第六章 処刑人帰還
悪臭塗れの体液に続いて、絶叫が降りかかってきた。
嫌悪感を感じる余裕も無く、明菜は、少しずつ高まっていく鼓動を鎮めることに気を割いた。
闇に潜む奇怪で汚怪な捕食者の体内に、寸での所で転がり込もうとする寸前、明菜の右腕は力を取り戻し、敵の皮膚を粉砕して、床の上に転がり出た。
力の疼きを、明菜は抑えることができなかった。むしろ今は、思い切りこの力を振りかざし、爆発させてやりたいとすら思った。
眼も良く見える。
闇の中に蠢く、そいつの身体が、顔が、輪郭をなしてくる。
改めて、醜悪な異形だった。
そいつは巨大な蝦蟇蛙のような姿をしていた。顔は異常なほどに巨大で横に広く、首が長い。大きく開かれたその口は、人など簡単に丸呑みにできる広さを兼ね備えている。口内には歯や牙のようなものは見当たらないが、恐らくこれらは必要に応じて出し入れが可能なのだろう。普段は獲物を丸呑みすることを好んでいるに違いない。
蝦蟇蛙のような姿は顔と上半身で、下半身は蛇のようだった。蛇と言うよりは、巨大なホースかパイプだろうか。とぐろを巻くその下半身は、先ほどまで明菜が見てきた部屋中を這い回る腸のようなものだったのだ。
床を、汚物にも似た匂いの鮮血が広がり、その匂いは部屋を染めていく。だが、明菜はまるで平気だった。今はこいつを、世の中からオサラバさせてやることだけに意識を向ける時。
捕食者が舌を伸ばす。再び明菜を絡め取るためだ。
彼女には全てが見えている。舌の動き、癖、全てが。
従って、舌を掴むことも容易だった。
明菜の右手は舌を掴んだのみならず、力を込め、引き抜いていた。
聞くだけで狂ってしまいそうな叫び声をあげて、異形は暴れた。だが、ただ暴れただけではなかった。
両生類特有の、湿った皮膚からそいつは何かを飛ばしたのだ。
明菜の動体視力と、夜目が無ければ、それは皮膚に突き刺さり、即効性の毒で全身の筋肉を弛緩させるか、あるいは心臓を停止させていただろう。
明菜は針のような飛来物を、すべて指と指の間で受け止めていた。
「これが苦し紛れの最後の攻撃、ってわけね」
受け止めた針を、床に放りながら明菜はぐるぐると右腕を回した。
拳を握る。意識を腕に集中する。禍々しい破壊の力を宿す。
腕全体が、漆黒に染まっていく。指先と掌が、紅蓮の光を放出した。
渦巻く混沌、渦巻く苦しみ、数多の死、全てを引き寄せ、取り込み、纏った明菜の右腕の真の姿だ。
「我は混沌の座」
明菜の声ともつかぬ声が宣言した。
「わが一部となれ。砕け、散り、芥と化せ。そのために、貴様はその醜悪な生を刻んでいる」
明菜の両目が赤い光を放った刹那、彼女は挑んだ。
破壊の力を宿した右腕は、易々と、ぶよぶよとした肉の塊に風穴を開けた。異形の身体は内部から爆破されたように飛散した。
一撃。ほんの一撃で勝負は決したのだ。
肩口まで埋没した右腕を引き抜いた明菜は、その手の中に何か、肉の塊を握っていた。
弱弱しく鼓動を刻むそれは、恐らく心臓。
高らかに頭上へと掲げると、彼女は易々とそれを握りつぶした。
飛び散る鮮血を、顔から浴び、明菜は狂ったように笑った。笑い声は明菜のものだった。禍々しい鼓動を、右腕は刻み続ける。そのたびに、まるで腕が囁くように頭に声を投げかけてくる。
もっと血を。
もっと死を。
もっと苦しみを。
もっと痛みを。
絶望を、闇を、怒りを、悲しみを・・・・・。
それを我に与えるためだけに、おまえの心臓は鼓動を刻んでいる。
オマエは、我のモノ。
オマエは、我のモノ。
オマエは・・・・・。
血管を駆け巡る殺意が、邪悪が、ふと退いた時、明菜は書庫の中に立っていた。全身を包んでいた不快な湿気は跡形も無く消えているが、先ほどまでの一戦が幻でなかった証拠に、あの生臭い、悪臭は体表にまとわり付いていた。
幸いにも、バーンズダイクはすぐに見つけることができた。明菜は先ほどと寸分違わぬ位置に居たのだ。そして先ほどと違うのは、右腕に力が戻ったこと。あとは、腕のすべての力をぶつけ、この書を粉砕する。それで全てのカタがつくはず。
一度は棚へ戻した分厚い書物を、再び明菜は手に取る。ずしりと重い手ごたえが、それが幻ではないことを物語る。
厳かに、彼女はバーンズダイクを床に置いた。まるで、経典か聖書のように慎重な面持ち、手つきで。
だが次の瞬間、それは瓦割りの瓦の如く、粉砕の運命を辿るだろう。
ぐっと、拳に力を込める。力は普通に漲った。
右腕全体に、禍々しい破壊の力が呼び戻されていく。漆黒の炎が腕を包み、指先と掌が赤色を吐いた刹那、明菜は裂帛の気合の下に拳を叩きつけた。
直後、明菜は愕然とした。
渾身の一撃は書物自体に何らダメージを与えていなかったのだ。あり得ない。今の一撃は、本だけでなく、この一帯をも軽く吹き飛ばす破壊力を込めていたのに・・・・。
その時だ。
庫内に変化が生じた。
変化は一瞬の出来事だった。
明菜は、石造りのらせん階段の上に佇んでいた。宙に浮かんでいるような階段から下は、濃霧により見通すことはできない。壁すらない。ただ、石段のみが、どこへ続くとも知れぬ深淵を目指して下降しているのみだ。
階段を下るより他に道は無さそうだった。明菜は足元に落ちている書を拾い上げ、ゆっくりと階段を下り始めた。
刺すような寒気とはこのことだろうか。凄まじい冷気が、霧と共に吹き上がってくる。まるで明菜の進みを拒むかのように。
それでも、彼女は止まらない。否、止まれないのだ。足が止まらないのか、あるいは、止まりたくないのか。進む以外、道は無いからなのか。まるで、自分以外の何者かが乗り移ったかのように、明菜は、身を切る寒さに耐えながら、一段、一段、着実に下降を続ける。
クスクス。
笑い声が聞こえたような気がして、明菜は一瞬だけ立ち止まった。が、すぐに歩き出す。
クスクスクス。
またも、笑い声。
幼い子供が笑っているような、笑い声が耳朶を打つ。
幻聴じゃ、無い。
確かに、声はした。だからと言って、止まることも、戻ることも無い。
今度は別の声がした。
呻き声とすぐに知れた。
数限りない、苦悶の声が、死霊の世界のように木霊する。
声だけならば、まだマシだったろう。
心臓が飛び上がりそうになる。何かが、足首を掴み、引いたのだ。
危うく、底も知れぬ深淵へ、まっさかさまに落下するところだった。
何歩か進むたび、足を掴まれ、引っ張られる。あるいは、足を払われる。何かが、明菜を、深淵へ落とそうとしているかのように。
当然、歩みは慎重にならざるを得ない。一段ずつ、恐る恐る、確かめるようにして明菜は下る。
果ては、まだ見えぬ。永遠、終わりの無い道行にも見える。何のために下っているのか。いっそのこと、この重い本を放り投げてすべてを終わらせてしまいたかった。
何のために・・・・。
刹那沸いた、一瞬の疑念がとてつもない勢いで肥大化を始めたようだった。
無論、何のために、ということは分かっている。この魔道書を破壊し、校長を滅し、世界を包み込もうとする怪異を収束させる・・・・。
だが、それをしたところで、なんになるというのだろう。一体、この怪異を収めたところで、世界が変わるというのだろうか。自分が変わるというのだろうか。
これまでもそう。闇に生きる存在を、処刑してきたこの生き方の果てに、何が手に入るというのだろう。
すべては・・・・無意味なのかもしれない。無駄なことなのかも。私一人が足掻いたところで、何も変わりはしない。すべては、成るようにしか成らないのかもしれない。あるべき姿になることを、誰も止められはしないのでは?私のこの抵抗すら、何者かの掌の上で予期されていることなのでは?
疑念は肥大化し、止められなくなっていく。これまで全く考えなかったわけではない。それでも止まらずに、振り返らずに、進んでこられたのは何故だろう。何のために私は傷つき、拳を振るって来たのだろう。
すべて捨て置いてもいいはずだった。もう止まってもいい。もう止めてもいい。もう、傷つかなくてもいい。目を瞑り、新しい安寧に包まれたらいい。何もかも忘れて・・・。なのに、それをしないのは?
