、一人息を押し殺す孤独を。
「眠れない夜は、寂しい?」
 花魚子はふるふると(かぶり)を振った。
「いいえ。退院して寮に入ってからは、ちっとも。お兄ちゃんはもちろん、桐島さんや古賀のお姉ちゃん達、クラスのお友達も遊びに来てくれますから」
「じゃあ、誰も来てくれない日は?」
「──ちょっと、寂しいです」
「そっか」
 花魚子が視線を伏せるのにつられて、苺火もなんとなく視線を落とす。ネグリジェの裾から覗く、雪のように白く細い脚。膝の上で緩く組まれたか細い手。神様が特別大切に作り上げた人形のような、小さな女の子。彼女の細部をぼんやりと眺めながら、苺火は懐に猛烈な睡魔が押し寄せてくるのを感じる。
「桐島さん、こんなところで寝ちゃだめですよ──、」
 花魚子の声が、次第に遠ざかる。



 くしゃくしゃになった封筒を握り締めて、体育教官室に駆け込んだ。
柏田(かしわだ)先生!」
 ノックもせずに扉を開け放てば、居合わせた教師全員の視線がこちらに集中する。
「なんだあ、茅崎。ノックくらいせんか」
 大柄な体格に坊主頭を持つ柏田が、顔をしかめてこちらを睨む。
「先生、これ! お願いします!」
 手にしていた封筒を両手で突き出して、柏田の前に頭を下げる。柏田はぞんざいにそれを受け取ると、そこに並ぶ殴り書きの三文字をじっと眺めた。
 暫くの沈黙が、あった。
「……何があったんだあ」
 やがて、封筒に視線を落としたまま、柏田がぽつんと言った。
「ただ、ちょっと、折り合いがつかなくなっただけです。とにかくすぐに受理して下さい」
 頭を深く下げたまま、俺は言う。上履きを履いた爪先が、まるで他人事のように見える。
「考え直す気は、ないんか。お前は犬童と並んで野球部一年のエースだぞ」
 受け取ったそれを開くことなく、柏田は机の上に置き、回転椅子に埋もれた体ごとこちらに向き直った。きっと今、柏田の目には、()のつむじがまるごと映っているに違いない。
「ありません」
 俺は即座に答える。
「そうかあ」
 柏田の声音に、諦観の念が混じったのを耳聡く聞き分けて、俺はおそるおそる顔を上げる。小さな目をしょぼしょぼさせて、柏田は俺を見つめていた。
「ええよ。こいつは預からせて貰う」
「ありがとうございます」
「──しかし、」
 柏田は何気なく、窓の外に目をやった。まるで俺への当てつけのように、空はうそぶいて晴れている。
「何があったか知らんが、呆気ないもんだなあ」
「──すみません」
「何、なんも謝るこたあない。戻ってきたくなったら、またいつでも戻ってくればええ」
 俺は何も言わなかった。そうならないであろうことは、もうわかりきっていた。自分は妙なところで意固地な性分だ。一度皆の前であんなことを言ってしまった手前、もう決して、忍と自分がわかり合えることはないだろう。
 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。今更何を思いあぐねても、もう遅い。忍はもう、かつての親友でしかなく、今はもう赤の他人だ。
 こうして、俺の退部届はあまりにも呆気なく受理された。



 歌が、聞こえる──。
 うっすらと瞼を開けて、苺火は思った。
 どこかで聞いたことのある歌だ。優しく、あたたかく、そしてどこか儚い。
 花魚子が歌っているのだ。繊細な絹糸を束にしたような、優しく頬を打つ金色の雨のような、そんな旋律を、花魚子が口ずさんでいる。
 自分はどこでこの歌を聞いたのだったか。思い出そうとしたが、思い出せない。
 ポケットの中にある、角張った感触が、ふと気になった。手を伸ばして触れようとするも、抗いがたい睡魔が再び苺火を襲い、瞼と一緒に腕が落ちる。
「どうか、どうか思い出して──、」
 意識が途切れる間際、すすり泣くような花魚子の囁きを、聞いた気がした。
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