想像の見解
室内が、ほろ苦い香で満たされていく。
「あー、悪ィ俺コーヒー飲めねぇんだ…」
自分の前に置かれたカップの中身を見て、ある裏稼業を持つ甘党の大学生が申し訳なさそうに呟いた。
暖かな陽射しが差し込む部屋。その光に文字盤を反射させている大きなアンティークの時計が、午後3時を告げる鐘を鳴らした。学校の帰り道での話を聞いていなかった結果、快斗は今工藤邸でコーヒーを出されている状況にある。ここに来た理由が、明日提出の英語のレポートをやる為だというのも先程ようやく理解したばかりだ。
「苦いの駄目なのか?あとはこれしかねぇけど…」
新一が、持ってきた紙パックの紅茶をコーヒーの横に置くと、快斗のすぐ隣から揶愉するような声が聞こえた。
「なんや、意外とお子ちゃまやのぉ」
「ほっとけ…」
ニヤニヤ笑う平次を、快斗はジト目で睨みつけるが、睨まれた当の本人は気にする様子もなく課題の準備を始めている。
課題の内容は、英語で書かれた本を読み日本語でレポートにまとめるというシンプルなもの。だが法学に関する専門書らしく、読みごたえのある一冊が課題図書となっている為、結構な労力を必要とするだろう事は目に見えていた。
誰ともなく自然と溜息が漏れる。
RRRR… RRRR…
程なく家の電話が鳴りだし、本に手を伸ばしかけていた新一の手が止まった。そしてその瞳に嬉々とした光を一瞬宿すと、すぐにパタパタとスリッパの音を響かせて部屋から出ていく。
しかし、廊下から話し声が聞こえてくる気配は一向になく、新一も戻って来ない。不審に思って二人がそっと廊下を覗くと、そこには電話の前で何やら白い紙と睨み合いをしている彼の姿。気配に気付いたのか、こちらを振り向くと苦笑を漏らしながら近寄って来る。
「悪ィ悪ィ、今朝のうちに目暮警部にFAX頼んどいたんだ」
そう言って新一が見せたのは、怪盗キッドの予告状。昨夜、警視庁に送られたものだ。中森警部ではなく敢えて目暮警部に頼んだのは、やはり二人の折り合いが悪いからなのだろうか。
「へぇ…」
適当に反応する快斗。一方、東西二人の名探偵達はその暗号に大いに興味があるらしく再び紙と睨み合いを始め、動こうとしない。
暗号の製作者がその様子を見てクスリと笑みを零した事に、気付く者はなかった。
「だーっ!!何なんや、この複雑怪奇な暗号は。ちょい、黒羽も知恵貸せや!」
十数分の間その場で紙と睨めっこをしていた平次が、来い来い、と手招きしている。
「…いやいや、俺には無理だって。それにやっぱ暗号は名探偵が解かないと…な?」
暇を持て余して課題の本を読んでいた快斗は思わぬお誘いに一瞬きょとんとした表情を見せたが、さすがに暗号解読に加わる訳にはいかないので丁重にお断りした。
「そもそもキッドってどんな奴なん?」
「…は?」
ようやく予告状を手放しソファーに戻って来た平次が尋ねた相手は、快斗。ここの家主が先程ふらりと部屋から出ていってしまったからだった。
「アホみたいに真っ白い格好でキザったらしい台詞吐いとる泥棒やっちゅうのはもちろん知っとるで?…そやけど、アイツあんまり大阪に来ぃへんし。それに俺は泥棒なんかに興味あらへんかったんや」
せやから詳しい事は知らん、と付け加える様に弁解を始めた平次。
発言の節々に見受けられた聞き捨てならない言葉に顔を引き攣らせつつも、快斗は曖昧な笑みを返した。確かに彼の言う通り、『仕事』で大阪に行った事はほとんどない。…というか、学生という身分上あまり遠出ができなかったというのが真実だ。時間も、お金もなかった。そんな高校の時に比べれば幾分時間に余裕がある大学生となった今、海外にも手を伸ばしてみようかなんて考えていた所だったのだが。
…と、ここで彼の最後の言葉がひっかかった。
