紅挽歌〜怪魔園鬼文〜(6/9)縦書き表示RDF


すべての実行委員を倒した明菜は、ついにピラミッド聳える校庭へと辿りつく。姿を現す校長との戦いが開始される。だが、強大な力は明菜を次第に追い詰めていく。そんな中、明菜の右腕が真の力を覚醒。一気に反撃に移るも、校長はピラミッド内部でさらなる力を発揮し、明菜は校長の放つ眩い輝きの中へ消失した。
紅挽歌〜怪魔園鬼文〜
作:VIOLET ZAX



第五章 書に選ばれし者


 悪い夢から覚めた後と、心地よい眠りから強引に目覚めさせられた後では、どちらが後味が悪いのだろう。
 無道涼太は指先でペンを弄びながら、そんなことを考えていた。
 今は、摩天楼の一角に収容されたオフィスで残業中だ。広大な部屋の中には、彼以外の人間は二、三人しかいない。その彼らとは、デスクが離れているから、話をすることもできないし、向こうは涼太と話をするつもりは無いようだ。さっさと残りの仕事を終わらせて、満員の終電に詰め込まれて、妻と子供が待つ郊外の住宅へ帰りたいのだ。
 だが、涼太にはそんなものはない。いつだったか、社会学で習った。まず、都会に入ってきた新参は、都心にある、劣悪な住宅に住まい、そこでしばし資金と、地位を蓄えてから、郊外へ出て行くのだそうだ。有名な、同心円理論だか、何だか・・・・・。
 それに、涼太にはそんな理論は当てはまらない。一応、会社の寮は新築のアパートだった。劣悪とは程遠い。普通ならば、十万近い家賃を払わなければならないところを、補助により、その半額以下に抑えられている。生活は、裕福とは言い難いが、二十の暮らしとしてはそれなりだ。というより、恵まれているだろう。
 高卒ですぐ、今の会社に入った。高卒で入れる企業ではない。だが、現に入れてしまったのだから仕方無い。やっかみや、不当な差別にも遭ったが、結果と成績で黙らせた。社会は実力こそすべてなのだ。確かに、世間が言うように、学歴社会は、古きよき時代の遺産になってしまったのかもしれない。
 悪い夢から覚めた後と、心地よい眠りから目覚めさせられた後じゃ、ほんと、どっちが後味悪いんだろうな。
 ぼんやりと、そんなことを考えているうちに、何時の間にか、残されたのは涼太一人だった。声をかけられたのかもしれないが、気づかなかった。ぼんやりしていて聞き逃したのかもしれない。どうでも良かった。
 ふと、入り口に目をやる。
 思わず口笛を吹きたくなるような、グラマラスな雰囲気を携えたスーツ姿の女が戸口に寄りかかって涼太を見ていた。
 「現れた、らしいよ」
 「へえ・・・・誰が?」
 「試練を受ける者」
 女はゆっくりと、オフィスへ入った。
 「随分と待たされたもんだ」
 くねるように腰を動かして近づいてくる女を見ながら、涼太は苦笑にも似た笑いを浮かべた。
 「見込みは?」 
 「今度こそ・・・って感じだわ。皆、沸き立ってる」
 「そりゃ嬉しいな」
 視線を、女の太ももに固定して、涼太は明らかに下心を持った顔つきになった。
 「私はこれから向かうつもりだけど、涼はどうする?」
 「正直、俺はあんまり興味は無い」
 「けど、関わりを避けることは、禁止されているはずよ」
 「分かってるさ。ただ、どうでもいいってだけだ。嫌でも会うんだ。急ぐつもりはないね」
 「そう。それじゃあ、また後で」
 きびすを返そうとした女の手首を、涼太は掴んだ。
 「どうしたの?」
 「分かってるはずだぜ?」
 ぐい、っと、涼太は彼女を引き寄せた。
 「最後に会って、もうどれくらいになる?」
 「覚えてないわ。それがどうしたの?」 
 「俺は忘れない。最後に会ってから、二千年と四十五日だ」
 「もうそんなになるの。知らなかった」
 抵抗する素振りを見せつつ、女は嘯いた。抵抗だけの形だった。
 「でも駄目。今の私には、夫も、子供も・・・」
 「偽りの、だろ?なら、裏切ったって、誰も責めやしないさ」
 「いや。私は愛してる」
 首を振る動きも・・・・・形だけだった。
 「いいや、愛してなんかいないはずさ。俺は全部知ってるんだ。俺たちに、まともな生活や人生を送ることは許されないはずだぜ。すべてが終わるまではな。すべてが、それまでは仮初なんだ。俺のこの生活も、仕事もそうさ。すべてが終われば消えてなくなる」
 「だからって・・・・こんなこと」
 涼太は、女を抱き寄せた。女は彼の膝の上に跨るような形になった。
 どちらが先に、唇を絡ませたか。
 香水の甘い香りと、口唇の感触に、涼太の男根が敏感に反応する。ねちょねちょと、舌が絡まりあい、唾液が零れだす。
 「ここじゃ嫌。恥ずかしい。隣のビルから、丸見えじゃない」
 「うるさいぞ。昔からそういうのが好きだっただろ」
 尚も抗議しようとする唇を、涼太は塞いだ。
 拒絶は形だけだった。
 自分から、上着を脱ぎ始めているのだその証拠だ。涼太はスカートを脱がしにかかる。ストッキングと一緒に引き摺り下ろすと、ただの布切れにしか見えない黒いパンティー一枚が残った。
 「今は何してるんだ?」
 「・・・秘書」
 「毎日、オヤジどものご機嫌取りか?」
 パンティーの側面から指を滑り込ませる。湿っていた。
 「はあ・・・ッ。そうよ。舐めてご機嫌取ってる・・・」
 仰け反った。涼太は指をくねくね動かす。
 「どんな奴だ?」
 「・・・・太ってて、脂性で、汗が臭いの。頭も禿げてる」
 興奮しているのが手に取るように分かる反応だった。涼太はさらに指を奥まで挿し込んだ。
 「最低の男だな」
 「そう・・・・・。その最低の奴と・・・毎日、傍に居るのよ。出張に行く前は、必ず・・・するわ。何泊もする出張の前は特に激しくて・・・。一日中解放してもらえない。食事以外はセックスしてばかりだわ。会議でちょっと会社から離れる前には、いつもしゃぶらされてる。全部飲まされてるわ」
 「人間の屑だな」
 指をぐりぐり動かしつつ、涼太は薄笑いを浮かべる。
 「本当にそう・・・・。あいつ・・・・いつもビデオで撮るの。一台だけじゃないの・・・・。何台ものビデオで撮って・・・後で編集してるの」
 「でも、そんなことをされて喜んでるおまえも、よっぽど変態だ」
 涼太は、パンティーをひき下ろした。
 毛深い秘所が露になる。
 「オヤジどもにするように、俺にもしなよ」
 女は黙って従った。涼太のズボンを、トランクスと一緒にひき下ろす。男根は既に、そそり立っていた。
 「若々しいだろ?」 
 頷きながら女はむしゃぶりついてきた。音を聞くだけでも、何をしているのかすぐに分かるような、そんな舐め方だ。興奮の壷を知り抜いている。
 「オヤジどもにも、こんなに激しいのか?」 
 また女は頷いた。
 「昔、校長のを舐めたって聞いたことがあるけど、嘘じゃなさそうだな」
 涼太の声は、彼女には聞こえていないようだった。
 只管に舐める。狂ったように、舐めていた。
 「机に手をついて、後ろを向きなよ」 
 促すと、彼女は従った。
 「突っ込むぞ」
 「いいわ。突っ込んで」
 「外から丸見えだぜ。それでもいいのか?」
 意地悪な笑みを、涼太は浮かべた。
 「そんなことどうだっていい!早くして!」
 「変態が」
 呆れたような、蔑んだような表情で、涼太は男根を沈めた。
 吠えるように叫んで、女が仰け反る。
 腰を使い始めると、叫び声がより大きくなった。ビル中に聞こえてしまうかもしれないが、どうでも良かった。
 揺れる尻を引っぱたく。
 あう、あう、と呻いて女はさらに求めた。
 背中をべろべろ舐めてやった。それから、唇を求める。
 肉と肉がぶつかる音がオフィスに響く。誰にも、何をしているか、すぐに分かるだろう。
 汗が滲む。
 と・・・・・。
 不意に、二人から興奮が引いた。
 「お楽しみの邪魔する奴って、大嫌い」
 「全くだ」
 何が起きたか、服を身に着け始めた二人は、どうやら同じものを感じたらしい。
 「進入したか?」 
 「そうみたい」
 「じゃあ、急ごう」
 涼太は女を急かした。
 「どうして?学校の外じゃ手を出してはいけない校則じゃない」
 「なら、奴らはなぜ、この建物へ入ったんだ?どういう理由か知らないが、奴らは、校則を破ってる」
 「変更されたのかしら」
 「それなら、事前に連絡が入るだろう。明らかな挑戦だよ、これは」
 「なら、受けて立たなきゃ」
 「殺される。学校の外じゃ、俺たちの力は大幅に制限されちまうんだ」 
 「くそ」
 悪態をつきつつ、既に二人はオフィスを出ている。
 エレベーターの前に来た。既に、一基、上ってきている。
 「奴らだわ」
 「階段だ」
 すぐに、階段室へ入り込む。ここは、地上、三十階。一体、何段、下ればいいのか気が遠くなる計算だ。
 「早く、早く!」
 涼太は女を急かす。
 「面倒ね。一気に行くわ」
 女は階段を、飛び降りた。一番上から、踊り場まで、一気に。涼太も続く。
 それでも、一体、何回繰り返せばいいのか途方も無い。
 すぐ上で音がした。階段室への扉が吹き飛ぶような勢いで開けられた音だ。
 「そこの扉だ!」
 すぐ目の前の外へ通じる扉を二人は開けた。
 廊下だった。人気は無く、静まり返っている。
 走り出そうとする二人の前に、人影が立ちはだかった。
 「これは、これはお二人さん。お楽しみの邪魔をして悪かったな」
 「服部」
 涼太はその名を呟いた。
 映画の諜報員が着るような黒いタキシードに身を包んだ服部と言われた男は、頬に不気味な傷を持っていた。一見したらヤクザか暴力団だが、意外に整った顔立ちがそう思わせない。
 「学校の外じゃ、卒業生には手が出せないはずだぜ?」
 「無論だ」
 「接触することすら禁止のはずだ。重大な校則違反だ。委員会が黙ってない」
 「校則違反?委員会?馬鹿が。いつまで学生気分のつもりだ。お前達こそ、学校外の色恋沙汰はご法度という校則に、立派な違反をしてるんだぜ?」
 両者は、一定の距離を開けたまま対峙した。
 「私たちを殺すつもり?」
 「柴村玲子、これは警告だ。いつでも、俺たちはお前達を消すことができるんだ。外だけじゃない。学校の中でさえもだ」
 「私の尻でも欲しい?」
 皮肉のつもりだったが、服部は表情一つ変えない。
 「手に入るものをわざわざ望む必要は無いだろう」
 「なら?」
 涼太が尋ねた。
 少しの沈黙の後・・・。
 「卒業生を、根絶やしにする」
 「それは、宣戦布告というわけか」
 ついに、と涼太は思った。
 ついに均衡が破られる時が来た。
 ある意味待ち望み、一方では避けてきた。
 「我々は長らく、気が遠くなるようなにらみ合いを続けてきた。小競り合いこそ、数え切れぬほど起こしてきたが、それはこの際、問題じゃない。俺が言っているのは、我々在校生は、お前達卒業生を絶滅させるべく、全面戦争へ突入する意思で既に一つにまとまっているということだ。そこで今日は、お前達卒業生の言い分を聞きに来た」
 「一体、いつから在校生は卒業生にそんな大きな顔をするようになったんだ?」
 涼太は今にも飛び掛りそうだった。先ほどまでは正面からの対決を避けるつもりでいたが、ここまで愚弄されては黙っているわけにもいかない。こちらには、卒業生としての沽券がある。
 「下らん上下関係だな。それともおまえ、まさか怖気づいたわけじゃないだろうな?」
 「それは聞き捨てならねえな」
 「涼太、止めて」
 制止する玲子の手を振りほどいて涼太は一歩、前へ出た。
 「こいつを黙らせる」
 「正気?力が制限されるっつったのは、あんたじゃない」
 「その女の方が、状況はよく分かっているぞ、無道。すぐ頭に血が上る、昔の悪い癖はすぐには直らないか。それに、これはおまえだけの問題じゃない。おまえが今、俺に手を出せば、即それを宣戦布告と見なし、一斉攻撃を仕掛ける。それに備えるだけの力が、お前達に整っているのか?暗殺事件が戦争に至ったケースもある。軽率な行動は歴史に残る悲劇にもなるぞ。繰り返すが、こちらは既に準備はできている」
 服部の物腰は、あくまで一定で冷静だった。それは、自分が明らかに涼太や玲子よりも上にいるという、揺ぎ無い、絶対的な自信からだった。
 「お前達の言い分は、と聞いている」
 正直、在校生との正面からのぶつかり合いについては、卒業生内部でも異論がある。統一的見解は得られないまま、ずるずる時が流れたというのが正確な所だろう。
 「本来なら、宣戦布告などという回りくどいやり方は、流儀じゃない。日本もかつて、宣戦布告無しに真珠湾を攻撃しただろ?同じことを、我々もするつもりだったが、ここははっきりと、在校生の立場を示しておく必要があると思ったんだ。敢えて時間を与えてやっているんだ。」
 「私達はまだ、在校生との正面衝突に関して、まとまった結論には達していないわ。結論は現在まで先延ばしの状態」
 「じゃあ、お前達が決めろ」
 「長でない俺達に、決定権は無い」
 「いつの時代の部族社会だ。じゃあ、聞き方を変えよう。おまえ等の意思はどうだ?我々と全面戦争に突入し、割れた勢力を統一するのか、このまま無意味な均衡状態を保ち、永劫、生きるのか?どうなんだ?」
 「卒業生個人の見解を、校外で述べることはできない」
 服部は小さくため息を吐いた。 
 「お前達と話をするのが、そもそも無駄だったらしいな。我々の意思は既に伝えた。むざむざ殺されるのも、誇り高き死に方を選ぶのも、お前達次第だ。気を抜かないことだな」
 闇に、紛れるようにして、服部は身を翻した。
 ぞっとする、しかし、優雅さを備えている動きだ。
 「で、どうするつもり?」
 しばらく沈黙のまま立ち尽くしていた二人の均衡を、玲子が破った。
 「俺達だけじゃ、決められない」
 「報告ね」
 「・・・・の必要もなさそうだ」
 「・・・そうね」
 別のものを感じたか。既にエントランスのホールにまでその身体は移動している。
 都心の高層ビルにどこにでもあるような、広大なホールには、人気はまるで無かった。
 その、回転扉の前に・・・・・。
 黒尽くめの男が三人、並んでいる。
 真ん中の男は小柄な壮年で、左右の二人は、ボディーガードのようにして、一歩、壮年からは距離を置いて佇んでいる。むしろ、彼らは影のようだった。二人の顔つきも、そっくりというよりは、もはや同一に見えてくるような没個性的な表情だった。
 「委員長自らお越し下さるとは、恐縮です」
 涼太、玲子、揃って頭を下げた。が、委員長と呼ばれた壮年はニコリともせず、硬い表情のまま言った。
 「状況は?」
 「・・・・はい。服部が、我々に接触を」
 「そんなことは分かっておる。内容を聞いておるのだ」
 部下に注文をつける堅物上司みたいな厳格な口調だった。
 「彼らは、我々との全面戦争で、意見はまとまっています。我々も、決断を下すべき時です」
 「ここへ来て均衡が破れたか。やはり、あの女の出現と関係があると見るべきか」
 感慨深いように委員長は呟いた。
 「集会を催す」
 おお、と沸き立ちたいところを二人は抑え、
 「いつですか?」
 と聞くに留めた。
 「これよりだ。猶予は無い」
 委員長と、二人の男はそう言って身を翻した。
 外の道に、黒塗りのリムジンが停車している。そこだけ濃厚な闇が落ちたようだった。頬を撫でる風も、その質をどこか変じて、異界から吹き付けてくるものの気配がした。
 ドアは既に開いており、奇怪な五人を迎え入れた。
 だが、乗り込んでみると、委員長の傍にいた二人はどこかへ消えうせ、車内には委員長しか居ない。その隣に、涼太、玲子が続く。
 自動的にドアは閉じられ、車は発進した。運転席と後部座席には、仕切りがあり、後部座席から運転手の姿を確認することはできないが、運転手はどこへ車を走らせるかを知悉しているようだった。
 道中、一向は無言だった。一言の会話も無い。世間話も。
 過ぎ去る車窓の風景が、幻のように見えてくる。 
 立ち並ぶ街灯、きらめくネオンサイン、信号機の色、過ぎ行く人々、対向車のヘッドライト、そして、車内には届いてこないが、渦巻いているであろう音の洪水、声の洪水。ありとあらゆるものが、虚飾に沈み、馬鹿みたいにはしゃいで、世界を埋め尽くしている。それは、無知な大衆に与えられた仮初の真実のようでもあった。うわべだけの、都合のいい世界。都合のいい情報。その裏で渦巻いている、世界の真実、真相に、誰一人気づいている者はいないだろう。その日、その日を惰性で暮らし、働いて、食って、歌って、騒ぐ者たち。何もかもが、幻みたいに思え、頼りなく、溶け、消え去っていくように見えた。今、この車の後部座席、この小さな箱だけが、世界の真相を一手に握り、曇った目を綺麗にしてくれるような気がした。
 しかし、それすらも、幻想なのか?
