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義勇艦隊奮戦録
作:山口多聞



満州事変


 昭和6年9月15日。満洲にて紛争が発生した。

 ラストエンペラー溥儀を主席とする、清朝亡命政府を名乗る組織が突如として清朝再興をめざし,満洲各地の張学良軍に襲い掛かったのだ。世にいう満州事変の勃発である。

 もちろん、この計画には関東軍の暗躍があった。

 この時関東軍は、紛争から満鉄沿線の邦人保護することを目的に、満鉄沿線および租借地各方面へ出兵したが、その行動はほとんど清朝亡命政府の蜂起と同じ時であり、さらに出兵後は張学良軍が治安維持活動中の関東軍を攻撃したとして、張学良軍を攻撃し清朝政府軍を支援している。

 戦後,この張学良軍の攻撃は虚偽であったということがわかっている。また、蜂起をおこした清朝亡命政府軍も、実際は名ばかりで日本人が部隊の8割を占めていたとも言われている。

 つまり、この事変は関東軍の謀略であった。関東軍(石原莞爾)は、清朝政府の蜂起であれば日本の侵略行為とならないと踏んでの行動であった。そして自分たちがあたかも巻き込まれたように装ったのだ。そうすれば万が一国際連盟の調査団が来ても言い訳が聞くと思ったようだ。

 実際,日本の証拠隠蔽や工作は完璧で、後のリットン調査団も、「関東軍はあくまで自衛行動を取ったのみ」と国際社会に公表している。

 この時、張学良軍は29万という大軍勢であった。しかし所詮は寄せ集めの兵であり、次々と敗走し、清朝亡命政府はわずか3ヶ月で満洲全域の掌握を宣言することとなる。

 さてそんな中、大亜細亜造船の2隻の駆逐艦、「流星」と「彗星」(武装を施し戦闘艦となったため丸をとった)は渤海へ向けて出撃していた。

 実は石原莞爾は事変勃発前に、2隻の駆逐艦の建造黙認と武装の一部提供の見返りとして、白根に出撃を要請してきたのだ。

 当初,白根は出撃に対し難色を示した。錬度が足りないし、また乗員の中には朝鮮人や台湾人なども混じっており、出撃する理由という物がなかった。しかし、石原との懇意や見返り条件のメリットも捨てがたい物であった。

 そこで彼は乗員にこう説明した。

「まもなく起こるであろう満州での独立紛争には、おそらく関東軍が関与するのはまず間違いない。そうなれば、満洲に出来る新しい国は日本の傀儡国家にさえなりかねない。諸君らが今回出撃し、戦果を上げることは、今後出来るであろう新国家に置いての諸君らの地位を高め,関東軍への抑止力になるはずである。それを信じて私についてきて欲しい。」

 この演説が功をなしたかはわからないが、結果幸いにも乗員の脱落者は最低限度で済んだ。

 そして9月14日夜、2隻は密かに旅順を出港していった。

 さて、2隻にはこの時点で一応武装は施されていた。当初計画では5インチクラスの小口径砲2,3基。魚雷発射管1基に爆雷、そして機銃若干という予定であったが、まず主砲は入手ルートがなく、仕方なく石原大佐が回してくれた陸軍の10,5cmカノン砲をそれぞれ1門ずつを前部甲板に設置した。もちろんこれだけでは不足である。しかし元々火砲が不足している陸軍から提供されたのはこのカノン砲のみであった。

 そこで、白根や北上らは極秘裏に欧米での武器購入を図った。もちろん,相手には怪しまれかねないが、他に方法がなかった。

 海賊退治用と称して、スウェーデンのボフォース社から40mm単装機関砲6基をなんとか買い込み、これをそれぞれ2基ずつ後部砲塔予定位置に設置した。

 魚雷は高価で入手ができず今回は無しだ。爆雷も潜水艦が相手ではないので積んではいない。あとは若干数の機関銃のみである。

 これらの急ごしらえ火器は出撃1ヶ月前に配備されたので、砲員の練度は最低ランクであり、また操船についても、貨物船からの引き抜き乗員が多いため、集団行動には不慣れであった。船を扱えると、海戦が出来るというのはまったく違う問題なのだ。

 そんな不安で一杯の戦隊指揮をとるのは、元海軍中尉で最近まで貨物船船長をしていた大貫小校(少佐)である。ちなみに階級は訓練や筆記試験の成果かからあくまで暫定的に定め
た物である。

 彼らに与えられた任務。それは渤海から脱出する張学良軍の外洋艦艇を撃滅することで
あった。


 御意見・御感想お待ちしています。
 なおこの作品で史実の歴史に似ている所はあっても全く関係ないことをお知らせします。











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