第一章 混沌乱舞
その爆音は学校の外から一キロ離れていてもしっかりと聞こえる。構内の各所でひしめき合う、ラップミュージック、へヴィーメタル、トランス、エレクトロニカ、レゲエサウンドだった。どれも、馬鹿でかいスピーカーから最大音量で垂れ流されている。
これら音楽に合わせて、踊り、頭を振り、拳を突き上げている者たち。火炎瓶なんかもよく飛ぶ。つわものになると、口から火を噴出し、まるでコンサート会場に紛れ込んだかのような錯覚を起こすだろう。
格好もそうだ。制服はどこへやら、民族衣装にドレッドヘア、安全ピンを全身にくっつけたゴシックな衣装を着た銀髪、鋲がそこら中に打たれた革ジャン姿の長髪・・・・・。全生徒中八割が制服の代わりに私服を着ているのだった。
こんな光景が外で繰り広げられているならば、寛大な通りすがりなら、学園祭の真っ最中だろうな、と見過ごすかもしれないが、外はもちろん、廊下や教室、はたまたトイレの中や売店でも、同様の光景である。それだけではない。廊下でボールを蹴りながら疾走しているもの達は、ただいま校内サッカーの真っ最中。同じく、バスケットボールをドリブルしながら、人垣を巧みに縫うのは、これまた校内バスケの真っ最中。その間隙をスケボーや、インラインスケートが疾駆し、極めつけは、大型二輪の大暴走だ。廊下というよりは、むしろストリートである。当然、巻き込まれて怪我をする者は後を絶たないが、そのすべてが保健室ではなく、通院を口実とした早退で学校から消える。怪我をした不幸より、学校を早引きできる幸運が勝っているのだ。
だが、こんな例ならばまだ可愛いかもしれない。もっと物騒な連中もいる。廊下での喧嘩は当たり前。素手ではなく、木刀や真剣まで持ち出しての、本気の喧嘩、というよりもはや抗争である。多くが一対一の決闘で、それを肴にどっちが勝つかという賭けが横行。野次馬も多い。一対一ではなく、入り乱れての大乱闘もある。それは対外、一応場をわきまえて体育館や柔道場などと相場が決まっていた。
加えて、こんな校内のお祭り騒ぎに乗じて、本来は授業で使われて然るべきクラスのひとつが、まるまる乱交パーティーの部屋に勝手に成り代わっていたりもするし、教室ではなく、堂々と廊下でおっぱじめる者もいる。もちろん、体育館の裏や、木陰など目立たない場所でやる輩はいるので、ちょっとその辺りを見てみれば、野外でそこかしこの饗宴が見られるはずだ。
こんな事情を飲み込んで尚の学校である。これでも学校なのだ。が、もちろん、状況が状況なのでまともに授業をしているクラスなど、皆無。教員も来ているのかいないのか分からないような幽霊教師。それでも、まだ学校の外へ出張ってまでやりたい放題はしないから、とりあえず、箱につめて好き勝手させておけ、という風で誰も何の咎めもない。大学がレジャーランドという揶揄をされているが、この学校に限っては、下手な大学より、文字通りのレジャーランドなのだ。暴力、セックス、飲酒喫煙、さらにはドラッグ。何でもありの空間なのである。
世間の目はどうだ、警察の目はどうだ、教育委員会の目はどうだ・・・・・。そんな月並みな外圧を、この学校にも適用しようとしてはいけない。ここは一種の辺境なのだ。異境なのだ。一種の聖域なのである。もちろん、この風紀を正そうとした勇敢な教師や、教育委員会のメンバーや警察関係者は数多くいた。だが、誰も何一つ成し遂げられないばかりか、変死体として、新聞の片隅に僅かなお悔やみ欄が出るだけだ。当然、この学校との繋がりを示唆するようなことは何一つ無い。あるいは、暗黙の了解なのか。彼らはただ単に、良心に訴えた行動をしただけのはずだ。別に強い行動に出たり、そんなことはなく、一人の教育者として、法の番人として、己の正義に従っただけの行動をしたはずだ。だから、別に悪を滅ぼそうとか、正そうなどという、ヒーローみたいな気持ちでこの学校に乗り込んだわけではないだろう。だが、悪は時として、ヒーロー然とした存在にも牙をむくものなのである。ヒーローくさいヒーローも、悪は気に食わないのだ。ただの教師さえ、この悪には敵なのだ。教師とは、いわばヒーローなのだ。無知という最大の敵から人々を救うヒーローと、悪は認識する。そしてこう主張する。「無知で何が悪い?」「馬鹿の何がいけない?」「むしろ、体制にいいように利用されるだけの愚かな人間を作るだけだ」「そういう人間を作るよう送り込まれた悪の手先、貴様らこそ、正されるべき悪だ。正義はこちらにある」と。
この学校では、この空間では、世間の論理だとか、システムだとか、基準など無に等しい。意味が無いのだ。基準がそもそも違うんだから、世間の基準でこの学校をどうこうしようとしても無駄なのだ。今、この学校の教員としてやっていけている者はそこをきちんと理解している。生徒に睨まれたら、居場所がないのでなくて、生きていられないことを、彼らはちゃんと理解している。
そして、かつて、多くの異端を自由に受け入れたように、今、学校は新しい、しかし美しい異端を招きいれた。そう、招き入れるのは自由だ。受け入れるのは自由だ。門は常に開いている。なじむか、なじまないか、適合するかしないかは、そいつの問題、と主張するかのように。
彼女は、それを知ってか、知らずしてか、校門を潜った。
「この門を潜るもの、一切の希望を捨てよ・・・・ね」
不敵な笑みを浮かべつつ、グレイのスカートから伸びた健康的な足をきびきびと前に進めていくのは、女だった。優雅にハイヒールを運び、凛とした雰囲気で、この獣の巣窟みたいな異世界を我が領域に変えようと勇む開拓者のようだった。小さな鞄を小脇に抱え、肩まで伸びた髪は一つに束ね、視線は常に正面を固定している。周りの狂乱を見てはいるのだろうが、興味には上らせないというのか、超然としていた。
飢えた野獣たちは、彼女が校門を潜った直後から索敵のアンテナを彼女へ固定した。既に彼女は、獲物として見られていた。単なる通りすがりとか、間違いが通じる場所ではない。校門から裏門へ近道をしようとして、校内を抜けた女子大生が、十人に輪姦された挙句、海外へ売り飛ばされた話はざらだ。
今や彼女は、すっかりこの学校一注目を集める存在になっていただろう。校門を潜って僅か二分か三分でもう有名人なのだ。名前も知らない有名人。それがありがたくないことを、彼女は恐らく知らないだろう。この学校の有名人は、輪姦されるか、リンチを受けるか、即殺されるかのどれかしか選択肢は無いというのに。むろん、彼女にどうこうできるものではない。理不尽とはまさに、このことを指して言うのだろう。
女は正面玄関から入った。教員が使うロッカーにハイヒールを入れてスリッパを履く。彼女が去った後、このハイヒールは恐らく無数の精液を注がれて、その後に革フェチの変態へ回される運命だろうが、当然、そんなことは女は知らないだろう。校内は相変わらずのお祭り騒ぎで、普通に歩くことさえ難しいだろう。その雑踏を、女は実に巧みに上手くすり抜けていく。一切の停滞が無い。五人の男子生徒が、通せんぼするまでは。
彼らはまさに壁のようにして、女の行く手を塞いだ。背後には早くも見物人が集まり、すべてが男だった。はやし立てるような声や口笛が響いている。
「どいてくれないかしら。校長室まで行きたいんだけど」
「どいてくれないかしら。校長室まで行きたいんだけど・・・・・か、へへ、そうはいかないぜ、可愛いセンセ」
内一人が、気色悪い声音で彼女の口調を真似た。
五人が五人、レスリングでもしているかのような巨漢ばかりだった。あんな腕に殴られたら、女の課細い首など、簡単に折れてしまうに違いない。どいつもこいつも、人を傷つけることに何の躊躇いも無いかのような凶悪な面ばかりで、高校生というよりは、重刑犯罪者みたいだった。
「あんたがこれから行くのは校長室じゃなくて、俺たちの部室だよ。そこで、たっぷり朝まで可愛がってやるからさ。その可愛い面をひいひい言わせてやるよ。子供が十人くらい出来るほどたっぷりの精液を注いでやるからさ」
「生憎、男の人の精液ならもう間に合ってるわ」
「おい、聞いたかよ、可愛い面して大した変態だぜこいつは。遊び甲斐があるってもんだよな」
場の男たちが、野次馬を含めてどっと笑った。だが、目だけが笑っていない。凶悪な光が宿っていた。恐らく彼らは申請のサディストなのだろう。どう、甚振るか、傷つけるかしか頭にないに違いない。
「見かけない面だな、新米かい?俺たちがたっぷりと手取り足取り教えてあげるよ、センセ」
別の一人がにやけながら言った。
「お願いよ、どいて頂戴」
その懇願が、さらに男たちを調子づかせたか。
「なら俺たちをどかしてくんだな。その可愛い腕でせいぜい頑張ってみるこった。言っておくが、一人ひとりの体重は百に近いぜ。女がどんなに頑張っても、俺たちを後退させることさえできねえよ。逆にあんたなら、俺たち片手で抑えられるぜ」
最初の一人が挑発した。
「どかしてもいいのね?」
不敵に、彼女は微笑んだ。
直後、巨漢の一人は壁にたたきつけられていた。あまりの衝撃にガラスが割れる。叩きつけられた男は気を失っていた。
彼らは何が起きたのか、まるで理解できなかった。が、すぐに冷静な思考を取り戻し、それは瞬時に、怒りの点火装置に火をつけた。
「やりやがったな、このアマぁッ」
「どかせっつったからどかしたのよ。でも、あらあら、一人どかしたくらいじゃ通れそうにないわね」
怒りはしたものの、内心、男子生徒たちは焦っていた。
本当に、今のはこの女がやったことなのか?と。
まるで何も見えなかった。こいつが動いたようにも見えなかった。なのに、一人倒された。
表情は揃って、遊びの色を無くした。本気だった。殺しにいく目つきをしている。殺しにいくつもりで行かなければ、待つのは・・・・・・・・・。
一斉に四人が掴み掛かってきた。これだけの巨体に一気に掴み掛かられたら、そのまま圧死するか、全身骨折は確実だろう。おまけにこの狭い廊下では、目の前から来る巨体を避けられないし、背後は沢山の野次馬に実質上包囲されている。
逃げ場なし。そこへ来て今迫る男たちの巨躯を、どう避ける?
