第七章 古か現か
全身が泥のように重かった。目覚めた後も、意識はどこかはっきりしなかったが、潮の香りみたいな強い匂いと、不快な生暖かい風を受けて、のろのろと正気が戻ってきた。
そこは、校庭だった。と言うよりも、今はただの荒地に過ぎない。雑草がすき放題繁茂し、崩壊したピラミッドの残骸がそこかしこに転がっていた。刹那現出した血の海が幻覚ではなかった証拠に、校庭の土は粘土状に溶解し、まだ赤い水溜りを随所に広げていた。生臭い香りの発生源はそこのようだ。加えてレザージャケットにも、血臭は濃厚だった。濡れそぼっていたであろう全身はすっかり乾いているが、髪は鮮血を浴びたせいか、パリパリだった。すぐにでも熱いシャワーを浴びたい・・・・・。
空を見上げた。
変だった。
ピラミッドは崩れ、校長は滅び、すべては終わったはずだ。なのに・・・・。
見上げた空は依然、不穏な朱に染まり、雷鳴が轟き、不気味に膨れた雲が荒れ狂っていた。遠方からは、今にも断末魔の悲鳴が聞こえてきそうな、赤い光がまるで陽炎のように揺らいでいる。
変わっていない。何一つ、変わっていない。終わっていない。
どうして?
疑問だけが明菜を埋める。だが、これ以上どうすれば?何をすれば?
ふらふらと、当て所無く校舎に向かって歩き出した時、地面がぐらりと揺れた。
地震?
あっさりと地面に倒され、明菜は何かにしがみ付く様に赤い泥を両手で握り締めた。
違う。地震じゃない。よく分からないけど、勘がそう告げている。
ガラガラと、何かが音を立てて明菜の背後で崩れた。
校舎だった。赤い血の洪水で脆くなったのか、この激しい揺れのためか、次々と、校舎が倒壊を始める。まるで見えない巨大な怪物がジオラマのセットで暴れているかのように、無邪気な蹂躙が校舎を嘗め尽くしていった。
ほんの数十秒ほどで、校舎は瓦礫の山になってしまった。何が起きたのかよく分からず、明菜は呆然とその光景を眺めているだけだった。
しかも、揺れは収まらない。収まらないどころかより激しくなっていく。
不意に、地面が盛り上がる。弾き飛ばされるようにして明菜は転がった。
転がりながら、彼女は天高く伸びていく黒々としたものを視界の隅に捉えた。
あれは・・・・・?
地面の盛り上がりはそこかしこで起きた。次々と、地面を突き破り、何かが天へ向けて伸び上がっていく。まるで、巨大なドラゴンか何かの封印が解かれたかのようにして。
でも違う。あれはドラゴンなんかじゃあない。
それは塔のような建造物だった。
塔だけではない。何かの神殿みたいな荘厳な建物も、地中からむっくりと姿を見せる。他にも、銅像のような彫像のような何やら不思議な建造物が次々と、激しい揺れに呼応するように地中から現われた。
同時に、明菜は周囲の光景が変化したのを感じた。どことなく、空が近づいたような感じがしたのだ。
そう。
正しく、校庭とその一帯は・・・・・。
奇怪な建造物を生やしたまま、宙へと浮上していたのだ。
ざっくりと、巨大な皿状に縁取られた地面が、巨大なロケット噴射のような推進力の手も借りずに、ヘリウムで満たされた風船みたいに宙へ上がっていく。不気味な空を目指して。
凄まじい風が吹き、雷鳴が轟き、稲妻が蛇のように中空を走る。魔天に浮かぶ神殿の如き様相の闖入者を歓迎するかのようにして。
「我の眠りを妨げたのは貴様か」
腹の底から響いてくるような邪悪な唸り声が、聞こえてきた。地面の底から湧き上がるようにして。
「なるほど。貴様が我らの妨げと恐れられていた人間か」
ぐふふふ、と声は不気味な笑い声をあげた。含み笑いから哄笑さらには狂笑へと。
「我らこの地に根ざして久しいが、表立って人間の前に姿を見せたのは、これが始めて。光栄に思うがいいぞ、下賎な人間。悪いようには扱わん。人柱として永劫、この世の苦しみを浴びせてくれよう」
刹那、塔上で、紫にも似た光が生まれたかと思えば、稲妻のようにして明菜へ放たれてきた。とてつもない魔力が込められている。
辛うじて。本当に辛うじて明菜はこの光の一撃を奇跡的にも回避した。
塔の先端が、紫の光を結び付けていく。それは中心に収束し、次なる一撃を明菜へ送り込もうとしていた。
右腕に力を込める。解放された腕は禍々しい闇の渦を纏う。
紫の光線が放たれる。
彼女は右腕を振るった。闇が拡散し、空間を振動させ、埋めていく・・・。
レーザーとも、稲妻とも付かぬ光は、広がる闇に弾かれて、四方へと拡散した。だが、すぐに次の一撃が撃たれる。
次の攻撃は拳で直接弾いた。多少全身が痺れたが、大きなダメージは無い。
だが無機質な、メカニズムにも似た搭上からの射撃は止まる気配が無い。そこには射手の意思を感じさせるものが無かった。機械的な射撃。しかも恐ろしく正確。
何時までも弾き返せる力は無い。遮蔽物を探し、身を潜めないと・・・・。
視界に神殿が目に入る。あまり巨大ではなく、どちらかと言えばこじんまりしているが、荘厳な柱に屋根。ただし、中はがらんどうだ。何も無い。
雨宿りの場所を見つけたみたいに、明菜は頭から神殿の中へ転がり込んでいった。
狙い通りか偶然か。射撃が止む。
明菜は肩で息をしていた。疲労だけではない。力を使いすぎた・・・・。
その時だ。笑い声が聞こえた。
少女の、無邪気そうな笑い声。
「あ〜めやこんこん、霰やこんこん、降っても降ってもまだ降り止まぬ・・・・」
降り注ぐ雨ですら鬱陶しいと思わずに楽しめる子供みたいな歌声がそれに混じる。
「誰?」
叫んだ。
「ここだよ、ここ」
声は神殿の外からした。身を乗り出すように明菜は這い出す。
白い少女が・・・・・宙に浮かんでいた。
あれは・・・・・。
「会いたかったよ、先生。いえ、紅明菜さん」
校舎に、奇怪な異世界に現われた謎の少女。繰り返し明菜を死の幻惑へ誘う死神。
「誰も邪魔がいない場所でふたりっきり。私、とっても、嬉しい」
きゃはっと少女は笑った。屈託の無い笑顔とはこの顔だろうか。
「これ・・・・あなたの仕業?」
明菜は浮上する世界を見渡した。
「そうだよ。手荒なことしてごめんなさい。もっとよく言いつけておけば良かった。大切な人が死んじゃったら悲しいもの。ここは私と明菜さんの愛の園。私、とってもあなたが欲しいんだ」
「前は死にたいとか言っていたのに、随分な心変わりじゃない」
「死にたいよ。でも一人じゃ嫌だ。明菜さんと死にたい。一緒にね」
「心中?けど、子供に一緒に死んで欲しいなんて言われても、ちっとも嬉しくないわね」
「子供じゃ・・・・・・ないもん!」
世界が一瞬、白に染まった。
反転する・・・・・!
