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Bitter Moon 〜蜜月の逆説〜

作者:井浦美朗
 瑤子と正志が婚約したのは、桜舞い散る春の始めだった。
 高校時代のクラスメイト。当時は何もなかったが、10年ぶりの同窓会で花が咲いたという、ありがちな話だ。

 結納などもすべて終わり、季節は晩夏を迎えていた。
 その夜は、正志の会社関係の友人男女10人ほどが集まって婚約祝いをしてくれることになっていた。個室のとれるダイニングバーで、お酒より健康志向の食事が充実している。それは、仲間が正志のことを気遣ってのことだった。正志は喘息持ちの上、心臓が弱い。仕事も日常生活も傍から見れば他の人と変わりなく送れるが、食事や定期通院、投薬など、配慮すべき事が山ほどある。いつ発作が起きるかわからないし、無理がきかない身体ゆえ一人暮らしもできない。正志だけでなく、正志の抱える病気と一生を共にする覚悟がなければ、結婚などできない。
 瑤子はすべてを承知で、すべてを受け入れて結婚を決意した。
 それだけの決意をするためのエネルギーが、どこから湧いたのか。
 別に結婚を焦っていたわけでもないし、仕事を辞めるきっかけが欲しかったわけでもない。
 それはただ純粋に、正志が好きだったから。

 高校3年生のとき、瑤子と正志は席が隣だった上、同じ私立理系コースを選択していたため時間割もほとんど一緒だった。正志はサッカー部のエースで、下級生の彼女がいた。瑤子は同級生の別の男子に熱を上げていたが、こっぴどく振られて以来、恋愛には縁のない学園生活を送っていた。
 瑤子が覚えている高校時代の正志との思い出といえば、ただ一つ。
 掃除当番で、バケツの水を一緒に取替えに行った時のことだ。正志が、何か愚痴をこぼした。それが何だったのかは、今となっては覚えていない。しかし、それに対して自分が何と言ったかは鮮明に覚えている。
 ― それは、尾見君が優しすぎるからだよ ―
 その時、正志は返事をしなかった。それ以降のことは、覚えていない。
 誰かに言ったセリフを、こんなにも鮮明に覚えているなんてめずらしい。後悔した言葉なら、確かに忘れられない。だが、このセリフは違う。
 覚えていたのは、正志とこうなる運命を予感していたからなのか。
 未だに、わからない。

 実はこの夜、瑤子は正志に言いたいことがあった。
 だが決して明るいとはいえない話題のため、この会の前に言うべきではないと判断し、帰り道の途中に打ち明けるつもりだった。
 会は和やかに、そして恙無く進んでいった。
 途中、瑤子はトイレに行くため席を立った。
 個室の障子襖をそっと開け、店の人に尋ねて遠くまで足を運んだ。
 トイレは男女別に一つずつしかなく、週末のピークの時間帯のため行列ができていた。
 やっと用を済ませ、個室に戻れるようになったのは一体何分後だったのか。
 少し急ぎ足で個室に迎い、障子襖に手をかけようとした、そのときだった。
「なあ、尾見が彼女と結婚しようと思った理由を教えてくれよ。」
 突然、そんな質問が部屋の中から漏れ聞こえてきた。
 瑤子がいないからこそ、出た質問なのかもしれない。見た目、地味で目立たない瑤子など、どうして選んだのかという趣旨の質問なのだろう。
 瑤子は思わず自分の影が見えない位置に下がり、固唾を呑んで正志の答えに耳をすませた。
「理由?それは高校時代に遡る。」
「おお、その頃に何かあったのか?」
「俺たち男連中の間で、『結婚しようと思った相手がどうしても家で馬を飼いたい、と言ってきたらどうする?』という質問を女子にするのが流行ってた。」
「それで?瑤子さんは何て答えたの?」
「実は、あの時瑤子だけだったんだよ。『それでも、構わない。』って答えたのは。」
 瑤子は、(そんなこともあったな。)と思い出した。
 そこへ、正志の言葉が続いた。
「更に質問は続くんだ。『旦那が忙しくて世話を全部やってくれって言ってもか。』とね。それでも瑤子は『構わない。』と即答した。」
「じゃあ、そこに惚れたのね。」
「そう言えば、そうなるかな。」
「何だ?その曖昧な返事は。」
「俺がその時思ったのは『こんな便利な女はそういない』ってことさ。あの当時はそれだけだったけど、同窓会のときこの会話を思い出して、つくづく思ったよ。病気と一生背中合わせの俺の面倒を、決して裏切らずにやるのはこの女しかいない、ってね。」
 瑤子の呼吸が、止まった。
 正志の言葉は続く。
「結婚は、恋愛じゃないんだ。好き嫌い以上に、俺には重大なことがある。一人暮らしさえできない俺が、両親亡き後、死ぬまで面倒見る存在が絶対必要なんだ。しかも、無料ただで。絶対に裏切ることなく。」
「それって、奥さんは家政婦代わりって言ってるみたい。」
不愉快そうな女性の言葉に、正志は笑った。
「それが、世の男の本音さ。いくら最初は愛していたって、数年もすれば変わる。その時残っているのは、便利な女か、不要な女かのどちらかなんだよ。」
 瑤子は呆然とし、しばらく動くことができなかった。
 足が棒のようになっている。
 ショック、というより、聞きたくなかったという気持ちの方が大きい。
 瑤子は、自分と結婚して正志に何の見返りがあるのか、とずっと思ってはいた。
 愛していると言われたこともないし、言ったこともない。
 だが、瑤子は確かに正志が好きだった。
 正志の思惑がどうであろうと、それで十分だと思っていた。
 しかし。
 正志の口から本音を聞いてしまっては、「それで十分」とは言い切れなくなってしまう。
 それは、心のどこかで正志も自分を好いてくれているという自負があったから。
 それが、瑤子の滑稽な独りよがりだったなんて。

 新宿駅の西口は、夜11時を過ぎても人の波が途切れない。人と人の隙間を縫うように歩かねばならず、二人きりになっても話などする余裕はない。そんな中、瑤子は正志に突然肩を抱かれた。瞬間、ドキリとする。それは、正志が瑤子をホテルに誘ういつもの合図だからだ。しかし、瑤子は身をよじって、冷たく正志から離れた。
「・・・明日、仕事なの。早く帰って寝ないと。」
「明日は土曜だぜ?」
「退職までの引継ぎで大変なのよ。休日返上で働かないと、後々迷惑かけちゃうでしょ。」
「俺に話があるって、言ってたよな。」
「・・・また、今度にする。」
 瑤子は軽く手を上げ、正志に背を向けた。
 重い話を、正志にどう話そうか迷っていた。話すべきかどうかさえ、あんなに迷ってようやく決心したというのに、その気力をすべて失っていた。
 都会の夜は、どうして人で溢れたままなのだろう。
 立ってつり革につかまるのがやっとなほどの満員電車で、瑤子は眉をひそめたまま、宙を睨みつけていた。思い出したくないのに、すぐに正志の声が木霊する。
 ― こんな便利な女はそういない ―
 そうか。
 正志はそんな理由で、自分を選んだのか。
 冷静に考えれば、納得できる。「愛してるから結婚する。」なんて言われるより、ずっと堅実な理由だ。そもそも正志は、瑤子に「愛してる。」なんて言ったことはなかった。それでも今の今まで期待していた自分が悪い。
 正志は昔からマメな男だった。記念日という記念日は全部覚えていて、プレゼントをかかさない。薔薇の花束も天然石のアクセサリーも、世の女性が喜ぶであろう品をきっちり選んで贈ってくれた。
(でも私は、そんなものより欲しいものがあった。)
 正志が自分を抱く腕は、一生頼っていい確かな存在だと思っていた。時折不安になっても、正志に力強く抱きしめられれば、それを払拭することができていた。
 だからこそ、悩んでいたのだ。
 瑤子は明日、病院へ精密検査の結果を聞きにいく。
 会社の定期健康診断でひっかかり二次検診を受けたら、大病院での精密検査を促された。その結果を、正志に一緒に聞きに行ってほしいとお願いをしたかったのだ。そして、その結果次第では結婚をとりやめにする覚悟をしていた。
 この覚悟をするまでに、一体どれほど悩んだというだろう?正志を失わないように、例え重い病気でも隠して結婚してしまおうかと思いもした。だが、それが正志のためになるとは思えないから、正直に打ち明けようと決意したのに。
 その決意が、すべて無駄になってしまった。
 明日の行方の不透明さに、瑤子はめまいがしそうだった。

