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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第五章 黄昏のお茶会

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「ったく二階堂の野郎、生徒をからかって遊ぶなんて、相変わらず悪趣味な奴」
 門をくぐったのちも、星野は引き続きご機嫌斜めだった。二階堂に時計塔を送り出されてからというもの、星野はずっと彼に対する罵詈雑言を並べ立て続けているのである。
「だから生徒に妙なあだ名なんかつけられちまうんだ。あいつ、なんて呼ばれてるか知ってるか? マッドサイエンティストだぜ。俺が思うに、これ以上あいつを表すのにぴったりな言葉はないね。本当にあいつは昔っから、常識に捕われなさ過ぎるというかなんというか、〝僕は男女両性を兼ね備えた存在に憧れていてね〟とか、普通小さい子供に言うようなことじゃないだろ? それが月舘で再会したら、本当にあんな容姿になっちまってて、驚いたなんの。俺が思うにあいつは、デリカシーってものに欠けているな。趣味も悪い。おまけに性悪で、うそつきで、とんでもない詐欺師のペテン師の腹黒野郎で──、」
 その口のぺらぺらとよく回ることと来たら、普段からこのくらいよく喋れば他の生徒たちからの親しみも買えるだろうに、と苺火を呆れさせたほどで、だけど苺火はもちろん、そんなことはおくびにも出さず、バリエーション豊かな貶し文句を右から左へ聞き流していた。いつだかに本で読んだ、〝ハイカラ野郎の、ペテン師の、いかさま師の、猫っかぶりの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴〟という貶し文句が、脳裏をよぎって少し可笑しくなってしまったことは、内緒だ。あれを書いたのは確か、夏目漱石だっただろうか。
「でも、よかったよ。二階堂先生、いい人そうだし、雪見(ゆきみ)さんにもこれからは堂々と会いに行けるし。僕、勝手に、二階堂先生のこと、もっと怖い人だと思ってたから」
「お前って、お気楽なやつだなあ……」
 すっきりと、憑き物が落ちたように笑う苺火に、星野は目に見えてがっくりと肩を落とした。むろん苺火とて、星野よりいくらかポーカーフェイスに優れているだけで、決して何もかもに納得がいったわけではない。あからさまに遮られた言葉。苺火にだけこっそりと送られたサイン。二階堂の右目の底で、きっと今も弾け続けているに違いない、シャンパンゴールドの星、〝罰の焔〟──あれは一体、何だったのだろう?
「なあ、転校生」
 いつの間にか、二階堂への罵詈雑言を並べ立てるのをやめて、ふっつりと押し黙っていた星野が、数歩遅れた背後から不意に苺火を呼んだ。
「うん?」
 何気なく振り返った苺火は、そこにある星野の表情の翳りにすぐに気づいて、これは心して聞かねばなるまいと、緩みきっていた表情筋を引き締めた。
「あの時計塔が立入禁止になった理由って、聞いたことあるか」
「──うん、何となく、それっぽいものは。昔、あそこで事故があったって」
 星野は頷いた。
「そうだ。まあ、正確に言えばあれは事故じゃなくて、事件だけどな。八年前、月舘のとある教師が時計塔の天辺から投身自殺を図って、その教師に好意を抱いていた女子生徒もまた、あとを追うようにして同じ場所から飛び降りた。教師は死んだが、女子生徒は本当に奇跡的に一命を取り留めた。その女の名前が、雪見五月なんだ」
 苺火は俄かに、顔色を変えた。
