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木苺はわたしと犬のもの ~司書子さんとタンテイさん~ 作者:冬木洋子
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エピローグ(2)

 十月。紅玉りんごのジャムを煮ながら、台所のテーブルで、反田さんとパティスリー・キハラのケーキを食べました。今回は、渋皮マロンのモンブランと、ショコラ・フランボワーズです。甘さ控えめのモンブランは栗の香りがしっかりするし、艶やかなチョコレートでコーティングされたショコラ・フランボワーズは、ほんのり酸っぱいラズベリージャムがしっとりしたココアスポンジ生地の間にたっぷり挟まれていて、その甘酸っぱさと爽やかな香りがチョコレートの甘さやほろ苦さと渾然一体となって、まさに絶品です。こんなに美味しいケーキ屋さんが近くにあったのに長年足を運ばずにいたなんて、わたしはなんて損をしていたんでしょう!

 ショコラ・フランボワーズにフォークを突き刺しながら、反田さんが言いました。
「このケーキ、なんて名前だったっけ?」
「ショコラ・フランボワーズです」
「そうだった、そうだった。何回聞いても憶えられなくてさあ……。木原のやつ、気取った名前付けやがって。こんなのチョコケーキでいいんだよ、チョコケーキで! ねえ、蕭子さん?」
 ねえ、と言われても返答に困ります……。
「そういえば、蕭子さん、子どもの頃ショコちゃんってあだ名だったんだよね。ショコラとショコちゃんって似てるよね。ショコ、ショコ、ショコちゃんか……」
 反田さんが『ショコちゃん』と、まるで甘いものを味わうみたいにわたしの愛称を口にした時、なんだかちょっぴり、ふわっと温かいような気持ちがしました。
「うーん、甘くて美味しそうだなあ……。ケーキみたいだ」
 そう言ってにこにことわたしを見る反田さんの眼差しが、それこそケーキみたいに甘くて……。

 反田さんは日頃から、たいていいつでもにこにこ笑っている人ですが、こうしてわたしを見るときの目元は、何か、そういう時と違うのです。反田さん、こんな甘い眼差しをする人だったんですね……。木原さんが、反田さんはあまり女性にモテないと言っていましたが、この表情を普段からみんなに見せていたら、もっとモテていたのじゃないかしら。でも、反田さんは、普段はそういう目をしないんですよね。わたしだけに見せる、特別な表情なのかしら……。
 そう思ったら、なんだか気恥ずかしくなりました。
 でも、そろそろまたジャムをかき混ぜなければ。

「あの、ごめんなさい、ジャムを混ぜてきますね」
 そう言って席を立ち、ガス台に向かいました。
 鍋の中のジャムを木杓子でかき混ぜます。そろそろ出来上がりです。
 ああ、いい香り。
 りんごジャムを作るには、やっぱり紅玉りんごです。紅玉りんごは十月後半の短い期間しか出回らないし、出回る量も少ないので、お店で見つけたらすかさず入手してジャムにします。大きめにざくざく切った形が残るくらいにさっと煮て、シナモンとブランデーで風味を付けて。それをアップルパイに入れたり、アイスクリームやヨーグルトと一緒に食べたり、もちろんパンやビスケットにつけたり……。毎年、この時期のお楽しみです。


 わたしと反田さんは、あれから、反田さん曰く『お試し』ということで、一応、お付き合いをしていることになっています。でも、たしかに、反田さんが言ったとおり、別にそれまでとたいして違わないような……。
 一回、『デート』をしました。電車で鶸岡の映画館に行って、映画を見て、帰りに喫茶店でパンケーキを食べました。
自慢じゃないですが、わたし、これまでの人生で一度も男の人とデートというものをしたことがなかったので、生まれて初めてのデートだったのですが……わたしと反田さんは、これまでも、お話の勉強会のたびに一緒に電車で鶸岡に行って、帰りにあの喫茶店に寄ってパンケーキを食べていたので、考えてみれば、それとたいして変わらなかったです。やっぱり、反田さんの言うとおり、わたしたち、すでに付き合っていたようなものだったのかも。
 ただひとつ違ったことは、同じように喫茶店で向かい合っていても、前はなんとも思わなかったのが、今度はなんだか気恥ずかしかったということでしょうか。

 ジャムを混ぜながら、考えました。
 わたしは、反田さんのことが好きなのかしら……。
 いえ、好きか嫌いかと言えば、間違いなく好きです。むしろ大好きと言っていいくらいです。
 でも、それが恋愛感情かと言うと、やっぱり、よくわからないのです。
 わたしの反田さんへの気持ちは、わたしが多少なりとも知っているはずの恋心というものとは、ずいぶん違うような気がするので……。
 たとえば、学生時代に恋した先生が、もしも反田さんがしたみたいにわたしの指先に触れたりしたら、わたし、きっとすごくドキドキして、あんまりドキドキしすぎて心臓が破裂して、そのまま死んでしまったかもしれません! そんなこと、想像するだけでドキドキしすぎて、もしもの話としても、とても具体的には思い浮かべられなかったくらい。
 あの、胸が苦しいような、甘すぎて痛いようなときめきを、反田さんには、悪いけど、あんまり――というか、全く感じないのですが……。