 瑤子は同居している両親に「買い物に行く。」と嘘をついて、家を出た。
 土曜の午前。
 御茶ノ水駅前は、会社員も学生もまばらで、静かだ。
 瑤子は、不思議なくらい落ち着いていた。いや、もう、どうでもいいと思っていた。病気でも、そうでなくても、どうでもよかった。それよりも、これから正志とどう向き合うべきかという問題に悩んでいた。
 予約をしていたため、ほとんど待たずに診察室に入った。
 若い医師は、率直に瑤子に告げた。
 癌が進行しており、すぐ手術をしても、おそらく手遅れである、と。
「すぐ入院してください。少しは、延命できますから。」
 入院するのが当然だというようにペンを走らせる医師に、瑤子はきっぱりと言った。
「別に、延命してほしいとは思ってないです。抗がん剤とかも、嫌です。」
 医師は手を止め、瑤子に向き合った。
「このままだと、もって半年ですよ?この世に未練はないんですか?お若いのに。」
「もちろん、親より先立つのは心残りです。でも、それも仕方のないことですから。」
 その後、医師とどういう会話を交わしたのか、瑤子は覚えていない。その時ずっと考えていたのは、正志との結婚をどうするか、それに尽きた。
 正志は、瑤子の病気のことを知ったらどうするだろう?
 一生無料で使い倒せる絶対服従の「妻」が病気で先立つと知ったら、役立たずの用無し女として婚約を破棄するだろうか。
(そりゃあ、破棄だろうな。だって便利で使えるから私を選んだんだもの。それが、使えないとなったら結婚する意味ないものね・・。)
 無数の蛍光灯に照らされて明るく感じていた病院から一歩外へ出ると、病院内がどんなに暗かったか思い知る。空はまぶしく光っていて、高くて、もうすぐ秋だと告げている。  
 思わず細めた目から、涙が滲んだ。
 ストレートに、ショックだった。
 病気のことよりも、死ぬことよりも、正志の言葉のほうがずっと辛かった。
 何度も、何度も脳裏を木霊する。
 悪いこととは、重なるものだ。でも今までは、悪いことがあれば次にはいいことがあると信じて前を向くことができた。
 しかし、今回は違う。
 どんなにいいことがあっても、死は間近に迫っている。
 この事実を、正志にどう告げようか。
 その前に、告げるのか?
 告げる必要があるのか?
 親に告げるつもりは、ない。娘が先立つ不幸を半年前から宣言する必要などない。その半年間、親に何を考えさせればいいというのか。半年間で自分自身が親孝行できれば十分だ。死の現実は、死んだ直後に知ればいい。突然すぎて衝撃が大きくても、涙する時期は遅らせたほうがいい。入院中に看護させる苦労はかけたくない。そんな悲しい負担をかけさせたくない。
 だから、正志のことだけ迷う。
 銀地にブルーのラインが入った新車両に揺られて、暗い色の屋根が密集する郊外を通り抜ける。その見慣れた光景が、どういうわけか胸をつく。土曜の昼間のくだり電車は、人がまばらだ。車両の隅で乱暴に足を投げ出しても、あまり迷惑にはならない。
 どうして、こんなことになったのだろう?
 幸せをつかむために、一生懸命生きてきたつもりだった。そこそこ平和な家族がいて、人並みに就職して、人並みに結婚する矢先だった。
(そうか、私の人生は今までが幸せすぎたんだ。そのツケが、今、まわってきたんだ・・。)
 車窓を流れる長閑な風景を見ていると、頭の中がぼんやりと休まってくる。落ち着いて深く呼吸をすると、少しだけ冷静に正志の言葉を呑み込むことができた。
 ― 便利な女 ―
 正志の考えは、間違ってはいない。正志が自分のことを好きだから結婚を申し込んだなんて、都合のいい妄想だったのだ。
 だが、悔しい。
 これから半世紀一緒に過ごす相手に、一生「便利な女」扱いされなければならなかったなんて。正志に尽くすのは務めだと思っていた。だが、それに対する感謝もなく過ごさねばならないなんて、なんと空しい人生になるだろう。
 でも・・・。
 式を1ヵ月後に控えて、病気のことがなかったら、結婚をやめようと思うだろうか。世間体を気にする正志が許さないとは思うが、瑤子もこの期に及んで「婚約破棄して。」とは言えない気がする。正志に対し、自分を「便利な女」扱いしたことを責めても、正志は上手い言い逃れをして、瑤子を丸め込んでしまう気がする。それもそれで、腹立たしい。
 ― 私、あと半年の命なの。 ―
 そう告げたら、正志はどんな顔で、何と言うだろう。
 知りたい。
 だが、冷たい返事で止めを刺されるのは、怖い。
 瑤子が正志を選んだ理由の一つは、正志が自分に似ているからだ。
 特に、悲しさや辛さといった負の部分の感じ方が同じだから。
 同じ悲しみを共有できる相手に、瑤子はこれ以上ない魅力を感じる。そして、負の感じ方が似ているがゆえに、冷酷な性格もよく似ている。瑤子は、一度見捨てた相手には徹底的に冷酷になる。情の欠片も残さずに、だ。そのやり方、冷たい眼差し。正志のそれを見たとき、瑤子は自分の影を見たような衝撃に襲われた。だがその分、悲しみを感じる時も互いに敏感に読み取れた。初めてキスをしたときも、初めて夜を共にしたときも、そんな心の琴線に触れたときだった。だから、正志は好きとか嫌いとか、そんな次元だけでは片付けられない相手なのだ。
 そのかけがえのない相手の気持が、自分と同じではないことを知ってしまった。
 正志は、どんな思いで睫毛を伏せ、唇を重ねられたのだろう。
 半端な「好き」ぐらいでは男の腕を受け入れられない瑤子の鉄壁を、あっさり越えてきた正志。彼は、どんな思いで自分を抱いていたのか。
 すべて。
 すべて、便利な女を手に入れるための手段だったのか。
 声にならない悲痛な溜息をついて、瑤子は額を抱えた。
 そんな風に、考えたくない。
 だが、正志の言葉は真実で、そこから推察できることも、真実に限りなく近いと思う。
 瑤子は最寄の駅を過ぎても、電車から降りることができなかった。
 終点までたどり着こうと、折り返して再び東京へ進もうと、どうでもいいと思った。
 もう、今、地球の終わりが来てもいいとさえ思った。
(こんなに・・・。)
 瑤子は、奥歯と一緒に苦い思いを何度も噛み締めた。
(こんなに、好きでなければよかった・・・。)

 病院から入院の催促をされながらも、瑤子はその返事をのばし延ばしにしていた。結婚をどうするかという問題の答えが出せないのに、入院なんかできない。長年の体調不良に少しずつ慣らされてしまった瑤子の身体は、今更すぐ、どうということにはならない。
 次に正志に会ったときの瑤子の表情は重苦しかったが、正志がそれに気付くことはなかった。その日は正志の家で、両親を交えながら挙式の最終打ち合わせをした。正志の母親は瑤子を非常に気に入ってくれていて、いつも優しい笑顔で歓迎してくれる。結婚後どうなるかはわからないが、世には姑問題で泣いている嫁が多いらしいのだから、瑤子は幸せな身分なのだろう。
「瑤子さん、夕食召し上がっていらしてね。」
「はい、ありがとうございます。」
 こんな状況で「実は半年後に死ぬんです。」なんて言えるわけがない。理由も言わずに「結婚をやめたいんです。」なんて、言えるわけもない。もちろん、瑤子の病気を知れば、婚約破棄も式の取り止めも、多くの同情の中で滞りなく進められるのだろう。だが、それが躊躇われる。
 その日の帰り、正志が駅まで瑤子を送りながら言った。
「なんか、不満があるのか?」
「え?」
 突然の言葉に、瑤子はどきりとした。
「この前の晩も、話があるって言ってたのに言わなかっただろう?今日もずっと不機嫌そうな顔だったし。一体、何なんだよ。」
 こんなに重い秘密を抱えているのに、どうして機嫌よく笑っていられるだろうか。どうして重い秘密を、そう簡単に口にできるだろうか。もちろん、瑤子が理由を説明しなければ正志が理解できるわけはない。だが、瑤子の気持ちを察することなく一方的に責める正志に、瑤子は腹立たしさを感じた。思わず、口を尖らせてしまう。
「・・別に。」
「別にって、そういう言い方、俺が一番嫌いなの知ってんだろ?」
 先を行く瑤子の腕を、正志が無理に掴んで引き止める。
「俗に言うマリッジブルーだなんて言うなよ。」
「・・・なぜ?」
「くだらないからさ。その辺に転がってるような女と同じようなことを言うなよ。」
 瑤子は、正志の手を強引に振り払った。
「あなたは、私に何を望んでいるの?私にどうしろというの!」
 予想以上の瑤子の激しい反応に、正志は戸惑いの色を隠せなかった。
「・・・一体、どうしたんだよ。何が気に入らないんだ?」
 冷静な正志の唇を見つめながら、瑤子はもどかしさを呑み込んだ。今なら、言えるかもしれない。泣きながら、自分があと半年の命だと叫べるかもしれない。そして今が、その最後のチャンスかもしれない。そしたら、正志は自分の細い身体を抱きしめてくれるだろうか?
 いや。
 自分に対して愛情のない正志が、そんなことをしてくれるわけがない。
 そんな期待をして裏切られたら、それこそ悲しみのどん底だ。
 瑤子は再び正志に背を向けた。
「気に入らないことなんかないし、私はどうもしていないわ。・・・もう、ここでいい。」
 セリフの最後が、震えていたかもしれない。
 振り向きもせず駅に向かって走り出した瑤子の瞳からあふれ出したのは、とめどない切なさ。
 正志への、片道の思い。
 その行き場のない思いが耐え切れずに、血を吹き出す。