「それって……」
「ああ。二階堂がうそをついていなければ、時計塔の地下にいたのは、その生き残りの女だ。自分が誰だかわからないってのも、その時の後遺症ってことで納得がいく。死んでないのが不思議なくらいの高さから、落っこちてるんだからな」
 苺火は呆然と、たった今星野に聞いたばかりの事実を反芻した。
 ひとつになりたいの。あの人になりたいの。
 今、ようやく、小鳥の少女──雪見五月の唇から、幾度となく繰り返されてきたあの言葉の真意を知ったような気がして、ぞくりと肌が粟立つ。
「だが、その女は今も昏睡状態で、病院に入院していると聞いた。秘密裏にここに移されたって可能性も否定はできないが、それだけじゃなくて、この事件にはいろいろと不可解な点が多いんだよ」
「お前のその情報はどっから入ってきてるんだよ……」
 混乱する頭、のしかかる重圧を少しでも軽くすべく、苺火は乾いた笑いを浮かべたが、
「言っただろう。古賀のおっさんがかつて事件の捜査に加わっていたって」
 その言葉が、苺火の逃避を無情にも切り裂いた。
「そもそも、その教師が本当に自殺だったのかどうかも怪しい。女子生徒による無理心中だったって可能性もある。なんせ、女は教師に好意を抱いていたんだからな。ところが事件後、女子生徒の責任は一切問われることなく、教師の死は即座に自殺として片付けられた。まあ、被疑者の意識が戻らず、確かめようがないと言ってしまえばそれまでだが、雪見五月が実は既に昏睡状態から目覚めていて、しかもその身柄が二階堂の手中にあるとなれば話は違ってくる。その死んだ教師ってのが、二階堂鶫美の実の兄だからだ」
 〝二階堂鶫美はその事件の関係者〟──今、苺火の中で、ばらばらに浮遊していたいくつもの点が、線として繋がって、一つの輪郭を成していく。
「雪見五月の無罪を誰よりも強く主張したのは、二階堂だったそうだよ」
 ──まさか二階堂鶫美が被害者側の遺族であったなんて、思いも寄らなかったけれど。
「もし、最悪の事態を想定したとすれば」
 星野の声が、まるでオブラートの繭を介したかのように、遠い場所から聞こえる。
「二階堂はあの場所で、人知れず女への私怨を晴らそうとしている可能性がある。だからまだ、油断はできない。あいつに気を許すな」
 唐突に目前に突きつけられた可能性に惑い、歩くことをすっかり放棄してしまっている、棒立ちの二本の足。立ち止まる苺火を、星野が追い越していく。
「──もしかしたら……いや、やっぱり、と言うべきかな」
 頑なに他を拒む、星野の背中が言う。
「あいつが、二階堂鶫美こそが、俺の求める答えを知る人物なのかもしれない」
 苺火はぼんやりと、星野の背中を見つめる。その背に近づきたくて一歩、足を踏み出す。
「ねえ、星野。お前が求めてる答えって、一体──」
「互いの事情に首は突っ込まない約束だろ?」
 追い縋りかけた苺火の言葉は、すげなく星野に阻まれる。
「理由はどうあれ、俺たちには月舘の秘密を暴くという共通の目的がある。そのために協力関係を結んだんだ。俺たちの関係はそれだけだ。それ以上でも、以下でもない」
「──ああ、そうだったね」
 遠い星野の背中を、苺火は見送る。届かない。あの、孤独なケモノの背中には。どんなに手を伸ばしても、決して、彼が心を開いてくれるその時までは。
「お前が転校してきてから、真実に一歩近づけたんだ。これでも、感謝はしてるんだぜ。……そういえば、もう一人の女のこと、訊きそびれちまったな。俺の仕掛けた盗聴器を片っ端からぶっ壊したとかいう、例の。随分と暴力的なこった。どうやら二階堂にはまだ、いろいろと探りを入れてみる必要がありそうだな」