「それはおまえが殺戮を、死を欲しているからだ」
またも、何かが足首を掴む。
その手が・・・・。
見えた。
黒々とした手が、深淵からわらわらと生え、蠢いている。
「おまえが、俺達をこんな場所へ送り込んだんだ」
「そう、おまえが」
「おまえが」
「おまえが」
「おまえが」
「おまえが」
黒い手の群れが、一斉に謳うように叫ぶ。
ならば、この手は、明菜がこれまで葬り去った者達の成れの果てなのだろうか?
「己の罪を、悔いる気になったか」
「ならば、俺達と同じになれ」
「深淵へ堕ち、無明の世界で、永劫の苦しみに身を焼かれ、裂かれるんだ」
「俺達と同じになれ」
「俺達と同じになれ」
「同じに」
「同じに」
「同じになれ」
「同じになれ」
「同じになれ」
伸びた手が一斉に、明菜の身体の各所を掴み、引いた。
落ちる・・・・!
体勢を崩され、明菜は石段にしがみ付く。不気味な、粘着質の冷たい手の感触が、彼女から体温と力を奪い去っていくようだった。
「こっちへ来い」
「こっちへ来い」
「こっちへ来い」
「こっちへ来い」
「こっちへ来い」
暗示にも似た言葉の群れが、緩やかに、脳髄を溶かしていく。汚怪な感覚は、何時しか、どこかで待ち望んでいた安寧に変わっていた。石段にしがみ付く腕から力が抜けていく・・・・・。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
何かを振りほどくように、明菜は叫んだ。僅か残された理性が生んだ、最後の抵抗。
瞬間、絡みついた手の感触が消え去る。感触だけでなく、手そのものも、虚空から消失していた。
身体は急速に消耗している。心臓の鼓動が早まり、呼吸が乱れる。空気そのものも薄くなっている。
何時の間にか、背中に冷や汗をかいている。粘っこいタールみたいな質感の嫌な湿り気は、急速に冷気で冷やされる。ぞくりとした寒気が身体を貫く。冷たく凍った汗が、そのまま体内に染み込んだようだった。
よろよろと立ち上がり、石段を下ろうと足を踏み出した時、深い霧の中に、ぼんやりと揺らめくものが見えた。
何かが・・・・・階段を“下”から上ってきている。
霧はかなり深く渦巻き、三段下の石段までは見通せない。明菜の視力をもってしても文字通り、足元しか見えないような状態だった。そのため、何かが揺らめいたとしても、それは単に、目の錯覚程度の認識でしかない。
だが、明菜には分かる。何かが、階段を上ってきているのが。
それは・・・・・邪悪なものだ。先ほど絡み付いてきた黒い手と同じく、妄念に取り付かれた邪悪な何か。
この永劫の階段は、そのまま地獄へ通じているのではないか。そして、今、階段を上ってきているのは、地獄から上ってきた奴なのではないか。
そう。自分が地獄へ送った奴らが・・・・。
明菜は立ち止まる。
右腕に意識を集中し、拳を握る。
揺らめきが迫ってくる。
もし、地獄から舞い戻ってきたというのなら・・・・。
また送り返してやるだけだわ。
すぐそこまで。本当にすぐそこまで揺らめきは近づいている。
なのに、未だにその正体が判別できない。
一体何だって言うの?
苛立ちにも似た焦燥感が明菜を包む。
拳はいつでも繰り出せる。奇怪な世界に降り立ちつつも、力だけは失われていないのがせめてもの救いだった。
だが、ぬうっと、突如として霧の幕を破って現われたそいつを見た途端、明菜の戦意は砕かれてしまっていた。
まさしくそいつは・・・・・。
亡霊だったのだ。
教頭!
あの趣味の悪い部屋で確かに葬り去ったはずの教頭が、血まみれの姿で明菜の前に現われたのだ。
「・・・・・痛い。凄く痛いんですよ、明菜先生」
亡霊だ。こいつはもう死んでいる。
だが、そうやって納得させようとすればするほど、教頭の姿はぼんやりとまるで霧で出来ているかのように霞んでいるのに、生きている人間みたいに、妙に存在感があった。
「死んでも死に切れませんでした。痛いんです。痛すぎて死に切れないんですよ。なのにあなたはそうやって、ぬくぬくと生きている。とても承服できない。不公平なことです。だから・・・・」
不意に教頭が掴みかかってきた。そしてそのまま明菜を石段から突き落とそうとする。
「あなたも私と同じになるんだ!」
直後。
明菜の拳は教頭の胸を突き抜けた。
手ごたえがない。所詮は亡霊。所詮は霧なのか・・・・。
振り払われたように、教頭は消失していた。
一方の明菜には、重い疲労感が残される。気力の多くが削がれてしまったかのように。
深い霧がもわもわと、吹き上げる。
その中にまたも、明菜は見た。
揺らめき、近づいてくる何かを。
また・・・・亡霊?
今度は立ち止まらなかった。その姿が見えた瞬間、滅する。
慎重に、しかし大胆に、明菜は階段を下る。疲労に泥みたいに重くなった足を強引に動かして。
と・・・・。
邂逅は突然だった。
ぬうと現われたそいつは・・・・。
嵐だ。
先制攻撃とばかりに叩き込もうとした腕は、掴まれていた。亡霊に。
いや、それは亡霊の手ごたえではない。肉ある人のそれ。だが、温もりはとうに消え去り、まるで死体だ。
「俺に会いに来てくれのか?センセ」
下卑た笑い方まで生前そのものだ。だが、教頭のように、ぼんやりと、霞んだ姿をしている。
「ここじゃあ、骨のある奴がいなくてなあ。退屈なんだよ。退屈、退屈、退屈。どいつも、こいつも、よええんだよ。殺しても、殺した気がしねえんだよ、物足りなくてなあ。でも、またセンセに会えて、俺は凄く嬉しいんだ。また、殺しあえると思うと、勃起が止まらねえ・・・」
ぐわっと、嵐が腕を伸ばしてきた。
喉元が掴まれる。
亡霊に在らざる凄まじい膂力。まるで万力だ。
息が苦しい・・・・。呼吸が止まる前に、骨が折られる、と言うより握りつぶされてしまうかもしれない・・・。
捕まれた腕に力を込める。
こいつは死んでる。もう死んでる。ただの亡霊。大丈夫、やれる。やれるわ。やるのよ!
自分に言い聞かせるように明菜はもがく様に嵐の身体を蹴った。
突き抜けるような感触だが、それでも刹那、嵐がよろめいた気がした。
首と右腕を掴む力が刹那、緩む。
明菜はその瞬間を逃さなかった。
突き出すように腕を振るう。息苦しさの中での夢中の行動だ。
ぼわっと、煙が消えるように嵐の亡霊は消えた。
またも・・・疲労感がのしかかる。身体の節々が凍てついたようだった。
そして、安息を、休息を許さぬようにまたも、何かが階段を上ってくる。
明菜は覚悟を決めた。
さあ、お次は誰かしら?
