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夜更けに咲く灰色の花

 小銭がかちあう音を耳障りに感じながら、島田吉平は作業着のポケットから大量の銅貨を取り出して、両替商を苦笑させた。
「そんなに替えてどうすんだい?」
 上等そうな薄い灰色のスーツを着た両替商の、軽蔑を隠さない薄い微笑をものともせず、島田はただただまっすぐな視線を彼に向け、
「決まってるだろ」
 と、言った。
 はっ、と両替商は今にも吹き飛びそうな軽薄な笑みを浮かべ、三枚の銀貨を机に置いた。
 吉平は子供の時分に数度ほど見ただけの、ぴかぴかとした輝きを放つ銀貨を灯りに翳して見つめ、満足そうに船着き場へと向かう。
 桟橋には作業着姿の男以外にも、帽子を目深に被った記者風の男や軍人、役人風の男すらも一列に並んでいる。彼らは一様に、吉平と同じ目をしていた。
 やがて、四、五十人は乗れそうなくらいの中型の客船が桟橋に到着する。元は白かったのだろうと辛うじて推察できる、煤けた客船から桟橋に降り立った男たちは皆、幸せそうに魂が抜けたような顔をしていた。
 いよいよ改札が始まる。三枚の銀貨を握りしめて、吉平は周囲を見渡した。そわそわとしている男、手元の金貨を無表情に見つめる男、上等そうな外套から鈍く光る懐中時計を取り出す男。彼らが何を考えているのかわからないが、きっと似たようなことを考えているだろう。吉平は根拠もなくそう思った。
 切符を買って、彼の手には二枚の銀貨と一枚の硬券が残った。灰色の券に、客船の乗務員は愛想もなく鋏を入れていく。吉平の券にも、馬の蹄のような丸い鋏の跡がついた。

 遙か昔、公娼制度が存在していた頃、遊び女は、項に自らの遊び名を入墨することが決められていた。それが、政府の管理下に入るということであり、認められた遊び女という印象がつくので、役人と客、そして遊び女本人の利になっていたのだ。そうして遊び女たちは、制度自体が消滅した今となっても自ら入墨を施すようになる。彼女たちはそこから「名墨」、転じて「鼠」と呼ばれているのだ。
 そう指南書に書いてあったと、同僚の喜助に聞かされた時はそんな馬鹿なと思っていたが、実際にすれ違う女がみな項に薄く灰色がさしているのを見て、あれは本当だったのかもしれん、などと吉平は思った。
 大通りに降り立つと、見るも艶やかな、今時どこを歩いても見られない位の和服が、この街に犇めいている。けれど彼はそちらには行かない。飾りの多い鼠は金貨を出さなければ微笑みすらしないのだ。吉平は無言で歩を進める。薄曇りの空は、夕闇から宵の藍へと色が変わっている。ぼ、と音がして、自動点火装置が導入されている瓦斯灯に火が入り始めた。吉平が若かった時分に遣っていた仕事を、既に機械が代わりに行っているのだ。一斉に点灯される瓦斯灯を見あげながら、そのうち俺は働かなくても良くなるかもしれない、などと楽観的な考えを巡らせた。
 延々と並ぶ煌びやかな旅籠の列は幻想的で、その前に正座する遊女たちはみな綺麗に着飾られていた。その横には歳を取った下女が、数字の書かれた小さな札を掲げている。それが半時間ごとの値段だということも喜助から聞いている。単位は当然、金貨だろう。大通りに並ぶ店はそもそも、金貨を持つ優良な客しかとらない。入っていく者はみな、上等そうな服を着ているし、歩き方が鷹揚だ。吉平や喜助のような、日銭で稼いでいる人間は、せかせかと、小股で忙しく歩くので、裕福な彼らを見ると、まるで異国人を見つけたかのように微妙な昂奮を覚える。
 入りたくても入れない店を見ながら、彼は歩みを奥へ進めた。煉瓦が敷き詰められていた道が、角がとれ丸くなった石畳へと変わると、両端にあった屋敷があからさまに変容する。先程までの絢爛さはなくなり、質実剛健な渋い長屋が軒を連ねる。入り口には町娘風の着物を着た鼠が立っていて、自分で小さな札を提げている。単位が金貨から銀貨へと変わる、鼠街の中央へとさしかかったのだ。鼠街というと、やはり入り口の高級な通りが目立ってしまうが、多くの客はこの中央部に向かっている。客の出入りも最も多い。
 だが、吉平は銀貨を二枚しか持っていない。札の数字は四や五、小さい数字でも三ばかりで、吉平が入れる店は現れない。周りを見ても、記者風の男や職人風の男が続々と店に入っていくかと思えば、札の数字を見つめながら、ゆっくりと歩いていくみすぼらしい男たちもいる。何週間もあくせく働いて、貯めることが出来たなけなしの銀貨三枚分の金ですらも、この街で遊ぶのには足りないのか、と吉平は半ば呆気にとられながら、なおも道を進んでいく。

