第三章 白色魔宮
辺りが、かりそめの静寂と平和に包まれているように、学校もまた、祝福されたかのような光を浴び、静かに佇んでいた。その様子はまるで、教会か何か神聖な建物のようにして学校を見せている。
そこかしこで火の手が上がり、ガラスが割れ、自転車が車がひっくり返り、そこかしこで、生徒たちがストリートファイトをして、ラップやへヴィーメタルの音楽が彼らを盛り上げるというような、いつもの光景はまるでなく、そんな荒くれ達により破壊された校舎や器物は、今では嘘みたいに修復され、まるで新築同然の佇まいを見せているではないか。
そして何より、異様にして奇怪。
その生徒たちが着ているものは、純白の僧衣なのであった。動きも、所作も、すべてが優雅で、精錬されていて、修道院にいる人々のような、一種の高潔さすら伺える。
「おはようございます、先生」
と、挨拶すらされた。久しく聞いていない類の言葉だった。黒いレザージャケットという、明らかに異様な格好なのに、そのことについては、僅かな疑いすら見せぬ。
この空間においては、むしろ、明菜こそが闖入者なのかもしれぬ。奇怪なのは、生徒ではなく、明菜。
だが、そんな表面的な見かけに騙される彼女ではない。いくら、改心し、根本的な真人間になろうとも、明菜は一切の容赦をするつもりはなかった。
すべてを灰燼に帰するためのお膳立ては整った。無論、そのときを手をこまねいて見ているつもりはなかった。しかし、動きは予想以上に早く、また滞り無かった。予想できたこととは言え、正直、ここまでの段階を迎えたとなると、これから先の行程は容易くはなるまい。
ぐるりと、大回りして、明菜は校庭へと向かった。校舎の隙間を縫うようにして伸びる通路を通っていくと、丁度、校庭の裏側の、バックネット方向に出られる。無論、校庭へ行くには他にもいくつか道があるが、今の場所からでは、正門から見て、位置にして西側の校舎と中央の校舎の間が一番の近道だった。
が・・・・・。
明菜の進行は突如として阻まれた。
見えない壁があるように、とある地点から一歩も先へ進めないのだ。
触れると、一瞬、ガラスに触れたような感触なのだが、すぐにジリジリと焼け付くような熱が指先から伝わってくる。
「結界・・・・」
見えざる壁。それは、何者かが張った結界だったのだ。
腕の力での破壊は可能か・・・・・。
否と判断した。恐らく、腕で攻撃すれば、同じだけの力を弾き返されてバラバラに吹っ飛ぶに違いない。
仕方なく、いつも通り、職員用の正面玄関から明菜は校舎へ入った。恐らく、他の校庭へ続く外からの道には同種の結界が張られているに違いない。
驚くべきは、校内の静けさだった。時計が正確ならば、生徒、教師ともに、通学、通勤の調度ピークに当たる時間帯と言える。校内の喧騒も、一層高まる時間帯のはずだが、この静寂は・・・・。
それだけではない。扉があった場所、窓があった場所はすべて、白い壁のようなもので塗りつぶされていた。進める道は一つだけだった。
背後を見る。
いつしかそこは・・・・・。
白色の魔宮の如き、たたずまいに変容していた。今しがた入った玄関はどこかへ消えうせ、建物全体が、もはや彼女の知る学校の内部ではなくなっている。
それでも、道は一つで明菜を導いているかのようだった。
いくつかの角を曲がり、不意に、目の前に人影が一つ沸いた。
剣道部部長、葛真木だった。
丸めた坊主頭はそのままに、白い僧衣を羽織ると、まさに敬虔な信徒と呼ぶに相応しい姿である。だが、全身から放たれる殺気を隠そうともせぬ様は、やはり神の使徒には似つかわしくなかった。信徒と呼ぶならば、破壊の神に仕えるのが彼だろう。
「どうやらもう、校庭へ行こうとはしてくれたみてえだなあ」
ヘラヘラと葛は笑った。
「無駄だったろ?」
「おかげさまでね」
「校庭へ続く道には、結界がそれぞれの箇所に張られてる。それを解くには、俺たち実行委員会を全員倒さなきゃならないぜ」
「下らない時間稼ぎね」
「下らなくても目的が達成できればいいさ。それにこれは時間稼ぎなんかじゃないぜ。ゲームだよ、センセ」
「男って皆そうね。なんでも、かんでもゲーム、ゲームって言う。まどろっこしいのは嫌いなの。ここで、あんたをぶちのめして、終いよ」
腕の力を解放しようとする。同時に、足は前へ。
しかし、刹那の驚愕が明菜を前方ではなく、その場へ留めた。
「ルールには従ってもらうぜ、センセ。この領域へ足を踏み入れた以上、あんたの好きにはなんねえよ。それは俺にしたっておんなじだ。俺も、ここじゃ力を出せないのさ。俺たちが殺し合えるのは、認められた空間だけだ。これから案内する。そこへ行かない限り、お互いはお互いを殺せねえ」
くるっと、葛は歩き出し、明菜を導き始めた。
彼女も黙って従う。ルールか何か知らないが、力が出ない以上、戦いを挑んでも無駄だろう。
数歩進むとそこは・・・・・。
剣道場だった。
「自分の陣地でやろうってわけね、結局」
皮肉を込めて明菜は言った。
「そうじゃあねえよ。ここが認められた場所だ。俺たちの戦いにとってのな」
入るなり・・・・・。
待つのは、剣道着を身に着けた一団。面だけは外している。
全員が正座し、二人を出迎えた。
「あいつらはウチの連中だが安心しろ。こいつらは参加しねえ」
「それもルール?」
「そうだ。試合には観客がつきもんだろうが」
その一団は身動き一つせずに、二人を黙って見つめるのみだ。観客と言うには盛り上がりに欠ける。
「俺の竹刀を!」
叫ぶと同時に、何かが放られたかと思えば、葛は高々と掲げた右手に、既に竹刀を納めていた。
「私も着替えたほうがいいかしら?」
「言っただろ?俺たちの死合いだ。それぞれのやり方でやる」
「そう。ならば安心だわ」
ぐっと、右手に力を込める。
強大な、力が宿される感覚。
イケる。
ここならば、どういうわけか知らないが、力は出せる。
一方の葛は純白の僧衣を脱ぎ捨てた。
既に!
その下には防具を一式備えているではないか。彼はそれから、つかつかと、道場の端へ進んだ。神棚のようなものが安置されていて、そこに篭手が一式と、面が置かれていた。
それら、残りの防具を備え、ついに・・・・・。
剣道着姿の葛真木が見参した。
見るがいい。その堂々たる姿。国内最強と言うのも嘘ではない圧倒的な存在感と威圧感。
それだけではない。
身に着けた剣道着は、ここに居並ぶ一団のものとは明らかに異なっていた。
銀色の光沢を放つそれは、剣道着というよりは、もはや鎧である。無論、本来の試合でこんなものは身に着けはしない。これは、誰もが始めて目にする、葛の真の剣道着なのである。
その銀色の剣道着が放つ気の質に、明菜は目を奪われていた。
放たれるのは、殺気プラス魔力。
凄まじいオーラが全身から放たれている。
それに竹刀。一見ただの竹刀だが、やはり違うと明菜は看破した。
徒手空拳の紅明菜。
剣道着姿の葛真木。
究極の異種格闘技戦が、ここに実現しようとしていた。
「準備はいいか?こっちは万端だぜ」
「ええ、いつでも」
葛の挑発に、明菜は軽く応じて見せた。
刹那・・・・・。
ぶわっと、風が叩きつけてきたかと思えば、既に目の前に、葛の姿。
振りかぶった一刀は、たとえ面をつけていても防ぎきれぬダメージを与えるに違いないパワーが込められていた。
事実。
辛うじて避けた明菜の前で、竹刀は易々と床を引き裂いていたからだ。防具で防ぐというレベルではない。神通力の宿る防具を身につけた葛の一刀は、頭に受ければ確実にそれを叩き潰し、胴に受ければ確実にそれを切り裂くだろう。
破壊力も破壊力なら、動きも動き。防具を身につけ、これほどの動きができるとは!
驚愕の間も与えぬように、葛は跳躍さえして見せた。
空中から襲う死の一刀は回転していた。トンボが指で目を回されるが如く、一瞬、明菜は硬直した。
刹那、死の一撃は脳天近くにまで既に達していたのだ。
竹刀の回転は幻影。だが、それすら感覚に疑わせぬ恐るべき技である。
さしもの明菜も、反応は遅れた。
待つのは、死か?
だが、彼女の右腕の動きが、一瞬、刃に勝った。
掴んで止めるより、破壊する方法を選んだのは、吉と出るか、凶と出るか。
拳と竹刀が激突した刹那、火花というよりは、軽い爆発が生じ、二人の身体はそれぞれ正反対に十メートルは飛んだだろう。
着地は互いに両足。力は、見る限りでは拮抗していた。
だが、明菜は余裕を持つことを選ばなかった。目の前の剣士の実力を認めた証左だった。一方の葛は、まだまだ、力の片鱗すら見せておらぬような佇まい。それでいて、隙の無い佇まい。普通の試合であったなら、こちらから攻めるのは至難の業であっただろう。下手に攻め込み、反撃を食らうのがオチだ。むしろ、こちらからの攻撃を誘うような佇まいだ。
「なんだ、ガッカリだぜえ。前評判よか大分落ちるな、センセ」
馬鹿にした口調だが、姿勢は微塵も崩さぬ。
「俺が直々にやるまでもなかったなあ。あいつらでも十分相手できて、釣りまで来らあ。けど・・・・・」
すっと、葛は竹刀の切っ先を明菜へ向けた。
「そんなもんじゃあねえはずだよな?」
面の下の顔は笑っていた。
「力の探りあいなんて、それこそまどろっこしいぜ。全力でやらねえ奴は嫌いだ。こいつらにもそう教えてる。全力でやんねえ奴は全身の骨を叩き折って追放ってのが掟だからなあ。だからあんたも、俺がキレねえうちに、力見せたほうが少しは楽に死ねるってもんだぜ?」
明菜は右の拳を握った。少しずつ、腕全体に力が漲ってくるのを感じる。
目を閉じた。己を内観し、闇に潜む、さらなる力の根源を呼び覚まそうとする。
同時にそれによって、腕に明らかな外観上の変化が生じる。
人間にあるまじき巨大化と、鱗のような皮膚の出現、そして、あの奇怪なる文様。
刹那、凄まじい風圧が襲ってきた。
反射的に腕を出して防ぐ。
衝撃は凄まじかったが、明菜の身体は、一ミリとて後方へ動かなかった。だが、風圧を生じさせた葛もまた、その場から少しも動いていない。のみならず、何一つ攻撃らしい攻撃を繰り出しはしていなかった。
殺気、と明菜は看破した。単なる殺気やオーラのみで、あれほどの衝撃波を繰り出せるのだ。相手もまた、力のリミッターを外しつつあるようだった。
葛が竹刀を振りかぶった。
それは、回転していた。全身の感覚を停止させる幻影だ。だが、明菜には通じなかった。
二人の距離は約三メートル。その距離を一気に詰めるようにして竹刀が伸びたように見えた一撃が来た。
その一撃を、右腕が弾いた時、凄まじい激痛が全身を貫いた。
思わず、意識を失いそうになるのを辛うじて堪えたが、立っていることはできず、倒れこんだ。
全身の骨という骨が砕かれているようだった。それだけではない。神経までズタズタにされたらしい。それでいて、命までは奪わぬのはいかなる技か。
「これが俺の技の真髄だ。衝撃で骨と神経を粉々にする。俺に打ち込まれた相手は、皆即、病院送りだったぜえ。だが・・・・」
何時の間にかすぐ傍まで近づいていた葛が竹刀の切っ先をピタリ、明菜の脳天に定めた。
「今はわざと一部、骨と神経を壊さずにおいてる。だから、まだ、あんたは生きてるが、ちょっとでも、俺がこいつでその身体を叩けば、無事な部分も只じゃ済まないぜえ」
明菜は右手を僅かに動かしてみた。右腕だけは、無傷らしかった。あるいは、感覚が麻痺してしまって何も感じないだけかもしれない。それでも・・・・・。
腕の作用か、全身の骨折が、破壊された神経系統が、少しずつ、修復されているのを感じる。相当のダメージらしく、回復速度は僅かではあったが、もう少し時間があれば、戦えるようにはなるだろう。時間があれば、の話だが。
「本当にちょっとだ。力なんて要らねえ。軽く叩くだけで、死だ」
切っ先が動く。
そして・・・・・・。
触れるか、触れないかの距離で、葛が転倒した。
「・・・・・こいつッ」
腹ばいの体勢から、身体を回転させて繰り出した足払いだ。直後、刺すような痛みに、明菜は顔をしかめた。回復は完全ではなかった。
「面白れえ」
葛が打ち込みにかかる。
例え、竹刀を弾いたとしても、衝撃は再び、全身の内部を粉々にすることだろう。次に受けたら、もう、無事では済まないだろう。
「ハアッ」
竹刀の直撃を、辛うじて避ける。風圧で、床が吹き飛ぶ。
次の一撃がすぐに来た。これも、飛び退いて避ける。
次々に、素早い一撃が来る。明菜はそれを、辛うじて、ギリギリの所で避けていた。激しい動きは、ダメージの回復速度をさらに遅くさせる。痛みを抱えながら、何度も、鋭い一撃をかわし続けることはできぬ。
とうとう、明菜は壁際まで追い詰められてしまった。
間髪入れずに・・・・・。
振りかぶられた一撃!
反射的に明菜も拳を突き出していた。
腕全体を包むようにして、青白い炎が噴射する。噴射した炎は拳と共に、振り下ろされた竹刀と激突した。
葛が吹っ飛ぶ。さしもの竹刀の衝撃も、明菜には届かなかったようだ。
しかし、迸る力の直撃を受けて尚、葛は身を起こした。魔力宿る、鎧の如き剣道着が、その本領を発揮したようだ。全身から煙こそ立ち上らせているが、防具にダメージは無い。防具だけでない。竹刀もまた、全くの無傷。
「ふう・・・・すげえ衝撃だな」
胴を叩きながら葛は首を振った。
「だがこれで、この防具の力も分かっただろ?あんたの力は、俺には届かねえってことだよ、センセ」
すうっと、葛が竹刀の先を上げた。
そして・・・・。
明菜との距離はだいぶ離れているのに、見せたのは突きの攻撃。
が・・・。
辛うじて避けた明菜の反射神経を褒めるべきだろう。咄嗟に身を屈めた、その背後の壁に、散弾でぶち抜かれたような穴が穿たれていた。直撃したら、胴体と下半身がまだ無事に繋がっていられるかどうか。
原理は分からぬが、葛は竹刀の切っ先から、気のようなものを圧縮して突きの攻撃に乗せて放ったらしい。
葛が竹刀を切っ先を明菜に向けたまま、腰溜めに構える。もう一発放つつもりだ。
と、思った直後、竹刀が突き出される。
同時に横へ飛んでいた。足の先を、気が掠めて飛んでいったのが分かった。その一撃はまたも、壁に大きな穴を開ける。間髪入れずに、身を起こした時には、葛は既に発射体勢へ移っていた。
間に合わないッ!