明菜は落下した。上へ。天へ。右へ、左へ。
方向感覚が無い。地面も、あの塔も消えている。ただ、白い世界が・・・・・。
「死ぬってどういうことだと思う?」
声がした。すぐ耳元で。
何かが手を握ってくる。
「怖いこと?」
顔を横に向けられた。すぐ目の前に、少女の顔がある。
「あの子は気づいたよ?死ぬのは怖くないって」
「あの子?安曇さんね。彼女をどうしたの?」
「合体したよ。彼女は私の中。そのおかげで、私はこうして自由でいられる。あなたと一つになるためにね」
くすくすと、少女は笑う。何がおかしいのか、笑わずにはいられないのか。
「もうすぐ一緒になれる。あなたをずっと私のモノにしたかった」
不意に唇が塞がれる。それでも、声は流れ込んできた。頭の中に直接。
「あなたをずっと傍において、いつでも、いつまでも可愛がってあげたいの。だってそう・・・・あなたは、運命の人なんだもん。大好きな人なんだもん。やっと巡り合えた大切な人。だから、いつもいつも愛したい。愛するだけじゃ物足りない。時に傷つけてやりたい。私好みにしてしまいたい・・・」
歪んだ狂気の愛情が流れ込んでくる。抵抗するように唇を離そうとするが、上手く行かない。
「痛くて苦しいのが死ぬってことじゃない。そんなのは嘘だよ。間違いだよ。愛されてなかったんだ。愛されてなかったから最期が苦しかったんだ。でもね、愛されてる人は違うの。気持ちいいの。そしてその気持ちよさはずっと続く。私に愛された人は皆気持ちいいって悲鳴をあげるの。だから怖くないよ明菜さん。一緒に死のうよ。死ぬって気持ちいいことなんだよ?ね?死にたくなったでしょ?」
違う。これは誘惑だ。洗脳だ。マインド・コントロールだ。
死が気持ちいいなんて、そんなの絶対認めない。そっちの方が間違ってる。それに死が神聖だの、そんなのも違う。死は決して気持ちいいものでも、美化されるものでもない。あるのは痛みと苦しみ、そして無明の闇だけだ。終わりなんだ。何もかも。生まれ変わりも無い。来世も無い。終わりなんだ。暗闇を、暗闇とも分からないまま終わるんだ。
「生きてる方が辛いでしょ?失ったものは戻らず、何も変わりはしない。あなた、生きていて、復讐のために戦って傷ついて何か変わった?何かが手に入った?その手に戻ったの?何も無いじゃない。生きていても何も手に入らないじゃない。永遠も無い、快楽も無い、つまらない、下らない命じゃない」
新興宗教のインチキ教祖の説教じゃあるまいし・・・・・。刹那、軽口を心の中で呟いた余裕に明菜は自分でも驚いた。そんな余裕、これっぽっちも無いはずなのに。
幼稚な詭弁だ。稚拙なレトリック。生きるのが辛くて当然だ。何が悪い?
無理やり明菜は唇を引き剥がし、少女の顔に唾を吐きつけた。
少女はハっとした顔になって、わなわなと震え始める。
「愛する人に歯向かわれたこと無かった?あんたみたいなガキじゃ、子供のままごとみたいな付き合いしかしてないんでしょ?どう?一方的なだけじゃ気持ちは伝わらないのよ」
その言葉も耳に入らないのか、今にも泣き出しそうな顔で少女は口をパクパクさせたまま震えていた。
だが泣き出すかと思われた少女は、狂ったみたいな馬鹿笑いを始めた。
きゃはははははははははは。きゃはははははは。きゃは。きゃははははははははははははははははははははははは。きゃははははははははははははは。きゃはははは。きゃはははははははははははははははは。きゃはははははは。きゃははははははははははははははははははははははは。きゃあああはははははははははあはははは。きゃははは。きゃは。きゃははは。きゃはははははは。きゃははははははははははははははははははははははは。きゃはははは。きゃはは。きゃは。きゃはははははははははははは。きゃあああはははははあはははははははは。きゃははははははははははははははははははははははははははははははははははは。きゃはあはははははははは。きゃはははは。きゃはははははははははははははははは。きゃあああはははははは。はははははははは。きゃははははは。きゃはあ。きゃは。きゃはははははははははははははははははははははははははははは。
それはそれは、耳を塞ぎたくなるような、神経をヤスリでガリガリ擦られているような嫌な笑い声だった。
嘲り、見下し、優越感。他者をとことん卑下し、自分をとことん優位に立たせると信じて疑いの無い笑い。
「私は明菜さんのそういう気が強いところ、時々乱暴なところ全部含めて愛してるよ。だから実際にそうされると嬉しくて、思わず笑ってしまったの」
こんな子供に愛してるだの、言われると不気味で仕方が無い。
邪悪。悪意。
そう。この少女は・・・・極めてドス黒い悪意そのものなんだ。あまりに純粋で、あまりに黒すぎて逆に分からなかったけど、にじみ出るような邪悪の塊。とすれば・・・・。
