何もない世界。
音も光もない、見るものを黒く染めるだけの漆黒世界。
だが――その世界の中で、そこだけは異彩を放つ。
闇に浮かぶ満開の桜……。
聞こえる……声が聞こえる。囁くような声、音のない世界では異様な声。
その声は、次第にはっきりと響く。
─―いろはに……ほえど、ちりぬるを……。
声は響く、頭に響いてくる。防ぎようのない音として――。
「貴方は、どうしてここに?」
声は直接、頭の中に響く。耳を塞いでも駄目だった。
「ここは――冥府の入り口」
淡々と喋る声は頭に響く。感情もない声。
「貴方は、死んだのですか?」
ただの質問。でも、それで理解した。
……俺は死んだ。
流れ出した記憶の欠片が、俺の中で繋がっていく。
そこで何が起きたのか。何が遇ったのか。
─―わがよ、たれそ……つねならむ……。
俺は、あの場所でこの世界に絶望した。
失った悲しみが身体を蝕み、心を腐食していった……。
大切だったあの人――愛したあの人が、俺の前からいなくなったから。
眠るように息を引きとったあの人。だから俺は、あの人の好きだったあの場所で――。
―─うゐの……おくやま、けふこえて……。
俺は死んだ。
あの場所で、あの人に遇いたくて。
だから、ここにいるのか……。
ここは冥府――死者の世界。だが、何もない。
目の前にある桜の樹以外は……。
「ここは、冥府の入り口」
声は再度、響く。音となり、頭に響く。
「貴方は、死んだのですか?」
また、聞こえる。俺は死んだ……桜の樹の下で。
あの人のそばにいたくて――。
「……貴方は望みますか?」
何を望むのだ?
俺はただ、あの人のそばにいたい……それだけだ。
「今なら、戻れます」
戻る……? どこに? 俺は戻るところなんてない。
「あの……桜の樹が、呼んでいます」
呼んでいる? 桜の樹が……? 分からない。何故、呼ぶんだ?
―─あさき、ゆめみし……ゑひもせす。
音が鳴る。遠くから音が鳴る。
懐かしいあの人の音色。
「貴方を呼んでいます……」
あの人が呼んでいる――桜の樹の下で。
「……戻りますか?」
俺を呼ぶ懐かしい音。あの人が持っていた鈴の音色。
あの人は望んでいない――俺がここに来るのを……。
だから呼ぶんだ。
「まだ――間に合います」
俺を呼ぶ音は、次第に小さくなる。
あの人は、悲しんでいる。俺が”ここ”に来た事を……。
悲しませている。俺はあの人を悲しませたくない。
だから――
「……戻る」
俺の声は音となり、世界に響く。
「わかりました」
頭に響く声は、優しく俺の心に響いた。
音が動く。加速して動く。前から後ろへ、上から下へ。
何もない世界が突然割れる。ヒビ割れた世界は砕け、光が一面に溢れる。
光の中――懐かしい音と声が聞こえた気がした。
目の前には――桜の樹。ひらり、と舞う桜の花弁が俺の手に落ちてくる。
見上げると、そこには満開の桜が、あの時と変わらない姿で静かにそこにあった。
桜の花弁が舞う。ひらり、ひらり、と舞い落ちながら綺麗な音がする。
懐かしいあの音色を俺の耳に届けながら――
『生きて、ください……』
それは光の中で聞いたあの人の声。
頬を伝い落ちる涙は、俺の涙か、それともあの人が流した涙か……。
ひらり、ひらり、と花弁は静かに舞い落ちながら、そっと俺を包み込む。
『愛して……います』
優しい温もり、あの人の温もり。また、涙が溢れてくる。
「……俺も愛しています」
あの人がくれた最後の贈り物。
それは、変わらない愛。
変わる事のない愛の温もり……。 |