硬球が、しかも速球で腹にぶち当たったような衝撃が最初に来た。次に、衝撃は、高圧電流にも似たものへ変じて直撃した部分を起点として全身へ広がっていく。葛が竹刀から放った気は、銃弾のように直接肉体の外部を吹き飛ばすのではなく、内部へ作用して、恐らくは内部からの破壊を引き起こすのだろう。
鮮血を口からぶちまけながら、明菜は壁へ激突して、そこへめり込んだ。
「ほう・・・・」
興味深げに明菜を観察しつつ、葛は感嘆の声を漏らす。
「普通なら、内部から四肢をバラバラにされて吹っ飛ぶはずだが、俺の気を受けて五体満足で居られる奴なんか始めて見たぜ」
と、言いつつも、竹刀を腰だめにして、必殺の気を放つ姿勢へ移る。
「二発受けても、まだ無事でいられるかどうか、試させてもらうぜ、センセ」
二発目を送る必要がないことは、よく分かっている。だが、確実なトドメをさせという己の警告に、葛は素直に従うことにした。相手が五体満足なうちは、殺した気がしなかった。
次で決める。
と、繰り出した突きと、明菜が目を開けたのがほぼ同時。
それから葛は、自身の気が、明菜の右手に叩き落とされたのをしっかりと見た。
ほんの一瞬の動きだったが、紛れも無い実感として、それは人間の動きを超えていた。
「うおおおあああああッ」
もう一度、葛は切っ先から、気を送った。あの動きが、ただの偶然ということもありうる。
しかし、その期待は気と共に虚しく粉砕された。もはや今の明菜には、自分の送り出す気が見えている。そして腕の力も、先ほどよりは格段に増しているようだった。でなければ、ああも易々と攻撃を弾くことなどできないだろう。
葛は明菜の眼を見て愕然とした。それは、見てはいけない目だった。表情だった。
違う・・・・・。
先ほどまで戦っていた相手ではない。これは・・・・・・。
明菜が拳を握る。
それが引き金になったかのように、葛は打ち込みにかかっていた。
竹刀はあっさりと、明菜の右手に掴まれていた。だが、衝撃もまた、明菜の全身へ広がったはずだ。今度こそ、すべての神経と骨を砕きつくしたはず。
なのに、明菜は立っていた。
それだけではない。
「馬鹿・・・・・なッ」
明菜へ送り込んだはずの死の衝撃は、それを放った葛の全身へ広がっていたのだ。
その衝撃が、全身の骨を粉々に砕き、神経系統を引き裂き、彼に死を送り込んだ。
ピクピクと、不気味な痙攣を続ける死体を一瞥し、明菜は道場を睥睨する。
その視線を、正座した剣道着の一団が受けた。
葛は彼らは戦いには参加しないと言った。だが、その葛が倒れ・・・・・。
動くのか。
睨み合いが、数十秒続いた。
と・・・。
明菜の漆黒の殺戮を込めた意思は、当然のようにして彼らへと向けられた。
凶暴な衝動を満足させようとした刹那、急速に明菜の眼光が鋭さを失い、腕の力もまた、勢いを失いつつあった。突進に、急激な制動が加わり、危うくバランスを崩して転倒しそうになるのをどうにか堪えて、明菜は止まった。
彼女の意思によるものではないことは、その表情に僅かに浮かんだ戸惑いから分かる。それはむしろ、外部からの圧力によるものだったようだ。彼女が感じたのは、急速に力を奪われるような感覚だった。まるでそれは、彼らには手出ししてはならぬと、見えない何かからの警告のようでもあった。これも、葛が言っていたルールというやつなのだろうか。
明菜が飛びかかろうとしても尚、動きを崩さなかった彼らは、そのことを知悉していたようだ。彼女には自分達を攻撃できないと。あるいは、彼らには超越した死への意思のようなものがあり、眼前に迫る避けられない死を既に覚悟した故に、達観を得ただけかもしれない。いずれにしても、彼らは不動。その目は・・・・。
あくまでも、平穏な水面のように乱れを見せてはいなかった。しかし、死んでいるわけでもない。高潔なる意思を湛えつつ、何かを見据えた視線は、武道の領域において、辿り着いた者だけが獲得しうるものであった。
明菜は、そのまま、視線に見送られるようにして道場を出た。
剣道着の一団、葛が率いていた剣道部の精鋭達は、それから揃って、葛の死体へ視線を送った。
「部長が負けた」
搾り出すように誰かが呟いた。声は震えていた。
「ああ・・・・、負けた」
別の誰かも賛同する。
「部長が居なくても、我々は最強の剣道部だ」
別の誰かが言った。
「だが、我々は常に部長と共にあった」
同じ者がそう繋ぎ、立ち上がった。他の者も後に続く。
彼らは、葛の亡骸をぐるり、取り囲んだ。外傷のまるで無い死体はしかし、凄惨な形相で断末魔を迎えていた。
「我々は常に部長と共にある」
一人が取り出したのは、小刀だった。
それに倣い、次々と、部員達は、懐から小刀を取り出していく。
「たった今、これより、剣道部は解散する」
誰かが宣言した。
「我々の魂は、これより部長の後を追う」
別の誰かが繋ぐ。
「だが、この行いは、部長には歓迎されぬかもしれぬ。我々の魂は追い返され、彷徨い、出口無き煉獄へ追われるかもしれぬ。それでも、良いと思うものは、刀身へ口付けを!」
誰にも躊躇いはなかった。言われるやすぐに、皆が、短い刀身へ刹那の接吻を交わした。
「では、同志達。向こう側で会おう」
それを合図に、全員が己の頚動脈を、揃って切り裂いた。鮮やかな血の華が咲き乱れ、白い空間に刹那、煙舞うと、そこに満ちたのは新しい死だった。葛に折り重なるようにして、剣道部の精鋭達の死体が次々と倒れこんだ。濃厚な血臭が辺りを染めるのに時間はかからなかった。
一歩外へ出ると、そこは廊下だった。
明菜は胸元を押さえた。
胸が激痛に喘いでいる。胸だけではない。全身の骨や関節が酷く痛んだ。肺は酸欠状態みたいに酸素を激しく渇望している。視界が霞む。頭が今にも破裂しそうなほどに痛む。
力を急速に奪われた反動か、あるいは、強大な力による負荷の掛けすぎか、明菜はふらふらしながらその場で立ち止まり、どうにか呼吸と体勢を整えた。無防備極まりない。こんなところを襲われたらひとたまりも無かった。
廊下が直線に一本続いている。左右に、職員室や保健室、進路指導室が並ぶ。明菜は覚えている。廊下の壁に書きなぐられた油性スプレーの落書きを。明菜は覚えている。破られた窓ガラスに張られたガムテープの補填の跡を。明菜は覚えている。保健室や進路指導室とは名ばかりで、不良たちのたまり場と化していたその部屋の光景を。
だが見るがいい。
ここに、彼女の記憶どおりの光景は、何一つとして無い。
壁の落書きも、割れたガラスも、たむろする不良達も、何一つとして存在はしていなかった。どこまでも、白く柔らかな光に包まれた通路が延び、そこにあるのは静寂と、平穏だけだ。
しかし、それが仮初のものであることを、明菜は知っている。この何の変哲も障害も無い廊下に待つのは、血と破壊による修羅の巷であることを、明菜は知っている。この静かで平穏な世界を取り戻した学校そのものが、仮初であることを、明菜は知っている。
だから、私はここにいる。
すべてを壊し、許されざる者を裁くためにここにいる。
今まで裁いてきた者、誰一人とて、生の享受を甘んじて受けさせてはならぬ者たちだった。だから、彼らの死ごときではもう、私の良心は揺るがない。これからも、目の前に立ちふさがるのは誰であり、彼らを裁いても、私の心は乱れはしない。
私は許されざる者を裁く処刑人なのだから。そのために、私はここにいる。
歩むに従い、明菜の心は高ぶりを見せた。見せ掛けの平和に彩られた殺戮の途上を、綱渡りでもするかのように進み続けるその行程は、揺るぎを見せぬうちに、半ばを越えた。このまま何の障害も無く、渡り廊下まで出られてしまいそうだった。
その気持ちが、明菜の足を加速させた。ついには、疾走さえ見せていた。
が・・・・。
出口を目前にし、彼女は何かに弾かれたようにして後ろへ吹き飛んだ。
見えない壁が、渡り廊下への出入り口にあるようだった。
立ち上がり、手を伸ばした。
冷たい。そして、戻した手は濡れていた。
今まで触れてきた結界とはまた異なる種類の結界らしい。
不意に・・・・・。
背後に気配が沸いて、明菜は振り向いた。
スキンヘッドに競泳用水着。
水泳部部長、滝沢朋宏である。
見事に鍛え抜かれた逆三角形の肉体を惜しげもなく露出し、ゴーグルを着用したその格好は、水気の無い場所で見ると異様としか言いようが無い。
だが、容姿のみが異様とは言えぬ。
全身から放たれる雰囲気は、明らかに魔性のものを秘めていた。この国内最強の競泳アスリートのどこからこのような鬼気が生まれるのか、知らぬ者には生涯分からぬ謎に違いない。
「プールへ誘い出すつもりかしら?」
「いいえ」
剣道部の葛が剣道場なら・・・・と思った先制攻撃はあっさり否定された。
「ここで十分」
「水が無ければ泳げないでしょ?」
この言葉に、滝沢は大声で笑った。
「面白い冗談だな。もしかして、僕と水泳で勝負でもするつもりだった?あなたは、何か勘違いをしてるよ。これは、あくまでも死合いだよ。どっちかが生き残り、どっちかが死ぬっていう死合いだ。そしてそれはもう始まってる・・・・」
不意に、明菜と滝沢の距離が一気に開いた。
何かに後方へ引きずられる・・・・いや、押し流されていると気づいたのは、全身に何かを浴びたような感触を得た時だった。
見えざる水流。
それが明菜を直撃したようだった。
廊下であるはずのそこは、いつしか足すら付かぬ深みへ変じていた。激流に揉まれる感触は、川そのものだった。
身体は水中へ没している。息をしようとするが、浮上できないのだ。凄まじい流れに揉まれているためだった。
濁る視界の中で、すいいっと、何かが浮上を見せた。
ゴーグルを着用した滝沢と分かった。
彼が腕を伸ばす。
首を掴まれた。
左手はそのまま胸元へ叩き込まれる。
水中とは思えぬ、重い一撃に、思わず肺の中の空気の大半を放出してしまった。
酸欠の苦しみが一気に押し寄せてくる。あと一分も持たないだろう。
夢中で右腕を振るった。だが、虚しい手ごたえが伝わるのみだ。水中では、滝沢のほうが圧倒的に有利なのである。さらにおぼろげな視界からすらも、彼は姿を消していた。
浮上に移ろうとする。
頭上から押さえつけられているようにして、身体が少しも上がらない。
もがいた。
もがき続けた。
浮上しようと。わけもわからず滅茶苦茶に四肢を振り回し続けた。
身体は上がらない。それでももがいた。
もはや、肺の中に酸素は尽き掛けていた。それでも、もがいた。その過剰な動きが、酸素の消費を加速させると知りつつも、もがいた。何かがそうやって明菜を突き動かしているかのようだった。もがかずにはいられなかった。
それでも依然、活路は開かれず、酸素だけが刻々と・・・・・。
それでももがく。
最後の最後まで。肺の中の空気の最後の最後までを、もがくために使用し・・・・・。
不意に明菜が感じたのは、固い床の感触だった。
ごほっと勢い良く彼女は水を吐き出した。それから夢中で新鮮な空気をたっぷりと取り込む。
「へえ・・・・」
目の前に、滝沢が立っていた。ゴーグルは着用したままだ。
「よく破れたね」
彼の視線は明菜の右腕に吸いつけられている。
「次元を破る力もあるようだね、その腕は」
明菜が意図せずに行っていたもがきは、あながち無駄ではなかったらしい。そのもがきは、何時の間にか、彼女が飲まれていた激流の壁を突き破り、彼女を解放する力を放出していたようなのだ。
既に呼吸は整っていた。驚異的な回復力と言えた。
そして、攻撃に移る。
思い切り正面から、右手を叩きつけてやるつもりだった。
だが、攻撃は途中で止められた。拳と滝沢の間にある、見えない壁によって。
みるみる、その正体が暴かれる。
水の壁だ。
「無理無理。拳で水は壊せない」
刹那、壁から何かが伸びる。
驚くべきか。
それは、水で出来た腕であった。それが今、彼女の腹部に強烈な一撃を叩き込んだ。
明菜の身体が、軽く三メートルも跳ね飛んだのがその衝撃の強さを物語っていた。
「それが葛を倒した力?軽い軽い」
滝沢は両手を振るった。
その手の中に、一つの武器が宿されている。
さしづめそれは、ウォーターハンマーと呼ぶべき代物か。
先端に巨大な水球。それを、鎖を模ったしなやかな水の連なりが支えている。
跳躍と同時に、滝沢がハンマーの先端を叩きつけてきた。
咄嗟に身を起こして飛び退る。水で出来ているとは言え、その破壊力は鉄球に勝るとも劣らない。床が、派手な飛砕音を残して砕ける。
床へ減り込んだ水球が、不意に跳ね上がった。水製の鎖を手繰ったとも思えぬ奇抜な動きだ。
右腕を使って弾こうとする。だが、そこは水の感触だ。手ごたえは虚しく、あっさりと迎え撃った手は水球の中へ没した。
衝撃だけが、腹部へぶち当たる。鉄球の衝撃そのものだった。
「拳で水は壊せないと言ったろ?」
水球をぐるぐる回しつつ、滝沢は迫った。
だらんと、その先端が垂れた刹那、ボールを蹴るようにして、滝沢の右足が水球を蹴る。
突飛な攻撃に、一瞬、明菜の反応が遅れた。
それでも、辛うじて避けた彼女の反射神経の高さを、ここは賞賛すべきだったかもしれない。攻撃は正しく、頭を狙ってきたのだから。普通ならばこの一撃で終いだっただろう。
「よく避けたね。でも、まだまだ」
それからも、トリッキーな攻撃が続いた。
足で巧みに水球を駆使し、奇抜な角度から加えられる破砕の一撃。足技のみならず、ありえない角度から、位置から、水球は絶えず、明菜を狙い続けた。それをどうにか、ギリギリの位置で避け続ける。それには、高度に研ぎ澄まされた反射神経と運動神経は無論、尋常でない集中力を常に維持する必要もあった。常人には、二分と続かぬ動きだ。
劣勢は明らかだ。攻撃を避けるだけで、受けられない。奇抜なハンマーの動きのせいで、懐へ飛び込むことも難しい。奇跡的な回避も、限界に近い。このままでは、いずれ・・・・・。
「攻撃だけじゃなく、そろそろ動きも封じようか」
不吉な一言が滝沢から発せられた時・・・・。
腹部を狙って飛んだ水球をかわそうとした刹那、反応が一瞬遅れた。
いや、避けられた一撃のはずだ。攻撃は直線的だったし、見えていた。なのに、身体の反応は一瞬遅れ、直撃こそ避けたものの、水球が皮膚を掠めて、浅い擦過傷を残した。
次の一撃が来た。大きく振りかぶられた動作から、水球が叩きつけられるように襲ってくる。
横へ避けようとして気づいた。
反応が遅れた?いえ・・・・。
重くなってる。身体が。これはまるで、そう・・・・。
水中の感覚。
一撃は、辛うじて避けたものの、絶望的な結論に明菜は全身から冷や汗を搾り出していた。
周囲に水は無い。呼吸の苦しさも。なのに、全身を包むこの重さや鈍さは、紛れも無い水中に居る時の動きそのものだった。もう、普通の歩行や動きは困難で、酷く重い抵抗だけが全身を縛り付けている。ふわふわと、まるで無重力の中にいるみたいだ。唯一、呼吸ができる点だけが救いと言えば救いだが。
「さあ、これでもう、僕の攻撃を避けることはできなくなった」
確かに。
こんな状態では、あの素早く奇抜な水球の一撃をまともに避けることなど不可能だ。
「その綺麗な顔を潰して、もう終いだ」
ぐるぐると、滝沢は水球を回した。
来る・・・・・。
右手を握り締める。攻撃を繰り出そうにも、腕が重い。攻撃を繰り出せても、意味ある一撃が加えられるかどうか・・・。
水球が飛んできた。
反射的に、弾かれたように明菜も夢中で右腕を振るっていた。ほぼ、無意識の動きだ。
その結果は分かっている。腕はそのまま、水球に没し、滝沢の攻撃だけが正確に頭部にヒットするはずだ。
はずだった・・・・。
滝沢の顔に、驚愕の色が浮かんだ。
水球は、破砕されていたのだ。
拳はついに、水を破った。
だが、どうやって?