彼女こそがすべての根源なんだとすれば・・・・。
校長を殺し、ピラミッドを崩しただけですべてが終わらなかったのも納得がいく。もしすべてが、この少女を覚醒させるために整えられていたものだとしたら・・・・。
「あ〜あ、分かっちゃったんだ」
心の中を読まれたように、明菜はドキっとした。いや、正しく少女は明菜の心の内を読んでいた。
「そーだよ。明菜さんの考えている通り。ぜえんぶ、私のためにすべてが用意されたの。だからね、私はあなたに会いたかった。あなたならば、必ず私のところまで辿り着いてくれる。私を解放してくれる。だから私、あなたのことずっと待ってた。そしてこうして本当に逢えたことが嬉しくてしょうがないの。それって、本当に運命の人ってことでしょ?」
奇怪な落下にも身体が慣れてきた。だが、自由に身体は動いてくれない。今にも明菜はこのあどけない少女に拳を叩きこんでやりたい衝動を抑えられない。
滅するべきだ。すべての根源なら。でないと、何も終わらない・・・・。けど、身体が動かない。
「そうそう。愛と殺意が重なることほど、美しいことはないよね。愛するだけじゃ物足りない。憎むだけじゃ悲しい。二つ無いとね。憎んで傷つけて、愛してその傷を舐めてあげる。憎くも無いのに、わざと傷つけて、その傷を癒してあげる。無邪気に。可愛いよね。素敵よね」
だが、言葉とは裏腹に、ぞくぞくするような悪意だけが、明菜には感じられた。もはや少女は己から放出される邪悪の塊を隠そうともしていないのかもしれない。
世界を染めるのは、案外こんな無邪気な邪悪さかもしれない。他人のため、不幸な人のためと救いの手を差し伸べる人間が、実はそれ自体自分のための行為であったりもする。何気ない募金は、裏腹に、自分を優位に立たせ、募金される立場の人間を卑下し、見下している行為から来るものなのかもしれない。だが、それを良いこと、素晴らしいことと肯定してしまう・・・・。無邪気で純粋な邪悪が世界を埋めていく。面と向かって誰かを刺し殺したり、戦争で大勢の人間を殺すのとはワケが違う、厄介な悪意。なぜなら、それらの無邪気な悪意、純粋な邪悪は、犯罪者でも、兵士でもない、ごく普通のその他大勢の一般人がやっていることだから。分かりやすい邪悪よりも、遥かに性質は悪い。
そして今、目の前にいる少女は、その一般大衆の無邪気な悪意をすべて一手に引き受けたかのような存在として明菜の前で微笑んでいる。世の全ての無意識の邪悪を、たった一人で体現してしまう・・・。
だからこそ・・・・・、この手で・・・。
「そんなに私を殺したい?なら、やってみてよ。ほら、私、何にも抵抗しないよ」
不意に、全身に自由が戻る。目の前で少女は無防備にも両手を広げ、目を閉じていた。
死などまるで恐れていない風に。死にたいと言う割りに死を恐れて踏みとどまる人間がほとんどな中、彼女は、冗談でも強がりでもなく、死を全く恐怖してない・・・。
それが甘いのよ。死がいかに痛みと、恐怖に満ちているか。
最大限の苦痛を与えて思い知らせてあげる!
右腕には、いつも通り、禍々しい破壊の力と衝動が溢れ出している。
ためらいも無く、明菜はそれを叩きつける・・・・。
あっさりと、拳は少女の胸を貫通した。
だが、血は全く出ず、少女は苦痛の叫びも発しない。
「何これ、ヤダぁ」
喜劇でも眺めるように少女は自分を貫いている黒い腕を見て、馬鹿みたいな反応をした。
「ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダぁ」
それから狂ったように笑い出す。
きゃははははははははははははは。
「ぜえんぜん、痛くないよ。こんなの全然平気だよ」
力の使いすぎで、威力が弱まったのか・・・・いや、そんなことは無い。腕に蓄えられた力は、いつも通りのものだ。むしろより混沌とした力を引き寄せ、引き出し、以前よりもその破壊力は格段に高まったはずだ。
その力が・・・・・通じない。
「ちょっとガッカリだなぁ」
不意に、全身に凄まじい衝撃が走った。何かに叩きつけられたようだった。全身の骨が丸ごとクラッシュする。それでいて、そのダメージが、少しも内臓や神経を傷つけていない。正しく骨だけを狙った攻撃だった。
光景は変わり、何時の間にか、明菜は大の字になって天を見上げていた。不穏な色の、不穏な空を。
「痛い?痛いのぉ?」
無邪気な笑顔が明菜の顔を覗き込む。
「でも大丈夫。すぐに治してあげる。さっきも言ったよね。傷つけた後は、癒してあげるって。でもね、その前に、紹介させてね・・・・」
顔も動かせない明菜はただその声だけを聞いていた。
紹介?何を紹介してくれるっていうの?
