第2話 夢は屯(たむろ)する (その30)
美由紀の唇が、源次郎の頬を捉える。
数秒の間、それは動かない。
そして、生温かな感触だけを残して、ふっと離れていく。
「じゃあね。」と言って、奥へと行く美由紀を、源次郎は呆然と見送っている。
源次郎は、何をされたのか、まだ分っていない。
だが、周囲の、と言っても、もう数人しかいないのだが、その目撃者達のざわめきで、やはり今のは現実なのだという思いが沸くだけである。
なぜ、どうして?
その答えは、どうしても出てこない。
奥から、通路を通して支配人の大きな声が聞こえてくる。
いよいよ、最終の打ち合わせが始まったようである。
源次郎は、誰もいなくなった事務所にひとり取り残された。
「どこへも行くな、ここで待って欲しい」と美由紀は言っていた。
「はい」と返事はしたものの、まるで子供に言うようなことだな、と改めて思う。
そして、別れ際にほっぺにキスをされた。
それも何か子供に対するようなもののように思える。
俺って、どういう立場なんだ?
ただの雇われ人の筈なのだが、どうやら周囲の雰囲気はそのようには見ていないようなのだ。
美由紀もどこか変である。
そんなことを考えていたが、2時間もこうしているだけなのか、との思いが沸く。
取り敢えずは、俺の荷物を確認しておこうと、机の下を見渡す。
確か、この机の足元においていた筈なのだが、そこには見当たらない。
辺りを見渡すと、出口に近いところにおいてあるゴミ箱の横にあった。
どこからか放り投げられたような不自然な格好でひっくり返っている。
源次郎は、その鞄を取りに行く。
持ち上げて、天地をひっくり返してみる。
元から薄汚れてはいたが、一段と汚れた感じがする。鞄をはたいてみる。
何となく、今の自分と同じ運命にあったような気がする。
邪魔になって、蹴飛ばされて、そして、最後には放り投げられたに違いない。
床を滑って、そのゴミ箱にぶち当たって止まったのかもしれない。
ともかくも中を確認する。
取られる様な貴重なものは入っていないが、源次郎にはどれも今なくては困るものばかりが入っている。
開けると、突然、あのハンカチに包まれたブリーフが出てくる。
それを見て、源次郎は、ようやく思い出す。今、下着は履いていないんだと。
美由紀が下着を着けずに服を着ているが、それとは訳が違う。
今更のように恥ずかしさが戻ってくる。
それを含めて、中からは何もなくなってはいないようだ。
それだけを確認して、源次郎はその鞄を自分が座っている足元に置く。
いつからだろう、こうして鞄を床に置くようになったのは。
高校の時には、こうはしなかった。机の上や、棚の上などに置いていたような気がする。
だとすれば、東京の大学に入ってからだろうか?
そうした床に置いた鞄の横に、美由紀が「見ておいてね」と言ったハイヒールがきちんと並べてある。
きっと、俺と美由紀さんは、こんな風に見られているのだろうな。源次郎はそんな気がした。
そこへ、ひとりの女が入ってきた。
「あっ!」
互いに、ぼぼ同時に叫んでいた。あのとき、トイレを掃除していたおばさんだった。
(つづく)
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