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日曜日のエチュード
作:谷川修一郎


「はい、前世での契約がありますので」
 女は生真面目にそういった。
 前々から約束はしてあったものの、ようやく巡ってきた休日の朝を無碍にするのは何とも忍びないし、腹もたつ。
 ちょっと美人だからと思って、訪問を承諾しまったことに私は後悔していた。
「何か、証拠でもあるの? 身に覚えはないんだけどねえ」
 まるでエチュードだ。わたしまで演技をしているような気分になる。
 昔、舞台俳優を目指していた頃、即興演劇をよくやったのを思い出す。場面だけを設定し役者どうし呼吸を合わせながら話を作っていく演劇の練習法だ。話の流れを最初に決めておくこともあるが、何も決めずにやるエチュードには、何事にも変えがたい奔放さがある。
 どうせなら楽しんでやろう、と私は思い始めていた。
「証拠ですか?」と女は言って、きれいに並んだ歯を輝かせた。「もちろんありますよ」
「見せてくださいよ。前世の記憶なんて持ち合わせていないから興味はあります」
 私の挑発にも、女は一歩もひかず、涼しげな様子だった。
 そうだ、慌ててはいけないよ、と私も自分に言い聞かせる。久々のエチュードで、まだ本調子ではないが、いつまでも女にリードさせておくのは面白くない。どこかで攻勢に出て困らせてやりたいものだ。
 女がブランド物の革鞄から取り出したのは、一枚の古い紙切れだった。いや、紙切れというよりは、パルプと呼んだほうがずっと相応しい。ピラミッドから盗み出した、エジプトの秘宝といわれれば、きっと鵜呑みしてしまうに違いない。どっちにしろ、女がふっかけてきた金額よりもずっと価値のありそうだった。
「えっと、神聖文字ヒエログリフは読めますよね?」
 当然のように女は言った。もちろん私は唖然とする、が、これは演技ではない。驚愕、というよりも、賞賛に近いものが胸に溢れていた。
「残念ながら」
 と私は口を濁す。
「それは困りました。だって、いくら私が翻訳したって、あなたは信じてくださらないでしょう。それじゃあ意味がありませんよね」
「でも」と私は言う。「とりあえず読んでもらえませんか」
「もちろん読みますよ。そのために来たんですから。それじゃあ」と、女は一呼吸おいた。「たしかに私はアメス15世殿に、金貨12枚を借りました。しかし現世で返せる見込みがなさそうなので、転生後の私こと、雨宮礼次郎が必ずお返しいたします」
 雨宮礼次郎というのが私の名前だった。そして雨宮礼次郎は、あまりの可笑しさに噴出してしまった。そして、嘘だ、と思った。けれど、嘘だ、とは言わなかった。なぜなら面白くはないからだ。不条理劇にしたって、嘘だ、って言ってしまうのは面白みに欠ける。それならば、「はっはっは、そのとおりだよ明智君」と開き直ってしまう怪盗21面相にでも倣ってしまった方がずっと良い。でも私の転生前の名前って言うのは一体、どんなだったんだろう。
「ところで、君の名前は何ていうのかな。アメス15世とでも呼んだ方が良いの?」
「ああ、すいません。そういえば名乗るのを忘れていました。所典子トコロノリコと言います」と言って、彼女はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、私に渡した。たしかに所典子と書いてあったが、トコロテンを想起させる名前はどこか嘘臭い。「正確に言うと、私はアメス15世の生まれ変わりではないんです」
「それじゃあ、私には君に借金を返す義理はないんじゃないの?」
「いいえ、ちょっと事情があって、あなたの契約書は巡り巡って私のもとに回ってきたんですよ。アメス15世も、あなたに無心した頃には幾らか財産があったのですが、テル・エル・アマルナが破壊されてしまった時にほとんどの財産を失いました。かろうじて残っていたあなたの契約書を私が買い取ってあげたんです。もともとメンフィスに住んでいたもので、幾らかの財産が私にはありましたから」
「へえ、現世では金に変わる可能性のなかったはずのものを、前世の君はよく買い取ったね。良い人だったんだ」
 皮肉を込めて私は過去形にしたのだが、女は悪びれる様子もなく、「ええ、私は良い人なんです」と例の綺麗な歯並びを見せた。
「でも、ちょっと待ってくれよ。たしかに君は、前世で私の契約書を買い取ったのかもしれないけれど、どうしてそれがここにあるんだ? ほら、普通、財産っていうのは子孫に残されるものじゃないか。例えば、君が次、蟻んこに転生するとも限らないじゃないか」