 そう言って、気合いを入れ直すように毅然と星野が前を向いた、その時だった。
「よう、探したぜ、星野」
 どこかで聞いたような声が背後からかかり、苺火ははっと、星野は酷く冷静に、後ろを振り返った。
 そこにあった姿に、苺火は息を飲んだ。転校初日に星野に絡んでいた、空手部副主将であるという鋭い眼光の香西、その取り巻きである金髪と長髪の三人組が、明らかにただならぬ不穏な気配を纏って、そこに立ちはだかっていたからだ。
「俺たちとの約束すっぽかして、鶫美センセと遊んでたのかよ。つれないじゃねえの」
「それってつまり、大事な妹ちゃんがどうなってもいいってことだよなあ?」
 口々に言い募ってくる取り巻き二人に、苺火はちらりと隣の星野の顔を盗み見る。星野が動じた様子は、ない。
「……どういうことだ? 星野」
 唇から漏れた声は、自分のものとは思えないほど固く強張っていた。
「あいつらに呼び出されてた。すっぽかして、ここに来た」
 平然と、星野はそう言ってのけた。
 平然としていられなかったのは、寧ろ苺火の方だった。
「な……何やってんだよ! 花魚子ちゃんに何かあったらどうするんだ!」
 あまりにも無責任だと、苺火は星野に対して一抹の怒りさえ覚えていた。たちの悪い上級生に目をつけられてしまうような素行ばかりしているのだから、妹にまでその魔の手が及ばないように最低限の配慮をすることは、兄として当然の務めだと思ったのだ。
 さっき、花魚子はまだ花蝶館の自室に戻っていなかった。もしかしたら、もう手遅れになっているかもしれない。
「ああもう、五月蝿えな! いいからちょっと聴け!」
 俄かに苛立ったらしい星野が口調を荒げ、香西は五月蝿そうに眉を顰めた。
「何だ、内輪揉めか?」
 リーダー格である香西が機嫌を損ねつつあることを即座に察知した取り巻き二人が、香西に乗っかるようにして騒ぎ立てはじめた。
「悪ィんだけど、そういうのはあとにして俺たちの質問に答えてくれる?」
「お前の大事な妹、どこやった?」
 ──あれ、と苺火は思った。
 どうやら香西たちは、まだ花魚子の足取りを掴めずにいるらしい。
「女子寮にもいなかったんだけど、どういうコト? お前の仕業だよなあ?」
「吐けよ、薄情野郎」
 苺火が考えを巡らせているあいだにも、取り巻き二人は口々にそんなことを並べ立てている。
「──星野?」
 おそるおそる、苺火は星野の顔色を窺った。
「柊木犀の抜け道だ」
 唐突に、星野はそう言った。
「え?」
「煉瓦塀が崩れたあの穴だよ。お前とはじめて会った夜に無理矢理引きずって通らされた。あそこの奥に花魚子を隠してある。まさかあいつらも、俺が大事な妹を外にほっぽり出しておくとは考えなかったんだろうよ。はっ、ざまあ見やがれ」
「お兄ちゃん……!」
 その時、耳に覚えのある声がして、はっとして振り返ると、今にも泣き出しそうな顔をした小さな女の子が、柊木犀の抜け道から這い出してくるところだった。亜麻色の髪は夜風に煽られ多少乱れているが、見紛うはずもない。花魚子だ。
「おっと。見つけたぜ、妹ちゃんよお」
 金髪が、高らかに笑う。
「いいところに出てきてくれたじゃねえか。見せしめだ。妹ちゃんがどんな罰を受けるか、目ェかっぽじって見とけよ、星野」
 長髪が、拳を鳴らして一歩こちらに踏み出してくる。
「──あ……」
 花魚子は怯えて、がくがくと膝を震わせながら、それでも懸命にコンクリートの地面を踏み締めて、耐えている。
「転校生! 花魚子連れて逃げろ!」
 突然、星野が大声を上げた。
「は? 僕!?」
 苺火は狼狽した。こうなってしまった以上、せめて星野の足手まといにならないように花魚子を庇うことに専念しようと覚悟を決めた矢先の、その言葉だったからだ。