声にならない声で明菜は呟く。
濃い霧を掻き分けるようにして・・・・・。
葛が現われる。
腕には竹刀を携えていた。
「ここへ来てから、毎日、毎日、竹刀ばかり振ってるんだよ、センセ。それくらいしかやることがねえんでな」
剣道着姿の葛の表情は分からない。笑ったのかもしれない。
「再試合なら歓迎だ。痛みも忘れられるだろうしなあ・・・」
と、不意に切っ先が上がったかと思えば、突きが来た。
避けることもできず、明菜はそれを左肩辺りに食らう。
突き抜けた感覚があった。竹刀とて、不安定な靄なのだ。
しかし、貫通部分を中心に、痺れにも似た鈍痛が広がっていく。
冷気を噴射されたのに似ている。感覚が死んでいく気がした。
「痛てえか?痛いだろうなあ。でもな、俺はもっと痛いんだよ」
ぐりぐりと、捻じ込むようにして葛は竹刀を押し込んでくる。
頭が割れてしまいそうな感覚。まるで冷凍庫の中に長時間頭を突っ込んでいるみたいだ。
「ここじゃあセンセは有名になれるぜ。皆が、あんたのことを待ってる。だからこうして、迎えに来てやってんだよ。大丈夫だ。皆歓迎してくれるさ。可愛がってやるって言ってるぜ。聞こえるかい?今聞こえなくても、すぐに聞こえるようになる。同志の声が」
確かに、何も聞こえない。
だが・・・・。
耳朶を掠めるように、何かが聴覚を刺激し始めた。
最初それは、意識せずに聞いている音に等しかった。耳では聞こえているが、意識に上らない音の数々。人間の脳は、必要に応じて情報の取捨選択をしている。音もそうだ。当座、必要な音以外は、聞いてはいるが、意識には上らない。そのより分けをしなければ、音の洪水に埋もれて死んでしまうだろう。
何かは、既に聞こえていたのかもしれない。ただ、意識に上らなかっただけだ。
しかし、今、確実にその、意識に上らなかった音は少しずつ意識に迫り出していた。
声が。
「待ってた」
「待ってたぞ」
「待ってたよ」
耳元で、囁くように声がする。
「痛い」
「身体中が痛い」
「酷い殺され方だったからなあ」
「全身がバラバラになって」
「爆弾で吹っ飛ばされたみたいになって」
「俺は炎で焼き殺された」
「あの黒い炎に」
「死んでも死に切れねえ痛みだよ」
声だけが、耳元で増殖していく。どれもが、明菜に対する恨み、辛みを表明していた。
「俺達は、許されない者なんだとよ」
「だから殺されたんだ」
「生きていることを許されないから殺されたんだ」
「おまえの価値観で」
「おまえの勝手な理屈で」
「おまえに生かす人間、殺す人間を峻別する資格があるのか?」
「神にでもなったつもりか?」
「血に塗れたおまえこそ、死ぬべき罪人じゃないのか?」
「今まで殺してきた奴の数を覚えているのか?」
「覚えちゃいまいな」
「数を覚えていないほど殺しまくってきたおまえが、なぜ、生きているんだ?」
「おまえこそ、滅ぼされるべきだ」
「そうだ。おまえこそ滅ぼされるべきだ」
「罪を償え」
「罰を受けろ」
「己のしてきたことを悔いて死ね」
怒りが、憎しみが、増殖していく。爆発的に広がって耳元で炸裂する。
目の前で葛が言う。
「聞こえるかい?みいんな、怒ってるなあ。まあ、無理もねえ。簡単には許されねえんだよ。でもなあ、センセ。あんたが、自分がしてきたことを悔い改め、心の底から奴らへ詫びて許しを乞えば、奴らも態度を改めて、センセを仲間として歓迎してくれるぜ。あんただって、実際辛いんだろ?自分がしてきたことが恐ろしかったんだろ?怖かったんだろ?そう思っているからこそ、奴らの怒りが、憎しみが聞こえるんだよ。もし、何にも思っていなかったり、何も感じてないなら、何も聞こえやしねえ。今なら、まだ、間に合うぜえ。皆に許しを乞えよ。そして、ずうっと、ずうっと可愛がってもらえよ。俺も可愛がってやるから、たっぷりな」
許し。
許しを乞う。
そう、私は許されないことをした。
許されないことをしてきたんだ。
大勢殺した。数え切れないほど。
女もいた。子供もいたと思う。とにかく、大勢殺した。
どれも、生きることを許されない奴ら。当然の報いだった。
でも・・・・・。
怖かった。確かに恐ろしかった。自らの手を血で染め続ける自分が恐ろしかった。
殺した奴らが夢に出てくることもあった。人間の姿だったり、人間の姿をしていない奴らもいた。私は縛られていて動けず、近づいてくる奴らにそのままよって集って蹂躙される。そんな趣味の悪い夢。
止めようと思ったこともあった。もうこんなことは。人として。理性ある人として生きていたかった。
けど・・・・。
止める理由に比して失ったもののほうが大きかった。
だから、止めなかった。止められなかった。失ったものが、止める理由よりも小さくなるまでは。完全に取り戻すまでは。
そう。
失ったものを取り返す方が、その営みを止めることよりずっと難しいのだ。決して戻りはしない。けど、近づくことはできる。
穴が開いているのだ。
空疎な喪失感。
殺すことで、その肉で、血で、その穴を埋められるかもしれないとどこかで思っていたのかもしれない。自分からすべてを奪ったあいつに連なる者達を滅することで。あいつに辿り着くために必要な屍を累々と築くことで。
私も・・・・・・。
痛かった。今も、痛いんだ。
だから・・・・だから・・・・
「だから、殺すのか?」
またも、声がした。
「痛みを癒すために殺すのか?」
「殺せば癒されるのか?」
「おまえはな、殺したいだけなんだよ」
「ご大層なお題目を掲げるなよ」
「そうだ。殺しが好きな異常者なんだよ」
「血や死を見るのが好きなだけなんだ」
「復讐なんて綺麗ゴト並べるなよ」
傷が・・・・抉られる。
「認めてもらいたいんだろ?あのお方に」
「屍の山の上に上り詰めて、あのお方の懐に抱かれたいんだろ?」
「あの快楽を再び得るために」
快楽・・・・・。
あの、快楽・・・。
「生きることが嫌になるほどの快楽だったんだろ?」
「それがまた欲しいんだ」
「なのに、あのお方を滅するだと?」
「とんだ欺瞞だ」
「あのお方にまた抱かれたいだけの都合のいい口実だ」
「復讐なんてこれっぽっちも思っちゃいない」
「そうだ。おまえはただ、あのお方に認められ、抱かれたいがためだけに死を築いているだけだ」
「己の卑しい欲望を、処刑だの復讐だのという都合のいい言葉で隠しているだけなんだ」
違う。
私は・・・・そんなんじゃ・・。
「何が違うんだ?」
声が追い討ちをかける。
「夜が来るたびに、身体の奥が疼くんだろ?」
「身体が求めているんだ、あのお方を」
違う。
「素直になれよ、センセ。皆をもっと怒らせるぞ」
竹刀が、さらに捻りこまれる。実体のない、霧のような竹刀。
全身を貫く冷気は、いよいよ脳髄を麻痺させ、意識すら凍てつかせ始めた。
「そうだよ。罪を認めて許しを乞いなよ。たったそれだけさ」
別の声。すぐ隣に、滝沢が佇んでいた。
「僕も仲間が欲しいんだ。ここじゃ、誰もテニスの相手をしてくれない」
越後も。
「生きているのは辛いだけですよ、明菜先生」
山岡が。
「常に死ぬことに怯え続けるんだ」
明菜が葬り去ってきた顔も忘れた亡者達が、群れを成し、階段に列を成し、あるいは中空に浮遊し、彼女を取り囲む。
「失ったものも取り戻せず」
「苦しみも癒せず」
「ただ、ただ、痛みだけが重なるんだ」
無数の亡者達が、明菜に群がる。
腕が伸ばされ、明菜に絡みつく。
亡者が、明菜を深淵へ引きずり落とそうとする。
この、底も知れぬ奈落へと落ちたのなら、もう終わりだということは明菜も直感で分かっていた。
だが、身体がこれ以上動かない。抵抗する意思も気力も。
身体が持ち上がる。明菜の身体は無数の手によって担がれていた。
このまま・・・・深淵へと放り込もうというの?
ぼんやりと、彼女は天を見つめた。真っ白な霧が渦巻く、のっぺりとした、くすんだ空。いや、それは空と呼べたか。空も、地も、地の底も、今は同一線の上に並べられ、階層的な峻別を無意味としている。
亡者達はしかし、すぐに明菜を投げ落とそうとはせず、なにやら快哉を叫んでいた。声にならぬ声。この世のものではない言葉。明菜は彼らの言葉を理解できなかったが、どうやら明菜を投げ落とすために、その身体を担ぎ上げたわけではないらしい。
世界が・・・・変じ始めていた。既に、奈落への誘いは始まっていたのだ。
それまで色のない、白色だった霧が、とたんに、血でも吹き付けられたかのような朱へと変じた。世界がまるで地獄で煮えたぎる大きな釜そのものに成り代わってしまったような、灼熱が冷気を駆逐する。
その灼熱の世界の中で、無数の亡霊たちは、祝祭をするかのように、蠢き、何かを歌い、叫ぶ。
呼応するように、空間に捻れが生じた。糖蜜のような歪みが、四方八方から押し寄せ、世界の様相を異相へと移す。
緩やかにすべてが変じた。亡霊たちも、渦巻く赤い霧も、世界全体が溶かされるようにして。
声が、熱が、音が、奇怪な津波のような捻れに洗われるようにして、別のものへと摩り替わっていく。
それまで既知だった世界の終わり。人知の及んだ世界の終わりを告げているようだった。
だが・・・・。
奇怪な変容は成就することはなかった。
変化が、明菜へ及んだ時に、それは起きた。
明菜の身体は、捻れと歪みによる変質を拒んだのだ。その身体は、奇怪な捻れに触れても、変じることはなかった。
刹那、大いなる混乱が場に沸き起こる。それは、渦という形で表出した。
黒い渦が、明菜から生じた。正確には、その右腕から。
おおおおおお、と言う、うめき声にも似た叫びが、変化した世界で鳴り響く。
それは怒りなのか、悲しみなのか、あるいは非難だったのか。
真意を測りかねたまま、蓄積された叫びが、黒い渦に乗って、変化したはずの世界を拒絶して広がっていく。それはさながら、神経系統を侵す未知のウィルスのようだった。
渦が生む拒絶は、己の世界における位置を問うものでもあった。自分はどこに属するべきか、どういう存在として属するべきか。その決定は誰がするのか。他者か、いや、己だ、と。
その問いかけは、異なる二つの世界を巡る創造のための戦いとして展開する。最初こそ、黒い渦により駆逐されかけた、捻れと歪みは、ここへ来て攻勢を仕掛け、正面から渦の拒絶と激突する。それが、奈落へ、深淵へと引きずりこまれた者が辿る正しいありよう、身を置く正しい世界だ、邪魔をするな、と言うように。
紛れもない混沌がそこにあった。生まれては消え、また生まれては消える。果てしない創造と破壊の繰り返しの果てに定まる一つの様相。そうなのだ。あるものが、その形態となるまでには、この果てしない創造と破壊の連鎖が必要なのである。物ですらそうなのだから、人は?世界は?宇宙は?そして、それらを貫く法則は?そしてその行く末は?