それは紛れも無い。あの激流地獄から明菜を生還させた一撃だった。滝沢の言葉を借りるなら、次元を破る力。
それがここで、無意識に発現を見せていたようだ。
そして、その一撃は水球のみならず、滝沢にも一撃を与えていた。ぐにゃっと、彼の身体が曲がったかと思えば大きく後方へと、その身体は吹っ飛んでいた。
刹那、水中の感覚が綺麗に消失している。
急に世界が重力を取り戻したギャップで、明菜はよろめいたが、すぐに滝沢へ近づいた。一撃は与えたが、命を奪う打撃ではないと拳の感覚が告げている。
トドメを。
と、不意に、滝沢が身を起こす。
拳は丁度、右胸の辺りを突いたはずだが、そこに外傷は無い。ただ、滝沢は大量の鮮血を唇から滴らせている。どうやらあの一撃は、外皮ではなく、内臓へダメージを与えたらしい。
「なるほど・・・・凄いよ・・・ぐふッ」
吐血する。
「内臓がボロボロなのが、自分でも分かる。もう・・・・長くないみたいだ」
しかし、その表情は闘志を失っていなかった。
死相を浮かばせて尚。
「こいつを叩きつけられる相手と、また出会うとはね・・・・。実に・・・・何百年ぶりだ・・・・」
何百年。それが、彼が、いや、彼らが生きながらえていた永劫たる時間だったか。
「砕けろ・・・・・。スーパーノヴァ!」
瞬間、滝沢の全身が爆裂した。
だが、噴出したのは血ではなかった。
水である。
巨大で荒れ狂う、水の壁。まさにそれは、洪水だった。
人類の歴史に、神話として、伝説として語られる大洪水伝説。それはなぜ起こったか。
こういう一説がある。
月にはかつて、まだ水が残されていた。その月に、隕石が激突。月面上のすべての水が宇宙空間へと放出されて、地球上空まで漂い、そのまま地球の重力に引かれて地上へと降り注いだ。それにより、凄まじい大洪水が引き起こされたのだという。
今、まさに。
大洪水と呼ぶに相応しい本流が、明菜を飲み込んだ。その凄まじい破砕流は、飲み込んだものを、何一つ無事に戻しはしないと宣告しているかのようだ。あるものはそのまま深淵へと飲まれて窒息し、ある者は凄まじい衝撃に全身をボロボロに引き裂かれるだろう。
いずれにしても、滝沢が己の命と引き換えに引き起こした大洪水は、そのまま、狭い校内で荒れ狂った。なのに、一滴すら、それが外へ漏れ出すこともない。その水中では、只管に触れる者を引き裂かずにはいられない破壊のエネルギーだけが渦巻き続けていた。
さしもの明菜も、この中で生き続けることはできないように思われた。窒息するか、全身を引き裂かれるかしか、選択肢は無い。水は完全に、室内に満ちているのだ。逃れるという方法はどこにも無かった。
どれくらい、洪水は続いただろうか。再び、陸を蹂躙できた喜びを水が満たしきるまで、まだ時間が必要だった。洪水は、そのまま選別でもあるのだ。引き継がれるべき命と、そうでない命を、図らずもより分けるための、試練。箱舟には、泣く泣く乗せられなかった存在も、いたかもしれない。ありと、あらゆる種類の生命は、どうしても詰め込めず、取りこぼした存在もあったかもしれない。だが、それはそれで、選別の結果なのだ。長い目で見れば、彼らは切り捨てられたのだ。世界の、生命の繁栄には、必要の無い存在であると。
今、この洪水は、明菜をどちらへ導くのか。
彼女は、引き継がれるべき存在なのか。
あるいは彼女はもはや、不要な存在なのか。
やがて・・・・・。
水の破壊神の気が済んだのか、静かに水は、引き始めた。壁や天井、床に吸い込まれるようにして、水は嵩を減らし、消えていく。なのに、壁や床は少しも濡れていない。まるで、水などどこにも無かったかのように。
そして、すべての水が跡形も無く消え去った果てに明菜は・・・・・。
廊下の一番端に、その姿はあった。
うつ伏せの全身に外傷は無い。だが、動かぬところを見ると、大量の水を体内へ取り込んだか。露出する皮膚は青白い。傷の変わりに、腹が醜く膨らんでいる。水死体そのものだった。
明菜は、選ばれなかったのか。
では、選ばれたのは誰だ?何者だ?
そんな疑問は不意に霧散した。
明菜が目を・・・・・・見開いた!
充血しきった目は、今にも飛び出しそうだった。
黄泉の国まで行ったにしては、鮮やかな動きで、彼女は右手を動かしていた。腕は既に、荒々しい破壊の力を取り戻しつつある。
その矛先はどこへ?
なんと、自身だった。
明菜は拳で膨らんだ腹を打った。
と見えて、拳はなんと、そのまま腹の中へと消えていた。
刹那、明菜が、大量の水を吐き出した。大量も何も、人間がこれほどの水を勢いよく、吐き出し続けられるのかという量。取り込んだ水のすべてが、ここに吐き出されていた。もう、右手は腹から抜かれている。
仰向けになり、明菜は咳き込んだ。咳き込み続けた。大の字になって呼吸を整える。新鮮な空気を全身へ送り込んで、血液循環を活性化させて、皮膚の血色を取り戻す努力をする。血流が正しく、正常に脳までめぐり、意味ある思考がまとまりを帯びる。同時にふと、彼女は記憶の再生をしていた。
何かが見えていた。それについての記憶。
何が見えていたのだろうか。ぼんやりと、思い出そうとする。
あの、停止した、紛れも無く停止した脳は、何を見ていたのか。
あの世?異世界?別の国?天国か、地獄か、アストラル界か、宇宙か。
自分の来世か、世界の終末か、未来か、あるいは遠い原始の過去か。前世の記憶か。
あるいは、全く意味すらない記号か、抽象化された図像か。
それとも、死んだ自分か。動かぬ自分を、上の世界から、見ていたのか・・・・。
何にせよ、何かを見た。見えていた。それだけは覚えている。何が見えていたのかを、明菜は思い出そうとしていた。無駄なことと分かっていた。だが、ぼんやりと、それしかすることが今は無い。
それも、意味ある思考がまとまり出すと、止めた。それきり、見えた何かのイメージに関する考えすら、欠片も残さずに消えた。
身を起こす。身体は不思議と濡れていなかった。ただ、吐き出されて床に広がる胃液交じりの水溜りだけが、あの洪水が実在したものであると物語る。
いずれにしろ、敵は一人、片付けた。
今度はすんなりと、扉を潜れた。
渡り廊下に出る。
視界が一気に開けた。
見知らぬ異世界がそこにあった。
何もかもが純白の世界にそれはあった。
おお、それはもはや学校というカテゴリーでは括れまい。あの、特色らしい特色を持たぬ、一見してそれと知れる画一的なコンクリートの外壁。庭の植え込み。教室の窓の群れ。
それらはすべて、奇怪なオブジェにも似た建造物が並ぶ幻想的な庭園へと、明菜を誘った。もはやそこは、彼女が聖職者として束の間の時を経た渡り廊下から望む光景ではない。まるで知らぬ世界・・・・・。まさに、白色の魔宮と呼ぶに相応しい光景である。
不意に・・・・・。
足元の地面が抉られていた。
そこに回転しているものがあった。
黄色いテニスボール。
不意に、それが明菜めがけて飛んだ。辛うじて身を屈めて避ける。ボールはそのまま背後の壁に減り込み、今度こそ停止した。
辺りを見回す。気配すらない。だが、ボールにはまぎれも無い強い魔力の残留思念が焼きついていた。
新手の敵?
「なんだよ、葛も滝沢もやられたのか。情けない連中だぜ」
声が響いた。
「なあ、先生。テニスは好きかい?」
すぐ脇の、渡り廊下の屋根を支える支柱に、テニスボールが減り込んでいる。
「今度は、外さないぜ」
どこから打ってきたのか。
姿も、気配も無い。
「名乗っておくよ。テニス部主将、越後允だ。よろしくな」
直後、減り込んだボールがポロっと落ちた。
「俺は今、スナイパーの気分だ。獲物は先生、あんただ。綺麗な獲物が、ここから丸見えだ」
明菜は走り出した。確かに、このままでは狙い撃ちにされるだけだ。
「そうそう、逃げな、隠れな。狙撃戦と行こうじゃないか。でも、どこへ隠れようが、逃げようが、無駄だけどな・・・・」
声の発信源すら掴めないまま、明菜は走った。どこか、身を隠せそうな場所を探る。
攻撃がどこから行われているのか分からぬままでは、効果的な隠れ場所もないだろう。とりあえず、この場所から離れること。それだけを考えていた。
どこまで走っても、有効的な遮蔽物が見当たらない。のっぺりした、曲がりくねった建造物の群れは、身を隠すには恐ろしく不適当だった。見通しはあまりに良すぎる。そして、この白一色の世界に、黒い明菜は目立ちすぎた。
その間、攻撃は止んでいた。むしろ、嘲笑っているかのようでもある。いつでも狙い撃てると。
いずれにしても、逃げ隠れているだけでは、敵は倒せない。己が武器である拳を叩き込む距離まで近づかなければならない。それができないのなら、それに替わる対抗手段を見つける他あるまい。
壁に張り付いた。場所は丁度、建物と建物のの合間の隙間だ。ここなら、狙撃点は限られてくるし、目を配る場所も最小限で済む。
待った。
五秒・・・・十秒・・・・・・三十秒。
追撃は無い。
逃げ通せたのだろうか。
いや、と全身の感覚が告げている。まだ、緊張感を解くな、と警告している。
攻撃を繰り出すタイミング、位置を見計らっているだけかもしれない。こちらが、攻撃に転じて動くのを待っているのかもしれない。これでいて、姿を見せぬ越後というのは、真性のスナイパーであるようだった。只管に、標的を待つ。僅かでも集中力を切らすことなく。待つだけでなく、無論、狙撃においても集中力を保ったままで。
迂闊に動いては、相手のツボなのだ。こちらも、近づかなければならないという点を、逆用しているのだ。
「どこへ逃げても無駄って、言ったろう?」
不意に、上を見た。何故かは分からないが、勘だった。
それは、的中を見た。
何かが、浮遊している。
テニスボールだった。
そこには・・・・・。
目がついていた!
それが瞬きしたと思えば、火を吐いた。
今、ごく普通の球技で使用される道具は、殺戮の焼夷弾となって、一帯を舐めまわしたのだった。
炙り出されるようにして、明菜は飛び出した。すぐ傍で、紅蓮の炎柱が立ち上っている。
地面で一回、前転。立ち上がろうとした刹那・・・。
「・・・・・ッ」
右足に激痛を感じ、彼女はその場に崩れた。
脛の辺りを直撃し、且つ、激しい回転を続けるそれは紛れも無いテニスボールだった。
音も無い。残像すら見せぬ飛行の軌跡。
直撃の痛みは、とても、ボールとは思えぬ。めり込み、回転し、摩擦でもってダメージは軽く骨まで達した。このままでは、足ごと吹っ飛ばされる。
払いのけようとして、見計らったかのようにボールは回転を止めて転がった。どう見ても、無害なただのテニスボールだが、強烈な残留思念が、凶器としての名残を留めている。
出血が激しかった。痛みが後から忘れたように襲ってくる。まともに足を動かせない。
それでもどうにか、腕を使い、身体を引きずる。
どうにか、身を起こそうと力を全身に入れた。
直後。
左足を撃たれた。
太ももにテニスボールが激突し、鋭い回転を続ける。深々と肉の中にめり込んで、そのまま反対側へと突き抜けそうだった。が、そうはならず、やはり力を無くして地面へ落ちた。べっとりと、明菜の鮮血が付着して、元は黄色かったそれは、真っ赤だった。
凄まじい痛みに、声にならない声をあげて、明菜は呻いた。
だが、間髪入れずに今度は左肩を。
最後に、右肩。
明菜は四肢の自由を奪われた。それをしたのが、何の変哲も無いテニスボールと信じられるのは当人のみだろう。その何の変哲も無いテニスボールは、鉄球顔負けの破壊力でもって、明菜に多大なダメージを与えてのけたのだ。
恐るべきは、球の動き。
見えていたら、音さえ聞こえたら、避けることはできたかもしれない。
だが、残像すら見えぬ。音すら聞こえぬ。虚空から、沸いたようにして、気づいたら食らっている。
見えぬ球。見えぬ魔球。
実際のテニスの試合でも、越後のサーブはそう仇名され、恐れられていることを明菜は知っているかどうか。
一旦それが殺し合いへ応用されたらどうなるか。
見えぬ点では弾丸にも等しい。それでも、銃弾は撃てば音はする。もっとも、音が聞こえたからといって避けられはしまい。だが、音すらしない点で越後のテニスボールは異色と言えるのだった。
「手足を封じて、最後に急所を撃ち抜く」
どこからか声がする。
「頭にすべきか、心臓にすべきか、それが問題だ」
孤高の思想に耽る哲学者のような声で、越後は惑いを口にした。明菜にしてみれば、どちらに攻撃を受けても、待つのは死の一点。
右肩のダメージは、意図して回復する。それを幸いと見るべきか。だが、相手を補足すらできていない現段階、右腕の優位性はどこにも無い。
銃弾すら補足してのける明菜の発揮された動体視力をもってして、越後のテニスボールは捉えられていないのだ。彼のボールの速度は、明菜の動体視力すら上回っている。
従って。
側頭部へ一撃を受けるまで、明菜は攻撃を受けたことに気が付かなかった。
自分でも驚くほどに、その瞬間はゆっくりとしたものだった。
衝撃が脳をシャッフルし、頭蓋骨をゆっくりと粉砕していく。高速の球の直撃が、頭皮を抉り、穴を開け、血管を引きちぎり、脳内に容赦なく鮮血をぶちまけ、神経を破壊した。
その瞬間はゆっくりとしたものだった。
それは、決してコンセントを引き抜いたような唐突な幕切れではなく。
一つ一つの機能が、ゆっくりと、一つ一つ、死んでいく過程であった。
完全であったものが、一つ一つ虫食いのようにして欠落していく。全体は全体として形を維持していくことができなくなり、一つのまとまりとして知覚されていたものが、穴だらけの、何がなんだか分からないものと化していく。
一つ一つ、それらは欠落していった。
遠ざかるそれらを、薄れ行く意識の中で明菜は見送った。同時に、自分も深淵へ沈んでいく感覚を覚えていた。容赦なく奈落へと引きずりこまれていく。手を伸ばすが、もはや地上への出口は遥か上だ。
下降の中で、自分の中の機能が消えていくのが分かった。
そうやってすべてが消えて、やがて私は居なくなる。
これが、終わりなの?
