挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
木苺はわたしと犬のもの ~司書子さんとタンテイさん~ 作者:冬木洋子
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

26/35

第二話 ジギタリス殺犬未遂事件(12)

 おばあさんも言っていた通り、うちの祖母は、少女時代、近所の男の子たちみんなの憧れのマドンナで、正一おじいさんも、その例にもれず、祖母に憧れていたのだそうでした。といっても、祖母のほうが一つ年上だったこともあり、遠くから一方的に憧れていただけで、ほとんど口をきいたこともなかったそうですが。

 そんな正一少年は、当時働いていた軍需工場への行き帰りにうちの垣根の前を通る時、たまに、庭に出ている祖母の姿をちらりと見ることができるのを、辛いことの多かった戦時下の生活の中で、ひそかな楽しみとしていたそうです。祖母――いえ、ミサ子さんも、よく家の前を通る正一少年のことは見憶えていて、気がつけば微笑んで挨拶をしてくれたりしたそうです。そんな時も、正一少年は、挨拶を返すのがやっとで、それ以上話しかけることもできず、真っ赤になった顔を帽子のつばに隠すために俯いて、逃げるように足を早めて通り過ぎたりしたそうです。可愛いですね。

 戦時中でもうちの庭にはいろんな花が咲いていて、そこだけまるで別天地のようだったとおじいさんは言いました。よく見れば、実際には庭のほとんどはサツマイモやカボチャの畑になっていたのだけれど、隅の方や塀際にいろんな草花が乱れ咲いていたので、一見、花園のようにも見えた、と。そんな花園に佇んで微笑むミサ子さんは、もんぺ姿にもかかわらず、まるで天女のようだった、と。

 思うに、それは、薬草の花だったのではないでしょうか。祖母の亡き祖父――つまりわたしの高祖父も医者をしていて、生薬を取るために庭で薬草を栽培しており、遺されたその薬草園を祖母が世話していたと聞いたことがあります。これはわたしの想像ですが、戦時中で薬が不足したため、もともと庭にあった薬草を育てて使おうと思ったのかもしれません。そして、ジギタリスもそうですが、薬草には花も美しいものがたくさんあります。

 そんな具合で、たまに垣根越しに挨拶を交わすだけの間柄だった二人ですが、初夏のある日、正一少年は、朝日を受けて草花の世話をしていたミサ子さんに見とれるあまり、つい、垣根の前で足を止めてしまったそうです。その気配に、ふと顔を上げたミサ子さんは、その日に限って、作業の手を止め、ちょうど鋏で切ったところだったジギタリスの一枝を持ったまま、垣根の近くまでやってきたのだそうです。そして、おはよう、と、正一少年に声をかけました。美しい花を手に、にっこり笑って。――正一少年は、どんなにどきどきしたことでしょうか。

 ミサ子さんは、緊張のあまり直立不動の正一少年に、垣根越しにジギタリスを差し出して見せ、
「この花の名前をご存知?」と訊ねました。
 正一少年は、もちろん知りませんでした。
「ジギタリス、というのよ。心臓の薬なの。毒にもなる。飲むと心臓がドキドキするのですって」と、ミサ子さんは声をひそめました。
「きっと、だからなのね。花言葉は、『隠しきれない胸の想い』……」
 そう言って、ミサ子さんは、秘密めいた微笑みを浮かべたそうです。

 正一少年は、ミサ子さんに自分の想いを見透かされていたのかもしれないと思って居たたまれなくなると同時に、もしかしたら――本当に、もしかして、もしかしたら――向こうも少しだけでも同じ気持ちを持ってくれているのかもしれないと妄想して、それこそジギタリスの毒を飲んだみたいに胸を高鳴らせたのでした。

 けれど、結局、それからも二人は特に口をきく機会もなく、戦況は悪化の一途をたどり、恋愛どころではないまま、正一さんは十八で兵隊に取られ、やっと帰ってきた時には、ミサ子さん――祖母はすでに結婚していました。

 ……それを聞いて、わたし、反田さんが気にしていたジギタリスのもう一つの花言葉『不誠実』を思い出し、もしかして正一さんは、自分を待たずに他の男と結婚したミサ子さん――祖母を不誠実と詰りたかったのかと思いかけましたが、そういうわけではないようでした。正一さんは、ジギタリスに他の花言葉があるのは知らなかったようですし、祖母の結婚についても、『自分は死んだと思われていたのだし、そもそもろくに口をきいたこともなく、何か約束をしていたわけでもないのだから仕方がなかった』とおっしゃいました。
「それに、そのおかげで、俺はうちのバアサンと一緒になれたんだしな」と、おじいさんは、さらっと言いました。
 おじいさん……! わりと仏頂面のまま、何気なく、つるっとおっしゃいましたが、それ、ものすごい愛の言葉じゃないですか……! 素敵です……! あとで、おじいさんがこんなことをおっしゃってたって、おばあさんにこっそり教えてあげなくては。