今、明菜を中心に展開するこの創造と破壊の営みは、さながら、世界の誕生を追体験しているような錯覚に陥らせた。黒い渦が主張する世界の在り様、捻れが主張する世界の在り様。勝った方が、世界の姿を決する。
その戦いの中で、改めて、すべてが問い直された。
捻れによる変質を免れた明菜も、また。
渦と捻れの狭間で漂っていた彼女の身体が、水に溶けるようにして緩やかに分解されていく。痛みは無かった。意識だけは残された。しかし、知覚された世界は、既に意味を喪失していた。
ぼんやりと、泡のようなものが立ち上っていく中、明菜の意識は緩やかな下降を感じていた。
水底へと緩やかに落ちていくような、安寧だけがそこにある。
不思議な心地よさだった。快楽を伝達すべき器を喪失して尚、彼女はそれを感じていた。何が、快感を得ているのだろうか。
脳・・・?
いや、脳すらも、消えた。なのに、意識はあり、曖昧ながら、知覚もできている。
脳が無い故か、意味ある思考、まとまった結論は困難、いや無理だった。考えること、結論すること自体、意味があるとは思えない・・・・という考えすら消える。
ただ、曖昧な世界認識があった。曖昧だが、それはどこかで本質を射抜いている。動物の世界知覚はそんなものかもしれぬ。自身では決して、意味づけも、理屈付けもできぬものに囲まれながらも、彼らの世界は揺るがず、理解不能な存在に囲まれながらも、断片的な自分の世界を獲得していく。点と点を繋ぎ、線を結ぶようにして。そんな拙い方法でも、彼らの世界は消えはしないのだ。
今、明菜の感じているそんな快感も、言語化のレベルでは、失敗していた。だが、直感的な理解は、その感覚を快楽と捉えて肯定している。
だが、次の瞬間、本質的、且つ、直感的な明菜の世界認識は、急速な下降を感じた。
無重力から、重力へ。
安寧から苛烈へ。
快楽から苦悶へ。
分解された肉体は、精神は、それを危機と捉えた。だが、それに対処すべき術を、明菜は持たぬ。
故に。
只管に、彼女は翻弄された。
泡が立ち上る水中の如き世界は、漆黒の虚空を急降下する無限落下の旅へと変じた。
その周囲では・・・・。
意味ある世界が崩壊していった。だが、本質と直感に裏づけされた知覚の明菜はその光景に意味づけができない。
燃える街。
燃える人。
崩れる世界。
死に絶える存在・・・・。
ただ、そんな惨劇を、明菜の知覚は、危機とし反応する。
意味なき終わりが、崩壊が、明菜に押し迫り、飲み込もうとする。取り込もうとする。
炎が自分を焼き尽くそうと迫る。
無数の喪失が貫いていく。
存在を揺さぶられ、揺るがされる。何かが流れ込んでくる。
終わりが、流れ込んできたようだった。
意味が入り込んでくる。終わりのみに意味が見出される。
終わりが、崩壊が、死が明菜を形作ろうと動き出す。
亡者の住まう黄泉の住人として。
と・・・・。
何かが、終わりと崩壊へ乱入を見せた。
腕が。
ああ、それは、酸素無き水中に差し入れられた救いの腕だったか。
あるいは、救いを装い、地獄へ引きずり込む亡者の誘惑だったか・・・・。
明菜は腕を伸ばす。伸ばせる肉ある腕は無い。だが、意識は何かを伸ばす。それは、生存本能が見せた抗い。
存在しない腕は、差し伸べられた手を掴んだ。指と指が力強く、激しく絡まりあう。
刹那。
急速に、明菜の中で何かが形作られていった。
血が、肉が、血の通り道が、脳が、意識が、存在が、生が。
絡まりあう指と指。
今握っているその手を、明菜は覚えていた。その感触が蘇る。力強く、何かがその手から流れ込んでくる。何かを伝えようとするように。だが、聞くべき声は聞こえない。伝えるべき言葉も見つからないままに、触覚だけで、明菜とその手は意思をやり取りした。
通じているはずだ。
確かな実感があった。言葉は交わせあえなくても通じてる。
掴んだ手が、明菜を引き上げる。安心して委ねられる力強さ。
それは、こちら側への帰還だった。
渦と捻れの対立の終わり。
世界は、あるべき姿を決したのだ。
明菜の生きて立つ世界を、正しき姿として。
ぬくもりに、明菜の意識は完全な覚醒を見た。
何かが、燃えている。
篝火と呼ぶには業火だった。小山が丸々燃えているような、巨大な炎が目の前にあった。
辺りは濃霧が立ち込めているが、あの石段の連なりは終わりを見せていた。今明菜は、地面の上にいる。どうやら、ここが終着点らしかった。
うっとりしてしまいそうな、炎の色と火力。しばし明菜は立ち上がることも忘れて、呆然と炎を見つめていた。
だが・・・・。
その炎の塊から突如、燃え盛る腕が伸びてきた。
悲鳴を上げて、後ずさる。腕は明菜の僅か手前の地面を引っかくようにしてまた炎の中へ消えた。
「投じろ。そいつを」
見よ。
炎それ自体がまるで巨大な胴体。そして、そこから生えるようにして無数の腕が現われたではないか。腕は、それぞれに虚空を掴もうともがいている。
「そいつを、投げ入れろ」
そいつ・・・?
思い出したように明菜はしっかりと抱えている分厚い書物、バーンズダイクを見た。
「滅ぼせ、永遠に」
「俺達の無念を晴らせ」
「この浄化の炎で」
「すべてを焼き尽くせ」
「ここまで辿り着いたおまえなら、やれる」
「さあ、やるんだ」
腕と言う腕が、何かを受け取るようにして、掌を差し出してくる。
「さあ、投げ込め」
明菜は・・・・・・放った。
天高く。
くるくると、回転しながら、呪われし魔道書は緩やかに炎の柱へ吸い込まれようとする。
その前に、無数の腕たちが、挙って中空で掴もうと群がった。
抱かれるように、包み込まれるように、巨大な炎へ消えていった魔道書は、どこか小さく、薄く見えた。
炎が、勢いを増す。
どこか歓喜しているようですらある。
霧が晴れていく。
炎が光そのものとなり、世界に充満した。凄まじい光。目を開けていられない。
意識が閃光に呑まれていく。
無意識に明菜は叫んでいた。
安西安曇は、木の枝に残る最後の葉のように、小刻みに震えていた。
ピラミッドの、頂上。いつ上ったのか、まるで記憶に無かった。いや、正確にはここ数日間の記憶がどこか曖昧なのだ。高いところは嫌いだった。ジェットコースターはもちろん駄目。
高所のためもあるが、どこか身体に力が入らなかった。自分の身体が、自分のものじゃなくなったみたいに、思い通りにならない。それにこの服。純白の、白装束。
そして何よりも、安曇の雰囲気は一変していた。今までの彼女を知る者だったなら、驚嘆に目を剥いたかもしれない。
髪型、メイク、どちらも一流のプロの手によるものとすぐに知れる。それだけではない。部分的に整形を施したか、どこか主張を持たなかった瞳は、鋭い切れ味を誇る剃刀の如き視線を生み出し、しかしそれが決して嫌味な印象を与えない。くっきりと縁取りされたそれは、その目を見るものに何かしらの訴えをする強い主張を兼ね備えていた。唇もそうだ。口紅をくっきりと塗りつけたそれは、艶かしい肉感を備え、熟れた果実そのものである。
もし、今の安曇が、都心へ繰り出し、少し大通りを歩けば、彼女に声をかける男達はごまんと居ることだろう。駅の構内においては、スーツに身を包み込んだスカウトマン達を振り切るのに苦労するに違いない。
だが、そのような、特別望んでいたわけでもない変貌の記憶すらも、どこか安曇は曖昧だった。その後、誰かに声をかけられたような、かけられていないような。
現実と妄想。リアルとフィクション。名前も知らぬ男達の姿が浮かんでは消えた。その顔すらも、ほんの一瞬鮮明に思い出したかと思えば、すぐに忘却の彼方へと消失の運命を辿る。
この数日、いえ数週間?自分は一体どうやって日々を生きてきたのだろう。どこで何をしていたのだろう。そして今、どうやってここまで辿り着いたのだろう。
そろおっと、安曇は身を乗り出してみる。
高い。
身震いした。気が変になりそうだ。
それにこの空。雲行き。いや、そもそも、このピラミッドは何?それに、この周りって・・・。
すべてが、そこで燃えていた。家々が、森が、いや燃えているのは地上だけではない。空もまた、紅蓮の雲が棚引いてまさに燃えているようだった。そこから文字通りの火の雨が地上に降り注ぎ、世界を焼き払っているのだ。
悪い夢。そう、悪い夢よ・・・。
「気がづいたようだね」
誰かが、こちらに向かって上ってくる。どうやら、階段がずっと下から伸びていたらしい。
安曇はあまり視力が良くない。おまけにぼんやりした頭では、なかなか像が結ばれなかった。
「・・・校長・・・先生?」
途端に、それまで霞んで途切れていた記憶がはっきりと蘇ってきた。
そう、私は拉致されてきたんだ。家から。
家族は・・・・・殺された。
