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義勇艦隊奮戦録
作:山口多聞



決戦前夜


 昭和8年2月1日。この日,義勇海軍と海辺警察共同による初めての観艦式が挙行された。参加艦艇は駆逐艦3隻に漁業保護船4隻であった。各艦は満艦飾の単縦陣で旅順沖にて公募抽選での上、大亜細亜通運の貨物船に乗り込んだ一般市民600人とこの日特別に足を運んだ満州国重臣、関東軍幹部の前を進んだ。

 この行事の意味は、国民の意思統一を早めることや乗員の士気上げの意味も込められていたが、それに加えて中華民国への圧力もあった。

 中華民国が満洲を狙っているという情報が入ったのは昭和8年1月中旬のことであった。この情報に、満州国政府首脳陣は凍りついた。この時期、満州国の防衛体制は未だ整っていなかった。それどころか、兵隊を含む全国民にさえ、満州国への帰属意識が固まってはいない時期であった。そんな時に攻められてはたまらない。そのため、満洲国内では整備された一部部隊によるこうした式典や示威行動が行われた。

 しかし、中華民国は確実に戦力を増強していた。3月には、アメリカやドイツから少数ではあるが艦艇の購入契約を行ったという情報が飛び込んできた。

 陸上戦力のみならず、海上戦力でも凌駕されることは、満州国にとって死活問題であった。しかし、逆にこれをチャンスとした物がいた。誰あろう、白根義勇海軍司令官だった。

「中華民国が海軍を増強するのなら、こちらも海軍を増強できる良い機会となる。」

 部下の前で白根は笑いながら話した。

 この時期,義勇海軍はさらなる拡張に挑んでいた。

 例えば、漁業保護船4隻が建造されたのもその1つであった。

 この船は有事に際して小型護衛艦として使えるよう設計されていた。設計したのはあの北上技師で、排水量は500t、武装は独逸クルップ社から輸入した8,8cm高角砲1門に、40mm連装機関砲1基であった。4隻のうち、1隻が義勇海軍所属であった。

 その他の装備面では、「流星」級駆逐艦を新たに2隻建造することとなったし、さらに人
員の教育設備も拡充された。

 あらたな教育の場とされたのは、台湾のホウコ諸島であった。

 この時期,大亜細亜造船は社の規模拡大を行っており、造船所も新たに日本の豊橋や鹿島、そして台湾の基隆に設けられていた。ちなみに、基隆の造船所ではタイ向けの駆逐艦4隻を建造している。

 ホウコ諸島に設けられた施設は元々大亜細亜通運の船員養成学校として作られたが、その一部を義勇海軍の教育施設とした。

 その設立に、当初台湾総督府は難色を示したが、日満融和という外交面での利益重視と、大亜細亜造船はあくまで民間会社ということで、最終的に許可を取り付けた。

 そのため、第一期、第二期生徒は定員がそれぞれ100、120名であったが、第3期からは200名に増員されている。

 義勇海軍の教育カリキュラムは、まず3ヶ月の地上での講義,座学等の基礎教育を行い,続いて練習艦を使っての実地演習の上,全員見習水兵として配属され、3ヶ月で正式に2等水兵として採用される。

 ただし、おもしろいのは例えば地上訓練、及び実地演習などで必要以上の成績をおさめ、そしてテストに合格すると、飛び級で教育を受けられたりもした。こうした生徒は採用が早められたり、昇級が早いなどの特典に預かった。士官学校の無い義勇海軍ならではの制度だった。

 そうして、義勇海軍の人員面での拡張が着々と行われた。

 さて、対する中華民国軍は昭和8年3月にまずアメリカから平甲板型駆逐艦6隻を購入している。

 この駆逐艦は第一次大戦中に275隻が建造されたクラスで、そのほとんどは大戦に間に合わず、五大湖でモスボールされていた。

 主砲は10,2cm砲4基と弱いが、水雷兵装は12門と強力だった。しかし、これだけなら充分義勇海軍でも対処できると判断されただろう。しかし、間もなく白根らを慌てさせる情報が飛び込んできた。


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