紅挽歌〜怪魔園鬼文〜(3/9)縦書き表示RDF


魔の力を宿す右腕を武器に、荒廃した学園へやってきた処刑人、紅明菜。
教頭を苦戦の末に撃破するも、学園を取り巻く異変は次第に加速を始めていく・・。
紅挽歌〜怪魔園鬼文〜
作:VIOLET ZAX



第二章 住宅街魔戦録


 その夜。学校の校庭に、変化が生じていた。変化と呼ぶならば、恐らくはこの夜を境にして、学校は変化を始めていくだろう。
 校庭の中心に、着々と何かが築き上げられようとしている。古代のエジプト人が今、この光景を見たのならば、自分たちが築き上げてきたものと同じものがここに再現されようとしているとすぐに知れるだろう。規模こそは、本家の比ではないが、紛れも無く、校庭に築かれようとしているのは、ピラミッド以外なかった。
 だが、その一つ一つの巨石を運ぶのは、エジプト人でもなんでも無い。学校の男子生徒たちである。全員が上半身裸の、高校生とは思えぬ屈強な肉体をさらし、重機の力もなしに、大の大人が何十人かかっても持ち上がりすらしそうにない巨石を、数名がかりで運び上げ、黙々と積み上げる作業に勤しんでいる。
 作りかけのピラミッドの周りにはライトではなく、夥しい数の蝋燭が置かれて、明かりを提供している。風一つない、穏やかな夜だ。空には赤みがかった不気味な色の月が浮かび、雲ひとつ無い。
 その中で誰一人、私語をしようともしない。
 それは、昼間の姿とはまさに間逆である。
 真剣かと言えばそうでもない。どちらかと言えば、その表情には表情がなかった。まるで仮面である。
 仮面のような無表情を貼り付けた奇妙な男子生徒たちは、只管に石を引き、持ち上げ、運び、積み上げ続けているのである。そこには鞭を振るい、彼らを鼓舞する存在もいない。誰もが、無表情ながら、誰に強制されるでもなく、自発的にこの奇妙な作業に打ち込んでいるように見える。
 一体、この作業自体がいつから始められたのか。
 いや、そもそも、一つ一つの石はどこから運んでくるのか。
 こんなものを校庭に築き、どうしようというのか。
 疑問だけはとりとめも無く沸いてくる。が、誰一人、それに答えを出そうともしない。いや、彼らは既に、その答えを知っているのだろう。知っているから疑問など持ちようも無い。彼らには、既知の知識を具現化する以外のことに興味などなかった。
 古代のエジプトならばともかく、近代化された現代の日本だ。石切り場などが、あるはずもない。だが、石はまるで、蝋燭さえも照らせない黒々とした闇の中から沸いて出てくるかのように、どこからとも無く、男子生徒たちが引きずってくるのである。
 それだけならば、である。
 校庭を埋める光景は、時を追うごとに、さらに奇異な彩を加えていく。
 どこからともなく現れる人々を見よ。僧衣のようなものを頭から羽織ると、彼らは大挙してピラミッドの周りへと集まり始めたかと思うと、着衣をはらり、と脱ぎ去って裸身を蝋燭の明かりの元に晒した。彼らは、夥しい数の若い男女だった。
 すべてを晒した刹那、彼らは相手構わず絡み合いを始めたではないか。男と女、女と女、さらには男と男。忽ち、夜空の下に、猥らな酒池肉林の世界が展開を始める。響く喘ぎ声と肉同士の絡まりあう音。しかし、ピラミッドを着々と形にしていく男子生徒たちには、彼らの狂態など眼中にないらしく、依然、生気の失せた表情のままに、黙々と作業を推し進めていく。
 闇が、続いて新しい役者を招いた。
 こちらは、何やら銀色の皿のようなものを両手に抱え、儀式色の強い、絢爛たる衣装を纏って正装した男女。化粧のようなものを施された顔つきは、異国の人間にも見えた。皿の上には、山盛りのフルーツや、食物、さらには血がまだ滴る生肉などがそれぞれ山のように盛られている。この一団は、狂態に耽る一団を縫うようにして、彼らからは少し離れた位置に陣取ると、厳かに皿を大地に置いて、それから自身も跪いて、額づきし、何やら文言を唱え始めた。人語ではない、異世界の言葉で。
 続き、また別の一団がどこからともなく現れる。
 今度は、屈強な肉体をした、凶悪な顔つきの男たちが、泣き叫び、喚く男女を無理やり引っ張ってきている。その男女は、今、この場に介している男女と比したなら、至極まっとうで、どこにでもいるような格好の若者たちだ。彼らは、奴隷よろしく両手、両足に鉄の枷を嵌められ、筋肉の塊みたいな男にピラミッドへと引きずられてきていた。
 かくして、辺りには、快楽を貪る男女の歓声と、呪術集団の厳かな呪文と、連行される男女の抵抗の叫びが入り混じった実に奇異な光景が展開されることとなった。
 「贄が到着した!」
 誰かが告げた。告げたというより、それは叫びだった。
 どよめきが上がる。どの一団があげたどよめきだったか。
 「礎は出来たか!」
 誰かの叫びに、どよめきによる返事。
 「ならば、捧げよう!」
 どよめきが一斉に校庭を走る。それは、大きな波のようであった。野蛮な地響きが、それでいて辺りには決して漏れ出さぬ。
 男たちによって、鎖付きの男女は強引に、ピラミッドの道なき道を歩かされ、上らされ、押し上げられ、引っ張りあげられていく。
 今、一旦作業していた男子生徒たちはその手を止めて、成り行きを見守る。性交に耽る男女と、文言を唱える男女だけが、己のペースを乱さない。それすらも、今になってみれば、一つの役割に過ぎないのかもしれぬ。
 いずれにしろ、連行されてきた男女は、今、出来上がっている一番の高みまで引っ張りあげられると、乱暴に突き落とされた。
 彼らが落とされたのは、丁度そこだけが窪んだ、大きな溝のような、天井だけがない部屋みたいな場所だった。その空間には、出入り口はなく、ただ組まれた石だけがぐるり取り囲む。開放されている天井部分まではかなりの高さで、とても這い上がることはできそうにない。
 何人かがうめき声を上げている。落ちた際の打ち所が悪かったのか、足を痛めたもの、身体のどこか各所を傷めたものが、苦痛のうめき声をあげているのだ。
 「ここより、始まるのだ!」
 叫び声が厳かに、しかし力強く告げた。
 「贄の血により、肉により、真の礎が生まれるのだ!」
 辺りを揺るがすどよめきは、この部屋の中にまで響いてきた。
 「捧げよう!」
 再びどよめき。
 おおおおおおおお、という獣の雄叫びが、部屋の中を地震のように揺らす。
 不意に、その空間に異変が生じた。
 誰か、内の一人が叫ぶ。紛れもないパニックと、何より苦痛の叫びだった。
 見るがいい。
 その声を上げた男の身体は、床の中に沈み始めたのだ。しかし、他の者たちには何の異変もまだ無い。一人だけが、床の中に消えていく。
 いや・・・・・。
 食われていた。
 骨が折れる音がする。肉が剥ぎ取られる音がする。何よりも、不気味な租借の音がする。
 気が狂いそうな激痛に、狂ったような叫びをあげてその男は抵抗したが無駄なものだった。見る見る身体は腹まで沈み、胸の辺りでもう男は絶命していた。そうやって、いとも易々と、男は床の中へと消えていった。
 別の女は吸い付くように壁に張り付いた。
 その身体が少しずつ、壁の中に飲まれていく。
 パニックのあまり、女は絶叫した。が、それだけではない。先ほどの男が激痛しか感じなかったとするのならば、女は真逆だった。壁に飲まれる全身は凄まじい快楽に包まれていた。激しく身体を痙攣させつつ、失神しながらその身体は壁の中へと消えていった。
 そうやって、ある者は激痛に貪り食われ、ある者は快楽に蝕まれつつ、壁や床の中へと飲み込まれていった。辺りには、彼等の鮮血が飛び散り、ドス黒いペンキをぶちまけたような有様だった。
 「ここに、選ばれし贄たちは捧げられた!」
 人を飲む部屋を覗き込みつつ、男女を突き落とした屈強な男達は現状の頂上から高らかに叫んだ。
 「見よ!!」
 その言葉を待つまでも無く、ピラミッドに異変が生じていた。
 作りかけのピラミッドは、血を流していた。
 組まれた石の隙間から、溢れ出す真紅の血は先ほど飲まれた男女のものだったか。それにしては、凄まじい量だった。
 「真の礎は、ここに完成した!!」
 男達は、それぞれ、地上の様子を睥睨した。
 流れ続ける血が、地面を伝い、ピラミッドの周囲へ広がる。文字通り、そこは血の海と化す。その鮮血に欲情をさらに高ぶらせる変態どもは、全身に血を擦り付け合い、飲み干し、転がり、一層、淫らで卑猥なまぐわいを続けた。
 額ずく男女は、その血を両手で掬い、頭から浴びつつも、さらに熱のこもった呪文を唱え続ける。いつの間にか、彼らはピラミッドの方向を向いていた。
 そして、一旦、作業を止めていた男子生徒たちも、活動を再開する。黙々と、変わらぬペースで巨石を運び、積み上げ続けていく。彼らは疲労というものを知らぬようであった。
 校庭一杯に広がり、満ちていく血の中から、何かが立ち上がる。全身から血を滴らせたそれは、腐った全身をふらふらさせながら、ピラミッドの周囲へと集まり始める。生ける死体たちは、今宵始まったこの摩訶不思議、奇怪な百鬼夜行の新しい列になるがために、ピラミッドの周囲を、互いに手を繋ぎ、不細工なダンスらしき舞踊を展開しつつ回り始める。
 夜空では何かが闇を切りつつ飛翔していく。真の闇と思えた空は、いつの間にか赤みがかり、かと言ってそれは夜明けというわけでもない。怪しげな色合いは、校庭の上空のみに出現し、バサバサと蝙蝠のような、鳥のような生き物が、けたたましい鳴き声、羽音を擦れ合わせて飛びすぎていく。
 どこからか、太鼓と笛の音が聞こえてきた。
 見るがいい。どこからとも無く、松明を掲げた一団。草を折り合わせたような腰巻以外は何も纏わず、頭には、やはり植物で作った冠のようなものを携えたその不可思議な一団は、太鼓を叩き、笛を吹きながら、生ける死体のダンスの輪に加わっていく。リズムは彼らが奏で、楽器を持たぬものたちと、生ける死体が踊り、舞う。
 地面に跪き、額ずく集団の数も、いつの間にか倍以上に膨れ上がり、一角には供物らしきものの山まで出来上がっていた。大量の生肉や植物、中には人骨さえ見受けられる。それらはただの供物の山ではなく、きちんとした飾りつけの元に備えられているようであった。彼らの唱える呪文が、太鼓や笛の音に乗る歌のような役割を担い出し、不器用なダンスが、どこか形を整えつつある。生ける死体のぎこちない動きが、次第に精錬を見て、踊り舞う半裸の集団同様、何かを模し、表現しているようなパターンある動きへと変化を始めていた。
 その中を、黙々と巨石を運び、ピラミッドの完成を目指す男子生徒の集団。もはや、それは単なる作業ではなかった。一つの巨大な流れ、渦。その一翼として彼らはあり、他のものたちも、またピラミッドの完成のための一つの役割をそれぞれ担っているようであった。
 奇怪な夜である。しかしそれでいて、その光景は、傍目には決して写らぬのである。校庭のみが、特殊な結界の中に隔離されているかのようであった。その中で、大いなる百鬼夜行の構成員たちが歌い、舞い、肉欲の限りを尽くしてこの壮大なる、一大イベントの主役をそれぞれが張った。人の時間に換算するならば、それらは一晩中続けられたことになるのであった。


 時をほぼ同じくして。
 閑静な住宅街を、奇怪な一団が練り歩いていた。
 ふんどし一枚で神輿を担ぐ屈強な男たちは、皆、あのピラミッドを作っていたのと同じく、男子生徒たちである。夜気は冷え冷えとしており、闇に潜むすべてが、鋭利な刃物のような鋭さを秘めていた。降り注ぐ月光然り、時折吹くそよ風然り。
 神輿は、喧騒に彩られた祭りのものというよりは、ここに限っては、時代劇に出てくる籠のようなもので、肘掛がついた台座が据え付けられている三角屋根の箱である。担ぎ手も、気合の叫びを放って荒々しく神輿を揺さぶるのではなく、粛々と無言のうちにそれを担ぎ続けた。
 彼らを先導するのは白装束の一団。見れば、これもあの学校の男子生徒であると知れるだろう。彼らは装束のみならず、顔にも白粉を施し、さらには真っ赤な口紅を塗って、幽鬼か何かのような鬼気迫る雰囲気を振りまきつつ、両手には蝋燭を厳かに携えつつ、神輿を先導していく。
 神輿の後ろには、こちらも白装束を纏った一団。あの長老三人衆、小野、中島、青木である。その長老たちを挟むようにして殿を務めるは、やはり白装束の男子生徒たちである。大名行列と呼ぶにはあまりにも短いが、その超短縮版と言えよう。白一色の奇怪なそれは、まさに亡者の群れと呼ぶに相応しかった。
 寝静まった深夜ながら、画一的な住宅街のいくつかの窓には明かりも灯されている。しかし、この一団が無言の行進を続けているためか、誰一人として窓から外を眺める者もおらぬ。
 いや、目を凝らせば、周囲の家々の窓という窓から、彼らを見守る視線が漏れていることに気づくだろう。カーテンの隙間から、暗闇の中から、家々の住人たちは、息を潜めて、奇怪な一団の行進に見入っているのだ。それは好奇の目からではない。恐れと、密やかなる歓喜が入り混じった視線。それでいて、決して、彼らに悟られてはならぬと言わんばかりに、堂々と、その姿を睥睨する者は誰一人おらぬ。あたかも、寝静まった深夜の住宅街を装っている。そう、住人たちは知っているのだ。この一団の正体を。そして目的地を。
 ああ、気づくだろうか。自分の家を通り過ぎたのを確認した、住人たちの安堵の表情を。ほっと漏らしたため息を。それでいて、一団が完全に見えなくなるまで観察を止めず、いよいよその姿が消えてから眠りにつく光景を。
 一体、この奇怪な一団が何だというのだろうか。彼らはどこへ向かい、何をしようとしているというのだろうか。
 やがて・・・・・。
 一団は、ある一軒の家の前で厳かな停止をした。
 「安西」という表札が掲げられている。
 長老たちが動く。他のものはそのままの姿勢で、正面を向いたまま身じろぎしない。
 しゃん。
 長老三人が、鈴を揃って鳴らした。
 しゃん。
 一歩進むたび、彼らは鈴を鳴らす。
 しゃん。
 そして、そのままゆっくりと玄関ドアへと進んでいく。
 「ああ、可愛そうに」
 「今回は安西さんちの娘が選ばれたんか」
 「うちも来年は巫女の年齢になるねえ。怖い、怖い。いつまでこんな恐ろしいことが続くんだろうね」
 「大きな声を出んじゃないよ。聞こえるよ」
 「うちの子じゃなくて良かったよ」
 近隣の家々では、静かな囁きが交わされている。それは、目の前の光景に関する同情と、安堵と、微かな不安の発露だった。
 しゃん、しゃん、しゃん、しゃん。
 チャイムの代わりのつもりなのか、長老三人はより一層激しく、大きく鈴を鳴らした。
 しゃん、しゃん、しゃん、しゃん。
 あたかも、住人が起きていることを、そして何が起きたのかを知っているかのように。
 しゃん、しゃん、しゃん、しゃん。
 それから長老達は玄関の扉を開けた。鍵は開いていた。