「私達はね、ずっとこの一帯に根ざし、この一帯を守ってきたの。少しずつ、少しずつ、秘かに破壊と絶望のエネルギーを蓄積しながら。それを世界に解き放ち、新たな死と破滅を呼び、この世界から完全に光を奪うために。彼らはこの楽園を守るために生まれた、防衛神たち」
たち、というからには他にもいるのだろうか。
「声を聞かせてあげて」
少女は何かに呼びかけた。
「この女は危険だ。聖地を破壊した。今すぐに殺すべきだ」
先ほど聞いた唸るような、地響きみたいな声が持ち上がる。
「ヤダヤダ、血の気が多いんだから全く・・・・」
「今こそが好機。姫がやらぬなら、我が・・・・」
「ハイ、発言終わり。次の人がしゃべれないでしょ?」
姫と呼ばれた少女はきゃは、と笑い唸り声を制した。
「またご拝謁賜れて、光栄です、姫」
今度は対照的な美声が、響き渡った。だが、どんなに美しい声も、この風景には似合わない。
「・・・・なるほど。我らがずっと感じていた禍々しい気の正体が、これか」
美しいが、殺気と狂気が含まれたガラス細工のような危うい声を聞いていると、何かに品定めされているように見られている感覚が走ってしまう。
そう、何かがいる。間違いなく。
「明菜さんのおかげで、この二人も自由になれた・・・・・。ねえ、少し遊んでみたいでしょ?」
ぞわぞわと、凄まじい鬼気と殺気が持ち上がる。辺りを染める。
「・・・だってさ。私も少し疲れちゃった。でもその前に、その傷、治してあげる。ねえ、遊んでもいいけど、殺しちゃ駄目。最後は私がやるんだから・・・」
言葉の後半は、辺りを染めた鬼気に向けたものか。
顔を覗き込んだ少女が、白い手を明菜の胸の辺りに翳す。ただ、それだけで、明菜は重苦しい全身の痛みが、今にも意識を失いそうな痛みが消えていくのを感じた。
「私、見てるね。祈ってるから」
少女は天高く浮上した。その姿はまるで降臨する前の天使だ。
純粋な邪悪で満たされた破壊の天使。
だが、もう明菜は少女を見てはいなかった。
身体を起こす。動ける。痛みもない。確かに少女はあのダメージを治してくれたらしい。
視線は周囲に散る。場を埋める凄まじい魔力の発生源、主を求めて・・・・。
不意に、中空に何かが凝結する気配があった。
風・・・・とも違う。霧・・・・とも。
ただ一つ確かなことは、それが異様な冷気を備えていたことだ。研ぎ澄まされた、濃厚な魔力故、と明菜は看破した。触れれば、それだけで凍傷を負ってしまいそうな・・・・。
地面から、空中から、その得たいの知れぬものが吹き上がり、中空で一つの塊を作っていく。
巨大な、人面を。
そいつは、一つの顔の癖に、微妙に左右が異なっていた。目も、鼻も、唇の厚み、作りも微妙に左右で違う。一番は目だろう。左側の目が、怒りの形相に見開かれているとするならば、右側は何かもっと静かな鋭さを秘めているように細い。
色も違う。左の顔の色は赤いのに対し、右側は青。頭髪のようなものは無く、ただ顔面のみが中空に表出しているようだった。
「殲!!!!!」
人面がそう叫んだかと思えば・・・・。
顔の前方で、紅い輝きが凝結した。
炎、と看破する前に、輝きが襲い掛かる。炎にしては鮮やかで美しく、不思議と熱さを感じさせない光。
死は、そうとは思わせぬ何食わぬ顔で訪れるものだと諭すように。
明菜は腕を振るった。
混沌を凝結した腕が、世界に混沌を解き放つ。加えて、解放されぬ、解放を待つ、自由を待ち蠢くものを引き寄せる。混沌と無秩序の邂逅。それは賛歌であった。自由を称える、解放を称える悦びの叫びだ。
解放の震えは、黒い炎という形で、空間を震わせながら広がる。
無から生まれし混沌か、世界を焼き飛ばそうとする炎の光か。同じ炎である両者は正しく、正面から対峙した。
激突の均衡は、長くは続かなかった。
混沌は、襲い来る炎すら、その一部に選んだようだ。黒い炎が渦となり、紅い輝きを侵食する。その刹那、禍々しい炎という奔流は色を失い、淡い、霧のような物質へ変じた。
それは、どこか、原初の、原始のスープを連想させた。
音が。
渦を成して拡大する蠢きが。
呻くように、叫ぶように、もがく様にして一帯を包む。
それは祝祭の叫びようでもあった。あるいは、別の苦悶だったかもしれない。解放された混沌は、新たなる混沌の呼び水となり、さらなる解放を求めるが如く。さまざまなものが内包され、激突し、次なる因子を生み出す。そこから何かが生まれるのか、あるいはただの予感で終わるのか。
その予感が最高潮に達したとき、不意に、世界に色が戻った。
一瞬だが、そこにも死闘が展開していたと言える。
そして、もう一つの戦い・・・・。
混沌を解き放った明菜もまた、一つの混沌となっていた。彼女は、人面の放った激烈の一撃を無効化するのと同時に、立ち止まらず、そのまま一気に敵の懐へと肉薄していた。
右腕が振られ、禍々しい破壊の力を込めた混沌の拳がその顔に叩き込まれようとした刹那、明菜は顔を歪めて、後方へ飛び退いた。
思わず右腕を左手で押さえる。凄まじい凍傷が、腕にダメージを与えていた。
人面の半分が炎を司るなら、もう半分は冷気を獲物とするのか。正しく明菜にダメージを与えたのは、もう半分の顔だった。
先ほどの炎が、触れる刹那まで熱を感じさせなかったのに対し、今度は空間を凝結させるほどの冷気が辺りを染めた。身体中から熱がみるみる奪われていくのが分かる。
腕のダメージは・・・・。
凍傷のためか、あるいは凄まじい冷気を一気に浴びたからか、力が失われている。感覚も消えて、細胞が壊死を起こしていた。
「殲!!!!!」
今度は、青い顔が叫ぶ。
冷気を帯びた空気が震えたかと思えば、真っ青な靄が辺りに漂う。一見すると、それは幻想的な光景だったかもしれない。何も知らない者にとっては・・・・。
今、その青い靄はすべてを氷結の世界へ誘う冥府からの使者なのである。
明菜は腕に意識を込めた。多大なダメージを受け、力を削がれても尚。
痛みで拳を握ることはできない代わりに、彼女は意識を指先と掌に向けた。
何かが・・・・宿る気配がする。細胞は壊され、満足に動かすことすらできない感覚の死んだ腕、指先にも関わらず、そこには何かが、凶暴な何かが確かにまだ息づいていた。
倒しても倒しても、傷つけても、傷つけても、殺しても、殺しても、そいつは死なず、死ねず、生き続けているかのように。