「女子寮だ! 明日葉か桜子に花魚子を預けろ! あいつらにはさすがにこの屑野郎共も適わねえ。そのあとのことは──任せる!」
「でも……!」
 苺火は逡巡した。何故ならこの場合、どう考えても星野が自分を犠牲にしようとするであろうとすることは明白だったからだ。しかし、星野は苺火にそれ以上何も言わせなかった。
「いいから早く行け! ──桐島(・・)!」
 がむしゃらに、星野が声を張り上げた。
 ──体が勝手に、己が成すべきただ一つの事柄に向かって、猛然と動きはじめていた。苺火はくるりと踵を返すと、未だその場に呆然と立ち尽くしている花魚子に向かって真っ直ぐに駆けた。すり抜けざまにそのか細い手を攫うと、花魚子は一瞬足をもつれさせて、引っ張られたその力のままに前につんのめり、ようやく足を動かすことを思い出したように、星野の方に懸命に顔を向けたまま、覚束ない足取りでよろよろと歩きはじめた。
「急ごう、花魚子ちゃん!」
 その歩みの、あまりの遅さに痺れを切らして、苺火は彼女を叱咤した。おそらく、兄を危険のさなかに置き去りにすることに、迷いを捨てきれずにいたのだろう。
「でも、お兄ちゃんが……!」
 花魚子は次第に遠ざかっていく兄の背中を、縋るように、食い入るように、大きな瞳を見開いて見つめていた。
「大丈夫、きみを女子寮に送り届けたら、必ず僕がお兄さんを何とかするから!」
 その時には、もう全てが終わったあとかもしれないけれど──という考えが脳裏を掠めたことは、胸の内だけに留めて、黙っておいた。
「……わかりました」
 きっと花魚子も痛いくらい、そのことはわかっていたに違いない。けれど花魚子は目を閉じて、自分に言い聞かせるようにそう呟くと、キッと前を向き、もうあとを顧みもせずに駆け出していた。花魚子の手を引いて走りながら、苺火は最後に、一度だけ星野の背中を振り向いた。ケモノの背中は全てを拒絶しながらも、これから我が身に起こるであろう全ての出来事に対して、俯瞰し、諦観の境地に達しているように見えた。
「あっ、おい、ツレが逃げるぞ!」
 金髪が、焦ったような声を上げる。
「追いかけるか? 香西」
 長髪が、リーダー格の判断を仰ぐ。
「──いや、いい。女に手を上げるのは趣味じゃないんでな。その代わり、こいつにはきちんと躾ってもんをしてやらねえと、なァッ!」
 人を嬲る愉悦に酔いしれた笑い声と共に、柔らかな腹の肉に拳がめり込む鈍い音がし、星野が嗚咽にも似た呻き声を上げた。苺火は現実から目を背けるように、迷いを振り捨てるように、素早く前に向き直った。ふと、花魚子の小さな横顔を見ると、彼女は蒼褪めた顔できゅっと唇を噛み締め、それでも決して後ろを振り返ることは、なかった。

 ──コツリ。
 その微かな兆しを、二階堂の鼓膜は聞き逃さなかった。
「おや、ご機嫌麗しゅう、砂貴子(さきこ)さん。今日もお綺麗ですね」
 気の赴くままにロッキング・チェアを揺らしながら、二階堂はにっこりとあの仮面の笑みを貼り付けて、〝彼女〟を見据える。
「口を慎んで頂戴、二階堂」
 女は不快そうに整った眉を顰め、絶対零度の眼差しで二階堂を射抜く。
「ハイハイ、相変わらず口が軽くてすみませんねえ」
 二階堂は肩をすくめる。上品で官能的な香水の香りが、鼻先を微かに掠める。
「余計なお喋りは要らないわ。単刀直入に訊かせて頂く。ワタリの子(・・・・・)はどう?」
 女は、つい今しがたまで少年二人が座っていた黒い革張りのソファーに深くかけ、すらりと長い脚を組む。ベージュのタイトスカートから、形のよい太腿が覗く。きっちりと巻かれたマリーゴールドの髪を、女は邪魔そうに背中へと流す。ツーピースのジャケットの胸元には、鮮やかな朱色のスカーフが巻かれている。