変な神輿に乗せられて・・・・校長室へ連れ込まれて・・・・そこで・・・・・・そこで・・・・・・・・。
「おやおや、正気に戻ってきてしまったみたいだね。でも大丈夫だ。すぐに元の君に戻れる」
校長は、純白の装束を纏っていた。だが安曇には目の前の校長が、人ではないような気がした。
怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い・・・。
でも動けない。逃げられない。
「ご覧。世界が滅びていくよ」
まるで夜景でも見るように、校長は周囲を指差した。
「下らない人間の世界が、消えていく。いい気味だ。ずっとこの時を待っていたんだ、“我々”は」
うっとりとした表情で校長は燃え盛る世界を眺めた。
「聞こえるか?滅び行く人間達の悲鳴が」
悲鳴なんて聞こえなかった。
最初は。
だが、そのうちに、確かにどこかで何かを叫んでいるような声がする。
声は、助けを、癒しを、痛みを、悲しみを、絶望を叫んでいた。それはまさに叫びだった。
無数の、数え切れない声、声、声、声、声。声の洪水。声の嵐。
あふれ出す魂の叫びは、亡霊のように安曇に絡まりついた。
耳を塞いでもすり抜けてくる声。狂ってしまいそうだった。
「怖いか?恐ろしいのか?自分だけがこうして生きているのが?それとも私にされたことを思い出してか?でも大丈夫。すぐに何もかも忘れる。下らない人間のことも、家族のことも、友達も、何もかも」
するりと、校長は腰の帯を解いた。
白装束は風に舞い、どこかへ飛ばされる。
一糸纏わぬ裸身を晒しながら、校長はついに、安曇の前まで上り詰めた。肢体の男根は既に怒張を見せていた。
「世界の終わりを眺めながら、結ばれるんだよ」
まるで恋人に囁くようなぞっとする猫なで声。中年の男が言うのだから余計に気色悪い。
「愛し合う二人のエネルギーが、このゴミみたいな世界を完全に終わらせて、新しい世界の扉を開くんだ」
ゆっくりと、校長が安曇に手を伸ばす。
「・・・・いや。・・・・やめて」
振り払おうとするも、腕がうまく上がらない。
忽ち、片手だけで、押さえられてしまう。もう片方の校長の手が、安曇の白装束の帯を解いた。
肌蹴た服から、乳房が、淡い茂みがこぼれ出す。
「私のために綺麗になってくれたんだね。嬉しいよ」
校長の声が耳元でがんがんと響く。
まるで催眠術師の声みたいだ。
「本当の君を見せてご覧」
本当の・・・・私?
「君のすべてが見たい」
私の・・・すべて。
その一言一言が、緩やかに安曇の中の壁を崩していくようだった。
箍を。押さえつけていたリミッターを、容赦なく弾き飛ばす。
安曇は腕を、伸ばしていた。
そそり立つ校長の男根へと。
「そう、そうだよ」
嬉しそうに校長は顔を歪めた。
「もっと欲しいんだろ?それが君だ」
そう。興味が無いフリして、真面目腐っていい子ぶってた馬鹿な私。
下らない。
もし、本当に世界が滅ぶなら。
どうなったっていいじゃない?何したって。何されたって。
か細い手が、凶悪にそそり立つ校長の男根を掴んだ。極限までの怒張を見せる男根には、血管が生々しく浮かび上がり、禍々しい感触と温もりを伝えてくる。
強制されるでもなく、安曇は自分から舌を這わせていた。
この舌で、思い切り舐め回し、快楽に震わせてやりたい。
薄暗い、淫靡な炎が少しずつ、少しずつ姿を見せる。
わざと口を大きく開き、舌を長く突き出す。頬張るようにして咥え込んだ。興奮のために唾液が噴出し、既に口内を満たしている。
喉の奥をすっぽりと塞いでしまう異物。荒々しい猛りの侵食に息が詰まりそうになり、涙がこみ上げてくる。だが、それすらも、歓喜だった。解き放たれた感覚。自分が何かの一線を越えようとしている背徳感。それらはすべて、感情のバックミラーの背後へと流れ去る。周囲の異様な光景が、高ぶりに拍車をかける。
何かに憑かれたような豹変を見せる安曇の舌使いは、絶世の絶技と化して校長の男根を激しく刺激した。凄まじい快楽が次々とこみ上げてくる。ある程度予測できた変貌とは言え、校長は目の前の女子生徒の姿に高笑いしたい衝動と快楽を必死に抑えた。
人は剥き出しの欲望のままに、生きていくことはできない。だからその上に、理性だの、倫理だのと言った衣を被る。だが、そんなものは所詮は見せかけだけのものだ。苦しいものだ、己を偽るのは。辛いものだ、欲望を抑えるのは。そうやって苦悶し、悶えている人間のなんと多いことか。
彼女もそうだ・・・・・、と校長は優越感をたっぷり含んだ目で安曇を見た。
一皮、くだらない衣を剥げば、その下にあるのは、剥き出しの欲望の塊だけだ。
普段、その欲望を押さえつけているものほど、解放された欲望の強さは凄まじく、また純粋だ。だからこそ、彼女を選んだ。あの学校の生徒達は、誰も彼もが、ただ欲望のままに時を過ごしていたからな。それでは、意味が無い。意味あるのは、欲望を解放することに躊躇いを覚える精神。無垢で、穢れることを畏れる純粋なまでの心。だからこそ、解き放たれた欲望は、時にドス黒い。
貪欲に咥え込んでくる口から、猛々しい肉の棒を強引に引き抜く。安曇は一瞬、まだ物欲しそうな表情で校長を見上げたが、すぐに次の瞬間に思いを馳せたその顔は、妖しく火照る。
何が起きるかは、互いが知っていた。
何を求めているか、互いが知っていた。
その結果、何が得られるのかも。
校長が、ゆっくりと、安曇の白く、細い肢体を開いていく。
淡い茂みから覗く、生々しい朱の肉は、触れられてもいないのに酷く潤み、渇望していた。
何が起きるかは、互いが知っていた。
その結果、何が得られるのかも・・・・・。
校長の胸は高鳴った。
単なる結合ではない。それに留まらないものが、もうすぐ手に入る。そして私は王になる。そうだ、この世を統べる、偉大なる王に。
この瞬間を、どれほど待ち望んだことか。
ゆっくりと、今まさに恋人と交わろうとするかのように、確かめるように、校長は自分の肢体と、安曇の肢体を、重ね合わせようとしていった・・・・。
「そこまでよ」
鋭く、空気を裂くような声が、校長の悦楽を遮断した。
「ほう・・・・」
振り向いた校長は、やや頬を強張らせたように見えた。驚きか、あるいは、楽しみを邪魔された怒りからか。
「消滅させたはずだが?」
「残念ながら、すぐには死なせてもらえないみたいね。それに、私の血が欲しいんでしょ?」
それを聞いて校長は笑った。今まで抑えていた感情の高ぶりを爆発させるように。
「それこそ残念だったな。既に、おまえの血は得た。あの時にな」
あの時。
そう、刹那の瞬間ではあったが、この身体は、校長の男根を受け入れたのだ。
「後はおまえの血を得た我が性器が、選ばれた巫女と結合し、その解放されたエネルギーを大地に注ぐことですべてが完了する」
「止めるわ」
「無駄だ。今一度、おまえを地獄へ叩き返し、私は王になる」
もし、本当に、あの魔道書が校長の源ならば。
それを滅した今、こいつの力は確実に落ちているはず。
明菜は奮い立つように右腕に力を込めた。
みるみるその色が、漆黒に塗りつぶされ、禍々しい狂気のエネルギーを噴出させる。
校長も、明菜に相対した。剥き出しのままそり立つ男根を恥じようともせずに堂々と佇む姿は、確かに王となる者の片鱗はあったかもしれない。
刹那。
雷光が空を切り裂いた。
二者が跳躍したのはその瞬間だった。
「むううんッ」
校長が腕を振るう。白い光に満ちていた。
対照的に明菜は右腕を振るう。黒い光に満ちていた。
白と黒は中空で対峙し、弾けた。
またも、雷光が空を駆け抜ける。
両者は場所を入れ替えた。今度は明菜が校長の上に立ち、校長は彼女を見上げる格好だ。
校長の右肩は・・・・裂け、鮮血が走っている。
いける。
確信が明菜を包んだ。
逆に校長には動揺があった。
「なぜ・・・・」
と、呟くのが精一杯だ。
「私の身体がなぜ、傷を負う。私は神だ。この世を統べる、王なんだ。なのに、なぜその私が・・・・・」
あの魔道書の破壊は、確かに校長の力を減じたのだ。
「だが負けはしまい。貴様などにはな」
再度、校長は挑む。
明菜も、また。
「かあッ」
裂帛の気合で、校長が腕を突き出した。
直後、白い光が宙を裂く。
明菜の右腕は易々と、閃光を弾き飛ばしたが、校長の姿はすぐ目の前にあった。
がら空きの胴へ、すかさず、校長の一撃が入る。
「ぐ・・・・・ッ」
呻いて、明菜はピラミッドの中腹まで落下した。
減じたとは言え、まだ校長の力はそれなりに強大だった。燃えるより前に、昇華してしまうような錯覚に陥る灼熱が、叩き込まれていた。
しばし、身体を起こすこともできず、明菜は天を見上げていた。