 その向こうには。、
 三つ指をつき、正座して三人を出迎える男女。
 この家の主、安西健一と妻美智子であった。
 「安西安住さんのご両親ですね」
 小野は抑揚の無い声で確認した。
 「はい」
 二人は声を揃える。
 「娘様をお迎えに馳せ参じました」
 二人の顔が、赤みがかったようだ。
 「おお、それでは」
 「失礼します」
 と、三人はずかずかと、土足のままで安西家へ上がりこんだ。二人はそれを咎めようともせぬ。 
 「・・・どうしたの?お父さん、お母さん」
 階段の上から声が降ってきた。寝巻き姿の安西安曇だった。
 「お迎えが来たんだよ、安曇」
 白装束で、白粉を塗り、口紅を塗った鬼のような様相の老人三人が、階段を上がってくる。
 異様過ぎる事態に安曇は立ちすくんでしまった。
 「お迎えにきたよ、安西さん」
 青木が言った。
 「あ・・・・あ・・・・」
 信じていなかった。
 あんな話は。
 あんな噂は。
 「今年の巫女は君だ」
 「嘘・・・・」
 「君は選ばれたんだよ。もっと嬉しそうにしなさい。それと、衣装を持ってきたから着替えなさい。皆、もう外で待っているよ」
 「そんな・・・・・」
 まともな言葉が出てこない。嘘だ。あんな話は・・・。
 「そうだよ、どうして喜ばないんだ?これはとても喜ばしいことなんだよ」
 「いや・・・・。嫌よ。どうして二人とも、止めてくれないの?間違ってるって言ってくれないの?」
 「何も間違っていないからよ」
 美智子は平然と言った。何を分かりきったことを、と表情が言っている。
 「そうだよ、こんな喜ばしいことなんだから。おまえは選ばれたんだぞ」
 「そんな・・・・。何に選ばれたか分かって言ってるの?」
 「もちろんだよ。学園祭を彩る神聖な巫女だ」
 「ほら、ご両親もこんなに祝福してくれているよ。さあ、これに着替えて」
 その服は中島が携えていた。綺麗に折りたたまれた白装束。
 「いや・・・。絶対に嫌っ!」
 安曇は叫んで部屋へ駆け込んだ。幸い、鍵がかかる。
 電話。電話だ。警察に知らせよう。
 ベッドの上に放り出してあった、携帯電話を握り、110へ電話した。
 だが、繋がらない。
 「おかけになった・・・・」
 「嘘よ。どうして繋がらないのよッ」
 もう一度、110を押す。間違えるはずがない。
 しかし、返ってきたのは無機質な機械の音声のみだった。
 「安西さん。時間がないですよ。ここを開けてください」
 猫なで声の中島の声が気味悪かった。
 ここに篭城しようか。いや、窓から逃げよう。
 「安曇。いつまで馬鹿な意地を張るつもりだ。いい加減にしなさい」
 「そうよ。この親不孝もの。お母さん達に恥をかかせないで頂戴」
 どうかしてる。
 明らかに両親はどうかしてしまってる。
 ああ、あんな話、信じてなかった。嘘だと思っていたのに・・・。 
 とにかく、ここから逃げなければ。
 静かに、ベランダへ続く窓を開いた。パジャマ姿のままだったので、夜気は身に堪える。それでも、あいつらに連れて行かれるよりはマシだ。
 「鬼ごっこですか?」
 安曇は愕然とした。
 ベランダに、いつ先回りしたのか、小野が立っていたのだ。その佇まいは、夜叉そのものに見えた。白髪の髪、白粉、白装束、赤い口紅・・・・・。
 「ここから逃げられると思ったのですか?」
 にこにこしながら、小野は安曇へ近づいた。もはや動くこともできなかった。
 あっさりと腕をとられて、安曇はそのままベッドへ突き飛ばされた。小野は鍵を開け、中島と青木を招き入れる。
 「着替えて下さい。十分後にまた来ますよ」
 バタン、と無情にも扉は閉じられた。
 どうしようもなかった。ここからは逃げられないのだ。私は連れて行かれてしまう。
 先生・・・・。
 不意に、明菜の姿が脳裏に浮かんだ。あの人なら・・・・。
 しかし、今ここに明菜はいない。連絡先も知らないから、どうしようもなかった。
 とりあえず、一旦はここを大人しく出て、隙を見つけて逃げ出そう。
 丁寧に折りたたまれた白装束を広げた。帯が赤という以外は、小野たちが着ているものと何ら変わらないよな衣装。長い大鏡の前で、安曇は着替えた。
 私は諦めたわけじゃない。隙を見つけて絶対逃げてやるから。
 鏡の前で決意を新たにすると、十分を待たずに彼女は自分から部屋を出た。
 「早かったね」
 小野が微笑した。化粧した老人の微笑は不気味である。
 青木と中島の姿が無い。
 すると、階下から卑猥な喘ぎ声が上ってきた。
 小野に手をとられるようにして階段を下りる。安曇は目を見開いた。
 全裸の母が、同じく全裸の青木と中島に攻め抜かれているところだった。
 玄関マットの上で四つんばいになり、背後から中島に貫かれ、口では快楽の叫び声をあげつつ青木の男根を舐め上げる美智子。その様子を見て、父の健一は自慰に耽っている。
 老齢であるのが嘘と思える青木と中島の男根は長く、太かった。
 「警察に電話した罰だよ」
 すべて知られていたのだ。
 「・・・・ご覧」
 その刹那。
 目の前で何が起きたのか、安曇には理解ができなかった。
 ただくるっと、両親の首が回転したかと思えば、それらはねじ切られていた。その弾みで健一の男根はわずかばかりの白濁液を放出した。
 ゴトっと鈍い音を立てて、二人の首が床へ転がる。漫画みたいに鮮血が噴出してフローリングを、玄関を汚していった。
 「いやあああああああああああああああああああああああああああ」
 事態を冷静に処理するより前に、異常な状況に耐え切れなくなった精神が、その安定と均衡を取り戻そうと狂ったような叫び声を安曇にあげさせた。
 「やれやれ汚らしい。これから巫女が通るというのに」
 その悲鳴の中、侮蔑に満ちた表情を転がる生首に向ける。快楽の最中の死のためか、苦痛よりむしろ、恍惚に満ちた死に顔であった。
 「人殺し!!この人殺し!!!」
 「人殺し?人殺しというのは、人を殺した時に使う言葉だよ。この二人は、人間ではない。それ以下だ。畜生にも劣る獣だよ。君以外は皆そうだ。選ばれた者以外は、皆人であるということを名乗ることすら許されはしない。人、人、人・・・・。人というものがそんなにエライものかね?獣だ。畜生のほうがまだ分別がある。まあ、最後は人間らしい、下劣な快楽のままに死なせてやったのだから、感謝してもらいたいものだがね」
 小野は平然と繰言を並べた。青木と中島も白装束を羽織直している。
 「さあ、いつまで駄々を捏ねるつもりかね?ご覧」
 小野は扉を開けた。
 外には・・・・・。
 神輿を担いで待つ、あの集団。
 あまりに異様なその様相に、安曇はすっかり生気を挫かれたようになり、呆けた有様のままその場に崩れてしまった。
 長老三人は黙って、そんな彼女を抱えると、家の外へと連れ出した。
 そこで初めて、担ぎ手は神輿を一旦下ろした。
 三人は、全身を脱力させ、壊れた人形みたいに焦点を結ばぬ視線を漂わせる安曇を台座の上に乗せた。
 安曇を乗せた神輿が持ち上がる。
 「巫女のご帰還であらせられるぞ!!」
 中島が叫んだ。
 すると・・・・。
 近隣の家々から次々と、人があふれ出してきた。
 沈黙の行列に、恐れをなして、息を殺して、見守っていた人々が、総出で道にあふれ出している。その中には、安曇の同級生の姿もあった。
 「おお、巫女様だ」
 「あれが今年の巫女様か」
 「美しや」
 「可愛らしや」
 「めでたい。実にめでたい」
 口々に、賛辞の言葉が飛び交う。
 その祝福の中を・・・。
 神輿を引き連れる一団は、厳かに進み始めた。
 拍手と、賛辞の中を、ゆっくりと。 
 不意に・・・・。
 慎ましく、淑やかな行程を予感させる静寂は破られた。
 代わって轟くは断末魔の悲鳴。生々しい粉砕の音。どこかで聞こえた銃声は、祭囃子のつもりだったか。
 虐殺が展開されていた。
 夫が妻を、弟が姉を、隣人が隣人を、次々と、殺しあう阿鼻叫喚の巷。
 ああ、彼等はこの奇怪な一団の祝福のために姿を見せたのではなかったか。いや、これこそが、彼等の祝福だったのだ。
 「お慈悲を。どうか、お慈悲を!」
 と、殺した息子の生首から滴る血を、一団の行く手に垂らしていく気が触れた母親の叫び。
 「いいや、このバカ娘の血を、どうぞ、清めの血として、歩んでくだされ」
 次々に、一団の前に広がるドス黒い生き血の絨毯。それを歓迎もせず、非難もせずに、一団は黙々と歩む。
 しゃん、しゃん、しゃん。と、長老達が鈴を鳴らす。
 左右、そこかしこで悲鳴が上がる。殺し合いが、住宅街全体を塗りつぶしていく。火の手が上がり、家が燃える。
 まさに地獄のような光景。神輿の行く先、行く先で死が展開される。まさに、それは死の行進と呼ぶほかは無い。神輿の先に、清い道など無いのだ。神輿の先に、まっさらな道など無いのだ。
 彼等は、かりそめの客なのだ。この、殺戮の果てに、街一個が滅びたとしても、また、新しい住人達が、綺麗に清められた家々に入り、かりそめの日々を送っていくことだろう。彼等はそのために、ここへやってきたのだ。この虐殺の夜を迎えるために、彼等はこの日まで、かりそめの人生を生きてきたのだ。彼等がいなくなったら、別の人々がその後継者となり、おなじ夜の再来を待つのだ。そのためい、彼等は来た。どこからともなく、ここへやってきたのだ。
 住宅街の、迷路のような路地を、神輿の一団は、隅から隅へと練り歩く。行く先々に、血の絨毯が用意されていた。生垣に、電柱に、血糊がべっとり張り付いて、生ゴミと一緒に、切り取られた血のすっかり無くなった生首が無造作に捨てられている。あるいは、バラバラにされた四肢がそこかしこに。
 神輿上の安曇は、呆然と、魂が抜けたような眼でこの惨状をぼんやり見ていた。
 何・・・・?これは。
 悪夢のようだった。いや、いっそこれは夢だろう。
 濃厚な血臭に咽る。
 吐き気がこみ上げる。
 脳はこれを現実であると定義している。
 脳はこれを、悪夢であると定義している。
 すっかり、その判断能力は狂ってしまった。
 しゃん、しゃん、しゃん。
 鈴の音。
 誰かの悲鳴。
 投げ捨てられる生首。飛び散る血潮。
 ああ嘘だ、嘘だ。全部夢だ。
 生臭い。
 しゃん、しゃん、しゃん。
 鳴り響く鈴は、殺しの調べか。
 血の匂い。 
 吐き気。
 転がる死体。生首。
 銃声。
 鈴の音。
 しゃん、しゃん、しゃん。
 拍手。
 賛辞。
 喝采。
 祭囃子。
 血の海。
 コレは現実。
 コレは夢。
 私は・・・・・・・。
 全部夢。
 全部嘘。
 ・・・・・壊れた。
 鈴の音。
 血の匂い。
 紅い月。
 夜空の星。
 燃える街。
 誰かの悲鳴。
 殺し合い。
 しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん。
 男が女を、夫が妻を、弟が姉を、隣人が隣人を、大人が幼児を・・・・。 
 殺してる、殺してる、殺してる、殺してる、殺し、殺し、殺し、殺し、鈴の音、悲鳴、しゃん、しゃん、しゃん、殺し合い、殺し合い、殺し合い、殺してる、殺してる、殺し、殺戮、血の匂い、吐き気、腐臭、死臭。
 地獄にも等しい光景の中続く、只管なる行脚。その只中で、次第に安曇の感覚も麻痺を始めていく。いや、もしかすると、単に壊れてしまっただけなのかもしれない。
 死体の転がる世界。血の匂いで満たされた世界。それこそが、世界の真実の姿なのかもしれぬ。かりそめの平和。かりそめの平穏。そんなものは欺瞞だ。偽物だ。嘘だ。死と殺戮のみが支配する世界。それが、誠、人間の性にはふさわしいのかもしれぬ。これが世界の本当の姿なんだ。そう歪んだ納得をすることでしか、安曇の理性はまともな機能を果たさなくなっていた。
 路地という路地を、隅々まで練り歩き、その中でも、ぼんやりと、安曇には神輿の目的地が分かってきた。
 そうだ。学校だ。
 神輿は学校へ向かっているんだ。
 変わり果てつつも、通いなれた道。
 その先に、ぼんやりと輪郭を現した学校は何やら、異界の空気で満ちている。いや、それを言うならば、この学校へと向かっている途上からして既に、安曇の現実は崩れてしまった。だが、それ以上に、今、見えてきた通いなれた母校は、異世界の建造物の趣を醸し出している。
 深夜の学校に人気があるはずはないが、教室の窓という窓からは、何やら視線を感じる。窓だけではない。植え込みから、自転車置き場の隅から、校舎の影から、さまざまな視線が神輿を睥睨しているようだった。それが何なのかは分からぬ。ただ、得体の知れぬものであることだけは、どうやら確からしい。
 学校の周囲になると、いつの間にか、あの殺戮の光景は消え去っていた。あの街はどうなってしまうのだろう。あそこの人々は。一体幾人が、どれほどの人が死に絶えたのだろうか。だが、そんな考えの余韻すらも、感じさせない担ぎ手の行進。あの光景さえ、風景の一部というようだ。
 しゃん、しゃん、しゃん、という鈴の音はそのままに、それ以外の雑音を立てずに、ゆっくりと神輿の一団は学校の敷地へと入り込む。丁度、そこは正面玄関の前の広場であった。
 神輿はここでゆっくりと下ろされて、安曇は、小野に手を引かれて台座から下ろされた。
 「参りましょう。校長先生がお待ちです」
 長老三人は、もはや神輿の一団には目もくれなかった。そのまま安曇を導いて正面玄関から校舎の中へと入る。
 いつも歩きなれた校内も、真夜中では丸きり印象が違う。いつのころか、小学校で肝試しをしたことがあった。だが、あの時の人工的に作られた恐怖とは格段に違う不気味さが、夜の校内からは漏れ出している。閉め切った扉の隙間から、窓の隙間から、ねっとりと、粘液のようにして、全身に絡み付いてくる色濃い闇の気配。
 四人は、校長室の前で足を止めた。
 「巫女を連れてまいりました」
 ノックと共に小野は言った。
 「ご苦労」
 中からは、低い落ち着き払った声が聞こえた。
 「ここより、対面の儀です。校長先生と謁見しなさい」
 小野が扉を開いた。
 闇だけがそこにある。いるならどうして電気を点けないのだろう。
 「入りなさい」
 中から声がした。いつもの、全校集会とかで聞く校長先生の声。でも、何か違う。
 その声には、厳しさはなかったが、有無を言わせぬ何かが潜んでいた。入りたくなかったのに、足は勝手に一歩を踏み出していた。
 背中を押されたと思った時、背後で扉が閉じた。開けようとしても、まるで動かなかった。
 闇の中に安曇は取り残された。
 「君が今年の巫女か」
 声は依然、暗がりから聞こえた。
 「確か名前は、安西安曇だったね」
 どうして校長先生が自分の名前を知っているのだろうか。そもそも、この暗がりの中で、私の姿だってちゃんとは見えていないはずなのに。
 「無垢の香りがする。あまり男に抱かれたことはないだろう?」
 どうしてそんなことを!
