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五月の雪は斯くて渡る 作者:饗庭璃奈子

第一章 時計塔の幽霊

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 高くそびえる時計塔の天辺で、一人の少年と一人の少女が手を結んでいる。少女の体躯の全ては空にあり、少年は背を折り曲げて、今しも巻き添えを食わんばかりに石造りの窓から身を乗り出し、宙吊りとなった少女の蒼白い手を頑なに捕らえている。しかし、少女がその手を握り返すことはない。作りものめいた白さの指先は力なく少年の肌に添えられ、諦観の境地にあるかのように、すべらかな、花弁のような瞼を伏せるばかりである。
 今や小柄な少年の、か細い腕の一本によって、少女の命は繋ぎ留められているのだった。少女を支える少年の腕は、着実に臨界点を迎えつつあった。骨や肉がギチギチと音を立てて軋み、絶え間ない苦痛に少年は顔を歪めた。そうしているあいだにも、石壁は容赦なく肌に食い込み、じわりじわりと着衣に血を滲ませていくのだった。
「──**ちゃん、」
 ふと、少年が少女の名を呼んだ。声は掠れ、言葉は耳を澄ませばどうにか聞き取れる程度の囁きにしかならなかったが、それでも少女は少年が自分の名を呼んだことを悟り、おもむろに顔を上げた。
 少女は驚いた。痛みのふちにあって、少年の唇が、僅かな笑みさえ形作っていたからだ。少女を見つめる双眸は、力強く、危うい、硝子のように鋭利な光を宿している。少女はこの期に及んでなお、(しず)かに微笑う少年から、目を離せなくなる。その、魔性の笑みを灯した唇が、ゆっくりと動いて、言葉を紡ぐ。
「僕と、ひとつになろうよ」
 煌めく黒曜石の瞳を、少女は大きく見開いた。
 そして──ふうわりと、微笑んだ。
 まるで、ダンスの誘いに応じる気高い身分の娘のように、少女の微笑は優雅だった。しかし、自分の見なりや仕草が如何に美しいかということさえ、少女は知らなかった。それは少女が生まれながらにしてずっと、人目を憚り、人や、自分と向き合うことから逃げるようにして生きてきたからで、その無知さえも愛おしいと、少年は感じる。
 優雅な微笑と、ようやく握り返された手によって少女の了承の意を知ると、少年の足は軽やかなステップを踏む。今度こそ、二人の体は支えるものを失くして完全に宙に放り出され、重力に従い、地上に向かって真っ逆さまに落下する──。

 ──ガタン!
 鼓膜を引き裂かれるような轟音と共に、ひと際大きく車体が揺れ、少年ははっと目を覚ました。窓の外は闇に濡れている。列車はどうやら、長いトンネルの中に入ったようである。今の轟音はその際の、風圧によるものであったらしい。
 体中にぐっしょりと、冷たい汗をかいていた。悪夢に酷く、うなされていたような気がする。しかし今となってはもう、それがどんな夢であったのかさえ思い出せない。耳鳴りのするような後味の悪さだけが、やけに鮮明に五感に刻み込まれているばかりだ。慣れない列車の旅に、少し疲れているのかもしれない。何しろもう四時間近く、ガタゴトという代わり映えのしない律動に、身を任せ続けているのだから。
 何気なく、厚手のコートのポケットの辺りに手をやって、その内側に角張った感触があることに気づき、少年は家から持ち出してきた一冊の本のことを思い出す。長い旅路の慰みになればと、無造作にポケットに突っ込んできた古びた小さな本を、結局一度も開くことはしていない。ただ、時折思い出したようにその形を確かめることで、わけもなく襲い来る不安から逃れるための、少年にとってのいくらかの気休めにはなっていたけれど。