妖しげな、この世のものとは思えぬ空。
今にも、天変地異が、雨となって降り注いできそうな。
振り絞るように、明菜は上体を起こし、深く息を吐き出す。動けないほどのダメージではないが、動きは大分鈍ったかもしれない。
と、眩い光がピラミッド頂上で生じた。
何か白いものが翼を広げたような輝き。
まさしく、それは翼だった。翼は校長から生えていた。巨大な、鳳凰のような翼を広げ、両手を広げ、直立の姿勢で校長は天を仰いでいた。まるで、今にも昇天するかのように。
神々しいという言葉があれば、今の校長に当てはまったかもしれぬ。どんな愚男が同じような姿勢をしても、あの光に包まれていれば、それなりに絵にはなるだろう。
「すべての破滅よ、すべての滅びよ、血よ、涙よ、絶望よ。彼の地より集い、我に力を」
校長は聖句のような何かを諳んじた。
「我に力を!」
叫んだ時、地が揺れた。
遠方で、雷電が地上に降り注いでいる。それは光の柱と呼ぶに相応しい光景だった。そして、稲妻の直撃を受け、何かが遠方で盛り上がる。
それは波のようにピラミッドへと接近して押し寄せてきた。揺れもそれに呼応するように激しくなる。
盛り上がった何かは、赤黒い光を帯電させながらやがてピラミッドを押し流すようにして過ぎ去った。
直後、電撃のようなものが急速にピラミッドを駆け上がってくると、そのまま頂上に立つ校長に流れ込んだのだ。同時に、逆に地から光が天へ向けて放たれた。それは天から降り注ぐ稲妻と激突して、中空を舐めるように飛び散った。
光と光の奇怪な饗宴。そして、激しい揺れ。叫び。それは歓喜だったか、激しい怨恨だったか。
と、世界を崩しかねない轟音が耳を劈いたかと思えば、一際巨大な稲光が、校長を直撃した。普通ならば黒焦げになるか、跡形も無く木っ端微塵になってしまうだろう。だが、校長は目を閉じていた。まるで滝にでも打たれているかのようだ。その姿はどこか快楽に震えているかのようだった。
と、不意に目を開けた校長が背の翼を振るった。
光を含んだ風が、周囲に拡散したかと思うと、明菜は大きく吹き飛ばされた。風に含まれた光は、電撃だった。
突風の中を舞う木の葉のように成す術なく中空を泳ぐ明菜に第二波が襲う。電撃を食らうたび、身体が千切れそうになった。
ぶわっと、翼が広がったかと思えば、校長は中空に居た。明菜のすぐ目の前に。
手刀が繰り出された。白い光に包まれている。
咄嗟に右腕で受けた。それだけでも、先ほどの一撃とは比べ物にならない破壊力を秘めているのが分かる。
凄まじい衝撃に明菜はピラミッドへと叩きつけられた。
「どうした?そんなものではあるまい。楽しませてくれ。世界の終わりには、いい余興だ」
深々とした陥没穴が、いかに明菜が凄まじい勢いで叩きつけられたかを物語っていた。
「・・・返答は無しかね?」
巨大な翼を悠々羽ばたかせながら、校長は穴の底の明菜の気配を伺う。
死んでは、いまい。
と、衝撃は背後からやってきた。
別の穴を穿ち、明菜がピラミッドの中から飛び出す。
黒々とした炎のような闘気で満ちた右腕は掌と指先だけが炎のように赤かった。世界のすべての混沌がその腕に引き寄せられているかのように、渦を巻く、禍々しい狂気。救われず、出口も与えられずにもがいていた形も与えられなかった蠢きたちの奔出。彼らは見たのだ。そこに解放を。救済を。
どういう力学か。翼も無き明菜は、正しく校長と同じく、中空にいた。
校長の翼が振るわれる。
電撃を帯びた突風は、明菜を微塵も動かせなかった。それどころか、明菜は風の中を、それを上回るかと思える勢いで滑空した。風に帯電する電撃も、つるりと滑るようにして彼女の体表で弾かれてしまう。
漆黒の風となり、明菜は校長へ肉薄した。
今まさに、右の拳が叩き込まれようとした刹那、校長の身体が金色に輝いたかと思えば、すうっと影のように実体を失い、明菜の身体を透過したのだ。彼女の拳は虚しく、輝く校長の身体をすり抜けた。
校長の姿は、明菜の背後へと回っていた。
またも、翼が振るわれる。
突風が・・・・だがそれは矢のような白い光を帯びていた。直撃すれば、全身を穴だらけにされるのは明白だ。
明菜は動かない。いや、動けなかったのか。攻撃は校長の移動直後、ほぼ同時に繰り出されてきたのだから。
しかし、彼女は動じず右手をすうっと正面に翳した。開かれた掌の赤さが際立つ。その赤さ、それ自体が一つの眼のようだった。その赤い輝きが増したかと思えば、渦巻く黒い炎に明菜の腕はすっぽりと包まれていた。
のみならず、炎はそれ自体巨大化し、まるでブラックホールのような黒い壁と化し、飛来する光の矢をすべて吸収していた。
その直後、明菜は反撃に転ずる。
拳が振るわれた。
中空で何か巨大なものが爆発したような轟音と、衝撃が走る。
黒い衝撃波だ。
まさにそれは、波のようにして、校長目掛けて押し寄せた。しかも、四方から。
明菜の放った一撃。それは正面から校長に向かうのはもちろんだが、どういう原理か、校長の周囲の空間からも、黒い渦が生じ、それが波のように集まり、攻撃を仕掛けているのだ。
そして、当の明菜も攻撃と同時に、校長へ跳躍している。
次なる一撃を送り込むために。
だが、かわされた。
またも校長の身体は金色に刹那輝いたかと思えば、鮮やかに、殺戮波の包囲網をすり抜けたのだ。
上空へと逃れた校長だが、彼を捉え損ねた衝撃波が互いにぶつかると、拡散するように一帯の空間を埋めて拡散した。余波はまだ、校長を追撃していた。
「・・・・しつこいぞ」
辟易した言葉とは裏腹に、表情は余裕だった。
余波もやはり、金色に輝き瞬間移動する校長に傷一つ与えることができない。
先ほど校長に与えた微かな一撃の手ごたえは、今や遠い彼方へ消え去っていた。なぜ?こいつの力は削がれたはずでは?
「滅びてみるか?」
翼を振るい、校長は飛翔した。
さらなる高みへと・・・・・。
その姿は、瞬く間に点となって、明菜の視界から消えた。追撃する間もなく、何かが、降り注いできた。
雨。
正しくそれは、雨だった。ただし、火の。
紅蓮の光が、線状となって明菜目掛けて降下する。
明菜は右腕を揚げた。
先ほど校長の一撃を無とした右腕を包む闇は、さらにその範囲を広げていた。
一瞬、そこだけ霧が生じたようだった。ただし、黒い霧だ。その霧が、降り注ぐ灼熱の雨をすべて吸収してしまったのだ。
明菜が飛翔へ移る。校長にも負けぬ速度で、あっという間に校長のいる高度まで彼女は達していた。
右腕を振るう。爆音にも似た轟音に続いて衝撃が空間を埋める。
「無駄なことだ」
渦巻く混沌を引き寄せ、具象化し、世界を満たす一撃は、またも、金色の輝きを放つ校長には通じないのか・・・。
と、盤石だった校長の佇まいに停滞が生じたのは、明菜の一撃が無効か、と思わせた直後だった。
「・・・・ぐッ」
うめく様にして、校長は己の胸の辺りを摩った。そして一言「馬鹿な」と呟いた。
その翼が、無残にも散っていく。みるみる校長は、重力に逆らえずに、急降下した。辛うじてピラミッドに叩きつけられずに済んだのは、僅かに残された揚力が、彼の落下速度を幾分抑えたためだった。
明菜も後を追うようにしてピラミッドへと降り立つ。
捥がれたかのように散った校長の翼は、それだけで彼を堕天使めいて見せている。
だが・・・・。
そこに佇むは、生易しい天使などではない。
すべてを破壊し、混沌へ導き、世界を闇に包もうとする悪。ドス黒い悪。
こいつは。こいつは絶対に生かしておけない。
決意にも似た輝きが、明菜の双眸に宿る。呼応するように腕を包む闇が膨らむ。
「・・・・私は・・・・・神だ。この世を統べる王となる存在だ」
自分に言い聞かせるように校長は繰り返した。「私は神だ。王だ」と。
私は・・・と校長は今一度繰り返す。
「王だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
明菜目掛け、校長は跳躍した。
彼女も受けて立つように飛ぶ。
刹那・・・。
天が割れた。轟音と共に。
そこから降り注ぐは雹。
明菜が拳を繰り出す。校長もまた。
黒と白は中空で交差した。
その度に空気が震え、天が轟音を轟かせる。
両者の一撃は、互いに決定的な一打を与えられなかった。互いの力は、拮抗していた。明菜が打てば、校長が相殺する。校長が打てば、明菜が打ち消す。その繰り返しが中空で続く。
だが・・・分かる。
校長の力は確実に弱まりを見せている。ぶつかり合う互いの拳から感触が伝わる。命の鼓動が。それが伝えてくる。
裂帛の気合で、校長が腕から白い閃光を撃つ。
明菜の右腕がそれをかき消す。
正しく、それはかき消されたはずだ。
痺れ・・・・・る?!
