第2話 夢は屯(たむろ)する (その759)
その事実を、つまりは「帰ってもらって結構です」と言われなかったことを、母親はなかなか娘に切り出せないようだ。
父親が来るだとか、ショートケーキを買ってくるだとかの話でしか言葉を掛けられていない。
それでいて、一方の娘の方も、これまた「帰れないの?」とは訊かない。
つい先ほどまでは、家で飼っている金魚の心配をしていたのに・・・。
ここは、少なくとも救急車で運ばれてきた患者の待機室である。
どういう経緯で、どういう状況でここに運ばれてきたのかは分からないが、母親も当の娘も、ある程度の予測というか、覚悟というか、そうしたものを抱いていたようだ。
だから、医者の話を聞いてきた筈の母親に、娘はその結果を問い詰めていない。
恐らくは、母親の態度や雰囲気から、娘は「帰れない」ことを子供心に悟っているのだろう。
これが初めてではないのかもしれない。
源次郎は、そんな気がした。
札幌の大学病院の小児病棟で見た子供たちの顔が浮かんでくる。
「松戸さん、お帰りになる前に、もう一度包帯を取り替えておきますね。」
ひとりの看護婦がやってきて、向いの中年男性に声を掛ける。
先ほど来た看護婦とは別人である。
どうやら、病院は彼を入院させるつもりはないようだ。
そう言われた男性が頭に巻いた包帯にそっと手をやる。
そして、奥さんに向かって、小さく何度か頷いた。
夫婦間での会話だろう。
そして、奥さんに脇を支えられるようにして病室を出て行った。
自力で歩いている。
病院とは命を救ってくれるありがたい所なのだが、その一方で、結構残酷な場面を作り出す場所でもある。
源次郎は、病室を出て行く男性の後姿を見ながら、ふとそんなことを思ったりする。
皮肉なものだ。
つい、今しがた、奥の女の子は「入院してもらいます」と宣告をされたのだろう。
それを親子で、必死に自分たちに納得をさせようと葛藤している。
その一方で、しかも、その親子がいる部屋で、これから「お帰りになる」男性が呼ばれたのだ。
もちろん、その両者に関係はない。
多分、互いに初めて会った家族同士だろう。
それでもだ・・・。
ひとつの家族は、怪我を口実に入院を自ら希望しようとする。
そして、もうひとつの家族は、何とか家に戻りたいと希望していたにも拘らず、それは叶わなかった。
病院としても、そうした患者同士の関係性までは考えていないだろう。
いや、考えられる状況には無いのだろう。
それが、救急病院の現場の感覚だということも頭では分かっている。
それは分かるのだが、改めて、こうした空間、こうした一瞬に立ち会うと、源次郎はやるせない気持から抜け出せなくなる。
(つづく)
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