「やはりまだ、記憶が混線しているようです。これはちょっと、時間がかかるかもね」
 二階堂は両手の指を絡ませて組み、女の方に向き直る。指先で、左手の甲をトントン、と叩くのは、何か一つの物事をじっくりと見据えようとする時の二階堂の癖だ。
「そう」
 女の返答はどこまでも淡白だ。二階堂の言葉にも、眉一つ動かさない。まるで感情そのものが、彼女の内から欠落してしまっているかのように。二階堂はあっさりと女の表情を読むことを諦めて、目を伏せる。整った唇に、妖しい笑みが灯る。
「しかし、子供なんていうのはちょろいものだ。ちょっといい顔して甘やかしておけば、すぐに堕ちる。今頃二人してさっちゃんのこと、話してるんじゃないかな」
「二階堂。わかってるの? 私たちには時間がないのよ」
 女は俄かに苛立った様子だった。この状況を楽しんでいるかのような二階堂の口振りが、気に食わなかったのかもしれない。
「わかってますよ、砂貴子さん。そのために僕の方から、わざわざあの子たちに近づいたんですから。僕たちの悲願を遂げるために、ね」
 二階堂が言葉を言い終えるのと、女がすっくと立ち上がるのは、同時だ。つり目がちのきつい目元に、鋭い意思の焔が宿るのを、二階堂は横目で、楽しそうに眺める。
「ええ。必ずや子供たちに、解放を与えましょう」
「貴女の御心のままに」
 二階堂は瞳を閉ざし、既に幾度となく繰り返してきたその言葉を、口に含んで味わうように、舌の上で転がし、愉しむ。口の中でほろりとほどけて、ほろ苦い洋酒の風味をあふれさせる、チョコレート・ボンボンのように。その右目の奥底では、今もシャンパンゴールドの(エトワール)が弾け、理に従って絶え間なく循環し続けている。
「──それはそうと、」
「はい?」
 女は神経質そうに眉を寄せて耳を澄ませ、二階堂は不思議そうに彼女を見上げて小首を傾げた。女子生徒からの二階堂の人気は、こういうちょっとした仕草によるところも大きい。
「何だか表が騒がしいみたいよ? あの子たちに何かあったんじゃないかしら」
「──苺火君と夜鷹君に?」
 その一瞬にして、二階堂の表情に険しい色が走る。ロッキング・チェアを蹴破らんばかりの勢いで椅子から立ち上がり、二階堂は強い調子で女を問い正す。
「さっき、二人を見送った時には変わった様子は何もなかった。一体、二人に何があったっていうんです。貴女には何が聞こえているっていうんです」
「さあね、そんなに気になるんなら貴方が直々に足を運んでみたらいいんじゃないかしら。──私はもう行くわ。それじゃ」
 颯爽とマリーゴールドの髪を揺らして、女は去る。あとに残されたのは、呆然とその場に立ち尽くす二階堂と、女の仄かな香水の香りばかり──。

 苺火は無我夢中で、駆けた。
 花魚子の手を引き、花蝶館へと続く舗装された坂道を駆け上がり、白い漆喰で塗り固められた上品な印象の建物の扉を、今日ばかりは正面きって、躊躇なく開けた。
 玄関先に集っていた少女たちが、突如として物凄い勢いで飛び込んできた男子生徒の姿に俄かにどよめき、悲鳴を上げた。
「桐島君!」
「いっちー!」
「明日葉ちゃん、桜子ちゃん」
 しかし、集団の中にいた古賀姉妹が口々に苺火の名を呼んで駆け寄っていったのと、渦中の花魚子がおとなしく苺火に手を引かれているのを見て取ると、少女たちは苺火を警戒すべき対象ではないと即座に認識を改めたらしく、ざわめきはすぐに収まった。その場にいる全員が固唾を飲んで、古賀姉妹と苺火とのあいだで交わされようとしているやり取りを見守っていた。
