第64話 過ち
「ひっ……!」
その一瞬、鳥肌が全身を駆け巡った。
やけに生暖かい男の手は、美衣子の細い手首をがっちり掴んで離さない。
男は気持ちの悪い笑みを浮かべながら美衣子に囁いた。
「逃げても無駄だよ、美衣子ちゃん」
「い、いやあああ! 離して、離して、離して!」
美衣子は狂ったように叫び、必死にもがいた。
しかし男も力一杯美衣子の腕を掴んでいて、どうしても逃れる事が出来ない。
「もう逃がさないよ」
男の発したその一言で、美衣子の頭の中は真っ白になった。
それと同時に、あの夜マンションで起こった出来事が脳内に蘇った。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。もう二度と、あんな思いはしたくない。
美衣子は、掴まれていない方の手を後ろに持っていき、地面を這わせた。
何か少しでも男に反撃できるようなものを探す為だった。
ふいに、手に硬い感触を感じた。勿論美衣子は躊躇うことなくそれを掴んだ。
それは大きな石だった。感覚からして、野球ボールくらいの大きさのものだろう。
美衣子はこの世のものとは思えない叫び声を上げながら、その腕を大きく振り下ろした。
……。鈍い音がした。何かが割れたような、ひび割れた音だ。
美衣子の腕を掴んでいた、汗ばんだ手が緩む。
それを感じ取った美衣子は慌てて男の手を振り払って逃げようとした。
しかし男は呻き声を上げながら地面を這い、美衣子の足首を掴んだ。
「待て、この、小娘……! この野郎、よくも……、」
「やめて! 離してよ!」
美衣子は涙声で叫び、もう一度手に持った石を振り下ろした。今度は、真っ直ぐに男の頭蓋骨を狙って。
1度目で足首を掴む男の手が緩んだ。2度目で男が叫び声をあげた。
そこで一旦美衣子は手を止めた。もう十分だと思った。
……しかし、美衣子の心にはドス黒い感情が湧き上がっていた。
ここでやめるわけにはいかない。
今まで、自分も、そして雪山もこの男には苦しめられた。
その当然の裁きを、今、自分がこの男に下すべきなのだ。
美衣子は両手で石を持ち上げ、それを思い切り男の顔面へ振り下ろした。
痛々しい感触と共に男の体が痙攣し……やがて、動かなくなった。
早鐘のように脈打つ美衣子の心臓。
目の前にいる男の心臓は、止まった。
美衣子は震えながらその場に崩れ落ちた。
「いや……いやだ、嘘だよね……こんなことって、」
赤く染まった石が美衣子の手を滑り落ち、ごとり、と地面に落ちる。
「や、やだ……嘘、でしょ? わ、私……っ」
口を両手で覆い、美衣子はぼやける視界から目を背けた。
そして、繰り返し同じ言葉を小さく呟いた。
「こんなつもり……な、なかったのに……!」
美衣子は震えながら立ち上がった。足がもつれて転び、地面に顔を打ちつける。目の前がぼやけ、一瞬意識が遠のきかけた。
しかし気絶している場合ではない。自分は最大の過ちを犯したのだ。
男が犯した罪と全く変わらない、……“殺人”という過ちを。
美衣子は血で真っ赤に染まった両手を自分の衣服に擦りつけた。
そして、よろめきながら森を後にした。 |