だがどうか。あれよ、あれよという間に、一人、また一人、壁に、床に、叩きつけられていく。見物していた者たち、誰一人まともに見えたものはいなかった。何かがブレたか、あるいはそのままの位置から彼女は動いていないようにしか見えなかっただろう。なのに、一人百キロ近い五人の男たちは、今、あっさりとその場に昏倒しているのだった。
廊下で巻き起こった衝撃に、教室の中に居た生徒たちが次々と顔を出す。野次馬はあっという間にものすごい数に膨れ上がっていた。ざわめきが、混沌と、混乱の色合いを含んでいる。そこにあるのは、明らかな当惑であった。
成り行きを見守っていた見物人の男たちは、それぞれが、一斉に彼女の行く手を塞ぎ、取り囲みにかかった。どこに仕込んでいたのか、各々の手には、鉄パイプやら、バタフライナイフやら、高圧スタンガンなどの物騒な凶器が光っていた。
「ただのアマ一人にしてやられたんじゃあ、面子丸つぶれだぜ」
「おうよ。隣町の高校とのシマ争いの最中に、これじゃあ、野郎どもの士気が下がるってもんよ」
「新米には、新米の身の振り方ってもんを教えてやるぜ」
体格では先ほどの連中よりも、何倍も劣る故か、彼らの強みは半ば数だけだった。各々が、加えて凶器を備えている点、若干のアドバンテージの向上も期待できたかもしれない。
しかし、凶悪な野獣に囲まれても、女の表情には一切の怯えや躊躇いが無い。軽やかな足取りで進みだす。
本気の袋叩きにかかってやろうという、容赦ない暴力の、力の奔流が、彼女の動きで均衡を崩し、出口を無くして暴走したかのように、矛先をその細身の体へ向けた。
なのにどうか。待っていたのは、嵐に吹き飛ばされたかのような勢いで壁や天井、床に次々叩きつけられていく男たちの乱舞であった。彼らは、手持ちの凶器の性能を、満足に発揮することもできないままに、なす術無く、圧倒的な力の蹂躙に身を任せるしかなかった。それが、一人の女から生み出されていると、一体誰が信じられよう。
すべてが終わるのに、時間はかからなかった。もはや、彼女の前に立ちはだかる障害は何も無かった。今度こそ、野次馬たちは、固唾を呑んで状況を見守ることしかできなくなっていた。
そして、この中に、混沌と破滅の園の堕落に身を任せていた者たちの中に、彼女の存在に唯一の希望を見出した者も確かにいた。それは、誰もが、とうに諦めてしまった感情である。その、長い間の無法地帯に身を置いたがために、埃を被ってしまった希望という感情が、今、ここへ来て、生き生きと照らし出されるのを感じた者は多くは無かったが、僅かいたことも事実だった。
そんな感情を込められた視線が背中に当たることを知ってか知らずしてか、女は校長室と書かれた扉の前に至っていた。二回、ノックをして中へ入った。一気に、校内の雑音がシャットアウトされる。
「失礼します」
落ち着いた内装であった。黒い革張りのソファーに、ガラスのテーブル、分厚い年鑑などが並ぶ木製の本棚。床には、ベージュの絨毯が敷かれていて、窓からは、気だるい日差しがたっぷりと入り込んでいた。
窓際に、一人の中年の男が立っていた。紺色のスーツに、茶色のネクタイを几帳面に結んだ、頭髪の薄くなった男だ。体格は痩せており、背はしかしそれほど高くも無い。一瞬、彼は女を見てぎょっとしたような顔になったが、すぐに取り澄ました顔つきになった。
「本日より、この学校に赴任しました紅明菜と申します。よろしくお願いします」
「ああ、あなたがそうでしたか・・・・。しかし生憎、本日校長は出張しておりまして。代わりに私、教頭の大泉と申します。校長が戻るまでの間、一つよろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
申し分の無い会釈だった。角度、目線、頭を上げるタイミング、すべてが完璧である。そんな丁重な明菜の様子を見て気をよくしたのか、大泉は饒舌になり始めた。
「英語の先生が一人、突然辞職してしまいましてね。丁度、後任を探していたのですよ」
「なるほど、そうでしたか」
「それにしては泰然自若とされていらっしゃる。堂々たる姿ですよ。小心者には、教師という職業は勤まりませんからな。それに、ここへ来るまででお分かりになられたように、わが校は、遺憾ながら、地域、いや、世界的に見ても最低レベルの高校です。生徒の扱いも極めて難しい。もはや義務教育などではないのだから、生徒の自己責任に任せて、相応の振る舞いをしない者には、この学びの場からご退場頂いても一向に構わないのだが、そこが親だの、世間だのが甘やかすんですな。実によろしくないことだ。こんな生徒たちが、社会に出た時の方がよっぽど恐ろしい。然るに、ここでは、もっと校則や罰則を強化し、徹底して堕落した生徒には、矯正の梃入れを断行すべきと、再三、さまざまな方面に掛け合っているのですよ」
長い演説を、一気に語り終えて、大泉は一息ついた。
「なるほど。状況は察するに余りあります。ささやかながら、私にも何かできることがありましたら、精一杯のご協力はさせて頂きます」
「そう言って頂けると、実にありがたい」
大泉はそう言うと、ゆっくりと、明菜へ近づいた。
「ですが・・・・少々、おいたが過ぎるんじゃないかね?」
何時の間にか、大泉は明菜の背後に回っていた。その動きに、彼女の顔が驚愕で歪む。
「わが校の可愛い生徒たちを痛めつける権限など、部外者の貴方には無いはずですよ、明菜先生」
ささやき声のようなものを認めた刹那、明菜は振り向いて右手の拳を大泉へと叩き込んだ。
そう、廊下で荒くれ者をぶちのめした力の正体こそ、彼女の右腕にあったのだ。
とは言え、一見それは、何の変哲も無いただの腕でしかない。すらりと長く伸びた腕の、どこにあのようなパワーが秘められているか、見ただけでは分かるまい。
大泉は今、その腕を、見たままの通り、単なるか細い腕から繰り出されたパンチを受け止めるようにして、掴んでいた。実際、その一撃を食らえば、生身の人間などどうなるかという力には違いない。
「おやおや、どうやら、おいたをしたのはこの腕のようだ」
受け止められた腕をにさらに力を込めて、明菜は大泉を振り飛ばそうとした。
「無駄ですよ。その程度では、私を動かすこと、適いません」
「・・・・馬鹿な」
思わぬ事態に、明菜は驚愕を口にした。
「我々を見くびってもらっては困るよ、明菜先生。どれ、お仕置きが必要だね」
次の瞬間、床に叩きつけられていたのは教頭ではなく、明菜であった。その衝撃は、彼女を気絶させて余りあるものであった。
「ふむ。あの部屋へ、これほどの上玉を連れ込めるかと思うと・・・・・」
こみ上げてくる興奮を、彼は隠そうともしなかった。股間を無性にしごきたい衝動を辛うじて抑えると、そのまま軽々、明菜を抱えあげた。部屋は出ず、そのまま彼は、本棚の戸棚を押した。鈍い音がして、棚が左へスライドする。その向こうに口をあけていたのは、薄暗い通路だった。一歩中へ踏み込めば、そこには緩やかな階段が下降を続けている。匂いは饐えた地下の湿ったものだ。階段はまっすぐかなり長く続いている。それを下り終えると、大泉を出迎えたのは、重厚な鉄の扉。厳重にも、鍵穴は二つ。彼は懐から鍵の束を取り出して、迷うことなく、二つの鍵穴にそれぞれ差し込んで開錠した。縦長の取っ手はさながら、病院の手術室を思わせる。それを掴み、力を込めると、扉は重々しく左右へ開いて彼を次なる空間へと出迎えた。
中は、まるで中世の拷問部屋のような様相を呈していた。が、唯一違うのが、メカニズムによる制御が施されているらしく、電子機器やコンピューターが至る所に配されている点だ。それでも床や天井、壁は石造りだし、中世の拷問部屋に特有の、鉄の処女を初めとする物騒な拷問器具の数々がズラリ揃っている辺り、展覧会がそのまま開けそうである。それが飾り物でない証拠に、生々しい血痕がそれらには付着し、部屋の中にも、濃厚な血臭がこびり付いていた。
大泉は明菜を、円型の奇妙な器具へと運ぶと、その体を大の字に固定した。両手首、両足首を固定するのは、いかにも硬そうな金属の枷である。それから大泉は、部屋の隅にあるコンピューターへと向かった。巨大な装置に数え切れないボタンやダイヤル、摘みやキーボードが配置され、色とりどりのランプが忙しそうに点滅を繰り返している。その大きさから、この部屋全体を制御するには余りあるようにも見える。大泉は、いくつかのボタン、いくつかのキーボードを鮮やかに操作して見せた。軽やかな電子音を響かせて、部屋全体に重い地鳴りのような音が木霊した。
それから彼は、気絶している明菜の頬を二、三度叩いた。彼女の覚醒は、案外すぐに訪れた。
「ようこそ、わが城へ」
明菜は昏睡から覚めたばかりではあったが、その視覚は即座にこの部屋の状況を脳内へ伝えたようだ。
「ここへ君を連れ込んだのは生憎、意識を失った女を眺めて楽しむためじゃないのでね。もっと楽しく、もっと素晴らしいことをしてさしあげるためだ。だから強引にお目覚め願ったという次第さ」
大泉は心底、嬉しそうな笑みを浮かべた。到底、万人受けしないと思える気色の悪い笑み。それは、笑顔を作ることに慣れていない者が作った強引な形ばかりの笑みであった。その証拠に、両の頬の筋肉がプルプルと引き攣っている。
「今、君が縛られているのは、私が開発した最新鋭のマルチ拷問テーブルだ。ありとあらゆる拷問器具が、この中に収納されていて、ボタンひとつでお好みの器具が取り出せる。コースメニューというものもあってね、これは拷問を一通り行ってくれる優れものだ」
まるで最新の電化製品を説明する販売員のように、大泉は聞かれてもいないことをベラベラしゃべり始めた。
「だが、君のような美しい女性を、切ったり、そぎ落としたりすることは、少々、エレガントさに欠けるというものだ。だから、君へのお持て成しは、もっとエレガントなものを選ぶべきだ」
大泉は、そう言ってから、徐に明菜のスーツを引きちぎった。ボタンが気前よく飛び散り、黒いブラジャーが露になる。それからスカートを引き摺り下ろした。薄い、布切れみたいな黒いパンティーが肌色のストッキングの上からでも十分に確認できた。
「おやおや。教育の場には恐ろしく不釣合いな下着ですね。これでは、生徒に正しい道を教えるどころか、道を誤らせてしまう。やはり貴方にはお仕置というものが必要でしょう」
「減らず口叩いてないで、やるなやらやりなさいよ、この変態ジジイ!」
「そんな安い挑発に乗ると思いますか?それではつまらない。言ったでしょう、貴方にはエレガントなやり方を採ると」
大泉は一旦、明菜から離れて、コンピューターの隣にあった、一見、拷問部屋にはそぐわないフリーザーの扉を開けた。中から白い煙がふわりとこぼれ出す。彼がそこから取り出したのは、香水のような瓶だった。中には緑色の液体が半分ほど満ちている。
「生徒相手ではなかなかいい結果を残せなくてね。どうも、まだまだ未成熟な高校生の身体だ。おっと、すいません、つい独り言を。これは、言ってみれば自白剤です。とは言え、貴方にピッタリなエレガントなものです。大脳上皮を麻痺させる従来の自白剤には、エレガントさの欠片もありません。ですが・・・・、これは違います。試作品のために、まだ名前はありませんが、ようやく最適な実験体を得ました。まずは、この自白剤の効能のテストもさせて頂きますよ」
そう言ってから、彼は瓶の蓋を捻った。小さな噴出孔が見える。
「なかなかいい香りですよ。香水などには興味はありませんが、貴方のような女が好んで使うような匂いがします。とても自白剤とは思えない。だからこそ、そこがエレガント」
大泉は噴出孔を明菜の鼻へと近づけた。
「さあ、始めますよ」
シュ。
液体のほんのり冷たい感触を感じた後は、確かに、香水の香りがした。ムスクやアンバーグリース、どちらかと言えば定番の香りだ。
「生徒では一度噴射しただけでもう使い物にならなくなりました。貴方にはもう少し頑張ってもらいますよ」
もう一度、冷たい液体が顔にかかるのを感じた瞬間、大きく明菜の身体が仰け反った。
その額には珠のような汗が浮いている。忽ちそれは顔を滴り落ち、まるで雨に濡れたような塩梅になった。それだけではない。生暖かい液体が、勢いよく肢体から噴出して太ももを滑り落ちていく。大きな痙攣が断続的に彼女を遅い、呻き声とも、喘ぎ声ともつかぬ悲鳴を迸らせた。目は白目を剥いている。
「どうです、素晴らしいでしょう。ああ、まだ耐えられそうですね。それでこそ大人の女です。やはり未熟な高校生では駄目ですね」
トドメと言わんばかりに、大泉は再度、液体を明菜へ吹き付けた。彼女は一際大きな悲鳴を放って、爆発せんばかりに身体を撓らせると、意識を失った。
「でも、すぐに目覚めますよ。そこからが、本当の楽しみの始まり。ご一緒に楽しみましょうか、先生」
言葉通り、明菜はすぐに覚醒した。目の前で、大泉が例のにやけた面で彼女を眺めている。
「どうですか?疼いてきたでしょう。この段階まで来られたのは先生が始めてです」
嬉しそうに大泉はもみ手した。
「触れられてもいないのに、肉体は反応を始める。でも、こうするともっと素晴らしいですよ、先生」
何時の間にか大泉は右手にリモコンのような機器を持っていた。そのうちのいくつかのボタンを押すと、明菜の周囲の各所から何かが現れた。
一目でバイブと知れた。どれもが、男性器官を模った生々しい形状をしている。大泉がさらにリモコンを操作すると、それらは、一斉に明菜の身体へ這い寄った。
「はああああッ・・・・」
意図しない悲鳴を明菜は必死に押さえ込もうとしたが無駄だった。肉体は、もはや彼女の意思を離れて反応を始めている。止めることなど適わなかった。
バイブがむき出しにされた乳房を、わきの下を、太ももの内側を、そして、下着越しに秘所を、うなじを、一斉に愛撫し始めた。到底、耐えられるものではなかった。
「さて、ここで質問です。一つずついきますよ。まず、何者ですか?」
その質問に、明菜は快楽の絶叫で答えた。
「答えになっていませんねえ。仕方ありません」
再び、大泉はリモコンを操作する。すると、バイブの動きが一斉に停止した。
「もはや今の貴方にこの生殺し状態に耐えられるだけの気力はありません。触れて欲しくて、欲しくて堪らない。身体が疼いて疼いて堪らない。なのに、それは与えられない。誇張ではありません。狂ってしまうでしょう。さあ、果たしてどれほど耐えられるか。当然ですが、質問に答えれば、再開してあげます。ほら、欲しいでしょう。ならば答えるのです。貴方は何者ですか?誰に頼まれたのですか?」
明菜は歯を食いしばった。
「だんまり戦術ですか。賢いとは言えませんね。まあ、それもいいでしょう。あっさり口を割られるのもつまらない。それでは拷問の価値がない。いいですよ、貴方みたいな徹底抗戦の構えを見せてくれるのは。さあ、もっと私を楽しませなさい」
全身が熱くなるのを明菜は感じた。意識が飛んでしまうほどの快楽を身体が求めている。今にも爆発してしまいそうな欲求の奔流である。叫びだしてしまいそうだった。欲しい、と己の欲望に屈服したい気分だ。その感情を、歯を食いしばって必死に彼女は押し殺した。
「頑張りますねえ。でも、無理はいけませんよ」
身体はこのまま、溶けてしまいそうになっていた。意識が朦朧とさえしてくる。
言えば、言ってしまえば・・・楽になれる、と誰かが囁いている。
いえ・・・・・。
私は、誰?
私は・・・・ナニモノ?
一体、私はこんなところで何を?
違う。
これは私じゃない。
ここにいる私は、私じゃあない。
こんなのは、間違ってる。
だから、私は自分が何者か、分からない。
いいえ、大丈夫。少しおかしくなってきただけ。自分が誰か分からないはず無い。
でも、正しい姿かしら?
私の居場所、生きる世界は・・・・・こんなもの?
私が元々いた場所はもっと・・・・・・・・。
「さあ、もう一回聞きますよ。貴方は、何者です?」
何者。
私は・・・・・・。
「・・・・処刑・・・人」
言葉は、零れるようにして漏れ出した。
「ほう」
大泉に、好奇の色が浮かんだ。
「噂だけの存在でしたが、まさか貴方がそうとはね。実に光栄です。で、誰を、何を処刑しに来たのですか?」
処刑・・・・?
