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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第六章 生贄の羊

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 星野夜鷹は激昂していた。肩を怒らせてひと気の絶えた廊下を渡り、未だ多くの警察官や教師たちが集う現場付近を素通りし、ざわつく鹿蹄館内を通り過ぎて、寮の自室に辿り着くと、けたたましい音を立ててドアを蹴破り、そのままベッドにダイブした。
 見慣れたはずの天井の木目が、今は何故か酷くよそよそしく思える。
 わかっている。平岡はただ、己の成すべき職務を忠実にこなしているだけだ。それでも夜鷹は桜子が疑われたことを、どうしても許すことができなかった。ただでさえ、八年前の昏い(えにし)で、自分と月舘とは固く結ばれているのだ。父を攫っていったあの事件、その同じ舞台で再び起こった悲劇の凶徒を、慣れ親しんだ幼馴染みと疑ってかかられるには、あまりにも彼の遺恨は拗れ過ぎていた。
 ──わかっている。わかっている。でも。
 醜態を晒してしまった、と思う。特に桐島などには、ほとほと呆れ果てられたかもしれない。二階堂にもみっともないところを見られてしまった。あの食えない男にだけは、決して弱みなど握られたくなかったのに。後悔の念ばかりが、波のように押し寄せてはまた引いていく。
「傷心のようだね、星野夜鷹君」
 その時、不意にかかった声に、夜鷹は心臓が止まる思いがした。
「誰だ!」
 咄嗟に、サイドテーブルをひっくり返さんばかりの勢いで飛び起きる。
 ──部屋の窓が、開いていた。
 中性的なアルトの声。見る者にじめついた印象を与える、目深に被った制帽。
 そこに佇んでいた思いもかけない人物に、夜鷹は思わず目を剥いた。
「あんたは、平岡刑事と一緒にいた、あの……」
 しかし、すぐに思い直して胡散臭そうな視線を青年に投げた。
「あんた、喋れたのかよ」
「おやおや、今の今まであんなにしおらしくしていたのに、可愛げのない坊やだ」
 青年は可笑しそうにくすくすと笑う。気紛れに舞う蝶のように。
「何者だ、あんた」
「見ての通りの一警察官だよ。それ以上でも、以下でもない。そういうことにしておいてくれ。──ところで、」
 勿体をつけて言葉を切り、青年は美しく唇を歪めた。じめついた印象とは裏腹に、その顔立ちの意外にも端整なことに、夜鷹は今更のように気がつく。
「古賀桜子さんの所持していた特殊警棒──きみの考えていた通りの〝オチ〟だったよ」
 夜鷹は訝しげに眉をひそめた。
「なんであんたが俺のその発言を知ってる。あの時あんたは既に退室していたはずだ。俺が応接室を飛び出した時も、あんたの姿は見当たらなかった」
「やれやれ、記憶力がいいのも困りものだね」
 青年はおどけて肩をすくめた。
「まあ、そんなことはどうでもいいじゃあないか。兎にも角にも、古賀桜子さんの所持品である特殊警棒は、犯行に用いられた凶器と同じ形状のものだとほぼ断定された。しかし血痕などは一切検出されず、証拠不十分で彼女は不実の罪と見なされた。今のところは(・・・・・・)ね」
 夜鷹は俄かに顔色を変えた。
「……今のところはってのはどういう意味だ」
「そのままの意味だよ。古賀桜子さんの疑いはまだ完全に晴れたわけじゃあない。今後の調べ次第では、再び容疑者として浮上するということも大いに考えられる」
「ふざけるな!」
 夜鷹は青年のシャツの襟元に掴みかかると、がくがくと力任せに揺さぶった。
「桜子は! そんなことはしていない!」
 青年の唇は薄い微笑を絶やさない。