 真実を握ったと思った瞬間、真実を操れる立場に立ったと思った瞬間、それはするりと、手の中から逃げ、容易にその力関係を逆転させてしまう。逃げた真実は、偽りの、よく出来た偽者を手の中に残し、逃げ去ったことを、相手に悟らせない。それに気づかぬものは、いつまでも、捕まえたままの偽物を本物と錯覚したまま、真実の側にいるという勘違いに惑溺するのだ。
 自分もまた、そんな人間の一人なのか?
 ふとした感慨が、涼太を過ぎる。ちらりと、玲子を見た。彼女もまた、車窓に視線を投げているが、彼女が何を考えているのかまでは分からなかった。委員長に至っては、瞬き一つしていないように思える視線は、一体どこを彷徨っているのか検討もつかない。当然、何を考えているのかなど、及びもしない話だ。
 そもそも、委員長に会ったこと自体、ほとんど無い。さらに直接の謁見、会話を交わしたとなると、これが始めてだろう。いろいろな意味で、委員会のメンバーは、とりわけ委員長は伝説的な存在だった。噂ばかりが先行し、実態は見えてこない。それがこうして目の前にいるのだから、おかしな気分になるのも無理は無いだろう。
 世界は、嘘みたいに儚い。それを証明するかのように、ネオンや摩天楼の群れは、みるみる車窓の後方へと飛び去り、二度と視界に戻っては来なかった。次々と、別の景色が、走馬灯みたいに流れ去る。代わる代わる訪れるそれらの光景は、移ろう世界の実像であるかのようだった。何一つ、留まるものはない。すべては流れ、変わり、消えていくのだ、と。
 やがて、辺りが、閑静な住宅街へと差し掛かろうとしていたその時、不意に車が速度を落とした。
 「敵襲です」
 運転手の声が、後部座席に響く。落ち着き払った声だ。赤信号です、というのとまるで変わりが無い。
 「突破だ」
 委員長も、落ち着いた声で指示を出す。
 「了解しました」
 ぐん、と車が速度を上げた。
 直後、鈍い衝撃が車体を走りぬけた。悲鳴、絶叫、怒号がそれに続く。
 何かが振り下ろされて、窓ガラスを叩く。だが、叩き割ることはできず、車の加速によって打ち手は跳ね飛ばされた。血糊が派手に、ガラスに付着する。
 銃声が轟く。だが、弾はすべて、車体によって弾き返されているようで、ただの一発も、車内への侵入を許さない。
 破竹の進撃を続けるかに思えたリムジンの速度に、突如として停滞が生じる。
 「装甲車が二台と、戦車一台に前方を塞がれました。これ以上の通常走行は無理です。重力加速帯を使用しますので、シートベルトを」
 どこまでも落ち着き払った声だが、こうでなくては、委員長を乗せたリムジンの運転手など、務まるはずもない。
 直後、飛行機が離陸する時のような凄まじい圧力が前方から叩きつけてきたかと思うと、周囲の光景が刹那、赤色の中に沈んだ。
 耳鳴りがする。
 音が、一瞬の間、綺麗に消えた。
 重力加速帯は、リムジンが搭載する超高音速移動装置の通称だ。凄まじい速度によって駆け抜け、時を越えることで、一瞬、時間が停止し、重力も消失するような感覚に襲われる古代文明のスーパーテクノロジーの一つと言われている。この状態になると、物体や物質を透過しての移動が可能となるが、透過された物体や物質の分子構造は変形し、捻じ曲げられることになる。奇怪な物体、物質のねじれ現象が、一帯に生じる他、時間にも影響が出て、時計が、何時間も進んでいることなどざらだ。時計自体が壊れてしまうこともある。反面、強大なエネルギーを使用するため、持続時間は短い。車体や、機器にも、大きな負荷がかかる。
 今・・・・・、リムジンは、前方の包囲網を突破し、再び通常走行へと戻った。
 「・・・新手です」
 相変わらず、運転手の声は落ち着いていた。呼応するように、車は速度を落とし、やがて停止した。
 「オーバーヒートしました。急速冷却に移りますが、エンジンの再始動まで、やや時間が」
 「君達で時間を稼げ」
 委員長は二人に指示した。
 「校則第二条第二項、卒業生並びに在校生は、校外における能力及び力の大幅な制限を受ける。また校外における能力及び力の解放を禁止する、を限定的に変更、解除する」
 呪文のように呟く委員長の声を聞き届けてから、涼太と玲子は車から降りた。
 前方をぎらぎらしたヘッドライトと轟音の群れが埋めている。
 車とバイクの群れだ。共に改造したマフラーから、爆音を吐き出している。
 それに跨る面々も、凶悪面をした者達ばかりだ。
 各々が、特攻服やら、迷彩服を纏い、マフラーをして、ゴーグルやヘルメット、マスクを着用している。手にはナイフ、ハンマー、鎖、バット、火炎瓶、鉄パイプなど、考えうる凶器を携え殺気を隠そうともせず、剥き出しにしていた。
 車列の後ろには、大掛かりなバリケードが待機する。その背後には、鉄砲隊よろしく、重火器を備えた男達が居並び、銃口を向けていた。
 「これは、随分な出迎えね」
 一方、迎え撃つのは、涼太と玲子のたったの二人。数でも、武器でも、圧倒的な劣位だ。そもそも、二人は武器らしい武器すら所持していないのだ。
 「服部の言葉・・・・まんざらでも無いみたいだ」
 前方にいるのは、ただの凶悪な不良たちなどではない。膨れ上がり、盛り上がった殺気と怨念の塊。それは、ただの人間に放てる類の強さではなくなっていた。いくら、凶悪なサイコキラーを何百人寄せ集めようとも、これほどの殺気を放てはしまい。どんなに殺しに狂い、染まろうとも、彼らにはやはり、ほんの僅か、欠片ほとでも、人間としての理性が残されている。原初の、DNAレベルに刻まれた、当人すら意識もできない、理屈では割り切れぬ理性。それは、社会というものに後付で獲得された類のものではなくて、生物として、刻み付けられている類の理性だ。
 しかし、ここにいるのは、そんな原初の残り香みたいな理性の欠片も持たぬ異形である。膨れ上がる殺気が、怒気が、それを物語る。殺戮を望んでいる。破壊を、混乱を、破滅を、望んでいる。
 彼らは、地獄から舞い戻った葬列なのである。彼らの一人一人に、地獄の業火が見て取れるようだった。それが、寄せ集まればどうなるか。巨大な、一つの、燃え上がる炎の塊が、前方で噴出し、天を衝いたようにも見える。
 今まで、小競り合いを演じてきた在校生は、ただの不良の集まりに過ぎなかった。武器を携え、暴力的で凶暴な、不良に、異能の力を備えてグレードアップさせた不良。
 だが、ここにいるのは、もはや異質な存在だった。在校生が今、その本性を惜しげもなく解放したのだ。元々彼らの潜在能力はここまでのものが備わっていたのかと、少なからず驚嘆させられるものがそこにはあった。能ある鷹は爪を隠す。まさに、この言葉がピタリとはまった。
 誰が、合図を出したか。
 殺意の葬列は、一斉に、進撃を開始した。
 バイクが、車が、唸りを上げて、突進に移る。乗り物を持たぬ者達は己が足で走る。後方の、銃撃隊は、微塵も動かない。
 憤怒の炎の塊が、それによって、移動したようにも見える。地獄の灼熱に身を包んだ在校生達が、大挙して、一斉攻撃を仕掛けた。相手は、たったの二人にも関わらず。
 迎え撃つ涼太と玲子は棒立ちだった。迎撃の術が無いからではない。二人の反撃は、既に開始されていた。
 ぐにゃり、と空間が捻じ曲がったかのようだった。
 刹那、バイクと車、走り寄る不良の群れが、中空へ飛ばされる。
 かと思えば、一気にその身体は地上へと叩きつけられていた。
 首が折れる音、内臓が潰れる音、肉体そのものが破裂する音。そこにバイクや車のクラッシュする音が重なる。壊れた車体から漏れ出したオイルに火がつき、派手な爆発が生じた。地上へ叩きつけられた骸に火が回り、不快な悪臭を放った。
 斥候があっさりと倒されるのを見、後方で待機していた銃撃隊が一斉に銃口を二人に向け、銃撃へと移る。銃はすべて、マシンガンだった。しかし、死を運ぶ無数の鉛弾も、二人に届くことなく、中空で拡散して、見当違いな方向へと逸れていく。
 二人が、前進すると、バイク乗り達と同じ運命が、銃撃隊をも襲った。揃ってバリケードごと中空へと飛ばされてから、地面へ叩きつけられる。
 あっけない、と二人は思った。あの燃え上がり、膨れ上がっていた殺気の塊は何だったのか。二人を刹那、戦慄させた、あの魔力の発露は何だったのか。それらからしてみれば、この終わりはあまりにもあっけなかった。肩透かしを食らったとはこのことだろう。
 何かがおかしい。こんなものではないはずだった。それとも、先ほど感じた印象は、ただの過大評価でしかなく、服部の言葉もまた、ハッタリだったというのだろうか。
 しばし、二人は、転がる在校生の死骸を凝視していた。
 と・・・・、陽炎のようにして無数の人影が、燃え盛る炎の中から屹立した。
 一度は、涼太と玲子の攻撃で死んだはずの在校生達が、炎に撒かれながら、立ち上がったのだ。首の骨が折れたままだったり、内臓がはみ出していたり、無残な肉塊となった身体を引きずっていたりと、死んだままの状態で居た彼らはしかし、すぐにその身体を元通りに修復させていた。
 殺意の群れが、前進した刹那・・・・。
 一帯の空間が、灼熱に焼き払われたように、赤色に染まった。
 見るものすべてが、炎に包まれてしまっている。そこはまるで地獄だった。
 「・・・・これは」
 「慌てるな。奴らの展開してるフィールドだ」
 涼太は冷静に玲子を宥めたが、自分も狼狽していた。
 炎の世界では、目の前に迫る敵がただの黒い影にしか見えなかった。その影は例外なく、炎に包まれていて、両手を伸ばし、まるで亡者なのである。それらが、ただ呻き、近づくだけなら、気味が悪いの一言で済んだだろうが、生憎それだけではなかった。
 何かが、見えた。
 炎に包まれる影だけではない。
 何かが渦巻いている。
 周りで。
 これは・・・・?
 様々なものが、灼熱の世界から屹立を始めていた。例外なく、現れた瞬間、炎に撒かれ苦悶の叫びを上げる。
 彼らもまた、亡者なのだろうか。
 だが、ただの名も無き亡者ではなかった。
 彼らには・・・・見覚えがあった。
 不思議なことだったが、涼太は、その炎に撒かれた焼け爛れて崩れた顔が誰かを覚えていた。
 遠い、遥か遠い過去に、戦いの中で殺めた者達だった。 
 敵だった。遥か昔の在校生だ。なのに、どうしてはっきりと、その顔が想起されてきたのだろう。名前は知らないが、覚えているのだ。自分が殺めた者だと。
 涼太を取り囲む亡者の群れはすべて、過去に倒してきた敵だった。今は炎に撒かれ、肉体は崩れ、語る言葉も無いが。
 「敗れた在校生がどうなるか・・・・知ってるか?」
 亡者の一人は呻くように語り掛けた。
 「・・・・無理やり蘇らされて、ケジメをつけさせられるんだぜ」
 別の亡者が言う。
 「仲間からの、凄惨なリンチさ」
 また別の亡者。
 「どんなに痛めつけられても、死ねないんだ」
 「地獄の苦痛で尚、生きてる」
 「最後に死ぬのは、心臓を抉り出されてからだ」
 「鴉どもに身体を突かれた後でな」
 「その苦しみが分かるか?」
 代わる代わる、亡者達が囁く。苦痛を訴える。
 「身体だけじゃなく、魂も、焼き焦がされるんだ」
 直後、涼太は胸元が発火したのを感じた。 
 燃えている。
 心臓が!
