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義勇艦隊奮戦録
作:山口多聞



周囲の眼


 米軍の日本本土空襲を未然に防いだ義勇艦隊であったが、対照的にその彼らを見る帝国海軍の目は冷ややかであった。元々、帝国の海の海防は自分たちだという誇りがある彼らにとって、今回の海戦の結果は面白くない事であった。

 しかしどんなにひがんでも、彼らが義勇海軍に対して船舶の護衛を依存している比重は大きかった。竹島沖海戦以降、船団護衛や対潜哨戒能力の向上を図り始めた帝国海軍と言えど、たった3年で将兵全員の頭を切り替えるのは難しかった。また、練度も追いついていなかった。
現に、フィリピンを巡る海戦においては、米潜水艦により駆逐艦2隻が失われているのだ。

 それでもこの時点においても、対潜哨戒等の任務を見下している将兵の数は相当数に上った。やはり人の意識を変えるのは簡単ではない。

 そんな状況であるから、日本と南方を結ぶシーレーンの安全を守るのは義勇海軍と台湾海上警備隊(1946年台湾の自治共和国化後に台湾海上警察と分離)や朝鮮海上警備隊(1944年に朝鮮海軍と朝鮮海上警備庁に改組)であった。

 5月時点で、南方の油田、資源地帯との交易は未だ続いており、そこから出る資源が、満州国から出る分とあわせて戦争を支えていた。

 そんな彼らに帝国海軍が冷ややかである一方で、帝国陸軍や逓信省等はかなりの好感を持っていた。

 陸軍から人気なのは義勇海軍は元々の任務の一つに、敵前上陸掩護があったので、陸軍の作戦を幾度か支援し、また占領後の兵站を支える上でも重要な役割を果たしていたからだ。また、逓信省は彼らが戦時経済を支えているのに大きく貢献しているのに着目した。

 その義勇海軍は、日本各地にも補給基地を設けていた。平時は大亜細亜通運の貨物船基地として使われている物を転用した物であった。横浜、室蘭、豊橋、鹿児島にそれらは置かれていた。

 さて、義勇海軍の任務は戦線が延びるに従い膨らんでいったが、装備や人員の整備が間に合っていなかった。

 一応、開戦前から海洋学院の養成人数を増やすなどの努力は行っていたが、予想した以上に仕事が増え、許容範囲を越えていた。また、艦艇も造船所をフル回転させて造っていたが、他の方面からの受注をさばく必要もあり、こちらも限界ギリギリの所であった。

 これは、本来帝国海軍がやるべき分の仕事も彼らがやっているのに起因していた。

 帝国海軍は緒戦に起きたマーシャル沖海戦による駆逐艦の損害が大きく、それ以上の消耗を恐れていた。

 もっとも昨年中ごろから、日本の逓信省と陸軍の肝いりで船団護衛専門組織を設置する動きが出ていた。

 もちろん、海軍はこれに猛然と反発したが、日本にも満州や台湾のように沿岸警備隊的組織は必要であるとし、戦時は船団護衛、平時はこれら専従の組織が必要と陸軍と逓信省は唱えた。

 この組織、海上護衛総隊(後の海上保安庁)は昭和17年1月に正式発足し(実際の稼動開始は4月ごろから)、総司令部は横浜に設置された。一応海軍から独立した系統を持つ組織となった。

 これらに配置される艦艇は、義勇海軍で使用される艦艇がモデルとなり(創設時は海軍のお古が中心)、海軍や陸軍からの出向者、また独自採用者によって構成された。

 創設時の戦力は軽巡2隻、駆逐艦8隻、海防艦(フリゲート)12隻、対潜艦(コルベット)6隻から編成された。

 軽巡は元帝国海軍の5500t級軽巡で、駆逐艦はフィリピンで拿捕した米国艦や「峰風」級駆逐艦であった。海防艦と対潜艦は大亜細亜造船日本支社で竣工した新型であった。これらが簡単に融通できたのも、僅か3ヶ月で建造可能と言う義勇海軍ならではの艦艇であったからだ。

 この海上護衛総隊初代総司令官は及川古四郎元海軍中将が就任した。

 この組織に対して、義勇海軍からは複数の人間が出向している。対潜哨戒や上陸掩護のノウハウを教えるためだ。

 この海上護衛総隊とも、義勇海軍は共同任務を繰り広げる事となる。

 一方、米海軍も反撃の準備を着々と整えていた。大西洋艦隊から空母や戦艦を回し太平洋艦隊の戦力補充に努めた。

 米国は5月に大西洋での駆逐艦撃沈を口実に独逸にも宣戦布告したが、海軍力で劣る独逸には2線級の艦艇と英国海軍のみで充分と判断したようだ。
 
 そして、米海軍の反撃が始まる。昭和17年6月。米艦隊が千島を空襲した。












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