これが、終わりというものなの?
流れた血が、視界を塗りつぶしていく。一瞬、真っ赤に染まったそれはすぐにフェードアウトした。
と・・・・。
意識は強引に、引き上げられた。
目の中に血が入ったままなのに、何故か物はハッキリと見えている。
世界は、真っ赤だった。目の中の血がそうさせているのか。
くらくらとした。
とうに死んでいるはずなのだから無理も無い。
なのにこの五感の冴えは?
その耳は、空気が乱れ、揺れる音を確かに聞き分けていた。
目は・・・・。
飛翔するボールを捕らえていた。
そして右手は。
ボールを掴んだ。
「ほう・・・」
どこかで感嘆の声があがった。
「どういうわけかは知らないけど、それも腕の力というわけか」
鋭敏に研ぎ澄まされた明菜の聴覚は、声の発生源すら突き止めていた。
右前方に聳える、天を貫かんばかりの塔みたいな建物。
「けど、それで俺のテニスボールに対抗できたと思うな」
正しく、声の位置から、ボールが飛んできた。
飛躍した動体視力を備える目は、その打ち手のフォームすら、はっきりと見て取っていた。
流線型に、美しく弓を描いてしなるフォームは、芸術的ですらある。死と破壊を伴う芸術だ。だが、ボールが見えているのなら、避けることも、弾くことも、もはや不可能ではない。
見えない魔球は、ここに敗れたのか?
否。
ボールは全く回転していないのを、明菜の今の視覚は捉えることができただろう。
そして、回転していない球が、突如回転を生じ、急激に軌道を変えたことを。
予測不可能な動きだった。直進してきた球がいきなり、大きく、明菜の背後へ回りこむように進路を変えたのだ。高速な動きはそのままに。
目で追える。迎撃は、容易い。
そう、容易いはずだった。
右手を叩きつける。本来ならば、ボールが四散するはずだが、弾かれたのは、明菜の方だった。
その身体は、錐揉み回転して、大きく中空を舞ってから地面へと落下した。それだけではない。ボールに触れた右手がズタズタに裂かれている。とは言え、ダメージらしいダメージはそれくらいで済んだ。ボールは破壊されることはなく、むしろ、ただ勢いを殺されただけだった。
音から次なる一撃が飛んでくるのが分かった。
越後は何時の間にか、別の建物へと移動している。
音の方向からその位置を割り出し、明菜は疾走へ移った。
と、飛翔するボールが先ほどとは別の動きを見せた。
生じた回転は、明菜の目の前で黒い突風へと変じた。天を貫かんばかりの、トルネードへと。
明菜は走った。トルネードは確実に彼女を補足しようとしている。意思を持っているかのように。
すぐ目の前で別の黒い柱がうねりを上げた。越後がもう一球、放ったらしい。
最初の一撃が後ろから。今放たれた一撃がすぐ前方から包囲してくる。
横へ走る。だが、二本のトルネードもすぐに続く。
のみならず・・・・・。
二つは融合したではないか。そして、さらに巨大なトルネードと化して、速度を増した。
明菜は上を見上げた。どさくさに紛れて、初撃の攻撃位置に、越後の姿は無かった。
周辺の建物の屋上を次々と見る。だが、見当たらない。後はこのトルネードに始末させるつもりなのだろうか。
頭がくらくらした。出血はまだ止まっていない。本来ならばとっくに死んでいるはずなのに、どういうわけか生きている。感覚が冴える一方で、何かが酷く鈍ってしまっている。どっちつかずの曖昧な状態と言える。頭の傷の感覚もそうだ。感じるのは痛みではないが、何も感じないわけでもない。辛くはないが、心地いいわけでもない。
不意に。
明菜は逃走を止め、停止へ移り、迫り来るトルネードへと正対した。それが、彼女自身の考えによるものかと言えば・・・・・厳密にはノーと言わざるを得ないだろう。
何かに突き動かされたような、と後に彼女は述懐する。まさに、そんな感じで、何かが彼女に制動をかけた。
今にも気絶してしまいそうな状態にありながらも、その状態から乖離した別の世界で、明菜の身体は動いていた。気絶しそうな明菜は右手を握り締めているのを感じたが、そこから何かをしようとは、気絶しようとしている明菜には無い考えだ。別の何かがそうしている。
トルネードが、拳で御せるか?
だが、頭からの出血が正しく、右手を指先まで鮮血で染め抜いたとき、腕に変化は起きたのだ。
暴発。と形容するのが正しいか、あるいは爆発、か。
右腕がまばゆい閃光を吐いたと同時に、一帯は凄まじい爆風に舐め尽された。が、あくまでも風のみだ。火の手も、破壊も無く、凄まじい風だけが、天へと召されるようにして、一瞬の殺戮と破壊の衝動を満足させた挙句に、消滅したのである。残されたのは、霧のような白い靄だけだったが、それもすぐに消えた。
その本当に後に残されたのは、明菜だった。
意識は失われかけていたはずだが、その目は冴えていた。どうやら、彼女を刹那、突き動かした何かは彼女の元を去ったらしい。トルネードを粉砕する爆発力と共に、その置き土産は、頭部の傷の再生にあったようだ。
そして今・・・・。
靄が晴れたのとほぼ同時に、舞台の場面が変わるようにして、明菜が立っていたのは、広大なテニスコートだった。
四角く区切られたその周囲を、無人の観客席が取り囲んでいる。
不意に、その一角から、テニス用のユニフォームと、帽子を被った青年が一人、進み出た。右手にはテニスラケットを持ち、左手には、黄色いテニスボール。
テニス部部長、越後允が、ついにその姿を見せたのだ。
「光栄に思ってくれよ。俺の聖域だ」
「招いてくれてありがとう。私を認めてくれたのかしら?」
ネット越しに二人は対峙した。
「獲物を狙い撃つスリルと楽しみは、もう十分に堪能したさ。ここからは、本当の死合いをしよう。生憎、観客は誰も居ないけど、それはそれで楽しいもんさ。二人きりだ。邪魔する者は誰も居ないからな。集中できる」
くるくると、ラケットを回しながら越後は笑った。
「ラケットを持ってないわ」
「ルールは十分分かってるはずだぜ?」
刹那、越後は高々と、ボールを投げ上げた。
身体が反り返る。美しいフォーム。中には、このフォームに見惚れて、対戦相手が初撃を打ち返せないのでは、という分析すらあるくらいだ。
ある意味では、その分析は、正鵠を得ていたようだ。
一瞬、明菜の全神経は麻痺していたからだ。
越後のフォームに見惚れて?
分からぬ。だが、それによって、反応がその分、遅れた。
パンっという乾いた音の後に、鋭い一撃が来た。
咄嗟に身を屈めて避ける。
が、直後に背後で上がった爆発に、明菜は観客席まで吹き飛ばされた。
幸いにも、直撃はしていないため、すぐに立ち上がれた。
「普段はテニスボールを打つんだが、生憎予備の球を忘れてね。それに、ここじゃ球拾いもいやしない」
その左手。何かを握るような形に指が曲げられたかと思えば、みるみるそこに、球状の白い光が形成されていくではないか。
「でも、別のものだって打てるぜ」
越後は、その光の球を中空へ投げた。
それから、身体を反らせ・・・・。
打った。
同時に、明菜は飛ぶ。
ワンテンポ後に、そこへ光球が直撃した。激しい爆発が生じて、客席のベンチが吹っ飛ぶ。
次の攻撃がすぐに来た。文字通り弾丸と化して、光の球が次々と、明菜に襲い掛かる。辛うじて彼女はそれを、ギリギリの位置でかわし続けた。速度も、破壊力も、魔力を込めたテニスボールの比ではない。ただ、見えるのがせめてもの救いだった。
「いい反応だ」
一旦、攻撃の手を休めて、越後が満足気に言った。息一つ乱していない。
明菜も、激しく動き回った割には、呼吸の乱れは、ごく僅かだった。
しかし、近づけない。二人の距離は開いたままだ。目の前にいるとは言え、拳を叩き込める距離は遠い。越後の攻撃に、隙らしい隙は無かった。本番の試合でも同様なのだろう。彼のフォーム、動きには一切の無駄が無い。その上、研ぎ澄まされている。彼の隙をついて得点を決めることは容易ではあるまい。
ゆらり、不意に越後が次の攻撃体勢へと移った。
左手を使い、光球を作り出すのは同様。だが、今度はその数は五つで、しかも中空へと浮いていた。
ラケットの一振りで、五つすべてが明菜へ飛んだ。
大きな跳躍で、どうにかこの五連弾を避ける。だが、避けた直後、既に越後は同様の攻撃を既に放っている。すべてを避けるには、単発の時以上に、大きく、激しく動かなければならない。
いつまでも避け続けることはできそうになかった。確実に、身体の反応が、動きが、鈍くなっているのが分かる。酸素の消耗が激しい。身体が、その需要に次第に応えられなくなっている。
近づくどころか、ますます越後への接近は困難となった。
と・・・・。
踏み出した足元が越後の一撃で弾けて、抉れた。それが、動きのバランスを、タイミングを、一気に崩した。
転倒こそ免れたが、バランスを崩した身体で、飛んでくる五発の攻撃を避けることはできなかった。
直撃と同時に、球は爆裂した。
光球は灼熱を帯びていた。着弾と共に炎が明菜を包む。
明菜のレザージャケットは、耐熱加工を施されている。それでも、ジャケットを透過して、ダメージは直接、肌へ与えられたようだった。
立ち上がれないでいる明菜に、次々と攻撃が襲う。
爆炎が、轟音が、白煙が一帯を包み込んでいる。明菜の姿がそれらに眩んでも尚、越後は攻撃を打ち続けた。
やがて・・・・・・。
彼は攻撃を止め、己の行いの確かさを見届けるように静かにラケットを下ろした。
立て続けの光球の連弾の果てに、巨大な穴が穿たれた観客席に、明菜の姿は無かった。
「こっちよ」
声に振り向いた時、明菜の右の拳が。
しかし、それは寸での位置で、ラケットのガットによって防がれていた。
「ネットを越えるなんて、ルール違反だよ、先生」
妙な手ごたえだった。攻撃した力を、そのまま吸い取られてしまうような・・・・・。
「でも許そう」
直後、明菜は弾き飛ばされた。越後はラケットを動かしもしていない。
「今度は先生にチャンスを与えよう。さあ、思い切り拳を叩き込んできたまえ」
両手を広げる越後は隙だらけだ。手に持つラケットは奇怪だが、そんなことを考えている暇は無い。
走った。弾き飛ばされたとは言え、さほどの距離を飛ばされたわけではない。実際、明菜は中空で既に姿勢を整え、着地と同時に疾走へ移っていた。ダメージは実質ゼロ。
拳に力を込める。獰猛な力の解放へと移る。殺戮を求める拳は、隙だらけの敵の身体を、軽く四散させるはずだ。
しかしまたも・・・・・。
拳はガットによって防がれている。いつ、ガラ空きの胴元に構えたのか。殺戮を所望する凶悪な力が、みるみる失われていく。
させない!
拳を押し込んだ。そのまま強引にガットを破ろうとする。
「無駄だよ。なぜなら、ネットのこちら側は、俺のフィールドだから」
軽く押し返されただけで、明菜の身体は悠々と宙を舞った。
追撃は・・・・・無かった。越後は明菜が着地するまで待っていた。
「さあ、次だ」
またも、明菜は走った。結果は同じと知ってか?
その前に越後が仕掛けた。
ラケットを振るう。だが、何も打ってはいない。ただ、空を切っただけだ。
直後。世界が揺れた。
と、言うよりも、明菜の身体が宙へ舞う。
いつしかそこは・・・・・。
重力を喪失していたのだ。
それだけではなかった。
そこは・・・・・。
異世界となっていた。
中空の。
明菜はまるで蜘蛛の巣のように広がるネットの上に立っていた。
越後は・・・・。
逆さになった姿で、中空に浮かんでいた。
そして、その一帯は真っ青な「球」の中に閉じ込められたものとして認識された。言ってみれば、シャボン玉の中に閉じ込められたようなものを想像してみればいいだろう。
実に奇怪な空間だった。
「球とはすべてに優先する美しさだ」
詩でも諳んじるかのようにして、越後は言った。
「そして、この完璧な世界は俺のものだ」
と、逆さのままで、越後は攻撃を繰り出した。
飛んできたのは、先ほどまでの光球ではなく、真っ青な球だった。しかも、その打球は酷く、遅かった。飛んでくるというよりは、むしろ漂っている。球には球だが、見るからに脆弱そうなむしろそれは、大きな泡にも等しかった。
「その球には触れないほうがいい」
越後の忠告が聞こえなかったのか。あるいは、無視したのか。それとも、拳を繰り出すのが、忠告より僅か早かったのか。
明菜のフィストは・・・・・・。
易々と、青い球を破壊した。
感触まで泡のようなあっけなさだ。硬さも手ごたえもまるでない。
「触れてしまったな。馬鹿が」
越後は吐き捨てるように、しかし邪悪な笑みを浮かべつつそう言った。
その言葉を聞いた直後だろうか。
不意に・・・・・・。
奇妙な感覚が走っていた。
おかしいわ。
とは言え、何がおかしいのかすぐには分からなかった。違和感はあまりにも、違和感無く訪れていたからだ。
そして、気づいた時には・・・・。
明菜の身体は分解されていた。
正確には、彼女が破壊したあの泡のような球の中にバラバラに閉じ込められていたというべきだろうか。破壊した刹那、飛沫はその後何事も無かったかのように互いに寄り添うようにして動き、球そのものが再生を見たのである。明菜の身体の分解も、その時生じていた。
明菜の状態を、客観的に眺めたのなら、それは、漂う泡のような球の中に、腕や、足や、身体がそれぞれ閉じ込められているのである。彼女は消えるようにして身体全体を分解させられて、瞬時に、泡の中へ閉じ込められたことになる。
そして当の彼女自身の感覚は・・・・・。
それは、落下だった。
緩やかな消失だった。
惰眠である。
意識の消失である。
静かなブラックアウト。
だが、鮮烈なホワイトアウトだった。
ノイズにも等しい何かが、走ったのだ。
視界に走ったのかもしれない。それは、脳内だったかもしれない。パルスが一時的に乱れ、その乱れを視覚が捕らえるという歪んだ現象が起きたのかもしれぬ。
いずれにしても、認識自体が歪みを持ってしまったかのようだった。
何も見えなかった。
いや。見えないのではない。歪んでいるのだ。
テレビの砂嵐にも似たノイズで視界は埋め尽くされているようでもあるが、そのノイズが勝手に変形し、像を生み出しては消え、混沌の中に沈み、再び立ち上がり、生成され、変化し、崩れていく。だが、ただの、無意味な乱れでなく、それらは時折、鮮烈なビジョンとイメージを形成して、明菜の前に去来した。
記憶の断片なのか、妄想の現実化なのか。あるいは、夢なのか。
混沌は、視覚だけに留まらなかった。
正しくは、ノイズにも似た歪みは、同時に、その他の感覚をも、同時に明菜に感じさせるものだった。ノイズには匂いがあり、音があり、触感があったのである。
その受け止め方も妙だった。何かに触れたような感触を得ても、直後にそれは、匂いへと変じてしまう。何かが聞こえたかと思っても、直後にそれは、手触りへと変じてしまう。
その中で感じた落下の感覚である。
消失の感覚である。
じわじわと・・・・発泡するようにして、自身が溶け出してしまうような、そんな感覚だった。その感覚自体には、苦痛ではなく、むしろ快楽が伴った。
別の声がする。幻聴なのか。聴覚とて嗅覚が変じたものか、触覚が変じたものか既に区別できなかった。
曰く。
消失とは、凝視すらも適わぬ永劫の闇へ消え去って朽ちることではない。消失とは、溶け、流れ出し、大いなる奔流の一部へとなることなのだ、と。
それは庇護なのだ。加護なのだ。大いなる流れとは、聖母の腕なのだ。神の腕なのだ。その一部になるということは、その腕に抱かれるということなのだ。決して、死神の鎌に首を切り取られることではないのだ。
だから・・・・・。
恐れることはない。消失を畏れることはない。
違う!