「どうしてそう言いきれる? 古賀桜子さんだけじゃない、古賀明日葉さんにしたって同じことさ。きみの幼馴染みである彼女らは、きみと親しい数少ない存在だった。何故ならきみは、きみ自身の事情に(・・・・・・・・)巻き込まないために(・・・・・・・・・)他人を拒絶し(・・・・・・)続けてきたからだ(・・・・・・・・)
「──どうしてそれを」
 夜鷹は呆然と青年を見上げた。青年は感情の読めない瞳で、じっと夜鷹を見下ろしている。目深に被った制帽で、琥珀色の、切れ長の双眸は、暗く翳っている。
 夜鷹はゆっくりと、青年のシャツの襟元を掴む手を緩めた。惚けたようにどさりと、ベッドのふちに腰を下ろした。
「──あんたは知ってるんだな。桜子と明日葉を犯罪者にしないためには、どうすればいいのか」
 俯いたまま、うわごとのように夜鷹は尋ねた。
「理解が早くて結構」
 青年はにこりと笑った。つり目がちの目元が、そうしていると余計に強調される。
「俺は何をすればいい」
 縋るように青年を見上げる。
「何、簡単なことさ。ちょっと僕の指示に従ってくれさえすればいい。そうして互いにメリットを得るのさ。代償として、きみの二人の幼馴染み──古賀桜子さんと古賀明日葉さんの身柄は、僕が保証しよう。彼女たちを危険には決して晒さない。もう月舘から何人たりとも犠牲者は出させない、絶対に。僕の心臓に誓って、そう約束しよう」
「──信じて、よさそうだな」
 それまで疑わしげな眼差しを青年に寄越していた夜鷹は、その言葉の内包する真摯な響きに、ようやく彼を信じることにしたようだった。
「あんた、名前は」
 その問いには、青年は少し考え込んでからこう答えた。
「そうだな──(なぎさ)と呼んでくれ。僕に過ちと宝を成してくれた人の名だ」
「過ちと、宝?」
 何のことだかさっぱりわからないというふうに、夜鷹は首を傾げる。
「ああ。その人はもう僕のことなど忘れてしまったろうが……僕は今でも憎んでいる」
「愛していたのか?」
「昔の話さ」
 その一瞬、青年の瞳がどこか遠くを見つめるようなものになったことに、夜鷹は目敏く気がついた。しかしすぐに元の超然とした調子を取り戻し、
「僕ときみが協力するに当たって、もう一つ条件がある」
「何だ」
 この期に及んでまだ何かあるのかと、夜鷹は眉をひそめた。
「誰にも──そう、桐島苺火にも、僕と内通していることを決して口外しないことだ」
「何故?」
 青年はじろりと、凍てつくような眼差しで夜鷹を見据えた。
「余計な詮索は無用。二人を、助けたいのだろう?」
「──ああ、そうだったな」
 夜鷹はふっと息をついた。自分と桐島の関係と同じ。つまり夜鷹は渚と名乗るこの青年と、暗黙の協力関係を結ぶのだ、人知れず。
「よろしい。契約は成立だ」
 青年は満足げに、にこりと笑んだ。
「まあ、これから一つよろしく頼むよ、星野夜鷹君」
 差し出された白手袋の手を、夜鷹は用心深く握り返した。

「事件にひと段落つくまでは、僕と距離を置いた方がいいと思うんだ」
 鹿蹄館二階の談話室で待ち構えていた忍と晴に、苺火はそう告げた。
「僕は今回の事件、桜子ちゃんも明日葉ちゃんも花魚子ちゃんも関係ないと思う。もちろん、僕と星野もやってない。星野はああいう奴だけど、とても人殺しなんてできる奴じゃないよ。一緒にいる僕が保証する。でも、星野の身辺の人間が疑われている以上、僕と一緒にいれば忍と晴まで〝星野の一派〟扱いされてしまい兼ねない」
「苺火……」
 悟ったように述べる苺火に、忍が複雑そうな表情を見せる。
 心配性の忍を安心させるように、苺火は無理矢理笑顔を絞り出してみせた。
「僕がそうして欲しいんだよ。忍と晴まで巻き込みたくない。僕のせいで二人まで妙な噂をされるの、嫌なんだ」
 忍が一瞬、逡巡するのがわかった。
「──わかった。でも何かあったら、すぐに俺たちを頼れよ」
 しかし結局は、苺火の意向に従うことにしたらしい。苺火のためにも、それが最良だと考えたのだろう。
