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溶けていく

作者:飯野秋里

 ガラス越しに広がった街並みをぼんやりと眺めていた。
 オフィス街の中心に位置するこの場所で、スーツ姿の人々が、皆足早に私の視界の端から端へと消えていく。ふと、流れていく人の早さにこのガラスの内と外とでは違う速度で時間が進んでいるような錯覚に囚われた。追われるように足早に過ぎ去っていく人達と、こうしてそれを座って眺めている自分とでは別の世界に生きているようだった。
 細かい水滴に覆われたグラスを指先でなぞる。そうすることに特に深い意味は無かったけれど、目の前に座る彼はそれを遅れてきたことに対する怒りの表現として受け止めたらしい。
「悪かったって」
 そう言った彼がテーブルに付きそうなくらい頭を下げていた。
「別にいいよ」
 視線は相変わらず外に向けたまま私は言った。なるべく穏やかに言ったつもりだったけれど上手く出来たかどうかは分からない。
「大変なんでしょ?」
 私は心の中でゆっくりと一つ息を吐いて、視線を彼に合わせて、そして笑った。今日始めてちゃんと向き合った彼の顔が少しだけ緩んだ。どうやら上手く笑えたようだ。そのことに安心してしまっている自分がひどく惨めだった。彼に気づかれぬように少し俯き、唇を噛みしめた。
 彼はまぁね、と呟いて少しだけネクタイを緩める。
 正午近くということもあって店内は外を歩く人達同様、スーツ姿の人で混み合い始めていた。端から見れば、今目の前に座っている彼だってその中の一人としてきちんと機能している。こうして面と向かい合っていなければ、きっと街中ですれ違ったとしても私は彼とは気がつかないだろう。薄いピンクのブラウスにタイトフィットのジーンズという姿の私だけ、この店内で浮いているようだった。
「仕事、上手くいってるの?」
 この一年間で見事にスーツを着こなしている彼を見ながら私は尋ねる。今の彼の状況にさして興味は無かった。けれど二人の間に流れる、一年という空白のせいで生まれる沈黙は避けたかった。
「順調だ」
 彼は運ばれてきたコーヒーに砂糖を入れ、スプーンで円を描いていく。はっきりとした口調から漂うその揺るぎない自信は、一年前まで確かに私を惹きつけていた。そして、それは今の私には眩しすぎた。
「そっちは、どう?」
 彼が尋ねる。スプーンを一旦置くと、陶器に入ったミルクを注いだ。それは白い線で渦を作った後、混ざり合って溶けてしまう。
「変わらないよ」
 私は呟く。
「変わらない」
「そうか」
 彼と合わせていた視線を、私は再び外に向けてしまう。彼はこのガラス越しの世界に飛び込んだ。そして私は飛び越えられずにこうしてぼんやりと眺めている。一年前では無かったこのぎこちないわだかまりだって、言ってしまえばそれだけのことだった。
「お前が院に進むって聞いた時は正直驚いた」
 カップに入ったコーヒーをゆっくりと飲み下しながら彼は言う。カップを手に取り、カップから手を離すまでの一連の動作の中に、私の知っている彼の仕草を見つけることは出来なかった。小さく音を立てて飲む癖も、乱暴にカップを置く癖も、そこには無かった。
「そう?」
 彼に追従するように私も自分のストローに口をつける。未だに美味しいとは思えない苦みが舌の上に広がっていくのが分かる。離したストローにうっすらと歯形が付いた。小さい頃から親に直せと言われ続けてきた私の悪い癖だった。
「うん、何か、そうだな、お前にふさわしい仕事に就くと思ってたよ。クリエイティブなね」
「クリエイティブ、ね」
 隣のテーブルに座ったOL風の女性達の姦しい会話が、意識しなくても耳に入ってくる。彼女たちは彼の言うクリエイティブな仕事をしているのだろうか。その会話の無意味な言葉の応酬の中に私は創造的なものを何一つ見いだせなかった。
「どうして院に?」
 心臓が僅かに跳ねた。
 あなたに置いていかれそうだったから、と言っても彼には理解出来ないだろう。離れていったのは私なのだ。社会に出るという選択肢はもちろんあった。寧ろ置いていかれたくないのなら、そうすべきだった。彼の問いは、もう一年前からずっと私の頭に住み着いている。
「今日は」
 彼の質問には答えずに、私は尋ねる。
「どうして呼び出したりしたの?」
「ああ、実はな」
 少し歯切れが悪くなった彼の、こちらを見る伏し目がちな眼差しには、私の知っている面影が少しだけあった。同時に、その瞳の中のどこにもかつて私が気に入っていた何かを見つけられないことに失望感を覚えた。
「今度ロンドンへ行くことになった」
「ロンドン?」
 唐突に出てきたその名前に、私は今の自分の現実と上手く結びつけることが出来なかった。けれどそこは私が今いる世界とは違うもので、とても遠い場所だということだけは分かった。
「仕事?」
「うん」
「そっか」
 言って、何故か安心したような気持ちになっているのに気がついた。同時に、どうしようもない喪失感が私を捉え始めた。肺の奥がぎゅっと掴まれる。
「夢が叶ったって所だ。海外勤務はずっと希望していたから」
「そっか」
 もう一度言って、私は水っぽいコーヒーに手を伸ばす。冷たい液体が喉元まで出かかっていた何かをお腹の下まで押し下げていく。口に残る苦みに耐えかね、砂糖を入れようかと思った。けれどテーブル脇に置いてある角砂糖は冷たいコーヒーには溶けてくれそうにもなかった。
「おめでとう」
「ああ、ありがとう」
 活気づく店内のここにだけ不自然な沈黙が落ちた。お互いに次の言葉を待っている。相手が先に口を開いてくれることを期待している。そんな静けさだった。彼が何を思ってこの事実を私に告げに来たのか分かりかねた。彼の方も今、同じ事を考えているのかもしれない。この事を告げて、彼は私にどんな言葉を期待したのだろう。
 指先で濡れたグラスをなぞる。
「おめでとう」
 もう一度言って、私は笑う。彼も笑う。
その瞬間、もう彼とは二度と会えないと、そう強く感じた。
「気をつけて行ってきてね」
 目の前にいるはずの彼が、手を伸ばせば届くはずの距離を一緒に歩いていた彼が、小さく見える。彼のせいじゃない。立ち止まったのは私だった。
 一年前のあの日、彼は私に手を差し出した。大学を出たら一緒に暮らそうと、そう言ってくれた。それを断り、彼との関係も絶ったのは当時の私がどうしようもなく臆病だったからだ。そして今の私があの日に戻れたとしてもきっと同じ返事を出すだろう。私たちは生きる世界を違えた。私から、一方的に。
 ロンドンへ行くのはもう彼の世界の問題で、院に留まったのは私の世界の問題で、今となってはその苦しみも喜びも分かち合うことは出来ない。今の彼と私との距離はテーブル越しでしかないけれど、そこには明確な境があった。私がさっきからずっと眺めている内と外を隔てているこのガラスのような透明な何かだ。眺める事しか出来ないこの場所で、私はそれを割ることも出来ないでいる。
「ああ。行ってくる」
 穏やかな口調でそう言った彼を、私はもう見ることが出来なかった。外の世界では、相変わらず誰も彼もが急かされるように歩いて行く。
「それじゃあ、そろそろ行くよ」
 最後の一口を飲み干して、彼は立ち上がった。
「うん、じゃあね」
 一緒に店を出ることを期待したのかもしれない。立ち上がらない私に少し戸惑った顔をしたけれど、それもほんの少しの事で、彼は私に背を向けて歩き出した。
「じゃあね」
 その後ろ姿が見えなくなった後、氷の溶けたコーヒーを最後まで飲み、ゆっくりと十数えて、私は席を立った。
 街はスーツ姿の人で溢れている。無意識にその中から彼の後ろ姿を探そうとした。もちろん私には彼を、彼と同じ姿をした大勢の人の中から見つけることなんて出来るはずもなかった。雑踏の中で私の周囲だけが静まりかえっているようだった。打ちひしがれたような孤独感が、先程と同様に肺の奥をぎゅっと掴んだ。皆が歩いている中で立ち止まっている私は、この人混みの中で一人、違う世界に生きているよう気がした。

 その晩、私はいつもより温い湯船にいつもより長い時間浸かった。
 今日一日自分を包んだ薄い膜の様な感情が溶けていくような気がした。
 違う。声に出したその言葉は微かに響いてすぐに消えた。
 今日だけじゃない。言って私はきつく目を閉じる。この薄い膜は幾重にも幾重にも、長い時間をかけて私を覆っていた。ずっと私に纏い、気がつけば皮膚の一部として馴染んでいた。
 ねえ
 かつて好きだった、もう会うこともない、私を外へ連れ出そうとしてくれた人へと心の中で呼びかけた。
 本当は一緒にいたかった。
 昼間、私の喉元まで出かかっていた何かが溢れる。今も昔も、私はどうしようもないくらい臆病だった。
 でも怖かったの。変わっていくことが、社会の中に溶けていってしまうことが。隣にいたあなたが変わっていくことも、輝くことも、その全部が私から遠くに離れていくようで怖かった。私だけが取り残されてしまいそうで怖かった。今も、ずっと、そう。変わることも、生きていくことも、覚えていくことも、忘れていくことも、全部怖いの。自分がどこにいるのかもわからなくて動けないの。踏み出せないの。ねえ、だから、ねえ……。
 涙が零れた。浴槽の隅でうずくまって、ずっと泣いた。嗚咽は浴室の中に虚しく響いた。
 滴は頬を伝い落ちて、湯船の中に溶けていった。

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