消失・・・・死とは、そんな安寧に彩られた心地よいものじゃない。誰も死なんてものは望まない。望まないのに、不意に訪れたそれによって、消えた人々・・・。
齎された死とは、苦痛以外の何者でもないはず。
流血と、絶望的な苦しみ。悔恨。恐怖。悲しみ。無念。生気を失った瞳。その瞳が見ていたものは・・・・。
ああ嗚呼ああああ嗚呼!!!
流血と無残な姿の・・・・・・遺骸。
そこには濃厚な死の匂いが。静寂が。そしてその中で私は・・・・・・・・。
闇があった。
闇だ。底知れぬ闇。光なんてそこにはなかった。快楽なんてものは。
いえ。
あいつは・・・・奴は・・・・・。
苦しみと痛みしか知らずに奪われた命の傍で、奴は私を。そして私に・・・・・・・・。
それが死だ。本当の消失だ。
もし、だから私が死ぬのなら。進んで苦しみと、痛みと絶望に身を焦がそう。その代わりに、私も同様のものを、許されざるものたちに与えよう。決して、楽には、ましてや快楽に身を沈めて逝くことなど許さない。私も苦痛の地獄へ落ちよう。その代わりに、お前達にも、同じ苦痛を与えてやる。
だからこそ・・・・・。
こんな、安寧に満ちたものが消失?死?
違う!
慈悲なんて無用。庇護も加護もくそ食らえだわ。
欲しいのは、ぞっとするような冷たさ。震えるような闇。そして深い絶望。それが私を突き動かしてきた。これまでも。そしてきっと、これからも・・・・・。
歪み、捩れる錯誤した感覚のノイズの海で、明菜は意思を集中しようとした。乱れたでたらめで、無意味な映像の塊たちは揃って、その集中力を乱そうとするように彼女の心を幻惑しにかかる。でも、もしこのままならば、夢を見ているように、そんな錯覚を抱いたままで死に至っているだろう。
気づいているのか、無意識なのか。
ぞっとする闇。死の淵に眠る闇の中に潜む何かが、いつも私を蘇らせる。私はどこかで、そいつの正体について考え続けてきた。でも、答えは分からない。そいつが敵なのか、味方なのかも。何を私に求めているのかも。
でも、だんだん、そいつが何者かなんてどうでもよくなった。そいつが私に、前に進むための力を与えてくれるのなら、受ければいい。それだけの話。私はそいつに生かされてきたのだろうから。
決まってそいつは、死の淵で現れてきた。齎される死の予感はやはりいつも冷たく、非情なまでに暗かった。そんな冷たさと絶望に、そいつは馴染んでいたのかもしれぬ。それこそが、そいつの住処だったのかもしれない。
だが、もし、死に際し、その感覚が失われたのなら?すなわち死が暖かく、心地よいものとして訪れたのなら?
きっと、私に巣食うそいつも姿を見せることはないだろう。死の真際の苦しみと絶望こそが、そいつの糧だからだ。それを持たぬ個体を救ったり、どうかしてやろうなどという酔狂な心持は、そいつには無いに違いない。
だからこそ、明菜は意識を集中したのだ。
闇を探るように、と。
しかし、錯乱しきった砂嵐のようなイメージの洪水の中で、純粋な闇へ降りていこうとする試みはかなりの難儀であった。痛みも絶望もない中で、純粋な死の恐怖や苦痛を呼び起こすこともまた、難しい。
集中力は容易に乱される。
内観・・・・というのか。
宗教に興味は無い。祈りだってしたことはない。座禅をすることもないし、目を閉じて大いなるものの存在に思いを馳せることもない。だからこうして意識を集中して何かを呼び起こそうなんていうのは、そもそも柄じゃないのに。
でも、そうしないと、確実に死ぬ。
僅かばかりの焦燥が走った。きっと、このままでは、気づかぬままに、乱れ飛ぶノイズの一部となって消えてしまうだけだろう。
と・・・・不意に。
心臓を鷲摑みにされるような、冷たい感覚が走った。もっとも、今はどこが心臓なのか。どこに心臓があるのかすら、失念するような、無感覚さだけがあって、残されたのは感覚のみで、その感覚すら、乱れ、錯綜し、とうに死んでいたようなものだった。
従って、明菜が感じた今の感触は実に、彼女にとっては心地よく、新鮮なものだった。
ぞっとするほどの冷たさが、これほど心地よかったなんて。
そして掴まれてるものが、「心臓」だと、確かに分かる。
「・・・・・ワタシを、モトメるか?」
低く、冷たい声だった。
「おまえノことハ、ずっト、見てキタ。時々、力もカシテやっタな」
ええ、と言ったつもりだったが、声にならなかった。それでも、相手は一方的に続けた。
「オマエはワタシをモトメながら、ドコカで畏れてイタ。ソレガナゼ、今は私をモトメる?」
生きたいから。私はまだ生きたい。死ぬわけにはいかない。
「オマエはマダ、本当の淵をシラヌ。ココハまだ、ソコではない。従って、これ以上ノ対話モ無駄ダ。ワタシ自身が何より、長くイラレナイ。ココは浅すぎル。オマエの方から、降りてコイ。イズレナ」
声はそれきり、消えた。
不意に。
だが、何かが彼女の中に渦巻いていた。
乱れ動くノイズは嘘のように消えている。
まず視界がはっきりしてきた。
明菜が見たのは、只管に青く、澄んだ光景だった。
海。
最初に抱いた印象がそれだった。真っ青な碧水である。その蒼は一面に広がっているのではなく、極めて狭い範囲で満たされている。水槽と呼ぶにも小さく、狭い範囲だ。そもそも水槽というのとも違う。なぜなら、水はそういった枠やはっきりとした境界で区切られて満たされているのではないからだ。
遭えて枠を当てはめるのなら、球。
それは、彼女の視界の外に浮かぶ別のものからそう判じることができた。
同じように広がりを持たない水が、明らかに球と分かる形の、やはり見えない境界に象られて浮かんでいる。
その中に明菜は、異様なものを見た。
真っ青な美しい水の中に、無粋に浮かぶもの。
それは、腕だった。人間の。
別の方向へ目を転じる。やや離れた、少し高い位置にある球に満たされた水に、やはり浮かんでいたのは、足。
同じような球がいくつも、明菜の周囲に点在し、それぞれが腕だの、足だのを浸されて浮かんでいる。さながらそれは、天然の培養カプセルといった趣だ。
明菜はそれらの部位が、自分のものであると、先ほどまでは知らなかった。その時には、主観としての明菜の感覚は、落下だの、消失だの、さらに乱れたでたらめなノイズに彩られて正確な現実認識ができないでいたからだ。
だが、今は、正確な認識を取り戻した明菜は、自分の首から下に目を転じ、初めて現状が分かったのだ。
あるのは首と胴だけ。両腕は肩から失われているし、両足も付け根から無い。なのに、痛みは感じないし、流れるはずの血も無く、水は青く澄んだままだ。もっとも、こんな状態にされたら痛みを感じる前にショック死か出血多量ですぐに死んでしまうだろう。
「ほう・・・・・よく戻れたな」
聴覚も正常に働いたようだ。声がした。聞きなれた声は無理も無い。先ほどまで戦っていた相手、越後允である。もっとも、戦闘は今も継続中だが、妙な成り行きに、一時、明菜は先刻までの戦いを忘れていた。
浮かぶ球の合間に、先ほどと同じ逆さの越後が見えた。何もかも、先ほどと変わらぬ。一時的な喪失状態がどれほど続いていたのか分からないが、それほど長いものではなかったようだ。
「だが、その身体では何もできまい。すぐに逝かせてやろう」
「お生憎様」
と、強がってみたものの、確かに何もできないことに変わりは無い。
しかし、明菜には何か予感めいた確信が宿っていた。
いける、という。
それでも、頼みの武器、右腕はあの通り身体から切り離された位置に浮かんでいるし、自分が遠隔操作や念力を駆使して、あの腕を自在に使役することなど到底できそうになかった。それでも尚、の明菜の予感である。
その前に、越後が動いた。
碧水を満たしたいくつもの球が浮かぶ中、その姿はどこか幽玄さを伴っていた。
刹那。
初めて、感覚らしい感覚が走った。
痛みではない。それは・・・・・。
熱さだった。
煮えたぎるような、という形容がここでは最も相応しいだろうか。
明菜が漬かっている水は今、沸き立つ地獄の釜にも等しかった。色はいつの間にか、紅蓮の色に染まりぬいている。それが凄まじい泡を弾けさせ、白煙を吹いている。
熱さのみならず、突如、奔流と化した灼熱の地獄の中に、瞬時にして明菜の姿は見えなくなった。
だが、彼女が熱さを感じたのは、ほんの一瞬。
不意に、目の前の空間に亀裂が走ったようだった。自分を包む煮え湯が、出口を求めて溢れ出す。
明菜を包んでいた水が消えたかと思えば、代わりに、その亀裂から入り込んできたのは大量の泡である。それは熱くも無く、冷たくも無く、ただ、無感覚の元に彼女を包み込む。
そのころには既に、明菜の認識は錯乱していた。周りに浮かんでいたいくつもの球も、越後の姿も失せ、あるのは泡である。
泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡、泡。
見渡す限り、の。
視界が閉ざされたのはそのためだけではない。
五感が・・・・・・狂わされていた。
三半規管が、乱れている。
身体は上下に激しく揺れ動く。
周りで乱れているのは・・・・・。
嗚呼、なんて気持ちがいいの。
軟水、と言うのかしら。
この柔らかい、水のような、よく分からない感触の何か・・・・。
そこから沸き立つようにして無数の手が現れた。
童子、いや、赤子のような短く、細い、儚い手。
それが、何かを求めるようにして宙を掻く。そのいくつかが、明菜に触れるや、求めていたものはそれ、とばかりに一斉にそれらの小さな手が、彼女に触れた。
途端に、全身に凄まじい快感が走った。
触れてくる幼子の手の感触と共に、明菜を包む泡や、不可思議な液体。それがすべてが、彼女の感覚を敏感に刺激する。
閉ざされた視界が開けていた。
だがそこは・・・・・。
異空間だった。
異世界だった。
無数の泡が取り払われた後に現れたのは、真っ赤な世界。さながら、何かの肉体の内部に居るかのような赤は、無数に走る血管と、そこに鮮血が巡るが故の光景だろう。だが当然、何者かの体内なのか、あるいは本当にそこがそうなのかの区別はつかなかった。
ただ、漠然と、溶け出した思考の中で明菜が感じたのは、やはりここは何かの「中」なのかもしれない、ということだった。
すべては、越後の見せる幻術。
という思考は、明菜には無かった。捉われた刹那、思考自体が流れ出し、感覚だけが取り残されてしまったようだった。見たままを、見たまま捕らえることしかできないように。
どういうわけか。この世界において、明菜は己の肉体を完全に取り戻していた。だが、それはそう見えているだけで、今の彼女は言ってみれば一種の精神体となっているに過ぎない。己の身体が五体揃っていることを確認はできても、それが持つ意味に至りもしなければ、それらの四肢や肉体を駆使する術も無いのだ。移動は、観念のみで行われ、ぼんやりとした感覚がその実行を確かめる。
そして今、先ほどまではただぼんやりと、赤い何かの内側にいるというイメージしか無かった世界が、少しずつ形を整えて知覚され始めていた。
赤い世界。それは何かの体内ではなく、開かれた外の世界の縮図だった。
赤い色は血管ではなくして、どうやらその世界での光らしい。だが、光にしては光源がどこにも見当たらない。
ドロドロと、まるで滴り落ちるようにして満ちる赤色の光。その中で、彼女はぼんやりとした視界の中で見た。
何かが、上から、落ちてくる。
それは今までもずっとそうだったのかもしれぬ。だが、ここへ来て漸く、視覚として認識するに至った。
落下してくるそれは・・・・・・。
人・・・ではないか。
手足をバタバタさせながら、もがくように落ちてくる無数の人々。
そこで初めて視界が下方へ転じた。
下には、何があったか。
それは・・・・・。
炎だった。
真っ赤な炎が、溶鉱炉のごとく燃え盛っている。落下してくる人々は、まっすぐその中へ吸い込まれていく。
立ち上る断末魔の悲鳴。苦悶。そして、肉の焼ける異臭。
無造作に、まるでゴミのようにして炎の中へ、人が次々と放り込まれていくのだ。
そこで初めて・・・・。
自身の身体から火が吹いたのを明菜は感じた。何時の間にか、自分も炎の中へ投じられていたようだ。
熱い、という感覚ではない。
熱いのか、痛いのか、それとも何なのか。この感覚を言い表すことは。
周りを見た。
彼らはそこにいた。
蠢く、焼け爛れた肉、肉、肉の塊たち。
肉の塊は依然、生きていたのだ。
眼球が爛れ落ち、ケロイドが全身に回って溶け出しても尚・・・・。
彼らは呻いていた。這うように炎の中を動いている。
ある者の肉は黒こげだった。だが、まだ生きていた。動いている。
互いの身体がくっついてしまった者もいた。
死ねぬのか。死ねぬのだ。死ぬことすら適わぬ。死んでしまうほどの苦しみに支配され続けるしかないのか、ここでは。
明菜も・・・・・・。
感覚は再び、困惑し、錯乱した。
熱いのに。痛いのに。苦しいのに。
この皮膚は、火傷は、泡を吹いている。白い泡が、炎と共に吹き出してくる。
嗚呼、とうとう狂ってしまったのね。
奇態なる泡と炎は混ざり合い、極彩色のそれへと変じた。ただ、奇怪だ。燃え狂う炎は、混ざり、乱れ、渦となり、波となった。その様相は、さながら前衛芸術の誕生の瞬間に立ち会っているかのようだ。
しかし依然、明菜の周囲では惑乱が、混沌が、苦痛が渦巻いていた。
彼らも、同じように感じているのだろうか。彼らにも違う何かが、見えているのだろうか。
肉体が、消えかけ、死のうとしても尚、その様相を客観的に、半ば他人事のように傍観する自分が居た。この世界においては、明菜は精神体なのである。肉体への痛感は、さほどのものではないのだ。今はむしろ、精神が・・・・・崩れ始めた。
目に見える光景こそが、惑乱し、崩壊を始めた精神をよく表しているのだろうか。
肉体への痛みは今、精神的苦痛へと転嫁され始めた。
別の痛みだった。異様な様相に包まれるたびに、精神はダメージを受けていくようだった。世界が変容するたびに、精神はどんどん疲弊していくようだった。
どれくらい。
どれくらい、そんな状態が続いただろうか。
混沌とした世界は滅び、そのたび生まれた。そしてまた、滅びる。
幾度もの再生と終末が繰り返される世界の外側に立ち、越後は、球に漬かる明菜をじっと見つめていた。彼から見た光景は、先ほどから何一つ変わってなどいなかった。依然、明菜の身体は、碧水を満たされた球の中に浮かんでいたのである。
だが、ただ見つめていたのではない。凝視というべきか、意識を集中させ、越後は浮かぶ球を見比べていた。彼が意識するのは、互いの球の完璧なる調和のイメージだった。それは、この異空間の主である彼の中にしか、設計図は宿らぬ。予め既に、完璧を喫して配されたと思われる世界は、越後の綿密な精神集中によるデザインで成り立っていたのだ。
ある種、試合前にする精神統一にも似ていた。
試合が始まる前、越後はロッカー室に一人で篭って、意識を集中する。
陳腐なイメージトレーニングや勝利のイメージ、あるいは自己催眠などではない。