一体・・・・・そいつは何だろう。
今にも死が空間を染めて自分を飲み込もうとしているという時に、明菜は不意に、今更ながらの間違いな物思いに耽る。
そいつは・・・・いや、こいつは何だろう。
私の中に宿る、ドス黒い何か。腕に宿って存分に殺戮に耽る何か。殺しても死なない何か・・・・。
でも、この何かが私を支える。私を助けている。私を生かしている。
存在を感じた。
ドス黒い何かは指先、掌に宿っている。だからと言って、すぐに腕の全機能が完全回復して、腕や拳を振り回せるわけではない。
明菜は予感に従った。
そして走る。
青い靄の中を。青く染まった闇の中を。
その、思わぬ反撃を警戒するかのように、彼女の周囲の空気も、一気に温度を下げ、彼女を包囲した。
どちらが早かったか。
死の冷気が明菜を包囲するのと、明菜が指先と掌に込められた、破壊のエネルギーを解放したのは。
冷気は明菜を抱くように直撃し、明菜の放った一撃は、漆黒の閃光となって飛んだ。
どちらが、決定的な一撃を与えたか・・・・・。
ほぼ同時。
青い靄が晴れ、巨大な人面の丁度真ん中に、巨大な風穴が穿たれているのが露になったのと、明菜がその場に倒れこんだのは。
苦悶の断末魔を放つこともできぬほどの一撃を受け、もがく様に首を振り、そのまま震えながら、霧が晴れるようにして人面は散っていく。そのたびに、凄まじい放電が巻き起こり、空間に、天に乱れ飛ぶ。乱気流が巻き起こり、雲がかき乱され、その上空にだけ、濃厚なスープをかき混ぜているかのような、さまざまな色が浮かんでは消えた。熱も冷気も、液体も気体も、固体も、あらゆる元素が、あらゆるものが入り乱れ、ぶつかり、攪拌されていく。何かが生まれるかのように。
明菜は明菜で全身に凄まじいダメージを負い、半死半生の状態のまま、ぼんやりとぐるぐる回る空を見上げていた。
殺されはしない・・・・・。「最後は私がやるんだから」という少女の言葉が、刹那、脳裏に過ぎった時、明菜は僅かな可能性に賭けることにしたのだ。
だからと言って、事態がいい方向に進んでいるわけではない。まず、動けない。ダメージの回復が先決だった。息を深く吸い、気を落ち着かせる。腕の力が、全身の傷を少しずつ癒していく。体力を消耗しないように、しかし眠ってしまわぬように明菜はじっとしていた。
だが、大人しく動けるようになるのを少女は待ってはくれなかったようだ。
禍々しい鬼気が、全身の傷に響き、軋むように疼いた。
ゆっくりと、少女は中空から降り立ち、明菜に近づいた。
「よかった。これで楽に死ねるね」
顔を見上げて、その表情を確かめたかったが、今はそれすら苦痛だった。
「あなたは今、崖の端に立っているの。あとは私が、ちょっと軽く手を引いてあげる。一緒に向こう側へ飛び降りるの」
手を差し伸べるようにして、少女は手を伸ばす。
刹那・・・・。
身体が、勝手に動いた。痛みで、まるで動けなかった身体が。今は痛みすら消えている。いや、何も感じない。
少女の手に導かれるように、明菜はふらふらと、その前に進み、跪くようにして崩れた。
「見て」
彼女は天へ視線を移す。
奇怪で不気味な空模様は益々加速し、混迷は極まり、怪異は依然としてそこにあった。
「すべて滅んでいくよ。そして新しい世界が始まる。私は、何も無い所から生まれたの。残骸と、骸と、灰の中から。滅びの中から。でも、それは長くは続かなかった。平和が、安定が、安寧が、私の居場所を奪っていった。私は楽園から追放されたの」
空を、さらに高い空を見上げたまま、少女は続けた。
彼女の言う楽園は、見上げた先にあったのだろうか。
「でも、また生まれるよ、私の楽園が。この、見せ掛けの汚らしい世界を粛清して、広がった荒野が、廃墟が私の新しい世界になるんだ。沢山の苦しみと、絶望と、悪意を友達にして・・・・」
何か言い返そうとしたが、口が動かなかった。まるで操られているかのように、明菜は無様に少女の前に崩れたまま指先一つ動かせずにいた。
「けどね、駄目なの」
何が・・・・駄目だというのか。
「これだけじゃ足りない。このままじゃ駄目。最後は私が直接、人類と、この世界の終わりに手を下さなきゃ。そのためにはね・・・・血と、魂が必要なの。怒りと苦しみと悲しみと絶望に染まりぬいた血と魂が。その血と魂と一つになることで、私は楽園の創造を可能にする力を手にすることができる・・・・」
少女は両手を広げた。愛しい恋人でも受け入れるかのようにして。
明菜は引き寄せられるようにして、少女へと近づく。
駄目・・・・。
どうにか踏みとどまろうとするも、身体に力が入らない。
少女の身体が、白い輝きを増し、透き通る。一瞬、その姿から頭に過ぎったのは、聖母という言葉だった。この輝きにすべてを委ねたい。抱かれたい。そうすれば、すべての苦しみは、悲しみは、痛みは・・・・・消える。
幻惑され、蕩けた脳髄は、正確な思考を、理性を、消失させた。幻惑が、新しい現実を作り出す。少女の輝く身体は、そのまま、新しい世界への入り口に見えた。その向こうには、夢幻に広がる楽園が待っている・・・・。
さあ、行こう。
入ってしまおう。
消えてしまおう。
永遠に。
一歩。そのようにして明菜は、新世界への入り口を潜った。
その刹那、彼女の身体は抱かれた。
白い、聖母のような光ではなく、禍々しく少女の胸から生えた肋骨のような奇怪な触手により。触手は、そのまま明菜の身体を貫き、捉える。引き裂くでも、食らうでもなく。ただ、幻惑させるために。ただ、甘美な夢幻へと誘うために。そしてゆっくりと、その身体を少女の中へと引き入れる。
ああああ、と少女が呻く。恍惚と悦びで満たされた声だった。
激情が流れ込んでくる。強く、熱く、黒い津波。苦悶の魂。絶望の血潮との融合。
そう、これ。これを待っていたの。求めていたの。ずっと、ずっと。そのために、この瞬間のために、私は存在した。そして一度、私と言う存在は消える。でも、またすぐに生まれ変わる。これまでの、姿を持たない、ただ待ち続けるだけの、曖昧なものではなくて、新しい世界の神という存在意義を手にして・・・・。
この世界を憎み続けてきた。呪い続けてきた。けど、世界は何も変わらなかった。今までの私には変えられなかった。でもこれからは違う。私は同じ魂に、血に巡り合えた。