「さっき、香西たちが花蝶館に押し入って、花魚子を探しに来たの。花魚子が部屋にいないとわかるとすぐに出ていっちゃったけど、ずっと戻ってこないからどこに行っちゃったのかとみんなで心配してたのよ。──桐島君、一体何があったの? 夜鷹は?」
 明日葉は不安げな面持ちで、苺火と、苺火に手を引かれた花魚子の顔を見交わした。
「今は呑気にそれを説明してる場合じゃない──って感じかな?」
 腰に手を当てた桜子が、ずっと俯いたまま押し黙っている花魚子の、蒼褪めた小さな顔をチラリと見て言う。苺火は頷いた。
「明日葉ちゃん、桜子ちゃん。とにかく今は花魚子ちゃんを頼むよ。あいつ、一人で香西たちを相手にしてるんだ。たぶん、抵抗の意思はない。あいつらの気が済むまで、やられるつもりでいる」
 花魚子ちゃんを守るために、と続けようとして、握っていた花魚子の手が微かに震えたのに、苺火は思わず口を噤んだ。花魚子は俯きがちに、やはり唇をきゅっと噛み締めて、何も言わない。きっと花魚子自身が一番よく理解しているであろうことを、今、この場で口にしてしまったら、彼女を酷く傷つけてしまうような気がした。
 明日葉が、悔しそうに歯嚙みし、顔を歪めた。
「あいつ、また一人で全部抱え込んでるんだ……。どうしていつも何か事が起きる前に、あたしたちを頼らないのよ! あたしたちなら、香西だって……!」
「星野はたぶん、巻き込みたくないんだと思う。とにかく僕は、星野のところに戻るよ」
 苺火はおもむろに、花魚子の手をするりと離すと、薄い背中をそっと、しかし有無を言わさぬ力強さで前へと押し出した。
「桐島さん……!」
 薄花色の眼差しが、追い縋るように苺火の姿を捕らえたけれど、苺火の意思を汲み取った桜子に、花魚子は敢えなく捕まってしまった。
「わかったよ、いっちー。カナっぺのことはあたしたちに任せて、早く夜鷹のところに行ってあげて」
「先輩、私、養護の先生呼んできます!」
 一年生と思しき一人の生徒が、名乗りを上げた。
「誰か力のある男の先生も何人かいた方がいいですよね?」
 それを皮切りに、少し離れた場所から会話に耳をそばだてていた生徒たちが、わらわらと古賀姉妹と花魚子、苺火たちの周りに集まってくる。
「そうね、今の時間は先生たちもみんな教員寮に戻っちゃってると思うから、一年の子、お願い。あたしたちは花魚子の傍にいるわ。香西たちがこっちに戻ってきても困るし」
 一年生の女の子たちからも絶大な支持を得ているらしい明日葉が、てきぱきと周囲に指示を出し、数人の少女たちが教員寮に向かって駆け出していった。
「桐島さん、お兄ちゃんを──お兄ちゃんを、よろしくお願いします……!」
 桜子に肩を抱かれていた花魚子が、一歩前に進み出て深々と頭を下げた。
「うん。任せて」
 そう言って、苺火は無理やり笑顔を絞り出してみせたものの、うまく笑えている自信がなかった。
「怖かったね、カナっぺ。偉いよ」
 桜子にこてんと頭を預けて、それでも決して涙を見せることはなく、未だ蒼褪めた小さな顔で歯を食いしばっている花魚子を見たのを最後に、苺火は再び踵を返し、彼の人生においてこんなに猛然と走ったのははじめてなのではないかというくらいの全身全霊で、時計塔へと向かって駆けた。
 時計塔の周囲は、奇妙に静まり返っていた。さっきまではあんなにも響いていた香西たちの怒声や、容赦なく人を殴り、或いは蹴り飛ばす鈍い音も、聞こえない。
 おそるおそる、先ほど星野と別れた通りを覗き込んで、苺火は絶句した。
 そこにはぐったりと地面に転がる星野と、傍らに膝を突く二階堂の姿があったのだ。