 「うおおああああああああああッ」
 慌てて掻き毟る。炎を消そうと。だが消えない。
 「涼太!」
 玲子が叫んだ。
 「どうしたって言うのよ」
 「・・・・・見えないのか。俺の・・・・俺の胸がッ。胸が燃えてるッ!」
 「見えない。全然見えない。胸なんか燃えてないよ」
 「嘘だ。燃えてる。ああああああッ」
 転げまわる中でも、炎に包まれた亡者達が言葉を繰り出す。
 「お互い血に染まった手を持ちながら、俺達だけが贖罪しなきゃならないのは、おかしいだろ?」
 「おまえだって、罪を犯しているんだぜ。名目はどうあれ、建前はどうあれ、理由はどうあれ、その手を血で染めてる」
 「俺達だって、被害者なんだ」
 「苦しかったんだぜ?リンチまで受けてよ」
 涼太はのたうった。胸から噴出す激しい炎は一向に消えない。苦しみだけが彼を包んだ。
 「涼太。涼太、しっかりして」
 「聞こえないのか。声が。彼らの声がッ。見覚えが無いか?彼らに!」
 「彼らって誰よ。それより敵が迫ってる。立って。さあ」
 玲子の目の前で、炎に包まれた黒い影が、明確な肉を備え、在校生の姿を取るのに時間はかからなかった。
 移動が、見えなかった。
 鈍く、重い一撃を腹部に受けて思わず蹲る。
 打撃は複数重なった。背中に、肩に、膝に受ける。既に彼女は取り囲まれていた。
 蹴りが入る。硬い棒状のもので殴られた。鉄パイプか警棒か何かだろう。
 凄まじい、力の嵐だった。四方八方から休むことなく打撃が来る。
 意識が遠のく前に、玲子は今一度、精神を統一した。
 直後、彼女を取り巻いていた在校生達が、四方へと吹き飛ぶ。
 弱い・・・・・。
 咄嗟にそう感じた。やはり一人だけの力では・・・・・。
 吹き飛んだ在校生達も、大したダメージは無く、すぐに体勢を立て直して向かってきた。
 さらなる憤怒と、殺意の元に。
 もう動けない。全身のダメージ、さらに、今の反撃で体力は限界まで消耗してしまっていた。加えて、今は敵が展開するフィールド内だ。ただでさえ、動きが取れない。
 と・・・・。
 「乗れ」
 声がかかるのと、身体が引っ張られるのがほぼ同時だった。
 気づいた時にはリムジンの中だった。涼太もシートの上に転がっているが、意識を失っているのか、動かない。
 「お待たせしました。エンジン冷却完了です」
 相変わらず、運転手は冷静だった。
 「早く出したまえ」
 流石に、苛立ったか、委員長は厳しい口調で命じた。
 車は、急発進した。
 景色が燃えている。凄まじい衝撃が車体を包んだ。車自体が燃えているような、そんな錯覚すら覚える。
 だが、それも長くは無かった。突如として、赤色の世界が消失し、車は夜の住宅街の中を走っていたのだ。
 「怪我の具合はどうかね?」
 「・・・・・ええ、まあ」
 手酷く打たれ、蹴られてはいるが、どうにか持ち直している。
 「生命維持システムを起動させました」
 運転手の声が聞こえてきた。玲子が身体が楽になってきたと感じたのはこのためか。
 「ですが、あくまでも応急措置程度です。校医に診てもらうことを推奨します」
 「そうするわ」
 漸く、涼太を見る余裕が生まれた。
 「彼は?」
 酷く錯乱していたことは、覚えているが、あれからどうなったか・・・・。
 「生命維持システムのおかげで、錯乱状態は緩和され、小康状態に入りましたが、生憎、私は専門家ではありません。やはり、校医に診てもらうことをお勧めします」
 「ありがとう」
 それから玲子は、委員長を見た。
 「どうかね?」
 「と、言うと?」
 「彼らだ。感触は?」
 「やはり、準備が整っているというのは確かなようです」
 「ふむ」
 「しかし、校則のおかげで、向こうの力も制限を受けたはずですが、彼らの能力の強さから、それもないようです。向こう側にも、委員長に匹敵する校則変更を可能にする力を持った能力者がいなくては、説明ができません」
 委員長は眉一つ動かさない渋面のまま言った。
 「私もそれは考えたが、ありえない。校則に影響を与えられるのは、委員会メンバーのみだ」
 「いずれにしても、こちら側も即刻、結論に至らないと感じました」
 敵の強さを肌で実感した今、戦いの用意が整ったという服部の言葉も信憑性を帯びてくる。だが、こちらは、その敵を迎え撃つ準備は愚か、戦うという合意にすら至っていないのが現状だった。敵の強さは委員長も理解したはずだ。なのに、即決の合意に至らず、まだ集会を通して結論に達しようとする手続きがまどろっこしかった。
 しかし、それは言葉には出すまいと、玲子は感じた。それが不文律であり、掟。委員会の、その長の考え、意思は鉄なのだ。それによって、ここまでの、一応の平穏は保たれてきたのだ。そこに属する一固体の異は、全体の異への呼び水となり、結束は脆くも崩れ去り、そこに付け入る隙が生まれる・・・・。
 一つの共同体を守るには、僅かな乱れも許されないのだ。どんなにそれが、馬鹿馬鹿しいほどにつまらぬ、細かいことであっても。だが今は、その乱れを許さない鉄の結束故に、柔軟な動きができないのも事実。
 本末転倒だ、と玲子は思った。
 「着きました」
 運転手の声が、取り留めの無い思考に終止符を打つ。
 懐かしい、とは思わなかった。否、思えなかった。
 遥か昔に、この見慣れた正門を巣立ったはずだ。
 そのはずだった。
 別に同窓会でも、何でも無いのに、あれから幾度、数え切れないほどこの門を潜った。まるで、まだ学生であるかのように。
 しかし、そうではない。
 卒業生であるがために。卒業生であるがために、自分はこの学校に捕らわれている。幾度、終わればいいと思ったことだろう。虚しい願いだった。いつしか、諦めてしまっていた。永劫、この学校からは、卒業生という因果な身分からは、逃れることはできないのだ、と。
 無論、この学校を巣立った者がすべて卒業生になれるわけではない。どういう基準で、誰が、いつ、どのようにそれを決定しているのかすら、玲子には分からなかった。恐らく、卒業生の誰も知らないだろう。
 疑問は沸かないのだろうか。他の卒業生達は、ここから逃れたい、解放されたいとは思わないのだろうか。あるいは、とっくにそう思っていても、同じように諦めてしまったのか。
 ただ・・・・・・。
 ただ、今度は。今度こそはすべてが終わりそうな予感がしていた。
 また現れた挑戦者が、それを可能にしてくれるはずだ。まだ直接見たわけではないが・・・・。
 「委員長、現れた挑戦者をこの目で見たいのですが」
 「是非、そうしてくれ。我々をはじめ、卒業生、さらに彼女にも集会に参加してもらう。緊急の、全体集会になるからな。私は準備をする。その間に、他の卒業生達を結集させておいてくれ」
 「涼太は?」
 「すぐに校医に診せろ。彼を抜きにはできん。誰一人、欠くわけにはいかん。」
 「分かりました。それで、挑戦者は、今?」
 「校医の所にいる」
 それは、保健室以外にあるまい。
 委員長は先に車を降りた。その後で、玲子は涼太を車から引きずり出した。敷地内に入ったためか、60近い体重の涼太の身体は、重く感じない。
 夜の闇に沈んだ母校は、幽玄の只中に浮かぶ、宮殿のようでもあった。存在するのに、酷くそれは曖昧で、不確か。この世とあの世の境界にあるかのようだった。
 ある意味、それは間違った認識ではない。玲子にも上手く説明はできないのだが、この空間は、この地域一帯は、この世であり、また違う世界なのでもあるのだ。
 窓に明かりは一つも灯されていないが、それは仮初の外観だ。
 鍵がかかり、厳重に施錠されているように見える正面玄関。それもやはり、仮初。
 今、扉は、自動ドアのようにして、勝手に開き、玲子を迎え入れた。
 そして一歩、校内に足を踏み入れるや、薄明かりが満ちる。が、その光は決して外から確認することはできない。たとえ、明かりが煌々と灯されようとも、その光を校舎の外から認めることはできないのだ。
 保健室の場所は、嫌でも覚えている。迷うはずも無い。
 「お入りなさい」
 ノックしようとする前に、先に声がかかった。
 優しく、柔らかな声。この声を聞くたびに安心できる、そんな声のいい手本だ。
 扉はひとりでに開かれた。ただの何の変哲も無い、木製の扉だ。
 保健室は何一つ変わっていなかった。
 白い衝立も、カーテンの色も、体重計の配置も、そして、室内に満ちる保健室独特の匂いも。
 「お久しぶり・・・・でも無いですね、紫邑さん」
 艶のある黒髪を結いもせず、垂らした白衣の女性はにっこりと柔らかい微笑みを浮かべながら挨拶をした。純和風というべきか、日本的なというべきか、いずれにしても、人を治す、癒す、安心させるためだけに生きているような、物腰、雰囲気を全身から漂わせている美しい女性だった。
 「ええ、そうですね、先生」
 「その呼び方は止して。校医というのはただの肩書き。あなたと同じ卒業生の一人なんですから」
 校医は照れているようにも見えた。
 「それよりも早速・・・・」
 「分かってます。まずは、涼太さんをそこのソファーの上に」
 黒い革張りのソファーだけは、新しく買ったのだろうか。記憶の中の保健室には無かった代物だ。
 「彼は心配いりません。精神攻撃を受けたようですが、ほとんど治っています。しばらく安静にしていれば、完治するはずです」
 軽く涼太の額に触れながら、校医は言った。
 「彼女なら、眠っています」
 視線の先には、ベッドが三つあったはずだ。カーテンに仕切られて見えないが。
 「見てもいいですか?」
 「ええ、差し支えはありません」
 玲子はカーテンをかけ分けた。
 明菜は・・・・・・、校医の言うようにベッドに横たわっていた。
 「意識はありません。それと・・・・呼吸もしていません。でも、死んではいないんです。不思議です。普通ならあり得ません。呼吸はしていないのに、体温も正常」
 「仮死状態なのでは?」
 「それが、刺激は感じているようなんです。私はただの校医で、脳外科の専門家でも、神経関係の専門家でもありませんから、細かいことは分かりませんが、ただの意識不明とは違うということですね。一つ、言えることは、彼女の状態には、紛れもなく、魔が、介入しているという点」
 「・・・・魔」
 「それこそが、彼女がこちら側へ出現した理由です」
 玲子は落胆の色を隠せなかった。
 せっかく、今度こそすべてが終わると思ったのに、頼みの挑戦者は意識不明の状態だったのだから。
 「どれくらいで、目が覚めますか?」
 我ながら、無意味な質問だと思った。月並みであるが、もっとも、意味が無い。
 「常識的な医学では、彼女に意識を取り戻すことは恐らく不可能でしょう。ですが、魔が介在しているのならば、これは私の領分。これより、浄化を行います。悪いですが、少し外してもらえますか?」
 「分かりました」
 玲子は素直に従うと、部屋を出た。
 「さて、漸く二人きりになれましたね」
 玲子の退室を確認した後、校医は明菜に話しかけた。
 「あなたは今、どの世界を旅しているのでしょう。そこが束の間の安息地でも、耐え難い苦悶の巷でも、あなたの意に反し、私はあなたを、この世界に呼び戻さなければなりません」
 校医は明菜の額に左手を当てた。右手は丁度、心臓部分に添えられている。
 直後・・・・。
 添えられた手が、沈み込んだ。明菜の身体の中へ。
 校医も目を閉じている。
 「ああああッ」
 思わず彼女は叫んでしまった。手を引き抜きそうになったが、どうにか押し留める。
 凄まじい力が、明菜の内部で渦巻いていたからだ。
 黒い、灼熱の渦。ありとあらゆるものが、そこに引き寄せられ、漂い、分解され、もがいている。渦は、炎のようでいて、水のようでもあった。形を持たず、増殖したかと思えば縮小し、現れたかと思えば消滅を繰り返す。
 混沌。凄まじいまでの混沌がそこで繰り広げられていた。明菜の内部で。
 なんて熱いんでしょう。これが、彼女の今の内面意識。
 ぐちゃぐちゃとした、黒い渦の世界で、校医の意識は明菜の意識を探そうとした。だが、周囲の乱れの中に、意味ある形を見出すことは不可能に近かった。しかし、それを見つけ出し、引き寄せなければ、明菜が意識を取り戻すことは無い。放っておけば、自我自体が、この黒い灼熱により、焼き滅ぼされてしまう。
 校医の意識は、すうっと、腕を前方へ差し出す姿をイメージしている。
 黒い灼熱が、容赦なくその腕に絡みつき、焼き尽くし、あるいは引きずり込み、分解しようと試みる。
 凄まじい意識レベルでの葛藤が始まった。激しい揺れだ。文字通りそれは、境界の揺れだった。どちらの世界に属するべきかの選択を迫られているように。
 諍い、逆らうのではなく、校医は懐柔を選んだ。力でこの乱れに対抗するのは、ハリケーンに向かって銃を撃つに等しい無意味なやり方だと悟ったからだ。
 どれほどの荒ぶる魔人すらも、鎮め、笑顔すら浮かび上がらせる癒しのオーラを、校医は注ぎ込む。
 易い労力ではない。この、無垢なるヒーリングのエネルギーは、単純に人間性だけではとても放てるものではなかった。校医とて、人間なのだ。欲はあるし、それなりの計算も働かせるし、腹黒い部分もある。そのような状態で振りまける癒しの雰囲気には、おのずと限界が生じてくる。表面的な笑顔だけならばまだいいだろうが、このようなレベルの浄化には、上辺だけの清楚さではとても対抗できない。文字通り、心を清めてからかからないと失敗に終わるどころか、命を落とす危険性がある。
 今、敢えて一人の人間としての欲や、弱みなどを自覚しつつ、意識してその穢れた精神の浄化から始めて、そこから他者への浄化に移る校医の精神力は極限まですり減らされ、消耗していたのだ。
 だが、そうまでして、純白の淀み無きヒーリングから生まれる懐柔と癒しの力も、容易に明菜の中に渦巻く混沌を和らげるには至らなかった。校医が徹底した癒しに重きを置くなら、明菜のそれは徹底した破壊と排除にある。両者はまさに真裏、真逆、相反する存在なのである。
 ならば、純粋にどちらの性質が勝るのか。正面からのぶつかり合いではあるが、決して力押しには頼らない。向こうが、奔流のような勢いでこちらの排撃に出ても、急激な力を解放してその浄化に挑めば、すぐにこちらが疲弊して押されてしまうだろう。あくまでも、徐々に、それでいて深くまで浸透させるのが、校医の狙いだった。それは下手をすれば、こちらが向こうの力押しに敗れてしまう危険性も秘めていた。
 睨み合いらしくない睨み合いは、どれほど続いたか。
 視界は切り開かれず、だが、校医は徐々に押されているのを感じた。このままでは、こちらが危なかった。
 でも、やめるわけには・・・・。
 まずは、どうにかして明菜の意識を、こちらが自由にできる場所まで引き上げなければならない。そうすることができれば、主導権はこちらに移ったも同然だった。
 しかし、精神的疲弊はかなりのものだった。気を抜けば、一気に焼き殺される・・・・・。
 「・・・・誰?」
 と、不意に声が響いてきた。混沌を掻き分けるかのようなか細く、頼りない声だったが。
 「誰・・・・な・・・・・・・の?」
 「あなたを助けに来ました」
 校医も声を響かせる。これだけの障害が邪魔をしていては、途中でかき消されて、僅かな声しか届かないかもしれなかった。
 「・・・・助・・・・け・・・て」
 明菜の意識は、救いを求めてきた。
 「どこですか?ここからでは、あなたが見えません」
 声がする方向を特定することは、困難を極めた。周囲で渦巻く、混沌から声が漏れ出しているかのように聞こえる。
 「・・・こ・・・・こよ。こ・・・・・・・こに・・・・いる・・・・・・わ」
 「どこです?どこにいるのですか?」
 双方の意思はすれ違いを見た。互いは互いに届かない。
 「あなた・・・が見え・・・・・る。白・・・い・・・・光が・・・み・・・・える」
 「でも、私にはあなたが見えないのです。何か合図は送れますか?」
 「ま・・・・っ・・・て」
 声はそれきり途絶えた。
 どれくらい沈黙が続いたか。
 不意に、混沌を突き破るように、何かが伸びてきた。
 手?!
 素早く、校医の意識の手は、伸ばされた手を掴んだ。
 くッ・・・・・。 
 引きずりこまれるッ!この手は囮?
 凄まじい力が、校医の意識を混沌の渦へ引きずり込もうとした。
 統一が、乱れる。あとは、一方的に引っ張られるだけだった。
 あと少し。
 黒い灼熱が、目の前に迫った時・・・・。
 混沌の向こうから何かが飛び出した。
 真っ黒なタールに包まれたかのような、人の姿を象った影みたいな物体が。
 「・・・・漸く、遭えましたね」
 「ええ・・・」
 影は明菜の声を放った。
 「さあ、浮上しましょう」
 校医は影の手を取った。
 上へと、只管意識を転じる。
 渦巻く混沌が、再度勢いを盛り返し、二人を捕らえようと蠢き始めた。
 何も無い虚空に炎が巻き起こり、渦巻きが生じ、流れ水となり、押し流そうと、焼き殺そうと、吸い込もうと、策を弄する。
 追いつかれるのが先か、逃げ切るのが先か。
 だが、二人の動きはもどかしいほどに遅かった。既に双方、限界まで精神力を削っていた。
 「うッ」
 明菜の意識が呻いた。
 足首に、触手のようなものが絡みつき、引っ張っている。
 強引に、校医は上昇に転じた。
 あと少し。あと少しで・・・・。
 明菜を引っ張る力が強まる。
 校医は浮上を目指す。
 あと少し・・・・。
 今にも、明菜の意識は手からすり抜けそうだった。
 少しずつ、少しずつ、繋いだ指がすり抜け始め・・・・。
 あわや、という所で、校医は覚醒した。
 保健室の中である。
 全身はびっしょりと汗に塗れ、全身は寒気に包まれている。震えがしばらく止まらなかった。
 深呼吸を何回かして、どうにか体調と呼吸を整えてから、彼女は明菜を見た。
 呼吸が取り戻されているのがすぐに分かった。
 意識の覚醒はすぐだった。
 「・・・・ここは」
 それが明菜の目覚めてからの第一声だった。のっぺりとした特徴の無い天井がまず視界に飛び込んでくる。
 「保健室ですよ」
 柔らかい声で校医は応じた。先ほど演じた刹那の死闘の片鱗も、今は見せていない。
 「保健室・・・?」
 記憶が曖昧に抜け落ちていた。ここしばらく、自分はどこで何をしていたのだろう。すべてが、夢のようにも思えた。悪夢のように。
 断片的な記憶が浮かぶ。
 白い宮殿みたいな校舎に、実行委員会と演じた死闘の数々、そして校長・・・・・。
 「校長は?あいつはどうしたの?校庭のピラミッド!世界は。世界はどうなってしまったの?!」
 明菜は跳ね起きた。
 「落ち着きなさい。まだ動ける身体ではないわ」
 優しく嗜めるように、校医は明菜を諭したが、明菜はそれを突っぱねてベッドから降りようとする。
 「退いて。時間が無いの。急がないと・・・・」
 「この世界に校長はいないわ。ピラミッドも無い」
 明菜は、え?という表情になった。校医の言葉が理解できなかったのだ。
 「あなたが今居るのは、丁度、現世と、もう一つの裏世界の合間。丁度狭間なのです。この世界は非常に不安定でバランスが悪くて、すぐどちらの世界とも融合してしまいます。あなたがいう校長やピラミッドは、現世の代物です。あなたは確かに、少し前までそちらにいましたが、校長との戦いで実質的に死亡したあなたは、一時的にこの狭間の世界に捕らわれているのです」
 「私が・・・・死んだ?」
 身体の感覚を、感触を確かめてみた。何もおかしなところはないけど・・?