紅明菜。彼女もまた、この世界を呪っていた。憎んでいた。闇を、闇に生きる存在を、生きることを許されない者達を憎み、呪い、殺し続けてきた。私と彼女には紛れもない同じ邪悪さがある。こんな人間が現れるのをずっと待っていた。
けどまだ足りない。彼女にはまだ、穢れが足りない。まだまだ彼女は血で汚れきっていない。こんなもんじゃない。まだまだ足りない。まだまだ温い。まだまだ世界を、何かを憎み切れていない。呪い切れてもいない。憎しみが、怒りが、絶望が、まだまだ全然足りない。でも大丈夫。すぐに私と同じになれる。
私は生まれた時から憎んでいた。呪っていた。世界の穢れを憎んでいただけじゃない。あまりにも、この世界が、綺麗だったから。綺麗なもので満たされようとしていたから。本当は汚れ切っているのに、誰もそれを認めようとしないから。
腐ったこの世界を呪っていた。同時に、綺麗になろうとする世界も同時に呪っていた。何も知らないのに、何も見えていない癖に善とか悪とか、そういう下らない二項対立そのものを呪っていた。存在そのものを憎んで呪っていただけ。
だから壊すの。全部。虚無に帰す。そして選ばれた魂だけが生きることを許される世界を生み出すの。好き勝手な穢れや、純真さを生まない魂。穢れも清純も私が決めること。創造されたものにそれを決定する資格なんかないんだから。創造する者が善も悪も、すべてを決めていく。
私はまだ、蛹だった。天高く飛翔したいと無意識に羨望しながら果たせなかった蛹。蛹にとって、空を飛ぶということなど、意識もされない。だが、羽を得た途端、空を飛ぶという行為が当然のものとなっている。望むも、望まぬもない。羽を得たものは当然のように空を飛ぶ。
同じように、この世を滅ぼし、新たなる世界を生み出すのは、神としては当然の行いなのだ。意識するまでもない。この流れ込んでくる力を、魂を感じて初めてそう理解できた。すべては当然のことなのだ。歩きたいから歩くのではない。足があるから歩くのだ。足を持つものにとって歩くことが当然だからだ。空を飛びたいから飛ぶのではない。羽があるから飛ぶのだ。同じこと。滅ぼしたいから滅ぼすのではない。生み出したいから生み出すのではない。力があるからこそ滅ぼし、生み出すのだ。
さあ・・・・・・羽化しよう。
幼かった蛹の意識と身体を脱ぎ捨てよう。
成すべきことを、成そう。
当然のことを。当然の行いを。
少女はそう静かに決意し、両手を広げた。形容できない熱い塊が、身体の奥底から吹き上がってくる。
ついに始まるのだ。
形の無かった悪意の塊から神への大いなる飛翔。無から有への変換。
肉体に亀裂が走る。少女という形容が、引き裂かれ、剥がれていく。皮を脱ぎ捨てる。
その下から広がったのは、鷹の如き翼。そしてするすると、天向けて伸びていく肉体。その顔は、少女の面影を留めながらも、完全に成熟した大人の女へと変じていた。朱の混じる艶やかな黒髪を靡かせ、翼を振るって天へ飛翔する。その上半身は大人の色香を存分に振りまく豊かな乳房と、括れた腰が彩り、下半身は人魚の如き尾ひれが付いた龍の如き鱗を持っていた。
異形には違いあるまい。だが、その外見が少しも、奇怪さや不気味さを感じさせない。威風堂々と天空を支配し、座し、地上を睥睨するその姿には、確かに、神としての貫禄はあった。加えて、称えている悪意はより強さを増し、刺すような冷たさを秘めている。
妖艶だが、侮蔑と軽蔑の光で満たされた表情よ。伝説的な生物を集めて作られたかのような、芸術と呼べる肉体よ。そして全身から惜しげもなく撒き散らされる優越感よ。すべてが、世界を卑下し、嘲笑っているかのようだった。
間違いなく、神は生まれた。幼い少女から脱皮し、己の真相に辿り着いた悪意の塊は、今ここに最後の仕上げをせんと降臨したのだ。このまま世界は、消え去るのか?
一瞬だった。
ぐるんと、彼女は身をくねらせたかと思えば、その一瞬の合間に、彼女は世界の形容を見た。改めて確かめるまでもない。その目で見ずとも、手に取るように、全感覚が、世界の在り様を伝えていた。だが、それでも、彼女はその目でこれから手を加える素材を確かめた。
穢れている。
倦み爛れている。
幼く、脱ぎ捨てられて消えた意識ではなく、手にした新しい意識が、この世界を再度、そう結論付けた。
今、この瞬間にも断末魔の悲鳴をあげ、虫けらのように死んでいく生き物達。築かれた秩序も、法則も崩壊し、意味あるものは今まさに姿を消そうとしている。だが、彼女はそのような残骸、混乱を、穢れと結論付けたのではなかった。その残骸の中に蠢く悪意。腐肉のように転がる善意や希望。まるで地表の中に押し込められ、長い間堆積し続けたあらゆる感情の滾りが、ここへ来て一気に噴出したかのようだった。その汚らしく交じり合う、さまざまな色が、神たる彼女に、世界の形容を結論付けたのだ。
世界の崩壊は進んでいる。遅かれ早かれ、このまま放っておいても、全ては滅びるだろう。しかし、と神は思いとどまる。
私の介在しない終わりを、終わりと呼べるだろうか・・・・。
汚らわしくも、神はどこか、この世界に愛着にも似た不思議な感覚を覚えた。消えてしまうのなら、その幕引きはこの手で・・・・、という歪んだ愛着。どこかそれは、トンボの羽を捥ぐ子供のような感覚だったのかもしれない。
ゆっくりと、彼女は両手を天へ翳した。その両手は、何を操りうるのか。何ができて、何ができないか。それは不毛な問いだったかもしれぬ。
神は自分が神であることを疑うことはないだろう。少女だった彼女が、どこかでそれを己に再確認していたのとは違い、新たな肉を得て生まれた神には、そのような確認はもはや不要なのだ。そして、自分に何ができるか、できないのかという確認も、また。世界を終わらせるに相応しい方法も、また。
だが・・・・・。
幕を引こうとした刹那に感じた違和感まで、彼女は見通せただろうか。
何かが・・・・・・、蠢いている。自分の中で。
これは・・?
苦悶が、顔を掠める。
ありえない。私は神。世界を終わらせ、始められる唯一の絶対者。その私が痛みを?苦しみを?感じた・・・?
惑乱が、加速する。拡大する。肥大化していく。一体、何だ?この違和感。この苦痛。何が・・・・この体内を蠢いている・・?
クレナイアキナ・・・・。
一瞬、脳裏にひとつの固有名詞が浮かぶ。先ほど融合したあの女・・・・?