彼がそこでするのは、世界の完璧な調和を思い描いて、自身がその中心に立っている姿をイメージすることだった。
世界の完璧な調和は、越後にしてみれば球に例えられる。球と球の織り成す文様、交差する軌跡。それらを組み合わせ、頭の中で図面を引いていく。そして、それらの球が本当に完璧な形で運動するための空間に思いを馳せる。球ひとつ一つの運動に、どれ一つ無駄なものはなく、互いに互いの存在を補完するような空間設計をし、最後にそこで運動する己に至る。
そこに存在する己が、世界の、空間の調和を一糸見出すことなく運動するには、どういう動きが、身体の運びが必要か。僅かに、身体のどこか一部にでも余分な負荷をかけたり、力を入れることすら、自分が運動する完璧な世界の調和を乱すことに繋がる。自分がヘマをすれば、そこで描かれる球の軌跡など、成り立ちようがない。空間の、世界の乱れはすなわち、敗北を意味する。
完璧な世界で、乱すことの無い運動の曲線、軌跡、筋肉の動かし方、力の入れ方を綿密に計算し、ラインを引いて初めて、越後は試合に勝利するという達観を、試合を行う前から得ることができるのだ。彼にとっての勝利とは、いかにして、完璧な世界で運動する自分を描けるかにかかっている。それができれば、本番は、肉体が勝手に、その再現をしてくれる。
テニスとは、単に相手の動きやボールに対し反応し、こちらから反応を起こす化学変化のようなものではない。
相手がどれほどの腕前だろうと、どういう球筋をしていようと、そのようなことはまるで意味は無いのだ。
球の完璧さこそが、越後におけるテニスの勝利。完璧な球を生かす完璧な世界で躍動する完璧な自分という三つが揃うイメージさえもてれば、相手がどうであろうと、こちらは相手に合わせることなく、只管に「再現」のみで、勝利することができるのだ。
試合中、越後は相手の姿など見ていない。相手の球すらもだ。
なぜなら、球と球の相互の完璧な補完関係が頭の中で描ければ、球を打ち返すという発想は無くなるのだ。こちらへ飛んでくる球を、己が描く球の調和に準えると、どういう軌跡での運動が必要か。その観点から越後は打ち返す、という行為をしているに過ぎない。調和を描けない相手プレイヤーは、従って彼の返球に反応することすらできない。
今も・・・・。
世界の調和に、乱れは無いはずだ。
この空間のデザインも、球の配置も、そこに立つ己の位置も、どれ一つとして乱れてはいない。すべて、計算通りのはずだ。
それなのに・・・。
不意に。
ぞくりとした戦慄が、越後の背後を駆け抜けた。
長らく、本当に長らく感じたことのない戦慄。
勝利はとうに確信している。確信しきっている。そう、この完璧な空間へ敵を引きずりこんでから、自分の勝利は微塵も揺るがぬ約束されたもののはずだった。試合前に感じる確信のように、この完璧な空間で、万が一にも相手に敗れることもない。
それが今は・・・・・・。
今しがた一瞬感じた、言い知れぬ不気味な戦慄だけで、揺らいでいる。
一体・・・なんだというのだ?
完璧な世界を描けたのなら、微塵も不安や戦慄が入り込む余地など無いはずだ。
それらは、敗北を、いや、世界が不完全であることを証明してしまわないか?
違う。デザインは完璧だし、その再現も、完璧のはずだ。
勝利の達観も得ていた。全く揺らがなかった。
なのに、どうして今になって?
「・・・・これガ・・・炎、だト?」
どこかで薄暗い声が響いた。
「ジゴクの・・・炎に・・・焼かれたコトは、あるカ?あれは・・・・モット、もっと・・・・熱く・・・・クルシイものダったゾ」
どこにいる?
辺りを見回す必要もないのに、見回してしまう。この完璧な世界に、異分子が入り込む隙などないはずだ。
「温い。涼しイ。こんなモノが、オマエの全力カ?ならば・・・・・」
ならば?
「散れ!」
刹那、凄まじい衝撃が、越後の「世界」を揺るがした。
そこでは・・・・。
球が互いに衝突していた。それだけではない。泡のように繊細、しかしガラス球のような硬質さで浮遊する球は互いにぶつかると、融合を始めた。バラバラになった明菜の身体が。
「だが遅い。無限軌道を描いて、そのまま戻ってくるな!」
それこそ、越後の反撃だった。
世界が消滅する前に。
完璧な円環を描いて、そのまま彼方へ消失させる。そのためには、混沌とし、散らばってしまった球を、再度、真円の軌跡の中に閉じ込める必要があった。
呪文は、ものの一秒で完成する。
だが・・・・成せなかった。
ぶつかり合った球が、今度こそ完全に破壊されるほうが早かった。
炎を吹き出し、泡を飛び散らせ、そこから火の玉が飛び出して世界を揺るがした。
右手を黒い炎で包み込んだ女が、幽鬼みたいな表情で浮かんでいた。彼女こそが火の玉の正体だった。
「去ね!」
それは、明菜の声ではなかった。
別の声を放った明菜が、黒い炎を纏った右手を振った。
それでも、越後は攻撃の完成をあきらめたわけではなかった。崩れた球ごと明菜を封じることはできなくなったが、今でもまだ、明菜を、彼方へ消し去ることはできる。
ほぼ同時か。
いや。
世界に亀裂が走った。
明菜が僅か、勝ったのだ。
右腕から、真っ黒な炎が迸り、世界を焼き尽くした。
真っ青な美しい、虚飾の世界が、崩れていく。
主である越後もまた、黒い炎に包まれ、悶えていた。
明菜だけが、幽鬼のような表情を湛えて、静かに佇んでいる。
世界が・・・・崩れていく。
その中で、無数の青い球が、あるいは泡だったか。それらが、一斉に立ち上っていく。まるでそれは、解き放たれた魂が一斉に天界へ召されていくような光景だった。
黒い炎で崩れる世界の地獄と、真っ青な泡の群れの消化。
二つはまるで釣り合わないように見えたが、意外にも、見事な対比を成して、崩れてゆく世界に彩を添えているようだった。
強い風が吹いた。正面から。
とても強い風だ。
それに伴い、今度こそ、世界の面の皮がその風に乗るようにして剥がれていった。
そして・・・・・・。
その果てに、明菜はまっすぐに伸びた通路の上に立っていた。
一気に、虚脱感が襲ってくる。寒気が走って全身が痛んだ。
しかし、苦しみはそう長くは続かなかった。高熱のような全身の激しい筋肉や関節の痛みはすぐに引いていった。乱れた呼吸や、脈拍もすぐに正常さを取り戻していく。明菜自身、これほどの体調の回復の早さは始めて実感するものだった。
腕の解放には、後々常に副作用が付きまとう。大きな力を発揮すればするほどに、身体に跳ね返る負荷も大きなものになっていく。
ここまで続いた戦闘で、自分に積み重なる負荷が、どんどん大きなものになっていることに明菜は気づいていた。蓄積したダメージが、限界を超え始めている。
だが、今は違った。これまで溜めた疲労やダメージまで、一緒に回復してしまったように。
ふと、あの不気味な邂逅が思い出された。
あの声が。
何者かが。
私に味方している。
味方はしているが、純粋な味方だろうか。
否。
あの禍々しい気配は忘れない。忘れたくても。
似ていた。限りなく。
奴に。
同じとは思いたくなかった。それを認めたら、たぶん狂ってしまう。
ただ、似ているだけ。なぜか、そいつが味方をしてる。
薄々感じてはいた。だが、やはり信じたくなかったし、認めたくなかった。だが、その何者かの存在を抜きに、この状態を説明はできない。今の体調の回復も、そいつの力なの?
いずれにしろ・・・。
位置は、高所へと移動していたようだった。
奇怪な建物の真ん中辺りの高さに、その通路は伸び、それは自然と、巨大なドーム型の建物へ吸い込まれていた。
モスクのような印象を与える荘厳な建造物である。扉の類ではなく、真っ暗なアーチ状に開放された入り口らしきものが、来訪者を迎えているようだった。
変容はしている。が、恐らくここが体育館と考えて間違いは無いだろう。
建物からは、何の気配もしてこない。無人のようでもある。どんなに荘厳な建物でも、無人の廃墟には常に、ある種の恐怖がはびこるものだ。だが、ここにはそのような恐怖すら無い。かと言って、神聖かと問われたらそうでもないだろう。
不気味でもなく、神聖でもない。また、気配も無い。感覚で捕らえられる限りのものが、この建造物からは一切欠落しているようだ。
いや、それを言えば、この敷地、空間全体がそうだろう。白色だが、決して荘厳であったり、神聖な感情を掘り起こす場所ではない。かと言って、戦慄しか感じないわけでもない。
無なのである。只管に。あらゆる感情を、感覚を吸い取ってしまうかのように。
中はただ、暗かった。あと一歩で内部という距離でも僅か一メートル先すら見えない。真っ暗だった。
ふっと、一つ、大きく息を吐いてから、明菜は闇の中へ踏み込んだ。
完全に身体が、暗闇へ飲まれてしばらくしても、周囲はまるで見渡せなかった。何かに躓かぬよう、慎重に慎重を重ねて、ゆっくりと前進していく。
不意に・・・・。
空間に光が満たされた。
そこは・・・・・。
円形の、闘技場だった。周囲を高い壁で囲まれて、それの後ろには、無人の観客席が上のほうまで続いている。ローマのコロッセオほどの荘厳さは無いが、十分に、そこがどういう場所なのかは伝わる。
「ほう・・・・。越後までやられるとはなあ」
明菜とは正反対にある入り口から声がした。そして、そこからぬうっと現れた人影は・・・・・。
嵐龍二であった。
「正直、ここまで来られるとは思わなかったぜ、センセ」
嵐の声は張りがあった。声量も多い。そのため、広大な空間でも、よく通った。
「そいつか・・・・」
嵐の視線が、右腕に吸いつけられていたことに、明菜は気づいたかどうか。
「おもしれえ。そいつで勝ちあがってきたってわけかい。こいつはおもしれえよ」
そこで初めて明菜も、嵐の姿をしっかりと再確認した。
アメリカの星条旗みたいな柄のトランクス。足は素足である。露出する肉体には、どれも見事過ぎる筋肉があり、嵐を高校生には見せていない。プロの大人とでも十二分に渡り合えるだけの貫禄とオーラが備わっている。
「俺も力でのし上がってきた」
嵐は両足首、両手首を軽くグルグルと回し始めた。
「いいもんだよなあ。力と力を正面からぶつけ合うのは。小細工なんかいらねえからなあ」
すうっと、強く、息を吸って、吐いたかと思えば・・・・。
嵐の全身に、プロテクターのような不思議な物体が装着されていたではないか。
色は白だが、淡い輝きを放っている。硬くも無く、しかし柔らかくもないような外観だ。
胴はすっかりと包まれ、他は膝、肘。その他の部分は剥き身のままだった。
「普通の試合じゃこんなものは身につけねえ。相手がすぐに死んじまうんでな」
その言葉はあながち、誇張でもなさそうだった。
なぜなら、嵐が謎のプロテクターをまとってから、彼から放たれる殺気が、鬼気が、一気に激増したからだ。
「俺はいつもフェアに戦うことにしてる。KO宣言するにしても、何ラウンド、どういう攻撃で狙いに行くかも相手にきっちり伝えてるんでな。だから、ここでも、センセにフェアに、手口を明かすぜ。このプロテクターは、俺の攻撃力を始めとした全能力を、通常の五倍に拡張させる。いいかい、五倍だぜ。そこんとこをよく理解した上で、俺に向かってこいや。でねえと・・・・・」
くっと、嵐が腰を落としたかと思えば・・・。
その姿が消失した。
「死ぬぜえ」
声は背後からしていた。
「・・・・・なるほど。よく分かったわ」
平然と顔色一つ変えず、明菜は言った。振り向きもせず。
本当は・・・・。
目で追うことが精一杯の速度だった。確かに、能力が五倍に拡張されているというのも嘘ではなさそうだ。
動きだけでこれだ。攻撃力はどうなるのか・・・・。もっとも、嵐の普通の攻撃力がどの程度のものか知らぬ今は、予想もできなかったが。
「ただ殺し合うだけじゃあ、つまんねえ。これは試合だからな。試合には、観客が居る。だからほら・・・・」
パンっと、嵐が手を叩くと。
無人の観客席は何時の間にか満員の観客で埋めつくされていた。
「ホログラムだが、本物っぽいぜ」
確かに、数え切れない群集が現れた途端、空間の密度が高まり、不思議な熱気が生まれている。これがホログラムだとは信じられない。
その顔ぶれも・・・・。
嵐の友人や知人だとは到底思えぬ。面だけ見れば、凶悪な重刑犯罪者みたいなのも居る。だが、それだけではない。遥か古代ローマの時代に生きているような格好の者、貴族らしき者、あるいは現代社会にいる明らかに政治家や官僚のような者たち。
白人も居る。黒人も居る。女も、老人も。人種は関係ない。民族も。階級も。すべてが取り払われ、この場に召還されたのは、ある意味では理想社会の縮図であった。しかし、その社会の実現は、血なまぐさい戦いを通してしか生まれぬということを、明菜と嵐、二人のこれから始まる戦いは暗喩しているかのようだった。もっとも、そんな社会は、戦いの末に本当に訪れるかどうかは誰も知らぬ。
観客達は、口々に。
喚き、罵る。煽る。挑発する。
戦いを。
血を。
死を。
破壊を。
暴力を。
混沌を。
殺し合いを。
彼らは、渇望している。
放っておけば、自分達が殺し合いを始めかねない勢いで、全員が殺気立っていた。冷静な者など、誰一人としていはしない。冷静を装っているだけだ。誰の目も血走っている。
嵐がゆっくりと、両手を広げながら歩き出した。
「コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ」
割れんばかりの死の斉唱が鳴り響く。その中をゆっくりと嵐は練り歩く。一方の明菜は棒立ちだ。場の空気など、意に介さぬのか。
「さあ・・・・・行くぜ」
先ほどのように、軽く身体を屈めたかと思えば、消えたように見えるほどの速度で、嵐が飛び掛る。
目で追えない動きではない。
解放された明菜の動体視力は、弾丸の動きすら捉える。
嵐が拳を繰り出すのが見える。
迎撃の準備は、整った。
だが、明菜は反撃することができない。なぜなら、嵐は拳を繰り出そうという寸前、左足を振り上げてきたからだ。ありえない動きである。不可能な動きだ。そのでたらめな攻撃を、明菜は飛び退いて避けるしかできなかった。
ありえないとは言え、蹴りは蹴りだ。
そしてその蹴りは・・・・・。
避けたはずだった。だが、明菜は凄まじい衝撃を正面から受けて吹っ飛んだ。
「・・・・これは」
全身が揺さぶりを受けたようだった。骨が、神経が、細胞が。激しい衝撃を迎えて、振動している。軋んで悲鳴をあげていた。
なんという衝撃。嵐の蹴りは、直撃せずとも、強烈なソニックブームを生み出すのであった。
「よく避けられたなあ。普通なら、この蹴りを首に食らって即死で終いなんだが、流石に、ここまで勝ち抜いてきたあんただ。そんなあっけない幕切れになるたあ、俺も思っちゃいねえよ」
不敵なステップを踏みつつ、嵐は笑った。
「さあ、どんどん行くぜ。センセも攻撃してくんねえと、レフリーがいたら警告食らうぜ。アグレッシブ、アグレッシブ」
飛んできた。見え見えの大きな動き。隙だらけだ。
飛び蹴り?