 「じゃあ、この身体は何よ。私は生きてるじゃない」
 「あくまでも、この世界で生きているという話です。現世では肉体も消え、あなたは消滅したのです」
 「ここは・・・死後の世界なの?」
 「いえ、そうではありません。現世にぴたりと張り付いているもう一つの世界です。現世の影響で、ここにはさまざまなものが流れ込んできます。排除しなければ容易に、現世は破滅に満ちた裏の世界へ変じてしまう可能性を常に孕んでいるのです。私達はこの世界で、現世から流れ込んでくるあらゆる害悪を水際で除外し、現世の崩壊を防いできました。キューバ危機はご存知ですよね?あれは、私達の干渉無くては回避できませんでした。そして今、現世で起きていることで世界は再び、滅亡の危機にあります」
 「なら、どうにかなさいよ」
 「私達にできるのは、こちらに流れ込んできた害悪を取り除いて現世を可能な限り浄化することだけです。それが、私達、卒業生の使命であり、役割。ですが、あくまでも、流れ込んできたものを排除することだけしかできません。例えば、現世にいる校長をここから殺したり、ピラミッドを壊すことは、我々にはできません」
 「一応は分かったわ。で、私をどうするつもりなの?」
 生きているが、肉体はこの世界仕様というのもまんざら嘘ではないらしい。右腕から力が完全に消えている。
 「現世からの脅威は、常に在校生という形で私達の前に顕在化してきました。今もそうです。我々は、かつてないほどに、彼らの脅威に晒されているのです。敵が、全面戦争を我々に仕掛けようとしています。私達は、そんな彼らに対してまだ、明確な戦う意思を示していません。このままでは、卒業生は絶滅し、世界は滅んでしまいます」
 「私に在校生と戦えと?」
 「いえ、あなたでは戦えません。あなたが戦うのは、あくまでも、現世。ですが、このまま現世へ戻っても、あの校長に勝つことはまずできないでしょう。今回は運よく、この世界に入り込めましたが、次はそうはいかないと思います」
 「随分、正直ね。綺麗な顔して」
 「人を癒すには、真実が必要ですから」
 校医はにっこり微笑んだ。偽りの笑み・・・・・ではない。
 「あの校長の力には、秘密があるのです。彼に力を与えている魔道書が、この世界にあるのです。校長を倒す方法はただ一つ。魔道書の破壊です。それ無くして、あなたの勝利はあり得ません」
 「魔道書・・・・」
 「これまでにも、魔道書の破壊に足る選ばれた者がこちらの世界に入り込んできましたが、悉く、失敗に終わっています」
 「そんな大事なものなら、どうしてこちらの世界のあなた達が壊さないの?」
 「試練だからです」
 「試練?」 
 「卒業生が課す試練。それに挑むものを、私達は挑戦者と呼んでいます。あなたは今、挑戦者なのです」
 「馬鹿馬鹿しい。何が試練よ」
 「古の時代から、それは取り決められていたことなのです。私達の与り知ることではありません。私達は伝統的にその実践をするように引き継がれているだけですから。もし、我々がその取り決めを破り、我々だけで魔道書を破壊したとすれば、それは掟に背くこととなり、我々は滅ぼされます。そうすれば、この世界は容易に滅びるでしょう」
 美しい顔で、凄惨な言葉を平気で校医は並べた。
 「今回の戦いに、あなたが勝てば、私達も、この学校から、卒業生という鎖から、自由になれます。それほど、現世で進行している怪異は、重大なものなのです。皆が、あなたに期待をしています。ですから、あなたはこの試練を受けるしかないのです」
 「勝手なこと、言わないで。どこの誰が決めたのか知らない、くだらない掟だかルール、どうして私が守らなきゃならなの?ましてや、どうして、見知らぬ他人のために戦わなきゃいけないの?あなた方がどうなろうと、私の知ったことじゃないわ。卒業生だか、なんだか知らないけれど、私をここから出して。もし夢だとしたならさっさと蘇らせて現世へ戻して頂戴。今度こそは、あの校長をまっすぐ地獄へ叩き返してやるわ」
 「だから無理だと言ったでしょう。魔道書の破壊無くして、校長を殺せないのです」
 「そんなの分からないわ。今度は上手くやる」
 「何度やろうと同じです。あのピラミッドの中へ入った校長に、あなたの攻撃はまるで通じなかった・・・・。違いますか?」
 明菜は言葉を返せなかった。どうして、そんなことをこの女が?
 「魔道書を壊さない限り、あの校長にはもうかすり傷一つ、負わせられないんですよ。何度やろうと同じです。校長に殺されるだけです」
 反論したいところを、言葉を飲み込んで明菜は考えた。
 確かに・・・・・。
 あの校長のパワーは、常軌を逸していた。確かに、あの時、自分の拳は、校長の身体をすり抜けて傷一つ負わせられなかった。
 もし本当に。本当に、あの力が、魔道書だかのせいだったら。そんなものが本当にあるとは思わないけど、もし、そういうものが、あいつに力を与えているとしたら・・・・・。
 信じたわけじゃない。でも、ひとまず、ひとまずここは話にだけでも乗っておいたほうがいいかも。
 「・・・分かったわ」
 「それでいいわ。それともう一つ、あなたに話しておかないと。校医としての務めですから」
 「何を?」
 「あなたの、その右腕」
 恐らくは、右腕については、何もかも知られているのだろう。なら、今のこの力が全く宿っていない理由も説明されるかもしれない。
 「その腕の力で、ここまで戦い抜いてきたのですね」
 校医はゆっくりと、右手で明菜の身体の表面を撫でるような動きを見せた。
 「ですが、腕の力の解放により、あなたの精神は、今、限界寸前までに破壊され、汚されています。このままでは、完全な魔に変じてしまうのも、そう遠い話ではありません。もし、魔に変じたら、今あなたが狙っている仇と同じ存在になってしまうでしょう」
 薄々は分かっていたつもりだった。心に宿る破壊と殺戮の希求。衝動。それらは、腕の力を解放するたび、どんどんと肥大化し、手に負えない化け物となる。だが、今のところ、その化け物と自分の利害は一致していたわけで。
 「心だけではありません。これからは身体に深刻な歪が出るでしょう。寒気、発熱、関節の痛みに、筋肉の痛み、指先の壊死が始まったり、視力が格段に落ちて失明寸前になったり、いろいろな症状が考えられますね。このままでは、肉体的にも精神的にもボロボロになって、遠からず、死ぬか、魔物になるかしか道はありません」
 「さっきは戦えって言って、今度は脅すわけ?」
 「アドバイスです。仇に行き着くまでに死んでしまっては、お互い不本意でしょう。あなたの力は、確かに強大で凄まじいものがあります。ですが、今のままの戦い方を続けていたのでは、仇に行き着く前に死んでしまいます」
 「じゃあ、どうすればいいって言うの?」
 「穢れを取り除き、綺麗な精神を取り戻します。もっとも、あなたの力の根源まで介入し、制御することはできません。そこから先は、あなた次第です。力の源をあなたが屈服させるのか、それとも屈服させられてしまうのか。それはあなた次第。私がこれからするのは、このままでは崩壊してしまうであろう、心と身体をリセットして、元のスタート地点へ戻すことです」
 ゆっくりと、校医は、その両手を・・・・・。
 明菜の身体の中へと沈めた。
 痛みは無い。不思議な光景だった。
 「そのままで」
 何かを切り開くようにして、校医は明菜の中で両手を左右へ広げた。
 見よ。
 正しく、明菜の身体は切開されたではないか。
 胃や腸、肺、肝臓、膵臓、そして心臓がはっきりと見えた。赤く、健康的な臓器。
 しかし、一滴の血も出なかった。
 代わりに流れ出したものがある。
 黒い、タールみたいな粘液。ドロリとそれらは、内臓の奥から染み出すようにして溢れ出し、そのまま明菜から溢れ出したのだ。それらはベッドを汚し、床にボタボタと滴った。だが、それは僅かな間で、すぐに地面に染み込んだのか、空気中に蒸発して消えたのか、すっかり跡形も無くその場から消えてしまった。
 校医は広げた両手を再び合わせた。すると、それに伴い、明菜の切り開かれた身体も、元通りの癒着を見た。無論、その間痛みはまるで無かった。
 「終わりました。気分はどうですか?」
 「・・・・ええ。まあ、悪くは無いわ。何がなんだか、よく分からない不思議な気分だけどね」
 右腕の感覚を確かめた。やはり、先ほどと変わりなく、力が宿されている気配は無い。
 「そんなものですよ」
 にっこりと、校医は微笑んだ。
 「しばらくお眠り下さい。目が覚めれば、もっと、調子は良くなっているはずです」
 右腕のことを尋ねる前に、明菜は急速に眠りに落ちた。かつてないほど、心地よい入眠だ。
 どれくらいそうやって眠ったんだろうか。
 仮眠程度だったかもしれないし、何時間も眠っていたのかもしれない。時間間隔は無かった。そもそも、保健室には時計が無かった。
 校医は依然として傍にいて、明菜の目覚めを確認すると立ち上がった。
 「さあ、行きましょう。皆が待っています」
 「どこへ?」
 「職員室へ。これから、委員会と卒業生を交えた集会が催されます。あなたも参加して欲しいとの要請です」
 「そんな。まるきり部外者よ、私は」
 「挑戦者には、集会参加の資格が与えられているんです。もちろん、意見を述べる資格も」
 何を言っても無駄らしい。と言うより、こんな場所にいるほうがよっぽど無駄な気もした。
 一体、これから何が起きようとしているんだろうか。挑戦者?魔道書?聞かされた言葉の多くが、嘘みたいなものばかりだけど・・・・。
 思えば、今までずっと体験してきたこと、戦ってきたこと自体が、酷くおぼろげで、曖昧な夢みたいなものだったことを考えれば、今更・・・・・。
 明菜は起き上がり、ベッドから降りた。立ち上がると少しふらついた。
 「身体が軽いわ」
 「毒素を出しましたから」
 「ねえ、さっきは聞けなかったんだけど、私の右腕。なんか変なの。力が・・・・消えているみたいで」
 「どういうわけか、恐らく力そのものが眠ってしまっている状態なのかもしれません。残念ですが、私にはそれを引き出すことはできません」
 「そう」
 二人は揃って保健室を出た。
 校内を、明菜は既に知っていた。
 紛れもない、ここは、あの学校の中なのだ。だが、落書きも、破損も、何も無く、綺麗に清掃されたどこにでもある、ごく有り触れた校舎というのが、記憶と違う唯一の部分だったが。
 その記憶によると、保健室から職員室までは、すぐのはずだった。
 実際、そうだった。
 「失礼します」
 二度、ノックをし、中から声がするのを確かめて、校医が先頭になって、部屋の中へ入った。明菜もまた。
 「挑戦者を、お連れしました」
 「うむ」
 厳かに頷いたのは委員長だった。
 外は夜の帳が下りているのに、室内は薄明かりが満ちていた。電気ではない。どこから入り込んでくるのか分からない光で、職員室の中は満たされている。
 今、部屋の中には、複数の人間がいる。
 委員長をはじめとする壮年の男達が、全部で五名。どこの大企業にもいるような重役、といった平凡的で、特徴の無い顔つき。白髪頭もいれば、綺麗な禿頭もいる。一様に、苦虫を噛み潰したような不機嫌な面構えだった。
 それから、校医ほどの年齢の若い男女も、全部で五名。その中には、先ほど意識を失っていた涼太の姿も確認できた。彼らは壮年達が大企業の重役なら、こちらは期待の若手、と言ったところだろうか。若いが、浮ついた所は一切無く、抑制が利いている所作の持ち主であると、座っている姿勢からだけでもそれが伺えた。
 皆、一様にスーツを着ている。唯一明菜だけが、この部屋で格好だけ浮いていた。
 「皆、お集まりかな?」
 壮年と若者は互いに向かい合うようにして並んでいる。校医は、若者達の側に並び、明菜だけが、どちらにもつかず、両者から一定の距離を置いているが、彼女の正面に机を挟んで委員長が立った。
 「ここにお集まりの諸君。本日、こうして集まってもらったのは、他でもない」
 と、委員長は一旦言葉を区切った。
 「先ほど、在校生の服部が校則を犯し、我々卒業生と接触してきた。のみならず、我々に対し、全面戦争を仕掛ける用意があるという、事実上の宣戦布告をした。道中、奴らに襲撃されたが、確かに、敵の準備は万端、整っていると見受けた」
 委員長はぐるりと、場の全員を見回した。
 「本日、ここに、集会を開いたのは、君達卒業生の意思を図るためだ。校則の、集会施行規則第二条三項に基づき、我々はどちらの側にもつかず、中立であることを宣言する。ここに開いた集会は、君達の意見合意の場だ。長らく保留にしてきた結論に辿り着いてもらうために、この場を用意した。議論は君達で進めろ。我々は、君達の意見や結論が、校則に沿うか、沿わないかの判断のためにここにいるだけだ。君達が卒業生との戦いを選ぼうと、黙殺を決め込もうと、それは我々の感知することではない。さあ、初めてくれたまえ。だが、その前に紹介したい者がいる」
 彼は無言で明菜に視線を投げた。
 「挑戦者だ」
 全員が、無言で明菜を見た。
 「自己紹介を」
 委員長がそう促す。
 「紅明菜と申します。挑戦者か何かは知りませんが、どうもこの場は、私には場違いなようですね」
 「君にも関係は大いにあるのだよ、明菜君」
 と、委員長。
 「我々も、自己紹介しよう。まず、君の左手に並んでいる男達は、委員会のメンバー達だ。私はその長、つまり委員長。言っておくが、我々委員会のメンバーに、名前など無い。かつてはあったのだろうが、もう忘れてしまった。我々はそれほど永劫の昔から、この校則を守るという使命を帯びたのだ。選ばれたのだ。逃れることのできない運命というやつだ。そして君の右手にいるのが、既に言葉だけは耳にしていると思うが、卒業生達だ。彼らには、名前がちゃんとある。一人一人に紹介させよう」
 まず・・・・。
 明菜から見て一番奥に座っている眼鏡の男がゆるりと立ち上がった。短い髪を、リーゼントでオールバックに撫でつけ、かなり背が高い。端正な顔立ちは、それだけで都会でホストやモデルのスカウトが寄ってきそうだった。
 「笈川美鶴です」
 眼鏡を微調整しながら、彼は名乗った。
 「一応、卒業生の代表、ということになってます。ひとつ、よろしくお願いします」
 と、軽く会釈してから笈川は着席した。
 続いて、その隣。
 「溝口邦治です。よろしく」
 やや髪の毛を茶色に染めた粗野な外見は、ゲームクリエーターなど、自由業で食っているようなタイプに近かった。それでも、動作は折り目正しい。
 溝口の隣。
 「無道涼太です」
 ここに来るまでの彼のひと悶着を、明菜は当然知らぬ。先ほどまでは、錯乱し、憔悴しきっていた涼太だったが、今は健康的な、艶のいい顔つきを取り戻していた。見た目では、恐らく、この中で一番若いだろう。悪く言えば、彼の顔つきは童顔なのだ。体格や背丈で言っても、やや、他の者には見劣りする部分はある。
 それから、涼太の隣は・・・。
 「紫邑玲子です。今は、某大手企業で秘書を」
 艶めく、肉感的な身体を隠そうともせず、むしろ誇示するようにして立ち上がった玲子は、値踏みするような目で明菜を見た。この時ばかりは仏頂面だった委員会のメンバー達が、委員長を覗いて、ただの助平な本性を剥き出しにして食い入るように彼女に注目した。
 最後に、校医がゆるりと立ち上がった。