 奥へ進めば、そのうち、銅貨で買える店もあるらしいぞ。まあ、鼠の質はそれなりだろうがな。女と違ってよ、鼠街ってのは入り口が良くて奥に行けば行くほど駄目なんだとよ。

 喜助の脂ぎった笑みが脳裏に浮かぶ。彼は指南書を手に入れただけで満足して、実際に行く気は無い。けれど、鼠街に行く吉平にそれを渡すなどの気の利いたことはしない男だった。さほど彼と親しくしたいわけでもないが、職人気質の多い仕事の同僚で話しかけられる雰囲気を持つのは彼だけだったので、吉平はよく彼と昼飯を共にしていた。喜助は他の同僚と違いとにかく口数の多い男であった。朝出会ったら昨日の賭場を語り、昼にはどこの喫茶店の女中がいいかという話をし、夜になると最近の政治は悪くなる一方だと愚痴をこぼす。それを敬遠する人間は多いが、吉平はむしろ、何か喋ってくれるだけ益だと思っていた。
 喜助が指南書を持ってきたのは数日前のことだ。その日の朝、彼は真っ先に吉平のもとへ寄ると、にやにやしながら艶めかしい深紅の着物を着て両肩をはだけさせている女が描かれた表紙を見せびらかしてきた。知り合いから銅貨四枚で買ったという。雑誌にしては随分高額だと思ったが、しかし書かれていることはそれなりに信憑性がありそうなもので、しきたりや歴史、その背景なども事細やかに書かれていたと言う。吉平が興味を示しても、銀貨一枚で貸してやると冗談を言ったきりで、その割には本に書かれていたことを話して、鼠街はいいぞ、と煽る。
 そこまで楽しそうなら俺と一緒に行かないかと誘ってはみたが、俺らがあそこに行っても何も出来やしねえ、工夫がいけるような所じゃねえよと突っぱねられた。その日から吉平はわずかな日銭を貯め込み、絶対に鼠街へ行って遣ろうと決心したのであった。

 夜も更け始め、空気が徐々に冷たく乾き始めると、往来の流れが少し変わった。店から出る客が目立つ。しかし、吉平はまだ店に入ってすらいない。奥へ進むと、目にする数字が徐々に小さくなっていくことに気がついたが、しかし銀貨二枚の吉平にとってはやはりとても入れたものではなかった。本当に銅貨単位の店なんてあるのか、鼠街という位なのだから、本当はそんな庶民的なものなんてないのではないか。彼の心にそういった疑念がわき始めた。かといって道はまだまだ奥まで続いている。心なしか、石畳が少しずつ緩く、すり減っているような気がしていた。
 いや、彼の気のせいではなかった。道の先には僅かずつ季節はずれの雑草の緑色が見え隠れしている。判りやす過ぎるくらいに、行き交う人の階級を示している。作為でないとしたならば、これほどの皮肉はあるだろうか。
 しかし吉平は幸運というべきか分別のないというべきか、そのような穿った見方をする男ではなかった。だが彼はむしろ、その慣れ親しんだ石畳の先に、自らの求めるものがあるのではないかと直感した。

 果たしてその直感はおおむね当たっているといえた。歩いていくうちに石畳は剥がれ、地面の道へと変化した。しがない工夫である彼だが、生まれた時分から帝都にほど近い都市で育ち、そのまま工夫として雇われているので、このような未舗装の道はほとんど歩いたことがなかった。柔らかい感触は思っていた以上に彼の足に馴染んでいた。そしていつの間にか両隣にあった長屋のような屋敷は無くなり、ぽっかりと空いたような大きな広場に出くわしたのだ。

「なんだここは」

 吉平は思わず声を漏らす。そこにはお世辞にも豪華とはいえないような、ぼろに近い肌着だけを纏ったような女たちがおり、客を呼び止めている。客の袖を掴んで離さないのも、汚い客を見るなり逃げ出すのもいる。先程迄の、見目形だけは取り繕っていた世界とは明らかに隔されている、鼠と客の猥雑な欲望と切なる叫びが共鳴し反響し融合して、肥溜めのように醜悪で身も蓋もない空間を目にして、吉平の心では何かが側溝に転がり落ちて消えていった。

