第2話 夢は屯(たむろ)する (その79)
やがて、そのおばさんが階下に消える。
「これからも美貴のこと、よろしくお願いいたします。」
おばさんは、最後にそう言って降りていった。
結局は、源次郎は名乗らずじまいであった。
おばさんとの歓談の延長線上にいるのか、美由紀はにこやかな、それでいて柔らかな顔をしている。
源次郎は、初めて美由紀のそうした顔を見たような気がする。
「あの、変なことをお聞きするんですが・・・。」
源次郎は、自分がまだどこか別の世界にいるような落ち着かない気持がある。
「何?・・・・とにかく食べようよ。食べながらでも聞くから。」
美由紀は、まったく動じていない。
早速に箸を取って、椀の蓋も取って、両手を胸の前で合わせて「いただきます」と言う。
「僕の聞き違いなのかもしれません。そうだったら、笑っちゃってくださっても構いません。」
「だからさ、食べながら聞くから、源ちゃんも食べて。あんまりゆっくりしている時間はないのよ。」
そう言いながら、美由紀は柱にかかっている時計を見上げる。
「あっ!そうなのだ。今は、舞台と舞台の合間なんだ」と源次郎も気が付く。
それで、美由紀の真似をするように、両手を胸の前で合わせて「いただきます」とやる。
吸い物を口にする。そして、チラシ寿司を一口入れてから、おもむろに言葉をつなぐ。
「さきほど、あのおばさんが、美由紀ではなくて、ミキって呼んだ様な気がしたんですけれど・・・。」
「・・・・・・・・・・」
美由紀は、食べるのに忙しいのか、それともどう答えようかと考えているのか、暫くは黙っていた。
違うのだったら、源次郎の聞き違いだったら、美由紀は即座に反応したに違いない。
だが、肯定もしないが、否定もしない。
やはり、それって、源次郎の聞き間違いではないという事実を認めたようなものだ。
源次郎は、そのように理解する。
この家は、美由紀が育った家だと言った。
だとすれば、どのような関係かは別としても、美由紀とあのおばさんとの触れ合いは納得できる。
だが、その育った家の人間が、美由紀ではなく「ミキ」と呼ぶということは、どのような事情があったにせよ、この家にいた時にはそのように呼ばれていたと解するのが妥当であろう。
源次郎は寿司を口に運びながらも、そのように状況整理をしていた。
「私の人生ってさ、素直じゃないんだ。名前だって、複数あるんだ。」
急いで食べたのか、それとも本当にお腹が空いていたからなのか、ともかくも美由紀はすべてを食べ終わっていた。
それを見た源次郎も、訊きたいことが山ほどあるのだが、それを抑えるようにして、急いで寿司を平らげる。
「美由紀って名前は、確か、お母さんがつけられたとおっしゃってましたよね。・・・・・それって、本名なんですか?それとも、芸名をお母さんがつけられたという事なんですか?」
源次郎は、まずは自分が呼び慣れている名前から確認する。
(つづく)
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