 「私は・・・・・、いえ、やはり駄目みたいですね。まだ、自分の名前が思い出せません。私の立場は少し特殊で、一応、卒業生の一人ではありますが、同時に、委員会側にもいます。これからどうぞ、よろしくお願いします」
 同じ女性でも、玲子と校医はまるで異なる存在だった。全身から艶めくオーラを放つ玲子と違い、校医のそれは、純粋な癒しのオーラだ。男達が欲情の下に玲子に群がるとするなら、校医の下に集うのは、広い意味合いで病める者なのだ。
 「では、互いの確認が済んだところで、本題へ移ってもらおう。笈川君。君が進行したまえ」
 委員長の指示に、はい、と笈川は返答した。
 「委員長も仰られたように、本集会は、我々のために特別に催されたものだそうだよ。話を聞いたとき、君たちは知らないが、僕はとうとう来たか、と思ったものさ。確かに、我々はずっと、在校生との正面からのぶつかりに難色、というか、結論を出さずに来た。それは、僕のミスでもある。結論を保留した最大の理由は、純粋に力の差だからだった。なぜなら、僕らが、外のことばかりに目を向けている間、在校生達は己の力を蓄え、強化することだけに専念してきたからだ。そこにすべての差はあった。確かに、僕らは在校生達と、衝突はしたが、それは根本的に彼らと戦ってきたことを意味しない。ただあれは、その場凌ぎに過ぎない対処だった。だからこそ、今・・・・・という話になるが、僕にしてみれば、遅かったと思うね。今、彼らと正面から戦っても、勝てる望みは薄い。はっきりと言わせてもらうが、これが僕の今の意見だ。君たちはどう考えている?」
 沈黙が落ちた。それは重く、深くい海の底のようであった。
 「明菜さん、我々も、遥か昔は多くの仲間がいたんだよ。我々は、ずっと在校生との戦いを避けてきたわけじゃない。一度か二度、正面からの戦いをした時がある。外の世界が、争いと、混乱に満ちていた時だ。そう、丁度、今の状況のようにね。千年紀。千年紀に一度、世界が、入れ替わる。今が丁度、その千年紀にあたっている。学園祭の儀式が、世界を入れ替える力を持つのが、丁度、今なんだよ。だが、同時に、もし、今回の千年紀に、学園祭を崩壊させることができれば、すべてが覆る。千年紀ごとに、我々は在校生と文字通りの戦争をしてきた。だが、外の世界の混沌を味方につけた奴らの力はあまりにも強く、戦うたび、我々は追い込まれ、仲間は減っていった。最初は拮抗していた我々の力は、千年紀の学園祭を減るたびに開き、ついには、我々が全力を出しても、追いつかないほどになってしまった。だからこそ、我々は、在校生との正面からの戦いを避けた。ぶつかれば、負けることは分かっていたからね。そして、尚悪いことに、今回が、丁度、十回目の千年紀だ。もし、今回の学園祭が成就すれば、世は完全に覆る。人間と魔は入れ替わり、人間は遥か永劫の暗闇に閉じ込められ、二度と出られない。外の世界を徘徊するのは呪われた存在だ。在校生がこの時期に全面戦争を仕掛けてきたのも、このすべてが入れ替わる時期に、我々を完全に潰して、世界を裏にしてしまうためだ」
 重い沈黙を、瞬時に破ったのは、溝口だった。彼は続けた。
 「代表が言うように、確かに我々には、在校生に勝つだけの力はもう無い。それに、もし勝っても、学園祭自体を滅ぼさない限り、次の在校生はまた現れる。キリが無いんだよ。だからこそ、我々は外の世界に望みを託すことにしたんだ。学園祭を食い止められる人間が現れるのをね。数多くの素質を持った者達が、現われ、ここへ来たが、誰もが失敗だった。だからこそ、我々はあなたに期待している」
 「それは、本集会の意図とは違う話だぞ、溝口君」
 と、委員長が嗜めた。
 「在校生からの宣戦布告を受けるか否か、をここでは審議してもらう」
 「お言葉ですが、委員長」
 と涼太が口を開いた。
 「我々の意思は、とっくに決まっていると言っているんですよ。そんなことは、今更こんな場を設けなくても、既に、遥か昔から決まっていたことです。問題は、我々だけでは、戦えない、ということです。この機会をずっと待っていた。だからこそ、我々は沈黙を守った。意思は決まっているのに、それを表明できなかったんだ。皆、辛かったはずです」
 「でも・・・・・・待ちたまえ」
 笈川が場を沈めるように、冷静な声を出した。
 「まだ、彼女が、我々の期待に沿う人物かどうか、決まったわけじゃない。すべては、試練を越えてからだ。結論を急ぐのは、早計だと思うがね」
 「確かに」
 納得の表情を浮かべたのは、玲子だ。明菜を見る値踏みするような視線は、ここへ来てさらに濃さを増したようでもある。
 「諸君。本集会の趣旨としては、卒業生が在校生からの宣戦布告を受けるか否かで話を進めてもらうつもりでいたが、どうやら、その調子では、意見はまとまったと見た。我々、中立を守る委員会としては、その決定を、在校生へ申し伝えるが、異論はあるまいね?」
 「はい。ですが、この挑戦者が、試練を終えてからでも差し支えはありませんか?その・・・・校則違反でしょうか?」
 笈川は慎重に、懐を伺うような物腰で委員長の目を見た。
 「校則は、あくまでまとまった意見を公正に相手に伝えることだけを規定しておる。何時までに、という具体的な規定は無い。常識の範囲内で保留せよ、ということだろう」
 「ありがとうございます」
 と、笈川は頭を下げた。
 「半日待つ。試練の成功、失敗に関わらず、卒業生の意思は在校生にそのまま伝える。それで構わんね?」
 「構いません。もし、彼女が失敗しても、開戦するからには、負けると分かっていても最後まで誇りを持って戦います」
 笈川の力強い言葉に、他の卒業生も、力強く首肯した。
 「半日。今からきっかり半日だぞ」
 時間は午前四時を指していた。
 「分かりました」
 卒業生が一斉に席を立った。
 「一緒に来て下さい」
 と、笈川が明菜に声をかけた。
 明菜を含む六名は、そのまま職員室を出た。委員会のメンバーだけが静かにそこに残された。
 「今度こそ・・・・とは思いますかな?」
 委員長は、他のメンバーに声をかけた。
 「いい加減、私は疲れましたよ」
 内の一人が深いため息を漏らした。幾千年分のため息だったのだろうか。
 「私もです。そろそろ孫と戯れたいものだ」
 「ええ。私にももうすぐ孫が」
 「おお、そうですか。それはめでたい」
 「もし、彼女が成功すれば、漸く我々も解放されるということですな」
 その確認の言葉に委員長はしばしの沈黙を含ませてから答えた。
 「無論です。私もそう強く願いたい。やりたいことが山のように溜まってますからな」
 


 既に・・・・。
 六人は、とある建物の前まで移動していた。
 長い階段が伸び、柱として巨大な円柱が配された白い建物は、古代の神殿を思わせる荘厳な作りをしていた。何かの記念館か何かのようだ。
 「図書館よ」
 と言ったのは玲子だ。
 高校の図書館にしては、あまりにも豪奢過ぎる作りだったが、ここでは常識は通じないと明菜は思い直した。“こちら”では、適正なのかもしれない。
 「校長の力の源の魔道書、通称、バーンズダイクはここに眠っています」
 校医は長く続く階段を見上げながら言った。
 「ここから先を進むのは、あなた一人だ」
 笈川は例によって眼鏡を微調整しながら言った。
 「僕らはここから先、一歩でも階段に足をかけることはできないから」
 「じゃあ、その魔道書がどこにあるかだけでも教えて頂戴」
 「僕らには分からない。司書が管理してるからね」
 どこか小馬鹿にしたように及川はせせら笑った。
 「それじゃ、何のために揃ってここへ?見送りに来たっていうのかしら?」
 「違うわ。封印のためよ」
 「私が怖気づいて逃げないために?」
 「そうだと言いたいけれど、違うわ。この建物から悪しきものが溢れ出さないために、私達が入り口に結界を張るのよ」
 対抗意識をむき出しにして、玲子は言った。だが、明菜の関心はその言葉にあったようだ。
 「悪しきものって?」
 「僕が説明しよう」
 玲子に割ってはいるようにして笈川が言った。
 「試練に挑む間、この建物はいわば、封印が解かれた状態になる。魔道書自体が、闇の産物だからね。その闇から、さまざまなものが溢れ出す。放っておけば、外の世界と共鳴し、世界を暗黒へ導きかねない。だから、その間、食い止める作業が必要になるのさ」
 「図書館には魔物でも住んでるっていうわけ?」 
 「まあ、そんなところね。正直、私達も図書館の中を知らないの」
 「へえ。ここの卒業生なのに?よっぽど本を読むのが嫌いだったのね」
 皮肉を込めて明菜は言った。
 「ここは委員会すら手が出せない言ってみれば独立行政区域なんです。すべて図書館司書がここを管理しています。試練にしても、私達はあくまで仲介役に過ぎません。挑戦者の来訪を、司書に伝える。その結果を司書から受け取る。ただそれだけです」
 校医は表情を曇らせた。
 「分かったわ。時間も無いみたいだし、とにかく行けばいいのね」
 言いながら、既に明菜は一歩を踏み出している。
 何の停滞も障害も無く、その身体は入り口のガラス扉まで到達していた。とは言え、時間はまだ夜明け前。誰かがいるはずもなく、鍵が開いているはずも無いが・・・・。
 扉は、開かれた。
 来るものは拒まず、というわけね。
 素早く、明菜は中へと潜り込んだ。
 とても、高校の図書館とは思えない。いくら常識では測れないからと言ってもこれはあまりにも不可解な豪華さだ。
 赤い絨毯が床を縦横無尽に走り、それには手の込んだ刺繍が。値打ち物と知れる代物だ。平然と土足の進入を許すその神経はいかほどのものか。
 書架もそうだ。金色で出来た書架にずらりと並ぶ書籍の数々よ。館内がいくつもの階層に分かれており、黄金の書架は天井近くまで組まれている。凄まじい数の蔵書。眩暈がするほどだ。天井は、円形のドーム型。採光ガラスというのか、それにはステンドグラスが使われている。
 淡い光が、館内を満たしていた。遥か深遠の叡智を封じ込めた神殿のように、完全なる静寂がそこにはある。いや、そこはまさに深遠の叡智を封じ込めた場所だった。ここへ招かれたものは、その瞬間から既に、値踏みされ、選別されているのだ。ここに相応しい存在か、否かを。
 とりあえず、明菜は検索用の端末を探した。これだけ広い図書館だし、今の図書館には検索用のコンピューターくらいはあるはずだ。
 だが、見当たらなかった。付近をいくら捜しても、それらしきものは一台も無いのだ。
 「ちょっと。冗談でしょ?この中から探せっていうの?」
 うんざりするほどの量だ。本は嫌いじゃないけど・・・・。
 とりあえず、手近な棚に近づいてみた。
 「これは・・・・」
 黄ばんだり、痛んでいる背表紙ばかりがそこには並んでいるが、不可思議はそのタイトル。
 どれも、読めなかった。英語でもなければ、その他の欧米言語でもないし、それ以外の地域の言語でもなさそうなのだ。明らかに、高校生が読むものではない。
 他をざっと見てみる。だが、どれも同じだった。恐らく、ここに所蔵されているものは、どれも、判読不能な異界の書物ばかりだろう。一般人の用に供するものではありえまい。
 「何かお探しですか?」
 明菜が途方にくれたその時、声がかかった。
 見ると、通路の奥に、ほっそりとした人影が立っていた。その姿は、まるで陽炎のように頼りなく見えた。
 「本を探しているんですけど・・・」
 「ここに来る者は、皆、何かを探しているものです」
 まるで説教をする宣教師のような口調で陽炎は言った。
 陽炎が近づいてきたのか、明菜が近づいたのか。
 両者は互いの姿が確認できる距離まで、何時の間にか詰め寄っていた。
 白髪頭の、初老の男だった。きちんとスーツを着込み、両手には百科全書のような分厚い書物を開いたまま手にしている。銀縁の眼鏡を神経質そうにかけ、書物のページを繰る指は、細く、骨が透けて見えそうだった。指だけではない。全体的に痩身なのだ。
 「バーンズダイク・・・・とかいう本、ありますか?」
 「ございますとも。それではあなたが挑戦者、ですか。お待ちしておりました」
 「では、あなたが司書?」
 「そうです。お探しの本はこちらに」
 あっけなかった。本さえ見つければ、後はそれを破るなり、焼くなりすればいいんでしょ?試練なんて言うけど、簡単だわ。
 司書は予想に反し、書架ではなく、鋼鉄の扉の前に明菜を導いた。
 取っ手には厳重な鎖による封印。野獣か何か閉じ込めているみたいだった。
 「表に並べきれないものはこちらに保管してあります」
 そう言うと、司書は懐から、鍵の束を取り出した。古めかしい、さび付いたような細長い鍵が幾本も一つのリングから吊るされている。そのうちの一本を、彼は鎖を結わえている錠へ差し入れた。
 「表の本は、一体何?題名すら、全然読めなかったけど」
 「古の時代に発禁、または焚書扱いにされた魔術書の数々です」
 「そんなものがどうして、高校の図書館なんかに?」
 低く、重いものが胎動するような音を立てて、錠が外れると、同時に、扉を覆っていた鎖が、一斉に解けた。
 「話を聞きませんでしたか?ここはあの学校の中であり、外でもあると」
 「つまり、ここは学校の図書館であり、そうじゃないってこと?」
 「まあ、そんなところですな」
 細い手が、分厚い鉄の扉を押した。
 ぎぎ、っと、軋んだ音が、長きに渡る封印を物語る。つんと、かび臭い匂いが漏れ出した。
 扉の向こうには・・・・・。
 長大な、そして膨大な数の書架、そしてそこに並べられた本の数々。表の蔵書の数も凄いが、こちらはさらに上を行っている。遥か天井にまで棚が伸び、一番上が霞んで見えないほどだ。
 司書は先導して明菜を中へ招き入れた。
 相当長い間封印されていたようで、本には埃が積もり、蜘蛛の巣が随所に張り巡らされている。並べられている本のタイトルは、やはり読むことはできなかった。
 「これも魔術の本?」
 「はい。すべて発禁、焚書になり、焼き尽くされるところを回収し、こちらに収めた原本のみがここにあります」
 薄暗い書庫の中を進む司書は、後ろから見ると、まるで冥府からの使者のような妖気が漂っていた。細身の身体といい、青白い血色が悪い肌といい、その掠れた声といい・・・。
 「愚かな為政者では、魔道に通じる書物を扱うことはできません。読むことすら適わないのです。だが、欲の膨れ上がった彼らは常に力を欲する。己がその器でないことにすら、気づこうともしない。いくら、人の世で頂点を極めても、魔道の世界では、幼児のレベルにすら及ばないのです。結果的に、権力を極めた為政者すべてが堕落し、破滅したのは、己の力量に違わぬ魔の世界に手を出したが故。魔術の書は、使うべき者だけが使えばよろしいのです」
 「じゃあ、今もお得意が沢山いるわけ?」
 「人の世を動かすのは、人ではありませんからね。人は常に、傀儡に過ぎません。それに、そんなことは私にはどうでもいい。ここに居、莫大な書に埋もれ、永劫の時間を過ごすことだけが、私の至上の悦び。ここだけが私の世界なのですから」
 迷路のような通路を、何回も折れ曲がり、明菜がとうに方向感覚を失った頃、司書は立ち止まった。それから、居並ぶ書の列に向き合うと、細い指で背表紙をなぞる様にして動かす。
 その指が不意に止まった。
 分厚い一冊を、枝みたいな指は指していた。
 これが。
 これが・・・・・?