違う。私は、そんなことする人間じゃない。
本当は違った。こんなこと・・・・・。
「この・・・・学園・・・・の・・・粛清・・・」
「ほう」
ますます、大泉は面白そうだ、という表情になった。
「で、何を掴んでいますか?この学園に関して」
「なに・・・・・も。私・・・・は・・・・・ただ、ここの・・・・すべてを・・・・滅ぼす・・・・だけ」
「ふむ。どうやら、嘘ではないらしいですね。もっとも、嘘などつけないでしょうが」
大泉は心底、満足したようだった。
「よくできました。さあ、お望みのものを与えてあげましょう。それから、そうですね、次の段階です」
リモコンのスイッチがオンにされた。
蛇のようにして、バイブが明菜の全身を這った。襲ってきたあまりの快楽に、明菜は一瞬で失神した。大泉はさらに、リモコンのスイッチを操作した。バイブはより一層、激しく、淫らに動き出す。弾かれたようにして、明菜が戻ってきた。
「さて、拷問の時間は終わりです。少々、物足りなかったですけどね。拷問の次は、処刑です。貴方お得意の処刑を私がしてあげましょう。ただ、やはりただ殺すのでは、エレガントでありません。私の、奴隷として飼いならすことにしましょう。まずは、これから主人となる私に、忠誠心を示すのです」
ゆっくりと、彼は服を脱ぎ始めると、白いブリーフ一枚となった。それから、明菜の拘束を解いていく。
大泉の男根は、ブリーフ越しでもはっきり分かるほどに、屹立していた。その膨らみへ、彼は明菜をゆっくりと導いていく。
「さあ、私に忠誠を誓うのです。舐めなさい」
明菜は・・・・・ゆるり、従った。ブリーフに手をかけて、ゆっくりと下ろしていく。弾かれたように、その下から、禍々しい性器が飛び出した。
大泉は、例の液体を男根に吹き付けた。おおお、という呻き声と共に、それはほぼ垂直へと直立した。
「さあ、舐めなさい」
ゆっくりと、明菜は肉の棒へ舌を這わせていった。舌が、亀頭へ近づくたび、肉棒は悦びにヒクヒクと小刻みな痙攣で迎えた。亀頭へ達した舌が、そのまま、全体をこねくり回すようにして這う。亀頭全体が、舌の蹂躙を受けた。透明な体液が割れ目からあふれ出し、そのたびに、彼女に舐め取られていく。
「ご主人様のペニスの大きさを、匂いを、温もりを、形を、しっかりと覚えこむのですよ」
陶酔感に満たされた大泉の呻き声は、明菜には届いていなかった。彼女の口唇は、肉棒全体を咥え込む。だらだらと唾液を垂らして男根全体を濡らし、顔を振り乱すようにして摩擦にかかった。大泉は無様な呻き声を漏らして身もだえした。そのまま達してしまう、という所で、彼は男根を引き抜いた。唾液と、精液が混ざった粘液が、長い糸を引いて明菜の口と亀頭を結ぶ。
「主従関係は、お互いを知らなければ、始まりません」
と、言ってから、彼は明菜の下着を引き剥がしにかかった。溢れ出した体液をたっぷり吸い込んで、もはや下着としての用を成していないその布切れを完全に取り去った下に広がっていたのは、はっきりと広がった桃色の肉襞だ。白い体液がその周囲には濃厚に張り付いて、湿地帯を形成している。
大泉が、明菜に覆いかぶさるようにして近づき、そのまま差し入れようとする。ゆっくりと、しかし確実に二人は結合へ向かおうとしていた。
刹那。明菜の頭蓋の内側で、何か火花が散った。無論、比喩的な表現ではあるが、それが明菜には覚醒を促す合図であると知れた。この感覚は、一度や二度ではない。生存本能のようなものと割り切るようになっていた。
五感がみるみる活力を取り戻していくのが分かる。それは、明菜が深層のさらに深くに封じた核のようなものだと彼女自身、認識している。それは、生存に、行動に、本当に必要な部分を閉じ込めたファイルのようなものとして機能する。そのファイルは、自白剤でさえも、封印を解かれることはなかったのだ。
「うぐうッ」
右手で喉元を掴まれて、大泉は不細工に呻いた。
「唯一、人間が無防備になる瞬間。それはセックスしている時」
大泉は、明菜の腕を引き剥がそうとした。が、動かない。校長室では、軽々御することができたはずのか細い腕が、今ではまるで別物に見える。苦しみと共に、驚愕が彼を支配した。
「ほら、頑張って下さい。でないと、その首、千切れてしまいますよ」
言葉に偽りはなかった。明菜の五指は確実に、皮膚の中へめり込もうとしている。少しずつ、入り込んできている。
「本気になりなさい」
「・・・・・なるほど」
呻くように、だが声音は変わった。
黒い、影のようなものが、大泉を覆ったように見えるや、その瞳は遮光を放っていた。真っ赤な瞳は、それだけで、人外の存在を印象付ける。
闇と化した大泉が、右手をすうっと伸ばしてきた。速さはしかし、光速である。伸ばした腕は、残像さえ留めず、輪郭さえおぼろげなままに、明菜を奇襲した。
が、彼女の右手は確実に、それを受け止めていた。
「遅いわね」
事実、明菜の視覚は、確実に、大泉の動きを捉えていた。
彼女が真相に閉じ込めた核。その中には、五感、とりわけ視覚を常人の数十倍に高める効能もあった。それは、右手の力に連動するようにして、機能するものであるが、ここへ来て漸く、その本来の力が発揮され始めたようだった。それによれば、動体視力は飛躍的に向上し、銃弾さえもはっきりと見ることができるほどになる。もっとも、その他の感覚もそれに伴って引き上げられるが、視覚ほどの向上は見ない。明菜の身体は、生存にもっとも必要なものを残して、それ以外は相応のレベルに引き上げることを選んだようだった。
「教頭先生。処刑人の名の下に、あなたを粛清します」
「無駄だ!人間ごときに!」
黒い影が動いた。しかし、明菜は動じない。その視覚は、大泉の一挙手一投足をすべて捉えているのだから。
彼女もまた、右手を動かした。
一瞬、その腕は巨人の如く巨大化して、膨張したかに見えた。それは幻覚だったか、否か、いずれにしても、一瞬のことだった。そしてそれは、大泉の動きよりもさらに早かった。その証左として、彼の上半身は、鮮血を撒き散らしながら粉砕されていたのだ。
「それで終いかね?」
くぐもった声がしたかと思うと、撃砕された大泉の上半身はみるみる復元を見た。
「そうでなくっちゃね」
「なるほど。その力、なかなかのものだ。まさか、貴様のような女相手に、この部屋と融合することになろうとはな」
一瞬、部屋全体が暗転した。光はすぐに戻ったが、目の前に大泉の姿は無かった。
ぞくり、と明菜は身を震わせた。確かな気配、それも邪悪な気配を感じたのだ。気配は既に、部屋全体に満ちていた。が、そこには依然、明菜以外の存在を確かめることはできない。
ポタ。
何かが、彼女の肩を叩いた。
ポタ。
それが水滴と知るに時間は要らなかった。しかも、水滴は水滴でも、その色は真紅。
血である。天井を見上げた。敷き詰められた石と石の合間、走る亀裂の合間から、血が染み出しては、雫と化して床へと降り注いでいたのだ。
天井だけではない。壁からも、さらには床からも、それらは染み出してきた。いや、もはや染み出してきたというレベルを超えて、流れ出していた。あたかも、壁や床、天井の中に塗りこまれた死体が血を流しているかのごとく。いや、これでは壁や床がそもそも血を流しているようだ。恐らくは、この部屋で、大泉の狂った加虐願望を満たすために散っていった者たちが垂れ流した鮮血が、どのような理由か、表出したのだろうか。ならば、ものすごい血の量だ。どれほど、この狂った部屋は、人々の血を吸い尽くしてきたのだろうか。
今、部屋は文字通り血の海を化し、溢れ出した鮮血は今、明菜の足首を満たすほどにまで膨れ上がっている。まさか、このまま、嵩を増す血で、彼女を溺れさせようというわけでもあるまい。
何かが、血の海から立ち上がった。血液で出来たかのような人体の格好をした異形が、次々と、血の海から現れてくる。そこから吹き付けてくるは、凄まじい妄念、怨念の奔流だった。明菜は気おされて、思わず後退したほどだ。
オオオオオオオオ。
うめき声にしては、これ以上ない不気味さで、妄念の結晶はゆっくりと明菜へ前進を開始する。一歩、そいつらが近づいてくるたびに、壁のような死霊の鬼気が彼女を押しつぶしそうなほどに迫ってくる。
明菜は右の拳を握った。先ほど、大泉を軽く撃砕してみせた腕は今、どれほどの力を宿しているのか。静かに、彼女は目を閉じていた。
そして一歩、彼女も前に進み出るや、大きく腕を引いて前に拳を振るった。ストレートである。スピードを失う引き換えに、威力に特化する、人間の一般的な打撃方法だ。
明菜のそれは、常人の二倍も三倍も上を行っていた。拳は、怨霊の群れに触れることなく、そこから迸った不可視の強大なエネルギーの奔流によって、そいつらを粉砕して除けていたのだ。血の飛沫と化して、敵は部屋を満たす、血の海へと帰していく。
はずだった。それだけに終わらなかったのだ。飛沫となって霧散した異形は、副産物を伴って明菜に反撃を開始した。
全身を貫いたのは、凄まじい冷気。忽ち、凍傷によって全身の細胞が、筋肉が壊死を始める。霊障だった。
膝をついて思わず崩れる明菜に反し、敵は再び、血の海から屹立したではないか。液体で出来た敵を、物理攻撃で粉砕することは適わぬのか。それに、たとえ倒せても、こちらにもダメージが跳ね返るというのは、たった今、証明された。
「・・・・なかなか、やるじゃない」
体表のみならず、強度の霊障が彼女に与えたダメージは内臓など内部にも及んだのだろう。その声は掠れて、ガラガラだった。にも関わらず、浮かべているのは不敵な笑み。
そして再度、彼女は右手を握った。
先ほどのような攻撃は無駄と知ってか?
腕を大きく後ろへ引くモーションまで、先ほどと寸分違わない。
その中で、唯一違うものがあった。
それは、腕そのものだった。
見よ。明菜の全身を、痛々しく覆っていた、霊障によるダメージが・・・・・・。
移動しているように見えるではないか。紛れもない、明菜の右腕へと。
同時に。
彼女の右腕全体に、刺青のような奇怪な文様が浮かび上がる。あるいはそれは、何か獣か何かの鱗のようにも見える。いずれにしても、今、明菜の右腕は、異様な変化を見せ始めていた。そして、その途上、彼女が全身に受けたダメージは、右腕への移動と共に完全に消え去っていたのだ。
引いた腕を、大きく拳をして突き出す。
爆風にも似た一陣の風のようなものに吹き飛ばされて、再度、異形は撃砕される。だが、明菜を待つは、それによって撒き散らされる凄まじい怨霊のエネルギーではないか?
否。
確かにそれらは再び明菜を襲いはしたが、それによって彼女が全身に手痛いダメージを受けることはなかった。なぜなら、敵の攻撃は明菜の腕へと、すべて吸い込まれていたからだ。その証左か、彼女の右腕に浮かんだ奇怪な文様が、獣の鱗のような文様が、怪しく輝いている。養分を得て喜んでいるかのように。
すべての念を吸い込んだか、明菜は拳を今度は床へ向けて叩きつけた。
床を満たしていたすべての血が一気に天井向けて吹き上がったかと思えば、それらは分子レベルに瞬時に分解されたかの如く、天井へ届く前に、中空で四散して消え去っていた。
部屋にあるすべてが、何事もなかったかのように佇んでいる。陰鬱で、冷たい空間には、しかし、依然として強い魔の気配が息づいていた。今の攻撃が、部屋の邪気を吹き飛ばすに何ら寄与していないことを明菜は当然のように知っている。大泉はここにいる。だが、当人にはなんらダメージらしきダメージは与えられていないと。
ガシャ。
鈍い金属が擦れるような音が部屋の隅でした。最初は、気のせいかと思った。だが、音はがしゃがしゃと、次第に耳障りなほどに大きくなっていく。
音の発生源はどこか。
それは、部屋を占有していた、拷問器具の数々からしていた。器具が、動いていたのだ。
わらわらと動くそれは、直接明菜を攻撃しようとはしていないようだ。それらはむしろ、ひしめき合うようにして動いては、互いに寄り添うようにして集まり始めていた。
足の指を切断する枷が、生き血を搾り出す鉄の処女が、おぞましい三角木馬が、何に使うか用途も知れぬ不気味な器具の数々が、互いに集まり始める。のみならず、それらは、解け、互いの中に混ざり合い、融合を始めて増殖を開始したではないか。無機的なメカニズムが、ここへ来て一つの生命体として結実を見ようとしていた。だが、目の前で生まれようとしているそれは、生命と呼ぶにはあまりにも、無機質な集まりである。元々が、無機質の集まりなのだから仕方はないのだが、融合して蠢くそれは、むしろ単なるガラクタである。
だが、無機質であろうと、ロボットは動く。言い換えるならば、一つの生命としてみなしても不都合は生じまい。同じように、目の前で新しい存在となろうと形を整えていく金属の集合体も、生命としての属性を与えられようとしていた。
メカニズムが、その心臓とも言えるコンピューターを取り込もうとした。触手みたいな金属の腕が、モニターやら、ブースに絡みついてそのまま覆いかぶさるようにして飲み込んでいく。その過程において、一切の不和や破壊が見られない奇跡的な融合である。先ほど明菜が縛られた円盤型のテーブルも、融合の過程で既にその中へと取り込まれていた。
部屋の中にある、器具という器具が、機器という機器がすっかり、取り込まれるや、次に目の前で起きているのは、離合集散、一種の進化の劇的なハイライトである。人間も、生物も、このような紆余曲折を経て現在の形を手に入れたのかと思わせる、取捨選択が明菜の眼前で、信じられない速度で行われている。増えては減り、伸びては縮み蠢く金属の生命体は、さながらもがいて苦しんでいるようだった。それは、生物が同じように感じてきた痛みだったのだろうか。進化の途上、快楽ばかりがあったわけではないだろう。何かを捨てなければならないこともあったはずだ。当然、それによって伴う苦痛や痛みもそこには生じたはずだろう。そのことを、目の前の、異形は、身をもって教えてくれているかのようだった。
その苦悶も、終わりを迎えようとしていた。大きな蠢きが、少しずつ沈静化へと向かう。
生まれた新しい生命体は、巨大な回転する円盤を胴体を顔に選んだようだった。その中央で、真っ赤なりんごみたいな球体がグルグルと円盤と同じような回転を続けている。そして、そいつは手や足を持つことを選ばなかったようだ。あるのは、巨大な円盤と丸い玉。それらは中空へ浮遊していた。あれだけ雑多なものを取り込んだからには、さぞ巨大で禍々しい存在になるかという予想を反し、あまりにシンプルなスタイル。それが、この生命体が選び、たどり着いた進化の形だった。