 「しかし、それでこそ巫女としては的確なのだ。これより数々の穢れを纏う身としてはな」
 不意に、部屋に明かりが灯された。
 とは言え、ライトではない。蝋燭の明かりがふわっと部屋を包んだ。
 校長は・・・・そこにいた。
 全裸で。
 脂肪で大きく張り出した腹。もじゃもじゃと繁茂する胸毛、薄い頭髪。校長は恰幅のいい肉体をしていた。
 思わず見た肢体の男根は反り返っている。
 きゃっと安曇は悲鳴をあげた。
 「巫女との交わりは、必要な、大切なステップの一つなんだよ」
 ゆっくりと、校長が近づいてくる。退路は無い。
 帯に手が伸ばされたかと思うと、すっと解かれた。はらっと、前部が肌蹴てしまう。慌てて、胸元を覆い隠すも、校長に腕を捕まれてしまった。
 「大事なのは、発育段階の身体なのだよ」
 ぐいっと引き寄せられて、背後から組み付かれた。すぐに着ていた白装束は剥ぎ取られてしまう。ピンク色のブラとパンティが露になった。
 暴れて逃れようとするが、その力には適わない。逆に、唇が項や髪の毛に押し付けられてくる。そのたびに、気色悪さで全身に鳥肌が立った。
 れろれろと舌が背中を、首筋を、肩を這い、唾液を塗りつけていく。都心の日焼けサロンに通い、浅黒く日焼けする女子生徒ばかり目立つ中、安曇のそれは純白といっていい白さだった。
 抵抗する間もなく、ブラジャーが剥ぎ取られる。まだ成熟しきっていない、両の乳房を、愛しむようにして校長が背後から揉む。
 「あ・・・」
 自分でも驚くほど淫らな声が漏れた。
 何かがおかしかった。自分が自分じゃないような感覚。
 「この蝋燭には、催淫性の効果があるのだよ。蝋燭の煙、輝き、それを嗅ぎ、見るだけで、男も女も、淫らな獣になる。君を私好みの女にじっくりと仕立ててあげよう。まだまだ夜は明けぬからな」
 強張っていた全身から、ふっと力が抜ける。さっきまでは、あれほど嫌悪感で一杯だった校長の舌が、唾液が、最愛の恋人のものであるかのような心地よさにいつの間にか摩り替わり、舐められるたび、唾液を擦り付けられるたび、安曇は喜びの声を上げていた。自分で聞いて恥ずかしくなるほどの艶っぽい声。
 何かが、徐々に、緩やかに解き放たれていく感じがした。今まで、どこかで抑圧し、押さえつけていた何かが。ドロドロと、自分の中からいろいろなものが外へと流れ出してしまうかのような感覚。
 自分の中から溢れ出したそれは、欲情かもしれない。肉欲。肉体が、底なしの快楽を求めている。もっと、もっと、触れて欲しく思っている。同級生のほとんどは、エンコーして、お金を稼いでいる。そんな姿を横目では軽蔑していた。でも、お金はともかく、快楽が欲しかった。でも、つまらない私は、真面目を気取ってた。真面目に、只管に真面目に頑張ってた。こんな学校じゃ、勉強なんていくら出来ても仕方ないのに。勉強がいくら出来たって、誰も私を認めてなんてくれない。親の金をくすねて、エンコーで稼いで、顔や身体を整形した子だけが、チヤホヤされて、モテて。高校生が、派手な化粧なんてすべきじゃないなんて、しているか、していないか分からない程度に化粧を抑えたって、派手な化粧で飾った子に男たちは群がって・・・・・。
 馬鹿みたいだった。私のやってきたこと。
 私だって、人並みの欲はある。馬鹿みたいに押さえつけてきただけ。
 今、自覚できた。私って、本当はすごくいやらしい女だったって。中年太りの、こんな校長先生に全身舐められて触られて感じて、興奮して喜んで。自分で足開いちゃって、挑発するような声だして、腰をくねらせて・・・。
 でも、今までずっと、こんな自分を自覚せずに、抑えてきたんだもん。全部出して、飾らないことがとても気持ちがいいなんて。
 「自分がどういう人間か、だんだん分かってきたみたいだね」
 校長が耳元で囁いた。
 「・・・・・はい」
 「それは少しも恥ずかしいことじゃないんだよ。誰だってそうだ。誰だって、ただの、淫らな、いやらしい獣に過ぎないんだ。君はもっと綺麗になれる。学園祭までまだ日がある。お金をあげよう。もっと、他の同級生みたいに自分を変えたいだろう?」
 「・・・・・はい」
 「いい子だ。学園祭当日には、生まれ変わった君を見せてくれるね?」
 「はい。必ず」
 自分が何を言っているのか、分かっているつもりだった。だが、それが正しいことかどうかという判断は最早存在しない。蝋燭の炎は、煙は、単に秘めた欲望を丸出しにするだけに留まらず、人格を丸ごと奴隷のようにして委ねるような効能もあるらしかった。
 校長へと向き直ると、安曇は自ら跪いて、反り返った男根へと舌を這わせていく。グロテスクに肥大化した器官には、血管が浮かび上がり、ドクドクと脈打っている。
 表面に、じっくり、こってりと舌を這わせていく。丹念に、丹念に。それが先端に達すると、たっぷりと唾液を擦り付けて亀頭を舐めまわした。
 全体を含み、激しく顔を動かして舐め回していく。校長は余りの刺激におう、と無様に呻いた。
 フェラチオなどしたこともなかったし、したいとも思わなかった。だが、それは嘘だ、偽りだ。ということに、安曇は気がついていた。
 本当は、真逆だった。反り返った逞しい男根を、思い切り舐めしゃぶり、男を快楽で悶絶させてやりたいという、薄暗い欲望の炎は、彼女の奥底で下火となって燃え続けていたのだ。
 開放された炎に従ったことをしているまでに過ぎない、という自覚だけが安曇を包んでいる。テクニックも何も無い。ただ、本能のままに味わい、しゃぶりつくすということだけが頭にあるようなそんな動き。只管貪欲に、貪欲に。
 美味しいとさえ感じた。先端から染み出す透明な体液の濃厚な味が口内へと広がっていく。粘ついた、臭みのある癖のある味。それはたまらなく淫らで、背徳の味をしていた。興奮が加速する。高ぶる。
 睾丸を舐めた。胸毛同様、毛むくじゃらの陰毛に顔を埋め、垂れ下がる不細工な袋を愛しく愛撫していく。粘ついた唾液を塗り付けていく。
 受けたかった。
 怒張した肉の棒を、自身の秘所へ。
 と、その欲求を示そうとした時、さあっと、部屋の中に風が吹いたかのようであった。
 「集まったか」
 暗く、低い、人の声じゃないような声音で校長は闇の中に告げた。
 そこに・・・・・・。
 いつの間にか、人影が沸いていた。
 人影は全部で五つ。
 蝋燭の炎の中でも、影のみが色濃く映えるばかりで、その顔まで見ることができなかった。
 「ルールはわきまえておるよ」
 「分かっていますよ」
 と、一歩進み出た人影がその表情を浮かび上がらせる。
 山岡だった。
 「実行委員会、ここに集いました、校長先生」
 他の人影がそれぞれ一歩前に出ると、明確な表情が見えた。
 剣道部部長、葛。
 総合格闘技愛好部部長、嵐。
 この二人は、昼間、山岡と同じクラスにいた。
 だがもう二人、そこにはいなかった面子がいる。
 葛と嵐が坊主頭なら、こちらはスキンヘッド。水泳部部長の滝沢朋宏だった。水の抵抗を最小限にすべく、彼はこのヘアスタイルを選んでいるのである。その実力は国内随一。オリンピック候補とも早くも内外で評価が高まっているのだ。
 もう一人は、スポーツ刈の頭をした、他の三人よりは少し背の低い男。テニス部部長、越後允だ。小柄ながらも、醸し出す雰囲気は他の四人に全く負けていない。ダブルスは無論だが、主にシングルでその実力は最大限に発揮される。「見えない球」とあだ名され、恐れられるサーブをはじき返せる選手は、プロにもいないと言われ、国内大会では負けなしである。
 闇の中にたたずむ彼らは、校長同様、全裸であった。いずれの者の肉体も、まさに鋼と呼ぶに相応しい筋肉に包まれている。全体として身体は理想的な逆三角形を描いていた。
 「これより、清めの儀に移りたいと思います」
 山岡が厳かに宣言した。
 校長を含む六人が、ぐるりと、円を描くようにして安曇を取り囲む。
 そして、己が怒張する性器を自ら扱き始めたではないか。
 「我らの高潔なる精液によりて、巫女の肉体と精神を浄化せん」
 安曇は、六本の天を仰ぐ肉の棒をうっとりと見つめた。
 自慰に耽る彼らに、しかし快楽や恍惚の表情は無く、能面のような顔つきである。
 しかし、極限まで張り詰めた男根は紛れも無く、与えられた刺激故のものであった。
 どれほど、己のそれを弄んだか。
 長きに渡るその弄いの果てに、不意に、白濁の体液がその先端から迸る。放つ際にも、彼らはうめき声一つ上げず、顔色一つ変えなかった。それでも、全身を痙攣に震わせながら、彼らは射精をし続ける。白い、粘っこい体液が、安曇の髪の毛を、顔を、汚していく。それらの汚液を大量に浴びながらも、当の安曇も悲鳴一つ上げるどころか、口を開けて滴る精液を受けた。その顔は、嫌悪感というよりは、恍惚感に歪み、忘我の境地に達している。
 実行委員会のメンバーも、メンバーだった。彼らは、いずれ劣らぬ絶倫ぞろいだったようだ。あるいは、この部屋の蝋燭の作用故か、一度放ったはずの彼らの男根は、直後にはしな垂れこそしたものの、すぐさま、先ほどの大きさと、硬さを取り戻しているのである。凄まじい回復力と言わざるを得ない。
 彼らはそうやって、機械的な動作で自慰を続けては、果て、すぐさま回復した男根を扱いては、再び放つという荒業を、幾度と無く繰り返した。どれほど強力な精力剤を飲もうと、こうは行くまい。
 そして、放たれた大量の精液を浴びた果てに、安曇の顔は、元の顔が分からぬほどになっていた。
 「巫女の浄化はここに完了した」
 高らかに、山岡はそう宣言した。
 その言葉が合図となったか。
 薄暗い闇の中に、さらにいくつかの気配が入り込んできた。
 白装束を纏いし気配は、女性の姿をとった。その動き、立ち振る舞い、動作は、世話係としての訓練を十二分に受けたと知れる。女性は全部で三人いて、安曇を取り囲むようにして恭しく傅いた。全裸の男たちには、一切、目もくれない。
 「参りましょう」
 優しい声音でうちの一人が安曇に声をかけた。それから、精液塗れの彼女を抱き起こして、三人は薄闇の包む校長室から消えた。
 残されたのは、校長、そして実行委員会のメンバー達だけであった。
 「して、首尾は」
 と、校長。
 「上々です。例年通りに、ここまでは」
 受けたのは山岡。
 「一つ、障害が」
 そう嵐が繋いだ。
 「教頭を始末したあの女教師」
 「本当にその女教師であるという証拠でも?」
 校長は疑惑の眼差しで嵐を見た。
 「彼女の気配で分かります。隠そうにも隠し切れません。ただの人間ではありません」
 山岡が冷静な口調で告げた。
 「ふむ」
 「恐らく、目的は学園祭と、この学園組織の壊滅にあるかと」
 「そこまで分かっていながら、なぜ、すぐに消さぬ」
 苛苛と、校長は声を荒げた。
 「ここの不良どもが、いくら束になろうと、残らず返り討ちにあうことは目に見えていますからね」
 ですが、と山岡は言う。
 「古の叡智は、既に彼らの解放に踏み切っています」
 「それは初耳だな」
 「校長先生は戻られたばかりですので、仕方ないかと」
 フォローを入れたのは、滝沢だった。
 「始末は、彼らに任せます。我々は、我々の成すべきことをするだけです」
 「任せられるのか?失敗は許されんぞ」
 「これまでも、ずっとそうしてきました。今更、何が変わるというのですか?」
 山岡は冷淡な口調で断言した。
 「すべては、あなたのためなのですよ、校長先生」
 これが利いたか。
 「・・・・そうだったな。差し出がましい真似をしたかもしれん。もうすぐ私も聖者に列せられるわけだからな」
 と、チラリと彼は校長室にある歴代校長の額縁写真の辺りを仰ぎ見た。
 「そうです。そして、この学園の、さらには、この世界の支配は確固たるものとして永続していく。あのお方のご意思の元に」
 「おお、そうだとも」
 「そのための障害を全力で取り除くのも、我々実行委員会の仕事です。邪魔者の対応は、我々にどうぞ一任して下さい」
 「分かった。すべて君たちに任せよう。それで、私は・・・・」
 「周知かとは思いますが、然るべき手順に従い、過ごしてください。その瞬間まで、決して僅かな手違いもあってはなりません。すべては、バーンズエイクに記されています。お読みにはなったと思いますが」
 越後がここで口を開いた。
 「もちろん、読んだとも。すべての手順も頭に入っておるよ」
 校長の口調は、どこか釈明しているような印象を与えた。
 何時の間にか。
 空間の主導権は実行委員会に移っているようであった。威厳に満ち溢れていた校長が、今ではどこか矮小な小物に見えてくる。
 「あの本は無事だろうな」
 校長は山岡に念押しした。
 「無論ですとも。あの本を守護しているのは、我々の仲間ですよ。我々が、あの本を、遥か太古かた守り続けてきたのですからね」
 山岡は侮蔑の表情をもはや隠そうともしなかった。校長もそれについては、一切口を挟まぬ。
 「分かった。ならば、安心だ」
 「我々はこれから本格的な準備に入ります。校長先生も、くれぐれも書物通りの行動を」
 と、山岡は再度確認をした。




 静まり返った住宅街に、学園の教員住宅はある。その住宅街が、先ほど不可思議な神輿の練り歩いた場所のすぐ近くであり、僅か一本の路地が境界となり、平穏なかりそめの世界と、血と殺戮に塗れた世界を分けていたと、一体どれほどの者が理解しただろうか。
 いや、あの惨劇が起きた地区さえも、既に綺麗に清められ、死体は処理され、血糊は拭い去られて、元の静かなただの住宅街であると、何食わぬ顔で主張を始めていた。誰が、後始末をするのか。その正体さえも見極められぬままに、いつの間にかそれは成し遂げられ、新しい住人の到来を静かに待つのであった。
 それは、絶えず繰り返されてきたことであった。街を元に戻す何者かは、森の落ち葉を分解するバクテリアの類のように、一切の疑問を持たず、落ち葉を処理するように、死体も、血糊も処理していくのかもしれない。
 惨劇を免れた住宅街にひっそりと立つ、なんの変哲も無いアパート。それこそが、教員住宅としてあてがわれている場所である。どこにでもあるような4LDKのフローリングの間取り。外観も、とりわけ売りになるような特徴があるわけでもなく、平均的な鉄筋コンクリートの建物だ。
 明菜の部屋もまた、その一室にあてがわれていた。二階の210号室。そこが彼女の部屋である。
 内装は、女性の一人暮らしを全く感じさせない殺風景極まりないものだった。カーテンが一枚、窓を覆い、ベッドが一つに、小さな座卓が一つ、それと僅かな調理器具。それだけが、彼女の部屋のすべてだった。テレビもなく、パソコンも無い。本棚一つ置かれていない。
 ベッドに仰向けになり、明菜は一点、天井を見つめていた。先ほどからずっと、この姿勢のままである。その耳は、バスルームに欹てられていた。今は、湯を張る真っ最中なのである。
 そろそろ、と上体を起こしかけ、彼女は深いため息を吐いた。
 「やれやれだわ。お風呂にも入らせてくれないつもり?」
 部屋の電気を消した。それから素早く窓へ近づいてカーテンを僅かに開けて外の様子を伺う。
 普通ならば、闇夜の中に人の気配を認めはしないだろう。
 だが、明菜には、闇の中慎重に身を潜めた者たちの姿がしっかりと見えた。慎重に身を隠しているようで、彼らの全身から放たれる雑念やら殺気やらで、居場所は、その人数はバレバレなのである。
 ざっと二十以上。ほとんどは雑魚連中だが、いくつかずば抜けたのが・・・・。
 素早くそう弾き出すと、明菜は窓から離れた。
 「しばらくお預けね」
 湯を放出する蛇口を閉めると、明菜は暗い部屋の中で軽い準備運動をしてからクローゼットを開けた。昼間着ていたスーツの隣に、黒い革製のレザージャケットがかけられている。闇の中で、彼女はパジャマを脱ぎ捨てて、レザージャケットに着替えた。上下一体型のツナギのものだ。
 結っていた髪も解く。しなやかな、長い黒髪が綺麗に背中に広がる。
 それから、黒いブーツを履いた。
 これこそが、彼女が正装と呼んでいるスタイルだった。闇の中に、闇を纏った明菜は、そのまま外の気配の動きを探った。
 周りは、近隣の高校で働く教員なども住んでいるはずだった。はずというのは、面識が無かったためだ。一応挨拶はしたものの、不在だったのだ。
 明菜の周辺にまで気を配れるような連中ではないことは知れている。
 どう来るか・・・・・。
 不意に。
 玄関口に気配が沸いた。先ほど感じたズバ抜けた気配の一つが。
 精神を集中し、慎重に明菜は玄関口へと進んだ。身体は、いつ、どのような状況が訪れても最高の反応ができるように、あらゆる動きが取れるようにしてある。
 そっとドアスコープから覗く。
 一瞬、ぞくりとする感覚が背筋を走った。
 顔面に傷がある男が、うつむき加減で立っていた。その容貌もそうだが、全身から放たれる殺気は、明菜をたじろがせて余りあるものだった。
 「俺の気配に気づいたか。やはり只者ではないな」
 そんなに大きな声ではないのに、そのスカーフェイスの声はよく通った。
 「誰かしら。こんな時間に、ちょっと非常識よ」
 「俺の名はハットリ。あなたを快く思わない者の代表とだけ覚えておいてくれたら結構」
 ハットリはそう言うと、薄く笑った。
 「ハットリ君・・・・ね。何の用かしら?」
 「とぼけてもらっては困る。もう分かっているはずだ」
 「さあ。あなたとは初対面だし、そんなことを言われてもね」
 「貴様を始末しに来た」
 直後だ。
 窓ガラスが割れて何かが飛び込んできた。
 重く、硬い金属がゴロゴロ床を転がる音がする。
 手榴弾!