「そうだぞ! 俺たちは苺火の、友達なんだからな!」
 大分いつもの元気を取り戻してきた晴に、思わずくすっと笑いが洩れる。本当に晴は、どんな時でも晴だ。周りにいる人間まで、自分のペースに巻き込んでしまう。
「うん、ありがとう。少し疲れちゃったから、今日はもう部屋で休むよ」
「ああ、それがいい」
 気遣わしげな忍と、ぶんぶんと大きく手を振る晴に見送られて、苺火は談話室をあとにした。
 それが当面の二人との決別になることを、苺火は嫌というほどわかっていた。
 一人きりになると、それまでどこかにつかえていた疲れが、堰を切ったようにどっと押し寄せてきた。そっと閉めたドアに背を預けて、ずるずると床に座り込む。
 ──どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 行き場のない遣る瀬なさを、幾度も胸の内で反芻する。自分はそれなりに楽しくてくだらない、ありふれた学園生活を送るはずだったのだ。それが、何故。
 制服のポケットに入れっぱなしだった一冊の本に、無意識に手を伸ばす。家からこっそりと持ち出してきた、古びた小さな本。静謐を湛えたそれは、やはりどこか懐かしい不思議な安息を、苺火にもたらしてくれるのだった。

 二人の友人と距離を置くということは、苺火にとって想像以上の苦行となった。
 教室にいる時、苺火はいつも一人だった。隣の席の忍も、苺火を気にしているふうではあったが、声をかけてはこない。晴は時折話したそうにしているが、その度に忍に、暗黙の内に嗜められている。他の生徒たちは相変わらず、好奇の視線で苺火を盗み見ている。
 自然と窓の外を眺めていることが多くなった。現実から目を背けるように思考を巡らすのは、小鳥の少女──雪見五月のことだ。ここのところは彼女にも、会いに行っていない。
 クラスでただ一人、明日葉だけは、現代文係の仕事の際に言葉を交わす機会があった。明日葉は努めて普段通りに振る舞おうとしているものの、その会話もどこかぎこちないものだった。毅然とした彼女も、友人たちとはどこかぎくしゃくしてしまっているようだった。
 温室のような食堂で、時折桜子や星野や花魚子の姿も見かけた。桜子は目に見えていつもの覇気がなく、星野はいつも花魚子と一緒だったが、三人様々に表情は固かった。それというのもやはり、生徒たちが彼らの耳に入るのも構わず、そこかしこでひそひそと噂話をしているからに他ならなかった。
 どれもこれも、あの事件が影響を及ぼしていることは明白だった。
 花魚子が心配だった。双子はああ見えて気丈だし、星野は元より一匹狼な性分だ。しかし花魚子はどうだろうか。たった一人教室で、辛い思いをしてはいないだろうか。
 授業が終わって苺火が向かうのは、図書館や時計塔の地下室から、次第に花魚子の部屋へと移ろっていった。
「合言葉をどうぞ」
「〝ユニコーンの心臓〟」
 カーテンの隙間から控えめに現れる小さな手も、厳粛な儀式のようなこのやり取りも、もはやすっかり慣れっこになってしまった。はじめは苺火を驚かせた〝ユニコーン〟という単語も、今では何の躊躇いもなく口にすることができる。転校初日のあの日以来、ユニコーンには遭遇していない。やはりあれは、慣れない列車の旅や立て続けに起こった奇天烈な出来事による心身の疲労が見せた、つかの間の幻だったのかもしれない。
 旧式のクレセント錠が回される。そっと窓を開けて、苺火はサッシュを跨いだ。脚を丁寧に揃え、その膝の上に小さな手を組んで、花魚子がベッドの上に腰を下ろしたところだった。
「こんにちは、花魚子ちゃん」
「こんにちは、桐島さん」