 反田さんが立ってきて、わたしの肩越しに鍋を覗き込みました。
「美味しそうだなあ。ちょっと味見したいなあ」
「ダメです。まだできてないです。できあがったらお約束通り一瓶あげますから」
「うん、それはお袋が楽しみにしてるからもらってくけど、その前にちょっとだけ、味見、味見」
 本当に子供みたいですね。昔、わたしもこんなふうに、祖母がお菓子を作っている横で味見をせがみましたっけ。どうせ出来上がったら食べられるのに、鍋からひとさじ掬って食べさせてもらう『お味見』は、なんだか特別感があって、ひときわ嬉しかったものです。
「じゃあ、もうちょっと待ってくださいね」
 まだ熱いジャムは、すっぱいです。味見するにも、少し冷めないと味がわかりません。
 味見用に小皿に取り分けるわたしの手元を、反田さんがうれしそうに眺めています。
 なんて幸せそうなお顔かしら。……やっぱり、わたし、反田さんが好きなような気がします。
 でも、やっぱり、昔、先生を好きだったようには、ドキドキしないのです……。
 どういうことでしょう。これでいいんでしょうか。

 ふと、口に出してしまいました。
「……反田さん。わたし、反田さんといても、ちっともドキドキしないんですが、それでいいんでしょうか?」
 反田さんが、一瞬ぽかんとして、それから苦笑しました。
「それを俺に聞くかなあ……」
「あ……」
 そうですよね……。反田さんに聞くことじゃありませんでした。反田さんならなんでも教えてくれそうな気がして、つい……。
たぶんわたし、反田さんに甘えているのですね。
 でも、反田さんは、やさしく笑ってくれました。
「そうかあ……。ドキドキしませんか。弱ったなあ」
「ごめんなさい……」
「いえいえ。じゃあ、逆に聞くけど、ドキドキしないと何か不都合あります?」
「えっ……?」
 そう言われると、別に不都合はないような……。
 首を傾げて考えこみました。
「いえ、別に……」
「じゃあ、いいじゃないですか。ドキドキしなくても」
「はあ……」
「じゃあ、この際、そう深く考えずに、このまま交際を続けてくださいよ。ね?」

『深く考えずに』なんて言われても、わたしにとって、男の人と交際するというのは、そんな、深く考えずに気楽にオーケーしてしまうような簡単な事柄ではないのです。その辺は、はっきりさせておかないと……。そもそも、わたしはまだ、反田さんとお付き合いすることを、正式に了承したわけではないのです。反田さんの目元がちょっと甘かったからといって、その場の雰囲気に流されてしまっていいような事柄ではないんですから。
 だから、勇気を出して言いました。
「あのう……。反田さん。わたしにとって、男の人とお付き合いするって、そんな、気楽なことじゃないんです。反田さんにはそうなのかもしれませんけど。深く考えずにとか気楽にお試しとか、そういうの、違うんです!」

 ずっと思っていたけど、反田さんのお顔が曇るのを見たくなくて、反田さんに嫌われるのが怖くて、言えなかったのです。でも、このまま反田さんのペースに巻き込まれ続けるわけにはいかないし、このまま曖昧な態度を取り続けて中途半端なお付き合いを続けては反田さんにもかえって失礼になると思うので、今さらですが、今、言わないと……。

 反田さんが、ふいに真面目な顔をして、わたしに向き直りました。
「蕭子さん。俺だって、別に軽い気持ちで交際を申し込んだわけじゃないですよ。蕭子さんには『気楽に』って言ったけど、それはただ、そう言ったほうが蕭子さんがオーケーしてくれやすいかなと思っただけで、俺は最初から真剣です」
 そう言う反田さんのお顔と声音は本当に真剣で、つい、気を呑まれてしまいました。
「結婚を前提に――とは言いません。交際なら『好き』だけでできるけど、結婚となると、そちらにもいろいろと事情もあれば都合も考え方もおありでしょうから。だからあえて『前提に』とは言わないけど、俺は最初から、将来的には結婚も視野にいれた真面目な交際を考えていました」
「えっ……」

 反田さんってば、なんでそんなことを、こんな、台所で、ガス台の前で、手に木杓子を持っているときに言い出すんでしょうか……。わたしは呆然としました。
 その呆然に、反田さんがさらに追い打ちをかけました。
「ちなみに、俺のほうには、特に結婚の障害になる事情は何もないです。俺、次男だから、何なら婿に入ってもまったく差し支えないし、お袋やおやじも、まだ会ったこともない蕭子さんを、とっくにすごい勢いで気に入ってるし」
「えっ……!」
 あまりの急展開に、ついていけません……。
「ほらね。最初からこう言ったら、蕭子さん、びっくりしちゃうと思ったんですよ……」
 絶句しているわたしを見て、反田さんは笑いました。
「ああ、でも、俺、言うべきことは全部言ったぞ。ああ、すっきりした。最初からこう言えばよかったんですよね。……俺も怖かったからさ」