「ねえ」

 右手に急峻な冷たさを感じて吉平は思わず飛び退いた。すぐ近くには、紺色の着物を纏った、痩せぎすの女が彼を見つめている。はっとするような目の覚めるほどの白い肌が、無性に吉平の劣情を刺激した。
「お願い」
 懇願するように見上げた、哀しみを湛えた瞳を吉平は吸い込まれるように見つめ、思わず二枚の銀貨を差し出した。女は一瞬目を疑うように銀貨を見つめたあと、彼の腕をしっかりと掴んだ。その一重瞼だけが、もったりとした重厚感を放っていて、吉平の心に理不尽な痕を残した。彼女の体温が徐々に伝わっていくのを、彼はどこか遠い国の出来事のように、異様な熱気をもって迎えていた。

 桜色に上気した、たおやかな肌が、彩られた冷たさを塗りつぶしていく。生まれてから女を知らなかった彼は、彼女の深淵にいとも容易く呑み込まれた。
 さと、と彼女は名乗った。地べたについた初雪のようなくすんだ肌は、若い鷹のような力があり、幼さの残る両の手で彼は全てを掬い取られていく。吉平は生まれて初めて女の引力を知った。己の意思が、力が、不幸や闇が、全て彼女の身体に吸い込まれていくのを、残った抜け殻だけが見届けている。世界の中でただ独り、ぽつんと取り残されたような、それでいて母親の胎内にいるかのような無限の温かさに浮かんでいるような心持ちで、吉平はさとに夢中になった。
「有り難う」
 薄っぺらな布団の上で、さとは蚊の鳴くような細い声でそう言った。吉平は答えることもままならないまま、彼女に身体を預けている。
「大丈夫?」
「は、初めてだったから」
 取り繕う余裕すらなく、彼は己に籠もる熱を未だに解き放つことが出来なかった。
「えっ」
 さとの表情が固まった。血の気の薄い顔がさらに青白くなる。
「どうした?」
「私なんかが、はじめてで……」
 良心の呵責に耐えきれなくなった彼女を、吉平は少し強い力で抱きしめた。どこまでも沈み込んでいくような、水のような感触の中に、確かなあたたかさとほのかな人のにおいを感じる。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだ?」
「だって……」
 最初の女が鼠でよかったのか、それを問うているのは彼にも解っていた。だが、ここに来ているのだから、最初からその積もりでいたし、話したところで彼女を喜ばせることはない。
 天使だ。
 吉平は、ふとそう思った。さとは自分と巡り会うべき人間だったのだ。だから自分はここまで歩いてきたのだ。
「また、会いに来てくれる?」
 吉平の耳元で、消え入りそうな甘い声でさとはそう聞いた。
「ああ」
 銀貨を貯めるのは楽ではない。三枚の銀貨を貯めるのに、彼は二ヶ月を要したのだ。
「これ、半日分だから」
 そう言って、さとは銀貨一枚を返した。
「絶対に、来て」
 さとは暖かなほほえみを浮かべて、吉平を抱きしめ、茶色い紙に包まれた何かを彼の懐に入れた。

 夢みたいであった。
 いや、夢だったのかもしれない。吉平は木材を運びながら、さととのひとときを回想していた。鼠の街は、彼にとってまさに夢の国であった。身体が地平に着いていないような気分で、むしろ、そうであっても石材を運んだり釘を打ち付け続けられるのが不思議であった。昨日貰った飴玉は、どこか勿体なくてまだ舐めていなかった。
 おれの身体も、歯車みたいだな。
 と、何気なく考えたのが、妙に冷たくて恐ろしくて、彼は金槌を足下に落としてしまった。
「なんだか調子がいいみたいじゃねえか」
 昼休み、喜助がにやにやと脂ぎった笑みを浮かべながら吉平に近づいてきた。
「そうかな」
「ああ、身体が軽そうだ」
 吉平は不言実行主義で、喜助に鼠街のことは話していなかった。
「まさか、鼠街へ行ったのか?」
「ああ」
 短く返事をした彼の顔を、喜助は目を丸くしてみつめた。
「そんなこと、する男だとは思わなかったぜ」
 そう言うなり、彼は珍しく黙り込んで俯いてしまった。なんだか自分が軽く見られたみたいですこしむっとしたので、言葉をかけなかった。