「なかなか良い指摘です」
 と女は言った。当然だ。私だってエチュードはよくやっていた。感を取り戻せば、現役の役者にだって対応できるだろう。
「実は」しばらく悩んだ末、女はついに言うべき言葉を掘り出せた。でも、そのは演技にしては酷く不自然だった。「今考えたんだろ」と言ってしまえば、この三文劇だって、一瞬で幕が落ちる。降りるのではなくて、落ちる、だ。映画の蒲田行進曲さながらに。
「私には転生先がわかっちゃうんです。もちろん前世のことだって覚えていますよ」
「そいつは凄い」
 余裕しゃきしゃきで私は答える。
「あなたの前世は、ハチでした。その前が槍で刺されたネイティブアメリカン、その前が前漢の宦官でした。去勢されたことで気がふれてしまって、発狂死しています。その前が契約書を書いたアマルナの奴隷です」
「それは新手の脅しか何かか?」
「事実なんです」
 即効で考えたにしては上出来だが、相手の気持ちを考えない態度は嫌な感じだった。
「分かった。幾らだっけ? 払うよ」
「十二万円で良いです。貨幣価値でいえば、その何十倍もの金額に相当するのですが」女は私の部屋を一通り見回した。「あなたの今の状況を考えれば、それ以上の額は受け取れそうにありませんので」
 嫌味な奴。
「オーケー。私にとって十二万円という金額は生活を左右させるのに十分な額なんだ。でも払うよ。その代わり、君はもうこんな風に人に集るのは止めて、まっとうに生きてくれ。良いね」
 そうだ、一人の若者を更正したと思えば安いじゃないか。といっても、この女と私の年齢との隔たりが何年あるのだろう。きっと何年もない。若作りしているとしても五年あれば良い。きっと成人を迎えているはずだ。
「私、そんなつもりじゃ」
 女は急に弱気になった。じっと見つめていると、眼球がしっとり濡れているのに気付く。
「ちょっと待てよ。もう止めよう。私は満足したよ。じゅうぶんだ。エチュードは終わり」
 先にギブアップしたのは私のほうだった。会ったばかりの女を泣かせて、一週間を暗く過ごすのなんて真っ平だ。
「エチュード?」
 白を切るのか、と問い詰めそうになるのを堪えて、私は席を立ち、台所でお湯を沸かすことにした。
「コーヒー、飲むだろ?」
 コーヒーミルに豆を入れながら、私は振り返り女に言った。
「エチュードって何のことですか」
 白目を真っ赤に染めた女が、座ったまま私を見ていた。それを見ているのが嫌で、私は無言のまま電気をいれ、豆を砕いた。
「あの」と女は語調を強める。「エチュードって何のことですか」
 コーヒー豆というのは潰しすぎると香りを殺してしまう。それでも私は、女の声を無視したいがために豆を砕き続けた。油蝉を思わせていた耳障りな音が、だんだん小さくなっていく。
「今、持ち合わせがないから、銀行に行こう。そっちで払う。なんだったら振り込んでも良い。安心してくれ。家を知られているんだ。私は嘘をつけない。それに面倒くさいのが嫌いな性質タチでね」
「それってないと思います」女がいきなり怒鳴った。すっかり粉末化したコーヒー豆をフィルターに移していた私は、その声に度肝を抜かれ、思わず粉をこぼしてしまった。
「あなたはきちんと前世で契約書を書いたんでしょう?」
「だから、そんな覚えはないよ。大体、前世、前世って真顔で言うけどさ、そんなもの、本当に信じているのか? 頭おかしいだろ。その契約書だってどうせ、どこかの博物館かから拝借してきたもので、書いてある文字だって違うんだろ」
「もし博物館にあったとしたら国宝級です。借りられるわけがない。それぐらい分かりませんか」
「じゃあ偽造品だな」
「分かりました。もう良いです。私だって詐欺師だと思われるのは心外です。それだったら返済していただかなくても結構です」
 言うなり、女は契約書を真っ二つに引き裂いた。もしどこかの国の国宝だとすれば、怒られるぐらいじゃ済まない。偽造品である可能性を忘れて、勿体無い、と私は思った。
 女は泣いていた。
「所さん。あなた、どこまで本気なんですか」
「もう良いんです。気が触れた人間だと思って、忘れてください」
 女はおもむろに立ち上がった。
「忘れられるわけ、ないでしょう。いきなり非日常に連れて行かれて、それを忘れることなんてできやしない。浦島太郎だって、一気に年をとった後にずっと乙姫のことを忘れられなかったっていう話ですよ」
「それは恋をしていたからです」
「じゃあ、私も君に恋をするから、もうちょっとだけ待ってもらえませんか」そのとき、火にかけていた薬缶から笛の音がした。「ほら、コーヒーを入れますから」