 「バーンズダイクです」
 と言って、司書はその分厚い書物を棚から引っ張り出した。
 分厚いだけでなく、大きい。さらに、書には厳重にも幾本もの鎖が巻きつけられており、ご丁寧にその上からは護符が幾枚も添付されていた。
 「お受け取り下さい」
 極厚の一冊が手渡された。
 重い。思わず取り落としそうになるほど重かった。
 「お探しの品、確かに手渡しました。これより、試練が始まります。その書を破壊し、ここを出、再び、入り口のホールへと辿りつけば、あなたの勝ち。そのいずれも適わなければ、それはあなたの敗北であり、同時に死でもあります。では、再びお会いするのを楽しみにしております」
 何時の間にか、声だけが響いていて、司書の姿は消えていた。この、薄暗く、不吉で不気味な書庫に、明菜は一人、取り残された格好になった。
 「破壊・・・・ね」
 呟いてみたものの、どうすればいいのか、明菜は決めかねていた。
 右腕の力・・・・・・。
 それは、ここへ来て、今の段階になっても、まだ取り戻された気配を見せていなかった。相手は本だから焼くなり、破るなりすればいいと思っていたけど・・・・。
 さらにこの鎖と護符による厳重なる封印は、いかにこの書が危険なものであるかを、あからさまに示しているようだった。確かに、鈍った感覚でも、ひしひしと、寒気にも似た痺れを感じる。
 とりあえず、本を外へ持ち出してから考えよう。
 動き出そうとして、明菜は愕然とした。
 足が・・・・・。
 沈んでいく。コンクリートの中へと。
 まずいわ。このままじゃ・・・・。
 咄嗟に彼女は、バーンズダイクを元の位置へ戻した。万が一を考えて、本があった位置を覚えていたのだ。
 すると、奇怪な埋没現象は収まり、彼女の両足は再び、コンクリートの上に立っていた。
 「・・・・なんてこと。本を棚から取り出すことすらできないの?」
 でも、と思いもう一度試みてみようとして、不意に、明菜は上方を見上げた。
 薄暗い闇の上には、ここからでは見えない天井が広がっているのだろうか。
 明菜はそこに確かに、気配を感じた。同時に、嗅覚が生臭い匂いを捉える。
 何かがいる。
 そう思った時には、既に天井に感じていた気配は消えていた。と、言うより、移動したと見るべきだろう。いずれにしても、動きは素早いらしい。
 まずいわ。今のままじゃ・・・・。
 頼みの右腕に、力は無い。このまま敵に襲われたら、待つのは死。
 本よりもまず、書庫内にいるであろう敵を片付けるのが先決と踏んだものの、策は無かった。
 「・・・・いるよ・・・・・・お傍に・・・・・・・いるよ・・・・・」
 不気味な、うめき声のような声が聞こえてきた。
 どこからか。方向は分からない。
 「おまえの匂い・・・・・覚えたね・・・・・もう逃がさないね・・・・・・・その本に手垢付ける奴は・・・・・・食べちゃうね・・・・・」
 匂いが迫ってきた。
 生臭い匂い。
 咄嗟に、飛びのいた反射神経を、自分でも誉めたくなった。今しがた立っていた地点が、深々と陥没している。
 だが、攻撃はどこから?偶然、避けられたに過ぎないことは、自分がよく知っている。
 ハア・・・・・ハア・・・・・・ハア・・・・・・・・・・ハア、ハア、ハア・・・・・・・・・。
 不気味な吐息が、書庫内に響いていた。すぐ近くにいるようで、遠くもある。敵はどいつで、一体何者なんだろうか。
 驚異的な視覚・・・・・夜でもある程度の視界は利き、加えてその動体視力は弾丸の軌跡すら見切る・・・・も、右腕の力無くしては使えない。
 「その本に近づく奴は、皆食ってやったね・・・・・・。だから・・・・おまえも食うよ」
 過去の挑戦者は皆、失敗したと聞くが、すべてこの、姿の見えない謎の敵の仕業だったということだろうか。
 明菜も、同じ運命を?
 不意に、何かが足首に巻きついたかと思った刹那、明菜の身体は中空へ舞い上がっていた。
 足首に絡みついたものの正体を見極める暇も無く、そのまま地面へ叩きつけられる。
 「・・・・・ぐッ」 
 身体が引きずられたかと思うと、凄まじい力が加わり、明菜は書架へと叩きつけられた。が、書架は不動の壁のように、全く動かなかった。
 明菜はそのまま何もできずに、二度、三度と床や書架へ叩きつけられた。
 右腕の力の消失は、受けるダメージをも増大させるようだった。全身がバラバラにされたような衝撃によって受けたダメージで身体を動かすこともできず、明菜はそのまま宙吊りの格好のまま、ゆるやかに天井の虚空へと引き上げられていった。
 意識が遠のき始めても、近づいてくる生臭い匂いだけはハッキリと分かった。どうやら、足首に絡み付いているのは、そいつの舌らしい。抵抗もできないこのままでは、待つのは食われるという運命だけだ。
 「人間にしちゃ・・・・・・旨そうだ。これまで・・・・・・食った人間で・・・・・一番、旨そうね。そのまま食いたいけど・・・・・勿体ない・・・・・。下味付けて・・・・・・それから味わうね・・・・」
 闇から不気味な声が響くと、べっと、何かが明菜に吐きかけられた。
 白濁の、腐臭にも似た粘液が、彼女の全身を汚した。
 それから、するすると、明菜の身体は地面へと下ろされた。
 いつ、いかなる現象によるものか、周囲の光景は変化を見ていた。
 そこは、書庫ではなかったのだ。
 もっと明るければ、その水は緑色に濁っていると分かっただろう。極限まで煮詰めたかのように、濃厚なその色が、鼻につく汚臭を放つのは、当然と言えた。
 地下のプールだった。プールサイドには、放置された椅子やら浮き輪やら、掃除用のブラシやらが転がっている。蜘蛛の巣がそこら中に幅を利かせていた。
 明菜もまた、プールサイドに転がされていた。全身に浴びた、あの嫌な匂いの粘液は、何時の間にか硬化し、彼女を捕らえる拘束具として機能していたため、動くことができなかった。全身に力を込めても、びくともしない。
 とりあえず、まだ生きているわね。
 とは言え、状況が悪いことに変わりは無い。食われることが先延ばしにされただけだ。
 脱出を、との考えはまず当然のように浮かんだが、どこかで無駄という声がして、確かに、と明菜は納得もした。脱出とは、今居る場所がどういう場所か、確固たる理解の下に成り立つ行為なのだ。したがって、ここがどこか分からぬ今は、脱出など考えるだけ無意味なのだ。
 そもそもは図書館の書庫にいて、それが今は地下のプールだ。場所の繋がりに、あまりにも脈絡が無さ過ぎる。書物を手にした瞬間の敵の攻撃。間違いなく、今の状況は連続線の上なのだ。
 せめて、身体さえ自由にできたら・・・・・。
 と・・・・、何かが明菜の耳朶を打った。
 これは・・・・・・。
 悲鳴?
 耳を澄ませて良く聞き耳を立てなければ分からないが、確かに悲鳴のようなものがどこかから聞こえてくる。
 薄闇の中に目を凝らし、周囲を見てみる。
 入り口のようなものが見えた。悲鳴はどうやら、その辺りから漏れてくるらしい。
 誰が他にいるのかしら・・・・。
 とは言え、こんな場所にいるとしたら、どうせロクな目には遭っていないだろう。ややくぐもった悲痛な叫びもそう告げている。助けたいけど、生憎自分も、近々似たような境遇を辿るかも・・・。
 声の主、そしてその状況を確かめようとする欲求は、意外な形で実現を見た。
 這って行こうとしたところ、何かがするすると、入り口らしき四角い闇から伸びてきたのだ。
 舌だ。
 まるでそれ自体が、軟体動物であるかのようにして、舌は的確に明菜に近づいてきた。その表面は、味は無論だが、敏感な感覚器官でもって、触れたものが何であるかすら、持ち主に伝達できる。
 逃れる術もなく、ぬるぬるとした粘液に塗れた、生臭く、生暖かい舌に包まれるようにして、明菜はずるずると、引きずられ始めた。
 程なくして、明菜は、薄暗い小部屋のような場所に連れ込まれていた。
 更衣室、と知れるのに時間がかかったのは、そこが、異形の巣窟となっていたためだ。
 蜘蛛の巣、と言うよりは何かの繭みたいな白い粘着質の物質が部屋全体を覆いつくし、腸のような器官が、パイプのようにして這い回っては、蠕動し、体表から黄色い粘ついた汁を滴らせている。それが、また、鼻が曲がりそうな悪臭で、明菜は思わず吐きそうになった。
 だが、真に吐くべき対象は、その排水ポンプみたいな腸から転がり出た明らかに人間と思しきものだった。
 体表は何かによって溶かされているようでぬめぬめとし、一部からは骨が露出している。髪の毛の長さから、女と知れたが、自慢の髪も、半分ほど削げ落ち、眼窩は窪み、唇は溶けて歯茎が剥き出しになっている。右の耳も失われていた。
 それでも尚・・・・喘ぐような動きからして、まだ、この女は生きていたのだ。
 と、不意に、虚空から何かが伸びて、女の身体を絡めるや、闇の中へと引きずり込んだ。あの舌だ、と明菜はすぐに知れた。
 すぐに、耳を覆いたくなるような悲鳴が轟く。腸が激しく蠕動する。何かがその中を移動しているかのように。悲鳴は・・・・・その中から聞こえた。そして、何かがまた、転がり出たかと思えば、それは、また、あの女だった。
 「・・・・咀嚼・・・してるの?」
 おぞましい光景以外の何者でもなかった。女は繰り返し、繰り返し、この闇に潜む捕食者によって、その体内に放り込まれ、消化液を浴びせられ、また吐き戻されるという拷問にも等しい苦を受け続けていたのだ。どれくらい、その苦しみは続いているのだろう。そして、これからまだどれくらい続くのだろう。この状態から見て、もう長くは無いだろうが。なら、次は・・・・・。
 「・・・旨そうな人間・・・・・め・・・・を・・・・覚ましたね・・・・・・。なら・・・・・もう・・・・・この食べ物に・・・・・用・・・・・無いね」
 あの、不気味な声が響いたかと思うと、舌が息も絶え絶えの女に撒きついて、またも、闇の中へと引きずり込んだ。
 だが、次に響いた悲鳴は、明らかに今までとは違っていた。そして、先ほどは聞こえなかった新しい音が加わっている。
 食らっているのだ。今までは丸呑みだったのだろうが、今度は、歯・・・あるいは、牙を噛み合わせ、肉を引きちぎり、骨を砕き、文字通り、食らっている。血がこぼれ出し地面を叩く音、肉や骨が散らばる音。闇の中でもそれだけは分かった。そして、あの悲鳴は、断末魔の悲鳴だったのだろう。
 「・・・・くッ」
 吐きそうになるのを、明菜は堪えた。部屋に篭る熱気、それが濃厚な悪臭をさらに増す。そこに、濃厚な血臭が混ざり合い、到底耐え難い、汚臭となって充満したのだ。
 ハア・・・・ハッ・・・・・ハア、ハア・・・・・・・ハア、ハア。
 あの不気味な吐息が迫りくる。その度に、モワっとした悪臭を催す口臭が吹きかかる。
 何か、生暖かいものが近づいたと分かると、それは、ずるりと、明菜の身体を這った。
 舌だった。
 そのまま巻き取られ、口の中へ放り込まれると思いきや、それはただ、明菜の身体を舐め回しただけに留まった。
 だが、それだけではなかった。
 明菜の身体を束縛していた、あの硬化した粘液が、舌の愛撫によって、溶けたのだ。
 動ける、と思ったのも束の間。
 「はあああッ・・・・ああッ・・・・」
 痺れにも近い感覚が明菜を襲った。
 身体が溶け出してしまうような、凄まじい快感が全身を走りぬけたためだ。
 ありと、あらゆる箇所が、快楽にわなないている。乳首は硬くそそり立ち、肢体は濃厚な体液をとめど無く分泌し続けた。指先は震え、開きっぱなしとなった口は涎を垂れ流す。目尻が潤み、涙が流れ出した。
 そのような快楽の前には、逃げようという意思すら、緩やかに溶かされていく。
 そして、やがて待つ、死の運命すらも、緩やかに・・・・。
 この法悦の中では、たとえ貪り食われても、気づかないかもしれない。
 それと言うのも、明菜の正常な感覚は、既に、崩壊を始めていたからだ。
 目くるめく、悦楽は、無数の肉との交わりあいという姿で、視覚を占めた。男は無論だが、そこには女も含まれている。
 そのすべてが、天上の愛撫であった。無数の舌が、指が、身体を這いまわる。明菜も、無数の男根を掴み、口へ含んでは、舌を絡ませた。同性の口付けも自ら進んで受けては、その秘所へと指を進入させた。
 吐き気を催す悪臭は、至高の香水のような香りとして嗅覚を惑わせた。
 そこは、快楽の園と言えた。花々が咲き乱れる、色彩豊かな楽園。晴天に上る太陽は、決して沈むことは無く、その威光の下、無数の肉と肉が、契りを交わす。あらゆる淫楽に溺れ、それが堕落を意味しない世界。すっかり溶けた脳髄は、それが幻であることすら認識できない。
 実際・・・・・。
 明菜を死が包囲していた。
 そこは、楽園などではありえず、薄暗い、悪臭立ち込める死の園だ。闇に潜み、今も姿を見せぬ捕食者は、息がかかる距離で、いつでも、彼女を自由にできるのだ。そして、その明菜は、幻想と現実の境界を逸し、無数の愛撫による快楽を、自らの指で実現させていた。一心不乱に、秘所への抜き差しを繰り返し、もう一方の手で、こねくり回すようにして、乳房への愛撫をする姿は、何時の間にかレザージャケットすら脱ぎ去り、全裸だった。今の明菜は、悶える無防備なただの餌に過ぎなかった。
 そしてついに・・・・・。
 その身体に、舌が緩やかに巻きついた。
 辿るべき運命は、一つ。
 揺ぎ無き、その運命に従い、明菜は舌に巻き取られ、闇の中、恐らくはそこに待つであろう、捕食者の口の中へと運ばれた。
 と・・・・。
 何かが、明菜の中でざわめいた。
 いや・・・・・。
 そのざわめきは、この、死臭立ち込める小部屋に連れ込まれた時点で薄々、彼女が感じ始めていたものだった。
 今、そのざわめきが、再び、彼女の意識を叩いた。まるで、覚醒を促すかのように。
 始めは、胸の奥で、疼くように、心臓の高鳴りとして自覚された時、明菜は現実を取り戻した。だが、その時には既に、生暖かい舌に取り込まれ、いよいよ、という段階だ。そこに気づいてから、時間経過で言えば僅か一瞬。ほんの、僅かなまさに一瞬の間に、予感に過ぎなかった胸の奥の鼓動は全身へ広がった。その刹那、時が止まったかのようだった。
 先ほどまでは、吐き気を催すほどの悪臭でしかなかった、濃厚な血臭、死臭が、どこか懐かしい香りに感じられ始めた。心臓の鼓動は、その香りに敏感に反応し、いよいよ高まりを見せている。
 不意に、どこからか声がした。
 それは悲鳴だった。苦痛の叫び声だった。苦痛のうめき声だった。忌まわしき呪詛の文言であった。世への、生に対する未練の訴えだった。
 今や抗議し、主張することすらできなくなった、まさにそれは亡者の声だった。無数の声が、渦を巻くようにして、闇の中に響いているのだ。聞こえると言うよりは、それらは正しく、流れ込んできた。耳からだけではなく、全身から。
 苦悶の声はやがて、感覚としても明菜を刺激する。ただの声が、全身の毛穴と言う毛穴から取り込まれた時、それは肌を焼き焦がすような、灼熱の痛覚でもって、彼女を包んだが、痛みを感じたのは僅か一瞬で、すぐにそれは、産毛が逆立ち、鳥肌が立つほどの、得体の知れぬ興奮となって昇華された。心臓の鼓動が連動するように高鳴り、今にも爆発してしまいそうなほどに、血流は加速する。
 やがて・・・・・・。
 明菜は心臓の鼓動が、ざわめきが、右腕に宿るジンジンとした熱のようなものに移り変わるのを感じた。 
 刹那。
 明菜を取り巻く世界にも、変化が生じていた。
 それは現か、幻覚か。
 薄闇は、底知れぬ真の闇となり、その癖、はっきりと、黒々と渦を巻いているのが分かった。狭く、湿りきった小部屋が、何の仕切りも、区切りも無い、解放された空間へと変じている。
 それは空だった。黒々とした、雨雲よりも何倍も黒い闇が、ぐるぐると渦を巻いている。今にもそこから、大粒の雨と、雷光が迸らんばかりに。
 だが、降り注いできたのは、無色透明な雫ではなかった。
 赤く、時に黒い雨粒は、正しく、血に違いあるまい。
 黒々とした闇が、暴風雨となって、世界を包んだ。明菜は呆然と、その猛威に曝されるより他無いかのように、動けなかった。
 落ちてきたのは、赤い雫だけではない。
 悲鳴が。苦悶の叫びが。恨みの哀歌が。
 堕ちてきた。
 正しく、雨粒に乗せられて。
 それだけではない。
 何か、硬いもの。 
 ああ、それは肉片ではないか。人のものとも、獣のものとも知れない、肉の欠片は、嵐に乗り、次々と、明菜の身体に叩きつけられていく。
 数多の死。そこにあったのは、そこで渦巻いているのは、数多の死だった。
 降り注ぐ、鮮血の豪雨が成したものなのか、何時の間にか、地には大海が生まれている。明菜は、胸の半ばまで、水に漬かっている。
 しかし、正しくは、それは大海であり、それとは異なっていた。
 水は、渦を巻いている。空に浮かぶ闇のように。それは水であり、水ではなかった。何かが入り混じり、煙とも雲とも、霧とも、靄とも付かぬ不可思議な何かとなって、ぐるぐると、とぐろを巻いているのだ。
 天でも、地でも、渦巻く闇は、その中で何かの激突を生み出しているようだった。闇の中に存在する何か、小粒なものが互いにぶつかり合い、火花を散らす。
 細い腕のようなものが、明菜に絡みついた。だが、そうかと思えば、すぐにそれは離れ、別の異質なものが、足元を掠めていく。
 叫び声が、足元から立ち上る。うめき声。あるいは、痛み。しかしかと思えば、その中に混じるは紛れもない、誕生の産声もある。
 そこに表出していたのは、混沌だった。異質なものが、形容しがたいもの達が、ぶつかり合い、化学反応を引き起こし、鬩ぎ合い、ひしめき合う闇だ。そこから生まれるのは何か。起こされる変化は何か。すべての生命も、そうやって産声を上げたのではなかったか。原初の生命はすべて、そこから来たのではないか。
 明菜が見上げる中、天が・・・・・・堕ちてきた。あるいは、明菜を包む闇が上昇したのか。
 いずれにしろ、天と地は、ここに混じった。 
 凄まじい暴風圏の中に、明菜は取り込まれた。鮮血の雨粒が、細かい高速の水滴となって全身を叩く。遠心力洗濯機の中に放り込まれた洗濯物の心境だった。見るものすべてが、色濃い闇に包まれたが、その癖、はっきりと、渦巻く混沌の闇の中で生じている現象が見えた。
 捕らえ所の無い煙のようで、液体のような闇の中では確かに、何かが生じようとしている。ねっとりとした濃厚な闇と闇がぶつかり合い、時折、闇以外の鮮やかな色彩が生じるも、それは一瞬の火花のようにして生まれては消えていく。そのたび、悲鳴や産声のような声が起きるが、それもやはりすぐに消えた。
 だが、何かが、もがいているのだけは確かだった。様々なものがぶつかり合い、犇めいているのだ。そしてそれらは、その同一線上の競争から早く抜け出そうとしている。少しでも自分が頭一つ抜け出そうとして、もがいて、暴れて、叫んでいるのだ。闇と闇がぶつかり、濃密な液体となって、あるいは、気体となって、または固体となって、少しでも、それに即した存在として結実しようとしのぎを削っているのだ。紛れもない、それは混沌だった。生まれては消える雑多な統一の無い世界。秩序を認めず、嫌悪し、排除する世界。
 そこには、決められたデザインによって生命が、存在が生まれたという理論は戯言や妄言に成り下がる。ここには、型どおりに生まれ来るものなど、どこにも無いのだ。デザインや、型を、渦巻くものたちは認めない。何かと、何かがぶつかり、その結果として派生してくる予期せぬ何か。闇に、混沌に意思があるかどうかは別として、それこそ、この渦の中では道理なのである。
 その闇の渦の中では、明菜すらも、何時の間にか分解され、消えていた。あるのは、認識だけだ。そして、彼女自身も、絶え間ない新しい誕生のための争いに、否応無く、巻き込まれていた。
 激しい、恨みにも似た渇望。
 生まれたい、抜け出したい、という欲求の塊。
 押しのけ、ひしめき合い、勝ち取りたいという生命全てに備わっている根源的欲求。全ての命は、その欲求から逃れることができない。性と性が出会った、そのレベルから既に、命はしのぎを削り、争い、蹴落とし合ってきた。線虫のレベルからだ。やがてそれが成長し、一つの固体となってからも、やはり、結実した命と命は、戦い、鬩ぎ合い、争い、抜け出そうと、勝ち取ろうとする性からは自由になれなかった。
 その根源的な欲求が、この闇の中で生じている。ありとあらゆる存在が、この闇の渦巻きの中で、自身の存在証明を打ちたてようともがいているのだ。明菜もまた、その凄まじい妄念の前に、押しのけられ、蹴りつけられ、押しつぶされようとしている。
 抵抗なき、力なきものに待つのは、ただ消え去る運命だ。その屍の上に、また新しい屍が築かれ、一番下の屍など、誰も記憶すらしない。ただ風化するのみだ。
 圧迫され、凄まじい苦しみが明菜を包む。何かが流れ込んできて、存在の火をかき消そうとする。このままでは消えてしまう。次々と、我先にと、周りを取り囲み、犇めく群れたちが、何かに向かって殺到する。その凄まじい勢いが、力の奔流となって、明菜を一斉に飲み込もうとする。
 もがいた。抵抗した。
 だがどうやって?