 少年はそっと、ポケットに手を滑り込ませて本の背をなぞり、脳裏にこびりつくおぞましい感触を振り捨てるように、蒼褪めた小さな顔で毅然と前を向く。少年を運ぶ列車が深い闇の帳にくるまれてしまったので、それまでは気にも留まらなかった退屈な車室の細部が、否が応でも目につく。
 狭くて、薄暗い。車体が揺れ、体の底深くに律動が刻み込まれるたびに、鉄と鉄とが擦れる不快な軋みが鼓膜を打つ。低い天井には、黄色い小さな電灯が規則正しく並び、時折、振動に絶え兼ねたようにちかちかと瞬く。乗客は少年の他に誰もおらず、淡いベージュの蛾が一匹、しきりに電灯にぶつかっては、乾いた羽音を立てている。座席は二席ずつ、二対が向かい合わせのボックス席になっていて、紺碧を基調とした縦縞模様の座面は例外なく端がほつれて破れ、黄ばんだ綿が薄明かりの下に晒されている。鼻を突く埃っぽい匂いと相まって、少年の乗る列車が、もう随分と使い古されたものであることが伺い知れる。
 少年が知る都会的な列車とは、随分様子が違っていた。その事実は、少年にいくらかの心細さと、未知なるものへの淡い期待を抱かせる。蜜蜂(・・)に送り出されて家を出たのはほんの数時間前のことのはずなのに、今となってはもう、遠い昔に起こった出来事のようにも思える。
 いつの間にか、窓の外が白みはじめていることに、少年は気がつく。トンネルの出口が近づいてきたのだ。澄明な朝の大気に晒されて冷気を纏った硝子窓に、頬をくっつけんばかりに顔を寄せ、少年はじっと、列車の行く手に目を凝らす。ポケットにしまわれた本だけが寄る辺であるかのように触れる指先に力を込め、例えその先にどんな過酷な運命が待ち構えていようと受け止めて、抗うことができるように。少年は、大きな瞳を殊更に見開き、どんな些細な兆しであっても見逃すまいと、息を殺す。
 その瞬間は突然に、そして一瞬にして訪れる。再度の轟音と共にぱっと視界が拓け、あまりの眩しさに、少年は目の前にちかりと星の飛ぶのを見る。その眩しさにも慣れてしまうと、車窓の外に広がる世俗を離れた景色に、少年は思わずうっとりと嘆息する。
 暗闇の中にあった時には、列車は超特急でトンネルを駆け抜けているかのように思われたが、実際にはさほどの速度は出ていないらしかった。その証拠に、色とりどりの野の花が、硝子越しの目と鼻の先に、線路に沿って行けども行けどもあふれんばかりに咲き乱れているのを、目で追って見て取ることができる。深い緑の木々が視界一面に生い茂り、その更に向こうには、石造りの古めかしい時計塔が、場違いに突き出ているのが見えた。
 まるでどこか遠い異国の歴史的遺産か、或いは浮世離れしたおとぎの城か、それでなければあの世の入り口にでも辿り着いてしまったかのような気分だ。しかし、目前に広がるこの森林は、少年がこれから学び舎とする学園の所有する広大な敷地のごく一部に過ぎず、時計塔はそのまさに中央に君臨する、学園の象徴ともいえる建物なのである。
 ああ、自分はとうとう、こんな果てにまで来てしまった。
 どこか諦観にも似て、少年──桐島苺火(きりしまいちか)は思う。

「それじゃあ、行ってくるよ」
 リビングに向かってそう声をかけ、足を滑り込ませたローファーは、その日トーストにのせたピーナッツ・バターのようにつややかに光っていた。真新しい制服の生地はまだ固く、肌に馴染まない。落ち着かない心地を誤摩化すように、苺火(いちか)は何度も身じろぎをし、革のトランクの取っ手を持ち直さなくてはならなかった。
「え、もう行くの? 早いわね。私とお母さんも、行けたらよかったんだけど」
 名残惜しそうにリビングのドアから顔を覗かせた蜜蜂(みつばち)は、まだエプロンを着けたままだ。水色と白の細いストライプで、ふちにはフリルの付いた、蜜蜂のお気に入りのエプロン。淡い風合いが、色素の薄い彼女によく似合っている。