 次の日。
 瑤子は初めて、会社で倒れた。

 当直の看護師に「貧血らしい」と言われ、医務室で休んでいると直近の上司が尋ねてきた。
「気分は、どう?」
 10歳年上の女性チーフは、優しく声をかけてきた。枕に頭を埋めたまま動けない瑤子は、そのままの姿勢で「すみません、ご心配おかけして。」と謝った。
「そんなこと、気にしないで。それよりこの間の健康診断で『要精検』だったわね。結果、どうだったの?」
 瑤子が健康診断でひっかかったことは、上司である彼女だけが知っている。誰にも話せない重荷を、思わず口にしてしまいそうだった。だが、そんなことをしてどうなるだろう?優しい上司には正志を紹介済みである。瑤子が話せば、上司は正志に真実を話してしまうだろう。瑤子は結局、嘘をつくしかない。
「少し通院は必要みたいですけど、大したことなかったです。」
「そう?こんなふうに倒れるなんて、大したことないとは思えないけど。」
「・・・今日は、たまたまです。」
「フィアンセに連絡して、迎えに来てもらいましょうか?もうすぐ退社時間だし。」
「そんな!大丈夫です。」
「でも、まだ起き上がれないんでしょう?」
「タクシーを呼んで帰りますから。彼に、心配かけたくないんです。知らせないで下さい。」
「そう?じゃあ、タクシーぐらいは私に呼ばせて頂戴。30分後でいいかしら?」
「はい。ありがとうございます。」
 上司が出て行くと、瑤子は深い溜息をついた。
 寿退社することにしておいて、良かった。こんな身体では、そうそう長くは働けない。遅かれ早かれ退社せねばならなかった。そうなったとき、正志に何と理由を説明すればいいか。そう思うと、退社を決断しておいてラッキーだった。
(・・・こんなことをラッキーだと思うなんて、私、何やってんだろう。)
 結局、正志とは結婚式をあげるしかないところに来ている。
(仕方ないよね。正志が悪いんだもん。私の気も知らないで、全然考えなしで怒るし、私のことを便利な女だから結婚するなんて言うし。・・・私は全然悪くないもん。)
 そんなことを考えるたび、自分が惨めで、泣けてくる。
 見上げた夜空に浮かぶ月が日ごとに欠けていくのに比例するように、瑤子の心は日増しに衰弱していった。
 式まであと二週間。
 本当なら、一番幸せで、期待に満ちた時間だったのかもしれない。
 だが、瑤子はいつでも泣けるほどに涙を溜めて前を向かねばならない。
 限界だった。
 瑤子は、正志に電話をかけた。
 言っておかねばならない。
 黙っていても、いつかばれることだ。そしてその時、別れは来るのだ。
 結婚するかしないかは正志に任せる。今更の告白に正志が怒っても、それは当然のことだ。 式場のキャンセル料も、違約金も払えるくらいの貯金は持っている。
 だから、今日こそ告げようと思う。
 そして、ちゃんと口にしようと思う。
 正志がどう思おうと、自分は結婚なんて、正志以外に考えられなかったと。
 正志が他の女性をこの先選んでも、生涯、自分が結婚しようと思ったのは正志が最初で最後だった、と。
 告白のセリフを何度もシミュレーションし、緊張しながら正志に電話をかけた。ちゃんと正志の仕事を考えて昼休みの後半にさしかかったところで電話した。
『・・・瑤子、何?』
 あまり機嫌のいい声ではない。しかし、怯んでいられない。
「今日、会えない?話があるの。」
『前もそう言って、結局言わなかったじゃないか。』
「今日は、そんなことしないから。」
『悪いけど、今日は絶対はずせない接待が入ってる。わかってるだろ?今日の今日で会えるほど俺が自由じゃないってこと。』
「・・・それはわかってる。でも、」
『どうせ2週間後には挙式で、それから先は一生一緒で、嫌でもいつでも話ができる状態になるんだ。それじゃ駄目なのか?』
 正志は、瑤子が寂しさにかまけて恋人を誘い出している程度にしか、思っていないのかもしれない。
「今のうちに、話しておきたいことなの。」
『何だよ。まさか、結婚やめたいなんて言うんじゃないだろうな。』
気だるい溜息混じりに言う正志の声が、瑤子の誘いを面倒に思っていることを示している。
「・・・わかった。もう、いい。」
『本当に、何だよ。じゃあ、今言えよ。電話だっていいだろう?』
「それくらいなら、とっくに言ってるわよ。」
『俺にどうしろっていうんだよ。とにかく、今日は会えない。明日も明後日も無理だ。週末は接待ゴルフ。その次の日は貴重な休みだから、一人で休みたい、その次の日は・・。』
「わかった、わかったわ。わかったわよ!ごめんね、私が悪かった!」
 瑤子は、正志の言葉を待たずに電話を切った。
 そうだ。
 正志は物分りのいい無料で働く便利な女と結婚するのだから、そんな女の言い分など聞く気はないし、そんな面倒を背負う気もないのだ。男にもてない人生を歩んできた瑤子など、一度抱いてしまえば言いなりになる程度に思っているに違いない。
 瑤子の悲しみは、次第に怒りに変わっていった。
 そして愛は、憎しみへと変貌を遂げていた。
 もう、いい。
 このまま結婚する。
 その後どうなろうと、先に死んでしまう瑤子にはどうでもいいことだ。
 瑤子という便利な女を失ったって、半年も経てば正志には新しい便利な女が容易く手に入るだろう。妻に先立たれた端正な顔立ちの男を、適齢期過ぎの女達が放っておくわけがない。
(もう、どうでもいい。私を死ぬまで使い倒して、後悔するならすればいいし、喜ぶならそれでいいし。・・・どうせ、私が死んだ後のことよ。そうよ。)
 下唇を噛み締めて睨み付けた先に瑤子が見たもの・・・それは、行き止まりの闇だった。