 そちらへ気を取られてまた戸口へ注意を戻したとき、ハットリの気配は跡形も無かった。
 ドアから逃げようとノブを掴む。
 「・・・・・っつう」
 ノブを掴んだ右掌がさくっと切れていた。幸いにも、切り口は浅い。
 何かの術か。
 ドアと格闘することを、瞬時に諦め、明菜は窓を目指して全力で走った。
 体当たりしてガラスを突き破り、外へ飛び出したのと同時に、手榴弾が爆発する。
 真っ赤な炎が、窓から噴出す。間一髪、炎に巻かれることなく、明菜は着地した。
 直後。
 一斉に、人の気配が群がってきた。
 顔を上げた一瞬で、襲撃者の正体が知れた。
 手に、それぞれ武器を携えた不良たち。一目で学校の生徒と分かる。
 鉄パイプ、チェーン、斧、鉈、日本刀、警棒・・・・。それらをぎらつかせながら、明菜が窓から脱出したのと同時に攻撃を仕掛ける手はずだったらしい。
 だが、明菜は両手を使ってその場で身体を回転させた。その豪快な足払いで、次々と不良たちが転倒する。
 直後、その身体は勇躍、建物の屋根へと着地していた。
 「ここまで来れる?」
 バタバタ倒れた不良たちを見下げて明菜は言った。
 だが、不良たちは地団太を踏んで悔しがらず、揃ってにやついた。
 「来れるぜ」
 誰かが言った。
 その身体が一斉に飛び上がる。
 闇夜に写るその姿は、怪しげな蝙蝠の一団のようでもあった。
 明菜の周囲を、着地した荒くれどもが一斉に包囲した。
 「ナメてもらっちゃ困るぜ、先生よ」
 「・・・なるほどね」
 明菜はグルグルと右手を軽く回した。
 「じゃ、先生も手加減しないわ」
 「そうこなくっちゃ」
 一斉に。
 殺気の塊が明菜を取り囲む。
 刹那。
 その一団が、押し戻されるようにして吹っ飛ぶ。肉体はバラバラになって、ダンプカーに正面衝突したかのような有様だ。肉片が、内臓が、鮮血が、美しい弧を描きつつぶちまけられた。明菜が、その右手の力を遺憾なく開放したのだった。
 「はは〜、その程度かぁ?」
 千切れた首が、中空で嘲笑した。
 肉片は、地面に散らばる前に、鮮血は、飛び散る肉片に、正しく戻され、四散した不良は元通り再生している。そしてそのまま中空で鮮やかに舞うと、再び、屋根の上へと降り立った。
 「なかなか痛かった。そうだよなあ、皆」
 うちの一人が同じように散らばった仲間を見回した。全員がおおよ、と叫ぶ。
 「でも、綺麗な先生に相手してもらったんだ。俺なんて興奮で勃起が止まらねえ」
 途端、下卑た笑い声が上がった。
 「お返しは、しなくちゃな」
 再び、一団が輪を狭めた。
 「無駄よ」
 「あんたもなあ、先生。いくらその腕で俺たちをふっ飛ばしても、また元通りだぜえ」
 状況は双方にとって、一進一退であった。
 どちらが、均衡を破るか。
 「あれが本気だと思って?」
 明菜は右手の拳を握り締めた。そして、その先端を何回も捻った。
 それから捻りつつ、拳を突き出した。
 同時に、不良たちが殺到した。
 吹っ飛ばされるところまでは同じだった。
 が・・・・・。
 先ほどのような超早再生は起こらなかった。散らばった肉片はそのまま、地面にぶちまけられた。
 この一撃で、大半の不良が吹っ飛ばされた。運よくその一撃を免れた者達はじりじりと、明菜との距離を離しつつある。反面、彼女は距離をつめていく。
 「やれやれ。やはり無理か」
 暗闇を、冷ややかな声が響き渡った。
 刹那。
 残った不良たちの首が綺麗に飛んだ。そして、そのまま首は繋がらず、地面へ転がる。
 バタバタと倒れた胴体たちの後ろからハットリが姿を見せた。
 「力を与えてやったがこの様か」
 死体を蹴りつけながら彼は毒づいた。
 「何者だ?」
 「ただの新しい女教師よ」
 「これだけのことをしておいて、まだとぼけるのか?」
 「あなたもね。ただの不良生徒じゃなさそう」
 「ただの不良じゃないとも。それに、その不良という言葉は好きじゃない。俺は優良だ」
 明菜は見るものを射竦ませずにはいられないその眼光を正面から見据えた。冷え切った死人みたいな目だ。
 「なるほど。超人不良連ね」
 「ほう・・・・」
 ハットリは極めて人間的な表情になった。
 「面白い。こっちも分かったぞ。処刑人だな」
 「へえ・・・」
 明菜もハットリ同様のリアクションを返した。
 「眠りの中で、おまえのような存在がいるということは学習していたが・・・・まさか、ここで会えるとはな」
 「それは光栄なことね」
 明菜は右手をぐるぐる回した。
 刹那。
 二人の距離は一気に縮まった。
 先に明菜が仕掛けた。
 正面から、拳を叩きつけにいく。
 ハットリは動こうともしない。
 拳は正しく、彼に叩きつけられた。そして、そのまま粉砕するはずだった。 
 だが、ハットリは粉砕どころか、吹っ飛びもしなかった。
 明菜の拳は彼の数ミリ手前で停止していた。見えない壁でもあるみたいに。 
 反対に、鮮血を吹いたのは、明菜の拳だった。深い切れ目が、拳の中ほどまでに達している。
 痛みは顔に出さなかったが、傷口を押さえつつ、彼女はハットリから距離を離した。
 「恐ろしい腕だ。だが、俺には当たらない。もう少し力を入れていたら手首から落ちていたな」
 だらだら鮮血を垂らす手を見ながら、余裕すら伺える笑みでハットリは言った。
 「そうね」
 明菜の腕は・・・・。
 みるみる、そのダメージが回復していくではないか。
 「今度はこちらの番だ」
 ハットリは胸ポケットから何かを取り出した。
 闇夜に鈍く光るそれはメスだった。
 彼はそれを大きく振り上げて、下ろした。
 咄嗟に明菜は横へ飛び退いた。
 直後に彼女が今いたそこが、深々と裂けていた。
 「ふんッ」 
 再びハットリがメスを振るう。
 足元が揺れる。建物全体が斜めに両断されたのだ。
 「このメスは何でも切れるし、その切断面はどこまででも及ぶ。その気になれば、この地球も、月も、太陽系全体にまでこの亀裂を及ばせることもできる。人体など・・・・・」
 メスが明菜の正面に向かって振り下ろされた。
 すべてを切り裂く、無限の切断面が瞬時に、彼女へと襲い掛かる。
 逃れられぬと知って明菜は腕を突き出した。
 硬い感覚が拳の先にぶつかったかと思えば、明菜の身体は大きく吹き飛ばされて建物から落下した。肩口にまで深い裂け目が走り、容赦ない鮮血が噴出す。
 切断面が追ってきた。
 そこかしこで、木々がなぎ倒され、建物が両断されて崩れていく。地面に深くて長い亀裂が次々と走る。それでいて、どれも明菜に決定的な一撃を加えようとしない。まるで彼女をじりじり追い詰めて楽しむかのように。
 「その程度か?処刑人」
 闇の中に、ハットリの声が響く。その凶悪な気配は、闇の中、そこかしこにあった。
 腕の傷を見た。既に粗方の出血は止まり、傷口も塞がりつつある。あれだけ深く切られたにしては恐るべき回復力だ。
 明菜は路地へと飛び出している。寝静まった深夜の住宅街で、明かりが点いている家は数少ない。
 左右の生垣が、次々と切り裂かれて崩れていく。前方の電柱が切り倒されて進路を塞ごうとするのを軽々と飛び越え、尚も当ての無い逃亡を続けると、不意に前方の曲がり角からハットリが姿を見せた。漆黒の特攻服が闇の眷属に恥じぬ佇まいを演出する。
 「我々が消すべき脅威と命じられた相手は、逃げるだけの腰抜けだったか」
 淡々と、ハットリはメスで空を切った。
 刹那。
 明菜の右手が一瞬、紅蓮の輝きを放ち、巨大化したかと思えば、その掌の辺りで青白い火花が散り、明菜は何かを振り払うような動作を見せた。すると、彼女の左足元横の地面が深々と抉られ長い亀裂が走った。
 「ほう・・・・・。我が切断面を弾くとはな」
 ハットリは興味深げに明菜の右腕を見た。その腕には先ほどのような禍々しさはもはやなく、元の、人間の腕があるばかりだ。
 「それほどの力を持ちながら、なぜ、出し惜しみをする?」
 メスを弄びながら、彼は明菜へ近づいてきた。
 「あるいは・・・・・・まだ力を持続させられないだけか?」
 ペン回しをするようにしてメスを回してピタリ、ハットリは切っ先を明菜へ向けた。
 「どっちか見極めてやる!」
 ハットリがメスを投擲した。まっすぐダーツでも投げるみたいに。
 二人の距離は約三十メートル。
 メスは矢のようにして飛び、その勢いはまるで落ちない。
 と、そのメスが中空で飛びつつ・・・・・。
 五つに分裂したではないか。しかも、分裂したメスのすべてが、同様のスピードと勢いを保ったまま明菜へ向かってくる。
 飛来するその刃を、明菜は右手を振るって弾き飛ばそうとした。
 「読めてるぞ」
 刹那。
 メスはそのまま在り得ない動きを見せた。五本のメスがそれぞれに分散し、明菜を取り囲むようにして拡散したかと思えば、五つの方向から彼女を包囲していたのだ。完全にそれらは、中空に静止している。
 一斉に、包囲網は閉じられた。
 付け加えるのなら、ハットリが投擲したメスのスピードは、時速に換算すると200は超えていただろう。すなわち、常人の動体視力で追える速度ではもはやなく、その分裂も、拡散も、一瞬の空気のブレとしか映りはしなかっただろう。
 だが今の明菜には、見えていた。
 スローモーション映像のようにして、ハットリのメスの軌跡が。
 彼女が引き出す力の「核」。それが、脅威の動体視力を引き出した結果だった。
 ぐん、っと明菜は跳躍した。異形の右手の力故か、常人には不可能な高さを優に保持し、その身体は塀の上へと逃れている。
 チン、と火花が散り、メスとメスがぶつかり、砕けた。
 「それで避けたつもりか?」
 ハットリが第二撃を送り込んでくる。今度はメスを上空へと放る。
 闇夜の虚空に吸い込まれて、細い銀光はすぐに見えなくなった。
 しかしすぐさま、空気を裂くヒューっという音と共に・・・・・。
 無数のメスが降り注いできたではないか。
 明菜は右手の拳を握った。
 同時に、中空へと飛ぶ。
 彼女が右手を振るったのと同時に、その腕は、有り得ぬ長さと巨大さを備えていた。まるで腕ではなく、肩口から何かが迸ったかのような。だが、紛れも無い、それは腕である。巨大な大蛇の胴体のような、巨獣の長い首であるかのような、しなやかで禍々しい腕。そして紛れも無い、巨獣の頭ような手。開かれた五指はそのまま巨獣のあぎとである。
 変化した腕が、異形の獣のようにしてのたうち、しなると、次々と、降り注ぐメスの雨を弾き飛ばして四散させていく。地面へと着地してからも、明菜は腕を振るい続けてメスの飛来を退け続けた。
 そして、ハットリの元へと走り寄る。
 その動きもまた、加速されていた。腕の力の発現は、そのまま明菜の身体能力すべてを格段に向上させているのだ。
 今まさに、巨大な岩石みたいな拳が、ハットリを粉砕しようとした時、明菜はバランスを崩した。その身体が、ぐいっと中空へ引き上げられていた。腕や足が、それぞれ奇妙な方向へと曲がり、中空で泳ぐようにして明菜はもがいた。腕の力は、その爆発力と噴射力に限界を感じたのか、消え去り、元通りの姿形へ変じている。
 「なぜ邪魔をした?」
 ハットリは不快感を隠そうとしなかった。
 「・・・・・だってさあ、やられちゃいそうだったからさあ」
 ボソボソと経文みたいな小声が闇の中に驚くほど澄んで響くと、角からハットリと同じ、黒の特攻服を纏った坊主頭が姿を見せた。
 「あれじゃ本気出す前にやられちゃってたよ」
 坊主頭は綾取りでもするかのようにして、両手を弄びつつ、ほとんど顔を上げないでハットリの傍へやってきた。
 「でもこれで好きなだけ刻めるね」
 「クボ。打ち合わせと違う。おまえは待機しているはずだぞ」
 クボと呼ばれた坊主頭はそこで初めて顔を上げた。
 偏屈な、歪んだ性格が丸々表出したような垂れた、生気の薄い目つき。削げたような頬の肉をひくつかせる顔つきは、ハットリに負けず劣らず危険な雰囲気を放出している。その表情は明らかに、ハットリの発言に異を唱えていた。