「それが真の姿ね」
禍々しい暗黒の力の奔流。それは紛れもない。眼前のこの奇妙な円盤から噴出している。部屋の邪気が、一点に集約されたかのようだった。
「そうだ。まさか、貴様のような人間相手に、機械兵化まですることになろうとはな」
大泉の声で、円盤は言葉を発した。
「生きて語る最後の言葉を言おう。ここで死ね、処刑人!」
「品のない言葉ね、教頭先生」
言葉の代わりに、機械特有の轟音を上げて、大泉が動き出す。言葉さえも彼は、捨てたのだ。
チリチリと、空気が振動した。全身の毛が逆立つのを明菜は感じた。
鬼気の凄まじい表出によるものだった。
円盤が突っ込んできた。赤い玉が燃えるように光っている。
あまりの鬼気に金縛りのようにして動けずにいた明菜は、一瞬でその呪縛を解いて全身の命令系統へ生存のための指令を瞬時に下した。
その身体が横へ飛びのいていた時、円盤は彼女が居た場所を削り取りながら通過した。
そう、文字通り、削り取っていた。床をただ削ったということではない。それだけなら、せいぜい抉られたような跡が残るだけだ。しかし、円盤が通過した場所に残されたのは漆黒の闇だった。円盤は床と同時に、そこにあった空間までをも削り取ってしまっていたのだ。まるで宇宙船に穴が開いたように凄まじい勢いで空気がその闇に向けて吸い込まれていく。
明菜を削り損ねた円盤はそのまま反転して再び床を、その空間を削りながら彼女へ突っ込んできた。
既に立ち上がっていた彼女は身構える。これ以上、逃げ回っていても、削られた空間面積を広げるだけだ。そしてその中へ吸い込まれてしまうだろう。先に待つのは一体、何か。今も、凄まじい吸引が、明菜を捕らえている。それを辛うじて堪えつつ、明菜は右手の拳を握って迎撃体制を取ろうとしていた。
無音に近く、それでいて轟音と取れる奇怪な音を発して、そいつは目の前にまで迫っていた。
拳を突き出す。同時に、腕全体から、その一回り、二回りもあるかと思われるような、巨大な白色のオーラが拳に先んじてメカニズムに激突した。
だが、吹き飛んだのは明菜の方だった。円盤は一ミリの後退もなかった。が、円盤からしてみれば、なぜ、触れたはずの明菜が消滅していないのか、それだけが疑問だっただろう。
吹き飛んだ明菜は壁にしたたか激突していた。その衝撃のみならず、すさまじい疲弊感に全身は蝕まれてしまっていた。触れるものを消滅させる力と、正面からやりあったのだ。何の変調も来たさないほうがおかしい。こうして消滅していないだけでも、僥倖だろうが、もはや動くことさえできなくなっていた。
果たして、円盤は加速を増して、今度こそ、明菜の全存在を削り取ろうと直進してきた。迎え撃つ明菜の感覚は麻痺し、視覚は意味ある像を結ばず、聴覚は意味ある音を聞き取らず、危機感は完全に欠落して、半ば彼女は夢の中の住人であった。このままでは待つのは死、のみであろう。
時間にして、もはや五秒もない。
と・・・・不意に、停滞なかった敵の動きに乱れが生まれた。
苦悶というものが、そいつにあるとしたのなら、まさにそれだっただろう。円盤が身を捩るようにして軌道を変えて壁に激突していたのだ。激突した壁は消滅ではなく、普通の破壊を見た。一時的にせよ、円盤のメカニズムに狂いが出た証左だった。あの明菜の半ば無駄と見えた一撃は、確実にダメージを与えていたのだ。
それでも、円盤はすぐに体勢を立て直すと、再び、轟音を轟かせてメカニズムの再起動を促した。力強い回転と、赤い玉の輝きが蘇る。一見したのなら、明菜の避けられない死が僅かに先延ばしになったに過ぎない。しかし、その僅かな先延ばしは、明菜の回復には十分だった。彼女は今一度、立ち上がっていた。無論、全身を蝕む疲弊感や、脱力感、寒気は拭いようもない。どうにか立ち上がった、という感じだ。右手を握ってみるも、感覚はほぼ無かった。
大きく呼吸をする。淀んだ空気であるが、それを体内にて再処理し、肉体を動かすに足るエネルギーとしての酸素に転換する。明菜が封じていた、力の核。その解放を意識した。一呼吸、一呼吸のたびに、テンションを上げていく。全身にエネルギーが行きわたるイメージを持つ。体の各所にある燃料系統に点火のゴーサインを出す。それらが点火し、爆発を始める。最後には、脳髄が。
世界が光で溢れた。刹那、そいつがすぐ目の前にいた。
鈍い。
明菜には止まっているように見えた。
「はああああああああああッ」
裂白の気合をぶちまけて、明菜は右手を繰り出していた。あの刺青とも、鱗とも付かぬ文様が、怪しげな輝きを放ち、人間の腕ではない異形のそれへと変じている。が、紛れも無い禍々しい力の奔流。青白いフレアが、拳の形となって、握り締めた拳に先んじて円盤を迎え撃った。その後に、拳そのものがぶち当たる。
凄まじい爆発と、轟音が部屋全体に轟いた。撃砕の感触を感じつつも、明菜は尚、ファイティングポーズを崩さない。
まだ、と直感が告げていた。
刹那の白煙が過ぎ去ると、円盤は正しく、そこに浮遊していた。だが、もはやあの回転はなく、赤い玉も輝きを失っている。その真ん中の虚空に、縦に裂けた亀裂が走っていた。それは、ボディーについた傷ではなく、空間にできた裂け目と、すぐには知れなかっただろう。だが、その裂け目を基点とし、円盤はバラバラに分解して地面に散らばった。それでも尚、明菜は警戒を解かない。
裂け目だけが中空に残っていた。何かが這い出そうとする異次元の扉であるかのように。その裂け目の中を、彼女は注視していた。
そこから、何かが出てくるとでもいうのか。なら、それは何だ?
突如、一帯の空間全体が避けて、白光が辺りを染めた。
破壊された円盤の後継者。空間の裂け目は、樫で出来た一脚の椅子をその後継者として輩出したらしい。
よく見れば、何の椅子か分かるだろう。
肘掛や踵部分、背もたれなどに垂れ下がるいくつもの革のベルト。そして、力なく垂れ下がっているヘッドギアと、縮れたコード。
そう、それは電気椅子であったのだ。
ぶーん、という鈍い音を、明菜は確かに聞いた。どうやら、電気椅子に息吹が吹き込まれたようだ。だが、中空に浮かんだままで、迫ってくるとか、襲ってくる素振りはまだ無い。だからと言って、脅威ゼロというわけではないだろう。
一歩、進もうとした時、左右から腕を取られた。虚空に。当然のように、そこには誰もいない。
いや、見えた。
白い、靄のような人影が、明菜を左右からひっとらえていた。そして、彼女を、連行していく。電気椅子へと。
幽霊のような幻影の癖をして、感じるのは確かな肉感。古の死刑執行人なのだろうか。
もがくが、一向に歯が立たない。成す術なく椅子が近づいてくる。
明菜は目を見開いた。椅子に、何かが座っている。
そいつは、今彼女を連行している奴らと同じ白い靄みたいな人影であった。恐らくは、椅子で死んだ囚人の亡霊だろう。自分と同じ苦しみを明菜にも味合わせるつもりらしい。そいつが腕を伸ばして、明菜の喉元を掴んで椅子へと近づける役目を、引き継いだ。不意に、腕を引っつかまれている感覚が消滅する。だが、もう椅子に座るのは確定的だった。
「俺は無実だあああああああッ」
「嫌だぁ、助けてくれえええッ」
「絶対に許さねえッ。呪い続けてやるぞッ」
「嫌だあああッ。死にたくねえええッ」
夥しい感覚が流れ込んできた。それは、記憶だったのかもしれない。死に逝く者しか感じない感情。あらゆる負の感情が吐き出されて、とぐろを巻く。それが一斉に流れ込んでくる。死んでいった者の過去が見える。そいつらが犯した大罪が見える。ある者は、強盗ついでに店員や客の頭をショットガンで吹っ飛ばした。ある者は、若い女を次々レイプしてはその首を切り落としてクローゼットに入れて、それを眺めながら自慰に耽っていた。ある者は家を次々放火して回っていた。ある者は列車に爆弾を仕掛けて、乗客を皆殺しにした・・・・・。中には、冤罪者も混じっていた。陰謀か何かで、死刑囚に仕立て上げられたもの達。そいつらは無念の叫びを上げている。世間がそいつらを見る白い目が突き刺さる。そいつらの家族は、濡れ衣を着せられたそいつのために、言われ無き差別と暴力を受けている。当人は、冤罪を晴らす術も持たず、椅子に座らされている、そして最後の最後まで無実を訴えながら、死んでいく。
それら無数の怨霊が、一丸となり、新しい犠牲者を、迎え入れた。購える力ではなかった。クッションも何もない、硬すぎる椅子に明菜は座らされていた。肘掛に腕が乗せられ、枷が装着される。足首にも足枷がはめられた。暴れるも、全く歯が立たない。グロテスクなヘッドギアが、頭の上に乗せられる。そこから発せられる電流は、脳みそを一瞬で焼き焦がしてしまうだろう。ヘッドギアは馬鹿みたいに重く、冷たかった。
「俺は無実だあああッ」
「嫌だぁ、助けてくれえええッ」
「絶対に許さねえッ。呪い続けてやるぞッ」
「嫌だあああッ。死にたくねええッ」
その椅子に座らされた者が死に際に放ったであろう、数限りない命乞い、呪詛の言葉を、明菜は、彼等の言葉として叫んでいた。怨霊たちが放つ、決して変わることのない、遺言。放っても、放っても、報われることのない叫び。未だに彼らは、この椅子の上で呪い続けているのだ。命乞いをし続けているのだ。訴え続けているのだ。
おまえの言葉は何だ?
おまえの言い分は?
叫べ。
呪え。
命乞いしろ。
亡者が問うてくる。
おまえも叫べ。
一緒に合唱しろ。
一緒に呪え。
さあ!!さあ!!さあ!!さあ!!さあ!!さあ!!さあ!!さあ!!さあ!!
呪え!!呪え!!呪え!!呪え!!呪え!!呪え!!呪え!!呪え!!呪え!!呪え!!呪え!!
叫べ!!叫べ!!叫べ!!叫べ!!叫べ!!叫べ!!叫べ!!叫べ!!叫べ!!叫べ!!叫べ!!
嫌だああああああああああああああああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌々嫌々嫌々嫌ああああああああああああああああだ、嫌々、くねえ・・・死にたくねえええええええ、死にたくねえ、死にたく・・・たく・・たくたくたくたくたくたくし、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死、死呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪・・・・・・・。
「うるせえええええええええッ!!!!!」
明菜の裂ぱくの気合が怨霊の大合唱を吹き払った。疲労がどっと押し寄せてきた。
囚人番号666の死刑を執行する。
どこからか声が聞こえた。乾いた声だ。
囚人は、正義の名の下に、大勢の人間を虐殺。その殺し方は悪逆非道で、到底、情状酌量の余地は認められない。よってここに死刑を言い渡すこととする。
あたしが・・・・・?虐殺?
そう・・・あたしは・・・・処刑人。
いいえ、違う。それは本当にあたしがしたかったことじゃあない。あたしはただ・・・・・・・。
でも、死んで当然の奴らだった。
でも、本当に死すべき奴が・・・・奴が・・・・・・・。
私は何を・・・・。
こんなのは・・・・違う。私じゃあない。私は・・・私は。
電気椅子による死刑執行を言い渡す。
耳元で耳障りな音がした。ハエが飛ぶようなブーンという音。
嫌だ、嫌だ。違う、違うの。私はあんなこと・・・・・。
囚人は、正義の名の下に、大勢の人間を虐殺。その殺し方は悪逆非道で、到底、情状酌量の余地は認められない。よってここに死刑を言い渡すこととする。
囚人は、正義の名の下に、大勢の人間を虐殺。その殺し方は悪逆非道で、到底、情状酌量の余地は認められない。よってここに死刑を言い渡すこととする。
囚人は、正義の名の下に、大勢の人間を虐殺。その殺し方は悪逆非道で、到底、情状酌量の余地は認められない。よってここに死刑を言い渡すこととする。
囚人は、正義の名の下に、大勢の人間を虐殺。その殺し方は悪逆非道で、到底、情状酌量の余地は認められない。よってここに死刑を言い渡すこととする。
囚人は、正義の名の下に、大勢の人間を虐殺。その殺し方は悪逆非道で、到底、情状酌量の余地は認められない。よってここに死刑を言い渡すこととする。
囚人には、死刑を。
極刑を以って処する。
オマエは罪人だ。
大罪を犯した罪人なのだ。
罪人は裁かれなければならない。
オマエに相応しいのは死だ。死で償え。
俺たちと同じように、死で償え。
数限りない呪詛の文言は今、明菜へと向けられていた。鈍い電気の音が高まりを見せる。冷や汗が滴るのを彼女は感じた。
刹那。
明菜は仰け反った。全身に走った強烈な衝撃。紛れもない、1900ボルト、7、5アンペアの電流の奔流であった。
受刑者が電気椅子にかけられた場合、絶命するまでにいくつかの段階があるという。電気ショックを受けた囚人の意識は失われ、その筋肉の調整力は失われる。それに伴い、排便や排尿をし、血を吐くこともある。次に、鼻から血の泡が出る。それから体温が三十から百度へ上昇し、皮膚が紫がかる。その後、細道と呼吸器官の麻痺がほぼ完全となり、脳の酸化組織が炭化、目が眼窩から完全に飛び出ることもある。
今、明菜はそれら複数の段階の第一にいた。
事実、肢体が生暖かさで満たされる感覚があった。知らぬ間に、失禁していたらしい。
形ある思考、感覚は既に消えていた。明菜の身体は確実に終わりへ向かって走っている。しかもそれは、凄まじいスピードである。猶予など、一刻たりともない。余裕など、無論ない。考えている暇などない。
そして今、明菜が己の状態を傍観できたとするならば、今、置かれている状況をより正確に把握できたかもしれない。
すなわち。
電気椅子の電流など、実は問題ではないということを。
すなわち。
彼女が今感じているもの、それは電気ではなく、魂が引きずり出されている衝撃であるということを。
見よ。
その虚空から伸びるは、無数の手である。それが、よってたかって明菜の頭に手を突っ込み、何かを引きずり出そうとしているではないか。