 二人は微笑み交わす。意外なことに、事件の前と後とで最も変わらぬ笑顔を苺火に向けてくれているのは、花魚子である。苺火が部屋を訪れる時、花魚子はいつもおっとりと笑っている。この部屋にいるあいだだけは、苺火はあの呪わしい事件のことを忘れられる。最初は意図的に事件に言及することを避けていたのだが、今では自然とそうあることができるようになったのだ。それは花魚子も、同じなのかもしれない。
「今日も来てくれたんですね、嬉しい」
 二人が互いに、互いのたちに共通項を見出しているのは確かだろうと、苺火は思う。苺火と花魚子は、どこか似ている。いつか、星野が言っていたように。
「何の手土産もないけど」
「こうしてお話できるのが一番です」
 苺火は笑いながら、ごく自然な動作で花魚子の隣に腰を下ろす。事件の前と後とで変わった点の一つは、ここである。以前は遠慮して彼女のベッドに座ることを躊躇っていた苺火だが、今は遠慮がない。
 あの日を境に、苺火と花魚子は急速に親しくなっていた。二人きりで過ごす時間が増えたというのもあるだろうが、単にそれだけではない。同じ事件の重要参考人として名を挙げ連ねられ、聴取の場に同席したことによって、苺火はより花魚子に対して親しみを抱くようになっていた。
 以前に本で読んだ、吊り橋理論と同じだ。渓谷に架かる吊り橋の上で、男女は恋に落ちる。揺れる橋での緊張感を共有したことで、人はその興奮を恋と認識するのだ。それすなわち、恋とは所詮、本能から生まれる錯覚に過ぎないということにほかならないと、苺火は考えている。脳的信号による幻惑に翻弄される自分を、苺火は俯瞰し、ひっそりと笑う。
「ねえ、今日はどんなお話をして下さるの?」
 花魚子がくるくると、大きな瞳を輝かせて身を乗り出してくる。
「そうだね……それじゃあ、〝恋の吊り橋理論〟のお話」
 花魚子の部屋で二人が毎日のように話すのは、苺火がこれまでに読んできた膨大な書物の内容についてだ。いつも花魚子が苺火にねだり、苺火が花魚子に語って聞かせる。一度読んだ書物の内容を、苺火は細部に至るまで記憶している。
「ひと昔前……そう、一九七四年のことだ。カナダの心理学者ダットンとアロンが、〝生理・認知説の吊り橋実験〟によって実証されたとし、発表した学説、それが吊り橋理論。恋の吊り橋理論とも呼ばれているね。実験は、十八歳から三十五歳の独身男性ばかり集めて、渓谷に架かる揺れる吊り橋と、揺れない橋の二カ所で行われた。それというのもまず、集められた男性に、それぞれ橋を渡って貰う。すると橋の中央で、突然若い女性がアンケートを求めて話しかけるんだ。その際、〝結果などに関心があるなら後日電話を下さい〟と電話番号を教える、ということを行ったわけさ。すると、どうなったと思う?」
「揺れる吊り橋の方の男性から、多く電話がくる」
「正解」
 即座に答えた花魚子に、苺火は微笑んだ。
「お察しの通り、揺れる吊り橋の方の男性からはほとんど電話があったのに対し、揺れない橋の方からの電話は僅か一割くらいのものだった。つまり、揺れる橋での緊張感を共有したことが、恋愛感情に発展する場合があるということだね。緊張感のドキドキを、恋のドキドキとを勘違いしてしまうのさ」
 苺火はすっと目を細め、薄花色の眼差しで苺火をじっと見上げる花魚子を見つめた。
「ねえ、花魚子ちゃんは、恋って本当にあると思う? 本能に錯覚させられた贋物の恋じゃなく、本当に心だけでするプラトニックな恋」
「そうですね……ないと思うわ」
 顎に人差し指を当てて暫し考え込み、花魚子はあっさりと答える。一瞬、普段の丁重な物言いが薄れる。時折見せる、花魚子のそんなぞんざいな、きっぷのよい気だても、苺火は好ましく思っている。
「人は皆、恋をしていると錯覚しているのだと思います。そうじゃなきゃ私たちはきっと、今この場に立ってさえいないわ。遥か昔から、人間は本能に従い、抗えずにいる。他の動物たちと同じよ。ヒトの場合はそこにたまたま、心というものが伴って、一つの生理現象に〝恋〟というそれらしい名前を与えただけ。私、そう思います」