「別にいいよ、そんなの。どっちにしろ、出張だろ」
 苺火はつっけんどんに言い放つ。春先とはいえ明け方や暮れはまだ肌寒く、コートのポケットの中で握り締めた指はかじかんでいる。これから向かう先はもっと寒いだろうからと、蜜蜂は冬用のコートを着ていくことを勧めてくれた。寒いのが苦手な苺火は、数時間後には自分が晒されているであろう寒気(かんき)を思って、少しだけ憂鬱になる。長い冬がようやく終わったというのに、何が楽しくて自ら進んで極寒の地に飛び込んでいかなくてはならないというのか。
「苺火のためだったらお母さん、出張だって絶対に断ったと思うけどなあ。今回の出張だって相当無理を言われたみたいで、苺火を見送れないの、ものすごーく残念がってたし」
「だから、そういうのが余計なお世話だっていうの。二人とも、もっと自分のことを気にするべきなんだよ。彼氏、作るとかさあ。──()て!」
「生意気、」
 怒ったふうに眉をつり上げて苺火の額を爪弾くけれど、蜜蜂はすぐに栗鼠のような歯を見せて笑う。でも、苺火はぶすっとした顔つきのままだ。今のは、容赦なしだった。
 〝お母さん〟は売れっ子のデザイナーで、その仕事の内容は苺火にはよくわからないけれど、何だかいつも忙しそうにしているのは確かだ。海外出張で家を空けることもしょっちゅうで、今は確か、イタリアはミラノにいると言っていた。数日前、わざわざ国際電話がかかってきて、改まった合格のお祝いと、見送ることができないことへのお詫び、それからその日、祝いの品が苺火の手元に届く手筈になっていることを、手短かに伝えられた。電話の向こうはざわついていて、忙しない様子だった。届けられたのは新品の革のトランクで、ばりばりの売れっ子デザイナーのお眼鏡に適っただけあって、センスのいい代物だった。
 蜜蜂は蜜蜂で、昨日あんなに断ったのに、苺火が寝ぼけ眼でリビングに起き出してきた時には、既に起床して身なりもすっかり整え、きびきびとした動作で朝食の支度を整えている最中だった。
 何も苺火が家事はからきし駄目だとか、そういうわけではない。お母さんが家を空けるあいだの家事は蜜蜂と苺火で分担するから、寧ろ同じ年頃の他の少年たちと比べれば、家庭的なことには長けているくらいだ。元来、腕白だとか利かん気だとか、そういうたちでもない。家事の類はむしろ、活発とは言い難い苺火の性には合っていた。
 家を出るまでにはまだいくらか時間の余裕があったので、食器洗いや洗濯物の手伝いも申し出たのだが、この日ばかりは指一本、触れさせては貰えなかった。なんでも、馴れ親しんだ家で朝を迎えられるのも今日が最後で、当分は願っても叶わないことなのだから、今日くらいは家事だの何だのは忘れてゆっくりしていなさい、というのが、蜜蜂の言い分であるらしかった。
 そうはいっても、趣味といえば読書くらいのもので、食事時に見るテレビといえば生真面目なニュース番組が定番の我が家で、家事を取り上げられては他にすることもなし、苺火は食後の熱いコーヒーをふうふうと冷ましながら、てきぱきと動き回る蜜蜂を何とはなしに目で追って、どうにも居心地の悪い思いをしただけだった。しまいに蜜蜂は、苺火を駅まで見送りに行くなどと言い出し、それを思い留まらせるだけでもひと苦労だった。
 何も一生、帰ってこられなくなるわけではないのだ。ただ、新しく入る先の学校が全寮制を採用していて、ついでに言っておけば些か風変わりな校風を持っているというだけで、長期休暇が訪れれば一時帰宅する生徒がほとんどだと聞いているし、そりゃあお金と時間はかかるけれど、その気になれば外出許可を貰って週末に帰ってくることだって、全く不可能なわけではない。
「──本当、二人とも大袈裟なんだから」