 煤で汚れた作業着を手で洗いながら、吉平は銅貨の数を数えた。休息日の楽しみは、もっぱら持っている銅貨の数を数えることに費やされた。
 銀貨を二枚貯めればさとに会える。そう信じて貯めてきた銅貨は、鈍い輝きを放っている。そして、湯銭を引いても余ることを確認した彼は、作業着を干すと、手ぬぐいと盥を片手に銭湯へと急いだ。
 お湯はやたらに熱く、彼の身体は直ぐに鉄火場のように赤く火照った。天国への階段は意外にも近くに伸びているのだと気づいてからは、吸い込まれるようにそこへ向かってしまうのが人間というものの性である。重たい銅貨を掌で軽く握りながら整列させて、吉平は布袋の中へ詰め込んだ。鈍い金属音が袋の中で小さく音を立てた。
 両替商から引き取った二枚の銀貨のうち一枚を切符と交換し、曇り空の中、彼はふたたび鼠街へと降り立った。

「ずっと待ってた」
 ところどころ雨漏りの染みが広がる天井を見つめている吉平の耳元で、さとは蚊の鳴くような細い声で囁いた。灰色の着物に似合わない華奢な腕は饂飩の乾麺のように白く細くて、強く抱いたら折れてしまいそうで、彼は優しく抱くことしかできなかった。本当は思いの丈をぶつけたかった。けれどそれは何故か許されていないような気がして、無遠慮に遠慮を重ねる自分に無意識に従うばかりであった。
「もっと早く、来ると思ってたのに」
「覚えてたのか」
「忘れる訳ないでしょう」
 ほんの少し責めるような口調で、さとは細い腕を背中に回す。吉平の締まった毛むくじゃらの身体が、びくり、と跳ねた。
「正直な人。好き」
 薄い唇が吉平のそれと重なった。身体の奥を探られているような感覚と、それを心から待っていた自分に気づく。歯の欠けた場所を舌でなぞると、くぐもった嬌声をあげて喜んでくれるのがいとおしく思った。なんとかして彼女をここから連れ出したい。吉平の心情はいつしか確固たる意思へと変わっていった。世界の中心は今ここにある。全てが捻れて落ちていく重心。吉平の明晰な思考は徐々に快楽に塗り潰され、さととの時間は熱い珈琲に沈めたひとつぶの角砂糖のように溶けていった。
「ねえ」
 汗ばむ身体を指でなぞりながら、さとは声に小さな花を咲かせる。
「逃げたいの」
 その瞳は吉平をしっかりと見つめ、離れる気配すらない。細い身体からは想像し難いような妖艶なため息を漏らす。
「逃げ出す?」
「そう、この街を出て行くの。それで、誰にも判らないように、田舎の温泉街で暮らすの」
 項に深く刻まれた遊び女としてのしるしをなぞりながら、吉平は彼女の言葉をどうにかして思い描こうとした。日銭を銅貨で受け取っている吉平にはにわかに想像できない計画だった。自らの身体ごとゆっくりと布団に押し沈めながら、さとは吉平に言い含めるように優しく、そう言った。
「私とじゃ不安なの?」
「あ」
 彼女の甘い声とたおやかな愛撫のせいで、何か浮かびかけた吉平の頭の中は空っぽになってしまい、言葉を発することもかなわなくなった。さとはそんな彼を見て、満足げな微笑みを浮かべた。
「五枚」
 右手の指をゆっくりと開いて、さとは吉平にてのひらを見せた。
「銀貨。五枚あればいいの。それだけあれば、ひっそりと暮らせるでしょう」
 ぜえ、ぜえと小汚くあえぎながら、吉平は虚ろな眼差しで道端の雑草に咲く小さな花のように可憐で野性的なさとを見つめた。
「ねえ、お願い」
 彼女のやわらかくしたたかな声は吉平の頭を埋め尽くし、そして暗転させた。

