第三話 ディープブルー 悩める深海魚
藍の様子が変わったって事は、夏休みに入ってから人づてに聞いていた橙貴だった。
流石に大学も4年になるとみんな部への足が遠のく物だが、彼は家業の酒屋を継ぐ事になっていて、就職活動も無く至って気楽なものだった。
それまでの彼女は合気道部の女子の主将として、それらしく、女っ気の無いヤツだった。女性で言えばLサイズの肩幅の広いそのスタイルは、そのまんま着ている服を男性サイズのMサイズの様に見せ、色落ちしたストレートジーンズと程よくこなれたシャツジャケットが必要以上に似合っていた。
おしゃれとはほど遠く、大きな口を開けて腹を抱えて笑い、バイトの給料日前には学食で大盛りカレーを美味そうに食んでいた。
悩み事も無く、人の目を気にしない、元気だけが取り柄の子供の様な女。
そんな藍を彼は真っ白いキャンパスの様だといつも思っていた。純粋で、清らかで、無知。大量にプリントアウトされたポスター絵の様な、人の目を引く事は引くが、ありきたりで月並みで、いずれ時間が経てば忘れ去られてしまう自分とは正反対の存在。
それを思い悩む度に、彼の気持ちは落ち込んで行く。
「やっぱ、女って服で雰囲気変わるんですねぇ。」
部員の誰かが噂していた。それは“女の服を着た”藍先輩らしき人物が図書館通いをしている話し。
彼女は毎年冷房のある学内の図書館で夏を乗り切っていた。
「ここ、流石に寒いわ。」
とTシャツの上にチェックの長袖シャツを着て、部活以外はそこにいた3階の一番窓側の席。
彼女は何かに集中すると出る癖が有った。だから時々見かける藍は、左親指のマニキュアなんてした事の無い指先を口元に持って行き、そっと舐めながら真剣に本を見つめていた。それからふんわりと唇を半開きにして、ほおづえで首を傾げる。
ちらりと覘く尖った紅い舌の先。全身男みたいなはずなのに、そこだけが女で、その情景に囚われそうになる自分が厭だった。こいつを女だと思って見ちゃいけない、そう自分に言い聞かせながら、目が離せなくなりそうな自分を、何と言うか、浅ましいと思った。
初めて女を抱いたのは中2の夏。年上のサーファー仲間の自称彼女。好きだ、という事ではなく、誘われて、それに興味本位だった。高2のその女はあの当時の彼にとってはひどく大人で、手慣れていて、その頃子供だった自分を“本当の男”の仲間入りをさせてくれる通過点だと思った。
セックスをするという事の快楽と、女の上に乗ると言う物理的征服欲と、その女をイカせられるという満足感。それから先輩や他の男達に対する優越感。
阿呆な言い方だが“俺はもう大人だ!”という気分になった。
だから他の男達が羨む様な女を捕まえては関係を持つ事を覚えた。見てくれ本意の、都合のいい女と自分とは、それぞれにニーズが合っていたから。それをする事によって、見栄えだけは良いかも知れないけれど、本当は何の取り柄も無い自分が“男”として形を保ち続けられる、そんな気がしたから。
そのくせ“たらし”なだけじゃ物足りなくて、中途半端な優等生を演じている事も事実。将来の夢も無いくせにいっぱしの進学校に入学し、大学にも入れた。いかにも健全らしく、合気道も続けた。
でも何かが足りない事に気づくのは必須で、それを教えてくれたのが藍だった、彼はそう思う。
何の気無しに、偽善的に行っているはずの彼の行為の一つ一つを、彼女は丁寧に拾い上げ、大切にしてくれる。
汚れている自分とはまるで対照的な存在。彼女は橙貴のその部分を知った上で、あの曇りの無い目で彼を見る。それは
“大丈夫だよ。”
というテレパシーの様に彼に話しかけ、その思考をかき乱す。
“橙貴は、橙貴だから。自分のアイディンティティを他人に頼らなくても大丈夫。私はそのままの橙貴が、好きだ。”
彼女の事を考えると苦しくて、眠れない夜を過ごす事になる。白む空に寝不足のイライラを抱え、“恋の歓び”なんてクソ食らえと思う。
その手を取りたい。でも、藍を汚す事はしたくなかった。彼女の真っ白いキャンバスに泥を塗るなんて、出来ない。のびのあるしなやかで鮮やかな油彩が彼女にはふさわしい。少しづつ自分の“価値”ってやつを信じられる様になって来た今、二人の間にある微妙なバランスに揺れている彼女を知りながらあえて気づかない振りをした。
藍は藍だから、彼女に似合う男と付き合うべきなんだ。俺じゃ安すぎる、と。社会人になり、大人の男に囲まれ、少しは化粧もする様になれば、彼女とて変わるし、その良さをまるのまんま受け止められる男に巡り会えるだろう。
そのくせ、噂通りの彼女を見て、騙された様な気分を味わった。入学した頃から使っている古びたモスグリーンのバックパック。机の脇からはみ出したそれにつまずいた学生と、謝る彼女。すっくと立ち上がり、腰をひねりながらバックを足下に押し込む仕草に怒りを感じた。お尻のトップだけ色の落ちたデニムのロングスカートは膝の裏のくぼみの上までスリットが入っている。シースルーのカーデガンは体に張り付き、否が応でも藍を女に見せていた。それは他の女性達に比べ控えめであったとしても、誰が見ても大人の女のシルエットだった。
