挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
木苺はわたしと犬のもの ~司書子さんとタンテイさん~ 作者:冬木洋子
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

17/35

第二話 ジギタリス殺犬未遂事件(3)

 縁側で、グラスごと冷やして氷を浮かべた麦茶と、昨日の夜に焼いたブルーベリーマフィンをお出ししました。反田さんは、それが手作りだとわかっているのかいないのか、無造作にばくっと一口でお召し上がりになりましたが、うまいうまいと目を細めてくださったので、幸せです。
 それから、先日、反田さんに収穫を手伝ってもらった梅で作った梅シロップが完成したので、それで作ったゼリーもお出ししました。シロップ漬けの梅の実の小さなひとかけもゼリーの中に閉じ込めて。

 先日の梅だということを説明すると、反田さんは大変喜び、これも、うまいうまいと、ぺろりと召し上がって、
「いやあ、庭に梅の木が一本あると、いいですねえ。シロップも甘露煮もできるし、梅酒もできるし……。あの甘露煮、美味しかったですねえ。来年も食べたいなあ……。お袋も、あれから何度も言ってますよ、あれは美味しかったって」とおっしゃいました。
 祖母に教わったとおり、手間暇かけて丁寧に丁寧に作った甘露煮は、それでも祖母が作ったものほど上手にはできませんでしたが、中でも綺麗に仕上がった幾つかを反田さんに縁側でお出しして、ご家族にもお土産に持ち帰ってもらったのです。その時も、お母様をはじめご家族がとても喜んだと言ってくださって、お母様から、お返しのお菓子までいただいてしまいました。

 反田さんは、梅の木を眺めて、ふと思いついたように言いました。
「この梅って、そういえば、何色の花が咲くんですか?」
 そういえば、反田さんがはじめてこの庭を訪れたのは五月のことですから、反田さんは、この梅の花は、まだ見たことがないのですね。
「白です」
「へえー。これだけの立派な木だと、満開の時なんか、さぞ見事でしょうねえ」
「ええ。実梅ですけど、花も綺麗です。毎年、花時には、祖母と二人で、この縁側で梅の花見をするんですよ。まだ寒いですけど、かいまきとかダウンとか着こんで、二人で、熱い甘酒の湯のみを手に……」と、そこまで話しかけた時、ふいに喉がつまり、わたしの目から、思いがけない涙が、ぽろぽろと溢れてきました。いけない、またです……。一昨年まで、そうやって毎年祖母と梅の花見をしてきたけれど、その祖母は、もう、いないのですね。今年も梅の花見はできなかったし、次の冬も、その次の冬も、もう、一緒に梅のお花見をする人は、いないのです……。
 ――そう思ったら、つい……。

「わわ、司書子さん……? ……大丈夫ですか?」
 びっくりする反田さん。それは驚きますよね……。今まで普通に話してたのが、突然、これじゃあ……。
「ご、ごめんなさい、あの……祖母と梅の花見をしたことを思い出したら、もう、祖母と花見はできないんだ、一緒に花見をする人はもういないんだって、ふっと思ってしまって……」
 つっかえつっかえ、説明しました。ああ、恥ずかしい……。

 反田さんは、「ああ……」とつぶやいて、困ったように眉を下げて微笑みました。
「また、お祖母ちゃんのこと、思い出させちゃったんですね……」
「ごめんなさい……」
「いえ、謝ることなんかないですよ。お祖母ちゃんが大好きだったんですよね。何かにつけて思い出すのも当然です。よっぽどかわいがってもらったんですね」
「ええ……」
「司書子さん見てるとね、お祖母ちゃんに、とっても大事にされて育ったんだなあって、わかりますよ。良い思い出がたくさんあって、幸せですね」
 そうですね。祖母はもういないけど、愛された思い出がいっぱいあることは、幸せなことなんですよね。