 まるで、今生の別れみたいに──と、ぼそっとひとりごちたはずの言葉を、蜜蜂は耳聡く聞きつけていて、
「大袈裟ってことないよ。だって、苺火の人生の一大イベントでしょ? パーッと送り出してあげなきゃね」
 と、にこにこと悪びれもせず近づいてきた。地獄耳め。
「だから、それが大袈裟なんだってば」
 数日前のお母さんからの電話や、昨日の蜜蜂との会話でも似たようなやり取りをしたことを思い出して、終わりの見えない堂々巡りに苺火は頭を抱えたくなる。全くどうしてうちの母娘は、二人揃ってこうも過保護なんだろうか。
 ──まあ、あの親にしてこの子あり、といえば、まさしくその通りなのだが。
「さあさあ、可愛い弟のために、お姉ちゃんが特別に、イイコトしてあげよう」
 蜜蜂が、またしても不可解なことを言い出したので、苺火は訝しげに眉を顰めた。
「イイコト?」
「そ、イイコト。行ってらっしゃいの、ぎゅー!」
 悪戯っぽくにじり寄ってきた蜜蜂からの、出し抜けの無遠慮なハグに、全くの無防備、しかもポケットに両手を突っ込んで突っ立っていた苺火は、慌てふためいた。
「うわっ、ちょっと、何すんのっ……、やめてよ、蜜蜂!」
  迂闊だった。この姉は、隙あらば弟にちょっかいをかけるべく虎視眈々と目を光らせているので、彼女の前にあってはどんな場所も、常在戦場なのである。
「もう、照れちゃってえ。ちゃんとお姉ちゃんって呼びなさい!」
 さりげなく、〝蜜蜂〟呼びのお咎めを受けるが、苺火はそれどころではない。背中に当たる柔らかな感触に、さっと頬に血が昇る。ブラウスとエプロン越しに感じる、おそらくは平均よりも些か小ぶりなサイズのふくらみは、それでも中学生の内気な少年にとっては十分過ぎるほどの刺激だ。それに何だか蜜蜂、いい匂いがする──。
 妙な気分になってしまう前にどうにか蜜蜂の腕を振り払うと、苺火は玄関ドアに背中が張りつくくらいにじりじりと後ずさり、全力で逃げた。
「とにかく、僕もう行くからね!」
「はいはい。気をつけて行ってらっしゃい」
 なおも警戒して睨みつけた先で、蜜蜂はさも可笑しくて堪らないといった風情で呑気に笑っていて、無性に悔しかった。こっちの気も知らないで、と文句の一つも言いたくなる。
 これが今となってはもはや懐かしくもある、蜜蜂による餞別の全てである。

 無人の駅舎は、森の中に誰かが置き捨てていった簡素な箱のように、無造作に放り出されていた。赤茶け、錆びついた線路には雑草が生え渡り、緑豊かな自然の一部に半ば取り込まれるように沈黙している。咲き乱れる花の合間を、数羽の蝶がひらひらと舞っている。この駅舎に、最後に人の手が入ったのはいつなのだろう──むろん、そんなはずはないのだが、もう何年ものあいだ放棄されていた廃駅のようにさえ見える荒れ様だ。
 学園の所有する広大な敷地の中でも、校舎群は時計塔の周囲を厳重に取り囲むようにして造られているため、列車を降りるとそこから先は、校舎群のある丘陵地帯までいくらか歩かなくてはならない。森林を渡る遊歩道は、碁盤の目のように整然と整備されている。真っ直ぐ進もうが、右へ左へ曲がろうが、似たような景色ばかりが延々と続くので、歩いているうちにだんだん、自分は知らず知らずのうちに、終わりのない迷宮に迷い込んでしまったのではないか、というような錯覚に陥ってくるほどだ。実際、天高く突き出た時計塔がなければ、苺火はとうにこの広い、見知らぬ森で方角を見失って、彷徨い歩く羽目になってしまっていたことだろう。
 迷わずに行けば駅舎からおおよそ十五分ほどで、私立月舘学園しりつつきだてがくえんの重厚な青銅門が見えてくる。まるで中世の城砦のように高くそびえる煉瓦塀と門は、些か場違いと時代錯誤の度が過ぎるのではないかと、苺火は密かに思っている。
 さて、ここまで歩いてきた森林の遊歩道は一般にも広く解放されているが、この青銅門を越えた先は些かわけが違う。
