第五話 オレンジブロッサム 香る花とたわわの果実
西日に照らされ、じんわりと汗が滲み、彼の着けている柑橘系のコロンの香りが否が応でも部屋を満たして行く。
蕩ける愛撫に彼女の思考回路はなかば薄れていた。
何度も繰り返される口づけに、躯も心もバターの様に溶けている。
それでも橙貴の方は冷静だった。不意に躯を離したかと思うと、ごそごそとジーンズのポケットを探り定期入れを取り出す。
でもお目当てのものが見つからない。
「お前、最後の生理、いつ?」
躊躇いがちなその声に、藍は冷や水を浴びせられた様に現実に引き戻された。
ふざけやがって。
「その覚悟も無しかよ。」
吐き捨てる様に、憎む様に、彼女の口元が歪んだ。
何だか、手慣れてるね、冷静だね。今までの女と同じ扱いねって。
自分はこんなにも彼に夢中で、慎の事を傷つける覚悟も出来て。信頼も、恥も外聞も友情もかなぐり捨てて、彼にしがみついているって言うのに!
彼が自分を大事にしてくれようとしている、それは理屈では解っている。でも、今の二人の間に有るものは理屈でも道理でも、ましてや分別でもない、そんな気がしたから。
「だったら」
そんな彼女の蔑む様な口調に少しの動揺も見せず、むしろ嬉しそうに男が笑った。
「お前こそ、覚悟しろよ。」
比較的あっさりと、と言うか、心の準備50パーセントの所に、躊躇わず杭を打ち込むかの様に彼が一気に藍の中に分け入った。
叫ぶより、歯を食いしばり、藍は堪えなければいけなかった。
何が起こったのか一瞬分からず動揺し、涙目になる藍を見下ろしながら、橙貴は満ち足りた様に微笑んだ。
「お前、酒屋の女房になるんだぞ。」
そのままぎゅっと抱きしめるものだから、二人の結合がより深くなる。
その瞬間、橙貴の心は晴れ渡り、なんだ、自分の望みはこれだったんだ、と、言った本人が後から気づいた。
やっぱり、藍じゃなければ駄目だったんだ、と。
滅茶苦茶痛いのに、彼女の心はふわふわ宙に浮き、アリスのウサギが駆けって行くのでも見たかの様に目をまんまるに見開いていた。
今のって、もしかして・・・・・?
橙貴の掠れた声が
「愛してる。」
と耳元で震えた。
「放してくれって言っても、一生縛り付けておいてやる。」
藍の返事なんかおかまい無し。橙貴は我が道を行く。嬉しそうに、楽しそうに。彼女がNO なんて言わない事を確信して。
「橙貴の、馬鹿。」
彼の背中に回った腕に力がこもる。
「馬鹿、馬鹿橙貴!」
藍はぎゅっと目を閉じて、彼の中に身を投じた。
日だまりの様な柔らかな香りを胸一杯に吸い込む。
それは初めて橙貴に会った日の事を藍に思い出させてくれた。
『うわっ、良い香り。』
道着を着たままアップに道場を走らせられながら、斜め前を走る橙貴の後ろ姿に不謹慎にも彼女は呟いていた。
彼はその声を聞き逃さず、ほんの少し振り向いてにやりと笑った。
『だろ?情熱のグラナダの香りってとこかな。』
それはオレンジの真っ白な花の香り。
花と実が同時に枝につく不思議な木、オレンジ。“卵が先か、鶏が先か”なんてどうでも良い論議なんか無縁で、理屈じゃなくて心癒してくれる。その気持ちは、いつまでも藍の心の中に残っていた。
橙貴の“橙”は蜜柑だなんて考えながら。
くうくうと小さな寝息を立てている藍の髪を撫でながら、橙貴はおもむろに携帯を取り出した。
闇の中に光るディスプレイ。それを見つめながらしばらく躊躇い、それでも彼はなんとか肝心のアドレスをコールした。
一瞬メールで済まそうか、などといい加減な気持ちがよぎらなかった訳じゃない。
でも流石にそれをしたら相手に屁タレだと舐められてしまい、藍を取り返しに来る事も予想がつく。だから、直接言う。
「あ、慎か?俺、橙貴先輩。」
相手の戸惑いが受話器越しに伝わる。何しろ、と言うか、きっと多分今の時間は彼が藍と待ち合わせていた時間のはずだから。
「悪いけどさ、藍、今日そっちに行けないから。」