まさか。
苦悶と絶望と怒りを含む魂と血の持ち主は、私と純粋な融合を果たしうるはず。万が一にも、異物として、宿主に歯向かうなどとは・・・・。
だが、まるで消化しきれていない獲物がのたうつようにして、神の体内の中で何かが動いているのは事実だった。
不意に、その目は地上へと転じられた。何の気なしに。
燃え盛り、苦悶が悪意が、その他さまざまな負のエネルギーが渦巻いている。終わりを間近に控え、そこに肯定的なエネルギーを見出すことはできない。まさに地上に渦巻いているのは、混沌だった。
『我の中で蠢く者は何者だ!』
その問いに返答は無い。
『下賎な者め。今すぐに、我が体内から失せよ』
『足元を、見るがいい』
忠告は的外れな返答で相殺された。
『もう一度見るがいい。足元の破滅を、混乱を、死を』
見るまでも無かった。あらゆるイメージは、呼吸でもするようにして知覚されている。
『なぜだ』
『そこが、我の住処だからだ。いや、我自身と言うべきか』
『何が言いたい』
『おまえ如きに、我を滅ぼすこと、叶わぬ』
不意に、喉を締め付けられるような感覚に襲われた。冷たい何かが、喉を内側から掴んでいる。
『足元を見ろ。我が・・・・見えるはずだ』
見るまでも無い。見るまでも無いはずだが彼女は思わず、目を向けてしまった。
黒い何かが・・・・足元から立ち上ってくる。それは渦を巻き、霧とも、靄ともつかぬ形無き姿でゆらゆらと天へ飛翔する。
その中に、あらゆるものが蠢いている。
もがくように、それは生き物の残骸でもあった。
紅蓮の、それは炎でもあった。
明滅する、それは創出と消滅の連鎖でもあった。
地鳴りのような、うめき声でもあった。
雨のように滴る、それは涙でもあった。
それらが混ざり合い、絡まりあい、蠢き、のたうつ。かと言って、それは決して突破口を求めて、足掻き、飛び出そうとする肯定的な営みなどではない。ただ、その場に留まり、混ざり、ぶつかり合うだけの混沌。
『それが、我だ』
声は冷たく言う。
『おまえに、我までをも滅ぼすことができうるか?神ならば・・・・可能。だが、おまえは神ではない』
『我を・・・・愚弄するか?』
『神とは、混沌の座に座る者。その椅子に座るのは、我のみ。神は二人もいらぬ』
神は、そのか細い腕を、口の中へと突っ込んだ。体内に巣くう邪悪を、つかみ出そうというのか。
一方、体内で蠢くそれは、神の長い胴体に亀裂という形で表出した。
縦に、その体が裂けていく。
鮮血の代わりに、傷口から溢れたのは、炎だった。黒と、赤が入り混じった炎が噴出す。だが、神もただやられているわけではない。口から差し入れられた腕は、その根源にまで瞬時にたどり着き、苦悶の元凶へと肉薄していた。
それは、冷たかった。おまけに、手ごたえが無い。冷気を掴もうとしているのと大差なかった。
しかし、瞬時にそれは、炎のような灼熱へと変じていた。
思わず、彼女は腕を口から引き抜いた。だが、絡みつく炎は消えない。黒い炎は。
その間にも、縦に裂けた傷から溢れた炎は、地上へと撒き散らされた。とは言え、その頃には、炎は火の粉ほどにまで分解され、ほとんど無害な存在と化している。神にまとわりつくものを除いては。
中空で奇怪な空中戦が起きていた。
炎で出来た黒い龍と、腹を縦に裂かれた、紛れも無い龍の身体を持つ神との、破滅の座を巡る空中戦。
しかし、それはあまりに一方的な戦いでもあった。
身体にまとわり付く炎の龍を神は払いのけることすらできないでいた。掴んでも、掴んでも実体が無いのだ。
それでも、全身を焼かれて尚、神が弱まる気配は無い。傷を受ければ受けるほど、その力は逆に増すようであった。雲が荒れ狂い、稲妻が天を裂く。烈風が空間を暴走し、混沌が加速する。
『小賢しい蝿め!!』
神が両手を高々と掲げ、そのまま振り下ろした。
稲妻が疾風に乗り、炎の龍を直撃する。触れた者を散り散りに分解するほどの、凄まじい勢いの風に加え、空間を摩擦し、火花さえ生む雷電が重なり、さしもの黒い龍も、身体を分解され、中空で四散した。
だが、強大な一撃を放って尚、神は己の力の減退を感じた。
眼下を見る。
神が、世界を終わらせるべく取り込んだ強大なる力。その持ち主である、紅明菜は、浮上する空中庭園に倒れていた。内側からの攻撃で、神の肉体が裂けた時、炎と共に、外へと転がり出たのだ。明菜の流出は、そのまま神の能力の減退を意味する。
明菜は動かない。だが、その右腕だけは黒炎を纏い、禍々しい殺気を放出し続けている。
それだけではない。
腕が。黒い右腕に、次々と、黒い霧のようなものが集まり始めていた。霧は地上から吹き上がってくる。そこには無数の怨念が、苦悶が、混沌が込められ、さながら、亡霊のようでもある。
不意に・・・・。
明菜が目を見開いた。
朱に染まった両目からは、今にも血の涙が流れ出しそうになっている。
ふらふらと立ち上がる明菜は、まっすぐ上空を見据えた。
飛ぶ。
蝿を叩き落そうとするように、神が腕を振るった。
だが、その腕は、明菜の右腕に弾き飛ばされる。黒い炎が、巨大なブラックホールのようになり、腕を飲み込んでいた。その異形の腕が生む一撃は、容易く、神の腕を千切り飛ばしたのだ。
しかし、千切れた神の腕は、上空で回転を初め、そのまま明菜へと飛ぶ。
稲妻と回転の摩擦が生む炎を纏ったブーメランとなって。
明菜はその一撃をも、右腕で弾こうとするが、ブーメランとパワーとスピードに、逆に彼女の身体が吹き飛んだ。
ぐるぐると錐揉み回転するところに、神が左腕を振り下ろす。
先ほど、黒い炎の龍を屠った、烈風が、明菜に襲い掛かった。
風に向かい、明菜は右腕を勢い良く突き出す。
そこだけ、まさにブラックホールが出現したかのような、黒いエネルギーの塊が、切れるはずのない風を、横に薙いだ。烈風はそこからエネルギーを中空へ放出し、バランスを失い、消える。
体勢を立て直し、明菜は再び、神の元へ挑んだ。その右腕は既に再生を見ており、既に次なる一撃を生むべく、動いていた。