 「打ち合わせなんてないね。我々は、命じられたままを行うだけさあ。今すぐに、ここでこの女を始末するだけ。あんたがやられそうだったから、俺が来た。あんたがやられたら、命令が遂行できない。だから、俺が来た。打ち合わせとか作戦とか、手順とか、そんなのくだらないし、面倒なんだよお。だから・・・」
 ぐいっと、明菜の首が明らかにおかしな方向へ曲がり始めた。見る見る、その顔が鬱血し始める。
 「今すぐ首の骨折って終いだ!」
 と叫んだ直後、ヒイっとクボが呻いた。その首に細い紐がぐるぐる巻きついている。
 「クボ。あんたさあ、リーダーに逆らうつもり?」
 クボに巻きついた紐を辿った先に・・・・・。
 やはり黒い特攻服に身を包んだ金髪の女が立っていた。
 「リーダーが待機っつったら、待機だろ?あ?」
 女、ミヤモトが紐を持つ手を引いた。ぐいっとそれらがクボの喉元を締め付ける。クボはバタバタと手を振り回した。それによってか、中空の明菜は地面へと落下した。
 「そこまでだ、ミヤモト」
 ハットリがミヤモトを制した。それによって、彼女は渋々、クボを絡めた紐を解く。
 いや、それは紐にあらず。その先端についている丸い金属の物体。
 ヨーヨーであった。
 「でもこれでハッキリしたねえ。この女の腕。一時的にしか強い力が出せないってこと」
 「そのようだな」
 ハットリが一歩、進み出た。
 「オニヅカとキドは?」
 「万事、待機中よ、リーダー。いつでも動ける」
 「あの二人はそのままでいい。我々だけでやれる」
 「この馬鹿も?」
 ミヤモトは鋭い目つきでクボを睨んだ。当のクボはまたも、顔を下に向けたまま、イジイジしている。
 「ああ、この馬鹿も含めてな」
 「了解」
 三人は足並みを揃えた。その頃には明菜も体勢を立て直している。
 「まさかあんた、アタイ達三人まとめて相手にできるなんて考えちゃいないだろうね」
 ヨーヨーを弄びながらミヤモトは嘲笑した。
 「だとしたら・・・・・」
 「だとしたら?」
 と、明菜。
 「死ぬよ!」
 ミヤモトがヨーヨーを放った。
 が、それは目の前で消えていた。
 明菜は目で追う。だが、見えない。速さの問題ではない。存在していないのだ。敵を攻撃せず、消えるヨーヨ。 
 「消えたヨーヨー。不思議だねえ。おかしいねえ。どこ行ったんだろうねえ」
 小ばかにしたようなミヤモトの言葉の直後、明菜は凄まじい激痛に襲われてその場に崩れた。
 「右手のこれは、必殺のインビジブルヨーヨー。これは内部を壊す。あんたの内臓、ボロボロにしてやったよ」
 そう。
 ミヤモトの言葉通り、明菜の内臓は、軒並み破裂していた。鮮血を吐き、血の気を失ったその皮膚を見下ろしつつも、ミヤモトは爪先で明菜の身体を突いて様子を伺った。
 「心臓にだけは手をつけなかったから、運がよければ助かるかもね。でも、助けるつもりなんてないけどね。そのまま死にな」
 路上でうつぶせのままに、明菜は倒れていた。先ほど吐いた鮮血が、ゆっくりと、広がっていく。右手を這うようにして動かした。ずるずると、引きずるようにして明菜はそれを、己の血溜まりへ持っていった。そして、掌へ塗りつけるようにして血溜まりを擦った。そこまでだった。そこまでして、明菜は意識を失った。
 世界が、不意に、すべての音を失ったかのようだった。
 世界が、不意に、すべての動きを失ったかのようだった。
 時間さえもが、消失したかのようだった。
 その静寂の中に、停滞の中に、心臓の慟哭にも似た鈍い音がゆっくりと、荘厳に木霊したようだった。
 ハットリ、クボ、ミヤモトの三人は見た。
 明菜の右腕が、遮光を放つのを。真紅の、紅蓮の輝きに包まれるのを。心臓の鼓動は、その腕から確かに響いてくる。そして、鼓動を刻むたび、腕が少しずつ肥大化していくのだ。
 鱗のような、奇怪な文様が浮かび上がる。グロテスクな獣のような奇怪な変化を続けていく。人間の腕にしては明らかに異様で、巨大で、長い腕になっていく。
 「どうして腕が変化していく?死んでいるはずだ」
 ハットリは動揺を抑えきれぬ声でミヤモトへ同意を求めた。ミヤモトはミヤモトで固唾を呑んでこの光景に見入っている。
 「ミヤモト。心臓も潰すんだ。今すぐに!」
 鋭くハットリは命じた。が、ミヤモトは金縛りにでも遭ったように動かない。
 「どうしたミヤモト。早くしろ!今すぐ、心臓も叩き潰すんだ!」
 「も・・・・・もう・・・・・・やったわ。でも・・・・・、こんなのって・・・あり?」
 ミヤモトの声は、恐怖からなのか何なのか、震えを帯びていた。
 刹那、彼女はものすごい吐血をした。胸部辺りが続いて爆発したように吹き飛んで、その反動でミヤモト自身の身体も大きく吹っ飛んだ。
 一体何が起きたのか。
 ハットリが見るに、明菜の腕は変化こそしたが、一ミリも動いていない。
 なのに、ミヤモトはやられた。
 本当に、一体何が起きたのか。
 心臓の音がすぐ耳元で聞こえたかのようだった。その音を聞くたびに、神経が射竦められるかのようだ。なんという不気味な鼓動だろう。なんという不気味な音だろう。
 「退くぞ・・・・・クボ」
 「・・・・・え?」
 「一旦退くぞ!クボ!まずい。このままでは・・・・・・・」
 直後、ハットリ、クボの身体は吹っ飛ばされた。凄まじい衝撃波のようなものが全身に叩きつけられたかのようだった。何かが弾け飛び、千切れたように感じられたが、それは二人の四肢であった。千切れた四肢は、暴発した鮮血は、生垣に、電柱に、コンクリートの塀に叩きつけられた。
 依然、明菜は動かない。腕も。ただ、不気味な鼓動が続いているだけだ。三人の超人が一挙にして倒されたのが嘘のようだった。
 と・・・・。
 「どういうことだ?」
 奇怪な惨劇の場に、別の訪問者が現れた。
 黒い特攻服を纏った二人の男。
 一人は茶髪の長髪に唇に丸いピアスを二つ開けた細身の長身。
 もう一人はパンチパーマに、腰から木刀をぶらさげていた。
 「三人の気配が突然消えたので現れてみれば・・・・」
 ピアスの男、キドが首を傾げた。
 「この女か」
 低い、威圧的な声でパンチパーマの男、オニヅカが言った。
 「待て」
 近づこうとするオニヅカをキドが冷静に制した。
 「それ以上近づくんじゃない」
 と、キドは足元に転がっていた石を明菜へ放った。石は、一瞬にして粉々に砕け散ったではないか。
 「あの腕か」
 「恐らく。それにしても興味深い」
 キドは面白そうに笑った。
 「どうやら暴走状態にあるらしいな」
 オニヅカは冷めた目つきで明菜を見た。
 「俺の木刀なら、あの腕の攻撃を透過してあの女を殺せるが?」
 「ああ、そうだな」
 一歩、オニヅカが進み出る。
 木刀を引き抜き、切っ先を明菜へ向けた。その僅か先、生と死を分かつ見えぬ境界があるのか。
 刹那、オニヅカの姿が消えたかと思えば、分身のようにして、その身体が前方へ伸びたように見えた。
 伸びた木刀が、明菜へ振り下ろされる。
 かと思えば・・・・・。
 「・・・・・・ぐッ」
 オニヅカがうめき声を漏らして後方へと飛び退く。
 その半身は捥ぎ取られていた。
 真っ青になりつつも、依然、冷めた瞳で彼は明菜を見つめたままだ。
 「・・・・・なるほどな」
 程なくして失われた半身は再生を見せる。
 「今のは様子見だったが、俺の分身剣がこうもあっさり跳ね返されるとはな」
 咄嗟に左手に持ち替え無事だった木刀を撫でながらオニヅカは一層、つまらなそうな顔をした。
 「暴走状態はどれくらいで元に戻ると思う?」
 横で佇むキドに目を配りながら彼は尋ねた。
 「分からん」
 と、長髪を掻き揚げながらキドは言い放った。
 「チェ。せっかく連中、大勢引き連れてきたってのに、これじゃ格好がつかねえよ」
 ぐるりと、オニヅカは背後を見た。
 いつからそこにいたか。
 黒山の人だかりとはこのことで、全員が、凶悪な目つきをした不良どもであった。どいつも、こいつも、殺戮本能がうずうずと高ぶっているらしく、興奮のために滴る涎すら抑えきれない様子だ。野犬よりも物騒で危険極まりない連中だろう。
 「おい、今夜のところは一旦引き上げってのはどうだ?」
 あらぶる野獣どもに、オニヅカは無意味な提案をしてみた。
 「仲間が三人もやられた。どうもヤベエ予感だ。っつっても、お前らには通らない提案だよな?」
 「ここまで来て引き下がるんスか?」
 「何がヤベエか知らねえけど、もう動かねえじゃねえですか」
 「それとも何ですか?俺たちは、死にかけてる奴にトドメもさせない能無しってわけですかい?」
 不良たちは口々に不平を漏らしだした。
 予想はできたことだ。
 「分かった。能無しは俺たちだ。お前らは利口で、優秀だ。だから、そのお前らに頼みがある。俺たち腰抜けの代わりに、最後の仕上げをしてくれ。な?」
 すると、
 荒くれどもは、一変して歓喜の叫びを上げた。
 くたばりかけの獲物を前に逃げ下がる奴は、狩人失格だ。
 手にした数々の凶器、武器をじゃらじゃらさせながら、見境無く、彼らは明菜へ向かって突進した。
 生の肉を思い切り切り裂ける。思い切り叩き潰せる。抉り出せる。そして死体の股座へ突っ込んでやりたい。もう、俺のはこんなに興奮してるぜ。俺には首を切り落とさせろ。青白い生首と一緒に眠るのが、俺の趣味だったんだ。俺は指が欲しい。机の引き出しに、これでまた、新しいコレクションが増える・・・。
 それぞれの、屈折し、倒錯しきった欲望を秘めつつ、不良たちは明菜へ殺到した刹那。
 片っ端から吹っ飛ぶ。
 肉体はバラバラに千切れ、塀や地面に叩きつけられていく。
 それでもなお、衝動や欲望が勝るのか。果敢に、次々と明菜へ殺到しては、端から返り討ちに遭っていく。
 キドとオニヅカは、その光景を静かに見物していた。
 「やはり能無しはこいつらか」
 屯していたすべての不良たちが残らず殺戮されたのを見届けてから、オニヅカがはき捨てるように言った。
 夥しい鮮血がペンキでもぶちまけられたみたいに塀に飛び散っていた。爆弾で吹っ飛ばされたみたいに、肉片らしきものもこびりついている。辺りには濃厚な血臭が立ち込めていた。
 「我々は、今度こそ、一旦引くとしよう」
 キドが提案した。オニヅカに異議は無い。
 「だが、しばし彼女には蚊帳の外にいてもらうとしよう」
 キドは唇のピアスを一つ外した。と、言うよりも強引に唇から引きちぎった。鮮血が滴るのも気にせずに、彼はピアスを虚空へと放った。
 すると、白色の輪が虚空へ広がったかと思えば、明菜の姿はその場から消失していた。ピアスだけが、明菜がいた位置に落ちている。
 「隔離は完了した。行くぞ」
 かくして。
 二人は姿を消した。
 それとほぼ同時に、明菜が目を開けた。それは丁度、肥大化し、輝いていた腕が元に戻り始めたのと同じ頃合だった。
 酷い疲労感が全身を支配している。腹の辺りを手で探った。痛みはもう無い。だが、すぐに動くことができなかった。
 深く息を吐いてから仰向けになった。
 周囲に目を転じる。
 奇妙な空間だった。
 牢獄のような鉄格子の中に、明菜は閉じ込められていた。
 牢獄自体は、宙に浮いていたが、それが浮かぶ空間も、また奇妙だった。
 他にも、いくつもの、同じような正方形の牢獄が、いくつも、いくつも螺旋状に連なって浮かんでいるのだ。底は知れず、さらに天も知れない。
 浮かんでいるのは、牢獄だけではなかった。塵のようにして様々なものがそこにはあった。
 大理石で出来た神殿の柱の残骸らしきもの、裸の女性の石造の上半身、あるいは、何か宇宙船のような乗り物の破片、さらには、動物の骨や化石。さまざまなものが、その空間に浮かんでは上り、またゆるゆると下降しては、遥かな深淵、または高みへと消えていった。
 炎が燃えている。まるでそれは、巨大な目のようでもあった。ぐるぐると渦を巻きながら、あるいは螺旋状に連なりながら、火の粉が空間に、粉雪のように舞い散っていた。
 空間一杯に広がるそれらの光景は、ある意味ではどこか前衛的な未来世界の様相なのかもしれない。もしくは、終末を迎えた世界のあるべき姿を示しているのかもしれなかった。そこを漂うものたちは、世界の、文明の、フラッシュバックであり、記憶の断片なのかもしれない。