 そんなわけで、おじいさんの花束がジギタリスだったのは、たまたま今の季節に庭に咲いていたのがジギタリスだったからではなく、おじいさんにとっては、うちの祖母との想い出の花だからだったらしいです。
 おじいさん、ロマンチストなのですね。
 ご家族に言わずに黙って庭の花を切って一人で出かけたのは、きっと、照れくさいからですね。それに、きっと、奥様であるおばあさんに遠慮していたのでしょう。
 花束を、何も言わずに垣根の下の隙間から庭に押し込んでいったのも、恥ずかしかったかららしいです。たとえばうちの仏壇に花を供えさせてもらうには、家の人――つまりわたしですね――に事情を言って、家に上げてもらわなければなりません。それが恥ずかしかったのだと。
 そして、ジギタリスに毒があるのは知っていたけれど、煎じれば薬や毒が取れるのだろうと漠然と思っていただけで、生の花や葉を食べてもいけないとは知らなかったし、そもそも犬が花なんか食べるとは思いつかなかったし、繋いである犬の鎖がそこまで届くのも知らなかったと言います。知らなかったとはいえ、本当に犬には悪いことをしたと、頭を下げて下さいました。
 それから、花を仏壇に供えたくなかったのにはもうひとつわけがあって、仏壇には、祖母の夫である祖父も一緒にいるから遠慮したのだということでした。花をお墓に供えに行かなかったのも、同じ理由だそうです。
「そんなことをして、旦那がヤキモチを焼いて墓の中で夫婦喧嘩になったら悪いだろ?」と、おじいさんは言いました。
 お墓の中で夫婦喧嘩……。面白いおじいさんです。

 でも、わたし、思ったんですが、おじいさんがジギタリスの花を、お墓や仏壇ではなく庭に置いていったのには、また別の理由もあるんじゃないでしょうか。
 おじいさんが花を捧げたかったのは、『ご近所の司さんのおばあさん』ではなく、若き日の想い出の中の美しいミサ子さんにであり、その、想い出の中のミサ子さんがいる場所は、司家の墓や仏壇の中ではなく、ジギタリスの咲く、この夏の庭だったのではないかと――。もちろん、わたしの想像にすぎませんが。
 この家は、戦後に建て替えられたものなので、今ある垣根はかつて正一少年とミサ子さんを隔てていた垣根とは別のものですし、咲いているジギタリスも、その頃の株がそのまま残っているわけではなく、たぶん、家を建て替えてから新しく植えられたものでしょう――もしかすると、家の建て替え前に種を採取してあったとか、掘った株を別の場所に植え替えなどで、咲いている場所は変わっても、その頃の株の子孫ではあるのかもしれませんが。
 そもそも、うちの敷地自体、戦前は、もっと広かったらしいです。今の隣の家や裏の家の土地も、昔はうちの――というか病院の敷地だったとか。
 そんなわけで、うちの庭も、まるきり当時のままというわけではないのですが、でも、今でも、少し狭くはなったけれど同じ場所にあって、想い出のジギタリスの花が咲いていて、たぶん似たような垣根があって――。おじいさんが若き日のミサ子さんの面影を偲ぶには、十分だったろうと思います。

 おじいさんが、昨日、入院の前にうちに花を持ってきたのは、もしかすると今を逃すとその機会がなくなるかもしれないと思ったからだそうです。おじいさんがこれから受ける手術は、とても成功率の高い簡単なものですが、でも、いくら手術が成功しても、この年で、待機や術後の養生も含めてそれなりに長い期間入院したら、さすがにもう、今までのように一人で気ままに外出したりはできなくなるかもしれないと、本人曰く『弱気になって』、それで、最後のチャンスと、長年の望みを決行したのだそうです。たしかに、それまで自分で歩き回っていたお年寄りでも、怪我などで入院すると、そのまま足腰が弱って寝たきりになったり、車椅子や杖が必要になったりすることがあると、よく聞きます。正一おじいさんが、元気で退院できることを、切に祈ります……。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