8.白兎注意報
ある日、事件が起こった──。
「舞!早く逃げなさい!」
部屋に入ると姫桜が物凄い慌てた形相で叫んだ。彼女にはあるまじき大声で。
「へ?」
行き成り『逃げろ』なんて言われても状況が理解出来ず、首を傾げる。
「姫桜、何言って──きゃあ!?」
突然、ぐるんと視界が回った。
背中に軽い衝撃が走る。
「ま、真白…!?」
わたしの上には目が据わり、頬が赤く染まった真白の顔。
その後ろには天井が見える。
――押し倒されてる!?
そう、わたしは真白に押し倒されていたのだ。
起き上がろうにも手首をがっちり押さえられ、身動きがとれない。
女のわたしの力では男の真白の力に敵わない。
冷や汗が伝う。
「うわぁ、待って!わああぁぁ!」
真白の顔が近づく。
必死で抵抗しても彼はびくともしない。
焦点の合わない顔。
唇には柔らかい感触。
「ッ!?」
――キスされてる…!?
頭が真っ白になり、思考が完全に停止する。
「……何やってんの?お前等」
近くで聞こえた声にハッとした。
身動きがとれないため、視線だけを動かすと、ドアの近くで呆れた顔をしている黎月が見えた。
「んーー!!」
違うって言いたいのにわたしの唇はまだ塞がれたまま。
「酔ったのよ」
「あー…そういうこと」
姫桜の一言で黎月は納得したようだ。
「真白に酒飲ませたのか?」
「まさか。あれよ」
姫桜は机の上のチョコレートを指さした。
「間違えてブランデー入りのチョコを食べたのよ」
ブランデー入りのチョコで酔ったのかよ!
お酒に弱いにも程がある。
「何でもいいから早く助けてよ!」
やっと唇が解放され、必死で叫ぶ。
あろうことか、真白はわたしに覆い被さったまま寝息を立て始めたのだ。
「ダメじゃん、姫桜。酒が入ったお菓子出しといちゃ」
「ごめんなさい。今度から気を付けるわ」
二人はわたしの叫び(かなり必死)を無視して話を続けている。
「無視するなぁ!早く助けろぉぉ!」
†
「大丈夫か?」
放心状態のわたしを黎月が心配そうに覗き込む。
やっと解放されたわたしは今、黎月の部屋に来ていた。
「…大丈夫そうに見える?」
「んー…見えない、かな」
あの後、黎月から聞いた話では、真白は尋常じゃないレベルでお酒に弱いとか。
お酒の入ったお菓子も駄目で、そういうものを一口食べただけでも酔ってしまうらしい。しかも──
「キス魔って何よ!キス魔って!そんなの聞いてない!」
なんと真白は酔うとキス魔になるらしい。
しかも、男女関係なく襲うとか。
「いや、だってよー。言ったら殺されそうな勢いだったろ?」
「確かにそうだけどさぁ」
この前、大浴場で黎月が話そうとしたのはたぶんこのこと。
その時の真白はかなり怖かった。このことを言っていたら黎月はどうなっていたかわからない。
「あー、信じられない。信じたくない…」
わたしは頭を抱える。
誠実そうだと思っていた真白がまさかキス魔だなんて……。
また真白の意外過ぎる一面を知ってしまい、激しく後悔した。
「ねぇ、そういえばさぁ」
「んー、何?」
「姫桜やあんたは真白に襲われたことないの?」
一緒に住んでいるんだ。その可能性は充分にある。
「姫桜はなぁ、襲われかけた時に真白の顔を思いっ切りぶん殴って無事だったんだよ」
あの可憐な少女が自分より大きい青年をぶん殴ったなんて……。
うーん、信じたくない。
「で、あんたは?」
「えっ、俺!?」
わたしにそう聞かれると、黎月はわかりやすく動揺した。
――もしかして経験済みってやつ?
「ねぇ、どうなの?」
黎月に詰め寄る。
だって、気になるじゃない。
「俺は……」
黎月は言葉を濁し、わたしから視線を外す。
「あっ、俺用事があったんだ!」
バッと立ち上がり、ドアに早足で向かって行く。
「あっ!」
「悪ぃな、舞」
下手な嘘をついて、黎月は部屋から出て行ってしまった。
――逃げられた…。
黎月の逃げ足は速く、部屋には呆然とするわたしだけが残された。
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