「星野!」
「苺火君、」
 急いで駆け寄ると、先に気がついて顔を上げたのは二階堂だった。普段よりいくらか険しい表情ではあるが、落ち着いている。二階堂の白衣は、夜の只中にあってもしらじらとよく目立った。星野は目を閉じており、動く気配がなかった。
「二階堂先生! 星野はどうなったんですか? あいつらは……?」
 言い募る苺火に、二階堂は絞り出すように薄く笑ってみせた。
「幸い、早い段階で外の物音に気がついてね。香西君たちは逃げちゃったけど、大丈夫、夜鷹君の怪我は大したことないよ。だけど一応、保健室には行った方がいいね」
 どうやら、二階堂が外の喧騒に気がついて、香西たちを追い払ってくれたらしい。苺火はほっとして、その場にへたり込んでしまいそうになった。星野は本当に、ぼろ雑巾のように地面に転がっていたから、事態はもっと悪い方向に進んでいるのではないかと、気が気でなかったのだ。二階堂先生が時計塔に住んでいてくれて本当によかった、と苺火は未だ残る二階堂への様々な疑念はさておき、ひとまずは心の底から彼に感謝した。
「今、女の子たちが、養護の先生や他の先生たちを教員寮に呼びにいってくれてます。たぶん、もうじきこっちに来るはずです」
「ああ、それは助かるね。香西君たちも、捕まえてとっちめなくちゃいけないし。そう、罰を与えないと」
 そう言って、二階堂はこっそり苺火にウィンクをした。おどけて怖いことを言う二階堂に、ようやく落ち着きを取り戻してきた苺火も、少し笑った。
「おい。花魚子は、無事なんだろうな」
 あまりにも静かなので、気を失っているものだとばかり思っていた星野の声が、ふと夜の狭間を裂いて鳴ったので、苺火はびっくりして、仰向けに転がっている星野に目をやった。見れば、ぐったりと横たわったその姿勢のまま、目だけはぱっかりと見開かれ、虚空を見つめるその様は、まさしく幽鬼である。
 こんな時でも、瞳に爛々と輝くケモノの眼光だけは絶えないことに苺火は感心し、こんなのとお化け屋敷で遭遇したら卒倒ものだな、と苦笑した。
「大丈夫、ちゃんと明日葉ちゃんと桜子ちゃんのところに送り届けたよ。先生たちを呼びにいったのは一年の子たちだから、今、二人がついてくれていると思う」
「そうか。ならいい」
 苺火の返事を聞いて安堵したのか、星野は上半身を起こそうと、地面に腕を突き、体を捻った。咄嗟に二階堂が肩を支えて、星野が体を起こすのを手伝う。そうしているのを見ると、星野の消耗が想像以上のものであることは傍目にも明らかだった。苺火は痛ましく思いながら、星野がゆっくりと時間をかけて体を起こすのを見守った。
「……二階堂に借りを作っちまうなんて、不覚だ」
 ようやく上半身を起こすことが叶うと、星野は面白くなさそうに二階堂から目を逸らし、
「口の減らない子だねえ」
 と背中を抱える恩人の苦笑を買っていた。
「──なあ、星野」
 ふと、星野に問い正さなければならないことがあるのを思い出し、苺火はおもむろに口を開いた。
「何だ」
 人前で醜態を晒してしまったのが本意ではなかったのか、それまでは目を合わせようともしなかった星野が、ようやくしっかりと視線を合わせ、苺火を見上げてくる。
「香西たちに、呼び出されてたんだろ? どうしてもっと早く、そのことを言わなかったんだ」
 口調は覚えず険しいものとなった。星野は再びつと視線を伏せ、押し黙った。
「──先約があるって、言ったんだけどな。あいつら、聴く耳持ちやしねえ」
 暫くののち、ぼそぼそと返ってきた言葉に、苺火は唖然とした。
「……馬鹿じゃ、ないのか」