 反田さんが、ちょっとあらたまった声音で言いました。
「あのさ。差し出がましいかもしれないけど、こんなこと他人が言っていいのかわからないけど、お祖母ちゃんが亡くなったのをそんなに悲しめるって、素敵なことだと思いますよ」
 思いがけない言葉に、思わず顔を上げました。
「え……?」
 素敵? 悲しいことが?
「だって、それは、司書子さんがそれだけお祖母ちゃんに愛されてて、お祖母ちゃんを大好きだったって証拠なんだから。だから、今のその悲しさも、お祖母ちゃんからの素敵な贈り物なんですよ。だから司書子さんは、その気持ちを大事にしていいんです。うんと悲しんでてもいいんです。今、司書子さんが悲しいのは、素敵なことなんです。……ね?」
「まあ……」

 若くして亡くなった母と違って八十六まで生きて長患いもせずに逝った祖母の死を、いつまでも悲しんているなんて、いけないことだと思っていました。私の年代では祖父母が既に他界しているのはごく普通のことだし、母の時と違って自分ももう大人なんだから、早く立ち直らなくてはいけないのだと思っていました。遺された人がいつまでも悲しんでいると亡くなった人が天国に行けない、などと、よく言いますし。
 だからわたし、自分がまだ祖母の死を悲しんでいることを、なるべく人から隠すよう、自分の心の中でもあまり認めないよう、ずっと、ちょっとずつ無理をしていた気がします
 反田さんの言葉は、そんなわたしの心に沁みました。なんだか、心がほっと緩むような。
 そうしたら、別の種類の新しい涙が滲みかけて、慌ててハンカチを取り出しました。
 反田さんは、そんなわたしを、優しい眼差しで見ています。
「まあ……。ありがとうございます」と、ハンカチで涙を拭いながらつぶやくと、反田さんは笑いを含んだ声で言いました。
「それにしても、司書子さんはほんとに泣き虫だなあ」
「はい……」
 もうとっくに盛大にバレているので、いまさら隠そうとしても仕方ありません。
「まったく、これじゃあ、司書子さんじゃなくてメソ子さんだ」
 少し意地悪なからかい言葉ですけれど、反田さんの声はとても温かくて、ちっとも嫌な感じがしませんでした。からかわれているのに、よしよしと甘やかしてもらっているような気がしました。本当に不思議な人です。
 反田さんの声の温かさに、つい甘えて、すがるような気持ちで、思わず訊いてしまいました。
「はい、まったく、お恥ずかしいです……。子供の頃からの泣き虫が、このトシになってもまだ直らなくて。泣き虫って、どうすれば直るんでしょうか?」
 それに対する反田さんの返答は、予想外でした。
「直さなくていいと思いますよ」
「え?」
 泣き虫って、直さなければいけない欠点なのでは……?
「だって、それが司書子さんなんだから」

 不意打ちの言葉に、わたしは絶句しました。それは、かつて祖母がわたしに言ったのと同じ言葉だったのでした。
 祖母は、わたしが泣いていると、いつも髪を撫でながら『泣かないで』と言って慰めてくれたけれど、そんな泣き虫のわたしに、泣くのが悪いことだとか、泣き虫を直せというようなことは、一度も言ったことがありませんでした。わたしが泣き虫でも引っ込み思案でも不器用でも、『いいのよ』と、『それが蕭子なんだから』と、笑って言ってくれたのです。
 ……いけない、また、涙が出てきそう……。

 言葉を失ったわたしに、反田さんは、あいかわらず気楽そうににこにこしながら言いました。
「だいたいさ、司書子さんが泣いたからって、洪水が起きて日本が沈んだりするわけじゃないんだから、別に何も困らないでしょ?」
 反田さんの言い方があまりに気楽そうなので、わたしがすごく気にしている泣き虫という欠点が、まるで庭の雑草程度のささいな問題のように思えてきました。
 たしかに、わたしが泣き虫だからといって、別に日本が沈没したり世界が滅んだりするわけではないですよね……。
 なんとなくキツネにつままれたような気分で、あいまいにうなずきました。
「はあ……」
「少なくとも、俺はなんにも困ってないよ」
 そう言って、反田さんは、ふわりと笑いました。温かく包み込むような笑顔でした。
 その笑顔に、不覚にも、ちょっと、どきりとしました。だって、反田さん、別に顔は良くないのに、どこをとっても全く少しもわたしの好みのタイプじゃないのに、今、何か、少し素敵に見えたのです。別に好きな人でもなんでもない、ただのご近所さんなのに。ただの反田さんなのに。それはたしかに、とても良い方ではありますけど……。