 花魚子はにっこりと微笑んで言う。その答えに、苺火は甚く満足する。
 そう、花魚子と自分は似ている。自分に似て──冷淡だ。他の女の子たちのように、甘く情熱的でドラマティックな──例えばフランス映画のような虚構に、酔いしれることはない。いつだってどこか冷静に、自分という人間や、その心の機微を俯瞰している。
 その上で、微笑んでいるのだ。
 花魚子がどうしてそんな処世術を会得したのかはわからない。八年前の父親の失踪が、関係しているのかもしれない。だが少なくとも、花魚子のおっとりとした微笑は、苺火が人間社会で目立たずにいるために習得した技術と、同じ種類のものだった。
「ねえ、どうしてそんなことをお訊きになったの……?」
 その問いには、苺火は曖昧に笑う。花魚子のしっとりと冷たい手が、苺火の肌の上にするりと這わされる。苺火は、それを拒まない。
 毎日のように花魚子の部屋を訪れるようになっても、不思議と明日葉や桜子、そして星野と遭遇することはなかった。聞けば、
「古賀のお姉ちゃんたちとは、最近全然話していないんです。お兄ちゃんも、この部屋には全然。昼休みは、ほとんど毎日一緒なんですけどね。元々桐島さんがいたから、お兄ちゃんもしょっちゅうここに来ていたのかも。だから毎日遊びに来てくれるの、桐島さんくらいなんです」
「そもそも女子寮だもんね、ここ」
 苺火が思わず苦笑すると、
「でも、嬉しいです」
 花魚子は心の底から嬉しそうな笑みをこぼして、苺火まで嬉しくさせた。
 花魚子との交流は、すっかり荒みきった学園生活の中で、唯一の慰みとなった。花蝶館の何ともいえない居心地の悪さも、時と共にどんどん薄らいだ。周囲の生徒たちの、〝星野の一派〟への好奇の視線は未だ絶えなかったが、それもさほど気にならなくなっていた。花魚子が花園で穏やかに微笑んでさえいれば、苺火はそれでよかった。もちろん、雪見五月のことも忘れたわけではなかったが、忍と晴という二人の友人と離れて過ごすあまりにも膨大な時間に、思考が、麻痺しつつあったのかもしれない。
 花魚子と過ごすようになってから、格段にポケットの本を寄る辺とすることが少なくなっているのを、苺火は自覚していた。しかし、どうしてか手放すことだけは躊躇われて、花魚子の部屋を訪れる時も、ポケットにはいつもあの角張った感触を潜ませていた。
 星野と再び相まみえることになったのは、そんな折のことだった。

「桐島!」
 ある晩、一人夕食を済ませて鹿蹄館の自室に戻ろうとしていると、階段の下方から苺火を呼ぶ声が聞こえた。見れば、星野が真鍮製の手摺りに手を絡ませ、一階と二階とのあいだに構えられた踊り場から苺火を見上げていた。ほんの僅か、息が上がっているところを見るに、苺火の後ろ姿を見つけて、急いであとを追いかけてきたらしい。
「星野、」
 意外な人物に声をかけられて、苺火は目をぱちくりさせた。星野とは、あの事件の日以来、一度も言葉を交わしていない。
 通りすがる生徒たちから視線の集中砲火を浴びるのも構わず、苺火は踵を返し、星野の方へ歩み寄った。
「……久しぶりだね」
 そう言って、苺火は少し笑った。
「……おう」
 心なしか照れくさそうに、星野は視線を空に泳がせ、頬を掻く。ごく自然に、まるで友人を呼ぶかのような調子で苺火を呼び止めてしまって、罰が悪かったのかもしれない。
 星野は、なるべくさりげないふうを装って、言った。
「消灯時間までまだいくらかある。少し夜風を浴びないか(・・・・・・・・・・)
「いいね」
 もちろん、星野がそんな呑気な用件のために苺火を追ってきたわけではないことはわかっていた。これから星野が何について話そうとしているのか、既に苺火には何となく察しがついていた。