「そうですね」と女は言って、「そうしましょう」ともう一度言い直した。
 再び席に着いた女に、コーヒーを出した。彼女は角砂糖を二つ入れて、スプーンでかき混ぜる。その様子からすると、突発的なヒステリーは収まったように思えた。
「とても美味しいです」と女は言ったけれど、やはり豆を砕きすぎたせいで、味が少し薄い。普段から淹れ方にこだわっている私には合わなかった。
「ありがとうございます」
 ブラックで飲んでも味がしないから、と仕方なくミルクを足す。
「コーヒーを上手に淹れられる人、好きです」
 その目は、ちょっと、うっとりしていた。
 おいおい、ちょっと待て、と私は思った。
 さっきは軽はずみに恋をするから、とは言ったけれど、この女は冗談だと受け取らなかったのかもしれない。それとも、最初からそのつもりがあって、私のところを尋ねてきたというのだろうか。だとしたら厄介だ。世間ではそういう恋のために偏執的になるような人間をストーカーと呼ぶらしい。
「私もそういう人間は好きです」と私はお茶を濁すことに必死になる。エチュードの延長だと自分に言い聞かせながら「コーヒーを上手に淹れられる人間っていうのは、きっと心が大らかななんでしょうね」などという根拠のない仮説を唱えていた。どうしてです、と聞かれたらどうしよう、と思っていると、
「どうしてです」と本当に聞かれて、一瞬パニックに陥った。
「だってほら」何ていうべきだろうか「コーヒーを淹れるのには幾つかの手順があるでしょう。ミルで豆を砕いたりね。もっと凝る人だったら豆を鋳るところから始めるかもしれないし。でも、どのタイミングでも急ぎすぎてもいけないし、のんびりしすぎてもいけない。いつでも心穏やかにコーヒーのことだけを考えてないと、豆は駄目になってしまう」ところで大らかってどういう意味だろう。
「そうですね」
 私自身がでまかせで言っているようなことを、この女は本当に理解しているのかどうか。
「私のは駄目です」
「そうですか?」
「そうですとも、ほら、香りがあまり無いし、味だって薄い」
「私は、雨宮さんの作ったコーヒー、好きですよ」
 名前を呼ばれてはっとした。
 大学で受けた言語学の授業で、人と人の親しさは呼び方で計ることが出来ると聞いたことがある。最初は、君とか、あなたとか呼び合っていたものが、次第に親しくなるにつれて、苗字で呼ぶようになり、あだ名で呼ぶようになり、名前で呼ぶようになる、と。もちろん、そのように綺麗に段階を踏む付き合いなどしたことはないけれど、今回に関しては、苗字を呼ばれることに妙な感覚があった。背筋に冷たい電気が走るような、そんな感覚だ。
「ありがとう」
 先ほどまでは全く感じることの無かった嫌な沈黙ができる。引き止めたときには、「実は冗談でした」という落ちを聞くことができるのではないかといった淡い期待を抱いていたけれど、今は「いえ、本当に生まれ変わりなんですよ」と言ってくれた方がずっとましなように思える。
「ごめんなさい」女が口火を切った。ついにこの不可思議なエチュードに幕を下ろすんだな、と私も唾を飲んだ。「せっかくの日曜日なのに、私みたいな変な女に邪魔されちゃって」
「いや、特に用事もなかったから気にしないで良いよ」また妙な間が出来るのが怖くなってしまって、言わなくて良いようなことまで口走る。「ちょっと面白かったしね」最初のうちだけは、と心の中で呟いた。
「不愉快な思いをさせていないのなら良いのですが」
「気にしないでください。慣れていますから」
 そんな訳はない。女も、ちょっと驚いたようで、凄い眼差しで私を見つめていた。
「いえ、冗談です」
 とコーヒーを啜るけど、これが不味い。この女、演技ではないのだとすると、そうとういかれている。さっさと帰ってもらった方が良さそうだが、どうやって帰すかが問題だ。
「あの」と女が言う。
「はい」私は素っ頓狂な声を出す。
 まるでお見合いのエチュードだ、と私は思う。もし不慣れな人間がエチュードに参加していたのなら、「お庭でも見に行きませんか?」だとか「良いお天気ですね」だとか当たり障りのない、つまらないことを言っただろう。私がもし彼女の立場だったら、いきなり無理難題をぶつけていたかもしれない。「前世での私たちはバラモンとシュードラの関係だったんですけれど、現代は素晴らしい時代ですね。ビバ・人権」ちなみに、ビバというのは、私が舞台俳優をやっていた頃によく使っていたギャグだ。ご察しのとおり、一度だって笑いは取れなかったけれど、私は意地を曲げずに解散するまでずっと間抜けな格好をしながらビバ、ビバと繰り返していた。
「あの契約書、一度、鑑定に出したことがあるんです」