 女の色香は時として憲兵が向ける無慈悲な銃口以上の暴力になることがある。しかしながら、問題は、その力を操れる女と、振り回される女がいることである。

 出来上がった教会を見ても、無信心な吉平にはその有り難さが全くわからず、日当と完成祝として銀貨三枚を受け取った時には、これでさとを田舎に連れ出せるとしか思わなかった。紅に染まっていく空を見つめながら、いつものように銭湯に入ると、吉平は何度目かの、もしかするとこれが最後になるかもしれない鼠街へと向かった。彼の信じる神は囚われの身なのである。
 蒸気船の振動にも慣れたが、相変わらず夥しい煤煙を空中に放出し続け、人工的に形成された港に突き入れる様はどこかことの最中のようで、吉平は落ち着かなかった。そんなことを思ったのは今が初めてであった。身に似合わぬ大金を持っているからだろう、となぜか自分を納得させるように吉平は考えた。なんとなく、今日だけは、世界が自分を中心に回っているように思いこみたいのだ。
 向こう見ずで無鉄砲な考えを巡らせている間に、例の広場にたどり着いてしまった。そして、一目でさとの姿を見たものの、彼は一瞬戸惑ってしまった。
 目の覚めるような紅い着物を着古していたさとは、飴玉を渡して別の客と別れようとしているところであった。その笑顔は、吉平に向けているものとは異なる、屈託のない白いものであった。何故自分と彼とで、彼女の微笑みの明るさが異なるのか。もしかするとこれは真実の恋なのかもしれない。彼はそう悟ろうとしていた。
 物陰に隠れてさとの様子を伺いながら、元の表情に戻ったところで彼女のもとに向かった。
「どうしたの?」
 ただならぬ気配を感じ取り、さとは退廃した笑みを隠さないまま、小首を傾げて吉平にわけを聞いた。
 彼は無言で掌を開いて、鈍く光る銀貨を、今にも壊れてしまいそうな硝子細工のようにさとに差し出す。
「本当?」
 仄暗い憂鬱を奥に埋め戻して、さとは歓喜の表情を重ねた。
「ここから、逃げて、いいの?」
 その瞳は吸い込まれるように真っ暗で、吉平は少し肌寒かったあの夜を自然と思い出した。彼の世界は再度停止し、さとから放たれる無限大の重力に木っ端微塵になる錯覚を覚えながら、それでもなお彼女との明日を夢想してなんとか夕闇の鼠街へと意識を引き戻した。
「逃げよう。俺と一緒に」
「貴方の仕事は?」
「終わったんだ、もう」
「終わった?」
 彼女はほんの少し訝しげな目をした。
「ここから逃げよう」
「今すぐ?」
「今すぐ」
 けれど、吉平には彼女を連れ出せる方策がなかった。ただ、その心意気と数枚の銀貨があるだけであった。それもその筈で、さとは吉平に銀貨を持って来て欲しいと頼んだだけで、具体的にどうやって鼠街を抜け出すのかを伝えてはいない。
 しかし、伝えていないことが必ずしも知らないことではないように、さとはその方策を既に考えていた。
「鼠街を抜け出すのはね、それほど難しくないの。ただ、抜け出せた鼠は、必ず捕まってしまうし、死ぬよりも酷い仕打ちを受けるの」
「じゃあ、どうやってそこから逃げるつもりなんだい?」
「――一つだけ、探されない方法がある」
 とても簡単なこと。
 姉さんたちと違って、私には喪うものがないのだから。
 さとの表情はどこか虚ろで、吉平は背筋に妙な寒気を覚えた。先ほどまでの、他の客に見せていた、生き生きとした彼女はそこにない。しかし、吉平はそれこそが彼女の愛情であると信じて疑わず、彼女の手を取るのであった。

 北風は何人にも平等に彼らの間を吹き抜け、二人をいささか震え上がらせた。家屋が見えなくなり、道の両端には不気味な柳の枝が垂れ下がり、夜の帳も降りきってどこか幽霊でも出てきやしないかと不安になるようなところだった。
「鼠街にもこんなところがあるのか」
「うん。客は来ないけれど、私たちはたまに使うの」
 徐々に抑揚がなくなってくるさとの声が吉平の不安を煽る。二人の間を僅かに照らす月明かりと、遠くの彼岸の灯りが幽かに透けて見える。吉平の鼻先を潮の臭いが掠めた。
「ここは……」
「鼠街の果て」
 鼠街の果てへと続く柳の道を行ってはならない、そこから帰ってくることはできないから――そんな話を遠い昔、喜助が語っていたことを急に思い出した。
 そこは、鼠と心中するためだけに用意された場所で、心中を迫る彼女たちから逃れた者はいないのだから。
 怖くなってさとを見ると、しっかりと繋いだ手の先で、妖艶に笑う女の顔が。

「ごめんね」

 首もとを何かが横切って、吉平の全身から力が抜け落ちる。そして、暖かな身体に抱き留められて、よろめいた先は、水面。
 水の中から見た深紅の着物はゆらゆらと蠢いて彼を包み込み、二度と離さなかった。
 冷たさと優しさに包まれながら、母なる海の奥深くへ、彼はゆっくりと溶けていった。

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