 「誰か」
 漂う牢獄に何者かいないものかと、明菜は呼びかけてみた。鉄格子をこじ開けようともした。だが、頼みの右腕は、まるで何の変化も反応も示そうとしない。力が封じられているのだろうか。
 「誰か。誰もいないの?」
 返事を待つまでも無く、漂う牢獄に人影は無い。
 下降しているようだった。
 あるいは、上昇しているようだった。
 降り注ぐ火の粉には、熱がまるで無かった。火の粉は降り注ぐのみならず、舞い上がってきた。
 上も下も無かった。右も左も。
 平衡感覚は既に失われている。眩暈がする。景色は常に万華鏡のようにして様相を変え続けていた。今まで見えていたものが、どこかへ消えていたり、何時の間にか現れる新しい光景もある。目に飛び込んできたのは、長い長い階段だった。真っ白なそれは、延々と天を貫き、地底へと伸びていた。そこを、無数の人々が昇降する。亡者の群れのような、葬列のような、生気の無い死白装の列。どこへ向かい上り、どこへ向かい下るのか理解している者はいまい。駆り立てられるようにして、沈黙の行進は続いている。
 鉄格子を握る手に、再び力を込めた。が、頼みの右腕は、人間そのもののか細さと頼りなさで、鉄格子の破壊の役には立ちそうに無かった。どうやっても、力は戻りそうにない。
 「くそッ・・・・」
 悪態を吐いてから、鉄格子にもたれるようにして明菜は座り込んだ。
 記憶が酷く錯綜してしまっている。そもそも、なぜここに居るのか。ここは一体、何なのか。先ほどまで戦っていた敵はどうなったのか。あるいは、もしかすると死んだのは自分でここは本当の煉獄、地獄なのではないか。思考すらまとまりを欠き始める。
 と・・・・・。
 不意に、胸に激痛が走った。何か、新しい未知の存在が突如として胸の内側に宿り、激しく鼓動して暴れだしているかのような、掻き毟られるような酷い痛み。
 「あぐッ・・・・」
 喘いで明菜は牢獄の中を転げまわった。胸の痛みがどんどん酷くなっていく。呼吸が次第に困難になってくる。ぜえ、ぜえ、と自分じゃないみたいなしわがれた息遣いがする。まるで胸が爆発してしまいそうな凄まじい激痛だ。
 痛みのあまり、ガリガリとコンクリート製の床を爪で引っかいた。そのたび爪は剥がれ、指先から血が噴出す。それでも、明菜は床を引っかくのを止めようとしない。指の痛みなど問題ではなかった。たとえ、全部の指がもげてしまおうと、何かを掴まずにはいられない。何かを引っかかずにはいられない。そうでもしなければ、すぐにでも死んでしまうような痛みなのだ。
 ついに、吐血した。塊みたいな血が口内から噴出してぶちまけられる。それでも、一向に痛みは増し続ける。
 だが痛みは胸だけには留まらなかった。
 じわじわと、侵食されるようにして、全身に同様の激痛が広がっていくのを明菜は感じた。全身の筋肉という筋肉が、神経という神経が、細胞という細胞が、見えない何かに侵されるようにして壊れていく感覚。真っ白で、何も無くなっていくという感覚。
 ずるずると、何かが引きずり出される感覚が走った。激痛が嘘のように消える代わりに、もはや何も感じない。動こうにも、動けなかった。あるいは、動いているのかもしれないが、その感覚自体が消えている。身体全体が、石膏に包まれてしまったかのように酷く重い。
 その間にも、身体から何かが引きずり出される感覚は続いている。しばらくして、それが目に見えるようになった。
 真っ白いもの。液体とも、影とも違うが、何か白いものが、明菜の身体から流れ出るようにして広がっていく。
 それは意思を持っているようだった。這うような動きにも似た動作だ。明菜の身体から離れるに従い、体積と容積を膨張させていく。
 どこか、明確な目的でもあるのか、明菜から流れ出したそれは鉄格子の外へ溢れ出ようとしていた。すうっと、全身の感覚が隅々まで少しずつ消えていくのを明菜は感じた。何かを感じないというレベルではない。本当の意味での消滅。消えていく感覚が、身体の末端、指先から少しずつ広がってくる。
 まるで自分の生命力が、この得体の知れぬ物質に乗り移っていくようだった。
 命を奪われる。
 消えていく感覚が加速する。
 目で見れば、文字通り、身体が消えていくのが分かっただろうが、今の明菜にはもうその余力すら残されていない。
 ぼんやりと、まだ辛うじて生き残っている視覚だけが、この夢とも、現実ともつかぬ状況を、他人事のように傍観していた。それに基づいた意味ある判断を、頭脳は既に下せずにいる。
 と・・・・・。
 「あなた」
 まだ、意味ある言葉を、しっかり発音できたのが不思議なくらいだった。
 目の前に、白い輝きに包まれて、一人の少女が明菜に背を向けて立っていた。
 昼間遭遇した、あの少女に違いなかった。
 これこそ、幻覚かもしれない。
 死、というより、消滅を目の前にし、脳がすっかり錯乱してしまっているための幻覚。
 だが、消えかかる視覚を機能させる網膜に突き刺さる、この閃光は何だろう。
 これが幻と言えるだろうか。
 聖母・・・・?
 一瞬、そんな迷信めいた言葉さえ浮かぶほどだった。臨終の、あるいは、耐え難い断末魔の状況の中で、聖人というものは姿を現すようだ。だが、私に聖人だの聖者だの、笑わせるわ。
 神など居ない。そう、無垢なる神など。
 邪神ならそうね、いるかもしれない。信じるとしたら、私はこの呪われた神を信じている。
 ならば、目の前の少女は、忌まわしい闇の化身・・・?
 とうとう、この私に引導を渡すために直々に現れてくれたのかしら?
 「私、死んじゃうんだ」
 この期に及んで、まだ自殺予告をするつもり?
 「先生も、もうすぐ死んじゃうんだよね」
 心なしか、少女が笑ったように感じられた。いや、ただの気のせい。
 「なら・・・・一緒に死んじゃおうよ」
 いよいよなのだ。やはり、この少女は、私の死神。
 「自殺した者の魂は、天国には行けないようね。心中も同じ。どんなに愛し合っていた者でも、一緒に死ねば、その魂は別々に引き離されてしまう」
 ここは、地獄ではないの?
 言葉にしようとしたが、声が出なかった。
 その疑問を感じたように、少女が続ける。
 「ここは思念の狭間。地獄の一歩手前よ。でも、もう先生は地獄に片足どころか、もう両足を踏み入れちゃってる。だから時間が無いの。私も一緒に死んじゃいたいから早くしないと、私たち、一緒に死ねないじゃない」
 くすくすと、少女の後姿は無邪気に笑った。
 「でも、この世界じゃ簡単に死ねないんだ。ここで本当に死にたいと思ったら、先生みたいになるしかないんだって。ほら・・・・・」
 少女は天を見上げた。
 渦巻く炎。目玉のような炎に向かい両手を広げる。
 長い黒髪が、風も無いのにバサバサと揺れて、乱れる。
 すると、どうか。
 影のように。
 明菜と同じような白いものがずるずると、少女から引きずり出されていくではないか。
 彼女は両手を広げ続ける。まるで日光浴でもしているかのようだ。
 すうっと、光に包まれている身体が消失を始めている。
 ただでさえ、透明に近い身体が、光の中に溶けていく。
 「これがこの世界での魂ってものと観念されているみたい。魂って、もっとずっと綺麗で透明で澄んでいるものだって思ってた。でも、なんか違う」
 失望でもしたみたいに、少女は首を振った。
 まるで迷いを振り払うみたいな、きっぱりとした動作だった。
 「やっぱ、地獄じゃなきゃヤダ」
 少女の白い物質と、明菜の白い物質が・・・・・・。
 融合を始める。
 刹那。 
 全身に少しずつ感覚が戻ってきた。失われたものが、取り戻されてくるのを感じる。
 「一緒に地獄に堕ちて、その地獄で一緒に死ななきゃやっぱつまんない。こんなところで死ぬなんて、嘘だよ」
 少女の身体もまた、輝きを取り戻す。その顔は依然、天空の炎の目を見上げていた。
 「だから返してもらうよ、先生の命」
 語りかけたのは、その炎に向けてのようだった。
 「この世界も、地獄と交わる時が来るから。そうなったら、あなたも満足できるわ。だからそれまでは待っててね。もうすぐだから。それまで少し待ってて」
 消えていった身体が再生を始めている。脳を走る毛細血管から、一切の血液が消失してしまったように、まともでなかった思考が、まとまりを始める。五感が正しく、世界を取り戻していく。
 両手を握った。
 確かにここにある。
 足を動かした。
 確かにここにある。
 何もかもがすっきりとしている。
 立ち上がる。
 私は立っている。自分の、この二本の足で立っている。
 そう認識した時には、明菜は人気の無い路地の真ん中に立っていた。
 左右の塀に、飛び散る肉片や、路上を埋める濃厚な血臭の只中に。
 そしてそこは、もはや閑静な住宅街の様相を留めてはいなかった。
 アスファルトの路上と思っていた場所は、何時の間にか、ごつごつとした岩場に変わり、何の変哲も無い、コピーみたいな家屋の群れも、粘土を固めて作ったような奇怪な建造物へ変わり果てている。
 夜空を見よ。
 化鳥のような奇怪な一団が、奇声をあげて、闇夜を切り裂いていく。
 空だけではない。
 今や、そこかしこで、闇に長らく押し込まれ、隔離されてきた、光の下で歓迎されない存在が、密やかに、しかし確実に、堂々と、姿を見せ、躍動を開始しているのだった。
 あらゆる場所に、彼らの姿を見ることができるだろう。路地の隅にも、塀の上にも、粘土みたいな家屋の中にも、ありとあらゆる場所で、彼らは気配を立ち上げている。
 明菜は、百鬼どもの中に混じった闖入者なのだ。彼女こそ、歓迎されない存在なのだ。
 闇の住人たちは、明菜のような存在を見慣れていないらしく、すぐには手を出さない。
 観察しているのだ。じっと、目を凝らし、あるいは目の無い者はその他の超高次元の感覚を駆使し、明菜という存在を隅々まで判別しようとしている。
 何者か。どういう生物なのか、我々に害はある力を持っているか、肉は美味いか、内臓は美味いか、肉はどれほどたっぷり頂けるか、我々の取り分は?子供たちにもしっかり行き渡らせるほどだろうか、どれ、どこから食らってやろうか。待て待て、その前にどうやって狩ってやろうか。
 あるいは、肉欲を覚えた者もあっただろう。人間的な欲情でなくとも、もっと原始的な本能めいたものが、明菜から放たれる匂いや、フェロモンを敏感に感じ取り、強く発情を促されるようにして。彼らは明菜に、自分たちの新たなる生存戦略の道を見出すのかもしれぬ。むろん、より高度な存在は、人間並みの欲情でもって、明菜を蹂躙したいと考えているだろう。
 いずれにしろ、闇の住人たちは一枚岩ではなかった。見えぬが、既に明菜を巡る戦いは、争奪戦は勃発しているのである。彼らが明菜に襲いかかろうというのは、彼女が自分たちの敵であるという高度な大義ではない。
彼らにしてみれば、敵だろうが、味方だろうが、食欲や肉欲を満たす対象としては同一なのである。腹が減れば、共食いも辞さぬ。欲情が足りなければ、血を分けた存在だろうと交わろうとする。どこまでも原始的な、本能に従う存在なのだ。
従って、彼らは、己の欲望を満たすためだけに、攻撃を仕掛ける。そして、それが達成された後は、仲間同士による、奪い合うための戦いが起こるだろう。その帰趨を握るは、先制攻撃を仕掛けて、それに成功すること。そのためには、手段など選んではいられぬ。
 それぞれが、程度の差はあれ、思考に乗せて、あるいは本能的な狩りの戦術として、それを心得ている。
 明菜は、これからここで起ころうとする魔戦の起爆剤に他ならぬ存在なのだ。
 その駆け引きを知ってか、知らずしてか。
 明菜は異界をゆっくり進み始める。進行方向は、学校方面。
 「揃ったようね」
 呟いた一言は、この状況の、この光景の意味を知悉している何よりの証左だ。それでいての、学校への進路選択である。大胆不敵と言えば、これほどのものはあるまい。
 標的は動き出した。
 周囲がそう一斉に認識する。
 どいつが仕掛けるのか。
 この均衡を破るのは?