 反田さんは、にこにこと続けました。
「正直、最初はちょっとびっくりしたけどさ。でも、むしろ俺は嬉しいですね。司書子さんが俺に素顔を見せてくれた、心を見せてくれたって感じで」
「え……」

 そうですよね、たしかにわたし、反田さんには、ものすごく素顔を見せてしまっている気がします。いろいろとたいへんダメで恥ずかしい素顔を……。

 わたし、うっかり人に気を許すと、その人の前ではすぐメソメソが出てしまうので、大人になってからは、うかつに人に心を許しすぎないよう気をつけて、心のどこかでずっとブレーキをかけていたような気がするんですが、反田さんは、いつの間にか、そんなわたしの、固いつもりでいた心のガードを、当たり前みたいにするっとすり抜けていました。いまさらながら、ちょっと怖くなりました。反田さんが怖いんじゃなくて、自分の軽率さや気の緩みが、です。
 なんでわたし、いつのまにか、そんなに親しいわけでもない、ただのご近所さんである反田さんに、こんなに無防備になってしまっていたのでしょう。反田さんの優しさや人当たりの良さについ気が緩んで、いつの間にか大失敗をしていました。なんというか、うっかりパジャマで外に出て、ご近所の人に出くわしてしまった時のような恥ずかしさ、心細さ、きまりの悪さです。今からでも、少し気を引き締めるべきでしょうか。でも、いまさら取り返しがつかないですね……。

 わたしの内心の葛藤など知らず、反田さんは、相変わらずにこにことして言います。
「だって、図書館で司書子さんを見てて、まさかこんな泣き虫さんだなんて、想像もしませんでしたよ。図書館では、司書子さん、いつも笑顔でね、誰とでもハキハキ話して、テキパキ働いてて、仕事のできる大人の女って感じで」

 本当でしょうか。そういうふうになれるように頑張っているつもりですけれど、本当に、他の人からもそう見えていたのでしょうか。だったら、嬉しいです。
 でも、それはお仕事だから頑張ってるだけで、本当のわたしは、全然違うのです。図書館の中でなら――職員と利用者という立場でなら、ずっと努力を続けて、今では誰とでも笑顔でお話できるようになれたと思いますが、図書館の外では相変わらず人見知りで、人と話すのが苦手で、泣き虫のままなのです。そんな自分が嫌いです。

「それは、お仕事ですから……」
「ですよね。お仕事の時は、お仕事だから頑張ってるんですよね。偉いなあ。その姿勢、尊敬しますよ。でも、今、俺には、お仕事用じゃない、素の顔を見せてくれているんですよね。俯きがちで、ちょっとしたことでもすぐに落ち込む、内気な泣き虫さんの顔を。それが、俺、嬉しかったんですよ」
「まあ……」
「で、思っちゃったんですよね。図書館での、デキる女な司書子さんにも憧れたけど、この、実は相当の天然だったり、あんがい子供っぽいところもあったりする泣き虫司書子さんも、なんか可愛いなあ……って」
「えっ……」

 可愛いって……。冗談にも程があります。わたし、もう三十二ですよ? それにわたし、そういうことを言われると、冗談だとだとわかっていても赤くなってしまうから嫌なんですってば。これじゃあ、まるで、社交辞令を真に受けてるみたいで恥ずかしいじゃないですか……。わたしがそういうの苦手だってわかっててこんなふうにからかうなんて、反田さん、やっぱり少し意地悪です……。