霊媒のような、タンパク質で出来た白い物体がそれであった。それが少しずつ引き出されるたび、明菜の身体は電流が流れたに等しい衝撃を受けているのである。それが、虚空から生まれた電気椅子の正体である。明菜が死ぬのならば、それは電流で脳みそが焼き焦がされて死ぬのではない。彼女は、椅子に憑依した何者かに魂を、あるいはそれに近い何か、根本的な何かを引き抜かれて死ぬのである。
そして見よ。
無数の手が出ている部分を。
いつの間にか、そこに広がるは、虚空、しかも暗黒の虚空である。空間は縦に裂けていた。あたかも、扉の隙間が開放されたかのようだ。とするならば、その闇とは、冥府へ通じているのだろうか。電気椅子はその暗黒世界から現出したものなのだろうか。
明菜から引きずり出された、白い物質が、暗黒の中へと吸い込まれ始める。それだけではない。いつしか、椅子そのものが、少しずつ、闇の中へ消えようとしていた。
刹那。彼女の右腕が、真紅の輝きを放ち始めた。輝きは、その腕に浮かび上がる文様のようなものから放たれている。同時に、その腕を束縛するベルトが弾き飛ばされた。
それは無意識の動きだったか。彼女の腕が上方へと伸ばされ、闇の中へ飲み込まれていく白い物質を掴んだ。霊媒のようなその物質は、そのまま、右腕の中へと吸い込まれ始める。明菜の意識はもはやなく、体温は急激に百度へ近づいて、肉体の末期は目の前であるというのに。筋肉はまともに機能することをとっくに放棄した段階であるというのに。右腕だけは、それら肉体に与えられた刺激による、然るべき物理法則、その帰結、何より、当の明菜の意思さえ無視して動いていた。
腕が霊媒物質の取り込みを始めた時には、それを引きずり出していた虚空からの腕は、明菜の右腕が放つ強烈な灼熱のフレアによってか、急速にその活力を失っていた。
彼女の身体は、霊媒物質が引きずり出されたのとはまた別の痙攣が襲っている。それが戻る際の痙攣だ。その動きはあまりに激しく、全身を拘束するベルトがいつはじけ飛んでもおかしくはないと思われた時、彼女の口から獣の咆哮が迸り、その全身がベルトを弾き飛ばして前方へと大きく跳ね飛んだ。その衝撃は、電気椅子自体の破壊も引き起こした。椅子は残骸となって、そのまま床へ散らばる。
地面を転がりながら、明菜は激しく咳き込んだ。直後に断続的な痙攣と、猛烈な筋肉痛が襲う。頭が焼けるように熱かった。いや、実際焼けていた。五感はしばし、その機能を停止していた。それ故か、振動を感じた。部屋全体が激しく揺れているようだった。右へ、左へ、翻弄される。だが何も見えない。聞こえない。身体を強か、どこかに打ちつけたみたいだが、それさえぼんやりと麻痺している。漸く、まともな感覚が戻ったのは、それから五分か十分ほど後のことだった。
取り戻された視界が捉えた陰鬱な部屋は、そこだけが嵐にやられたみたいに荒れ果てている。主に鉄くずと化した拷問器具の残骸が、そこかしこに散らばり、山を成していた。その只中に、全裸で倒れている男がいる。大泉であった。明菜はよろよろと立ち上がり、彼に近づくと、身をかがめた。脈を確かめるまでもなく、目を見開いて大泉は絶命していた。その肉体、顔は、蒼白を通り越し、真っ白で、目は飛び出さんばかりだし、頬は窪み、唇が恐ろしく薄くなって後退しており、歯茎と黄ばんだ歯が剥き出しになっている。まるで幽鬼の如き最期であった。
「これは厄介になりそうね」
明菜は立ち上がり、大きな溜息を一つ吐いた。
体育館は、厳かな雰囲気に包まれていた。全校集会など、一体何年ぶりに開かれるだろうか。決まって、全校集会と言えば、まるでお祭りのような狂乱が繰り広げられると相場が決まっていたので、学校側は既に、意味ある集会の開催を放棄していた。
だが、久々に開かれた全校集会に、そのような乱痴気騒ぎの片鱗も見えないのはなぜだろうか。ステージの上に立つ、三学年の学年主任、木下が神妙な面持ちでマイクを握っているからではない。いつもなら、そのステージをジャックし、派手なパフォーマンスに興じるはずの面々が、今、きちっと列に並び、木下に注目しているのだ。
荒くれどもをそうさせるのは一体何か。いや、そもそも全校生徒を取り巻く空気はどこかおかしかった。不自然な統一感が場に満ちている。それは生徒だけではない。体育館の隅に横並びで立つ教師たちにも同じような統一感があった。
そう、彼らは同じ何かを確かめるべく、知るべくしてここに集っているのだ。その何かとは、彼らにとって、乱痴気騒ぎ以上のものを秘めているはずだ。とは言え、既に彼らはその何かを知っている。校内放送で流れたばかりだからだ。全校集会の理由がそれである。既知の話題のはずだ。だが、それを改めて全員で共有せんがために、彼らはここに集っていた。そして、改めての報告を今、待っている。
「きょ・・・・・・・・・教頭先生が・・・・・・・・・・お・・・・・・・お亡くなりに・・・・・・なられました」
マイクを通した木下の声が震えていた。只ならぬ事実を告げるにしては出来すぎた演出だろう。会場は、驚くほど静まっていた。前置きの無い、いきなり本題の話題を聞かされた動揺に伴うざわめきがまるで無いのが、逆に不自然でもある。いくら事前に一度、それを聞いているとしても、だ。
「非常に・・・・・・教育熱心であり・・・・・・我々教師の・・・・・・よき・・・・・・手本として・・・・・・日々・・・・・ご指導賜り・・・・・・我々教師も・・・・・皆さん生徒たちも・・・・・・非常に・・・・・非常〜に・・・・・・・・惜しい方を・・・・・・・亡くされたと・・・・思います」
しかし、と木下は続けたが、その口調は一切の迷いを振り切ったような歯切れのいいものに変わっていた。
「教頭先生は、殺害されたのです!!」
ここへきて、漸く、場に動揺が走った。
「皆さんにお集まり頂いたのは、教頭先生の病気や事故による訃報をお知らせするためであはりません。そうです、殺害です。教頭先生は、本日午前中、校長室で職務に当たっている最中、何者かに殺害されたのです。しかも、惨たらしい方法で」
身振り手振りを交えての演説は、既に立派な先導者のそれである。
「首は胴体から切り離され、いいえ、全身が、四肢がバラバラに解体され、部屋中に散乱していたのです。どうですか、この惨たらしいやり口。狂っています、この憎たらしい殺人鬼は。人間ではありません。獣です、畜生です。それが、この、神聖な、命を貴ぶことを教えるべき、神聖な学びの園で公然と昼間から行われたのです。皆さん、どう思いますか。この神聖な、学校という、神聖な空間で、惨たらしい殺人が行われたのですよ!!許せますか?」
許せません。と、どこからか澄んだ女子生徒の声がした。
僕も許せません。と別の男子生徒が応じる。
許せない。
私も。
俺も。
犯人を捕まえましょう。
捕まえて罪を償わせましょう。
いえ、捕まえるだけじゃ駄目です。
殺してしまいましょう。死を以って償ってもらいましょう。
そうだ、殺せ。
殺せ。
殺せ。
殺せ。
コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ。
それはさながら大合唱のようだった。只管に、コロセの大合唱である。壇上の木下は恍惚感に満たされたようにして、狂った叫びを続ける生徒を眺め回している。教師たちも一緒になって叫んでいる。ただ一人、無言で佇む明菜を除いては。
「静粛に!」
という木下の一言が、一斉に場を納めた。
「皆さんの憤り、御もっともです。私も同じ気持ちです。しかし、先ほども言いました。ここは学校です。神聖な学びの場です。外の社会に出るにあたり、人の道を正しく教える尊き場です。そうです、教頭先生を惨たらしく殺した畜生と同じにならないための場なのです。皆さん、憤りは御もっともです。しかし、今のような下劣で呪われた言葉を平然と、声を大にして叫んではなりません。私も叫びたい。私も、そいつをこの手で殺してやりたい。ですが、押さえるのです。静まるのです」
でも私、許せません。
俺もです。そんな奴、死んで当然です。
教頭先生と同じように、全身をバラバラにしてやりましょう。
そうだ、そうだ。殺してしまえ。
コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ、コロセ。
場は再び、殺せの大合唱へ逆戻りである。
木下はこみ上げてくる高笑いと、エクスタシーを抑えるのに必死だった。だが、表面上、道徳観と、倫理観に塗りたくられた高邁な教師という聖職者の仮面を維持することを優先した彼は、再び場を制した。
「わかりました。皆さんの気持ちはよく分かりました。教頭先生も、そこまで慕って頂いてさぞ、天国で喜んでいてくれるでしょう。大丈夫です。教頭先生が天国から皆さんを、きっと見守ってくださります。恐れることはありません。皆さんが抱いた気持ち。それは大事なことです。そうです、誰だって、大切な人を奪われたら心の底から怒ります。なのにどうでしょう。そういう気持ちを悪とする社会。復讐からは何も生まれない。復讐は新しい復讐を呼ぶだけだ、と綺麗な言葉ですべてを片付けようとする大人たち。皆さんも、少なからずそういう大人たちに疑問を持っているのではありませんか?私も、同じ大人として、そういう偽善者の態度を疑いたくなります。全く、同じ大人として恥ずかしい限りです。そうです。皆さんが抱いた怒りの気持ち。それは少しも、虐げられ、退けられるべきものではありません。むしろ、人間として当然です。それを押し殺し、笑って許そうなどというのがむしろ畜生です。皆さんには、簡単に人を殺める畜生になってもらいたくありませんが、同じように、純粋な怒りの心を失い、それで平然としていられる畜生にもなって欲しくはありません。それが、先生たち全員の願いでもあります」
いつしか、会場は万来の拍手に包まれていた。
生徒全員が、歪んだ笑みを浮かべている。壇上の木下も、もはやこみ上げてくる下品な笑顔を隠そうともしなかった。そうだ。人間なんて皆こんなものだ。一皮向けば畜生の本性がむき出しだ。どいつも、こいつも、この私でさえただの血と肉に飢えた畜生。貞節を装うとか、綺麗な倫理観を振りかざす奴らには、いい加減うんざりなんだ。俺も、こいつらも皆同じ。殺したくて犯したくてウズウズしてる。畜生になるな?馬鹿野郎。俺らは元々畜生として生まれたんだ。綺麗な面してる奴こそ憎むべき本当の畜生だ。そんな奴ら、俺らが取って食うだけよ。
「以上で全校集会を終わります」
あまりの歓喜に危うく、木下は締めの言葉を忘れるところだった。
生徒は各々の教室に大人しく散会したが、教師はそのまま職員室へ戻って緊急の職員会議を開くことになった。
一同は黙々と自分の机に着席し、場は再び、木下の仕切りとなった。
だが、どこか不気味ではないか。電気もつけず、暗く沈んだ室内。木下を注目する教師たちの表情は、どこか魂が抜けたようでもある歪なものだ。闇が、後から後から沸いてきて、室内を飲み込んでしまうような錯覚さえ覚えてしまう。教師たちは、各々、ペットボトルの中身を口へ含んだり、タバコを吹かしたりしているのに、そのような仕草さえ、どこか人間とは違うような雰囲気を醸し出している。取ってつけたような不自然な取り繕いに見えてくる。
「素晴らしい演説でしたよ、先生」
美術科の原口がまず口を開いた。
「いえ、つい力が入ってしまいましたよ」
「あの生徒たちとの一体感。聞いていて惚れ惚れしました」
音楽家の森川が言う。
「皆さん、私への世辞など、この際どうでもいいことでしょう。本題に入りませんか?」
もっと賛辞の言葉を貰いたいのをこらえて木下は促した。
「教頭は恐らく、始末されたのだと私は考えています」
「始末、ですか」
原口が尋ねる。
「はい、始末です。何者かが、この学園の調和を乱そうとしているのだと」
「とすると、当然、内部の者を疑わなければなりませんね」
数学科の竹内が神妙な顔つきで提案した。
「内部と言えば・・・・・・」
「あの新任の女教師は?」
明菜の姿が、まだ職員室になかった。
「何者だ?」
声が、おかしかった。教師たちの声が。暗く、くぐもって、澱んで、濁っている。
「何者であれ、消してしまえば楽です」
「いや。今回は下手な手段は禁物」
「何を恐れるのですか」
「そうです。今までも、ずっと、そうしてきたはずです」
いつの間にか・・・・。
職員室全体が、陰鬱な闇の中に埋没を始めたかのようであった。そこで、ひそひそと言葉を交し合う者達は、もはや人間にあらず、どこか遠いあやかしの存在と化しつつあった。そのような空間で執り行われているのは、もはや職員会議ではなく、異形どもの密談であった。
言葉もそうだ。いつの間にか、人に理解可能な人語は消えうせ、今では何やら怪しげな呪文めいた、異国の言葉、それでいて明らかに人語ではないと知れる不可思議な言葉が飛び交い始めている。人間としての固有名詞は、この空間では既に意味を失い、加えて属性や肩書きなど、人間として必要であろうすべてが、もはや意味を成さないのだ。
と、そこに。
一人の闖入者が姿を見せた。
明菜である。
同時に、今しがた、職員室を包んでいた闇の空気が綺麗に取り払われていた。見事なまでに、明菜が足を踏み入れたそこは、平凡な教師たちが集う、職員室に切り替わっていた。
「明菜先生、遅刻ですよ」
原口がたしなめるように言った。
「迷ってしまったもので」
一礼して明菜は自分にあてがわれた机に座った。
「まあ、無理もないですね。これだけ広い校舎です」
それ以上、場も明菜の遅刻を咎めることはしなかった。
「さて、これで全員が揃いましたか」
木下が再び、場を仕切り始めた。
「事件の方ですが、白昼堂々の犯行から、当然のように内部犯と推定されます。ですが、私は、生徒による犯行ではないと信じております。私だけではありません。皆さんもそう信じているはずです。誰だって、教え子が、あのような惨たらしい凶行に及ぶとは信じたくありません。もっとも、彼らの日ごろの行いから、彼らが全くの無実であると、心の底から信じ込めというのは流石の私も無理です。しかし、しかし、です。それでも私は信じたい。彼らの無実を。となるならば、当然、犯人は我々を含めた学校関係者の中にいることになります」
「先生は、同僚を疑うおつもりですか?」
理科の坂井が不信感をたっぷり込めた眼差しを放った。
「生徒を疑わずして、我々仲間の中に犯人がいると?」
原口も同調する。
「まあ、落ち着いて下さい」
木下は両手を上げた。