 私立月舘学園の生徒たちは、校舎群を囲うこの巨大なひと続きの煉瓦塀を〝壁〟と呼ぶ。そしてその壁を、内と外とを隔てる絶対的な存在として、畏怖していると言っても過言ではない。かつて月舘(つきだて)に在学していた蜜蜂がそう言うのだから、それはもう紛れもなく、断言できる事実である。
 壁の内側には、外の世界にいては俄かには信じ難いような、別世界が広がっているのだという。いわば月舘学園は、一つの独立した国であり、壁の内側でしか通用しない法があり、その法に従う民がいる。月舘学園はそういう、世間から隔絶された、異質な空気を持つ場所なのだ。こんな僻地にあって、まさしく世界の果ての孤城というわけである。
 間近に見る壁は、見る者を圧倒する物々しい迫力がある。苺火は辟易し、ポケットの中にしまい込んだ本の背を護符か何かのように撫でさすりながら、意を決して内と外との境界線──壁を、跨いだ。拍子抜けするほどすんなりと、壁は苺火を受け入れた。
 学内は閑散としていた。休み明けの初日となる今日は、学寮も静まり返り、早朝から部活の練習に励むような生徒も見当たらない。ひと気のない、がらんどうの校舎は、辺り一面に立ち込める朝靄と相まって、一層薄気味悪かった。心なしか、壁の外側よりも、大気が一段と冷え込んでいるような気がする。春の訪れを告げる、匂い立つ木蓮や、しだれる雪柳の茂みも、今は乳白色のベールを纏って、淡く霞んで見える。あの暗いトンネルに列車が突入した瞬間の、耳鳴りのするような後味の悪い目覚め、体中に残っていたおぞましい感触を思い出して、ともすればすくみそうになる足を奮い立たせて、苺火は歩を進める。自分は果たしてあの時、どんな夢を見ていたのだったか。
 こんな思いをしなくてはならないのも、ひとえに蜜蜂に家事手伝いの申し出を断られてしまったからに他ならないと、苺火はお気楽な彼女の笑顔を今更ながらに恨めしく思った。蜜蜂が、変に気を利かせてくれさえいなければ、苺火がコーヒーカップを片手に居心地の悪い思いをすることもなく、がらんどうの校舎にたった一人、足を踏み入れなくてはならない羽目にだってならなかったのだから。
 歩く道すがら、木々のあいだに紛れるようにひっそりと、壁一面を蔦に覆い尽くされた建物が佇んでいるのを見つけた。かろうじて蔦の侵食をまぬがれている古ぼけたソーダ硝子の窓も、薄汚れてひび割れ、すっかり荒廃しているところを見ると、今はもう人の手を離れて、誰にも使われていないらしい。
 ふと、その黴臭い暗がりの底から、ジトリとこちらを見つめる視線を感じた気がした。
 苺火はぞっとして、足早に廃屋の前を通り過ぎた。
 ほんの一瞬のことではあったけれど、柔らかな心臓の肉にじかに絡みついてくるかのような、それは粘性の眼差しだった。この地にこびりついた人の思念がこじれて、妄執へと昇華したかのような、地縛霊にも似たそんなたちの悪さを、苺火は肌で感じ取った。
 覚えず、鼓動が早くなっていた。自分の立てる物音──呼吸や足音、衣擦れの音──だけが、風や草木の囁きを耳障りに裂いた。雑木林に涼やかに響き渡る、姿の見えないメジロのさえずりにさえ引け目を感じて、苺火は体を強張らせた。
 ──自分は本当に、ここにいていいのだろうか。
 唐突に、そんな疑問が脳裏をよぎる。
 何故だろう。門はあんなにすんなりと苺火を受け入れたのに、今はどうしてか己の存在が、酷く無粋なものに思えるのだ。
 はじめは木々や小鳥たちのあいだでのみ、密やかに囁き交わされるだけだったざわめきは、次第に辺り一面から地鳴りのように湧き起こり、木霊し、反響し、増幅し合い、やがて嘲りと罵倒の嵐となって、絶え間なく苺火を責め立てはじめた。
 ──ダンダンダンダンダンダン!