 抵抗すべき肉体も無く、武器も無い。それでも、明菜は無我夢中に、あるはずもない何かを振るって、もがいた。意識の中では、明菜は周りで蠢く何かを押しのけ、振り払っていた。ただ、単に押しのけ、突き抜けようとするだけではない。そこにあったのは、生への欲求でもあった。むざむざ足蹴にされ、消え去るのではない。その中でもがき、押しのけ、少しでも存在意義を主張したい。たとえ頭一つ抜け出せなくても、何かを押しのけ、跳ねつけ、吹き飛ばせるだけの力はあると証明するのだ。
 そんな意思すらも、最後に生まれ出でることができなければ、無意味に等しいと笑う奴がいても、その意思がやがて、目の前の障害を一つ一つ乗り越え、打ち勝ち、ついには、辿り着くこともできるかもしれない。いや、すべてはそれでしかあり得ないのではないか。生まれ出でたいということは、つまりは、死にたくないということとイコールなのではないか。
 ただ振り払い、もがくだけの抵抗が、何時しか、押しのけ、先へ進む渇望へ変わり始めるのを明菜は感じた。もがき、切り開きながら、先へ、先へと進んでいく。無論、易い進撃ではない。壁のように立ちはだかるもの、津波のように左右から攻め込んでくるもの、競争相手は明菜のみにあらず、自分以外のありとあらゆるものが敵とあらば、そこかしこで壮絶な押し合い圧し合いだ。それらが生み出す、様々な力場が明菜を取り囲み、閉じ込め、押しつぶそうとし、消し去ろうとする。それらすべてを押しのけ、切り開き、進まなければならないのだ。
 出口も、光も見えない。ただ闇だけがそこにある。進んでも進んでも、切り開いても切り開いても、押しのけても押しのけても、虚しい手ごたえのようなものばかりを感じるだけだ。どこへ向かおうとしているのか、何が待っているのか。先の見えぬ奮戦に、気力が先に音を上げそうになるところだが、不思議と明菜は違った。
 ただ、進むだけ。押しのけるだけ。
 ただ、ただ、そうするだけだった。抵抗し、もがき、諍う。先に待つものに思いを馳せることもしない。ただただ、そうするだけ。
 やがて、その営みをしている自覚すら消え去り、ありとあらゆるものが緩やかに同化してくる感覚だけが残る。鈍く、粘ついた濃厚なる液体のようなものの一部に成り果てたかのように。しかし、その感覚すらもいつの間にか消えて、最後には認識のみが。
 地すべりのように、吸引されるように、渦巻く闇が、降下を始める。
 何かの一部になり、そこに取り込まれた明菜は急速な落下を感じる。そこは淘汰された者が待つ無明の地獄なのだろうか。
 凄まじい地鳴りのような音がする。悲鳴が、叫びが、そこに乗る。断末魔の声に似ていた。
 吐しゃ物のような残骸が、流れの上に浮かび上がる。明菜の認識もまた、その上にあった。急速に、排水溝に引きずり込まれるようにして、深淵を下降していく。そのあまりの落下の早さに、何かを掴もうと、虚しい抵抗をしてみようとするが、何も出来なかった。ただただ、落ち行く自己を、他人事みたいに傍観することしかできずにいた。
 何かが押し寄せ、降りかかってくるが、先ほどのように力ある包囲ではない。単に残骸の波を被っただけだろう。
 正しく、それは波のようだった。正面から、それは押し寄せてくる。下降の感覚も同時にある。不可思議な感覚だ。
 直後、まるで宙に放り出されたように感じた時、押し寄せる残骸の波が、明菜を包み込んだ。
 苦しい。溺れてしまう・・・・。
 もがくにもがけない。浮上もできない。このままでは・・・・・・。
 と、思った時、身体が潤うのを感じたような気がした。
 津波のような、奔流が、次々に、身体の中に流れ込んでくるような。
 波はいつしか、再び渦を巻く闇に変じたが、少しずつ、その渦が、明快な形を作り出す。
 血と、骨と、肉を持ち、混沌の中心より、生まれ始める存在があった。
 伸ばした手が、虚空にある何かを掴み、引き寄せたと感じた直後・・・・・・・・・。



 「打ち込み終えたかな?」
 笈川はぐるりと、図書館の建物を一周してから確認するようにして尋ねた。
 溝口、涼太、玲子、そして校医。四人の卒業生は無言で、あるいは軽い相槌で完了を合図した。
 先ほど四人は、チョークのような棒状の物体を、図書館の周囲、丁度東西南北の地面に打ち込んだばかりだった。
 「さて・・・・」
 笈川は荘厳な図書館の入り口を仰ぎながら言った。
 「我々は、我々の戦いをするとしようじゃないか」
 他の四人も、笈川が見つめる方向を注視した。
 そこに一体何があるというのか。あるいは、そこから何かが来るとでも言うのか。
 「雲行きが、怪しいわね」
 玲子が視線を空へ移した。すっかり闇の色だが、流れる雲の姿は確認できる。今は不吉な灰色に濁っている。
 「いつもの空じゃあ、無いね、確かに」
 笈川は同意を示した。だが、表情は少しも揺るがない。
 「それだけ、魔の力が強大ってことか。やれやれだ」
 涼太も、首は振っているが、口元には不敵な笑みがあった。校医のみが、無言である。
 不気味なほど、辺りは静まり返っている。表面的には、いつもの夜の、いつもの静けさ。しかし、ビリビリとした、強烈な酸味、あるいは強烈な放電にも似た、空気の震えだけは偽れない。意図せずして、それは、卒業生達に冷や汗をかかせるほどのものだった。
 「そろそろ・・・・・かな」
 と、笈川が言った直後、凄まじい揺れが辺りを包んだ。
 だが、揺れたのは、図書館の一帯だけのはず、と彼らは知っている。その揺れは地震計にも記録はされず、ニュースにもならないだろう。
 まるで巨人の足踏みのような、激しい揺れは、なかなか収まりを見せなかった。その激しい揺れの中でも、卒業生達の誰一人、地面に膝をついている者はいない。五人は全員、身体が地面に固定されたかのように、直立不動の姿勢を貫いていた。
 意識は揺れには無い。もっと別のもの・・・・・。それに向けられている。
 何か、黒々としたもの。それが、図書館から溢れるようにして膨れ上がっていたのだ。
 「始めるぞ!」
 笈川が叫んだ。
 全員が、両手を前方で組み、目を閉じた。
 「我らは鎮魂の神々なり。慈悲と、抱擁の女神よ、不浄なる大地に恵みを与え、四位の鎮守を光の気線で結び給え」
 五人が同じ文言を、同じ早さ、声量でピタリと調和して斉唱した直後、図書館の周りに打ち込まれた棒が眩い輝きを放ったかと思えば、一筋の光がそれぞれの棒から放たれて、それぞれの棒を結び、図書館全体が、極彩色のベールで包まれた。
 すると、図書館から染み出してきた黒いものが、すごすごと退散を始める。激しい揺れも、収まりを見せた。
 しかし、五人の表情に安堵の色はまるで無い。未だにその全身からは緊張感が放出され、視線は図書館へと向けられたままだ。
 と、再びあの、激しい揺れが一帯に生じた。
 ぐらりと、五人全員がバランスを崩す。先ほど見せた不動の姿勢に、あっさりと停滞が生じたのだ。だが、辛うじて地面に倒れるのだけは防げた。
 「全員、集中!」
 笈川が合図するように叫ぶ。
 「バランスを崩しても意識は乱すな!漬け込まれるぞ」
 地面の揺れに呼応するように、再び図書館からは何かが這い出そうとしていた。
 「自分の結界棒に意識を入れろ。涼太、集中が弱い。もっと意識を向けろ」
 図書館全体を包む、ベールの輝きが濃さを増した。黒々とした何かは、その光に退けられ、後退しようとするも、まだその場に踏み留まっていた。
 ぐおおおお、と咆哮のような雄たけびが轟く。それにより、ベールの輝きが弱まった。這い出そうとする闇がその範囲を広げてくる。
 「乱すな。押し返せ」
 全員が目を閉じる。地面に打ち込まれた棒を結ぶ光に、再び力が戻り、薄められたベールが、色を取り戻す。
 だが、すぐに盛り返してくる闇に、結界の輝きはまたも弱められる。
 一進一退だった。 
 と、不意に相手の抵抗が止んだ。全身にかかる負荷が一気に消え去り、五人は揃って身体の力を抜いた。
 「いきなりこれ?」
 玲子はどうにか呼吸を整えながら言った。玲子だけではない。五人全員が、千メートルを全力疾走した後みたいに息を切らしていた。
 「で・・・・一体、どうしたってんだ?」
 涼太が言っているのは闇の突如とした後退のことだろう。あのまま行けば、押し切れたはずだったのに、なぜ引いたのか・・・・。
 「これで終わりのはずは・・・・無いな。見ろ」
 溝口は建物の頭上を指差した。
 夜の闇より、さらに濃いのではないかと思える漆黒の雲が、渦を巻いていた。みるみるそれは、面積を拡大し、夜空へ拡散していく。全身に寒気を伴う嫌な湿気がまとわり付いた。目に見えない邪悪な何かが、図書館から漏れ出しているかのようだった。それは、結界すら歯牙にかけず、一帯の空気を邪気で汚していった。
 凄まじい衝撃が五人に叩きつけられたのはその直後だった。五人は揃って地面へ叩き伏せられた。全身を高圧電流が突き抜けたような痺れと痛みが包んでいる。
 そして図書館の中から、再び、漆黒の塊があふれ出そうとしていた。そいつが蠢くたびに地面が激しい揺れに見舞われる。まるで檻に閉じ込められた獣だ。解放を叫んでいる。自由を求めている。
 「マズイ・・・」
 ふらふらと、笈川は立ち上がった。他のメンバーも続いてよろよろと起き上がる。ダメージは思いのほか、大きいようだった。
 一方の敵は、そこから怒涛の攻撃を再開した。
 大型ブルドーザーが何十台も荒れ狂っているような轟音と振動に図書館が揺れ、今にも崩壊しそうになった。
 五人は精神と意識を集中し、結界に力を込め始めた。
 だが、極彩色のベールは輝きを取り戻さず、四本の結界棒を繋ぐ気線も弱まり、今にも切れてしまいそうだった。
 敵の怒涛の盛り返しに、五人が押されていた。辛うじて、押しのけられずに済んでいるのは、最後の最後まで残された集中力の残滓故か?
 と、不意に溝口が額から鮮血を吹いた。
 直後、彼は後方へ大きく吹っ飛ばされた。前方で何かが砕けたような音がしたような気がした。
 正しく、結界を繋ぐ気線が崩壊したのだ。同時にそれは、結界の無効化をも意味した。
 崩壊した結界では、正面から押し寄せる怒涛の攻撃を防ぐことなど適わない。巨人の平手で殴られたように、他のメンバー達も次々に、額から鮮血を吹いたかと思えば、後方へ吹き飛ばされた。
 ただ一人、校医を除いては。
 「後は任せて」
 「しかし・・・・」
 どうにか起き上がった笈川は異を唱えようとしたが、それは校医により一蹴された。
 「中途半端な力で抑え込もうとしても、自滅するだけです。結界棒はすべて破壊されてしまいました。この状況で敵を押さえ込めるのは私だけ」
 笈川は再度、何か言おうとしたが、既に背を向け鉄壁の集中へ埋没している校医を見て止めた。
 結界、防御、癒し、庇護。校医のこの手の能力に関する力を知っている上では、杞憂な心配かもしれない。
 だが、四本の結界棒を破壊し、術者を吹き飛ばすという、かつてない力を持った強大な魔だ。いかに校医と言えど、一人で抗し得るかどうか。
 「なかなか、盛り上がってるようだな?笈川」
 不意に、背後から声をかけられ、愕然と笈川は振り向いた。
 ずらり、と呼ぶに相応しい人数の、特攻服に身を包んだ男達・・・・。
 在校生。
 そしてその中心に位置取る男・・・・・。
 「服部か」
 名前を呼ばれ、服部は薄気味悪い笑いを浮かべた。顔に走る生々しい傷跡が、さらに強調されるような笑い顔だ。
 「だらしのない連中だな。教育がなってないぞ、笈川”先輩“」
 地面に転がっている笈川、涼太、玲子の三人を見下すようにして服部は言った。
 「おまえこそ、どうしたというのかな?聞くところによると、校則違反を犯したそうだが?」
 一瞬、沈黙が落ちたかと思えば、服部は狂笑した。
 「校則違反・・・・だと?俺が校則を守らないのは、今に始まったことじゃ・・・・・ねえだろうがッ!」
 不意に、戦闘は開始された。
 服部が凄まじい勢いで飛び掛ってきたのだ。
 「・・・・ふん」
 在校生達を鼻で笑うようにして、笈川は右手をすうっと前方へ伸ばす。
 掌を地面に向けるようにして開いた刹那・・・・。 
 在校生達が、一斉に中空へ吹き飛んだではないか。
 服部も、また。
 彼らはただ単に吹き飛んだのではない。
 まるで、重力が逆転したかのようにして、空高く消えていく。
 「フォーッ!おもしれえじゃねえかッ」
 だが一人。服部だけは、その攻撃を受け付けず、中空で身体を捻るや、上空から笈川に襲い掛かってきた。
 一瞬、笈川に動揺が走った。
 それが、反応を遅らせた。
 服部の一撃を辛うじて交わした右肩口が裂け、そこから鮮血が流れ出していた。
 「あんたの技は、とっくに研究済みなんだよ、先輩」
 笈川に一撃を与えたもの。それは、服部が右手に持っている鋭いメスだった。
 「いつまでも、あんたの技が通じると思うなよ」
 血が付着したそれを、不気味な舌使いでなめ取りながら服部は言った。
 「なるほどね・・・」 
 だが、当の笈川も、冷静なものだった。眼鏡を指で押し上げる余裕すらある。
 「だが、気づいているかな?この場所で我々を襲ったということが、いかに性急で軽率な策だったかということに」
 「減らず口を叩けるのも、今のうちだぞ」
 服部が動いた。一瞬、残像が残るような素早さで。
 右手に握ったメスが煌いたかと思えば・・・・・。
 舞い散った鮮血は、笈川のものか、あるいは服部のものか?
