一週間
共同企画小説。テーマは『一週間』。共同制作の先生方の作品は「週間小説」で検索すると見ることができます。
蝉の鳴き声が聞こえる。
甲高く、それでいて耳障りだ。うだるような夏の暑さ、肌を焼く日差しが、俺を溶かしていく。
田舎に帰ってきた俺は、軒下に座って庭に生える大きな木を見つめている。真夏の太陽が、黒い服を身にまとう俺を焼き尽くす。
「孝介、今日は疲れたでしょう」
「……いや、別に」
母が俺を気遣う。
「なら……いいのよ。それじゃ、私は挨拶してくるから」
俺の肩に手を置くと、手に持っていた数珠が鳴った。喪服を着た母の額には、大粒の汗が浮かんでいる。
「疲れてなんかないさ」
俺の答えに安心したように、母は小さな笑みを浮かべて去っていく。
庭で一番太い木に向かって、蝉が飛んできた。
音もなく木に張り付くと、すぐに大声で歌い始める。一回り大きな歌声が、耳を貫いた。
――孝介や、これでアイスクリームでも食べなさい。
「楽しみだったな、お金もらえるの……」
祖母は俺が田舎を訪れるたびに、母の目を盗んでは、お金を握らせてくれた。嬉しそうにお金を眺めている俺を発見した母は、祖母に向かってよく注意したものだ。
お小遣いは与えているんですから、むやみに与えないでください、と。
「アイスクリームか……百円で十分なのにな」
千円をくれるその暖かい手が、いつしか楽しみになっていた。母の実家であるこの田舎を訪れるたびに、俺はお金をもらえると思って嬉々として母についていった。
太い木に取り付いた大量の蝉。下手くそな合唱は、途中で脱退するメンバー、参加するメンバーが相次いでいて、まったくまとまる気配がない。自己中心的なメンバーばかりだ。
「お兄ちゃん、ここにいたんだ。おばあちゃんに挨拶してきたら?」
妹の知美が俺の隣に座る。学校の制服を身にまとう知美にも、汗が浮かぶ。
「あとで、挨拶するよ」
知美は俺の背中についたほこりを払ってくれる。知美の指が背中に文字を書くようで、くすぐったい。
「喪服姿のお兄ちゃんを見るのって初めてだから、なんか新鮮」
正直、喪服なんて買いたくなかった。
大学の入学式のためにスーツは買っていたが、喪服は必要ないと思って買わなかった。それに、俺にそんな機会が訪れることなんてないと思っていたから。喪服を買うなんて、夢にも思っていなかった。
「お兄ちゃん、かっこいいか?」
「妹にそんなこと聞かないでよ。……でも、友達は、格好いいって言ってたよ」
「その子、紹介してくれよ」
知美が舌を出す。
「ヤダ」
二人のやり取りを埋めるように、蝉が叫ぶ。
深い悲しみがそこに横たわっていた。その悲しみがあまりにも深すぎるとき、人は誰よりも冷静でいられる。現実感もそうだ。どんなに悲しいときでも、冗談を言ったり出来るほど、俺たちはいつもどおりでしかいられなかった。
どうやって悲しんでいいか、俺には分からなかった。
「おばあちゃん……元気だったのにね」
九十九歳だった祖母。
「一週間後には百歳だったのに」
「ああ……」
思い出がたくさんあったはずなのに、今でも覚えている思い出は数少ない。過ごしてきた時間も多いはずなのに、短い時間だったと感じる。
「あ、ネクタイ曲がってるよ」
知美が俺の首元に手を持ってくる。
「もうすぐ社会人なんだから、ネクタイを締める練習しなきゃ駄目だよ?」
「難しいんだよ、なかなか」
どうやら途中から直すのは無理だったようだ。ネクタイを解き始める。俺はシャツの襟をたてて、ネクタイを締めやすくした。
二人の会話はない。
ただ、蝉の鳴き声だけが響く軒下。広い庭、ところどころに生える雑草、黒い革靴をよじ登る蟻。
細かな風景が、非現実的に感じる。
知美が俺の首にネクタイを巻きつけた。首から下がったネクタイの端を交差させて、一度小さな結び目を作る。
「知美、お兄ちゃんな、まだ信じられないんだよ。ばあちゃんが死んだなんて」