「こう言っているのです。たとえ、たとえ生徒に犯人がいたとしても、すべての責任は我々、大人が被るべきではないか、と。いえ、重々存じておりますよ。何もそこまで、と。彼らも、大人に近づきつつあります。いや、既にそのかなり手前にある。責任という言葉の意味も知っているでしょうし、むしろ知る必要があります。しかし、我々大人が責任、について正しい有り様を示していると言えますか?責任責任、自己責任、と、あまりに軽々しく、責任という言葉を使いすぎてはいませんか?なのに、いざという時、己の保身ばかりを考え、うまくやりくるめることばかり考えてはいませんか?テレビを見てみなさい。腐った政治家たちの虚しく、浅ましい釈明の言葉を。生徒たちは見ているのです。大人たちの浅ましさ、計算高さを。それが、未来ある彼らに、正しい道を示すべき大人の所業でしょうか?少なくとも、正しい道を示すことを生業とする我々は、自らでもって、彼らに、責任という言葉の本当の意味を伝えたい。私は、そう考えているのですがね」
「先生の道徳観、価値観には恐れ入りますがね、それでも、もし我々の中に犯人がいるとして、なぜ、教頭を殺害しなければならないのです?我々には、何の得もないじゃありませんか」
森川は、閉口した表情を隠さなかった。
「先生。殺人を損得勘定で捕らえてはいけませんよ。とは言え、おっしゃることはご尤もです。確かに、我々が教頭先生を殺害しても、得られるものは何もありません。ただし、ひとつ、あるとするならば」
誰かが唾を飲み込んだような音がした。
「混乱です。教育の中枢部にダメージを与えることで走る混乱に乗じた、校風のさらなる悪化と破壊の煽動によるアナーキー状態の創出」
「しかし、既に十分、アナーキーですよ、この学校は。これ以上、何を望むというのです?」
竹内はため息混じりに言った。
「無論、次期教頭の座ですよ。お分かりになりませんか?もし、そいつが校風をさらにかき乱す状況を創出し、しかし一方においては、見事、その状況を丸く諫めることに成功したとしたら?当然、そいつへの評価は高まり、一気に出世の糸口となるでしょう。それこそが、おそらく、真の狙いかと」
「と、するのなら犯人は木下先生。あなたが一番クサくはありませんか?」
坂井は意地悪く笑みを浮かべつつ言った。
「何を・・・・言い出すのですか?」
「ポスト的に、学年主任のあなたが、もっとも教頭の椅子には近い。となると、あなたが邪魔な教頭を蹴落として、その椅子に座ろうとしてもおかしくない」
木下は顔をしかめた。場の権限が少しずつ他人に移り始めていることだけでなく、あろうことが犯人にまでされ始めているのだ。冷静でいられるはずがない。
「あるいは、木下先生、あなたのライバルということになりますか。あなたの学年主任というポストに嫉妬し、あなたに敵愾心を抱いている者の仕業」
坂井はゆっくりと、同僚たちを睥睨していく。そして、
「原口先生。あなたのここ最近の教育委員会への働きかけは目覚しいものがありますねえ。かねがね、何をそこまでご執心なのかといぶかしんでいたところなんですが」
「な・・・・何を、失礼な。あなたは私が教頭のポストを狙っているとでも?」
「そうは言いませんが、最近、頓に仕事熱心だ」
「馬鹿を言うな。私は以前から仕事熱心だ」
「それは結構。あ、そうそう、竹内先生。あなたも何やらいじめ問題に関して、教頭に提案書を出したとか」
明らかに顔を背けた竹内に、坂井は嫌らしい笑みを振った。
「それだけじゃない。その提案書を携えて、熱い演説をぶち、必死の売り込みまでしたそうですねえ。先生も、そこまで教育熱心な方だったとはねえ。意外です」
「原口先生。疑心暗鬼を招くような言動は慎むべきです」
木下は威厳を取り戻そうとわざと落ち着いた口調で言った。
「おや、先ほど犯人は我々の中にいると、自分から疑心暗鬼の種を撒いた方がよく言う。ですが、あなたのその高尚な演説も、皆さんには些か浸透不足のようですよ。誰もが保身ばかり考えている。聞いていなかったのですか?責任、という言葉ですよ。大人が責任を被るべきという、感動の文句が、どうやら右の耳から左の耳だったらしいですね」
「もう結構!」
木下はついに激昂した。凄まじい目つきを込めて坂井を睨み付ける。当の彼は平然とそれを受け流した。
「誤解を与えてしまったようですが、私がしたのは、あくまで、可能性の話です。今は、結束こそ肝要でしょう。そこで一つ、提案をしたいのですがよろしいですか?坂井先生も」
「私は一向に構いませんよ、“主任”どの」
いやみな言葉に怒鳴りつけたくなるのを辛うじて堪えて、木下は続けた。
「この事件は部外秘にして頂きたい。警察にも」
「どうしてですか?」
ここで初めて、明菜が口を開いた。
「分からないかね?殺人鬼がいるかもしれない学校、という噂が立てば、この学校への進学率の低下に繋がるということですよ。そんな学校に行かせたい親がどこにいますか?」
小馬鹿にしたように森川が言った。
「ですが、真相の究明は警察に任せるべきでは?」
明菜は食い下がる。
「無用の混乱は、もう沢山ということですよ、明菜先生」
と、木下。
「犯人は我々だけで捜し、必ず捕まえます。皆さん、いいですね。他言無用です。明菜先生もいいですね。他言は無用です。今は、一枚岩になるべき時なのですから。不要な軋轢や亀裂は、結束を乱し、真実をも闇に葬りかねません。私はそれを一番恐れているのです。皆さんの中にも、納得されない方もいらっしゃるでしょうが、ここは心を一つにして頂きたい。会議を一旦、終了したいと思います」
既に時間では二時限目が始まろうという頃合だ。教師たちはそれぞれの教室へと散り始めていた。明菜もその中に混じる。職員室に残ったのは、ごく僅かな教師だけとなった。
「さて・・・・」
そのうちの一人、英語科の小野が重たい腰を上げた。
「行かれますかな?」
もう一人定年を間近に控えたのは、国語科の青木だ。最後にもう一人。社会科の中島を加えた三人は揃って、長老と呼ばれている。所以はもうすぐ定年を間近に控えている古株ということだ。先ほどの会議では、それぞれ一言も発することなく、事の成り行きを見守っていた彼らである。もうすぐ、彼らには、平穏で静かな引退生活が待っているのだ。朝早く目を覚まし、植木や花壇に水をやり、犬を散歩させ、妻と粛々とした食卓を囲み、のどかな日差しの下でうつら、うつらして過ごす平和な日々を保障するのは、ささやかな年金だ。そんな彼らに、血生臭い殺しの話など、無縁だし、関わり合いたいとも思わないのは、むしろ当然のことだろう。
一列になるでもなく、横並びになるでもなく、各々のペースで、距離で、しかし目的地だけはしっかりと定めた足取り。
それはどこか。
校内ではなかった。揃って履物に履き替えて向かった先は、中庭にある石碑の前だった。建立百周年を記念して立てられた石碑は、大きな石が置かれ、池があり、、松の木や、花々が植えられ、砂利が敷き詰められた中庭にある。中庭は広く、日当たりがいいがしかし、あまり外からも、校舎の中からも目に付きにくいという特異な位置にあった。足を踏み入れる生徒は皆無で、用務員が花や木々の剪定をしたり、雑草を抜いたり、落ち葉を掃き清めているくらいだ。
高さにして約二メートルという馬鹿でかい石碑の前に揃って立った三人の中で、中島が、石碑が生えている礎に何気なく触れた途端、礎ごと石碑が後退し、丁度そこに人一人が入り込めるほどの空間が開けた。まるで墓穴だが、確かにその穴は地下というより地底へと続く階段を備えている。
三人は一人ずつ、中へ降りていった。最後に降りた青木が壁のどこかしらに触れると、石碑が元通りの位置に戻る低く、重い音が響いた。穴の中は、どういう仕掛けか、壁に設置された蝋燭に自動的に火が点され、明かりには不自由しなかった。
人が一人通るのにやっとの狭い通路をしばし降りた三人の前に奥へと続く掘りぬかれた通路がさらに続いた。そこは一気に高さも幅も十分に確保された空間であったが、通路自体の長さはさほどではなく、それは程なく行き着く広大な空間へのほんの橋渡しに過ぎない。
教室ほどある空間がそれであった。地面には魔方陣のようなものが描かれ、正面奥にあるのは、どうやら何かの祭壇らしき石造りの置物である。曼荼羅のような奇怪な文様が壁にも、天井にも描かれた荘厳な空間だ。三人の長老は、厳粛な面持ちでゆっくりと祭壇へと近づいていく。蝋燭の燃えカスが転がっている辺り、しばしここが使われていなかったことを示していた。
これから何をするつもりか。
長老たちは、まず祭壇の上の蝋燭の残骸を取り除き、そこにいつから携えていたのか、新しい蝋燭を設置した。それから彼らは一様に服を脱ぎ捨てた。しな垂れた、枯れ木のような肉体があらわになる。互いに恥らうこともせず、その姿が当然であるかのようにして彼らは並び立った。それから小野を残して、中島と青木が後ろへ後退する。魔方陣は踏まず、その手前で止まり、三人で三角形の点となる。上空から見て、さらに彼らの間に線を引けば、見事な正三角形となっていたであろう。その位置をキープしたまま、中島、青木が何やら呪文めいた文言を厳かに唱え始めた。備えた新しい蝋燭が火を噴いたのはすぐのことだ。小野がそれら炎を見据えたまま口を開く。
「我ら長老、ここに、古の叡智による神託を賜りたくここに集いし。我、ここに炎の化身のよりしろとなりし、言霊を受けん。熱と光を通じ、その意思を貰い受けん。そして、それに見合う見返りを捧げることを、己が魂に宣告する。約束違えたならば、我ら命で償い受けることに、偽りなし」
その時、蝋燭に怪しい揺らめきが起きた。風もないのに、ふらふら不安定に揺れる炎。それ自体が意思を持つかのように右に左に揺れ、まるで振り子のようである。他の長老の文言を背後に受けつつ、炎を凝視する小野の頭に、声が入り込んできたのはその時だった。
「既に彼らの解放へと踏み切った。そうするに足る危機が、この聖域に訪れている。だが、恐れることはない。計画は例年通り遂行すべし。些かの澱みも、停滞もあってはならぬ。成功は常に、既に、約束されている」
短い言葉だった。それを受けた小野の肉体は青ざめ、震え、死相に近いものが浮かんでいる。その言葉を引き出すためであろう呪文を唱えていた二人も、一様に青ざめて死相を刻みながら、その瞬間を乗り越えていた。堪らぬ、換えがたい虚脱感と疲労感が三人を蝕んだ時、背後からさらに彼らを消耗させる気が叩きつけてきた。
「おお・・・・」
それは歓喜の言葉か、あるいは恐れの表出か。
魔方陣の中に、五名の学生服姿が佇んでいる。男が四人に女が一人。学生服というよりは、特攻服のようなダボダボの黒服だ。どいつも、目だけで人を殺せるような殺気と怒気をたっぷり含んだ目つきをした殺意の塊のような連中だった。だが、それだけではない。そんなサイコキラー、ナチュラルボーンキラーみたいな連中は腐るほどいるだろう。だが、そんな奴らの寄せ集めなどでは決してない超然とした、なんとも言えぬ雰囲気を、色濃く彼らは放出しており、それは単なる過度の殺気や殺意などでは到底大体できぬものだった。場合によっては、そんな人間的なものより、彼らが全身から発し、五人分の塊となって漂わせている得体の知れぬ空気の方が、彼らを取り巻くものとしては相応しく、適切なものと言えた。殺気や殺意は、彼らにしてみればオマケなのである。
「何も言わなくていい」
何か言い出そうとした小野を、真ん中に立つ米神から唇辺りまで深い切り傷の跡を刻んだスカーフェイスが制した。
「どいつを殺るかはもう判ってる。それよりも、俺たちは女が欲しい。長い眠りだった。飢えてる。夢の中じゃ、いくらやっても欲求が満たされなくてな」
「アタイは男が欲しい。いくらやっても萎えない絶倫を揃えな」
紅一点、金髪の女が言い放った。
「よかろう」
小野は快諾した。
「今すぐ揃えよう。連れてくるだけの時間をくれ」
「了解した。連れてくる間だけ待ってやる。揃える時間はやらないからな。既に、揃っているはずだ」
「無論だ」
小野の顔には嫌らしい笑みが張り付いていた。他の二人にも。
「その前に・・・・」
スカーフェイスは軽く、仲間を一瞥した。
「長老に挨拶しておけ、お前たち。我ら超人不良連の古代からの仕来りだ」
「キドだ」
ロン毛の男がぶっきらぼうに言う。唇には丸いピアスを二つ開けている。
「オニヅカ」
オニヅカと名乗った男はパンチパーマで右手には木刀を握っている。
「クボです」
ひときわ丁寧な言葉遣いは、坊主頭の小柄なチビである。
「アタイはミヤモトさ」
先ほどの金髪女は、ヨーヨーを両手で弄びながら自己紹介した。
「最後に、俺はハットリだ。よろしくな」
スカーフェイスは吐き捨てるように言い放った。
「さて。社交辞令はここまでだ。女を連れてきな」
と、ハットリは小野たちに命じた。
うむ、と三人は一旦、もと来た道を辿って地底の空間から姿を消した。
待つこと五分あまり。三人は四人の女と一人の男を従えて戻ってきた。
彼らは何者か。どこから来たのか。
一見すれば、高校生には見えない男女は、全員が一糸纏わぬ姿をしていた。女たちは、肌の艶、張り、くびれ具合や、体のラインなどどれをとってもこれ以上望みようのない最高級の肉体でもって超人不良連の男たちを魅了し、黒一点の男は、引き締まった肉体と、肢体で誇らしげな存在感を示している男根によってミヤモトの瞳を欲情で塗り潰すことに成功している。
殺気の塊でしかない魔人の只中に放り込まれるは、野獣の檻に放り込まれたか弱気草食動物の趣であろうが、男女には聊かの気後れも見られなかった。強がりやハッタリなどではない。このようなことに慣れているような雰囲気すら漂っているではないか。
「新顔か」
と、ハットリ。
「そうだが、失望はさせぬよ」
「分かっている」
例によって全員が、先制攻撃とばかりに積極的に絡んでいったではないか。
忽ち、そこかしこで絡まりあう男女のペアが生まれ、地面へ崩れていく。
感度は常に最高潮なのか。身体に僅かに舌を這わせた程度で、アンアン、と切ない喘ぎ声が高まり出す。不良連の男たちは揃ってまず、舌で執拗に攻め始めた。ねっとりと、こってりと、しつこく、しつこく身体の各所を舐めまわす。女たちは揃って感じていた。唾液を塗りつけながら、首筋を這い、わきの下をこねくり回し、腹へ下り、むろん、乳首をねっとりじっくり這い回るのは忘れない。だが、肢体のうるみはわざと避けているのである。知り腐ってのことだった。焦らされ続ける肢体の秘所は、触れられてもいないのに勝手に開き始め、はしたない体液を垂れ流し始めている。