ぞわぞわした感覚が明菜の全身を奮わせる。凄まじい超震動が、細胞の一つ一つを滅却していくような・・・。
校長が迫る。僅かな戸惑いが接近を許していた。
「消えるのは貴様の方だ、処刑人!」
白を帯びた拳が迫る。謎の痺れに侵された明菜の身体は反応が僅かに遅れる。
バチっと火花が散ったような音がしたかと思えば、校長の一撃が叩き込まれようとしていた・・・・。
黒い霧が彼の視界を幻惑した。振りぬいた一撃は手ごたえを失う。
四方から何かが押し寄せてくる。
波が・・・。
飲み込まれ・・・・・・・る。
溺れるような感覚に校長が捕らわれた瞬間、彼は鮮血を吐いた。
霧がさっと晴れる。
校長は己が受けた一撃を確認するように視線を落とした。
正しく、彼の胸は明菜の拳によって貫かれていた。
「私は・・・・・神の・・・・・はず・・・・・・・・・だ」
滅却の時が迫っていた。その全身は黒い炎に巻かれ、今にも燃え尽きそうだった。
「貴様は・・・・・誰だ。一体・・・・何・・・・・者・・・・・」
拳で身体を貫いたまま、明菜は静かに、校長の最期の言葉に耳を傾けていた。
「だが・・・・・あの・・・・・あのお方・・・・・には・・・・・・・・・・及ぶ・・・・・まい」
ぐっと、拳に力をさらに込めた刹那、黒い炎に包まれた校長の身体は、炭と化して粉々に砕けた。
終わったんだわ。
身体からすうっと力が抜けていく。全身を隅々まで満たしていた凶悪な衝動とエネルギーが消えていく。後に残されたのは、心地良い疲労感ではなく、泥になってしまったかのような重たい倦怠感と全身の痛みだった。
安曇は放心していた。無理も無い。あまりにも異常な出来事に曝されすぎたんだから。
一体、なんと声をかけたらいいんだろう。
すべてが終わっても、失われた命までは戻りはしない。世界は元に戻っても、彼女は元の世界で生きていけるのだろうか。これが本当の終わりと言えるのだろうか。何が終わったというのだろう。終わりの後に待つのは、冷酷な現実の地平だけだ。
「・・・・・いや」
安曇は震えていた。明菜を見る眼差しには、色濃い恐怖がある。
「いや・・・・・来ないで」
だが明菜は止まらない。
「殺すんでしょ。私のことも、殺すんでしょ」
「そんなことしないわ。あなたを助けに来たの」
「でも・・・・でも・・・・・校長先生を殺したわ」
「彼は殺されても当然のことをしたの」
明菜が一歩近づくたびに、安曇の狂乱ぶりは高まっていく。
「何を?校長先生が何したっていうのよ」
「あなたを乱暴しようとしたじゃない」
「乱暴?」
不意に、安曇は人格が変わったように笑い出した。
「あんなのが乱暴だなんて、先生も随分古臭いのね。笑わせるわ。あんなの、今時みんなやってることじゃない」
笑い顔はさっと変わり、色濃い非難の眼差しが明菜を貫いた。
「あんなことくらいで殺されなきゃならない校長先生、可哀想。あんなことしたからって人を殺すあなたの方がよっぽど異常よ」
「それだけじゃないわ。彼はこの世界を・・・・」
その先を言ってどうなるというのか。その先が、目の前の女子生徒に通じる話だろうか。
「滅ぼそうとでもしたっていうの?馬鹿じゃない?それが何よ。清々するわ、こんな下らない世界壊れたって、滅びたって。私ね、ノストラダムスの予言を信じてた。あの予言が騒がれてから毎日毎日空ばかり眺めてた。恐怖の大王にお祈りもしたわ。早く振ってきてこの世界を滅ぼして下さいって。でも、来なかった。恐怖の大王なんて、いなかった。私がどんなにガッカリしたか分かる?どんなに絶望したか。元々絶望してたけど、本当にあの時は死にたかった。でも・・・・・でもね、弱虫だから私は死ねなかったの。怖くて死ねなかった。結局、下らない、つまらない、どうでもいいって世の中を見下してることしか私には・・・・・・」
まるで今まで溜め込んできた鬱屈したすべてを吐き出しているかのような独白だ。明菜は黙って聞いていた。
「校長先生は私の目を開かせてくれた。この私が、いかに馬鹿で間違って生きてきたか。もっと自由にしていい。もっと自分に素直になっていい。周りの目なんて。他人なんてどうだっていいって。したいことすればいいって。だからやってやろうと思った。思い切り。まずは校長先生と。この腐った世の中が滅びるの見ながら思い切り・・・・・・」
校長の話になると、まるで最愛の恋人との思い出話にでも耽る様な顔つきになった。だがすぐに目つきは変わり、またも明菜を睨み付けた。
なのに・・・と、彼女は叫ぶ。
「なのに、なのに、なのに、あんたが奪った。全部。私から。私の世界を全部。優しくしてすべてが帳消しになるとでも思ってるの?私を助ける?何ヒロイン気取ってるの?私の全てを壊したくせに。人殺し。この人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し」
まるで壊れた機械のように、安曇は人殺しを連呼した。
だが、今更そんな非難如きでは明菜の心は揺るがない。この手は既に血に染まり過ぎている。今更後には戻れないし、戻るつもりも無かった。それが自分に課した業なのだから。
パタっと、やはり壊れた機械のように安曇は突然、黙ってしまった。
「言いたいことは終わり?」
反応が無い。
その無表情、且つ、血色を失い白くなった顔が悲鳴の形に歪むのと、激しい地面の揺れはほぼ同時だった。
揺れている。
ピラミッドが揺さぶられている。
このままじゃ・・・・・崩れる。
咄嗟に安曇を抱きかかえた直後、地面に深い亀裂が生まれ、ピラミッドの四面を滑るように広がっていった。
足元が崩れる前に、明菜は跳躍していた。
中空で、彼女は見た。
ピラミッドが・・・・血を流しているのを。
亀裂から、鮮血がどっと溢れ出したのだ。みるみるそれは、ピラミッドを伝い、校庭へ流れていく。その洪水のような鮮血に押し流されるように、ガラガラとピラミッドは瓦解した。今や校庭は、文字通り血の海と化している。まるで、この世界で流されてきた数多の血を溜め込み、それが一気に堤防が決壊したかのように噴出したようだった。
明菜と言えど、いつまでも中空にはいられなかった。ざばっと、その身体は鮮血の海へ没する。
深い。
軽く胸を越える辺りまで、赤い水量はあり、流れもあった。
「いやあああああ」
安曇は激しく暴れた。血に身を浸している異様な状況、さらに腐った魚を何百万と寄せ集めたような濃厚な血臭にパニックを起こしているのは一目瞭然だ。こういう時には人間は凄まじい力を発揮する。安曇もまた、女とは思えないほどの強さで暴れ、明菜から逃れようとしていた。だが、明菜も力を込める。なぜか・・・・なぜかここで安曇を離してはいけない気がした。
だが、急激に激しくなる流れは、あっさりと二人を引き離した。
安曇の悲鳴が、忽ち水の中に没する。明菜もまた、氾濫した川に飲まれたように水中へと没した。
真っ赤。只管、朱の世界がそこに広がる。
視界はゼロのはずなのに、意外にも世界は薄く透き通って見えた。まるで、頭まで没した途端、血がその成分を変えてしまったかのように、幻想的な光景だった。
深い・・・・。
世界が丸ごと、血の海に沈んでしまったようだった。水面はどこだろう。遥か上?いや、見えない。どれくらいの深さにいるのか。水面などあるのだろうか。
不思議だ。ちっとも息苦しくない。
沈んでいく。この身体が・・・・どんどん赤い世界の底へ。
奇怪で不気味なはずなのに、静かな水中は、心地よい安寧に包まれていた。そう、まるで母体の中に抱かれているかのような、そんな感覚。胎児の気持ちとは、こんなものなのだろうか。
身体は、どこまでも下降を続けた。浮上しようともがいても、まるで両足に錘が付けられているように虚しい営みだった。
ただ只管に、下降に身を任せる。
安曇は?