結び目を手で握り、ネクタイの端、太いほうを結び目の中に通す。
「前に来たときは、あんなに元気だったのに」
玄関先で挨拶すると、奥の部屋から、まるで駆け出さんばかりに、祖母が飛び出してきた。しわくちゃの顔を、あらん限りの喜びで満たして、俺に抱きついてきた。年甲斐もなく大喜びする祖母に、俺は顔が引きつってしまっていた。
しかし、居間に手招きする祖母を見ていると、なんだか恥ずかしいようで、嬉しかった。
「ばあちゃんさ、いつも同じジュースしか出さないんだよ。お茶菓子も、いつも同じ煎餅」
祖母の家の戸棚には、いつも同じお茶菓子が並んでいた。ハッカ飴と、丸いしょうゆ煎餅、黒くて甘い豆もあった。世代間の差か、若い俺の口に合わないものばかりだった。それに、いつも細長いサイダーの缶を呑まないか、と聞いてくる。もうそれは飽きた、と言うと、祖母は決まってお金をくれるのだった。
「年寄りには分からないから、とか言って、お金くれるんだよ。俺、お金が欲しくてそんなこと言ったわけではないのにさ……」
上手く結べなかったのか、ネクタイを締めなおそうと解き始める。
「仏壇に飾ってあるばあちゃんの写真をじっと見つめているとさ、にらめっこしている気分になるんだ。今にも笑い出しそうで、俺、負けてはいけないような気がして、ずっと見つめ続けるんだ」
知美が、再びネクタイを俺の首に回す。
「結局、勝負は俺の負けなんだ。まったく、ばあちゃんはさすがだよ」
結び目を作って、その中を通して。
でも、うまく大きな結び目を作れなくて、それを喉元に引き上げると不器用な形をしていて、また解く。知美はそれを繰り返している。
「知美、無理するなよ」
「……お兄ちゃん……お兄ちゃん……私……」
黒いネクタイが、俺の膝の上に落ちる。
「……おばあちゃんが……死んじゃったなんて……信じられないよ……」
泣きじゃくる知美の背中を、優しくなでてやる。シャツにしみこんでいく知美の大粒の涙。俺の胸の中で肩を震わせている。
「俺だって我慢してるんだから。だから、泣くなよ。頼むから……」
木にとまる蝉の姿がぼやけていく。
目頭が熱くなって、あふれ出そうになる。
蝉はそんな俺たちなんか気にも留めず、ただ歌い続ける。精一杯、あらん限りの気力を振り絞って。
「ばあちゃん、すごいよな。俺たちなんか及びもしないくらい、立派に生きたよな」
俺の言葉を聞いて、知美はついに大声で泣き出した。
俺のシャツを握り締め、蝉のように大声で。
赤ん坊のように、ただ泣くことだけにだけに力を込めて。
蝉は一週間しか生きられない。地中深くに何年もいて、やっと外に出れたと思ったら、歌える時間は一週間。夜は歌わないから、実際はもっと短い時間だろう。
ただ歌うことだけに全力を尽くし、そして、地面に落ちる。
「精一杯生きたよな」
九十九年と三百五十八日。ばあちゃんの生きた歳月。
「知美、俺……ばあちゃんに会ってくる」
知美は俺の胸から体を起こし、涙を拭く。
「うん……おばあちゃんによろしくね」
いまだに止まらない滝のような涙をたたえて、知美は笑った。
「はい、ネクタイ。ごめんね、お兄ちゃん、私……」
「気にするな。ほら、ハンカチ」
「ごめん……ごめん……お兄ちゃん……」
笑みを作るはずの顔をくしゃくしゃにして、再び泣き出す。
俺の渡したハンカチを握り締めて、頬をこわばらせる。ハンカチを使おうともしないで、ただ涙を流し続ける。
醜い顔だと、笑おうとしたが、俺は笑うことが出来なかった。
俺も人のことは言えそうにないから。
「行ってくる」
油蝉のかすれ声が、いつまでも耳にこびりついて離れない。
せめて、祖母が百歳の誕生日を迎えるはずだった一週間後まで、精一杯歌って欲しい。
生きることの出来る一週間を、精一杯、謳歌して欲しい。
俺はネクタイを締める。
蝉時雨が、次第に遠ざかっていった。
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