 無数の何かが、狂ったように地団駄を踏み鳴らしている。悲鳴とも怒号ともつかない有象無象の轟音に、体を内側からばらばらに破壊されていくかのような感覚。わけもわからぬまま唐突にやってきたそれは、苺火に成すすべ一つ与えてはくれない。どす黒い津波に全身の血管を冒されていくような絶対零度の恐怖に体中ががたがたと震え、歯と歯がぶつかり合ってはカチカチと音を立てる。
 ──何だ、これは。一体何なのだ、これは。
 冷たくぬめったたくさんの何かが血管の内側にまで潜り込み、肌の下を好き勝手に撫で回し、這いずり回っているかのような、そんな禍々しい感触。
 その、沼のような恐怖のどん底から、はっと行く手の一点に意識を引き戻されたのは、震えるあまり覚束ない手つきで、絶え間なく襲い来る轟音からどうにか耳を塞ごうとした、まさにその刹那だった。それと同時に、苺火を激しくなじり続けていた幻影の群衆も忽然と姿を消し、辺りはそれまでの騒々しさがうそのように静まり返った。苺火は呆然とする。のどかに遠ざかっていくメジロの歌が、今はやけにうそぶいて聞こえる。
 誰かが、いた。廃屋の暗がりから感じたような、人かどうかもわからぬような怪しげな視線の類ではない。正門から続く上り坂の到達点に、悠然と構える時計塔──その針は、既に時を止めている。十二時四十二分。その十二という数字が、午前零時を示しているのか、正午を示しているのかどうかは、わからない──そのふもとに佇んでいるのは正真正銘、人間であると、苺火はわけもなく確信していた。
 それは月舘学園の生徒だった。胸元には苺火が身に着けているものと同じ、弁柄色のストライプの、中等部の生徒の証であるタイが、いくらか着崩して結ばれている。その立ち姿だけで、彼が些か斜に構えた気質の生徒であることは容易に窺い知れた。髪色こそ黒いものの、苺火とは対極の位置にある、そんなタイプの少年だ。
 ともあれ、苺火はほっとした。何ということはない。苺火の他にも早く来過ぎてしまった生徒が、既に学内にいたのだ。考えてみればこれだけの広い敷地と、校舎群を成す多くの建物があるのだから、苺火とあの少年の他にも、既に学寮で荷開きをしている生徒や、教室で暇を持て余している生徒だって中にはいるかもしれない。教員たちだって、生徒より早くに出てきているはずだろう。
 広大な敷地に一人ぼっちではないことがわかると、不思議と恐れるものなどもう何もないように思えた。あんなに不気味に思えた霧の丘陵地や、古めかしい校舎群まで、今は歴史ある、趣き深いもののように思えるのだから、人間というのはつくづく現金なものだった。心なしか木々の緑までいきいきと輝いて見えるような気がしたが、それはさすがに光の加減か、ただの思い過ごしだろう。
 二本の足はその役割をすっかり放棄し、苺火はいつの間にか坂の中腹に棒立ちに立ち尽くしている。
 今のは、一体何だったのだろうか。ただの気のせいだと決めつけて済ませてしまうには、やけにはっきりとした嫌な幻覚だった。列車の中で見た記憶にはない悪夢といい、やはり少し、疲れが出ているのかもしれない。体力に恵まれていないことは自覚済みとはいえ、転入初日から不甲斐ないことこの上ない。先が危ぶまれる。
 未だ体中に刻み込まれているおぞましい痕跡を振り切るように、常よりも大股にいくらか歩を進めたところで、苺火は何やら様子がおかしいことに気がついた。
 時計塔のふもとに佇んでいる少年は、ちょうど苺火と同じくらいの背格好の男子生徒だ。何をするでもなくずっと同じ場所に突っ立っていて、微動だにしない。こんなところで誰かと待ち合わせだろうかと、訝しく思いながら目を凝らして、ぎょっとした。少年は、何かに恐れおののくように双眸を大きく見開き、茫然自失といった風情でその場に立ち尽くしていた。張り詰めた眼球は、辺りの景色を鏡のように虚ろに反射するばかりで、それ以外の役割を果たしているようには見えない。あらぬ方へと向かう横顔は蒼褪め、きゅっと引き結んだ唇は力を込め過ぎたためか、或いは血の気の引いたためか、すっかり色を失っている。
 見るからに、尋常な様子ではなかった。例えば常軌を逸脱した何かに遭遇した時、人はあんな状態に陥ってしまうのではないか思われるような、強烈な放心状態。
 ──もしかして彼も、あれ(・・)を感じていたのではないか?