「相当古そうですからね。きっと良い額がついたでしょう」
「ええ。保存状態も良いし、一千万円はするというはなしでした。学者に見てもらえば、もっと価値があがるかもしれないということでしたけれど、内容が内容なので、文字の解読はしてもらっていないのですが」
「でも、あなたには読める、と」
「ええ、だって私はかつてメンフィスに住んでいましたからね。しかも数少ない知識層でしたし」
 あれ、と私は思う。
「ちょっと待ってください。私はかつてアマルナの奴隷だったんですよね」
「ええ」と女は頷いたけれど、その表情には苦いものが浮かんでいた。しまったなぁ、という彼女の声が聞こえたような気もする。
「当時のエジプトで、奴隷に文字が読めるなんて思えません。ましてや契約書を書くなど。識字率なんて一パーセントもなかった、というのは言いすぎかもしれませんが、あまりにも不自然ですよ」
 女はうろたえていた。
 勝った、と思った。妙な達成感だった。
 そのとき、女の携帯電話が鳴った。女は電話に出て、「分かりました」というなり、それを私によこした。
「よう、久しぶり」と電話の向こうで男は言った。
 その瞬間に、私は昔よくやった遊びを思い出した。そうだった、これは試験なのだ。
「島村だろ」
 男は肯定した。
 島村は、私の学生時代の劇団仲間だった。私は大学卒業と一緒に、劇団を去ったけれど、島村は、脚本家としてまだ劇団を続けているという。その島村の提案で昔、試験という遊びをやったことがあった。簡単に説明すると、新人を知り合いのところへ遊びに行かせてエチュードをさせるのだ。言ってしまえば電話を使わない成りすまし詐欺と同じだった。訴えられなかったのが不思議なぐらいだ。
「ひっかけたな」と私は無愛想に言った。
「すまない、すまない」と島村は謝ったけれど、とても謝っている口調ではない。「久しぶりだな。元気だったか?」
「どうせ盗聴器で全部聞いてたんだろ?」
「まぁな」悪びれもしないで島村は言った。「その子は、うちの看板女優なんだ。なかなか面白かっただろ。お前のぶっこみにも対応できてたしなぁ」
「最後だけ、脇が甘かったけどな」
 目の前の女は、ちょっと恥じらしそうに肩をすぼめていた。評価を請う生徒のようなたたずまいだ。今の精神状態だったら、迷わずFをつけるところだが、もう一度、彼女の試験に付き合うのは堪らない。せっかくの日曜日を二度も不意にすることを考えれば、Cをつけて追っ払いたい。
「で、ここからもう一つお前に問題をひっかけることになるんだが、心の準備は良いか?」
「勘弁してくれ」私は情けない声で言った。
「いや、勘弁しねぇ」相変わらずの下品な笑い方をする。「もう一度、劇団に戻ってくるつもりはないか?」
「三点」と私は言った。島田は何だって、と変な声を出した。「三点だ。エチュードは、相手との掛け合いで作りこむものだろ。シュールな展開の途中で、現実的なことを言うんじゃない。三点だ。百点満点中の三点」
「言ってくれるじゃないか。でも、ずっと聞いてたけど、お前はまだ勘を失っていないんだな。嬉しかったよ」
「二点」と私は言った。「キャラの作りこみが甘いから、急に性格が変わってしまうんだ。脚本家としての基礎もできていないじゃないか。今の台詞は、十年ぶりに再会した学友同士が居酒屋で交わす会話だよ」
「手厳しい。なぁ批評は良いからさ。ちょっと話を聞いてくれよ」
 と下手に出ようとする島田を制するように、私は「ごめんな。ちょっと今客が来ているんだ」と言い、通話を切り、ついでに電話の電源を落とした。
「ごめんなさい」と女は、子供のように謝った。それこそ、下をペロっと出す、不二家のペコちゃんのように。
「どうしてくれるんだ」と私は怒鳴った。女の表情は急激に曇っていった。もう苛め抜いてやるつもりで、私は言いたてる。
「せっかくの日曜日なんだよ。せっかく時間を割いてやったのに、こんな下らない寸劇に巻き込まれてしまったせいで、もう午後も良い時間じゃないか」
 言葉の一つ一つが彼女のハートに突き刺さっていくのが気持ちよかった。でも、いざ彼女が泣き出してしまいそうになると、駄目なのだ。やっぱり女の涙っていうのは、とてつもない力を孕んでいる。
「本当に恋をしちゃったじゃないか」
 冗談で言ったつもりが、語調に緩急がついたせいで、本気で告白をしたような妙な空気だ。所順子はゆっくりと顔を上げた。恋する乙女の表情だ、と私は思った。














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