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アイデンティティ
作:上月






 頬に冷たいものが触れた気がして、何となく空を見上げてみると、ぱらぱらと小さな雪が降っていた。通り掛かったショーウィンドウの前に立って、ガラスに反映するわたしをじっと見つめてみた。日に日に近付いてくるクリスマスに向けて、流行の洒落た服を着て、お気に入りのアクセサリーを付け、いつもより念入りに髪を巻き、気合充分だと言わんばかりの化粧をしたわたしがそっとわたしを見つめ返す。黒く縁取った目が、情けなく垂れ下がっているように見えた。今日も収穫はなしか。わたしは重苦しいため息をつくと、ガラス越しに大勢の人々の行き交い歩く姿を見つめた。
わたしはどうしてこうも成長しないんだろうか。毎年毎年、クリスマスが近付くたびに気合を入れては尽く玉砕してきたというのにも関わらず、今年もまたこうして敗戦のための準備をしている。そもそもわたしはキリシタン大名でも教会に毎日通ってる熱心なキリスト教徒でもないわけだし、たかがイエス・キリストの誕生日ごときであくせくしたって、わたしにとっては何の意義もなさないのだ。そして、それを頭の中でしっかりと理解しているというのにも関わず、いつまで経ってもこの深く大きなクリスマスという穴から抜け出せない自分がとてつもなく腹立たしい。
あまりの自分の情けなさに、今にも泣き出したい衝動をなんとか抑えながら、わたしはショーウィンドウに映る自分自身にとびっきりの嫌悪の眼差しを向けると、雪の降る中、人ごみを掻き分けるようにしながらゆっくりと歩き出した。