 瑤子は、正志への復讐を企んでいた。
 それは、瑤子亡き後、正志に激しく後悔させること。
 便利な女として邪険に扱ってきたことを、どうしても後悔させてやりたい。
 死んだ後、平気な顔でいられたら、それこそ報われない。
 瑤子は、正志に対して最大限の気配りをし、尽くしに尽くした。それこそ、ごみ一つ正志に捨てさせないくらいの心配りをした。
 正志の母親がどれだけ苦労してきたか、今、身に染みる。初めて挨拶に行ったとき、正志の母親は「正志の病気も背負う覚悟があるのか。」と聞いてきた。厳しい目で、口調で、瑤子の決意を問うてきた。瑤子は頷き、それを証明するため、正志の母親に一から百まで教わりに通った。半年後にやっと認められ、それからは瑤子をこの上なく可愛がってくれるようになった。
 正志の母親は、瑤子の死をどう思うだろうか。再び正志の生涯を支える女性に一からすべて教えねばならない苦労に、喘ぐのだろうか。死ぬことをわかっていて結婚した瑤子を、裏切り者と思うだろうか。それとも、・・・瑤子の死を、純粋に悲しんでくれるだろうか。
 結婚式から2週間後、瑤子は病院を訪れた。
 順番を待っている間、ぼんやりとしてしまう。
 こんなに気を張らないでいい時間が、ここ何週間も無かった気がする。今は自分だけの時間。部屋のことも、食事のことも、正志のことも、考えなくていい自由がある。
「尾見さん。・・・尾見瑤子さん、いらっしゃいませんか。」
 アナウンスで応答がなかったためか、看護師が直接待合室に走ってきた。
 瑤子は、自分と同じ名前が呼ばれてるなぁ・・と優雅に構えていた。が、次の瞬間に気付いた。
 そうだ。
 尾見瑤子とは、自分のことだった。
 苗字が、変わったのだ。
「はい!・・・はい、私です。すみません。」
「大丈夫ですか?」
「・・・すみません、ちょっとぼんやりしてました。」
 保険証が変わって初めての診察。名前が変わったことなど全然忘れていた。正志と結婚したことは、わかっているのに。
 診察室に入ると、医者は言った。
「ご主人に、一度病院に来ていただきたい。すぐに入院が必要なこととか、今後のことをお話したいので。」
 医者は、こんな時にどうして結婚なんかしたんだろう、と不思議に思っているのかもしれない。もしくは、こんな時でも結婚せねばならないほど互いが愛し合っているとでも思っているかもしれない。瑤子は、きっぱりと断った。
「いいえ、その必要はありません。」
「どうしてですか?あなたが入院に積極的でないならご主人に説得をお願いしたり、家で気をつけて欲しいことや、緊急の際のことを話しておかねばなりませんよ。」
「そんなの、必要ありません。主人自身が身体が弱い人なんです。私が動かなければならない立場なんです。私の体です。あの人には・・・関係ないことです。」
 医者は、眉をひそめた。
「まさか、病気のこと内緒にしているんじゃないでしょうね?」
「いけませんか。」
「あたりまえでしょう!?結婚したら、ご主人があなたの家族なんですよ?家族には、言わなければならないことでしょう?どうせ、わかることでしょう!」
「そうです!どうせわかるんです。だったら、ギリギリまで知らなくていいんです。余計な波風が立てたくないんです。それに、入院して、あの人に看病してもらうなんて絶対に嫌です。下の世話とか、母にやってもらうのも嫌なのに、絶対に彼にさせられないし、それくらいなら飛び降りて死んだほうがいいです!」
「馬鹿なことを!そんなこと、考えても、言ってはいけません!」
 横にいる看護師が、憐れみの表情で瑤子を見つめている。結婚してすぐに死なねばならない女の不安定な感情に、同情しているのだろうか。
 だが、瑤子はそんなセンチメンタルに浸っているわけではない。
 今、瑤子が立っていられるのは、正志に復讐しようという強い思いから。
 それには、できるだけ長い時間正志に尽くし、瑤子が貴重な存在だと思ってもらわねばならない。できるだけ多くの優しい時間を作り、瑤子が死んだときの穴を大きくしなければならない。そのためにも、病気のことは最後まで知らなくていい。瑤子が死ぬことを知ってから死ぬ瞬間までの時間に覚悟などされたら、死んだときのショックが少なくなってしまう。今更、正志に同情なんかしてほしくないし、「もうすぐ死ぬ」ことを理由に優しくされても、全然嬉しくないし、かえって気分が悪くなる。
「私も、自分の限界はわかると思います。駄目になるまで、どうか私を自由にしてください。どうしてもやり遂げたいことがあるんです。それが私の最期の意地なんです。プライドなんです。ホスピスを希望しています。予約ができるのなら、手続きのお手伝いをお願いします。」
「あなたは、あなたの身体を過信していますよ。熱も高くなっているし、血液の状態も良くない。体力もなくなっているはずだし、痛みだってあるでしょう?ご主人の世話がどれほどのものか私にはわからないが、それは、相当大変なことでしょう?」
 瑤子は、穏やかに微笑んだ。
「申し上げましたでしょう?それが、私がやり遂げたいことなんです。」
「・・・それが、あなたの愛ですか。」
「まさか。愛なんて幻想は、私を支えません。」
 でも、憎しみは違う。憎しみは確かな現実として、瑤子を奮い立たせてくれる。そして例え憎しみは消えても、そこには安らぎが待っている。愛が消えたら、待っているのは絶望だけだが。
 瑤子は、医師の眼を凝視した。
「私は、ちゃんと支えを持っています。でもそれは、彼に傍にいてほしいとか、慰めて欲しいとか、そういうものとは逆の所にあるんです。」
「薬の影響で、倦怠感なども出ます。そのことをご主人に理解しておいてもらわないと、仲たがいしてしまったり、最悪、暴力に走ってしまうこともあるんです。」
「それでも、いいんです。」
 医者は大きく溜息をつき、回転椅子を回して、デスクに向かった。
「紹介状を出しますから、ホスピスの見学に行ってください。そこで色々聞いて、見て、もう一度考え直してください。少しでも寿命を延ばすための治療を受けるか、そのままにしておくのか。」
 これ以上反論しても、医者と反目しあうだけだとわかっている。瑤子は何も言わず、頭だけ下げて、診察室を出た。

 都心にありながら、その喧騒を忘れさせるような施設が、紹介されたホスピスだった。全室個室。ホテル並みの快適な設備。完全看護でありながら、プライバシーは守られる、理想的な場所だった。ただ忘れてならないのは、ここから出るときはもう、息をしていないということだ。
 案内してくれたのは、瑤子と同じくらいの歳の女性所員だった。
 女性は、施設の概要や費用、決まりごとなどを話しながら、中を案内してくれる。
 そんな中、患者同士が交流するラウンジのような場所を通りかかった。
「こちらで少し、休んでいらしてください。実際に入所している方に話を聞いてみるのも良いと思います。私は少ししたら、戻りますので。」
 突然一人置いていかれ、瑤子はどうしていいかわからず、とりあえずソファに座った。
 ちょっと辺りを見回すと、若い夫婦の姿があった。女性が車椅子に乗り、男性が後ろについている。男性は女性に促され、背中を擦っていた。
「違う、そうじゃないってば!」
「・・・じゃあ、こう?」
「痛いってば!何度言ったらわかるのよ!」
 女性がワンマンで、言いたい放題言っているように見える。ご主人が、よく我慢していて偉いなあと思って見ていた。すると、いつの間にか隣に座っていた年配の女性が声をかけてきた。
「いつもはね、とても仲睦まじいご夫婦なのよ。ただ奥さんの方が、ここ何日かずっと具合が悪いみたい。」
 瑤子は軽く頷きながら、やっぱりああはなりたくないな、と思った。
「ご主人、偉いですよね。献身的に看病なさって。」
「夫婦ですもの、当たり前・・・と言いたいけど、昨今の夫婦はそうでもないのよね。あのご主人は確かに立派かもしれないわ。何せ癌だとわかった途端に、離婚届けをつきつけられたって人もいるし。」
「本当ですか?」
「そうよ。それ、男の人。将来どうやって食べていけばいいんだって、文句言われた挙句の話ですって。他にも女の人でね、跡継ぎが産めない嫁なんていらないって、放り出されたなんてことも聞くわよ。」
 瑤子は、自分も他人事ではないかもしれないと思った。正志が便利な女でない瑤子をいつまでも妻にしておく理由はないと思う。
「でも、ここに入所する費用って結構かかりますよね。どうしてるんです?」
「残り数ヶ月の命だもの。長い間入院されるよりは安いと思って、慰謝料がわりに払ってもらったんじゃないの?お金を払って厄介払いできると思ってる家族もいるらしいわ。」
瑤子は、唇を噛み締めた。
「ひどい話ですね。病気になったのは、その人の責任じゃないことだってあるのに。しかも余命何ヶ月って宣告されて精神的にまいっているのに、家族に見放されるなんて、そんな追い討ちかけるみたいな・・・。」
女性は、遠慮がちに聞いてきた。
「あなたは、どうしてここへ?」
「・・・入所の下見です。」
「あなた自身が?」
「ええ。もう少し先になりますけど。」
「ご主人は、何て?」
「え?」
「結婚指輪。どう見ても新しそうだけど。」
 瑤子は左手の薬指を擦りながら、言った。
「私、病気のこと、言ってないんです。」
「・・・え?」
「言ったら、さっきの話の人みたいに放り出されちゃいそう。」
 明るく茶化してみたが、言葉にしたら涙が滲んだ。
 瑤子は立ち上がると、女性から顔を背けるようにして軽く会釈をし、その場から離れた。
 今、改めて見直すと、ここは決して健全な場ではない。施設はシティホテル並みでも、ここにいるのは非日常を求める人々ではない。死と現実に向き合わねばならない病人なのだ。その重い空気が、いつまでも瑤子の背にのしかかって離れなかった。
 ドラマによくある「余命何ヶ月」の伴侶を持つ夫婦の美しすぎる愛情物語は、文字通り「物語」であり、幻想だ。瑤子はノンフィクションの闘病記を何冊も読み漁った。妻を献身的に看病する夫の姿に感動するどころか、自分は絶対正志に看病されたくないという思いだけが強く残った。その決意が今再び、瑤子の胸をよぎった。
 夕方マンションに戻ると、玄関には正志の革靴があった。帰宅にはまだ早いはずだと思って正志の部屋を覗くと、そこにはベッドに横たわる正志の姿があった。
 二人の部屋は別々になっている。寝室も別。これは二人が必要以上に自分のテリトリーに踏み込まれることを嫌う性格が一致しての結果だ。これは良かった。病気のことを隠し通すにはもってこいだ。
 瑤子は驚いて傍らに走りよった。すると枕に頭を埋めたまま、正志が口を開いた。
「どこに行ってたんだよ。」
「・・・。」
 答えに困っていると、正志の声が更に不機嫌になった。
「いい身分だよな。亭主が働いている間、遊んでいられるんだから。」
「・・・具合が悪いのね?」
「久々に、発作が・・・な。」
「病院へは行ったの?」
「ああ。薬をもらってきた。」
 隙間風のような苦しげな息を吐きながら、正志はうつぶせになって目を閉じた。
「食事は、できそう?」
「・・・軽いものなら。」
「じゃあ、準備するわ。」
 瑤子は静かに部屋を出た。
 結婚して初めての、正志の病気。わからないことがあれば、すぐに頼るよう正志の母から言われている。だが、初めから甘えていては駄目な嫁と思われそうだ。そんなことを考えながら、瑤子は苦笑した。どう思われようと、どうせ一月もたたないうちにこの家を理由も言わずに出て行く身だ。望むのは、葬式の時に正志と正志の家族が、「あんなにいい嫁は二人といなかった。」と泣く姿。
 なんて空しい夢。
 なんて滑稽な未来予想。
 だが、それがなければ、瑤子は立っていられない。
 正志のための特別な食事を作りながら、瑤子は訪れたホスピスのことを思い返していた。
 ― 病気のことを言ったら、放り出されちゃいそう。―
 そうだろうか。
 正志は、そんなに情のない男だろうか。
 そうではない、と思いたい。
 瑤子を便利な女だと思って結婚したとしても、その実、少しは瑤子に対する情があってもいいはずだと、信じたい。
 わかっている。
 こんなに固執するのは、正志が好きだから。
 正志の唇が、腕が、真実の愛を証明してくれたと思ったから。
 その時、瑤子は突然眩暈を感じて、フローリングの床にくずれた。
 胸の奥が苦しい。
 突き刺すような痛みで、思い切り呼吸ができない。
 浅い呼吸に耐えながら、瑤子は症状が治まるのをじっと待つしかなかった。
(私は、いつまでこの家にいられるのだろう?いつまで、こうして生活できるのだろう?)
 本当に倒れてしまう前に、正志の下を去らねばならない。
 気付かれたら、計画は駄目になってしまう。
 知らなかったからこそ、後悔の念が深くなる。それが狙いだ。尽くして、尽くして、突然いなくなる。「探さないで。」という書置き一つ残して。
 それが瑤子の企てなのだから。