大した助走もなく、これだけの跳躍と速度が出るのは驚きだった。
しかし、正面から突っ込んでくる上に、先ほどよりも遅い。
かわすのは、容易のはずだった。
はずだったが、ここでも嵐の動きはトリッキーであった。
中空に見えない足場があるようにして、その動きが一段加速したかと思うと、彼は中空で上体を捻りつつ、繰り出していた足を回転させたのだ。直線的な飛び蹴りが一変、中空での回し蹴りへ変じたのだ。
反応は遅れた。食らえば致命的な一撃と分かりきっている。
苦し紛れに右手を繰り出した。
中空で足と拳が激突した。
力負けしたのは、当然のように明菜だった。右腕全体に渡り、複雑骨折を生じさせ、確実に腕一本、使い物にしなくなったのみならず、明菜は大きく吹っ飛ばされた。
だが、ダメージは問題ではない。遅かれ回復はする。とりあえず、致命傷は避けた。
「その程度かあ?」
小刻みなステップを踏みつつ、嵐は挑発する。
「思い切り打って来い。大した傷じゃないはずだ。思い切りその右腕を叩き込んで来い」
確かに、骨折程度のダメージはすぐに回復へ向かう。
問題は・・・・。
攻撃を当てるイメージ。攻撃を当てに行くというイメージ。攻撃が当たるというイメージ。その欠落にあった。
余裕なのか。
嵐の挙動は隙だらけだった。がら空きの胴、だらしなく垂れた両腕、依然として刻んでいる両足のステップ。
自然体、と言うべきか。
「掴み・・・・かねてるか。なるほど。だが、最大の敵は常に己よ。俺に対する迷い。それは、おまえ自身に対する迷いってことだ。俺の力を掴みかねているだけじゃねえ。おまえ自身の力を、自分で掴みかねてる。だから、俺に対しても、迷いが出る。明確なイメージが描けないでいるんだよ」
それはその通りかもしれなかった。
「だから思い切り来いと言っている。結局それしかねえ。全力で挑んで初めて底が知れるのよ」
言葉が終わるか、終わらないかのうちに、明菜は踏み込んでいた。
右腕を繰り出す。嵐の望み通りに。
だが、目の前で嵐は消えた。
「遅せえよ」
声は背後でした。すべての能力を格段に向上させるというプロテクターの所作か。
「まだ、迷ってるな」
腕の動きに、攻撃の速度に遅れはないはずだった。絶対の自信といってもいい。
だが、その動きが通じない。悉く、拳が空を切る。
嵐は反撃しなかった。ただ、避けるだけだ。いつでも反撃できる自信の表れなのだろうか。
もう一発、打つ。
今度は嵐は避けなかった。
明菜の拳が胴へ入る。
が・・・・。
手ごたえは虚しかった。直撃のはずなのに、である。
「動きは分かった。威力も。吸収した・・・・」
嵐は呟くように言った。
「俺は正直、感嘆している。ただの人間が、俺達実行委員会を幾人も倒してここまで来たってことになあ。だからおまえとは、本当の殺し合いができると思う。センセの力は確かに高けえ。それは分かる。だが、所詮は素人の動きだ。これから見せてやる。絶望的な力の差ってのをなあ」
しゅうっと、嵐が奇妙な吐息をした。
刹那・・・・。
ぼわっと、白い霧のようなものがその全身から放たれて嵐の全身を包んだ。
その姿はまるで・・・・。
巨大な壁を背負い込んでいるようでもあった。
あるいは、翼を広げた化鳥。
「このプロテクターは、単に俺の能力を上げるだけじゃねえ。相手の力を吸収し、記憶することにある。おまえのその、禍々しい力の源は確かに記憶させてもらったぜ。なるほど・・・・なかなか心地がいいな。不思議な力だよ、実際」
その壁が・・・・・。
猛烈な勢いで迫ってきた。
そこから・・・・。
無数の腕が、淡く輝く無数の腕が現れたと認める間も無く・・・・。
明菜は叩きのめされた。文字通りだ。
四方八方から、容赦なく押し寄せる、拳の乱打。拳の壁。
何も出来ずに、彼女は無様に地面へ打ち倒された。
立ち上がろうとするも、身体に力が全く入らなかった。
この痛み。確かに殴られた痛みではある。打撃を受けたことによるものに違いは無い。だが、それとは別の感覚もあった。熱、火傷、近いがどこかそれとは異なる奇妙な痛覚。
あるいは、痛みは皮膚ではなかったかもしれない。どちらかと言えば、内。だが、境界は曖昧だった。外も、中も、どちらも痛んでいるようだった。
ゆっくりと・・・・・。
少しずつ、身体を動かす。
不思議と、ダメージの回復が早まっているような気がした。
息を一つ吸うたびに、身体を動かすのが楽になる。
「立て。こんなもんじゃあねえはずだ」
言葉通り、明菜はゆっくりと身体を起こした。その間、嵐は追撃しようとしなかった。
「見えるか?」
嵐は自身の両手をゆっくりと掲げた。
その指先は・・・・。
第一関節部分が、眩い光で包まれている。見れば、背後の無数の手の指にも同様の輝きが宿されている。
「こいつを食らっても、まだ立ち上がれるかあ?」
空気が動いたかと思えば、目の前に嵐が。
指を伸ばしたまま、五指を腹部へ突き刺すようにして彼は一撃を加えた。
全身に電撃のような衝撃が走った。
視界が真っ白になる。
発火したような感覚があったかと思えば、明菜は大きく仰け反った。
嵐が左手を同じようにして叩き込んできた。
のたうつような動きを見せて、明菜は吹っ飛んだ。
飛ぶと同時に、彼女は吐血した。
会場が割れんばかりの歓声に包まれる。
観衆はさらなる渇望をする。
血を。
暴力を。
そして、死の目撃者となることを。
誰もが叫ぶ。まだだと。まだ足りないと。
期待に応えるように、嵐が疾走に移る。
今度は、無数の手が武器だ。そのすべての指に、光が宿されている。
倒れている明菜目掛け、一斉に攻撃が繰り出された。
地面が抉れる。スパークする。火花が飛び散る。白煙が舞う。
彼女はどうなったか。
見えぬ。
無数の腕が、連打を繰り出しているからだ。
攻撃の余韻に浸る嵐は、どよめきに背後を振り向いた。
明菜がそこにいた。
嵐は軽い驚きを覚えたが、同時に納得したような表情を見せた。
「力を出し惜しみしてるなら、俺には勝てないぜ。せいぜい、引き出せ。己に迷っているうちに死ぬことになるぜ」
無数の腕が繰り出された。
明菜は、右の拳を握る。
数え切れない腕に、たった一本の腕で挑もうというのだ。
どちらに分があるかは一目瞭然。加えて、敵の指先に宿る光。
明菜の右腕が繰り出された。
それは直後、爆発したように膨れ上がった闇の奔流となった。無数の腕に対抗できる体積と面積を備えた一撃だった。
闇が腕の、拳の形を象ったのだ。その巨大な拳が、正面から、嵐の腕の壁と激突する。
二人の立つ地面が、すり鉢状に陥没した。凄まじい力の激突をそれは物語る。
心地よさを明菜は感じていた。
今まで・・・・・・、今までこれほど自然と、この力を解放したことがあったかしら。
どこかで、この力の強さを畏れていた。だから、どこかで、セーブをかけていた。
でも、分かった。
この力は、抑えようと思って抑えられるもんじゃない。私なんかの力じゃ、抑えることなんてできない。
そして今は、拳に力を入れるたび、腕を振るうたび、何かが、呼びかけてくる。
素直になることは悪いことじゃない。畏れることなんかない。
踏み越えてみろ。
さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ、さあ・・・。
畏れることはない。
俺が、オマエを食らって呑み込んでやるから!!
違う。いけない!この禍々しい力はッ?!
ああああああ。
呑まれてしまう。
でも、もう力は・・・・。
放たれてしまった。
何かが、流れ出したようだった。
両者が吹っ飛んだ。
「辿り着いたかッ!」
嬉々として嵐は叫んだ。快哉と言ってもいい。
明菜は・・・・・、無言である。
その目。
両目は赤く変じていた。今にも血の涙が流れ出しそうな紅。
彼女は地を蹴った。
今度は嵐が迎撃する格好だ。
一斉に腕が唸る。
黒き奔流と化した明菜の右腕は、その壁を・・・・。
突き破った。
嵐がバランスを崩す。予期せぬ反撃。その反撃は予想を超えていた・・・・。
しかし、驚愕はすぐに、狂喜へと変じた。
「それでこそ、挑戦者だ。来いッ!」
明菜が右腕を繰り出してきた。
動きも、キレも、力も、先ほどとは段違い、と嵐は見抜いた。
見切れないものではない。
拳は再び空を切る。
避けながら嵐は、明菜を目で追った。
食らいついてきた。ぴったりと。
攻撃の速力だけではない。動き全体が、格段に向上しているようだった。
考えて動いているわけではないようだ。がむしゃらに、嵐を追っているような動き。本能というか、荒削りな、動き。その癖、研ぎ澄まされている。
次の一撃も、空を切った。
だが・・・・。
近い。先ほどよりも、近づいている。無意味な空振りではない。
確実に。確実に、嵐の動きを見切り、最適な攻撃を繰り出すよう進化している。
動きは分かった。威力はどうだ?威力も進化してるか?
嵐は止まった。
「さあ、打って来い」
明菜の一撃は、今度こそ、攻撃吸収、記憶のプロテクターを破れるか。
ここへ来ていよいよ。
嵐のモードは、酔狂から、本格的な戦闘モードへと切り替わる。今の今までは、明菜の格段な進化に喜びを見出していた。だが、ここからは、相応の実力者にそれに見合った返礼をどう尽くすかを考え、行動に移すことに、その全神経は注力する。
改めて・・・・・。
死合い。
殺し合いなのだ。
力と力をぶつけ合い、魂の鎬を削るのだ。
己への再確認は済んだ。
そうなったら、理論も、策も要らない。
頭ではない。身体が覚えている。染み付いている。ただ、再現するだけだ。
この場での最適な攻撃を、身体はどう再起するか。
だがまずは知りたい。どう変わったのか。
見せてみろ。
拳は・・・・。
打ち込まれてきた。正しく、顔面へと。
本来なら、容易く頭部を四散させる一撃。
しかし、それは適わなかった。嵐は拳を叩き込まれてもその場から一ミリとて動いてはいない。
「おおおおおお・・・・これかッ。いいぞ・・・・・いいぞお」
攻撃の吸収、記憶は、剥き出しの箇所からも可能なのか。確実に嵐は、明菜の一撃を、覚え始めている。
「素晴らしい!先ほどとは比べ物にならないパワーッ!!これか。これが、おまえの底かッ!これほどとはッッ!!いいぞお。流れ込んでくる。力が、素晴らしい力が入り込んでくるぅッ!」
嵐は全身を震わせ、歓喜の叫びを上げた。
禍々しい力が流れ込んでくる感覚は、彼の血、肉を震わせ、躍らせる。
熱や、光。それは生を象徴する、とするならばまさに今、嵐はその恩恵を受けているということだろうか。燃え出してしまいそうな力の奔流。
これが我が物に!
これを手にすれば・・・・・・。
無敵。
いやこれは・・・・。
これこそ。
この力を求めていた。
これさえあれば、世界最強。
いや・・・・。
タイトルなんてどうでもいい。
格闘技じゃねえ。文字通り、世界を支配できる力だ!
「ふんッ」
嵐が右腕を繰り出す。
その腕は・・・・。
何かの獣の物のように巨大で、禍々しかった。
力が迸る。すべてを撃砕できる力。
それが、明菜に叩きつけられた。
意外にも彼女にはさほど通じていないようで、その身体は大きくは吹き飛ばなかった。
嵐は追撃する。
今度は左腕。こちらもやはり、禍々しい形状へ巨大化している。
繰り出された力の奔流は・・・・。
明菜の右腕に食い止められていた。
繰り出された力が、明菜のそれを吸収したものならば、双方の力は同一。
ならば、あとは基本的な力が、勝負を分けるだろう。
じりじりと・・・。
嵐が明菜を押し始めている。
やはり、基本的な力の差は嵐の方が上回っていたようだった。
「おまえは右腕だけ。だが、こっちは両腕だ」
食い止められているのとは逆、右腕が明菜へ襲い掛かる。
攻撃が達する前に、明菜は掴んだ左腕ごと嵐の身体を中空へと投げた。
その僅かな間に、明菜は右腕を繰り出す。
そこから・・・・・。
闇の奔流が迸り、中空の嵐へ襲い掛かる。
だが、相手も全く同じ攻撃を繰り出した。両腕から。嵐のそれは、黒ではなく、白。
二つの力が激突した。
白と黒。
両腕から繰り出した分、嵐が優勢だろう。
意外にも。
二つの攻撃は拮抗した。
その間、既に二人は動いていた。
嵐は地上へ降り立つや走り出し、明菜も嵐の着地を待たず疾駆する。
双方が同時のタイミングで拳を繰り出した。
等しく、互いの拳を拳は捉えた。同等の力の大きさであることを物語るようにして、離れるよう互いが吹き飛ぶ。
鏡に映したように、その身体は中空で反転した。
二人はまたも、着地後すぐに、疾走へ移る。
強大な力が激突した証左か。
交差点に、閃光が走り、大地が岩盤を上空へと吹き上げる。
観客がどよめきあげた。
吹き上がったのは、岩盤だけではなかった。
二人も・・・・。
もつれるようにして、明菜と嵐は中空を上昇していく。上は、果ての見えぬ天井。そのまま、宙へ放出されてしまいそうな闇だけが広がる。
上昇しながらは殴り合いだ。
明菜が拳を叩き込む。
嵐もまた。
だが、明菜の攻撃は、嵐には無ではなかったか?