 家に帰ると、コートに積もった雪を払いながら、リビングに向かった。深閑とした家の中は外とは正反対にあたたかく、わたしはほっと息をつくと、革張りの白のローソファにどさり、と勢いよく腰掛けた。部屋の中は、とにかく殺風景だった。必要最低限の家具しか置いてない上、女の子らしい小物はどこにも見当たらない。いらないものを買っても資源の無駄遣いだ、という昔からの母の口癖のせいだろうか、わたしは多分母の言葉に洗脳され切っているような気がする。背凭れに深く凭れ掛かると、溜まっていた疲れがどっと溢れてきて、睡魔がわたしに襲い掛かってくるのを感じた。瞼が重くなってきて、目の前にあるテーブルやテレビが、ふにゃふにゃと形を崩していく。そうしてあたたかい空間の中でうとうととまどろんでいたのも束の間、不意に眠気を吹き飛ばすような機械音がして、わたしははっと肩を跳ねさせた。目を擦りながらコートのポケットに手を滑り込ませて携帯電話を取り出すと、案の定、会社の上司からメールが届いていた。携帯電話を開いてメールを見る。明るく光る画面には、「仕事」という淡白で簡潔な文字が写し出されていた。そのメールにわずかな憤りを感じたわたしは、暫くの間、休みが終わったら何か密かな嫌がらせをしてやるべきか否かで思案に暮れた。ふとベランダに繋がるガラス戸に目をやると、外はまだ雪が降っていた。しかも、先ほどよりも激しく降っている。このまま雪が降り続ければ、明日の朝には久々に、この東京という馬鹿げた夢のない場所にも雪が積もるのだろうか。
 わたしは立ち上がり、冷蔵庫から牛乳の入ったパックを取り出すと、牛乳をコップに注がずにそのまま勢いよくラッパ飲みをした。ごくごく、と喉が鳴って、白い液体が体の中を流れていくのがわかる。何かを口から体内に入れる瞬間、わたしは幼い頃から決まってその行為そのものに嫌悪を抱くようになっていた。どうしてか理由はわからないが、とにかく口に何かを含むという音がたまらなく酷い雑音に聞こえて仕方がなかった。しかし、元来人間の一番強い本能的欲求は食べることであり、そして一応人間であるわたしも、どんなに食べるという行為を否定しても、その欲求に抗う術は持っていないのだ。わたしは牛乳パックを冷蔵庫に押し戻し、乱暴に扉を閉めると、再びソファに腰掛けてようやく未だにコートを着ているのに気がつき、慌ててコートを脱いだ。それから、鞄の中に入っていたノートパソコンを取り出すと、上司からのメール内容を頭の中に浮かべつつ、パソコンを開いて起動スウィッチを押す。ちらちらとベランダに目を向けてみたが、外は相変わらず雪が降っていて、気分転換に外に出るのはやめたほうが良さそうだと即座に悟った。立ち上がったパソコンの画面を眺めつつ、カタカタとキーボードを打つ。こうしていると、自分がとてつもなくバカらしい生き物になったような気がしてたまらなくなる。機械的に動き、今やわたしよりも優れた能力を持つパソコンと共に仕事をし、そして夕食を食べて風呂に入り、寝る。客観的に見れば、わたしはとてつもなくつまらない人間なんだろう。外国人から見れば、わたしは周りの人間と同じような容姿を持った人間に見えるのだろう。何がアイデンティティだ!糞くらえ!わたしは感嘆の息を吐くと、上司に催促された書類にタイプミスがないか念入りに調べたあと、パソコンを閉じて寝室に行こうとした。しかし、それを妨げるかのようにタイミング良く電話が鳴った。一瞬、居留守を使ってやろうかと思ったが、もしかしたら大事な電話かもしれないと思い、渋る体を無理やり方向転換させ、リビングに戻ると受話器を取った。
「もしもし」
「あ、なつ?」
「そうだけど、誰?」わたしはそっけなく返事した。ここまで親しげにわたしの愛称を言う人なのだ、正体はわからなくともきっとわたしの友人であるに違いない。
「やだなあ、春香はるかだよ。日比谷春香ひびやはるか
「ああ、春香か。ごめんごめん、久々に声聞いたから忘れちゃってた」
 正直に言うと、春香のことはあまりよく思い出せなかった。高校時代に同じグループにいたことは覚えているのだが、これといって濃い思い出などなかったような気がするし、高校を卒業した後に連絡を取るほど特別仲が良かったわけでもないはずだ。
「ひどいなあ、もう」電話越しに、クスクスと笑う春香の声が聞こえた。
「それで、急にどうしたの」
「あ、そうそう。あのね、同窓会の誘いもう来た?」
「来てないよ。するの?同窓会」
「うん、予定ではね。それで、一月の半ば、予定空いてる?」
「わからないなあ」
「仕事?」
「うん、一応ね」
「そっかあ。まあまたわかったら連絡してよ」
「うん、わかった」
「それでさあ、夏はどうなの、最近」
「どうって?」わたしは生返事をした。
「恋愛とか、仕事とか、色々よ」
「仕事はそこそこかな。あ、でも恋愛は……」
「まさか、お金持ちと付き合ってるとか?」
 春香は弾んだ声で言った。そう言えば、春香はグループの中でも一番色恋沙汰に首を突っ込むのが好きで、何かとお節介なことを色んな人に言っていたのを思い出した。
「ああ、うん、まあね。お金持ちっていっても、本当にちょっとだけどね」
「へええ!羨ましい。いいなあ、わたしもそういう人と出会いたい」
 予想外の春香の反応に、わたしは一瞬だけ優越感に浸れた。まさか、虚言を吐くことがこんなに素晴らしいことだとは思ってもみなかった。そしてまたわたしは口を開く。
「そう?今度紹介してあげようか?」
「うんうん、紹介して」
「それならまた、電話するよ」
「わかった。電話待ってるね」
「はいはーい。じゃあ切るよ」
 電話を切った後、わたしは突然の恍惚感に襲われた。わたしという理想像がなめらかに、行き詰ることなく組み立てられていくのを感じ、友人に嘘をついたというのにも関わらず、妙な達成感が心の中で暴れているのがわかった。
 外はもう真っ暗闇だった。ガラス越しに外を眺めてみたが、雪は更に勢いを増して降り続け、ベランダの手すりにはもう既に白い雪が積もっていた。この調子だと、明後日はホワイト・クリスマスになるかもしれない。わたしはガラス戸から離れて、最近買った自慢の24インチの液晶テレビの電源を入れた。ソファに座りなおし、リモコンでチャンネルを次々と変えたが、どこもかしこもクリスマス特集ばかりで、わたしが興味をそそるような番組は一つもなかった。渋々テレビの電源を消すと、わたしは本来の目的をようやく思い出した。そうだ、寝よう。わたしには睡眠をとるという大事な用事があったのだ。わたしは立ち上がり、寝室へと向かった。
 化粧を落とした後、楽な服装に着替えると、わたしは寄り道することなく真っ先にベッドに入った。布団の中に潜り込むと、わたしは即座に目を瞑った。
 こうすることでやっと、わたしは人間らしさを取り戻す。地上で活動している間のわたしは、そこらへんの飼い慣らされた犬や、芸を叩き込まれたサルでしかない。仕事はわたしにとっては芸だ。何度同じことをしても、何も学べないのは、それがいけないことだと教えてくれる調教師がいないからだ。わたしは一度目を開けて、もぞもぞと布団から顔を出すと、真白な天井を見つめた。電気をつけていないせいか、部屋一面色がない。それぞれ濃さの違う白黒の棚や壁が、わたしを寝かしつけるように押し黙って、じっとしていた。わたしは再び目を瞑った。瞼の裏で、様々な光景が繰り広げられる。キャリアを積んで、仕事も上々なわたしは、美形で金持ちの男と交際し、周囲から憧れられる存在になっていた。求め続けた自分が、今そこにあった。
 