 次の朝、正志は6時に起床していた。
 目覚めてから起き上がるまでに時間を要する様になった瑤子は、廊下の物音で「早くしなければ。」と無理に身体を奮い立たせた。パジャマのままでリビングをうろつく行為を嫌う正志のために、何とかシャツとスラックスを身につける。
 お湯を沸かす正志は、もうネクタイを締めていた。
 後から来た瑤子を一瞥すると、「本当に主婦っていうのは、いい身分だよな。」とぼやいた。その嫌味に胸の痛みを感じながらも、すぐ冷蔵庫の中を覗きながら言った。
「喘息の発作は、大丈夫なの?」
「あんまり。だけど、休めないからな。」
 こういう場面だと、ドラマやCMでは妻が夫に「今日くらい休めないの?」と訊ねる。瑤子はそういうシーンをテレビで見ながら、絶対そのセリフは言うまい、と思っていた。休めるくらいなら、ちゃんと休むだろう。仕事をしていれば、毎日その日に片付けるべきノルマがあって、それを自分がやるしかなく、自分がやらねば他人に迷惑をかけてしまう。それが許されるか許されないか考え、出社せねばと思うから病気をおしてでも立ち上がるのだ。「休めないの?」なんて言葉は、思いやりではなく呑気な主婦のセリフとしか思えない。ずっとそう思ってきたから、正志を送り出す。
 瑤子は軽く咳をしながら、朝食を作り始めた。
 正志は紅茶を入れながら、「風邪か?」と訊いてきた。
「ううん、違う。」
「なら、いいけど。この上風邪うつされたらかなわないからな。」
「・・・気をつける。」
 瑤子は、唇を噛み締めた。正志が心配なのは、あくまで正志自身のことなのだと思うと、悔しい。思わず、言ってしまいたくなる。”私はあなたと違って、死がせまっているほどの重病なのよ”・・・と。そのセリフをグッと呑み込むのは、後の報復を大きくするため。そう決意しながら、包丁を握って野菜を刻む。

 ある夜、正志は思いがけない客を連れて帰ってきた。
 高校時代のクラスメイトで、正志の親友の康之だ。
 「やあ、瑤ちゃん。ごめんね、突然。」
 昔のままの人懐っこい笑顔。とりたててハンサムではないのに、すごくもてていたことを覚えている。でも、プレイボーイではない。一時期、瑤子の友人の彼氏だった時期もあり、正志よりもずっと近い位置にいた男子だった。康之は医師。父親の経営する病院に勤めている。3年前に、大学時代の同級生と結婚した。
 3人で食卓を囲みながら、康之はちょっと苦笑いをして言った。
「なんか、全然新婚の臭いがしないな。」
 正志は、小さく笑った。
「なんだよ、それ。」
 箸の先を振りながら、康之はつまらなそうな声をあげる。
「だって、結婚式からまだ1ヶ月経ってないんだぜ?なのに、全然ラブラブじゃないじゃん。」
「俺も瑤子も冷めてる性格だし、イチャつくの嫌いだし、わかるだろ?」
「うー・・・ん、そうじゃないんだよな。どっちかっていうと、夫婦に見えない。他人の男女がたまたま一緒にいます、みたいな雰囲気しか感じられない・・・。」
 康之は、鋭い。10年以上のつきあいは、伊達ではない。
「おい、正志。お前、ちゃんと瑤ちゃんのこと大切にしてんだろうな。」
 グラスを持った正志の表情は、うかがい知ることができない。康之は、瑤子に言った。
「瑤ちゃん、正志に苛められたら、いつでも家に避難しておいで。妻と子どもと、歓迎するからね。」
 康之の言い方が可笑しくて、瑤子は小さく笑った。
 康之は、正志の手からグラスを取り上げ、強い口調で言った。
「正志。瑤ちゃんは、辛いとか、悲しいとか、嫌とか、駄目とか言わない性格なんだから、ちゃんとお前が察してやんないと駄目なんだぞ。わかってんのか?」
「・・・わかってるよ。」
 睫毛を伏せた正志の唇の端は、微笑んでいるようにも、嘲笑しているようにも見えた。
 その時、正志の携帯が鳴り、正志は席を立って部屋を出て行った。
 すると康之は、瑤子に一枚の名刺を差し出した。そこには、康之の一族が経営する病院名と住所が書いてあった。
「近いうちに、おいで。」
「え・・?」
「今、どっかの病院に通ってんのかもしれないけど、一度、俺に診せて。」
 瑤子は、ドキリとしながらも、首を振った。
「私、別に・・・。」
「俺の思い過ごしなら、それでいいんだ。でも、放っておいたら後悔しそうだから。」
 瑤子は、思わず康之の腕をつかんだ。
「何も言わないでよ?正志には何も言わないで。絶対、絶対に、何も言わないで・・!」
 康之は驚いたように目を見開き、顔色を変えた。それを見た瑤子は、逆にハッとして口を噤んだ。これでは、正志に隠し事があることを暴露したと同じだ。
 そこへ正志が戻り、康之も瑤子も何事もなかったように表情をもとに戻した。
 その後、康之と正志は談笑し始め、瑤子は食器を片付けたり、二人のために飲み物を用意した。正志が酒を飲まないため、康之もそれに付き合って専らコーヒーやお茶を飲み続けている。時間が経っても二人の話は尽きないらしく、正志は瑤子に「康之の寝場所を用意してくれないか。」と声をかけた。
「お客様用の布団ね?どこに敷けばいいの?」
 すると、康之は素早く立ち上がった。
「あ、場所さえ教えてくれれば俺、自分でやるよ。」
「大丈夫だよ、俺の部屋の押入れに入ってるんだし。」
「じゃあ、手伝う。ただでさえ新婚夫婦の新居に泊まるなんて図々しいのに、新妻にその準備をさせるなんてもっと図々しいからな。」
 康之は半ば無理やりといった感じで、瑤子についてきた。
 正志の性格どおり、部屋は綺麗に片付いている。押入れの中も整頓されていて、客用の布団はすぐわかるところに仕舞ってあった。瑤子が手を伸ばそうとすると、康之がそれを制した。
「俺、やるから。おとなしくしてて。」
「・・・でも、」
「身体、だるいだろ?重いものなんか、持たせられないよ。」
 瑤子は、康之には隠しておけないのだと覚悟した。康之は医者だ。瑤子と同じような症状の患者を何十人と見ているだろう。
 坦々と寝床の準備をする康之に、瑤子は言った。
「お願いだから、正志には何も言わないでね。」
「あいつ、君が具合悪いの全然気付かないんだな。」
「気付かれないようにしているの。・・・気付かれたくないのよ。」
「どうして?」
「知ってどうするの?私、彼に看病なんかされたくないわよ。」
「夫婦だろ?・・・大体、結婚式前から具合悪かったんじゃないのか?」
「でも、結婚したのよ。本当のこと言おうと思ったわ。でも、結局言えなくて。」
「隠しとおせるもんじゃないぞ。ましてや、一緒に暮らしてるんだから。」
「わかってる。ちゃんと先のことは考えているわ。」
「医者は、何て言ってるんだ?」
「もう、半年ないって。」
「・・・そんな・・・!」
「手術しても、手遅れだろうって言われたわ。痛いのを我慢するのが得意だったのが、災いしたわね。」
 康之は、瑤子の腕をつかんだ。
「すぐ入院しろよ。いつ倒れるかわからないし、少しでも延命できると思う。」
「医者は、みんな同じ事を言うのね。私は、延命なんて望んでいないわ。」
「なんで?正志と一日でも長く一緒にいたくないのか?」
「ベッドの上で、醜くなった姿で長生きしてどうするの?今日死ぬか、明日死ぬかなんてことを常に考えさせる時間を一日でも長くしてどうするの?そんなの、はた迷惑なだけよ。」
 康之は、厳しい目で瑤子を睨んだ。
「聞き捨てならないことを言うんだな。それは、病気と一生懸命闘っている人たちに対する侮辱だぞ。」
「そうかもしれない。でも私の考えは変わらないわ。どうせ直らないのに、どうせ死ぬのに、高い医療費を払わせて、看病の苦労をさせて、気持ちの苦労をさせて、何にもいいことがないじゃない?無駄なことだわ。」
「どうして去っていく人間は、自分のことしか考えないんだ?残される家族の身になってみろよ。一日でも長生きさせたいって思うから、金も払うし、看病もするんだ。」
「でも多くの人は疲れて、一度は思うはずよ。”早く死んでくれたほうが楽だ”って。」
 パン・・・ッ
 康之の手が、思わず瑤子の頬を打っていた。
 康之の後悔の息遣いの中で瑤子はよろめき、だが、しっかり立ったまま康之を見上げた。
「私は、自尊心の塊なの。・・・それは、正志も一緒なの。だから、正志はきっと私の行動を理解してくれると思う。」
「・・・悲しすぎるよ、そんなの。」
「ありがとう、っちゃん。やさしいとこ全然変わらないね。だから、私の最期のお願いよ。正志には何も言わないで。私が死んでも、今話したこと、言わないで。」
「・・・自信ないよ。」
「医者の守秘義務だと思って。・・・お願い。」
 康之と瑤子がリビングに戻ると、正志は一人、テレビでニュースを見ていた。
「布団の場所、すぐわかっただろう?」
「うん。あとは康っちゃんが敷いてくれた。上手いのよ?すごく手馴れてた。」
「なんだよ、康之。家で毎日やらされてるのか?」
「当たり前だろ。俺は妻に箸より重いものは持たせないんだ。」
「そんなわけにいかないだろ。」
 正志も康之も笑って話を続けたため、瑤子はそっと自室に戻った。
 誰にも言えなかった秘密を康之に打ち明けたことで、少し心が軽くなった気がする。だが、秘密を口にした後に襲ってくるのは、秘密が他所にばれないかという不安だ。
 だが、信じるしかない。
 優しすぎる康之が、どういう選択をするのか。
 瑤子は、壁にかかったカレンダーを眺めた。
 そこには、二つの丸がつけられていた。
 一つは、ホスピスへの入所日。
 そしてもう一つは、正志と訣別する日だった。