「なぁ、興味が『なかった』って事は、今はあるのか?」
そう尋ねると、平次は人懐こい笑顔でくしゃりと笑う。
「まぁ、そこそこな。工藤が負ける程の頭のええ泥棒となら対決してみたい気はするわ」
「バーロ!俺は負けてる訳じゃねぇよ!」
絶妙なタイミングでドアからひょっこりと顔を出した新一が、間髪入れずに素早く反論した。そのままズンズンと苦笑いを浮かべる二人に近づいてくる。
「ほらよ」不機嫌そうに新一が差し出したのは表紙に“FILE1412”の文字が並んだ薄紺のファイル。
「なんやコレ?」
「父さんが集めた犯罪ファイルの一つさ。それはキッド専用のやつ。まぁ最後の方のページは俺が足したんだけどな」
びっしり埋められた文字と、新聞の切り抜き、予告状のコピーなどが丁寧にまとめられたファイル。
半分呆れ気味にファイルを見つめる快斗を余所に、興味津々といった感じでペラペラとファイルをめくっていた平次は『考察』と書かれたページで手を止めた。
「初めて現れたんは18年前…やて?そんならもう結構なオッサンやないか!」
もっともな意見に、ソファーに座った新一が平然と
あぁその事だけど、と答える。
「奴はまだ若い。はっきりと顔見た訳じゃねぇけど、俺たちとそうは変わらねぇと思うぜ?」
…やっぱりバレてるか。
新一の発言に、快斗の課題本のページをめくる手が一瞬止まった。
小学生だと少なからず油断していた初めての出会いは仕方ないにしても“江戸川コナン”には何度か近くで顔を見られている。まして慧眼を持つ彼のことだ、見破られていても不思議ではない。
「っちゅーことは、18年前のキッドと今のキッドは別人なん?」
「断定はできねぇが、その可能性は大いにあるな」
「…ソレ警察には言うたんか?」
「いや、まだだ。それに証拠のない情報なんて言うつもりもねーよ」
そう言うと、新一はカップを口許に運ぶ。その瞳はまるで何かを待っているように楽しげに輝きながら西の探偵を写していた。
「怪盗キッドは…」
パラパラとファイルをめくっていた平次の、独り言とも取れる呟き。
「…キッドは何か探しとるんやろか?」
「どうしてそう思う?」
尋ねた新一の瞳は先程よりも楽しげに光を放っていて…
何やら話が良くない方向に傾いている。そう感じた快斗は、そっと課題本の影から彼らの様子を窺う。もちろん涼し気なポーカーフェイスは顔に張り付けたままに。
「さっきの工藤の話…、昔と今のキッドは別人っちゅう前提の話なんやけどな。もしそうならキッドには何か明確な目的があるんやないかって思たんや。それも二代目が現れるくらいのな」
大人しく話を聞いている新一をチラリと横目で確認し、平次は続ける。
「それとな、このファイルに残っとる資料によれば、盗んだモノをすぐに持ち主に返すっちゅう犯行スタイルは昔も今も変わっとらん。そやから…」
「奴は何かを探す為に盗みを働き、目的のモノじゃないから持ち主に返してた。そぅ言いてぇんだろ?それなら、最近奴が宝石専門に転向したのにも説明がつくしな…」
途中で言葉を切った平次の後を新一が続ける。
「せや。何らかの情報を得て、狙いの的が定まってきたっちゅうことやろ?…って、工藤お前何笑っとるんや!おかしい所があったんなら言うてみぃ」
平次の視線の先にはクスクスと肩を震わせながら笑う友人の姿。ビシッと指を指されて、笑んだ顔はそのままに新一はカップを置いた。
「悪ィな。別におめーを笑ったんじゃねぇんだ。ただ、考える事は一緒だなぁと思ったらおかしくてよ。不確かな情報で成り立ってる訳だから、こんなのは推理じゃねぇ、ただの想像だ。なのに俺達は同じ答えを導き出した、おもしろいと思わねーか?」
つられて平次も口角をつりあげる。
「せやなぁ。これが真実やって気ィしてくるわ」