 鹿蹄館の階段を、星野を先頭に連れ立って下りる二人を、談話室や廊下で思い思いにくつろぐ生徒たちは好奇を隠そうともせずに見送った。この時間ともなれば、夕食を済ませて自室に戻っていく生徒がほとんどだったから、二人は生徒たちの波を逆走する形になり、余計に目立った。終始無言のまま、苺火たちは下駄箱に辿り着いた。
 それぞれ運動靴を三和土に転がし、突っかける。生徒たちは二人の一挙一動を食い入るように見つめていたが、誰一人としてあとをつけてくるような気配はなかった。それというのもやはり、星野の背中が獰猛なケモノのように、頑なに他を拒んでいたからで、あとに続くことを許された苺火でさえも、思わず気後れさせたほどだった。
 鹿蹄館から校舎群へと続く、急勾配の坂を下る。星野の足取りには寸分の迷いもなく、明かりの絶えた西棟へと入っていく。
 苺火はちらりと、未だ二階の職員室の明かりが灯る北棟を見た。先日、聴取を受けた際に通されたのは、北棟の一階の応接室だった。あれから程なくして行われた香西の葬儀に、苺火は出席しなかった。星野も、明日葉も桜子も花魚子も、〝星野の一派〟の者は全員だ。それどころか、常に香西と行動を共にしていた橘と入江さえも、葬儀には出席していないらしいと風の便りに聞いた。相変わらず、彼らの供述は意味不明のものばかりで、二人は香西の凄惨な死を目の当たりにして狂ってしまったのだとまことしやかに囁かれている。
 一体、彼らの内に何があったのだろう。二人は香西の死に際に、果たして何を見たのだろう。
 あの日、ギラギラと網膜を焼いた回転灯を思い出し、苺火は気分が悪くなる。軽く頭を振って脳裏に浮かんだ光景を振り捨てると、毅然と前を向いて星野の背中を追う。
 ひと気も明かりも絶えた夜の校舎は、耳が痛いほどの静寂に包まれていた。二人分の足音だけが、長く伸びた廊下に谺する。人に見つかるのではないか、という不安が苺火の胸をよぎったが、もし近くに人がいれば、星野が真っ先に気づいて隠れるように促してくるに違いない。何しろ星野は、屋上の分厚いドア越しにでも明日葉の気配を読んでみせたのだ。
 階段を上りきると、屋上へと続く秘色の扉には鍵がかかっていた。星野がそのつまみを指先で摘んでくるりと回す。扉はあっさりと、二人を外気の只中に放り出した。
「寒い」
 苺火はぶるりと体を震わせる。すると、星野が如何にも〝弱っちい奴〟とでも言いたげな視線をこちらに送って寄越した。
「我慢しろよ。ここくらいしか、ひと目につかない場所が思いつかなかったんだ。明日葉と桜子に盗み聞きされる可能性はあるけど、あいつらには別に聞かれても構わないしな」
「花魚子ちゃんの部屋は?」
「あいつの前では、あまり話したくない」
 苺火は押し黙った。
「お前聞いたんだってな。俺と花魚子の父親が、八年前の事件のどさくさでいなくなっちまったってこと」
 唐突に、星野は切り出した。やはりその話か、と苺火は小さく嘆息する。
「うん、聞いたよ。聴取の時に、なりゆきでだけど」
 苺火は素直にその事実を認めた。そうしながら、何気なく手摺りに腕を絡ませて、真下を見下ろす。時計塔の薔薇園が、小さく下方に見えた。やはり星野はこの場所から、二階堂と謎の女の邂逅を目撃していたのだ。最初にここを訪れた時には、苺火は遠くの景色にばかり目を奪われて、そんなことにはちっとも気がつかなかった。
 時計塔の天辺は、西棟の屋上よりも更に高く、見上げんばかりにそびえ立っている。あんな高さから落ちたらひとたまりもないなと、考えて、苺火はぞっとする。
「俺とお前は互いに互いの事情に首を突っ込まない、その約束の上で協力関係を結んだ。だが、その約束は俺にとってもお前にとっても不本意なことに破られた。もちろん、不可抗力だ。そのことでお前を責めるつもりも、代償にお前の事情を聞き出すつもりも毛頭ない」