両手が、高く掲げられる。
稲妻が、神の周囲に収束していた。地上からも、光の柱が立ち上り、神を取り囲む。
厳かな光景だ。光と言う光が、神を称えるように集まり、束ねあい、膨らんでいく。
世界が、白一色で塗りつぶされる刹那、神が両手を振り下ろした。
正しく、収束した稲妻は、明菜目掛けて襲い掛かった。全てを四散させ、灰さえ残すまい。
明菜は・・・・迎え撃った。
刹那、右腕を中心に闇が、膨張した。そこから手首だけが突き出ている。指先と、掌が、燃えるように紅い。
その部分から、渦が生じた。同時に、闇も膨張する。光に、闇が挑んだ瞬間だった。闇は周囲から、光を食いつぶすように押し寄せる。渦は拡大していく。凄まじい勢いで。
渦の中に全てがあった。混沌のすべてが、葛藤のすべてが、ぶつかり合い、摩擦しあい、そこから何かが生まれた。凄まじいエネルギーが。
渦と闇は融合し、光を食らっていく。吸い込んでいく。飲み込んでいく。
混沌が、獲物を求めるように荒れ狂い、空間を縫った。膨張し、加速し、暴走する炎の破壊者。
明菜の身体すら、その炎に取り込まれ、共に空間を食らいつくす。身体が燃えているのすら、気にならない。
前方から、何かが突っ込んでくるのが見えた。
白い、光。
神が、龍の如き肉体を、一筋の太い光の柱と化して加速させたのだ。
黒き炎となった明菜。そして、白い光と化した神。
双頭の龍は正しく、正面から激突し、交錯する。
その瞬間、光も、闇も共に散った。
双方を包んでいた闇と光も消え、中空で互いに背を向けたまま両者は動かない。
ぐらりと、その身体が地上へ崩れたのはほぼ同時だったか。
神は、黒い炎を吹きながら、その身体を粉々に四散させたまま、最後の悲鳴を迸らせた。
呪詛の叫びだ。悪意の最後の燃焼だ。それは空間と言う空間を震わせ、世界に凄まじい衝撃と地響きを轟かせるに終わった。成就しなかった野望。神は神になれぬまま、世界を滅ぼすことも、新たに生み出すこともできずに散ったのだ。
だが、その最後の叫びは、確実に地上の混沌を新たなる段階へ引き上げた。破滅が加速する。崩壊が拡大する、加速する。それでも、決定的な最後が来ることはもうないだろう。手を下すべき神は消えたのだ。
一方の明菜は、そのまま、空中庭園の地面へと落下した。全身に痛烈な痛手を負ったが、まだ意識はあった。酸欠寸前の身体に酸素を送り込みながら、彼女は未だ混沌たる天を見上げていた。
今度こそ、終わる。
そう予感し、安堵しようとした時だった。
ぞくり・・・・。
凄まじい悪寒に吐き気がこみ上げる。
これは・・・・・。
知っている。忘れたくても忘れられないあの気配。感覚だ。
長年追い求めていたもの。このために戦い続けてきた。
それが突然・・・。
不意に、中空に闇が凝結した。明菜の右腕とは明らかに質的に異なる闇がそこにある。明菜の右腕が纏う黒いエネルギーよりも、さらに色濃く、邪悪で、冷たく濁った、闇。悪意。空間が、その闇にあてられ温度を急速に下げていく。
「貴様は・・・・」
唇を噛締めながら、明菜は闇を睨んだ。
そこにあいつがいる。あいつがッ!
「ジャッカル!!!!!!!!!!!!!!!」
明菜は仇の名を叫んだ。腹の底から叫んだ。
「久しいな、紅明菜よ」
闇は震えるような声を響かせた。地獄から響くような、唸り声にも似た、不気味な掠れ声。
明菜は右腕に力を込める。急速な力の蓄積と解放の繰り返しで、力はすっかり枯渇している。自分の体力も、気力も限界をとっくに超えている。
しかし、今の明菜の感情が、激情が、尽き掛けた力を再び蘇らせたっかのようだった。
「我が恋しかったか?」
明菜は答えない。今は、激情だけを力に変えて、この腕に宿すのみだった。
「恋焦がれるように我を待っていたか」
そうよ。殺すために、恋人を待つように、貴様を待っていた・・・・!
「ならば、あの快楽も恋しかろう」
すうっと、腕から力が引いていく。
いけない!
「与えてやらぬでもないぞ・・・・・ほれ」
膝から力が抜けた。
肢体が、体液を噴出す。
悲鳴が漏れる。すっかり欲情している声で。全身が上気し、皮膚が火照る。
「我にとっても、おまえとの交わりは美酒だった。もう一度、極上の酒を酌み交わさないか?今現われのも、労いの気持ちからだ。その身体、我が包んでやる。抱いてやる」
全身が凄まじい快楽にビクビクと痙攣する。
その中で明菜は、意識を右腕に再び戻す。
力は宿った。快楽を、怒りが、恨みが、殺意が、上回ったのだ。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ」
快楽の残滓を完全に払拭するかのように明菜は叫び、宙へと挑んだ。
右腕に宿された力には微塵の遅れもない。
すべてを込めて。あらゆる負の感情をそこへ託し、明菜は拳を振るった。
と・・・・。
何かが、心臓を射抜いたように思った刹那、明菜の身体は地面へと叩き落された。
意識が緩やかに混濁していく。
届かなかった・・・・・・。
全てが、消えていく。
恨みも、憎しみも、怒りも、全てが波に攫われるように。それは、生命の終わりだった。温もりが、消えていく。闇が迫る。本当の、逃れられない死の闇が。
上空に凝結した闇はしばし、明菜を睥睨するようにそこにいたが、やがてすうっと消えた。
それに呼応して地面に亀裂が走る。ぐらぐらと、神殿が、塔が揺れ、崩壊を始め、傾く。
あっさりと、明菜の身体は中空へ投げ出される。神殿や塔の残骸が、地上へ降り注ぐ。
重力に従い、あっけないほどに明菜の身体は加速する。
闇が迫ってくる。闇に包まれて、すべてが止まり、終わるんだ・・・・。
不意にそこに、白いものが割って入ったような気がした時、安堵か、それとも、終わりが訪れたのか、明菜の意識は今度こそ、完全なブラックアウトを見た。
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