 驚くほどの静寂は、互いが駆け引きをしている最中であることを意味したかどうか。
 静かなる、死闘。
 明菜は進む。
 不意に・・・・・。
 静寂を切り裂いたのは、空の勢力だった。
 あの化鳥の群れが、バサバサという羽音と、蝙蝠みたいな鳴き声をあげて明菜めがけて殺到した。
 だが、敵は明菜がぐっと足を踏ん張った腰だめの状態から右の拳が前方へと突き出された刹那、粉々に四散する。
 それを合図に、次々と、闇から、狩人が飛び出した。
 あるものは双頭の犬だった。一つの頭は犬で、もう一つは人間。というより、大型犬に人間が強引に吸収されたようで、その胴体からは人間の四肢がバラバラに食み出している。犬の顔は、飢えに狂っているが、人間の顔は苦悶に歪んでいた。
 あるものは、ただの影だった。そこに、赤い一つ目がポツっとあるだけだ。が、放たれる邪悪さは、犬の化け物の比ではないほどに強い。しかも、より貪欲に餓えている。
 またある者は人間だった。
 正しくは、元人間。
 うようよと、それは生気をなくして彷徨う、ある種ゾンビのような生き物だった。
 服はボロボロに破れ、肉は剥がれ落ちて内臓がこぼれ出している。唇が捲れて、眼球が飛び出している。鼻も削げ落ちていた。
 動きは非常に遅かった。が、確実に明菜に狙いを定めているのが分かる。のろのろと、彼女へ接近を始めていた。
 包囲網はかくして、着実に狭まりつつあった。その他、有象無象の闇の眷属が次々に、明菜を包囲しつつあった。
 「思い切りやれそうね、どうやら」
 右手に力を込める。
 少しずつ、少しずつ、そこに破壊の力が蓄積されていくのが分かる。
 あとは、解放を待つばかり。
 一斉に・・・・・・。
 われ先にと、血に餓えた獣たちが明菜へと踊りかかる。
 しかし、そのすべてを、明菜の右腕が一掃した。腕を前方へ振るったのと同時に、凄まじいエネルギーの塊が迸り、闇の眷属を、真の闇の世界へ、死の世界へと送り届けるのだ。肉を吹き飛ばされ、内臓を有するものはそれを撒き散らし、鮮血を飛び散らせて、敵は次々に四散した。
 明菜の右腕が、破壊と、殺戮を求めて荒れ狂っていた。腕の衝動に、明菜は従った。滅多にないことだ。普通は自制を利かせ、力には制御を加える。だが今は、伸び伸びと拳を震えた。破壊のエネルギーを思う存分解放できた。
 闇の眷属ども。血に餓えた殺戮者ども。今こそ、あるべき場所へ送り返してあげる。容赦なんてしないわ。
 明菜は走った。学校の方向へと。
 このままのんびりと、片っ端から襲ってくる敵を相手にするつもりはない。無論、今はそのすべてを、闇の世界へと叩き返してやりたい気持ちもあったが、急ぐべきだと直感が告げている。
 雨を振り払うように、場所を問わず、方向を問わずに襲ってくる異形をぶちのめし、吹き飛ばし、千切り飛ばした。
 不意に、地面が隆起する。
 凄まじい力で、大地が持ち上がる。
 つられるようにして、明菜も中空へと飛び上がった。
 その進路を阻むようにして、凄まじい深さの亀裂が走り、大地が風穴を開けた。その中に、崩れた家々や、数多くの異形たちが吸い込まれて消えた。
 高々と、明菜の身体は依然、飛翔を続けている。悠々とした滑空で、彼女は巨大な亀裂を飛び越える。
 洞窟から、一斉に夜空へ解き放たれた蝙蝠のようにして、飛び上がり、彼女へ群がるハイエナども。蛆虫ども。
 魔戦はかくして、舞台を空へと移した。
 覇者は明菜であった。
 戦いなどではなかった。それは一方的な殺戮である。
 唸るようにして振るわれる魔人の右腕に、成す術なく千切り飛ばされていく魔の群れたち。数あれど、所詮は烏合の衆であった。統率系統、命令系統なき、カオスの群れでは、万の大群を投じようとも、明菜に打ち勝つことは適わなかっただろう。
 彼らの最大の弱点。それは、本能のみに裏打ちされた戦略無き狩りそのものにあった。肉を見れば、策なしに飛び込む野蛮な習性にあった。たとえ、その肉が必殺の武器を備えていても関係は無い。彼らには理解はできないのだ。飛び道具を備えているとしたら、その道具が、触れずして遠くから、自分たちを返り討ちにできてしまえることを理解できない。
 故に、狩るものはいつしか、狩られるものへと変じた。原始のままの世界に取り残された人間が、巨大な肉食獣に群れで遭遇したのならば、恐らくは食われるだけだっただろう。
 だが、最先端のライフルや、マシンガンを備えた人間が野生の肉食獣うろつく荒野に取り残されたとしても、獲物はむしろ、肉食獣なのである。それを、当の肉食獣は気づかないし、理解もできない。いつまでも、狩るものと、狩られるものの力関係は変わらないと信じ込んでいる。
 今、まさに、展開されている光景は、そんな錯誤が生み出したものに他ならない。
 彼らの過ちは、明菜を獲物としてしか認識できなかったことにある。抵抗しない、無垢なる獲物としてしか。
 彼女は断じて、無抵抗に甘んじる獲物などではなかった。逆である。
 もし、彼らに優秀な命令系統が存在していたら。彼らを統べる存在がいたとしたら、各々が力を十分に出し切り、有効な戦術で明菜を包囲できたかもしれない。彼らに必要なのは、絶対的な命令系統なのだ。
 亀裂を飛び越え、明菜は着地した。すぐさま疾走へ移る。
 揺ぎ無い進行は、突如として停止した。
 敵が立ちはだかったわけではない。この程度の雑兵相手に、遅れをとる明菜ではない。
 彼女が立ち止まったのは、その一角を占める異様な瘴気のためだった。その異様は雰囲気は、同じ闇の眷属であるはずの、異形をも、たじろがせ、その一帯への侵入を拒むものだった。
 明らかに、今までのものとは別格。その一帯にだけ粘っこく、しつこくこびりつく気配。だが、その主の姿は見えぬ。
 一変して慎重に、明菜は進んだ。いつ、どの方向から、角度から攻撃を受けても対応できるような姿勢に身体は高めてある。
 明菜は足を止めた。
 前方の左右の塀に、巨大な穴が開いていた。何か巨大なものが塀をぶち抜いて横断したかのようだった。その穴へ近づくたびに、寒気を伴う気配がより強まる。間違いは無い。この敵は一帯のどこかにいる。すぐ近く。
 突如。
 すぐ横の塀が崩れたかと思えば、ダンプカーみたいな肉塊が突っ込んできた。
 明菜は中空へ飛び、その突進を避けた。
 反対の塀をぶち抜いて、そいつは地中の中へと潜った。
 姿ははっきりとは見えなかった。ぬめぬめした皮膚と鱗のようなものを持っていることくらいが分かっただけだ。それと匂い。鼻が曲がるような悪臭を容赦なく体表からばら撒いていた。巨大な蛇か蝮と言ったところだろうか。あるいは、蚯蚓。まだ路上に、そいつが残した体液がべっとりとこびりついて、いやな腐乱臭を残している。
 体液にまで、邪悪な瘴気が色濃く残されていた。並の人間ならば、そこへ近づいただけで発狂してしまうに違いない。
 やり過ごすこともできただろう。このまま走り抜ければ・・・・・。
 だが、明菜はその方法を選ばなかった。まだ、学校までは距離がある。どの辺りまでが、このデカブツのテリトリーか知れぬ。
 ゆっくりと、進みだした。
 穿たれた巨大な穴を覗き込む。真っ暗で何も見えない。そこから何かが飛び出すかどうか伺いつつ、彼女は横切った。
 不意に、凄まじい咆哮が轟く。聞くものを立ち竦ませずにはいられない神経に作用するノイズのような叫びだ。穴という穴、いや、その一帯のどこも発信源となりうるほどに、そこかしこで、同じ音量の咆哮を聞くことができただろう。
 直後。
 穴という穴。そして、地面。そこから何かが突き出てきた。
 ぬめぬめとした青白い鱗。それらが壁のようにして現れるや、そのまま明菜を押しつぶそうと一挙に押し寄せてきたのだ。
 なんということか。凄まじい体長だ。この一帯を軽く蹂躙するほどの体長を、化け物は有しているようだ。壁のような体表が明菜に迫る。
 明菜は中空へと逃れた。
 が、敵の胴体のテリトリーは中空にまで及んだ。右腕を叩き込む間もなく、その巨大な胴体に強か、打撃され、明菜は地上へ叩きつけられた。その上から容赦なく、メガトン級の胴体が降りかかる。この巨大さの前には、人間の身体など蟻同前の大きさしかなかった。易々と、明菜の身体は破裂したことだろう。
 異形の胴体全体に波打つような動きが起きたのも、その直後だった。
 波打つように全身に伝わるそれは・・・・・・、苦悶のようだった。
 ああ、見るがいい。先ほど明菜を叩き潰したであろう、その辺りが今、ごっそりと吹き飛び、千切れている。傷口から噴出した鮮血は緑色で、洪水のように溢れ出したそれが、辺りを染め抜いていく。
 人間の足に潰された蟻が、逆にその足に風穴を開けるなどあり得ない。
 しかしここでは、そのあり得ない現象が起きたのだ。
 異形全体がのたうつ。辺りの塀や、家々は悉くなぎ倒され、瓦礫の山と化した。その動き自体により、自身に反撃した蟻のごとき明菜を、今度こそ粉みじんにしようとしているかのようだった。砂煙が立ち上り、一帯はしばらく、何も見えなくなった。
 すべてが、停滞したようだった。ずっしりとした巨体を晒し、異形もしばらく動かない。
 と、その中に一つ、鮮やかな影が動いた。
 ひらりと、長い胴体の上へ着地したそれは明菜だった。その身体には返り血も、砂埃もまるで見られない。
 「私はここよ。さあ、食ってごらんなさい」
 これだけの長さの相手だ。胴体にいくら攻撃を加えようと、問題ではないだろう。向こうも、胴体で潰そうが、叩こうが、どうやら無意味ということに気づいたか、彼女を振り落とそうともしない。
 ならば、どこかに潜んでいる頭を潰すしかない。
 「さあ、ここよ」
 頭を誘い出すにはこれしかあるまい。
 その誘いに乗ったか・・・・・。
 どこかで、何かが持ち上がったような音がした。
 酷く、遠くで、そいつは鎌首をついに持ち上げた。
 はっきりと見える邪悪な面。
 蛇のようであり、竜のようでもあり、鬼のようでもある。
 獅子のような長い白い鬣を有し、ぎょろっとした大きな眼球は六つもあった。般若のような、能面のような、不気味な笑みを貼り付けた口を持っていた。
 頭部は、地面を裂きながら、家々をなぎ倒しながら、明菜へ近づいてきた。近づくたび、まるで塔のような長さの胴体の果てに、頭が見える。
 「さあ、早く食ってみなさい」
 明菜は手招きした。すると・・・・。
 僅か、異形が目を細めた。
 視線は、明菜の右腕へ引き付けられていた。
 するすると、異形は首を伸ばした。
 ぐわっという音が聞こえるかと思えるほど、張り裂けんばかりに口を開き、凄まじい速度で敵は明菜へ覆いかぶさってきた。
 その口の前に、飛び出して来たものがあった。
 巨大な蛭のような紫色の舌である。
 だが、舌と呼ぶにはあまりにも巨大な柔肉である。
 速度も凄かった。巨大でありながら、可変に富み、自在な動きを見せる柔軟性を駆使した舌は、神業にも近い速度で、獲物を、明菜を捕らえにかかった。
 絡め、そのまま潰すも、素早い動きで叩き潰すも、エレガントに、一気に口の中へ引きずり込むのも、どの方法もお好みで出来そうだった。
 敵はどれを選んだか・・・・。
 否。
 そのどれも選べなかった。
 なぜならば、明菜のか細い繊細な五指が、生臭い唾液塗れの舌をしっかりと掴んでいたからだ。
 口へ引きずり込む力と、それに抵抗する力。
 一見、穏やかな、静止の中で駆け引きは、見えざる戦いは既に進行中なのであった。
 その戦いは、互角。故の静止である。どちらも譲らない。
 明菜の右腕は、まだ、一介の人間の形状を維持している。にも関わらず、異形の力に拮抗する膂力である。腕ばかりではない。全身が、常人のものを遥かに超えた筋肉をフル稼働させ、身体をその場に食い止める一助となっているのだ。彼女は表情一つ変えぬ。
 不意に、その右手が、柔肉を掴んだかと思えば、ぐっと凄まじい力で引かれた。
 不気味な文様を輝かせつつ、人間では有り得ぬ存在へ形を変えた右腕が、拮抗を破ったのだ。
 長い舌が、その半ばでブチっと引きちぎられる。舌はぐねぐねのた打ち回り鮮血をぶちまけた。
 ビクビクと、不気味な痙攣を放つ切れ端を投げ捨て、明菜は敵の口元へ跳躍した。その身体に、吹きかけられた血飛沫とも、唾ともつかぬ、強烈な腐乱臭を放つ体液すら気にせずに。
 殺戮を求めて荒ぶる右腕は、そのまま、異形の頭部へ叩き込まれるはずだった。
 そこに僅かな軌道のズレが生じた。
 拳は空を切るどころか、振られることすらなかった。ミスと呼ぶにはあまりにも奇怪なミスだった。攻撃の意思を持ちながら、なぜ武器を振るわぬのか?敵の新たな攻撃に対抗するための回避行動でもなかった。明菜の跳躍は、それを確実に留めうる攻撃を繰り出すことを不可能とするほどの速度だったからだ。
 では、何が起きたか・・・・・。
 なんとかして、というような着地もまた、妙であった。明菜の身体能力が一気に精彩を欠いていた。
 ここで初めて、彼女は自身にこびりついた、悪臭塗れの体液に注意を向けたのだ。
 原因は、これね。
 とは言え、身体的な異変はまだ何も感じられなかった。精神的なものも検討してみたが、やはり何も起きては居ない。
 しかし、攻撃は中断された。腕が動かなかった、というレベルではなく、腕の動きを封じる反発力が瞬時に襲い掛かってきたというべきだろう。
 攻撃の意思が消えぬうちに、再度明菜は跳躍しようとした。が、今度はそれすらできなかった。
 逆に・・・・・・。
 生気を欠く、般若の形相が、無力化された獲物に襲い掛かってきた。
 避けられるかしら・・・?!
 奇跡的に、と付け加えたくなるほどあっさり身体はどうにか反応してくれた。それでも、非常に緩慢で鈍い動きだった。一メートルと横へ飛べていない。ギリギリ襲撃を避けられる距離で、身体のすぐ隣を、凄まじい衝撃が空振りするのが感じられた。
 第二撃はすぐに来た。今度は地面が、ゴゴゴゴゴゴと揺れている。一旦、地中へと潜った頭部が、沈潜した地中から再度、攻撃を繰り出そうとしているのだ。
 足元から確実に揺れが大きくなるのは、振動の反射が大きい部分から明菜の正確な位置をソナーのように突き止められるからに違いない。どれほど全力で走ろうとも、確実に追い詰められるだろう。それよりも、逃亡が可能な速度で走れるかどうか・・・・。
 地面が盛り上がる瞬間、重い動きで明菜は横へ飛んだ。全身を鎖で拘束され、かつ、巨大な錘をいくつも巻きつけられているようなそんな感覚だ。このように、辛うじて攻撃を受ける寸前で身をかわすことしか、今の明菜にはできなかった。
 聳え立つ、塔のようにして再び、巨大な頭部が地上へと姿を見せる。
 このままじゃ、やられるわ。
 攻撃を封じられた。動きも封じられつつある。その中において、いかにしてこの強大な敵と戦うべきか。
 一つ、思い当たる方法があった。ずっと、できれば使いたくはなかったが、もはや方法は無い。うまくいくかどうかも、一種の賭けだった。
 目を閉じる。
 視界は闇に閉ざされる。それでも、気配だけは濃厚に身体中にまとわりついてくる。腐臭を帯びた、邪気が。
 その中で、彼女は外界ではなく、己の内へ、内へと降りていくイメージを意識した。
 螺旋階段を一段、一段下りていくような、そんなイメージ。
 下降の中で、何が見えてきたか。
 それは、とぐろを撒く暗黒の炎だった。遮断された視界が齎す闇よりもさらに深い闇の炎が、螺旋階段にまとわりつくようにして下へ、下へと続いている。
 階段を下るに従い、重い音が上昇してくる。
 鼓動。重い、鐘のような音がする心臓の鼓動がこみ上げてくる。
 明菜は、己の内の感覚を、この心臓の鼓動目指して、探っていった。
 その時には、もはや外の感覚は一切、遮断されている。只管に、求めるものを探して奥へ奥へ、下へ下へと進んでいった。
 意識も、存外である。自分が置かれている状況や危機感も、欠落し、消え去っている。すべてが、内の闇のさらに奥を目指して進むことだけに捧げられていた。
 一体、その先に何があるというのだろうか。
 闇が、少しずつ先へ進むたびに濃さを増していく。下降の旅の中で、その変化が明菜にはハッキリと理解できるのだ。
 そして・・・・。
 とある箇所で明菜は動きを、内面の探査を止めた。正確には、そこから先には進めなかった。そこには青白いフレアが爆発的に渦巻いて燃え盛り、先へ進むのを妨害していたからだ。
 止まった部分で、明菜は周囲の光景を見た。
 停止した箇所が、決して無意味な部分ではないと、すぐに知れた。
 今まで下ってきた、どの部分よりも、質的に、空間的に、そこは趣を異にしていた。
 闇の中に、何かが息づいている。姿は見えぬ。
 そいつは、呼吸をしていた。
 接触を試みようと、明菜は暗がりへ意識の触手を伸ばす。
 逆に・・・・。
 そいつが、明菜を捕まえにきた。
 生臭い息を彼女の意識は感じた。
 続いて、赤い光点が見えた。それは、そいつの「目」だったのだろうか。
 その、妖しげな光に魅入られる内に、少しずつ、己の意識がそいつの中へ埋没していくのを感じる。 
 いけない・・・!