微かに慎の息を呑む声。
悪い、そう思いつつ、鉄槌。
「俺もさ、やっと決心ついて藍にプロポーズしたんだよ。だからさ、まだ藍も混乱していてさ。悪いけどこいつの事、しばらくそっとしておいてもらえないか?」
『・・・・一体何の話しですか?』
その話しの展開に慎はついて行けない。何しろ今夜は彼女と初めて二人で過ごす特別な夜のはずだったのだ。
「だからさ。」
ここで橙貴は語気を強めた。
「藍をお前にくれてやる訳には行かなくなったの。っていうか、誰にも藍を渡すつもり無いから。これ、宣戦布告。今まで曖昧にしていたけど、俺やっぱ藍の事愛してるから。慎、お前、勝ち目無いから手ぇ引け。」
慎にしてみれば手を引けと言われて、はいそうですか、と尻尾を巻くほど自分が柔だとは思っていない。でも、彼女の心が揺れている事ぐらい知っているし、限りなく不透明だったこの男が、本当は彼女の事を至上に大切にしていた事も知っている。それはとても歯がゆくて、もし藍先輩が辛いだけならば自分が彼女を幸せにしてあげたい、そう望んだのだ。そしてそれは上手くいきかけていた。まさかこの土壇場になって女々しくも名乗りを挙げて来るとは思ってもいなかった。
だからこそ、結婚の文字をちらつかせ、背水の陣で戦おうとしているこの先輩には敵わないんだと思う。
恥も外聞も無いのだから。
なかば諦めの気持ちで慎は沈黙した。その静けさに、橙貴は自分のした事がもたらした結果に満足しながらも、慎と言う男について何も考えていなかった事に気づいた。
「・・・・済まん。」
そう心から言えた。
藍が自分を好きだった事を彼は知っていたに違いない。そして自分も彼女が好きなのに、動けずにいた。その白とも黒ともつかない淀みから彼女を救い出したかったに違いないのだ。
「幸せにするから、さ。藍の事。こいつがこの先不安なんか感じる事が無い様、俺なりに精一杯、尽くすよ。」
それが彼なりの精一杯の謝罪だった。
『誓えよな。必ず。』
その声は低く静かだった。
藍が目を覚ましたのは午前2時。
慎との約束を思い出し、泣き出しそうな藍を彼はなだめる。
小さい子供の様に
「どうしよう。」
と呟く彼女が愛しく、彼は彼なりに弁解の言葉を、その実嬉しそうに繰り出す。
「曖昧だった俺が悪いんだ。大丈夫。ここに来る前にあいつには俺の気持ち伝えてある。」
この際嘘さえ厭わない。
「あいつには諦めてくれって言ってあるから。大丈夫。あいつだって大人だから、自分じゃどうしようもない事くらい、分かってくれてたよ。」
“大丈夫な訳、無いじゃん。”
って感じの見上げる藍の瞳を彼は優しく覗き込む。
「その代わり、藍の事必ず幸せにしろって、誓わされた。」
あの恐怖さえ呼び起こしそなほどの彼の声色を思い出し、橙貴は苦く笑った。
それから何度も愛し合った。
見つめ合い、キスを交わし、肌擦り合わせ、一つになり、揺れて。
それだけで、出会ってからの4年間が一気に埋め合わされて行く。
彼の指が藍の髪を梳く度に、指先が愛しいと語りかける。
逸らさない澄んだ瞳が、疑わないで欲しいと訴える。
柔らかに押し付けられる唇が、大事にしたいと話しかける。
だから藍もそれに応え、彼にしがみつく。橙貴が全て、と。
気がつくと暖かい日差しの中にいた。何故か照れ笑いをする二人。
「俺んち、じじばば付きだから、子供は何人産んでも平気だぞ。喜んで面倒みてくれるはずから。」
彼女は下半身に感じる鈍い疼きを感じながら、頬を染めた。
「馬鹿っ。」
安全日だけど、出来たらいいな、そんな風に思う。仕事なら何とかなる。
橙貴が一緒だったら大丈夫。
ラビアンローズ、とはいかないけれど、思っていたよりも未来は明るい、そんな気がした。
それは例えるなら、光の輪。無色の色を持つ不思議な未来。
おれいろからー おしまい
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