 ベッドタウンとして名を馳せた街の駅前に、康之の病院はあった。
 7階建ての鉄筋コンクリートの建物の中は、清潔で明るい。受付の女性に康之の名刺を見せると「3番の診察室前でお待ちください。」と案内された。
 10時過ぎの病院は老若男女で溢れている。この病院が繁盛しているというより、この世には病気が万延しているのだと思えてしまう。瑤子の番までに、1時間以上はかかった。
 やっと診察室に入ると、康之が白衣姿で待っていた。
 瑤子の頬が、思わずほころんでしまった。康之は、訝しげに眉をひそめる。
「・・・何で笑うの?」
「だって、似合わないんだもの。ううん、似合う。似合いすぎて、おかしい・・のかな?」
「瑤ちゃんは、変わらないね。昔からすごい笑い上戸で、授業中も止まらなかった。」
「そうだったわね。・・・そんなこともあったわ。」
 椅子に座ると、康之は看護師に席を外すよう命じた。
 すると、康之の目は医師という職業を負った厳しい光を宿した。瑤子はその目を見て、正直に言うしかないだろうと覚悟した。
「今日来たのはね、康っちゃんに念押しをするため。病気のこと、誰にも言わないで欲しいの。」
「・・・ご両親にも言ってないの?」
「言えないわ。・・・特に母は父親を癌で亡くしているの。死ぬまで七転八倒の苦しみだったと言っていた。思い出すのも辛いって。そんな母に私の看病なんてさせられないし、苦しむ姿なんて見せられない。・・・病気でじりじりと死ぬのを待つのと、交通事故であっという間に死ぬのと、どちらのほうがダメージが少ないと思う?私は、事故を選んだの。ショックは大きいかもしれないけれど、その分、苦しむ日数は少ないはずよ。死んだ日に私の死を知れば十分だわ。」
「それまで、君は孤独の中で病と闘うのか?」
「そうよ。」
「両親はともかく、夫である正志はどうするんだ?置いてけぼりか?ホスピスに入るって言ってたけど、どう欺いて家を出る気だ?」
「ご心配なく。ちゃんと、計画はたてているの。」
「・・・どうして正志と結婚したんだ?こうなることがわかっていて、どうして?君にとって、正志は一体何なんだ?」
 瑤子は、悲しげに眉をひそめた。
「それは、言えない。」
「俺は、正志と10年以上の親友だぜ?事と次第によっちゃ、許さない。」
「許さなければ、どうするの?」
「ばらす。全部、正志にばらして、それで・・・。」
 瑤子は、苦笑した。
「どうにもならないでしょ。死んでく人間を脅しても、無駄だわ。」
「理由があるんだろ?瑤ちゃんが考えなしで動くわけないもんな。一体、どうしたんだよ?・・・正志には言わないから、話してくれないか。」
「康っちゃんは、優しいね。昔からほんと、変わらないよね。でも誰にでも優しいのはトラブルのもとよ。高校の頃から、そうだったでしょ?」
「ちゃんと、学習してるよ。」
「そうでなきゃ困るわ。妻子持ちなんだから、分をわきまえないとね。」
 瑤子は上着を抱えて、立ち上がった。
「じゃあ、帰るわ。」
「診察に来たんじゃないのか?」
「正志に言わないでって、念押しに来ただけ。さすがに康っちゃんに裸見せる勇気はないな。」
「俺は医者だぜ?」
「わかってる。でも私にとっては、高校生の康っちゃんのままなのよ。大丈夫、ちゃんと医者にはかかってるし、薬も飲んでる。ホスピスの予約もしたし。」
 康之の目に、涙が滲んだ。
「信じられないよ。・・・どうして瑤ちゃんが、こんなに早く・・・?」
 瑤子は康之の心を沈ませたくなくて、無理に笑ってみせた。
「人は、誰でもいつか死ぬのよ。幸い、私は思い残すことが何もないの。毎日、いつもこう思って生きてきた。『次の瞬間に死んでも、悔いはない。』って。」
「それはわかるよ。瑤ちゃんは、いつも前向きで一生懸命生きてたし、取り組んでた。でも、正志はどうする?瑤ちゃんを失った正志は、どうすればいいい?」
「・・・再婚すればいいわ。」
「それは、」
「妻を亡くした男を、周りは皆心配するわ。同情するし、放っておかないでしょ。」
「正志は、そんなに薄情じゃないよ。」
 ― 本当に愛している相手になら、そうでしょうね。―
 そう言いたかったが、口を噤んだ。そんなセリフを口にしたら、今まで誰にも言わずに耐えてきたことが、すべて水の泡になってしまう。正志への復讐が駄目になってしまう。
 瑤子は、康之に背を向けた。
「正志のこと、よろしくね。・・・それから、今までありがとう。」
「瑤ちゃん!」
 もう、振り向くつもりはなかった。
 自分がやっていることに、疑問なんか感じてはいけない。
 立ち止まってはいけない。
 ただ一つの目的に向かって、突き進むしかない。
 考え込んだら、もう、生きられない。
 立ち止まったら、死への恐怖で奈落に突き落とされる。