 と、判断していた刹那、目を閉じていた明菜は、双眸を解き放ち、鮮やかな跳躍に移っていた。 
 だが、見よ。その表情を。
 何かに、憑かれているような目。そこには、凄まじい殺気が宿されていた。歯軋りする歯は、ギリギリと凄まじい音を立てて噛合わされている。
 巨大に変形した右腕が、青白い炎をまとわり付かせ、殺戮求めて唸りを上げる。
 ここに、封じられていた攻撃は、より、その鬼気を倍加させて、逆巻く異形へと叩きつけられようとしていた。
 それは明菜が単に攻撃と動きを取り戻したものではない。何かが違っていた。今までの腕の力とは、今までの動きとは。明らかに、そこには、何かのリミッターを外した、容赦なさが宿っている。腕の形状を見るがいい。人間の一部とは明らかに不釣合いな巨大さを誇り、加えて、鱗のような外皮がさらに禍々しく変形して盛り上がり、奇怪な文様が青白い炎を噴出させている。青白いとは言え、輝かしいということではない。輝かしいはずだが、限りなく暗いのだ。その炎の周囲が、照らされるどころか、翳りを帯びているではないか。明菜の右腕は今、人間よりは、巨大な魔人こそが持つに相応しい存在感を備えているのだ。
 それを持つことを許された人間が、どうなるか。もはや、考えるまでもなさそうなものだ。明菜を包む燃え盛る鬼気と殺気がそれを物語る。人間であることを超越したような、鬼気迫る表情がそれを物語る。
 だが、覚えているか。
 己の闇の中を探求するのを、明菜は途中で停止せざるを得なかったことを。
 あの、青白いフレアの先が、まだあるとすれば・・・・・。
 一体、そこには何が待っているというのだろうか。そこへたどり着けた時、明菜はどうなってしまうのだろうか。
 だが、今は問うまい。
 今は・・・・・。
 予期せぬ、獲物の復活と反撃に、異形が一瞬、虚を突かれたようだった。それでも、正面から無防備に突っ込んでくる相手に、こちらも正面から喰らいつく真似はしない。そこが、敵の高等さを物語っていたのかもしれない。
 代わりに、鬣のような白髪を、中空へとばら撒いた。
 それらが、明菜の全身に絡みつき、突進を止めた。これが単なる髪の束ならば、引きちぎられていたかもしれない。その白髪は、粘着質であったのだ。それこそが、明菜の動きを封じた最大の理由だろう。
 それでも、明菜には戸惑いも、困惑も、焦りも、驚愕の表情も何も無かった。視線は真っ直ぐ、敵めがけて固定されている。
 足掻いた。明菜はただ足掻く。殺戮を求めて。
 凄まじい妄執が、髪の毛の戒めを、少しずつ、破っていく・・・・。
 ああ、その全身から湯気が立ち上っている。
 明菜の腕から放たれる炎によるものか。熱は身体全体へ及んでいた。それによって、彼女を包む髪の毛が溶けていく。
 だが、敵も然るもの。
 髪の毛は、単に明菜に巻きついて動きを封じただけではなかったのだ。
 溶けているのはむしろ・・・・・明菜の身体でもあった。
 髪の毛は、粘着質だっただけではない。毛先から、少しずつ消化液のような強酸を分泌していたのだ。且つ、それとほぼ同時に溶けた肉に食い込み、のみならず、そこから血を啜り出していたのだ。
 明菜が、髪の毛を引き剥がし、一撃を加えるのが先か。
 明菜が、溶かされ、すべての血を吸い尽くされるのが先か。
 「ああああああああああッッ」
 明菜は絶叫した。
 右手が、手近な髪の毛を鷲摑みにした。
 そして、引く。
 忽ち、引火した。
 明菜の全身もまた、火に包まれる。
 ぶちぶちと、異形の白髪が引き抜かれる。引火した炎が、みるみる、その頭を炎に包んでいく。青白い炎だ。
 肉が焼ける耐え難い痛みからか、異形が身をよじる。頭を激しく振る。
 明菜は・・・・・。
 跳躍した。全身は炎に包まれている。
 それは、凄まじい殺気と殺意の表出だったのか。
 思い切り彼女は右腕を後方へ引いた。
 その時には、敵も思い切り息を吸い込んだ。刹那、頭を包む炎が一気に消える。
 代わりに・・・・。
 凄まじい、紅蓮の炎がその口から噴出されたではないか。
 明菜はしかし、迷い無く、停滞無く、拳を振るった。
 炎が、明菜を包み込んでいく。
 いや、それは一瞬。彼女を包む、青白い炎は、バリアのようにして、紅蓮の炎を拡散させ、寄せ付けなかった。のみならず・・・・・。
 その一撃は、異形の巨大な頭部を、粉砕してのけた。
 特大の花火が派手に炸裂したような、鮮やかな鮮血と、炎と光が夜空に刹那の競演を果たした。
 頭が吹き飛ぶと同時に、胴体が波打つ。
 巨大な瘤のようなようなものが次々と体表に浮かんだかと思うや、一気に破裂を始めた。大量の鮮血が、土石流のような勢いであちこちにぶちまけられていく。地中の中に沈んでいる胴体も、崩壊の運命を避けることはできず、地面が盛り上がり、噴水のようにして、ドロドロの血液が噴出していく。凄まじいほどの強烈な悪臭が辺りを包み込んだ。腐りきった魚が大量に一気に破裂したような。
 どれくらい、異形の断末魔は続いただろうか。その長い長い胴体が、最後の最後まで完全に吹き飛び、消滅したころには、辺りは洪水に包まれた後のような景観そのものだった。闇に沈んだ奇怪な異世界が、汚液に満たされ、沈んでいる。これも、ある意味では一種の終末の形なのかもしれない。
 明菜は、まだ無事を保っている塀の一角に降り立ち、その様相を眺めた。
 全身のレザージャケットは、酸による溶解を受けて既にボロボロとなっていた。随所から、焼け爛れた、しかしそれでいて尚、魅惑的な白い肌が露出する。髪の毛はボサボサに乱れ、顔に張り付き、明菜を妖艶なる女神に見せている。変質的な性癖を持つ男ならば、股間を膨らませた所だろう。その彼女に、もはやあの鬼気迫る形相や、禍々しい腕の力は無かった。それでいて、その悲壮な表情は何であろうか。
 妖艶でありつつも、明菜は破壊の美影神なのだ。闇の中を生き、その中に息づき、身を潜める許されざる存在を狩る処刑人なのだ。それこそが、明菜の本性なのだ。
 美など、明菜には不要な属性なのである。どれほどの美を飾ろうが、またどれほどの醜に身を落そうが、彼女の闇に生きる呪われし業には、どれ一つとして寄与しないのである。
 歩んだ道には、数知れぬ骸が積み重なり、これから歩む道には、骸となる運命なる者が順番を待つ。闇こそが、明菜の居場所なのだ。月明かりさえ、彼女を美しく見せてはいけないのだ。だが、その美さえ、かりそめの、彼女の真の姿を隠す隠れ蓑となるならば。あるいは、同じ訳で、醜さえもそうなるならば。どちらであろうと、構わないのである。
 と、背後で音がした。
 地響きのような。それは揺れを伴った。
 程なくして、その正体が知れた。
 地中から、にょきにょきと、何から持ち上がってきたのだ。
 門だ。恐ろしく巨大な、巨人専用の門かと思える高さと荘厳さ。
 それは、方角からして学校方向に聳えていた。
 明菜は門を見据えた。正確にはその向こう側を。
 空気が違った。景観は何一つ変わらぬ。だが、漂う空気が門を境界として異なっていることに、明菜は気づいた。
 それは、異世界へと通じる門だということを。見た目は何も変わらぬ。だが、あの向こうはもはや違う世界なのだ。
 すなわち、門の向こうにある学校も、また。
 地面に降り立ち、明菜は進んだ。
 巨大な、門柱の脇には、重厚な巨人の石造が二体、屹立していた。今にも動き、言葉を話しそうなほど、それは精巧に作られていた。
 巨人像は各々、手に聖火を掲げていた。門に扉は無かったが、明菜は見えざるそれが、確実に開いているのを感じた。同時に、像が手にしている聖火にも、火が灯された。
 空気が吹き付けてくる。
 冷たかった。肌に突き刺さる空気だ。
 冷たいだけではない。異世界の空気のためか、どこか酸味を帯びているそれは、ピリピリと、五感を刺激する。
 荒涼とした巨大な門と、その番人は、明菜を歓迎しているようだった。静かな出迎えであった。
 異世界への入り口に、ただ一人立つ明菜はその向こうに何を見るのか。
 「お邪魔するわよ」
 不敵な一言を、薄笑みさえ浮かべつつ放ち、明菜は一歩を踏み出した。
 石像に目を向ける。突如として攻撃を仕掛けてくることもありうる。この石像が、番人でないという確証はどこにもない。むしろ、番人であると決めたほうがいいだろう。
 しかし、あっさりと、明菜は門柱のすぐ下まで辿り着いていた。吹き付けてくる空気は、いよいよ、その強さと冷たさを増し、明菜を追い返そうとするかのようだ。何も無いのに、圧倒的な壁みたいな威圧感が聳え立つ。
 表向きには、まだそこは閑静な住宅街の只中である。夜の闇に沈み、明かりの灯されているものは数少ない。平穏な、安眠に沈み込んだ世界。だが、それはかりそめに過ぎぬ。それは、背後に広がる、変容した世界と、地続きなのだ。単に、その質が変わるだけに過ぎぬ。
 そう思うと、世のすべてがかりそめの、見せ掛けであるよう。どこまでが、見えているままの姿で、どこからが、それが偽りであるのか。
 区別などどこにも無いのだ。見たままを受け入れるか、疑うかしか、矮小な存在には採るべき方法が無いというだけだ。
 せいぜい、平和な、作られた平穏に甘んじているがいいわ。
 そこに住まう、同胞へのささやかな皮肉を心の中で呟き、明菜は門を、潜った。
 何時の間にかというべきか。
 門から先は時間の流れでも違っているのか。
 夜は明けていた。
 だが、その光景をどう表現したらいいものか。
 光がある。だが、朝なのか、昼なのかつかぬ、柔らかな光は、まるで人工の光のような印象を与える。
 アスファルトも、塀も、家屋の壁も、どれもこれもが、高価な石で作られているかのように、その光を白く照り返すばかりで、影すらも地面に残さない。
 本当に、この中に人が暮らしているのか、と思えるほどに、辺りは静まり返ってしまっているのだ。鳥の囀りすらも、聞こえてこない。車の音も、電車の音も、何も聞こえない。
 とりあえず、この服を替えないと。
 あまりに静か過ぎているが、白昼では、流石にこの格好では歩けない。
 素早く明菜は移動した。
 記憶を辿り、複雑な路地を正確に折れていく。
 辿り着いたのは、一棟のアパートだった。どこにでもありそうな、平均的な作りで、新築されたばかりなのか、入居者募集の告知が至る場所に掲げられていた。
 その一室、109号室の鍵を開け、明菜は中へと入り込んだ。
 中はがらんとしていた。全くもって、一切の家具や調度品、調理器具が見られなかった。ただ、ダンボール箱が二つほど、無造作に転がっているばかりだ。カーテンすらもない。
 クローゼットを開けた。
 そこには、今着ているのと同じレザージャケットが二着ばかりと、スーツは無論、ナース服、警察官の制服、某飲食店の制服などの制服関係はほぼ一通りと、黒を中心とした私服がずらりと並んでいた。
 ここは言ってみれば、明菜の第二のアジトと言うべき部屋なのだ。彼女は必ず、仕事場近くに最低二つのアジトを持つようにしている。一つは居住用。もう一つは、非常用とも言うべきものだ。昨晩、居住用のアジトが襲撃され、破壊されたために、もう一つの場所へやってきたというわけだ。
 ボロボロになったジャケットを脱ぎ捨てて、明菜はバスルームへ入った。蛇口を捻り、熱いシャワーを全身に浴びる。本当は、この浴槽にたっぷりと湯を満たしてゆっくりとしたかったが、今はシャワーだけで我慢した。今は、やるべきことがまだ残されている。
 非常用のアジトには滅多に来ないが、きちんとシャンプーやボディーソープ、入浴剤の類は完備してある。昨晩の戦いでくしゃくしゃになってしまった黒髪を、丹念に洗い、トリートメントで整える。汚液と腐臭に塗れてしまった全身をボディーソープで隈なく洗い流し、ここまででざっと15分。もっと時間はかけたかったが、生憎、ここへ来たのは服を着替えるためで、入浴のためではない。
 予め、たたんで置いておいたタオルで全身から水滴を除去し、タオルを全身に巻きつけて、そのままドライヤーをかけた。髪の毛が長いため、完全に乾燥させるのに、シャワーを浴びる以上の時間がかかってしまった。
 ふと、鏡に目が留まった。
 自分が写っている。
 鏡は、見ないようにしていた。今もずっと目を閉じて、ドライヤーの熱を頭皮に感じていた。なぜか、ふと、目が開かれて、鏡の中の自分を写した。
 自分の顔が、嫌だった。嫌いになっていた。見たくなかった。
 この身体も・・・・。
 昔は違った。毎日、毎日、鏡を見ては、化粧の具合やヘアスタイルや笑顔や、いろいろなことを確認したものだ。出かける前には必ず最低30分は鏡の前に立った。鏡を見ないで出かけるなんて有り得なかった。
 でも、昔が違ったように今もまた違う。
 鏡が嫌いになった。自分の顔を見るのが嫌いになった。自分の素肌を見るのが嫌いになった。
 けど、本当は、怖かっただけなのかもしれない。
 自分の顔が、身体が。鏡に写る自分が。
 そう、昔を思い出しそうで、怖かった。
 何もかも、素敵で楽しくて素晴らしかった、昔を思い出してしまいそうで。
 今は無い、失われたすべてを思い出してしまいそうで・・・・・・。
 醜い。鏡の中の私の顔。
 酷い面だわ。
 この身体も醜い。
 どこもかしこも傷跡だらけ。肩にも、胸にも、お腹にも、背中にも、太ももにも、足首にも。そこかしこに、切り傷の痕や、火傷の痕。
 醜い。汚らわしい。見たくなかった。こんな自分はもう一秒だって・・・・・。
 右手で、明菜は鏡を叩き割った。拳には傷一つ無い。明菜も、顔色一つ変えぬ。鏡一枚割るのに、いちいち痛みなど、もう感じなかった。
 それから、ひんやりとした部屋へ出た。
 クローゼットにある衣装箱に、下着のストックもきちんと揃っている。
 セクシーであったり、魅惑的であったり、可愛らしげなものである必要は全く無いのだろうが、色はすべて黒や紺、青だった。元来、そのような色が好みなのかもしれない。
 手早く身につけ、その上から新品のレザージャケットに身を包む。
 「よし」
 と、自分に言い聞かせるようにして、明菜は部屋を出た。












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