視界がゼロでは無いとは言え、透明度が高いわけでもないから、周囲の光景は見通せなかった。彼女もまた、この水中に身を委ねているのだろうか。
緩やかに、身体から力が抜けていく。意識が静かに遠ざかる。
心地よい。なのに危機感が高まる。幾多の戦いで養われた警戒心が、最大限に警報を鳴らしている。
目覚めろ。
だが、裏腹に、身体は脱力感に逆らえない。そして心も、緩やかに、穏やかな安寧に屈したのだった。
目覚めは、穏やかだった。
朱の世界に抱かれていると知って、安曇は恐れよりもむしろ、安堵を覚えた。あんなに怖かったのが嘘みたい。とっても素敵な所じゃない、血の海の中って・・・・。
身体が緩やかに沈んでいく。息苦しくは無い。遥か上に遠ざかる水面に上がろうとは思わなかった。
出たくない。
呼吸なんてしたくない。
もう二度と。あんな世界には、戻るもんか。
もし、もし、今、ここで死ぬことができるなら。
苦しみ無く死ぬことができるなら・・・・。
受け入れよう。このまま死ねるなら、死んじゃおう。そう、誰にも知られず。記憶もされず・・・・。
緩やかに抜けていく身体の力を、安曇は解放、と理解した。そうなんだ。これが死ぬってことなんだ。魂が身体から解き放たれるってことなんだ。
ちっとも、怖くない。素晴らしいじゃない。
どうして怖がってたんだろ。あんなに死ぬことに怯えていたんだろ。あんなに死にたかったのに・・・。
思うに、エレガントさが無かったんだ。人が考えた死に方なんて。
手首を切ったり、首を吊ったり、高いところから飛び降りたり、異物を飲み込んでみたり、息を止めてみたり・・・・・。結局、愚かな人間が即席で考えたやり方なんだから。死ぬことの意味を全然分かってない人たちが考えた安っぽい死に方。
それに比べて、この安らかさは何?どうしてもっと早く、会えなかったんだろう。知らせて欲しかった。
ねえ・・・・、そうでしょ?
安曇は問いかけた。誰に、と聞かれたら答えられないけど、安曇は赤い世界の中に、どこかに、何かが潜んでいる気がした。
ねえ、聞こえているんでしょ?
まるで山びこのように、声が返ってきた。聞いたことが無いのに、どこか懐かしささえ感じさせる声。自分と同じくらいか、少し年下か・・・。とにかく、女の子の声だった。
「私、ずっと待ってた。あなたが来るのを」
その声は安曇に言った。
「あなたみたいな人に会えるのを、ずっとずっと待ってた」
「本当に?」
安曇も声を投げる。
「どうして私なんかを?」
「あなたが純粋だから。純粋すぎてこの世界には似つかわしくないから」
純粋・・・・。本当だろうか。
内なる欲求、欲望に気づいてしまった今、安曇は自分が純粋だとはとても思えなくなっていた。
「あなたにとってこの世は、微量な放射線にずっと曝されているようなもの。いくら少なくても、有害なものに曝されていれば、病気になっちゃうでしょ?」
「そう・・・・なのかな?分からない」
「気づいてるはずでしょ?それでいいの。それが答え。それが正解なの。迷うことなんて何もない」
「あなたは・・・誰なの?」
漸く、ここへ来て、安曇は根本的な質問をした。最初に声を聞いたとき、相手が誰かなんていうことに何の迷いも疑問も抱かなかったのが不思議なくらいだった。
「それも、分かってるはずよ」
分からないから聞いてるはずだが、そう言われてみれば、とも思った。何か、酷く、当たり前のことを尋ねているような気がしてきたのだ。
あなたは・・・・誰?もしかして・・・・・・、いや違う。でも・・・・・・。
「どこにいるの?」
それもまた、酷く当たり前の質問みたいだった。
何かに、導かれるようにして安曇は手を伸ばしていた。
その手を、何かが掴んだ。赤い世界の中に、他に誰かがいるようにも思えないが、その何かは確かな手ごたえを安曇に伝えてくる。
しなやかで、たおやかな白い手。安曇が伸ばした手を掴んだのは、まさしくそんな手だった。
「ずっと、会いたかった」
白い手の主は言った。
「ずっと一つになりたかった。あなたと」
身体が何かに抱かれ、引き寄せられた。それがもう一つの白い手と知るのに時間は要らなかった。
唇が、何かに塞がれた。柔らかな肉と重なっているのが分かる。
何時の間にか、そこに顔が現われていた。自分と同じくらいか、あるいは年下の少女が。
顔だけではない。いつ全身を現したのか、制服を着た少女が、安曇を優しく抱き、唇を重ねてきたのだ。
赤い世界の中で少女は白い光を纏っていた。さながらそれは聖母だった。聖母と呼ぶに相応しい貫禄が、少女からは漂っている。死の本質に辿り着いた者のみが、拝謁を許されるような、神聖な聖母・・・。
邂逅に驚きも、恐怖も何も無かった。どこか、それは当然のことだった気がする。陳腐な言葉を使うなら、これは運命なんだ、と。
制服の少女は無邪気でいて、それで神聖な微笑みを浮かべて安曇の唇をまた奪う。
同性愛・・・・なんて言葉はどこか小難しくて、理解が足りなくて、全然無縁の世界だった。なのに、こんなにしつこく、激しく同じ女とキスしてるなんて・・・。
キス、と呼ぶにはどこか稚拙な営み。じゃれるように、まるで子犬の頭を撫でるような、そんな戯れ。
慈しみはあるけど、愛は無い。そんな口付け。
「悲しいことも、苦しいことも、全部、溶けていくわ」
少女の指が、手が、安曇の身体をなぞる。まだ十分には発達しておらず、熟れきっていない胸や腰のくびれ、尻の膨らみ、そして秘所に、確かめるように指を這わせる。
声にならない声が、安曇から漏れる。ただでさえ、身体から力は抜け、意識は今にも消えそうなのに・・・・。
「そうやって私達は一つになるの。この世の終わりと。すべての破滅と。すべての死と・・・・」
遠のく意識の中では、安曇は自分の身体がシャム双生児のように、少女と少しずつ同化しているのに気づくことはできなかったかもしれない。もはやその頃には、安曇が見ているのは現実ではなく、一種の夢幻であった。ここではないどこか。それを見つけてしまったのだ。
その夢の世界がどんなものか。正しく脳が情報を処理し、意味ある像として理解する前に、それらのイメージはバラバラになり、霧散した。安曇の身体は、そんなイメージと同じく少女の身体と完全なる同化を見、分解され、溶けて消えたのだから。
うふふ、と少女は笑った。
うふふふふふふふと。
うふふふふふふふふふふふふふは、やがて、あはははははへと変わる。
狂った、歪んだ、狂気の笑い声に。
あはははははははははははははははははははははははははははははははははははは。あははははははははははあははははははははははあああはははははははははははははああああはははははははああははははははははははははははははははははははははははああああはははははあああはははあはははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははははははああははははははははははははははははああははははははははははははあはははははあははははははははははははははあはははははははははははああははははははははははははあはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
流れ込んでくる。
憎悪が。苦しみが、悲しみが。
それに比べて幸せは、喜びは、驚くほど少ない。
でもそれでいい。それでいいの。
こういう魂が欲しかった。こういう魂が美味しい。狂おしい。愛おしい。私が見初めた人間は皆そう。
けど・・・・。
彼女だけは。あの女だけは、容易く私のモノにはなってくれなかった。
あんなに不幸を、苦しみを、痛みを背負っているくせに。喜びも、幸せも、奪われたはずなのに・・・・・。絶望で一杯なのに、私を求めてくれないなんて・・・。
許せない。
でももう大丈夫。私はもう自由だ。
なぜなら、私は目覚めることができたのだから。ちっぽけで痩せこけた魂だったけど、私を自由にしてくれたから感謝しなきゃ。
その自由はすべて、あの女を手に入れるため。
滅多に手に入らない極上の逸材だ。素材だ。原石だ。
それを私自らが、じっくりとゆっくりと可愛がってあげよう。手を加えてあげよう。私好みに作り変えてあげよう。何時までも傍に置いて、片時も離さずにおこう。子供同士の戯れじゃない。心の底から愛し合う恋人になるんだ。肌と肌を重ね合わせて飽くことが無い恋人に・・・・。そうしながら、世界を死で満たすんだ。絶望と苦しみと怒りと悲しみで染めるんだ。そうやって増えていく安っぽい死で、私達の愛はより一層強く、深く、美しく磨き上げられていくんだ・・・・。
ああ、想像しただけで興奮してしまうわ。
少女は、朱の世界を見渡した。
私の愛しの恋人はどこかしら・・・・・。ああ、あんなところでオネンネしてる。でもね、もっと素敵な夢を見せてあげる。いいえ夢じゃない。夢より素敵な現実をプレゼントしてあげる。
遥か下に広がる水底で横たわる明菜を見つめながら、少女は微笑んだ。この上なく邪悪な笑い顔だった。
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