 つまり星野は、苺火との約束があったから、ただそれだけの理由で、自らの身を危険に晒すことを選んだのだ。たった、それだけで。そんな馬鹿みたいに正直な理由で。
 星野は気まずそうに、あからさまに苺火の方から顔を背けた。
「五月蝿え、言われなくてもわかってるよ、俺がとんでもねえ馬鹿野郎だってことくらいな。でも、約束破るわけにはいかねえだろうが。お前が──桐島が。待ってるってわかってたんだ。だから、せめて花魚子だけはあいつらの目につきづらいところに隠して、ここに来た」
 星野が言葉を続けるあいだにも、苺火はへなへなと気が抜けて、とうとうその場にすとんと腰を落とし、座り込んでしまった。
「おい、どうした。桐島?」
 苺火が急に項垂れてしまったので、星野は心なしか心配そうに、こちらの顔色を窺ってくる。自分よりよほど重傷を負っている人間に、身を案じられてしまっている。苺火は何だか笑い出したいような気持ちになった。
「──星野、」
 顔は上げないまま、苺火は言った。
「うん?」
「僕の名前、覚えてたんだな」
 今、星野の顔を見たら、噴き出してしまいそうだったからだ。
「……馬鹿にしてんのか?」
 星野がむっとするのが、気配で伝わってくる。本当に、星野はわかりやすい奴だ。馬鹿正直で、笑ってしまいたいくらいに。
「ああ、そうだよ。お前は本当に、本物の、大馬鹿だ」
 星野は押し黙った。二階堂は、何も言わなかった。ざわめきが、遠くから近づいてくる。きっと女の子たちが、教員寮から先生を呼んできてくれたのだろう。
 苺火は瞼を閉ざし、心地よい疲労がようやく懐に押し寄せてくるのを、感じていた。

 諸々の疲れが相まって、その晩は部屋に戻るとすぐに深い眠りに落ちた。珍しく悪夢にうなされることもなかったのに、翌朝目が覚めてもまだ、体中に気怠さが残っていたほどだった。それでもどうにかベッドから体を引き剥がすと、顔を洗って歯を磨き、いつものように忍と晴との待ち合わせ場所に向かった。
 鹿蹄館が、奇妙に浮ついた気配で充満しているのを、苺火は肌で感じた。心なしか、自分を見てひそひそと何か囁き交わしている生徒もいるような気がする。
 もう昨晩の話が生徒たちのあいだに広がっているのだろうかと、噂というものの足の速さに半ば呆れ果てながら、苺火は二階の階段の踊り場に辿り着いた。
 何ともいえない表情を浮かべた忍と晴が、そこで苺火を待ち構えていた。
 苺火は、きっと噂に尾ひれがついて、苺火が手ずから香西たちに何かしでかしたような話になっているのだろうと考え、なるべく普段通りの振る舞いを心がけて、二人に声をかけた。
「おはよう。……一体どうしたの? 何だかみんな、妙にざわついてるみたいだけど」
 苺火は改めて、きょろきょろと辺りを見渡した。気のせいなどではなく、生徒たちは廊下のあっちでもこっちでも群を成し、その視線は皆ちらほらと苺火の方を窺っている。果たしてどんな武勇伝が仕立て上がっているのだろうかと、苺火はそら恐ろしくなった。
「苺火……お前昨日、香西と何かあったのか?」
 強張った顔で口火を切ったのは、忍だった。その横では晴が、何か恐ろしいものでも見るかのように苺火を凝視している。苺火と親しく、既に随分気心も知れてきた二人までもが、噂に飲まれてそんな態度を見せたことを、苺火は意外に思い、また困惑した。
「僕っていうか、おもに星野が、だけど……。一体どうして? 何かあったの?」
 一拍の沈黙ののち、忍は努めて冷静に、端的な事実だけを述べた。
「香西が、死んだんだ」
 未だ瞼にこびりついていた眠気が、一気に消し飛んだ。
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