 朝、目を覚ました瞬間に、わたしは大きな虚脱感に襲われた。嫌な夢と言えば、嫌な夢だったのかもしれない。カーテンの透き間から零れる日の光を見つめながら、わたしは首を捻った。布団をめくって体を起こすと、暫く一点を見つめて目と頭が冴えてくるのを待った。それからゆっくりと立ち上がってリビングに向かうと、台所の棚を端から端まで漁り、先日購入したばかりの高級ブランデーと安物のロールケーキを引っ張り出した。それをテーブルまで持っていくと、ブランデーをグラスに注ぎ、ちびちびと舌で味を確かめるように舐めた。そうして何度か同じことを繰り返し、ようやくブランデーの味に舌が慣れてくると、グラスの中のブランデーを一気に飲み干した。麗かな朝だった。ベランダのガラス戸から眩しい日の光が差し込み、ゆったりとした曲調のクラシック音楽を流してこの一時を過ごしても悪くないだろうと思った。紺碧の色をしたブランデーをグラスに注ぐたびに、昨日吐いた虚言が重くのしかかってくる。極力音を立てないようにブランデーを飲みながら、ロールケーキに手をつけるかつけないかで大分悩んだ。そして結局、ロールケーキは捨てることにして、とりあえずブランデーを一本丸ごと飲み干すことにした。
 ブランデーを飲み終えたあと、気分転換にベランダに出てみると、昨日降った雪が積もっていることにようやく気がついた。すっかり忘れていた。手すりを持って身を乗り出してみると、外は一面真白な雪に覆われていた。こういうドッキリのサプライズに敏感な子ども達は、まだ朝の九時過ぎだというのにも関わらず、マンションに特設してある大きな公園で楽しそうに雪合戦をしていた。わたしも手すりに積もっていた雪を手でかき集めると、大きさの違う二つの雪玉を作って、それを上下に重ねた。目や鼻、手こそはないものの、我ながら立派な雪だるまを作ったものだと自画自賛する。出来たばかりの雪だるまを手に持つと、とりあえずリビングに戻って冷蔵庫に雪だるまを入れておいた。
 ピピピ、と小さく音が鳴ったかと思うと、携帯電話がぶるぶると振動していた。冷え切った手を自分の吐く息で温めながら携帯電話を手に取り、電話に出た。
「もしもし」
「あ、春日かすがさん?」
「なあんだ、坪内つぼうち先輩ですか」
「なんだってひどいなあ」電話越しに、あの忌々しい上司が苦笑する姿が目に浮かんだ。
「昨日催促してきた書類ならもうばっちりですから。切っていいですか?」
「ちょっと待ってよ。あのさ、明日空いてる?」
「明日ってクリスマスですよ?そんな日に仕事で会いたくないですよお」
「だから仕事じゃないんだって」
「はあ?」
「いや、デートに誘おうと思ったんだけど」
「え、や、全然いいですよ、もちろん!」わたしはさっと声色を変えると、しどろもどろに言った。
「なら良かった。それじゃあ、後でまた連絡するね」
「わかりました。待ってますね」そう言って、わたしは電話を切った。
 今にも叫びだしたいという衝動に駆られながら、わたしは心の中でよっしゃ!とガッツポーズをした。久しぶりに、世界がキラキラと輝いて見えるような気がする。安物のロールケーキさえ、今なら丸呑みできそうだ。さっき作った雪だるまよりももっと大きな、ギネスブックに載るような巨大雪だるまだって作ることができそうだ。わたしはキリシタン大名であり、毎日教会に通う熱心なキリスト教徒だ。今のわたしはサルでも犬でもない、アイデンティティを持った素晴らしい人間なのだ!
 ステップを踏みながら冷蔵庫から牛乳を取り出すと、勢いよくラッパ飲みした。今は喉を通る白い液体の音も気にならない。雪だるまは溶けていた。昨日の虚言などもう忘れた。ガラス戸から差し込む朝日が眩しい。東京という地が妙にあたたかい。


                                おわり.


疲れた!とにかく疲れた!
なんていうか、書いてて楽しかった。
春香と上司のスタンスが自分でもイマイチわかりません。
もうちょっと上手に動かしたかったけど、文章力が足りなくて断念。
主人公が持っている「東京」をもうちょっと書き表したかったなあ。
この作品を通して伝えたかったことなんてないです。
何かを伝えるのって難しすぎますね。













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