逆に、その力を吸収、記憶した嵐の拳が、次々と、明菜へ打ち込まれていく。それでも、彼女の攻撃は衰えない。無駄と知りつつの攻撃か。あるいは、何か突破口を見出したのか・・・・。
「無駄だ。もう通じない」
勝ち誇ったように嵐は叫んだ。
「素晴らしい力だった。他の奴が負けたのがよく分かる。だが、そろそろ終いにしよう。底の知れた相手とは、もう戦えねえ」
巨大な両の腕が・・・・。
がっちりと明菜の両肩を掴んだかと思えば、二人の身体は急降下へと移った。
地面はすぐだった。
円形の大地が、すべて抉れて、吹き飛ぶほどの衝撃が走る。亀裂や破壊は観客席にまで及び、ホログラムであるはずの彼らが叫び、パニックを起こしている。
激突で穿たれた巨大な穴の中に、明菜は倒れ、その傍らに嵐は立っていた。
ピクリ、と。
明菜が指先を動かした・・・・・・ように見えた。
「まだ生きてるとはな。その腕の力故・・・か。起き上がれもしねえやつにトドメを指すのは性に合わねえが、これは死合い、だからな」
明菜の力を取り込んだ右腕がゆっくりと振り上げられる。
今こそ、その禍々しい破壊の力を解放し、そのすべてを、本来の所有者へ叩き込もうというのだ。
躊躇は無く、拳は振り下ろされた。
「・・・・・なッ」
右腕を丸々吹き飛ばされた痛みよりも、驚愕が嵐を上回った。
力を記憶され、倒れ伏し、もはや何の抵抗も、反撃も無駄なはずの敵が・・・・・。
見えなかった。
力を記憶したことで、彼女の見切ったと思っていた。
攻撃の威力も、既に底が知れたと思っていた。反撃を食らうことは、それによって多大なダメージを増してやプロテクターを装着している腕を一本、吹っ飛ばされるとは・・・・。
まさか、まだ底ではなかったというのか?
こいつは・・・・・ッ!
「・・・・その、程度なの?」
ゆっくりと上体を起こしながら明菜は言った。
「その程度か?と聞いている」
声は明菜。だが、明らかに異質なものが、そこに憑依しているかのような口調は。
「ガッカリさせないで頂戴」
何かが、嵐の中で・・・・。
崩れた。
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッッ!!!!!!!!!!!!!
遮二無二、残った左腕を繰り出した。
全力で。明菜から吸い、記憶したすべての力を込めて。
だが、易々と、右腕に受け止められていた。
何時の間にか、禍々しく、異形のそれに変形した腕によって。
「こんなもんだと、思ったの?この力を・・・・」
段階的なものに明菜は思われた。
徐々に、徐々に、肥大化と縮小、増大と停滞を繰り返しつつも、確実に、内に巣食う得たいの知れぬ力が殻を破り始めているのを感じていた。
「なぜだ?!既におまえの力はすべて吸収し、覚えたはずだぜ?まだ・・・・・まだ“先”があるってえのか?」
嵐は変形した腕に力を込めて強引に押し込もうとする。だが、まるで歯が立たぬ。
「おまえ如きに知れる底ではないわ」
変形した明菜の右腕を、黒い炎が包み込んだと思った刹那、嵐は吹き飛ばされた。
ゆっくりと、明菜は立ち上がる。
黒い炎で包まれた皮膚に刻まれる赤色の鱗のような不可思議な文様。
「カオスの右腕」
厳かな宣言は、明菜自身によるものか、あるいは、力の源を生む何者かの言葉だったか。
明菜の眼は・・・。
両目とも赤く輝いていた。
「くそッ・・・・・くそ・・・ッ」
ゆらゆらと、嵐は立ち上がった。
今受けた衝撃で攻撃を吸収、記憶するプロテクターが、随所で剥離している。もはや防御も、記憶も期待はできまい。
それでも尚、嵐の闘志は衰えを見せてはいなかった。
不敵な、笑み。
どこからそれは来るのか。
「おめえの底がまだ深かったように、俺にもまだ底はあるんだよ。フェアに行くぜ。俺は、これからが本当の底だ。もう、これ以上はねえ。おめえはどうだ?」
一格闘家としての、信条か。
放たれた問いは、一格闘家としてのものだったのかもしれない。
だが、彼の前に立つのは、破壊の女神だ。格闘家の言葉で通じる相手かどうか。
「さて」
明菜は小首を傾げた。
「不思議な感覚なのよ、実際。入り乱れているって言うの?いろいろな人格が私の中で、出たり入ったりしてる。いろいろな声が聞こえてくるの。体温もさっきから、上がったり下がったりしてる。物の見え方も、次々変わるし、聞こえてくる音も、どんどん増えてくる。かと思えば、いつもの私の感覚に戻ったりもする。私の方こそ知りたいくらい。これから私は、どうなるの?この力は?あなたがもし、私の限界を知りたいのなら、それは止めたほうがいいと思う。私はもう、戻れないわ」
弱音にも聞こえるその独白を、嵐はどう受け止めたか。
いずれにしろ・・・・。
嵐は構えた。
綻んだプロテクターの合間から、鮮血が滴る。嵐の肉体は、満身創痍の状態にあるのだった。
だが・・・・。
その鮮血は、滴り落ちることはなく、プロテクターの中へと染み込み始めた。
みるみると、その表面を血管のように、細い血の川が全身へと巡っていくのが見える。
「ブラッディー・モード」
拳は、朱の光に包まれていた。
不意に、その身体が疾駆する。
怪我人とは思えぬキレのある動きは、プロテクター装着時をさらに上回るスピードだった。
拳が、明菜の腹部へ叩き込まれる。
電撃にも等しい衝撃を与えるエネルギーを帯びた拳だ。それは、さらなる破壊力を伴っている。
一瞬、火花を散らして明菜は吹っ飛んだ。
間髪入れずに嵐は追撃を加えにかかる。
奇怪な、実に奇怪な肉体の変化を伴い。
その足が、まるで蛇の身体のようにして伸び、ぐるぐると、明菜の身体を固定した。ありえぬ角度から腕が彼女の首へと回され、がっちりと固定している。
「このまま全身の骨を砕かせてもらうぜ」
嵐が全身へ力を込めた。
まさにそれは、蛇の身体の如く、明菜の身体を締め付けにかかる。その拘束力はライオンすら屠れるほどで、骨を砕くのみならず、最終的には肉までも引き裂く。
首を捉えている腕にも力が篭る。敗れたとは言え、明菜の力を発現している腕だ。みるみる彼女の顔面が、否、全身が鬱血を始める。
だが折れない。いかに力を込めようとも、明菜の身体は骨一つ折れなかった。締め付けが弱いのではない。とっくに、全身の骨は砕かれていて然りの力で締め付けているはずだ。
「これが・・・・・・これが底というのなら、お終いね」
軽く身体を振るっただけで、嵐の拘束はあっけなく解かれた。
驚愕、ではなく恐怖。
今、嵐は恐れている。
恐れを知らぬ男が恐れている。
今の、必殺の固め締め技は紛れもない、嵐の秘儀に違いなかった。それが、こうもあっさりと。
しかし。
しかし、だ。
恐怖が嵐を染めたのは、ほんの一瞬だった。
恐怖を心へ閉じ込める。そうすることで、どんな試合でも、どんな相手にも勝ってきた。
既に、今抱いた恐怖は心へ押し戻した。
「底かどうか決めるのはまだ早ええぜ」
動いた。
刹那、一帯の空間が朱に染まる。
明菜の中で、嵐の姿が消失したように見えた。
嵐には彼女が止まっているように見える。
相対的な、その認識のズレ。
それは嵐の周囲の空間が、彼よりも動きを遅くし、且つ、彼自身の速度が飛躍的に加速した故だった。
従って、彼が明菜の後ろを取ることは、容易かった。
且つ、赤色の光を湛えた拳を叩き込むことも。
二度、三度と、拳が打ち込まれる。そのたび、数秒遅れて眩い閃光が打撃部から迸って、スローモーションのようにして明菜が吹き飛んでいく。
緩やかな動きの敵を追撃するのは容易かった。
中空をゆっくりと飛ぶ明菜の胴へ、さらなる追加攻撃を加えていく。本来ならば、内臓はとうに破壊され、続いて肉体が損壊を始める。
だが・・・・・。
まるで、空っぽだ。中身が無い。
必殺の攻撃は次々と、虚しい手ごたえだけを伝えてくる。一体どういうわけだろう。
考えるな。余計な思考は、隙を生むだけだ。
拳を振るう。蹴りを繰り出す。
それでも、空っぽの虚しい手ごたえは一向に変わらない。
遮二無二殴った。蹴った。空疎な手ごたえを埋めるように。
だが、埋まらない。
埋まらない、埋まらない、埋まらない、埋まらない、埋まらない、埋まらない・・・・・・。
なぜだ?なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、くそッ・・・・くそ、くそ、くそ、くそ・・・・・。
「やはり・・・それが底か」
依然、吹き飛ぶモーションを続けている明菜が口を開いた。言葉は同じ速度で発せられている。
「終いにしよう。今度こそ」
くるっと、中空で明菜は実を捻った。
はじめから、嵐の空間支配を受けてなどいなかったのだ。
黒い炎に包まれた拳を握る。赤い文様が輝きを増す。両目もまた、赤く染まった。
走る。
それこそ、嵐の目には止まらない。
「・・・・・ぐふッ」
貫かれる感触。
全身に炎が広がっていく。
熱い。
身体が四散するのを感じた。解体されて尚、熱さだけは消えなかった。
明菜は、絶命した嵐を見届けることなく、観客席へと跳躍した。
右腕を振るう。
紛れもない、魔神の右腕は、次々と、観客達を血祭りに上げていく。
だが、彼らはホログラムではなかったか?
それでも、血と殺戮を欲する明菜の右腕は、その欲望を満足させるために、本来なら触れることすら適わぬものすら、破壊してのけていた。
そこにあるのは、一方的な虐殺だった。
拳によって千切り飛ばされ、燃えていく者たち。
確かに彼らは死を弄んでいたかもしれない。自らは安全圏にいて、その高みから、死を賭した戦いを見つめて、ひと時の楽しみとしていたのだから。彼らにとって命など、消費される娯楽の種でしかない。一つの命の終わりは、次の命の登場で容易く穴埋めができてしまう。
見方によれば、明菜の虐殺は、そんな者たちに対する当然の行いと言えた。
紅明菜は処刑人なのだ。裏の世界に生き、許されない存在を処する。
それにしても、それにしても、これはあまりに一方的な殺戮でしかなかった。処刑などではない。ただの殺戮だ。そして、今の彼女は、処刑人としての倫理に従っているのではなく、単に右腕の欲を満たすためだけに、殺しまくっていただけだ。
ものの五分もしないうちに、ホログラムの観客達はすべて、「粛清」されてしまった。
あとには、完全なる静寂が。
と・・・・不意に。
脱力感が明菜を包む。
「まだ・・・・・完全ではないかッ。だが・・・・・そのうちだ。そのうちに・・・・・この心・・・・食らい尽くしてやる・・・・」
うめく様な言葉を発しながら、明菜は宙を掴むようにしてもがく。
転げるようにして闘技場へと落下し、そのまま地面の上でのた打ち回る。
全身が熱い。高熱に包まれている。関節が痛む。筋肉が千切れそうだ。血が沸騰しているかのようだ。血管が膨張して破裂してしまいそうだ。
白昼夢。それも、只管に、邪悪な悪夢を見ているかのようだった。
闇が。漆黒の純粋な闇がすべてを包み、塗りつぶしていた。
声だけが、響いている。外の世界は遮断されていた。
そして今、漸く、世界が開かれた。気づいたときには・・・・。
私は天井を見ていた。
あいつは・・・・嵐は?
一帯が凄まじいまでに破壊されている。濃厚な血臭に思わず吐きそうになる。
記憶の欠落。
何も覚えていなかった。
戦いは、終わったみたい。でも、いつの間に?
すべては、あの闇の中で起きていたというの?
ぶるっと、別のものに明菜は身を震わせた。
闇に閉ざされていた間の記憶が逡巡する。
闇。
そいつは、自分を「カオス」と名乗った。
「おまえを、喰らい尽くすのが夢だった。ずっと、ずっとそのチャンスを待っていた。漸く、その時が来た」
独白のような暗い湿った声が印象的だった。
男なのか、女なのかもよく分からぬ中性的な声音など、ありえないが、そう聞こえた。
「これまでも、何度も、何度も、おまえを助けてやったよな?覚えているだろう?なぜか分かるか?おまえなんて、俺にとってはどうだっていい存在だ。死のうが、生きようがな。だがな、おまえの心は、否、おまえは美味だということを、ふとした時に知ったのさ。だから、生かすことにした。生かせば生かすほど、おまえという存在は甘みを増してくる。だんだん熟れてくる果実をじっくりと味わおうと、その時に決めた。だから、おまえを殺さず、生かした」
不気味な独白は続く。
「どこかで、おまえは俺の存在に気づいた。そして、畏れた。だがな、おまえは力を抑え、俺のことを抑えたつもりだろうが、俺なんかはいつだって、おまえを食えたんだぜ?けどな、その時にはまだおまえは俺が満足し、納得する味にはなってなかった。だから出なかっただけの話よ。だが気づいたんだ。そうやって、おまえと出会いを重ねるたびに、むしろそうすることで、おまえの味が良くなっていくことに。お前達人間と同じだ。知り合い、付き合いを重ね、深い関係を結んでいくようにな。今、そしておまえは俺好みの味になってくれた。それが分かったから、こうして出てきてる。おまえはもう、俺のものだ。食らっても、食らっても、無くならない夢みたいな果実がおまえだ。ずっと、しゃぶり続けてやる。食らい続けてやる。何、怖がることはない。最初は慣れないだろうが、おまえもいい思いをするようになるさ。俺とおまえは、一つなんだから」
捩れていた。歪んでいる。偏屈であまりに一方的な論理だ。主張だ。だが、その不思議な声音は、正常な思考や感覚を麻痺させて、とろけさせるには十分だった。
奇妙なまどろみにも似た感覚の中で、幻覚のように響く声がふと、途切れた時に、目覚めはやってきた。
再び、起き上がるのに、大分時間を費やした気がする。
どこかまだ、熱に浮かされている感じだった。頭がぼんやりとするし、身体の節々もどこか痛む。
しかし、そんなことは長く言ってられそうにもなかった。
ぐらり、と地面が揺れたかと思えば・・・・。
巨大な瓦礫の塊が落下してきた。
ドームが、崩れ始めていた。
急激な破壊か、嵐が死んだためかは分からない。
天井から、次々と瓦礫の塊が落下してくる。揺れが激しく思うように動けない。瓦礫の直撃も時間の問題、と思っていると足元が崩れた。
不意に出現した、闇の穴。
その中へ足を滑らせた明菜は飲まれるようにして消えていった。
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