彼女の笑顔。
挨拶でもするような
軽い口調。
俺は、一生、
忘れることは
できないだろう。
『本日は、○○航空をご利用いただき、誠にありがとうございます。またのご利用お待ちしております。では、お気をつけて、いってらっしゃいませ』
アナウンスが終了した。
機内は、今か今かと、空港内に入りたくてうずうずしている乗客が、通路を塞いでいた。
彼方も、その中の1人だった。
窓の外に目をやる。
羽田の天気は、晴れ。
千歳は、コートは必須だったが、どうやら、こちらでは出番はないらしい。
飛行機と空港を繋ぐ通路からは、ひんやりとした空気が流れていたが、やはり、コートの必要はなさそうだと、彼方は悟った。
歩きながら、携帯電話の電源を入れる。
そして、彼方は、電話をかけた。
「うん、今着いたよ。…うん、…じゃあ、後でね」
彼方は、電話を切ると、小さく、溜め息をついた。
羽田からは、赤い電車に乗り込む。
そして、品川で、下車。
改札を抜けると、大きな柱の所に、立っている彼女を見つけた。
数ヶ月ぶりに会う彼女は、髪型を変えていた。
前に会った時は、腰まであるストレートの髪だったが、今は、ボブで、襟足に、軽くパーマをかけている。
「恵美」
彼方の声に、彼女は気づき、照れくさそうに、小さく手を振った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
彼方は、元々、北海道の生まれだ。
東京の大学へ進学し、その時に、恵美と知り合った。
そして、2年前から、彼方は実家に戻り、地元の市役所に勤めている。
その間、休みを利用して、恵美に会いに来る。
今回は、東京に1泊する予定だ。
「クスクスクス」
山手線で、新宿へ向かっている時、ふいに、恵美が笑いを洩らした。
「どうした?」
「ほら、あの日のこと、覚えてる?」
笑い声は止んだものの、目はまだ笑っている。
「あの日?」
「高島屋のところの動く歩道で、彼方、こけそうになってたよね」
窓の外からは、高島屋のビルが見える。
もうすぐ、新宿駅だ。
彼方は、思い出し、照れくさそうに、笑った。
「あったなー、そんなこと。でさ、隣を歩いてたヤツに、ぶつかりそうになってさ」
恵美が、ぷ〜っと吹き出す。
「そうそう。おじさん、すっごい睨んでたよね」
「でも、あん時、恵美、ひどいよな。後ろで、ただ笑ってるんだもんなぁ」
「だって〜」
二人は、電車から下りても、しばらく、笑っていた。
二人の話すこと。
近況はあまりない。
あるのは、想い出話ばかりだ。
問題の高島屋の動く歩道では、今回は、何事もなく、通過したが、恵美は、笑っていた。
「…あ〜、おかしい……」
東口周辺を歩いている時にも、昔の話で盛り上がり、ひとしきり、二人は、笑った。
しかし、笑いの後には、会話が続かなかった。
「あ、こんな店、出来たんだ」
通りに、見たことのない洋服屋を見つけた彼方。
「うん、先週ね」
最後に、彼方が新宿へ来たのは、1年近く前。
その間に、街は刻々と変化を遂げていた。
「ねぇ。あのお店、久しぶりに行ってみない?」
高いトーンで伝える恵美。
「あの店?」
「ほら、二人で、よく行ったでしょ」
「あー、あのラーメン屋か!」
「そうっ」
二人は、学生時代、中野区に住んでいて、その頃、近所に、行き着けの店があった。
学生に人気のとんこつラーメン屋。
店は汚いし、親父も愛想は全くなかったが、貧乏人には、量やサイドメニューを時折サービスしてくれるし、何よりも、おいしかった。
黄色いラインの電車に乗り込んで、中野駅で下車。
駅から徒歩20分ほどのところに、店はある。
…はずだった。
二人は、店の前に立ち、声を失った。
店のドアは、固く閉ざされ、“閉店しました”という手書きの紙が、はためいていた。
「おじさん、もうトシだったもんね」
恵美が、しょんぼりとして言った。
「あぁ」
彼方も、しょんぼりとして言った。
「おじさんにも、会いたかったね」
「うん」
二人は、仕方なく、近くのフレンチレストランに入った。
その店は、高額メニューばかりで、学生の時分には、決して、敷居を跨げなかった。
いつも、「いつか、二人で入れるようになりたいね」と話していた、憧れの店だった。
その頃のことを思い出しながら、「ここに入れるように、オレらもなったんだ」などと、話した。
そして、店を出た後、「でも、私たちには、あのラーメン屋のが、好みだったかもね」と、恵美が茶目っ気たっぷりに冗談を言って、二人で笑い合った。
夜。
彼方は、恵美の部屋に泊まった。
学生時代は、ぬいぐるみが枕元に置いてあるようなファンシーな部屋だったが、社会人になってからは、シックな部屋になっていた。
彼方と恵美は、裸のまま、抱き合って眠った。
翌日。
彼方は、昼の飛行機で帰る。
あまり時間はない。
二人は、空港で、朝食をすませた。
『○○航空、△便、千歳行きご予約のお客様、搭乗手続き終了のお時間が迫っております』
彼方の乗る飛行機の出発が刻々と迫っていた。
彼方と恵美は、空港のロビーにたたずんでいた。
「そろそろ、行くね」
彼方が立ち上がる。
「うん」
恵美も、立ち上がった。
搭乗口へ向かう二人。
恵美は、途中で止まった。
彼方も、立ち止まる。
「また」
彼方は、曖昧な笑みを浮かべ言った。
恵美は、首を横に振った。
「もう、帰ってこなくていいよ」
恵美は、軽い口調で、彼方に告げた。
彼方は、呆気にとられる。
「…どうして?」
恵美は、笑っている。
「他に、好きなコ、いるんでしょ?」
彼方は、愕然とした。
「本当は、サヨナラをしにきたんでしょ?」
恵美は、笑っている。
彼方のほうが、泣きそうな顔をしている。
「付き合い長いんだよ。それくらい、分かるよ」
恵美は、彼方の背中を押した。
「バイバイ」
恵美が、決定的な一言を言った。
二人の遠距離恋愛が始まった時、約束した挨拶があった。
再会した時の挨拶は、「おかえり」「ただいま」。
彼方が戻る時の挨拶は、「いってらっしゃい」「いってきます」。
別れることになった時の挨拶は、「バイバイ」「バイバイ」にしよう、と。
「…バイ、バイ」
彼方は、恵美のほうを見ることができず、振り絞るように、呟いた。 |