 ……結婚、ですか……。わたし、なんとなく、自分はずっと一人で生きていくんだと思っていたんですが。
 でも、よく考えて見れば、どうしてわたしは、そう思っていたのでしょう。わたしの人生のモデルは祖母で、よく考えてみれば祖母は祖父と結婚していたわけですが、わたしが生まれた時には祖父は既に亡かったので、わたしにとっては、祖母は最初から、『古いお家に一人で暮らしている人』でした。だから、なんとなく、それが女性の普通の生き方で、自分もゆくゆくはそういう生活をするようになるのだと、漠然と思い込んでいたのかもしれません。学生時代に、幼い片想いではあるけれどとても激しい恋をして、そうしてそれを失って、けれど美しい想い出が心に残って、自分にはその美しい想い出だけで十分だと、自分はもう二度と恋なんかしないと、そんなふうに思っていたのもありますが……。それだって、どうせきっとそうなるだろうと思っていただけで、何が何でもそうしたいと思っていたわけでもない気がします。ただ、これまで一度も男性とお付き合いしたことがなかったわたしにとって、これからも男性とお付き合いしないほうが、今さら急にそういうことをするより自然な流れに思えていただけで……。

 考えこんでしまったわたしの沈黙をどう取ったのか、反田さんは、また、おだやかに微笑みました。
 反田さん、なんて心が広くて辛抱強い、できた方なんでしょう。
「……やっぱり、困らせました? まあ、すぐにどうこうとは言いませんから、どうぞ、ゆっくり考えてください。結婚についても、俺のほうは将来的には視野に入れたいと思ってるってだけですから。蕭子さんに何かを無理強いするつもりは一切ありません。ただ、俺が、決して軽い気持ちではなく真剣だってことだけ、わかっていただければ」
「はあ……」
「わかっていただけましたでしょうか」
 反田さんの少しおどけた声音がやさしくて、釣り込まれるようにうなずいてしまいました。
「……はい」
「じゃあ、特に不都合がなければ、とりあえずこのまま交際を続行させてくださいよ。俺も、蕭子さんにドキドキしてもらえるように、おいおい頑張りますから」
 『おいおい』ですか……。どうやって頑張るんでしょう。そもそも頑張るようなことでしょうか。……と、思っていたら、反田さんがふっと笑いました。
「今、どうやってって思ったでしょう」
「……はい、ちょっと」
「たとえばですね」と、言葉を切って、反田さんはいきなり高く上げた両手を広げ、「がおーっ!」と叫んでわたしに襲いかかる真似をしたので、死ぬほどびっくりしました……。
 びくっと飛び上がって胸を押さえたわたしに、反田さんはいたずらっぽく笑いかけました。
「どうでした、ドキドキしました?」
 それはたしかにものすごくドキッとしましたけど――あんまりびっくりして心臓が止まりそうになりましたけど、こんなの、ドキドキの種類が違います! 突然こんなふうに脅かされれば誰だってどきっとしますけど、わたしが言ったのは、そういうドキドキじゃないんです!
「もうっ! びっくりしました! あやうく心臓が止まるところでした! 脅かさないでください!」
 抗議しながら、つい笑い出してしまいました。びっくりしたけど、さっきの反田さんのお顔があんまり面白かったから……。
 笑いながら、つい、反田さんの胸をぽかっと叩いてしまいました。
「ひどいです! わたしが言ったのは、こういうドキドキのことじゃありません!」
 反田さんの顔も面白かったけれど、わたしもきっと、びくっと飛び上がって目をまんまるにして、そうとう面白い反応をしたに違いありません。想像すると、自分でもおかしいです。おかしいけど、反田さんがその様子を見て笑ったと思うと恥ずかしい。やだ、もう……。殴るしかありません!
「でもドキドキしたでしょ?」
 反田さんもげらげら笑いながら、身体を斜めにしてわたしの拳をひょいと避けざま、手首を捉えて自分の方に引いたので、笑いの発作がおさまった時、気がつくとわたしは反田さんの腕の中にいました。
 嗅ぎなれない、男の人の匂いがして、ちょっとどぎまぎしましたけれど、不快ではありませんでした。
 やんわりと背中に回された腕が温かくて、やさしい体温に、心がふわっと解けていくような気がしました。

 ずっとひとりで生きていくつもりだったけど、もしかして『ふたり』もいいかな……と、ふと思ったのは、細く開いた窓から吹き込む金木犀の香りの風が、少し冷たかったからかもしれません。
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