 星野は誰からこの話を訊いたのだろうかと、苺火はふと疑問に思う。花魚子は言いそうにないから、明日葉か、桜子だろうか。だがそれも些か考えづらいような気もする。あの双子は、彼女たちのあいだでだけはあらゆる情報を共有しているようだが、他の人間にまでぺらぺらと余計なことを話すような人種ではないと、何となく、苺火はそう感じていた。
「だけどな、お前が俺の事情の一端を知っちまったことで、余計な想像の種を蒔いちまったってのは癪だ。だから俺は、お前に全てを話すことにした」
「……え?」
 意外な申し出に、苺火は思わず振り向いた。星野はゆっくりと苺火の隣に歩いてくると、手摺りに体をもたせかけた。
「何度も言うが、代わりにお前も話せとか、そういうことを言うつもりはないからな。お前はただ黙って、俺の話を聞いていればいい。質問は受け付ける」
「でも……」
「いいから黙って聞いてろ! ……わかってるよ、これはただの俺のエゴだ。でも、お前になら、話してもいいと、思った。だから、話す」
 最後の方はぼそぼそと、ぶっきらぼうな口調になる。苺火は口を噤んで、了承の意を示した。星野は、天を仰いで一つ息をつくと、話しはじめた。
「事の起こりはやっぱり八年前。当時俺は六歳、当然月舘にはまだ入学してなくて、月舘ってのがどんな場所かも知らなかった。幼稚園の年長組で──そう、もうすぐ小学校に上がれるって、わくわくしてたっけな。まあ、お前も既に大方検討はついてると思うが、当時俺の親父は月舘の関係者だった。回りくどいのは好きじゃないんでな、単刀直入に言おう。親父は月舘の理事会、鳥の会の構成員の一人だったんだ」
 苺火は驚いて、目を見張った。むろん、星野の父親が月舘に(ゆかり)のある人物であることは予測済みだった。しかし、せいぜいが月舘の教師というのが妥当な線で、まさか今まさに自分たちが対峙しているかもしれない鳥の会の一員だとは、考えつきもしなかったのだ。
 苺火の動揺をよそに、星野は淡々と話を続けた。
「親父が月舘でどんなことをやっていたのか、俺もよくは知らない。親父はたまに帰ってきても仕事の話は全くしなかったからな。それに、知っての通り鳥の会の構成員は、理事長を除き、顔も名前も明かしちゃいけない決まりになっている。だから、親父が月舘で仕事に就いていることについては、幼い俺や花魚子には知らされていなかったし、のちに母さんが、絶対に外部に洩らしちゃいけない機密事項だと親父から言い含められていたことも明かしてる。もしも鳥の会の構成員であることが外に知れたら、親父は即座に月舘から締め出されることになってただろうってな。
 そんな八年前のある日のことだ。一人の男が、親父を訪ねてうちにやってきた。親父は休暇を取っていて、珍しく連日家にいたんだ。男の来訪に、酷く驚いているふうだった。たぶん、その男も月舘の関係者、それもおそらくは、鳥の会の秘密を知る者だったんだろう。学園で、事故で誰かが死んだとか、玄関先で手短かに話して、親父は男と一緒に家を出ていった。
 俺が親父を見たのはそれが最後だ。つまり、親父の失踪と、二階堂の兄が例の事件で死んだ時期ってのは、完全に一致するんだよ」
 苺火は固唾を飲んで、星野の話に耳を傾けていた。星野をあんなにも月舘に縛りつけていた仄暗い因縁が、今、自分の眼前で、明かされつつある。
「俺が思うに、親父は──、」
 そこで星野は、一瞬、言葉に詰まったように見えた。或いはそれは、場の緊張に飲まれた苺火の、ただの思い過ごしだったかもしれない。
 星野はゆっくりと、己に含み聞かせるように、言った。
「親父は、消されたんじゃないかと思ってる」
 苺火は思わずまじまじと、すぐ隣にある星野の横顔を見つめた。月明かりに映し出されて、星野の蒼みの眼球が、鏡のように張り詰めている。
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