探偵二人から発せられる不穏な空気。もはや自分の存在は忘れ去られているのではないかと疑念がわくほどに、快斗はこれ以上にないくらいの居心地の悪さを感じていた。そんな彼に構うことなく、怪盗談議は終わる気配を見せない。
「ほんなら工藤、キッドの活動範囲からも何か気付かへんか?」
何かに気付いたらしい平次は、ファイルを手渡しながら問いた。
資料を手に考え込む友人を見て、更に付け加える。
「以前は海外での活動も多かったみたいやけど、今は海外どころか東京周辺に集中しとるやろ?」
途端に、新一が口を開く。
「…成る程な。もしキッドが二人いると考えるなら、今のキッドは東京から離れる事ができない人物。東京に表の仕事を持ってるとか…学生って考えもあるな」
三人寄れば文殊の知恵、凡人でも三人集まって考えれば良い知恵が出るというくらいだ。才に恵まれた名探偵が二人集まれば知恵などいくらでも出るのだろうか。
いつまでたっても追究を止めようとしない二人を一瞥し、これだから探偵ってのはたちが悪ィ、と快斗は誰にも気付かれないような小さな溜息を零した。
何が思う事があったのか探偵達は自らの思考の渦に入り込んでしまい、部屋に静寂が訪れる。
その静寂を破ったのは、突如部屋に響いた時計の鐘の音。時計の針はすでに6時を差していた。
「俺、もう帰るよ。家一番遠いし…」
そう言ってソファーから立ち上がった快斗。その手にある課題の本が、振り返った二人の探偵に工藤邸に来た本来の目的を思い出させた。
「あ…そういや課題の事忘れてた」
「俺もや…」
「二人とも話に夢中だったもんなぁ。俺はもう終わったぜ?」
顔の横で本を揺らしながらそう言った快斗は、そのままマジックでパッと本を消して見せる。そして、そのままカバンを掴むとニッと笑う。
「じゃ、また明日な!」
そう言い残して快斗は部屋から出て行こうとする。
「黒羽っ!!」
それを呼び止めたのは新一。だが、快斗が振り向いた先に見た彼は困惑したような表情を浮かべていた。呼び止めた本人が困惑しているこの状況の真意を図りかねて、快斗が怪訝そうな視線を投げると、
「あ…いや、何でもない…また明日な!」
歯切れの悪い口調からは何も読み取れない。
というか寧ろ新一本人が、自分のとった行動に驚いている様にも見えた。問い詰めても無駄、そう瞬時に判断した快斗はそのまま工藤邸を後にした。駅までの薄暗い道程。思い出されるのは別れ際の工藤新一の奇行。あれは『何でもない』顔ではなかった。しかし自分の行動に不審な点があったとも思えない。
「…なんだかなぁ…」
釈然としない思いは小さな呟きとなって闇に呑まれていく。
「どないしたっちゅーねん?」
飛んできた質問にハッと我に帰る。どうやら自分によく似た友人が出ていったドアをずっと睨み続けていたらしい。
その理由は分かっていた。黒羽がこちらに向けた笑み、それが自分の中の記憶の断片にダブったような気がしたからだ。だがそれがいつの記憶なのか、いったい誰だったのか…パズルのピースがうまく嵌まらない。それどころか、嵌まる筈のピースの繋ぎ目は全く別の形をしている様な、そんな感覚に陥ってしまう。
「…アイツ、これ本間に3時間で読み切ったんやろか?」
平次の弱々しい声色に、新一のぐるぐるとした思考は中断された。
「これ専門用語だらけで、ごっつぅ読み難いで?3時間なんて無理や…」
嫌そうに本を顔から遠ざけて顔をしかめている平次の手から本を奪い取った新一は、並んだ英文に目を通した。英語には多少自信のある新一の顔が徐々に険しくなっていく。
「服部…半分ずつ分けてやらねぇか?」
「…せやな。そうでもせんと、寝られなくなりそーやし」
直後、工藤邸に二つの大きな溜息が落とされた。 |