第二話 マーブル 冷たい大理石文様入り交じる
それからさほど時間も経っていないというのに、ドアのチャイムが鳴った。
「早っ。」
彼女は誰が来たか確認もせず、無造作にロックを外した。
「開いたよ。」
それから冷凍庫を開け、白い霜のついたグラスを取り出した。
多分朝子は愛用の自転車でぶっ飛ばして来たに違いない。
最初、西日に照らされてそれが誰か分からなかった。ただ背中越しに感じるその影が女じゃない事は確かで、
“ヤバぃ”
そう思った。でもそれが誰だか分かった瞬間、また別の緊張が藍に走った。
「何だ、橙貴かよ。」
彼女は持っていたグラスをカウンターに置いた。
「どうしたんだよ、急に。」
すると表情の読めない男が唸る様に言った。
「俺で悪かったな。野口に頼まれたんだよ、お前、忘れ物しているって。」
彼は無造作に茶色い紙袋を彼女に手渡し、それから、トレードマークの日焼けで色の抜けてしまった前髪を鬱陶しそうにかき上げた。合気道部副主将の趣味はサーフィンだったから。
下手な男がやると嫌みになるその仕草も、彼には自然で馴染んでいた。
その仕草に藍は突然の乾きを覚え、思わず唇を舌先で湿らせていた。
「おい。」
いつになく不機嫌そうなその声に威圧され、彼女の体が一瞬跳ね上がった、気がした。今の藍には紙袋の中身を確認するほどの余裕が無い。
「せっかく来てやったんだ、コーヒーぐらい出せよ。」
彼はコーヒーサーバーを物欲しげに睨みつけると、有無を言わさずドアを閉めた。
「あ、ああ・・・・。」
彼の靴の先が真っ赤なミュールを蹴飛ばすのを横目で見ながら彼女は頷いた。
注いだ瞬間からグラスの中で氷が溶ける。じりじりと焦げるような音の後、張りつめた高音が響く。
あれほど澄んでいたはずの液体なのに、底に沈んでいたキャラメルが混じりだしたとたん、それは濁りだし、濃度の違う微妙なマーブル文様を作ると、全体をクレイのような色に染め落ち着いた。
彼はグラスを受け取ると当たり前のように奥へと進んだ。
もともと気心知った仲だし、大学から歩いて15分のこの家は、終電に乗り遅れた仲間達のある種シェルターだった。
勝手知ったる何とやら。
そこで藍は思い出した。ベッドの上には、この前買った白のミニスカに、チューブトップに、プッチ風(と偉そうに言うけれど、プッチが何かは知らない)のキャミソール。へそ出しちびTに、デニムのスリットスカート。無理めな服のオンパレード。その上ブラも脱ぎっぱなし。
「っ、やべっ。」
慌ててきびすを返し、かき集める。最後に振り返り、ブラを拾い上げた時、見下ろす彼の視線と視線が合った。
橙貴は彼女を見つめながら、ごくりごくりと音を立てながらグラスを空にする。最後に氷を噛み砕く音が、静かな部屋に響いた。
彼は何をしても絵になってしまう、そんな橙貴の姿に見惚れながら、そのいつになく濁った様に沈んだ瞳から目を離す事が出来なかった。そして橙貴は、唖然とした藍の瞳と、半開きの誘う様な口元と、一目で下着をつけていない事が分かる上半身を鬱積した気持ちで見下ろしていた。
二人はどれくらいそうしていただろう。
先に動いたのは橙貴だった。ゆっくりとした仕草でグラスをテーブルに置くと、じりっと、彼女に歩み寄った。
ほんの少し小首を傾げ、怒りとも取れる様な顔つきをしている橙貴を目の当たりにし、
“私、何か悪い事した?”
彼女は眉をひそめた。橙貴はどちらかと言うと愛想の無い男だ。でもそれは、もともとがおしゃべりじゃないからで、けっして不機嫌な人間だからではない。しかし今目の前にいる男は、敵意にも似た何かを醸し出していた。まるで黒いオーラが漂うみたいに。
恐い。初めて橙貴を恐いと思った。
だから体が勝手に後ろずさる。
「なっ・・・・。」
言いたかったはずの言葉は発する事が出来なかった。彼女はベッドに足を取られ、大きく仰向けに倒れた。
まるで漫画の様に散らばる色とりどりの服に、叩き付けられ、跳ねる藍の上半身。
万歳スタイルで天井を見上げながら、彼女は身動きをする事が出来なかった。見なくても分かる。その橙貴の視線が痛い。
彼の目は大きくまくれ上がったキャミソールの下の磁器の様な肌に吸い寄せられていた。黒い服の所為でその白さとのコントラストは、月夜の水面の様だと思った。想像以上に大きい乳房の影と、ほんのりと桜色をしているその先端がちらっと見えた気がした。そしてそれは薄い布越し、見る見るうちに形を変え、明らかにそれと分かる突起へと変わって行く。
滑らかな下腹は緩やかに波打ち、その際は赤いレースに縁取られていた。
黒い下着の様な服に、明らかに男を挑発しているショーツ。
「お前・・・・。」
彼は再び首を傾げた。
「誘ってる?」
そんなはずないだろう!と叫びたいはずが声も出ず、藍は胸元を隠す様に横向きに起き上がると、慌てて首を振った。
あまりの恥ずかしさに、キャミソールの裾をぐっと強く引く。
「なに馬鹿言ってんだよ、お前相手に。」
でもその言葉は説得力を失う。引き過ぎた薄いレースのその服は、柔らかな胸の形を浮き彫りにし、ぎりぎりいっぱいまで鎖骨を露にしていた。
「じゃあ、誰の為に?」
その答えを橙貴は知っていた。知っていて、追い打ちをかける。
「今お前が挑発しているの、誰?」
困った様な、泣き出してしまいそうな女の顔をした藍に、橙貴の中で何かが蠢く。
薄っぺらいパイプベッドが軋んだ。
「俺じゃねぇの?」
その唇が彼女のうなじに落ちた。藍は伸ばしかけの中途半端な髪の先に温もりを感じ、それから、小さな痛みを受け取った。
「なっ、何をする!?」
慌てて彼を引き離し、首筋を押さえた。答えは分かっていて、それはキスマークだ。
何故急に橙貴がこうゆう行動をとったのか、彼女にはまるで分からなかった。そのくせそれはまるで罰をくだされた気分だった。こんなモノつけて、何様のつもりだ!そう思う前に、不誠実に慎とつきあっている自分を責められた気がして。油断して、こんな印を付けられて、今晩慎と過ごす事が出来なくなることは自暴自得だ、と。
楽しみにしていたはずの今晩、午後10時。待ち合わせの噴水前。
彼女の瞳の奥に、疑う事の無く笑う慎の顔が浮かんだ。
ご免、彼にそう心で謝る。
彼女が悪い訳ではないのに、目の前の男がタイミング悪くやって来て、勝手に欲情しているだけなのに。
その表情を橙貴は見逃さなかった
おれいろからー つづく
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