ミヤモトはミヤモトで、夢中になって極太の男根をしゃぶり続けている。自らも既に全裸となり、しゃぶりながら自らの肢体を指で弄い続けるいやらしさである。変幻自在、緩急自在の指の動きは、自らの快楽のツボを知悉していると知れた。無駄のない、そして最大級のポイントを一番興奮する状況の下に刺激しているのであった。男根特有の生臭い匂いと、味に酔いしれた身体は、上気しきっている。
各所からすぐに、狂ったような叫び声が漏れ出した。ついに、男たちが秘所への進撃を開始したようだ。女を喜ばせる方法とツボを知りぬいた舌の巧みな動きが、果肉をなぞり、抉っていく。唇は唾液を塗りつけると共に、溢れる体液を啜ることに勤しんでいた。
長老たちは、その狂乱を黙って見続けている。枯れ木のような男根は、淫靡極まりない光景にも、まるで反応を見せず、しな垂れたままであった。が、目には紛れのない好色に潤んでいる。
女たちは、ミヤモトも含めて揃って挿入を求めた。ある者は仰向けのままに両足を目一杯開き、ある者は四つんばいになり尻を高く突き出してそれぞれ挑発した。揃って、男どもは反応し、すっかり潤み切った秘所に、極限まで怒張した性器を沈めにかかる。
ゆっくりと、確実に、限界を拡張するかのようにして極太の男根が進入しきるや、女たちは狂ったような叫び声を上げた。不良連、そしてミヤモトを攻める男の男根は、紛れもなく焼けた火鉢、凶暴な棍棒であった。大きさと長さで、人体の秘境を開拓することには飽き足らず、荒々しい脈動によって、絶えず、内部を侵し続ける生ける凶器。
腰の動きもまた、人間離れしていた。機械のような高速ピストンであることは無論だが、単に速かったり、暴力的な激しさがあるだけではない。激しいのに、痛みは無く、快楽しか感じないという奇跡を彼らの腰使いは実現させていた。従って、三回突くたび、その一回では絶えず、彼女たちは絶頂に達し続けた。ある者は気絶さえする。ある者は白目を剥き、涎を垂らしてすっかり壊れてしまっている。男たちは揃って、もはや凶暴なセックスマシーンであった。顔には、一切の恍惚感や悦びを浮かばせず、寡黙に腰を振る。その様は、性の探求者のような趣さえあった。己を鍛えるかのように、一切の妥協を見せない腰付だ。どんな好き者も必ず音を上げるに違いない。しかし、だからと言って、彼らが不感であるということにはならない。敏感な器官に伝わる刺激は、常に怒張を維持させうるに足るものだし、それは常に、爆発を誘発するに足りた。吐き出すべきものを、うちに溜め込んだままに、彼らは打ち振るっているのだ。
加えて、殺気の塊のような連中が、行為の最中だからと、無防備と言えるか。
言えない。例え、今、彼らを襲ったとしても、成功はしまい。油断の無い、あの殺気は、依然、健在のままなのだ。一つ違うとしたら、発散されていないだけだ。それが逆に敵を油断させることにもなるのだが、彼らの反撃のための反射神経は常にフル稼働なのであることを付け加えておこう。
一切の愛情の介在を許さない、只管に機械的な交尾。それは、獣の交わりであった。黙々と、本能だけに従った交わりである。労わりも、慈しみも、何も無い。雄と雌の結合だけが繰り広げられていた。人間の、むき出された本性の発露である。一皮剥けば、誰もがこうなのだ、という良い見本だろう。体位を変え、体の向きを変え、不埒な交わりは続く。
だが、長老たちが見守る中で、宴の終わりは突如として訪れた。男たちは揃って呻き、奥の奥へ容赦ない体液の放出をした。白濁の灼熱の体液は、彼女たちの中で容赦なくびゅんびゅん飛び散り、熱した。下腹部が満たされていくような感覚は、忽ちその全身へと広まり、全身が燃えるようであった。男たちが底なしなら、女たちもまた底なしであったろう。灼熱を受けつつも、その瞳は、さらなる快楽を貪欲に待っていた。灼熱の坩堝と化した股座の奥の奥も、沈静化するどころか、アギトを研ぎ澄まし、さらなる刺激を待っていた。彼らが心底から満足し、果て、終わるには、さらに長い時間が必要であっただろう。
にも、関わらず。
「うむ」
と、ハットリは頷いた。長老たちも、それを見て無言で頷き返す。
「我らが太古の掟に従い、望むことをしよう」
それが契約成立の言葉であった。
双方、まだまだ交わりは足らぬだろう。だが、一方的にそれを敢えて解消したのは、ある意味でプロフェッショナルに徹していることと言えはしまいか。既に、不良連は黒服を纏い、現れたのと同じ様できちっと立っていた。先ほどの狂乱を伺わせるものは、片鱗とて残してはいない。全身は殺気に、再度塗りつぶされていて、一部の隙もそこにはない。
「いつ、殺る?」
と、ハットリは長老に尋ねた。
「まだ待て。我々も、賊の正体を見極めたい」
「了解した。我々はこの瞬間より、常に、傍にいる」
互いに黒い欲望を持つ者同士、その空間を、真の闇が少しずつ塗りつぶしていったところであった。
それとほぼ、時を同じくし。
学校を学校足らしめる、最も外すことのできぬ本来の機能、授業がどこの教室でも再開されていた。ただし、これには「一応」という括弧をつけなければならないところだろう。当然のように、授業は授業としては成立せず、単に教師の言葉の一方通行だけで時間が経過している。教師も教師で既に、生徒の理解など想定の範囲外だから、義務的にやることだけをこなせば、という考えで、惰性で教壇に立っていたし、誰もそれを咎めることもしない。やることさえやっていれば金は払う、ということだ。そもそも、高等な教育よりも、人間としてのイロハから教えなければならぬならず者相手である。
明菜が入った教室もまた、然り。担当は二年七組である。特定の担任を持たない明菜にあてがわれたクラスの一つであった。この学校における初の現場でもあるが、繰り広げられている光景はどこも似ていた。廊下に生徒があふれ出し、開けっ放しの窓からはサッカーボールやら、野球ボールやらが次々飛び出すし、音楽も大音量で垂れ流されている。教室にお行儀よく座っている生徒など皆無な状況はどのクラスも変わらない。二年七組もまた。
ヒューっと、明菜を見た瞬間、欲情一杯浮かべた男子生徒が口笛を吹き、明菜の入室を粘っこい視線で追跡した。教室内の他の生徒も同じようにして明菜に注目しつつも、各々やっていることを継続していた。学びの場というより、どこかのパーティー会場に紛れ込んだような有様だった。机がいくつもくっついて、あけっぴろげられたスナック菓子やピザ、チキンが並び、女子生徒が奇声を上げながらそれらをつまみ食いしてる。男たちは、教室の隅で取っ組み合いの喧嘩をしたり、ボールを蹴りあって廊下へ飛び出したり、音楽を大音量で流して踊り狂っていたりする。
黒板も黒板で、無垢ではなかった。卑猥な、あるいは暴力的な言葉が綴られ、派手な色を使った大きな絵が一杯に描かれている。大抵の教師は、報復を恐れて、開いている申し訳程度のスペースに板書する。が、明菜は思い切って、黒板の落書きを黒板消しで一掃することを選んだ。
途端に教室の中に、険悪な空気が充満する。険悪だけではなく、中には別の興味も含まれていた。空気は、そうのような複雑なものに変わりつつある。明菜は背中でそれらを一気に受け、当然、気がついていた。それでいて、黒板のすべての落書きを、完全に消し去ると、何事もなかったかのようにして生徒たちに向き直った。
全員が、彼女に注目していた。
敵意に満ちている視線。
大人は敵だ。教師は豚だ。
敵は排除する。
豚は殺す。
例外は無し。
ずっとそうしてきた。
と、皆が無言で訴えている。友達と談笑は止めていないが、目は明らかに笑っていない。
「六谷先生が、退職されたので、私が新しく、皆さんの英語の授業を担当することになりました。名前は、紅明菜です」
六谷とは、明菜の前任者の名前だそうだ。ここへ来る前に、英語研究室で聞かされた。
「先生から、何の引継ぎもなかったので、どこまでやったのか教えてくれるかしら」
「どこまでだって?先生」
教室の隅で野太い声がした。
「ええ。どこまで進んでいるのかしら?」
「どこまでって、そりゃ最後までさ、センセ。突っ込んで中にたっぷり出してやったよ、あの女センコーには」
「そうそう。人妻ってのがまた堪らなかったよなあ。全然使われて無くてよお。いい感触だったぜ。」
「男全員でまわしてやったんだ。他の学校じゃ、いや、インポで早漏の旦那じゃまず体験できなかっただろうぜ。いい経験させたやったんだから、感謝してほしいくらいだよな」
下卑た爆笑が男子生徒の間を走る。
「そうじゃなくて、この教科書よ。どこまで終わっているの?」
明菜は手にした教科書を振った。
「せ〜んせ、私のアソコ、太いので一杯突いて、って英語でなんつうの?」
明菜は言葉を発した男子生徒にすばやく目を走らせた。
デカイ図体をした、椅子と机に規格外の生徒。
別格、と見抜いた。名前は頭に入っている。自己紹介など、させているだけ時間の無駄だろうから、クラスの名前と、所属部活くらいは事前に目を通しておいたのだ。
それによると、その巨体の名は、嵐龍二。総合格闘技愛好部の部長。部自体はしかし、愛好部と名乗るのが間違いなくらいの本格派で、嵐はプロの世界からもオファーが殺到している実力者。同じ高校生では、国内には敵はいないと言わしめた。彼のためといってもいい海外校との親善試合でも、優勝をさらっている。彼率いる部も、国内最強。親善試合でも、全員が勝利している怪物の集まりなのだ。近々彼らで、K1も真っ青の新興格闘技集団を結成するという噂も実しやかに囁かれている。
「ここは英会話のクラスじゃないわ、嵐君」
「へえ、俺の名前知ってんの。嬉しいねえ。でも、質問の答えになってないよ」
「三十六ページの五行目までですよ、先生」
と、別の声が割り込んできた。
一人だけ優雅に、きちんと机に腰掛けた秀才のような男。確か名前は山岡彰彦。学園祭か何かの実行委員会で長をしているらしい。それだけあり、いかにも優等生のような物腰だ。優等生は、荒くれ者の中で浮いてもよさそうだが、不思議なことに、彼はこのクラスの雰囲気に見事に溶け込んでいた。
「ありがとう、山岡君」
「おい、山岡。余計なこと言うんじゃねえよ」
と、嵐は凄んだ。
「うるせえよ。俺が後で教えてやるさ」
山岡は静かにそう返した。嵐は舌打ちして、そのままだらけた格好で明菜を見た。身体が大きいので、机も椅子も小さく見える。全然、収まりきれていなかった。
「じゃあ、次の六行目から、最後のピリオドまでを、誰か読んでくれるかしら」
期待せず、明菜は振った。無論、誰も名乗り出ないし、そもそも話など聞いていない。相変わらず、不信感のこもったままの視線を明菜に投げつつも、自らの享楽に現を抜かしている。
「はい」
澄んだ声で挙手をしたのは・・・・・。
「じゃあ、山岡君」
山岡は「はい」とハッキリした返事をしてすっと立ち上がった。
不思議と・・・・・・場が静まった。彼だけのために。
山岡はそれから、指示された箇所までを流暢な英語で読み終えて見せた。発音、アクセント、早さ、どれをとっても完璧で、ネイティブが聞いても十分、内容が理解できるほどだ。
「訳しますか?ついでに」
「いえ・・・。まだいいわ」
「分かりました」
山岡は素早く着席した。教室からはどよめきが・・・・・・・上がらなかった。
誰もが山岡の秀才ぶりは知り抜いている。しかし、秀才だから目立つような学校なものか。むしろ、エリートは嫌悪され、迫害の対象だ。運悪く、どういうわけかこの学校に転がり込む羽目になった、道を間違えた秀才が初日から手ひどいリンチにあい、翌日には転校、という定めを経験するのはもはや常識である。
その中で山岡は生き残った唯一の存在である。いや、むしろ彼はエリートでありながら、今までの連中のような目に遭わなかった唯一の存在とするべきだろう。あるいは、彼ははじめからエリートではなく、周りの連中のようなクズだったのかもしれない。真相は分からないし、誰も興味もない。ただ言えることは、間違いなく、山岡はこの学校に完璧に順応しているということだった。周りの彼を見る目に、嘲りや妬み、僻みなどは微塵もなく、ただ羨望と、そしてどういうわけか含まれている怯えと恐怖を見ることができるのみだ。
「センセイ。英語の授業もいいけどさあ、保健体育の授業にしてくれねえかなあ」
別の誰かが下卑た声を張り上げた。
先ほどの嵐と同じような雰囲気が発言者からは漂っている。
やはり丸めた坊主頭だが、こちらは嵐とは対照的な痩身である。とは言え、ひ弱というのは当たらない。引き締まった筋肉を身にまとっていると知れる。だらしなく開かれたワイシャツからは、逞しい胸板を見ることができるからだ。
剣道部の部長、葛真貴だった。実力は県内に留まらず、国内最強と呼ばれている。優勝回数は数知れず。国内の強化選手に選ばれている紛れもない実力者である。やはり、彼が率いる剣道部は国内最強だ。
「冗談はよしなさい、葛君」
「センセイ、いい足してるよ。さっきから勃起が止まんねえんだよ。俺のアレは竹刀よりも硬いぜ」
教室の中で、卑猥な笑い声が巻き起こる。
と、それを打ち消すように何かが空を切ったのを、この中の何人が見ることができただろうか。
「いいのかよ、先生が暴力に訴えてもよお」
葛は額の手前で何かを掴んでいた。
親指と人差し指の間に挟まっているは、チョークだった。
明菜も明菜でいつの間に投げたのか。
「こええ、こええ。当たれば額が割られてたぜ」
葛が投げ返したのを見ることができたのも、この中に何名いただろう。
「こりゃ、驚いたぜ」
明菜は葛と同じく投げ返されたチョークを指で受け止めていた。生意気な教師は、軽く額に穴あけて黙らせてやるつもりだった。過去にも、無謀にもチョークを投げつけてきた奴らは沢山いた。が、そのたびにこちらから投げ返してやり、相手の額を軽く痛めつけてやったものだ。誰もが反応さえできずに、無様に床の上にひっくり返った。今回もそうなるはずだった。だが、ならなかった。
