なまえをよんでください
「ユウト、こっちよ」
母さんに手を引かれ桜並木を歩く。
それが俺の一番古い記憶。
夕焼けの空、満開の桜。
母さんと幼稚園から帰るある日の記憶。
「ユウトー、宿題やったか?」
「カズヤはいつもそれだな、ほれ」
小学生の頃の親友はカズヤ。
いつも宿題を俺から写す、すこし困ったやつだった。
でもリレーの時はいつもカズヤは主人公だった。
「橋本君はどこの中学から来たの?」
「第三中だよ。広川君は?」
高校で会った広川は、出席番号で俺のすぐ後だった。
なんだかんだ、いつもつるんでた悪友だ。
「橋本勇人と申します。御社を希望したのは……」
「おい、橋本。この書類間違ってるから修正しとけ」
「申し訳ありません、すぐに修正します」
そこそこの商社の総務に勤めてから、そこそこ厳しいが優しい先輩と組んで仕事をすることになった。
「すみません、橋本さん。この備品がないんですが」
「ああ、それなら今日の午後に届く予定だからもう少し待ってくれるかな?」
3年もする頃には後輩もできた。
「橋本勇人と言います、商社の総務に勤めています」
「山口円香と言います、歯科助手をしています」
結婚相談所で出会った妻。
お互いに少し人見知りで、なんとなく過ごしているうちに適齢期も後半になってあわてて登録した結婚相談所。
一緒にいてほっとする相手だった。
「山口さん、結婚してください」
「私でよければ」
半年後のプロポーズの返事の後、さらに半年してから結婚をした。
「あの、今日から私も橋本なので、名前で呼んでもらえませんか?」
「え、あ、そうだね。円香さん、これからよろしくお願いします」
「はい、勇人さん」
結婚式よりも、式の後の妻の笑顔をよく覚えている。
「パパー、遊んで」
「あらあら、カオリはパパが好きなのね。
ねえパパさん、今からみんなで公園に行きませんか?」
「ああ、ママもカオリも今日はどこの公園に行きたい?」
一人娘のカオリは、俺にも妻にも似ない元気な娘だった。
休日の度に、色々な公園によく出かけた。
「お父さん、紹介したい人がいるの」
「あらカオリ、ジュンヤ君をパパさんに紹介するってことは」
「うん、お母さん。私、彼と結婚したいの」
娘が巣立っていくのは、寂しさと嬉しさが入り混じった複雑な気分だった。
妻の父親もこんな気分だったのかと思ったことを覚えている。
「なんだか、急に家が静かに感じますね」
「そうだな。カオリは今頃、空港かな」
少し広く感じる居間で、妻の入れてくれた珈琲を飲む。
「ねえ、カオリも結婚したことだし、また昔みたいに名前で呼んでもらえませんか?」
「今さらかい?」
「勇人さん、呼んで?」
「……わかったよ、円香さん」
久しぶりに呼んだ妻の名前は、どこか気恥ずかしさがあった。
思えば、名前で呼ばれるなんていつ以来だろうか。
妻が俺の名前を呼ぶ度に、少しくすぐったい気分になる。
妻も名前で呼ぶ度に、少しくすぐったそうな顔をする。
「勇人さん、長い間、お仕事お疲れ様でした。これからは二人でのんびりできますね」
「円香さんも今までありがとう。
そうだな、これからは二人でのんびりできるなあ。
そうだ、久しぶりに旅行にでも行かないか」
「あら、いいですね。
温泉なんかもいいですね。
勇人さんはどこへ行きたいです?」
この頃、いつも膜が張ったようでうまく思考がまとまらない。
「ユウトさん」
ああ誰だっただろう。
俺の名前を呼ぶ優しい声がする。
誰も俺の名前を呼んでくれなくなったのは、いつからだっただろう。
思考がまとまらない。
ただ、名前を呼んでほしい。
「勇人さん、お食事にしましょう」
名前を呼ばれる度に、ほんのりと心が暖かくなる。
「ありがとう、ありがとう。
優しい人だ、お名前を聞いても?」
「橋本円香と言います。円香と呼んでくださいね」
「円香さん、いい名前だ。
円香さん、俺の名前を呼んでくれませんか」
「はい、勇人さん」
なまえでよんでください。