 でも、嫌な気分ではありませんでした。何か、くすぐったいような、温かいような、不思議な気持ちでした。
 たとえて言えば、うっかりパジャマで庭先に出たのをお隣のおばさんに見られたのに、はしたないと注意されるかわりに、『あらぁ可愛いパジャマねえ。お祖母ちゃんが買ってくれたの? お祖母ちゃん、センス良いわね』と褒めてもらった時のような。
 そういえば、お気に入りだったあのうさちゃん柄のパジャマは、もしかすると、反田洋品店で買ったものだったのかもしれません。いえ、ほぼ確実に、そうだったでしょう。
 ……なんて、関係ないことを考えて現実逃避しながらも、たぶん赤くなってしまったので、困って下を向いて、小さな声で言いました。
「……冗談言わないでください」
「冗談じゃないんですが」
 思いがけず真面目な声で即答されて、つい、「は?」と顔を上げて反田さんを見てしまいました。
 そうしたら、思わぬ真顔と目が合って、なんだか焦ってしまって、急いで目をそらし、また下を向きました。どう反応していいかわからなくて……。

 次の瞬間、反田さんは、急にすっとんきょうな声をはり上げ、がばっと頭を下げました。
「……いや、あの、すみません、すみません! 何か、ずうずうしいこと言って! 俺、調子に乗りました、はい!」
 両膝についた腕を腕立て伏せみたいに曲げて、額が膝につくほど深く頭を下げ、縁側に腰掛けたまま土下座を表現しようとしているらしいその大げさな仕草を横目に見て、つい、吹き出してしまいました。
「いやだ、反田さん、頭、お上げになってください……」
「じゃあ、司書子さんも、顔を上げてくださいね」
「えっ……はい」
 優しく促されて恐る恐る顔を上げると、反田さんは、それでよし、とでも言うようにふっと目元を和ませてから、すぐに素知らぬ顔で目をそらし、梅の木を見やって、元どおりの調子で、
「いやあ、しかし、梅の花見って、初めて聞いたけど、良いですねえ。なんか風流ですよねえ!」と、のんきな声をはりあげました。
 もう……。さっきの真顔は何だったんでしょう……。なんだか調子が狂います。

 そう思っていたら、反田さんは、またこちらを振り向いて、



にこにことわたしの顔を覗き込みました。
「ね、司書子さん。良かったら、今度の梅の花見には、俺を呼んでくれませんか?」
「え……?」
「もちろん、お祖母ちゃんの代わりにはなれないけど、一緒に花見をする人、俺じゃだめですか?」
 まあ……。わたしが、一緒に花見をする人がいないと嘆いたからですね? 草取りの時と同じです。なんという優しさ、なんという思い遣りでしょう……。
「いえ……。ぜひ招待させてください」と、なんとなしの気恥ずかしさをこらえて微笑むと、反田さんは、嬉しそうに笑み崩れました。
「嬉しいなあ! 楽しみだなあ! 絶対ですよ。約束ですよ!」
 無邪気に弾む声音は、なんだか、遊園地に連れて行ってもらう約束を取り付けた子供みたい。
 わたしも楽しみです。がんばって美味しい甘酒を作りましょう。反田さんは生姜を入れたのと入れてないのと、どっちがお好みかしら。お茶請けには、何を用意しましょう。甘い甘酒に、しょっぱいおせんべいは当然ですよね。おせんべいは角の宝来堂の手焼きに限ります。ちょっとお高いけれど、お値段だけの価値はあります。おせんべいの他にも、何か和菓子なんかを、できれば手作りで……。

 考えると、心のなかが、なんだかふわっと温かくなってきました。
 さっきまで、梅の花見のことを考えるだけで悲しくなっていたのに、今は、同じことを考えて、こんなに楽しい気持ちになれるなんて……。反田さんのおかげです。反田さんは、やっぱり良い人です。

 麦茶の中で溶けかけていた氷の残りがそっと崩れて、小さな音を立てました。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