 そうだ。

 瑤子は、自分が何をしたかったのか、今やっと理解した。
 正志への復讐とか、恨みとか、そんなもので自分を奮い立たせていたのは、死という現実から逃げていたかったから。
 死と向き合いたくなかったから。 
(だって、だからって、どうすればいいというの?どうすれば、一番良かったというの?正志に知られたくない。正志に病床に付き添ってなんか欲しくない。私が大好きな人たちには、一瞬の悲しみだけですんでもらいたい。それには、死ぬまで何も知らなくていい。知られたくない。同情なんかされたくない。悲しむ顔も見たくない。そうよ、そんなもの、絶対見たくない・・・!)
 走る体力もない瑤子は、ガードレールに手をついたまま、うなだれた。
 昼間の街は、息苦しい。
 明るくて、まぶしくて、息が詰まる。
 瑤子は、このまま足元が崩れていくような感覚に襲われた。
 蟻地獄のように、砂が吸い込まれていくようだ。
 そんなに、間違っていただろうか。
 そんなに、重い罪を犯しただろうか。
 何がいけなかったのか。
 あそこを歩く着飾ったハイヒールの女より、そちらを歩くミニスカートの女子高生より、道向かいのメタボリックなサラリーマンより、自分は、そんなに駄目な人生を歩んできたのだろうか。いい加減で、自堕落な時間を過ごしてしまっていただろうか。
 わからない。
 もう、何もわからない。

 瑤子は、正志にばれないように身の回りの整理を着々と進めていた。残り少ない命だ。必要のないものは、どんどん処分していった。押入れやたんすの中は殆ど空で、必要なものはスーツケース一つに治まっていた。
 その夜は、突然訪れた。
 瑤子が風呂から上がると、正志がリビングのソファで待っていた。
「ちょっと、そこに座れよ。」
 正志の顔は強張っていて、険しかった。
 瑤子は、ドキリとした。
 康之がばらしてしまったのか、そう感じた。
 悪事がばれて叱られるのを待つ子どものように、瑤子は正志の向かいに座った。
 ネクタイを緩めただけのシャツ姿で、正志は重い口を開いた。
「瑤子が風呂に入ってる間に、電話があった。」
「誰から?」
「瑤子の元上司の・・・糸井さん。仕事で必要な書類の場所がわからないからって。」
 康之ではなかったのか。瑤子は少し安堵の息をつき、そして言った。
「そう。じゃあ、電話をかけなおすわ。」
「その前に、一つ、聞きたいんだけど。」
「何?」
 秘密のある瑤子は、緊張が解けない。
 正志の瞳が鋭い光を帯びた。
「糸井さんが、俺に瑤子の体調を訊いてきた。」
「・・・私は、元気よ。」
「いや、糸井さんが教えてくれた。会社の健康診断で要精検だったことや、貧血で倒れていたことを。」
 正志は身を乗り出してきた。
「一体、どうなってるんだ?どうしてそのこと黙ってた?精密検査の結果はどうだったんだ?」
 瑤子は瞳を一度伏せ、覚悟を決めた。
 正志との別れの日。
 それは、今日、この時になるのだ。
「言って、どうなるの?」
「・・・なに?」
「例えば、何か異常があればどうするつもりだったの?結婚をとりやめにしたかった?」
 正志の息遣いが、荒くなった。
「なんだよ、その言い方は?」
「あなたやあなたの家族が欲しかったのは、あなたの面倒を一生手厚く見られる、どんなに働いても壊れないような丈夫な嫁だったんだものね。それが、実は病気持ちだったら詐欺だとでも言いたいの?」
「瑤子・・・!」
 正志は腰を上げ、向かいにいる瑤子の肩をつかんだ。
「何でそんな言い方をするんだよ?俺は、精密検査の結果を聞いてるだけだろうが?」
「どうして、結果が気になるの?」
「当たり前だろ、俺たちは夫婦なんだぜ?」
「夫婦?あなたは私を妻だと思ったことが、一度でもあるの?」
 正志の眉が、怪訝に歪む。瑤子は皮肉を瞳に込め、正志を見上げた。
「あなたは、私のことを家政婦程度にしか思ってなかったでしょう?」
「・・・なんだって・・?」
「あなたは私を、一生あなたの言いなりになる、便利な女だとしか思ってなかっただろうって言ってるの!」
「・・・!!」
 正志の息を呑む音が響く。
 瑤子は、大きく息を吸い込んだ。
「答えてよ。結婚前に、私が病気持ちだとわかってたら、結婚をやめてたんでしょう?だって、あなたが必要としている妻としての役割を果たせないんだものね。」
「一体何なんだよ、便利な女って!?」
「今更、白々しい!あなたが言ったじゃない!?あなたの同僚達の前で、私が便利な女だから結婚するんだ、って!」
「それは・・・!」
「別に言い訳なんかしなくていいわ。最初から不思議に思ってたのよ。高校時代誰も目もくれなかった私を、どうして女に不自由しないあなたが選んだのか。『便利な女』!これ以上ないくらい説得力のある理由だものね。」
 瑤子は、正志の手から離れた。だが、正志の顔を正視することはできない。正志がどんな表情をしているのか、見るのが怖い。 
「それで、ずっと機嫌が悪かったのか?」
「・・・便利な女だなんて友人に公言してるのを聞いて、嬉しい女がどこにいると思うの?」
「まさか、聞いてるとは思わなくて・・・。」
「聞いてようといまいと、あなたの本音には変りがないじゃないの。」
「冷静に考えてみろよ。ただの便利な女と結婚できる男なんているわけないだろ?」
「『ただの』って何?じゃあ、『ただの』じゃない私は何だっていうのよ!?」
 次の瞬間、瑤子は正志の圧倒的な力でソファに押し倒されていた。
 息を吐く間もなく、正志に唇をふさがれる。瑤子は、ありったけの力で正志の顔を突き放し、言い放った。
「これで女が言いなりになるなんて思っているなら、思い上がりもいいところだわ!」
「・・・俺が今、どれくらい怒っているかわからないのか。」
「わからないわ。」
「大体、瑤子は俺の質問に答えようともしないじゃないか。」
「あなたに都合のいい回答をしたくないからよ。」
「・・・どういう意味だ?」
「あなたが望むとおりになっているということよ。」
 瑤子は、力の抜けた正志の腕の中から抜け出した。
 そして、肩越しに振り返った。
「心配しなくていいわ。私はあなたが思うとおり、便利な女よ。」
 自室に戻ると、瑤子は泣きながらベッドに倒れこんだ。
 これでよかったのだろうか。
 こんな喧嘩別れをすれば、正志の後悔は益々強まるはずだ。
 それこそ、瑤子は最大の復讐をやり遂げたことになるのだ。
(それで、・・・どうなるの?)
 正志が瑤子の葬式で泣き崩れるのを、草葉の陰でほくそ笑みたいのか。天国へ行けず、未練だらけでこの世を彷徨い続けて後悔するのは、瑤子の方ではないのか。本当は正志に看取ってもらいたかった、などという贅沢な希望を残して三途の川を渡れなくなるのは、瑤子自身ではないのか。
 ただ一つ確かなことは、明日の未明にこの家を出て行かねばならないということ。
 このタイミングを逃したら、出て行く理由がなくなってしまう。それで次の機会を待っていたら、この家で倒れ、すべてが明るみにでてしまう。
 自分の死を、死ぬその日まで隠しておくことの意義。
 それが今は、よくわからなくなってきた。
 死ぬ間際まで看病してやりたいと、親は思うものだろうか。正志は、病気の妻を抱えてどうしたいと願うものなのだろうか。隠しておくことが、本当に皆のためになるのだろうか。打ち明けて、死ぬその日まで一緒に思い出を作ったほうがいいのではないだろうか?
 違う。
 知られたくないのは、全部、瑤子の都合だ。
 周りに迷惑をかけたくない、というのは瑤子の都合のいい言い訳なのだ。
 瑤子が、親しい人たちに見られたくないのだ。自分が衰えていく様を。醜くなっていったり、下の世話にまでならなくなってしまったり、よだれを垂れ流すような状態になっていくのを、絶対に見られたくないのだ。そんな姿になることも、耐えられないのだ。
 それだけだったのだ。
 そして、死と向き合いたくなくて、それが怖くて、その責任をすべて正志に勝手になすりつけていたのだ。
 正志に非が無い、とは今でも思わない。
 だが、瑤子が負わせようとしているのは、とてつもなく大きい代償だ。
 正志が瑤子の死を、どう思うかはわからない。喜ぶかもしれない。あっけなく忘れてしまうかもしれない。
 しかし。
 もし、そうではなかったら?
 瑤子の思惑通り、死ぬほど後悔して苦しんだとしたら。
 その償いを、瑤子はすることはできない。正志を救うことは、決してできない。
 人は時々、こんなことを願う。
 ”私の命と引き換えにしてもいいから、○○を叶えて欲しい”と。
 だが、瑤子は自分の命を引き換えにして何を得ることができるだろう?何もないではないか。命という最後の切り札をもってしても、何も叶うことがないなんて。
(私の命と引き換えに、何かが叶えられるのだとしたら・・・。)
 それは、今ならはっきりと言える。
 それは、正志の幸福な人生。
 老い先短い両親ではなく、これからまだ何十年も生きていかねばならない正志の幸せな人生を、願う。
 瑤子が死んだとき少しは悲しんで欲しいし、後悔もしてほしい。だが、それを引きずって欲しくはない。瑤子なんかよりずっと素敵で献身的な女性と再婚して、子どもにも恵まれて、「生まれてきて良かった。」と思える人生を歩んで欲しい。決して「便利な女」なだけの女性とは、もう、結婚して欲しくない。
 正志の人生にとって、一体瑤子は何だったのだろう?
 「妻に先立たれた男」というレッテルを作るためだけの存在だったのだろうか。
 それとも、正志の人生に少しでも「存在してくれてよかった。」と思ってもらえるのだろうか。
 瑤子は何度も描いてきたシナリオどおり、明けきらない朝、そっと家を出た。
 台所の瑤子の食器類は、全部袋に入れて、ごみ箱に捨てた。
 残りの荷物すべてを一つのスーツケースにつめ、玄関を出た。
 リビングには、書置き一つ。
― しばらく一人で考えたいので、旅行に出ます。心配かけたくないので、誰にも言わないでください。そのうち、必ず戻ります。 瑤子 ―


 予定日までの1週間は都心のホテルに滞在し、その後、瑤子はホスピス患者となった。


 正志と瑤子の共通の夢の一つに、「オーロラを見に行く。」というものがあった。フィンランドのベストシーズンに合わせるため、新婚旅行は結婚式から3ヵ月後の正月休みに行くことになっていた。
 瑤子は、新婚旅行の申込を正志に内緒で取り消し、代わりに一人分の旅行申込をした。1ヵ月後、どういう身体になっているか、自信はない。医者に何と言われるかわからない。旅行先で周囲にどんな迷惑をかけるか知れない。
 だが、行きたい。
 この世の見納めに、この世の奇跡の光を見ておきたい。
 一人で、果たせなかったハネムーンに行っておきたい。
 正志は、次のハネムーンで行けばいい。
 一人きりのハネムーンは、文字通りHoney Moonハネムーンにはならない。
 苦い、辛い、命の限りを尽くした旅になるだろう。
 それが、正志を苦しませることへの償いにならないだろうか。オーロラの下で、正志を欺いたことへの懺悔がしたい。そして、正志の幸福な未来を祈りたい。
 自分にできることには、もう、限りがあるのだから。


 リムジンに乗って成田空港に降り立ったのは、午前7時過ぎだった。
 吐く息の白さを感じながら、自動ドアをくぐる。
 重いスーツケースを押しながら、空港内部の様子を確認する。世間の休みとは無縁の11月下旬だが、それなりに人で混み合っている。
 ホスピス入所から3週間。無論、誰も尋ねてはこない。
 正志は瑤子の行方を捜しているのだろうか。それどころか、一人で羽をのばしているかもしれない。いつまでも帰ってこなくていいと、思っているかもしれない。
 瑤子は、旅先で死ぬことも覚悟している。むしろ長々と苦しむくらいなら、そのほうが楽な気さえする。
 大抵のことは許してくれる医師も、さすがに反対した旅行。「どうなっても知りませんよ。」と言われ、「そのほうが都合がいい。」と切りかえしてしまった。
(日本に帰ってくるときは、もう、遺体かもしれない。)
 そんなことを考えながら、スーツケースの検査の列に並ぼうとした。
 と、その時だった。

「瑤子!!」

 突然、自分を呼ぶ声が木霊した。
 空耳かもしれない。
 そう思いながらも、一応辺りを見回す。
 だが、見えるのは鉄骨トラス構造の高い天井と、荷物を持った見知らぬ旅行者ばかり。
(・・・気のせい・・か。)
 そう思った途端、いきなり肩をつかまれた。
「瑤子!」
 気のせいではなかった。
 そこには、息を切らして苦しげに肩を上下させている、正志がいた。
 瑤子は、幻を見ているのではないかと目を疑った。
 どうして、正志がここにいるのだ?
 どうして、この場所がわかったというのか?
 声も出せない瑤子に、正志は言った。
「・・・ったく、一人で何でも決めやがって。」
「・・・。」
「俺をおいて、一人で先に新婚旅行に行ってしまうのか。」
「・・・そうよ。」
「それは、君を便利な女扱いした俺への、報復なのか?」
「そうではないわ。私は便利な女だと思われてても仕方がないと思っているし、今はもう何とも思っていないわ。」
 正志は何を、どこまで知っているのだろうか。
 旅行会社が新婚旅行の取り消しの件を正志に確認して、発覚したのかもしれない。そうだとしたら、病気のことはまだ知らないはずだ。
 その時、瑤子が乗る便の最終手続き案内の放送が流れた。
「・・・もう、行かないと。」
 そう言って動き出そうとした瑤子の手を、正志が掴んだ。
「待ってるからな。」
「・・・え?」
「瑤子が無事に帰ってくるのを待っている。帰国の日、迎えに来るよ。」
「・・・いいよ、一人で帰れる。」
「ちゃんと、聞かせてくれよ。オーロラが、どんな風だったのか。絶対、俺に教えてくれよ。万が一でも・・・。」
 正志の声がいったん詰まり、だが、すべてを振り切るように言った。
「万が一、旅行先で死んだりしたら、俺は迎えに行かないからな。遺体の引取りなんて、まっぴらごめんだからな!」
 瑤子の眉間が震えた。
 正志は、知っているのだ。
 もう、全部知ってしまったのだ。
 だが、瑤子の空しい企てが駄目になってしまったことへの悔しさなどは一切ない。それよりも今、瑤子の胸を突くのは、正志がここへ来てくれたことへの嬉しさ。それだけだ。
 瑤子は、震える唇で聞いた。
「帰ってきても、いいの・・・?」
「当たり前だろ。瑤子が帰る場所は、俺のところしかないんだから。」
「・・・そうね・・・。」
 瑤子の頬に、何ヶ月ぶりかで穏やかな微笑が浮かんだ。
 正志の手が、瑤子から離れた。
 瑤子は正志の瞳をまっすぐに見つめ、ゆっくりと手を振った。
「・・・行ってきます。」
 そして正志も、それに答えた。
「気をつけて。」
 踵を返し、瑤子は再び歩き出した。
 背中に、正志の視線を感じる。
 二人の距離が離れるにつれて、瑤子は胸が潰れそうなほど後悔していた。
 それは、正志に病気のことを告げなかったことではない。
 正志への復讐を企てたことでもない。
 後悔するのは、正志との時間を大切にしなかったこと。
 正志への「好き」という気持ちを、きちんと伝えなかったこと。
 正志にどう思われていようと、正志の妻の座を、降りねばならないこと。
 正志が他の女と再婚しても仕方ないとは思っても、嬉しくなんかない。
 あの肩も、あの腕も、髪も、爪の先まで、正志が死ぬまで独占したかった。
 便利な女としてでもいいから、ずっと、ずっと一緒に生きていたかった。
 正志の一生を、見届けたかった。
 そう。
 こんなところで、死にたくなかった。
 これが運命だと諭されて、どうして納得できるだろう?
 瑤子の歩みが、わずかに緩んだ。
 もし、ここで旅行をとりやめたらどうなるか。
 正志に連れられてホスピスに戻り、両親や正志の家族の同情の中で手厚い看護を受け、残りの数ヶ月を見守られる日々を選択することもできる。正志がすべてを知ってしまった以上、瑤子の両親や正志の家族も、皆、真実を知ってしまうだろう。「私が死ぬまで皆は何も知らなくていい。」という瑤子の望みは断ち切られてしまったのだ。ならばこの先、瑤子は周囲とどう向き合えばいいのだろう。
(私は、死と向き合うのが怖かったから正志を憎んだ。でも、それだけじゃなかった。私は家族と向き合うのも怖かったんだ。すべてから目を背けたくて、すべてから逃れたまま死んでしまいたかったんだ。周りのためなんて言いながら、結局、自分のことしか考えていなかったんだ。すべての責任を、他人に転嫁していただけだったんだ。)
 もう一度、正志の方を振り返りたいと思った。
 だが、振り返ったら引き返せなくなるだろうことは、容易に推測できた。
 瑤子は唇を引き締め、もう一度前を見据えた。
 自分で選んだ選択肢が、ここにある。
 自分で決めたことへのけじめは、自分でつけなければならない。
 もう、逃げたくない。
 自分自身からも、
 死からも、
 家族からも、
 そして、
 正志からも。
 瑤子はキャリーハンドルを握りなおし、再び歩き出した。
 迷いの無い、確実な足取りで出国審査へ向かう。
 異国の地で、きちんと考えようと思う。
 そして、出来る限りの回答を持って帰国しようと思う。
 まだ、やらねばならないことがある。
 残していく人々へ、瑤子が本当にすべきことをやりきるまでは、死んではならない。
 そう決意したとき、暗闇しか見えなかった瑤子の未来に、一筋の希望の光が射しこんだ。

 一人きりの、Bitter Moon。
 それが、瑤子の選択。

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