 首筋を押さえていることからして、今度の一撃は服部が受けたようだった。
 「なかなかいい切れ味の手刀だな」
 五指を揃え、腰を落とした構えのまま、笈川は動かない。
 「だあが、俺のメスとどっちが切れるかな?」
 不意に、メスが伸びた。
 だが笈川は動じずに、裂ぱくの気合の下に・・・・。
 手刀でメスを叩き折ろうと右腕を振り下ろす。
 硬い手ごたえを感じたかと思えば、すぐにそれは、硬質な感触を消失し、軟化して、蛇のようにして切っ先を笈川の右肩へ突き刺したのだ。
 何時の間にか、目の前に服部が迫っていた。
 彼はメスの柄を握るや、勝ち誇った笑みを浮かべた。
 「終わりだ」
 メスは元の長さと硬さを取り戻している。服部は、突き刺さったままのメスを握る手に力を込めて、笈川の身体を右斜め下に深々と切り裂いた。
 「ぐおおおおッ」
 凄まじい量の鮮血が噴出し、容赦ない返り血を服部に浴びせる。笈川は絶叫に身体を震わせて、その場に崩れ去った。あまりに急激な傷のためか、その身体はビクビクと小刻みな痙攣を繰り返している。
 「ふん」
 動かない笈川の頭を、右足でぐりぐりと踏みつけつつ、服部は周囲に目を転じた。 
 その時だ。
 「・・・・ぐおッ?!」
 その身体が、中空へ吹き飛ばされる。
 果てしない上昇。抜け出せない?!
 遥か下、地面を見下ろした。 
 笈川を取り囲むように三人の人影が見える。
 溝口、涼太、玲子は、遥か彼方に消え去る服部を見上げ、それから。
 「堕ちる!」
 中空から一点、何かの塊みたいなものが、隕石の如き速力で落下してきた。
 服部と知るのはこの三人のみか。
 クレーターほどの陥没穴を残し、彼の身体は地の底深くまで埋没したようだった。
 「代表は・・・・?」
 血溜りの中で動かない笈川を三人は異常なほどの冷静さで見下ろしていた。
 「寸前で、五本目を打ち込んだようね」
 その足元には、白いチョークのような棒が打ち込まれていた。
 「ここは既に、校医のテリトリーの中・・・ってことか。なら、安心だな」
 「それより、奴は・・・?」
 涼太の安堵を遮るように、溝口が、穴の底を見つめた。
 「あれでくたばりゃしねえだろうな」
 その言葉を実証するかのように、陥没穴から、鋭い亀裂が四方へ走った。
 「飛べ!」
 それが誰の合図だったか、三人は一斉に中空へ逃れた。
 亀裂は中空にまで追ってきた。空間に亀裂が走ったかのようだった。
 だが、それは三人を最後まで追いきることはできなかった。
 亀裂の軌道が、変化したかと思えば、途中で霧散したためだ。
 直後・・・。
 陥没穴から何かが飛び出してきた。打ち出された弾丸を思わせる速度で、服部が、中空の三人に迫った。
 ダメージは・・・・・。
 ほとんど無いに等しい。土埃や、衣服の擦り切れはあるが、実質それだけだ。
 目は殺意のみに塗りつぶされている。
 右手にはメス。
 逆襲が始まりだ。
 「膾にしてやるぜえッ!」
 服部はメスを振るった。ただ、振るっただけに見えた。
 だが、攻撃範囲は異様に広かった。一瞬、虚空に残された銀色の斬線は、正しく、三人の首筋にまで届いていたからだ。
 首を吹き飛ばす一撃は、目的を達することはできなかった。それは、僅かな引っかき傷程度の傷を、残すに終わった。
 「だから言ったろ。この場所で我々を襲ったことが、いかに性急且つ、軽率な策だったかってね」
 愕然と服部は背後を見た。 
 笈川は、悠然とそこにいた。胸に残された斬線は、どこにも見当たらない。
 「さっき、終わりだ、と言ったね。では、同じ言葉をそっくり返そう」
 卒業生が、攻撃に移ろうとするより一瞬早く、服部が仕掛けた。
 その首へ、再度、必殺の切っ先を切り込むべく。
 一瞬笈川にも油断が生じたためか、彼の反応が僅か、遅れた。その僅かな時間で、服部には十分だった。
 メスの刃は、深々と笈川の首筋へと突き刺さり、込めた力は容易に、頚動脈を断つはずだった・・・。
 だが、服部のメスは笈川の首に刺さるどころか、その切っ先はまるで鋼鉄にでも挑んだかのように折れた。
 「もう一度言おうか。終わりだ」
 「そうかな?」
 服部はニヤリと笑った。武器を失い、劣勢にありながらも、この余裕は何だ?
 刹那、空間が殺気と殺意に満たされたように思った。
 瞬時に、四人の周りに黒山の人だかりが沸いた。
 中空に出現するは、在校生。まさに軍勢と呼ぶに相応しい数だ。手には各々、凶器を携え、いつでも獲物を血祭りにあげる準備は整っている。放出される殺意は、そのまま服部のものが乗り移ったかのようだった。
 フレアにも似た狂気が、空間を徐々に侵食していく。
 あり得ないことだった。
 校医の展開する結界の中において、これほどまでに別のオーラを放ち、拡散させられるとは・・・・。
 静かな動揺が、卒業生を包み始めた時、世界が灼熱に包まれた。
 虚空の中で業火が荒れ狂った。渦巻く殺意が、そのまま炎として表出したかのように。
 在校生達が、自身のフィールドを展開させたのだ。
 数が数だけに、その力もまた強大で、校医の結界を徐々に上回り始めていた。
 「気をつけろ!」
 一度、在校生のフィールド攻撃を受けている涼太は叫んだ。
 あの、胸が、心臓が燃える悪夢のような痛みは、生涯忘れることはないだろう。
 「心配は要らない。確かに、こいつらの力は増大しているが、それでもまだ、この結界が破られたわけじゃあないんだ」
 笈川はひしひしと迫る殺気のフレアに、肌を焼かれる感覚を得つつも、まだ冷静だった。一度、死の世界に足を踏み入れ、だが、校医の結界により再び、こちら側の岸に戻ったことが、校医の結界へ絶大な信頼を寄せる根拠となっているようだ。
 「その前に、決めるぞ」
 在校生が仕掛けたのが先か。
 卒業生が仕掛けたのが先か。
 どちらとも言えぬ、開戦だった。
 殺意の群れに対峙するは、たったの四人。
 両者がぶつかった刹那、どちらとも無く、中空で舞った。
 大群の在校生は、蜘蛛の子を散らすように。
 数で劣る卒業生は、もう少し地味だったが、それでも、吹き飛んだ。
 まだ、両者の力は拮抗している証左だった。世界は確かに、地獄の灼熱に染まっているが、四人だけは、青白い仄かな輝きに包まれ、苦悶や、痛みから自由だった。
 地獄の苦しみか、聖母の癒しか。
 相容れないオーラを纏った両者が激突するたび、虚空で激しい火花が散る。あるいは、稲妻か。逆巻く炎か。それは、龍の身体だったのかもしれない。
 事象が捻れ、連鎖し、派生していくような戦いがそこにあった。天と、地が、ぶつかり合った戦いのように、一挙手一投足すべてが、世界に影響を与えていくような、そんな激しい衝突だ。振りかざす凶器が、繰り出す拳が、群れの中から繰り出される巨大なエネルギーの塊として噴出し、激突する故である。
 在校生も、卒業生も、リーダー格以外のメンバー単体では、大きな力を備えていない点では共通している。従って、彼らが何よりも強みを発揮するのは集団単位なのだ。集団単位の力が、母集団の力を決めていく。その点で、卒業生は圧倒的劣位のはずだ。だが、一方の在校生は、リーダーたる服部の力が大幅に弱まっているハンデを負っている。
 故に、ここまで両者は互角の戦いを演じている。
 激突の段階では、激しいエネルギーが荒れ狂ってはいるものの、在校生のみでは単なる破壊に留まるであろうそれを、卒業生のエネルギーが相殺することに成功している。
 そんな睨み合いの均衡は、しばし続くかに思われた。
 が、終わりは不意に訪れた。
 地面に打ち込まれた白い棒が突如として閃光を放った刹那、卒業生が繰り出したエネルギーの塊が在校生のそれを上回った。
 正面から放った一撃でそれを受けようとした在校生達が、一気に吹き飛ばされたのだ。凝集して放たれる負のフレアは、ここへ来て乱れ、崩壊した。
 卒業生の四人はさらに踏み込み、追撃する。
 乱れ、体勢を整える暇も、反撃をする余裕すらないままに、在校生は一方的に、四人の巨大な拳の塊にも似たエネルギーの束をまともに食らい、地上へ叩き落されつつ四散した。
 攻撃は当然、先陣を切っていた服部をも、血祭りに上げ、彼は肉塊へ変ずる運命こそ免れたが、手足は奇怪な変形を見せ、全身から血を吹き、肉を捻らせながら地上へ叩きつけられた。生死は不明だが、重傷には違いあるまい。
 頭を欠き、統率を乱されても尚、反撃の余力を残す在校生も居たが、まとまりを失った彼らは、卒業生の前では敵ではなかった。容赦ない追撃を、次々に受け、残党達も、他の仲間と同じ四散の運命を辿る。
破壊の力が荒れ狂って、在校生の軍勢を残らず蹴散らした。巨人の掌に吹き飛ばされたが如く身体を千切らせていくもの、無限に続く反重力の上昇の末に、一気に地面に叩きつけられて粉々に吹き飛ぶもの、蹂躙の方法こそ様々だが、それは一方的な殺戮に他なるまい。
 「終わったかな」
 笈川は感触を確かめるように地上を見下ろした。
 血の海。文字通りそこに血の海が表出している。焦土の上に広がるその光景は、爆撃機の直撃の後はこんな感じになるのか、という感慨を笈川に与えた。二つの力のぶつかりはそれほどに激しく、また徹底していた。
 地上へと降り立つと、校医が四人に歩み寄ってきた。
 「五本目が発動しました。これでしばらくは大丈夫でしょう」
 ちらりと、図書館を見ながら彼女は言った。確かに、禍々しい狂気は鎮まりを見せている。
 「在校生も一掃できたしね」
 笈川は辺りに散乱する肉片を見回しながら言った。濃厚な腐臭が充満し、普通ならとっくに吐いているが、五人には平気だった。こんなものは慣れている。
 と・・・・。
 渦巻いたエネルギーにより、熱気に包まれていた一帯が急激に熱を奪われ、寒気を生んだのはすぐ後のことだった。
 五人が揃って鳥肌と悪寒を生んだ。
 只ならぬ事態、と理解する前に、狂笑が彼らの耳朶を打った。
 よろめきつつ、立ち上がっていたのは、醜悪なボロ雑巾同然となった服部だ。まだ生きているのが不思議なくらいに痛めつけられているのに、彼は何故か死なずに、細く、掠れた声で笑っていた。
 「ついにこいつを・・・・・呼べる・・・・とは・・・・な。我が・・・在校生の・・・・最終兵器・・・・・・ウガンダ」
 声にならない声で、服部は独り言のように呟いた。それから彼は何やら呪文のような文言を繰り出す。
 すると、何やら濃い、影のようなものが一斉に辺りに広がったようだった。
 それは影と言うよりは、むしろ闇に近いものだったかもしれない。
 その闇の広がりが、服部と、在校生の肉片を包むように広がった刹那、彼らがその闇の中に沈んだ。まるで水の中に落ちたかのように。
 影のように広がっていた闇が、巨大な盛り上がりを見せ、小山のような塊と化して、五人の前に聳える。
 闇の表面からは、無数の人の頭が生えていた。それが在校生のものであると知るのに時間は要らなかった。無数の恨みと苦しみと憎しみを込めた形相が、闇の塊から現われて、五人を凝視している。
 その中には、服部も居た。だが、彼だけは腰から上を闇の表面から露にしている。下半身は闇の中に没してはいるが、ダメージは完全に回復していた。
 「我ら在校生の最終兵器、ウガンダだ」
 高らかに服部は宣言した。その手には、折れて使い物にならなくなったはずのメスが握られている。だが、それは、一種の槍の如き形状へと変じている。服部のその姿は、騎馬を駆る、騎士のようでもあった。
 「覚悟しろ。踏み潰してやる」
 愚鈍極まりないように見えた巨躯が、凄まじい速度で突進してきた。
 そいつには、足のようなものもあったのだ。恐竜の足みたいな馬鹿でかいもので、爪、あるいは棘のようなものを指先から生やしている。
 その足が繰り出されてきた。まるで壁だった。 
 五人は造作も無く蹴散らされた。あまりの素早い攻撃に、宙へ逃れる暇すらなかったのだ。
 反転も、鮮やかで素早かった。
 装甲車、あるいは戦車のような素早い突進を、しかし卒業生は中空へ飛ぶことで避けた。
 だが、そいつは既に宙にいたのだ。
 山のような体表から何かが飛び出した。
 鞭のような、触手のようなそれが蝿を叩き潰すようにして五人に叩きつけられる。単なる触手にあらず、それは鋭い切れ味を誇る刃でもあったのだ。鮮血を吹いて五人は地面に撃墜された。
 その上から、巨躯が覆いかぶさるようにして後を追う。
 爆弾に吹っ飛ばされたようにして、五人は爆弾でも落ちたようなその衝撃に吹き飛ばされた。
 あまりに一方的な蹂躙だった。先ほどとはまるで対照的だ。力を統合し、攻撃を繰り出す隙さえ与えず、ウガンダの猛攻は続く。
 五人をまとめて足蹴にし、鋭利な触手で身体を切り刻み、タックルの如き突進で吹き飛ばす。
 「手も足も出まい。このウガンダを止められるものは、誰もいない。ウガンダは、無敵だ」
 服部は勝鬨を上げた。在校生の頭たちも、揃って死と血に酔うかのようにして、狂った雄たけびを上げた。
 もはや動くこともできない五人にトドメを挿すようにして、闇の触手がその先端を、彼らの胴体へ突き刺し、高々と持ち上げた。
 「貴様だけは、俺が直接葬ってやろう、笈川」
 凄まじい殺意に彩られた目を輝かせ、服部は槍のようになったメスの切っ先を、笈川の胸元へ突き刺し、軽々と持ち上げた。
 悪夢のような光景がそこに現出する。
 黒い触手に身体を貫かれた卒業生達は、中空でだらりと身体を垂らし、鮮血を滴らせ、磔にされた骸を思わせた。笈川もまた、狂ったように笑う服部の上で、身体を貫かれた無残な姿と成り果てたのだった。
 薄闇の中に、狂った男達の笑い声と雄たけびだけが、何時までも木霊した。世界が、少しずつ光を取り戻して白んでいく刻に、この光景はあまりにも似つかわしくなく、場違いで、悪夢そのものだった。聊かの光にも屈することないような、ウガンダの体躯は、取り込まれた服部たちの狂乱に連動するようにして大きく身体を震わせた。さらなる死と殺戮を求めるようにして。












ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう