第2話 夢は屯(たむろ)する (その82)
「行かれたのですか?」
ようやく、源次郎が言葉をつなぐ。
美由紀は、もう一口お茶を含んでから、今度は立ち上がって、以前に自分が使っていたという勉強机の傍に行く。
「うん、行くことにしたの。その仕事が良いとか悪いとかじゃなくて、小樽を出られるというのが理由ね。それで、バッグひとつだけで、富山に行ったの。それで・・・・・・・・・・・・・・・」
その言葉を最後にして、美由紀は後を語ろうとはしなかった。
その間、美由紀の手は、その勉強机の上を、何度となく撫でているだけだった。
「・・・・・・・・・・・」
源次郎も、口を開こうとはしない。
当然に、それ以降の話がある筈なのだが、当の美由紀本人が話さなくなった以上、こちらから催促すべきではないと思っていた。
突然、その勉強机の上にあった目覚時計が「ガチャガチャガチャ」と鳴りはじめる。
どうやら、少し壊れかけているようで、まともな音ではない。
美由紀は、少し笑ったようだったが、その時計を手にとって、頭のところをそっと押して、ベルを止める。
「そりゃそうだよね。この時計、私が中学へ入学したときに、おばちゃんが買ってくれたものだから。もう7〜8年だもの。そりゃ、壊れもするわよね。」
そう言いながらも、まるで可愛いものにでも触るときのように、優しく、そっと撫でている。
思い入れのある時計なのだろう。
「あっ!いけない。これが鳴るってことは、そろそろ楽屋に戻らないと。」
美由紀は、そう言って、時計を元に戻す。
どうやら、仕事の時間に合わせてセットされていたらしい。
美由紀は、振り返って、源次郎に言う。
「源ちゃん、聞いてくれて有難う。・・でも、これから先の話は、また後で。」
そう言いながら、ちゃぶ台の上にあった空の寿司桶と椀を2人分重ねるようにする。
慌てて、源次郎が「僕がしますから」と言ったのだが、美由紀は静かに頭を横に振るだけだった。
「これは、私が持って降りる。そうでなけりゃ、おばちゃんに叱られるの。」
そのときの美由紀の顔は、まさに母親に叱られることを思う娘そのものの笑顔だった。
2人は、階段を下りて、それぞれに靴を履く。
美由紀は、持って降りた器を、カウンターの中へ持ってはいる。
カウンターの一番奥に、下の部分が無いところがあって、そこを慣れた様子で潜っていく。
さすがに、ここで育っただけのことはあって、ごちゃごちゃと雑多なものが置いてあるにもかかわらず、そうしたものを旨く避けながら、洗い場のところまで持って行く。
そのとき、おじさんと呼んでいたこの店の店主に、何ごとか一言だけを話したようである。
無論、源次郎には何を言ったかまでは分らない。
「じゃあ、また次の休憩のときに来るね。」
美由紀は、店中に聞こえるように大きな声で言う。
「ご馳走様でした。美味しかったです。」
源次郎も、そういって、店主に頭を下げてから、店を出た。
来たときと比べると、客は約半分に減っていた。
だが、それでもこの昼食時間を大きく外れた時間帯であっても、それなりに繁盛していることだけは窺えた。
(つづく)
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