彼女を変えたのは、自分じゃない。
静かな図書館で彼女の後ろ姿を盗み見、息を止め、その鼓動が周りのみんなにばれている、そんな気がして彼はうつむいた。
とどめを刺したのは、部室手前から漏れて来た男達の会話。
「しっかし、良くやったなぁ。まさか藍先輩落とすなんて、よっ、この色男!」
「いっやぁ、俺は正面から言っただけだから、さ。」
「またまたぁ。」
「僕なんか、橙貴先輩の視線が恐くって、近づけもしなかったって言うのにね。」
「やっぱ、そうだよなぁ。って、え?橋本も藍先輩狙いだった?」
「えっ、って事は、三橋君もですか?」
それから複数の笑い声。
「藍先輩ってさ、見た目とか気性が男っぽいじゃん?そのくせどこかめちゃめちゃ女感じさせる瞬間が有ってさぁ。」
「そうそう、解かります、それ。」
「開けた袷を直す仕草とかさ、ドリンク飲んだ、最後のこう、なんて言うか、口元と言うか、舌の動きっていうか、だろ?」
「まったく、いやらしくないですか、その言い方。」
「男なんて、そんなもんだろ。それよりさ、そんな藍先輩だからこそ俺の腕の中で、こう、きゅうっと、女にしたいなって思っちゃっていた訳、なんだけどな。」
「これこれ、三橋君、慎の前ですよ。お手柔らかに。それにしても、最近の藍先輩、見ました?」
「見た見た。さなぎから蝶?マジで色っぽくなってんの。」
「慎ってさ“由衣先輩を、俺色に染めてみせる!!”って感じなの?」
誰かが口笛を吹き、微かな声で、
「まあね。」
って言う、後輩の声が橙貴の耳に届いた。
この男が最初から藍狙いだってことぐらい橙貴は知っていた。彼の熱っぽい視線の先にはいつも彼女がいたから。鈍い藍はとことん気づかない様で、誠実なこいつにならば彼女を任せられると思いつつも、その思いが伝わらない事にほくそ笑む橙貴もいた。
だから、そんな自分が厭で、やっぱりなって思う。
そのくせ再び思う事。“俺の色に染まった藍はどんなだろう。”
想いはメビウスの輪。
アレから1ヶ月が過ぎた・・・・・。
きっかけはシャワールーム。部の練習の後、汗臭い男達がたむろしていたそのベンチに転がっていた“ウルトラマリン”の真新しい石けんの空箱。
月並みだけど、慎がいつも付けているのがこの香り。だから否が応でも察しがつく。
綺麗に汗を落とし、肌に馴染む香りを身につける穏やかな土曜日の午後。
橙貴はタオルで髪を擦る慎にそっと近づいた。
「今晩、バイト有ったよな?あがってから麻雀しないか?メンツ集めてんだけど。」
彼は一瞬戸惑った表情の後、さっと顔を赤らめうつむくと
「スンマセン、今日は外せない約束が有るんです。」
と肩をすくめながら頭を下げた。
今藍と接触したら絶対に事故が起こると確信は有った。だから避けよう。そう思いながら、ばったり彼女と有ったらなんて声を掛ければ良いのだろうと、阿呆みたいに考えた。
“おめでとさん。”
“慎といい感じなんだって?”
“あいつのどこが良かった?”
“所で、本当に慎の事好きなのか?”
“嘘、ついていないか?”
“それって不誠実ってヤツだぜ。”
“イマデモ俺ノコト、好キナンダロ?”
彼は彼なりに理解していた。彼女は橙貴を切り捨てようとしている。
そんな彼女の想いが彼を落ち込ませる。
彼は自分を深海魚にシンクロさせようとした。暗くて深い海底の底を泳ぎ、静かに、ただ生きる事だけを目的に、思慮深く。地上の光なんかいらない、と。
祝福を。心からの祝福を、と思い至ったその時、
「遠野橙貴君。」
いきなり背後から声をかけられた。
「そんなに驚かなくても良いのではないか?」
それは野口朝子という、藍の親友だった。彼女は橙貴の顔をじっと見つめると、わざとらしいほどのため息をついた。
この女は人の内側を見透かすようで橙貴は苦手だった。現に今も、何を考えているのか読まれている、そんな気がした。
「済まないな。」
全然済まなさそうにそう言うと、小さな包みを彼に渡し
「よろしくな。」
といきなりきびすを返した。
「お、おい。何だよ、これ。」
まったく、彼女ほど正体不明の女はいない。野口は“主語の抜ける”女だった。
呼び止められ、振り向いた彼女はまたしてもため息をついた。
「だから、さ。」
彼女の片方の眉が吊り上がる。切れ長の日本人形の様な瞳がきらりと光った。
つまり、橙貴と野口を繋ぐのは、藍、という事だった。
「大事な物だから、届けてやってくれ。違えずに。今すぐに、今晩の前に。」
今度こそ、彼女は去って行った。
だから藍の部屋に来た。ほとんど人とは思えない様なそんな野口に導かれ。ここに来た。うち沈んだ心を抱えながら。
おれいろからー つづく
|