葛の目つきが変わっていた。彼だけではない。嵐もまた。他は、今起きた一瞬のやり取りに息を呑んで見守っている。教師と生徒の攻防は、数知れないが、どれもこれも、骨のない教師ばかりだった。生徒たちは、血に飢えていた。争いに飢えていた。ハプニングを求めていた。今、ここに、ずっと期待していたスリルがある。もうすぐ、期待していたものが訪れる予感がしていると、全員が告げている。葛と嵐の目つきの変化は、明菜も気がついた。それは、何かが始まる前触れだったのかもしれない。少なくとも、その表情には、今までのような、手抜きの姿勢ではなく、正面から対決しなければならない相手であると、明菜を認めた証左であっただろう。
ゆるり、と二人が席を同時のタイミングで立とうとした頃合。
「やめておけ、二人とも」
鋭い声を張り上げたのは、山岡であった。所作は優雅なのに、一瞬、全身から針のような空気が放出されたように感じられた。それによって、教室の中の空気が一瞬、さっと凍りつき、つかの間の静寂が訪れる。ただ、本当に静寂は一瞬だった。
その静止にはどのような意図があったのか。単に授業中という優等生ぶりからか、あるいは、目の前の教師の実力を彼自身も認めたか。あるいは・・・・・。
獣のような二人が、山岡の言葉に素直に従ったのも、生徒の中では意外なことではなかった。彼らがつるんでいる姿は、いつでも目に入っている。手がつけられない野獣みたいな奴らが、山岡には大人しく付き従っている。さながら、山岡の役割は猛獣使いだろう。
「さ、授業してくださいよ、先生」
山岡はそう促した。
以降、相変わらずの喧騒の中で、明菜は勝手にしゃべり、話を進め、時折、生徒に反応を求めては、山岡のみがそれに答えるという奇妙なやり取りが一時間続き、終業のチャイムを全員が聞いた。
入ってきたのと同じく、毅然とした動作で明菜は教室を後にした。
その背中に声がかけられたのは、すぐのことだった。
「先生、質問があるんですけど」
呼び止めたのは山岡だった。廊下では、その光景を何かのショーであるかのようにして、皆が注目していた。これからここで何が起きるのか誰もが期待している。
「今すぐでなければ駄目かしら。次のクラスへ行かないと」
「分からないことはすぐに聞け、と昔誰かから教わった気がするんですけど」
「それもそうね。じゃあ、何を聞きたいのかしら。もちろん、授業内容についてだけど」
山岡はその付けたしにクスっと笑い、それからこの上なく不敵な顔つきにサッと表情を変えて、半ば耳元な声を発した。
「教頭を殺しましたね」
明菜の目がハっと開かれる。
「匂いますよ、血の匂い」
明菜はすぐにでもスーツに鼻を近づけて、各所を嗅ぎたい欲望をどうにか抑えた。山岡はそんな彼女の心情を知ってか知らずしてか、勝手に続ける。
「いえ、あなたからはもっと黒い匂いがする・・・・・。邪悪なものの匂いが」
傍目からはもしかすると、それは単に質問と回答のやり取りをする生徒と教師の光景にしか見えなかったかもしれない。山岡は教科書を開き、それとない仕草をしていたし、明菜も明菜で動揺することなく、黙っていたから。
「我々を甘く見ないことですよ。さっきの二人を見たでしょう。彼らは僕の仲間です。他にもいますが、あまり我々を刺激しないほうがいいですよ。これは忠告じゃありません。警告です」
「無視したら?」
「それは、言わなくても分かっているはずですよ。ここがどういう場所か、もう分かったはずです。我々と先生は、単に生徒と教師の関係ではもやはないのです。ここに、そんなものはどこにも存在しないのです。あるのは、強きものが弱きものを支配する関係だけです。世の中と同じですよ。綺麗に取り繕われているだけで、所詮、外の世も、ここと同じです。混沌と混乱が支配し、強いものが弱いものを蹂躙する。とにかく、これ以上、目だった動きはしないことですね。明日から休暇をとられてはいかがですか?」
「まだ初日よ」
「それもそうですね。では、話はこれだけです。ここ最近の中で一番いい授業でしたよ」
そう言って、山岡は立ち去った。
それと入れ替わるようにして・・・・・・。
別の声が彼女を呼び止めた。
「あの・・・・」
一人の女子生徒がそこにいた。さっきの教室にいたような、いないような、あまり特徴の無い顔立ちをしている。この学校では、どの女子生徒も厚化粧し、派手な格好をしている中で、地味に映るセーラー服姿はむしろ、浮いているようでもある。だが、元々学校は制服だった。いつからか、誰かがルールを変えただけに過ぎない。
「あなたも何か質問?」
「いえ・・・・その・・・・・あたし・・・・あたし、見ていました。先生が、あいつらをやっつけるの。それ見てすごく・・・・すごく気持ち良かったです」
「暴力は気持ち良いものではないわ。それを気持ちがいいと思えば、ただの獣よ」
明菜はこの、おどおどとした生徒を窘めるようにして言った。
「ごめんなさい。でも・・・・先生しかいない。この学校をどうにかしてくれるのは。もうお分かりになったでしょ?ここ、絶対狂ってる。あたしもう駄目なんです。どうかなっちゃいそうなんです。毎日、毎日怖くて。いじめられてもいます。いつもじゃないけど、時々。でも、そんなの大したことじゃありません。もっと怖いものがあるんです。ここ、何か絶対に変です。おかしいです。何か・・・・人がいるべき場所じゃないみたいで」
よほど、心の中に鬱積したものを抱えていたのだろう。次から次へと溢れ出す言葉の本流を、一気に吐き出した後の、彼女の表情は心なしか、先ほどよりはすっきりしているように見えた。
「あたし・・・安西安曇って言います。忙しいところ、こんな話してすいません。また・・・・話を聞いてもらってもいいでしょうか。あたし・・・」
「・・・・話はそこまで。ごめんなさい、もう行かないと」
だが明菜は一方的に会話を打ち切った。
背後を何かがすうっとすり抜けたような、薄ら寒いぞっとするような感覚を感じたからだった。弾かれたように振り向いてみる。
それまでの校内とは、まるで異なる空間がそこにあった。
明菜以外、誰も居ない。
不良たちの喧騒も、ざわめきも、音楽も、すべてが消え去っている。
それだけではない。
白い輝きの中で、世界は揺れていた。壁や床、天井は白一色に染まり、ぐにゃぐにゃと頼りなく揺れ、そこにあるかどうか疑わしい蜃気楼のようであった。
加えて、その世界で先ほどから鳴り響いているもの。
チャイムである。
それは残響を延々、残しつつ鳴り続けている。
頭痛のような、眩暈のようなものを感じつつ、明菜は一歩を踏み出した。
幸い、あの気配はまだ辺りに残されていた。気配の残滓は、廊下を奥へ、奥へと続いている。明菜はそれを追った。ただ、この何か得たいの知れぬ気配というただ一点のみに神経は集中している。見失わないように、見失わないようにと。
気配の方も、明菜に対して誘いをかけているかのようだった。曲がり角など、見失いやすそうなポイントに差し掛かると、必ずと言っていいほど強い目印を残しているからだ。
いくつか廊下を折れる。
すると・・・・・。
中庭のような場所に出た。が、記憶ではこんな場所に中庭などなかった。いや、そもそも今まで曲がってきた廊下が、記憶通りのものだったかどうか。
白一色の世界に、別の彩が加わっていた。
よく手入れされた花々が咲き誇る花壇。若々しい芝生。それらが、白い光の中に見事に溶け込んで、この上なく神秘的な空間を演出しているのだ。一歩、そこに足を踏み入れた途端、思わず明菜は、その光景に見惚れてしまったほどだ。
チャイムの音が一際残響を大きくする。
音の発信源。どうやらそれは、中庭の丁度正面に聳える時計塔のようだ。記憶では、やはり時計塔は学校には無い。三角屋根の下に据え付けられた巨大な円盤は、ぐにゃぐにゃ揺れて、ダリの絵画の世界に迷い込んだかのようだ。
明菜を導く気配は真っ直ぐ中庭を突っ切り、時計塔の方向へと続いている。
彼女はそれを追う。
庭には白い十字路が花壇の中を突っ切るように伸びている。一方はそのまま時計塔へと続き、他の二本は白い光の中だ。気配は正面方向へと続いている。ぐにゃぐにゃと揺れ動く、時計塔の中へ。
刳り貫かれたような、アーチ状の入り口が見えた。白い光が、塔全体を包み込み、入り口からも、光が漏れている。その向こう側は、眩しくて見ることができない。しばし、塔を見上げて佇んでいた明菜だったが、謎めいた気配と、チャイムの残響が導いた。
一歩、光の中へ足を踏み入れると・・・・。
白く、横長の階段が目の前に現れた。階段は気配と共に只管上へ、上へと続いている。時計塔の中にしては、歯車も、振り子も、何も見えず、むしろ、ただの学校の階段という趣だ。だが、歪んだ白い階段は、そのまま上りきれば、天国へ行けてしまいそうな神秘の輝きで満たされている。そのまま明菜は上り続けた。いくつの踊り場を通り抜けたのか、何階層分上がったのか、いよいよ数え切れなくなった頃・・・・。
不意に、その一点だけが、現実感を取り戻したようだった。異世界の中にあっても、屋上へと続く扉は、一度目で確かめたことがある学校に現に存在しているものだった。気配は、その向こう側へと消えている。普段は施錠されて開かないはずの扉が、僅かに開いていた。
ゆっくりと、慎重に、明菜は扉を開けて、その向こう側へと出た。
晴天だった。
雲ひとつ無い青空。たっぷりの陽光が、屋上全体に燦燦と降り注ぐ。
ぐるっと長方形の空間に、落下防止のためのフェンスが取り付けられている。
そのフェンスの上・・・・・・。
一人の少女が明菜に背を向けて立っていた。
見事なバランス感覚と言わざるを得ない。満足に両足を乗せて体重を支えられるだけの幅は無いからだ。ちょっとでも強い風に煽られたなら、転落は免れないだろう。
だが、明菜は先ほどの気配が、目の前の彼女だとすぐに理解した。紛れもない、あの気配は、この生徒から放たれている。
しかし、その気配、雰囲気は何であろうか。邪悪に与する存在かと言われれば、そうでもないが、ぞくりと一瞬、全身に鳥肌が立ったのも確かだ。それは彼女から放たれる光が齎す感覚のためかもしれない。
眩い光に包まれながらも少女が制服を着ていることが分かる。だが、先ほどの安曇とも違うもののようで、この学校のものではなさそうだ。
「私、死んじゃうんだ。今から。だから止めないでね」
明菜が仕掛けようかどうか探りを入れる中、いきなりの自殺予告である。その姿といい、佇まいといい、酷く現実感の無い少女が発した言葉は、意外にも確かな感触を伴って明菜の耳へ届いた。
「止しなさい」
思わず明菜は叫んだ。
「止めないでって言ったでしょ」
明菜に背を向けたまま、女子生徒は静かに言った。
「でないと・・・・・先生も死んじゃうよ」
ぐらっと・・・、足元が揺らいだ。
明菜は思わずわっと声を出してしまった。
落ちる!
何かに掴まろうとした刹那、身体の位置が変わった。ぐるりと、視界が回転する。落下の感覚だけが全身を貫く。両手を振り回して何かに掴まろうとするも、悉く空を切った。
落ちていく。
上へ、下へ、横へと。
落ちていく。
地上が遠ざかる。天が遠ざかる。
落ちていくのか、上っていくのか、もはや分からなかった。
そこはもう屋上ですらない。
ビルみたいな、にょきにょきした建造物が林立した空間。明菜は、その建造物の合間を落下し続けていく。かと思えば、ぐるぐる視界が回転して、それらは激しく向きを変え、角度を変え、構成を変えて、時にはただの線となり、正方形となり、あるいは無数の点として視界を過ぎる。そこでもすべてはやはり、白の世界だった。
無駄と知りながら、明菜はもがく。両手、両足を無茶苦茶に振り回してどうにか何かに掴まろうとするも、虚しい努力であった。周りは、意味ある構造物のはずなのに、何一つ、存在していないような。それら、複雑怪奇に組み合わされたモニュメントの只中を落ちている彼女は、いつ、それらに激突してもいいようなものだ。だが、それらは、激突しそうになると、途端に形を変え、明菜にとっては、まったくの無害なものへと変じていく。
不意に。
落下の感覚が消えたかと思えば、明菜はうつ伏せのままに、屋上の地面に這い蹲っていた。
あの、少女は、変わらずフェンスの上に立ったままだった。
「これで分かったでしょ?私、これから死んじゃうつもり。止めようとしたら、先生も死んじゃうよ。今度は落ちるだけじゃすまない。本当に地面にぶつけてあげる」
言ってから・・・・その身体はぐらりとフェンスから落下していった。
あ、と叫んで身を起こし、明菜はフェンスに駆け寄った。しかし、この位置からでは、下の様子までは見えない。仕方なく彼女はフェンスをよじ登り、そこから身を乗り出して下の様子を見た。
だが・・・・・・。
地面にあるはずの死体がなかった。
血痕一つ、染み一つ、広がっていない。
・・・・幻覚?
それでは、さっき感じたあの気配何だろう。そもそも、あの少女と言葉も交わした。声ははっきりと聞こえたし、存在感、決してあれは幻や錯覚なんかじゃなかった。
改めて明菜は周囲を見回してみる。
よく見れば、そして感じてみれば、どこかこの屋上は奇妙な感覚で満ちている。何かが捩じれたような奇妙な場。無論、遠目から見れば、何かおかしなところがあるわけではない。どの学校にもあるような、何の変哲も無いただの屋上と、そこから見える光景があるだけだ。今の今は。
それが不意に、広がりを見せたように明菜には感じられた。さっきまでは、まるっきりの異世界に奇妙な感覚が、一挙にして、学校全体を包んでしまったような・・・・。もちろん、ただの気のせいかもしれない。だが、あの謎の少女との遭遇が、何かの扉を開いてしまったかのような。
それでもやはり、屋上にいても響いてくる学校全体の喧騒は、何一つ、おかしな異変が巻き起こったことを感じさせぬ。誰一人、何かが動き出しているなどとは、億尾にも出さぬ。それでいて、やはりそれは確かに始まろうとしているのかもしれぬ。これからこの学校で何が始まろうとしているのかは分かっている。だが、それとはまた別の何かが始まろうとしているような予感だけはある。たった今、何かの境界をそのまま跨ぎ越してしまったかのように。
明菜は頭を振った。とりあえずは、当座のことだけに集中するべきだろう。そして、その時はもうすぐ迫っていることを彼女は知っていた。そのためだけに、自分はここにいるのだと。
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