 脳裏に閃いた恐ろしい思いつきに、苺火は戦慄した。もしそうだとすれば、常ならばあり得ない事態が、同じ(とき)、同じ場所に居合わせた二人の人間を、同時に襲ったことになるからだ。廃屋の眼差しも、気のせいのひと言で片付けてしまうにはあまりに生々しかった。
 確かめなければならない。
 苺火は咄嗟に決意していた。でなければ、これからはじまる学園生活を、自分は安穏と過ごせなくなってしまう。何の根拠があるわけでもなく、そう直感していた。
 ともすれば臆してしまいそうになる己を奮い立たせ、苺火がまさに足を踏み出そうとしたその瞬間、
 ──目が合った。
 少年の、眼球だけがぎょろりと動き、その昏い瞳は間違いなく、ほんの数メートル先にある、苺火の姿を射抜いていた。それだけでも、苺火を凍りつかせるのに十分な威力を持っていたが、少年の首が目前でゆっくりと巡り、そこに浮かぶ表情をありありと見て取れるようになると、苺火はますます息を飲み、絶句した。
 少年の形相は、壮絶のひと言に尽きた。
 鋭い二つの眼光は、獰猛な野生動物を思わせた。それは人の手で飼い馴らすことなど、到底できない類のものだった。見てくれに普通の人間とは異なる特別な何かがあるわけではない、どちらかといえば小柄な少年の全身から噴き出し、迫り来る、剥き出しの憤怒、憎悪、拒絶。あけすけな敵意の全てが、苺火に向けて真っ赤な舌をちらつかせ、今にも喉笛を咬み千切ろうと鋭い牙を剥いている。顔面は蒼白、白目は血走った、まさしく幽鬼のような形相。
 背筋を冷たい汗が伝った。
 口の中が急速に乾き、のどの奥がヒリヒリと痛んだ。
 今、苺火の目の前にあるのは、さっき感じたあれ(・・)とは全く種類の異なる恐怖だった。正体も目的もわからない何かではなく、確かな肉感を持って、苺火に害を成そうとするケダモノだった。
 ──逃げなければ。
 本能が警鐘を鳴らした。
 ──逃げなければ、殺される。
 ところが、苺火のその警鐘は宛てを外した。少年は苺火に、何の危害も加えようとはしてこなかった。代わりに、素早く踵を返したかと思えば、忽ちその身を翻し、苺火が一つ瞬きをし終える頃には、もうどこにもその姿を見つけることはできなかった。
 強張っていた体中から、一気に力が抜け落ちた。
 安堵のあまり、その場にへたり込んでしまいそうになった。
 列車で悪夢に目覚めてから、今、時計塔のふもとに至るまでの、ほんの僅かなあいだに起こったいくつかの出来事を、苺火は頭の中で反芻し、改めて身震いした。
 全く、わけがわからなかった。まさか怪奇現象ばかりか、生身の人間、それも同じ学園の生徒にまで、あんなふうにあからさまに敵意を露わにされるなどとは、苺火は想像だにしていなかったのだ。一連の出来事に関連性があるのかどうかも疑わしいところではあったけれど、一つ一つの出来事を別個のものとして考えるには、あまりにも立て続けに奇天烈な目に遭い過ぎていた。
 苺火はまだ蒼褪めた顔をして、少年のいた時計塔のふもと辺りを呆然と見つめながら、無意識にポケットに手を突っ込み、家から持ち出してきた本の背を撫でた。ひんやりと角張ったその感触は、懐かしい、不思議な安息を苺火にもたらしてくれるのだった。
 ようやく落ち着きを取り戻してくると、少しだけあの少年に腹が立った。どうして何の謂れもない自分が、見ず知らずの人間にこんな不快な思いをさせられなければならないのだろうか。自分はこれから、それなりに楽しくてくだらない、ありふれた学園生活を送るのだ。あんな奴に、出鼻をくじかれてなるものか。
 未だこびりつく敵意を、振り払うように(かぶり)を振って、苺火は歩き出す。獰猛な二つの光と、真っ赤に焼けた鉄のように煮えたぎるマグマを噴き上げて消えたケモノの背中が、いつまでも目の前にちらついて、離れない。
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