予言はノンストップ
「ねー、ママってば、聞いてるの?」
「はいはい聞いてるわよ」
最後部の座席から、まだ小学校低学年くらいの女の子と、それをうるさそうにあしらう母親の会話が聞こえてくる。駅から住宅地へと向かうバスの車内は閑散としていた。前のほうの席で酔っ払いが寝ているくらいで、他には僕らしか乗っていない。
「ねえ、ヒロキ、あれ見て、あれ」
「んん? どうした」
隣で僕をつついたのは、彼女のユキだ。僕はウトウトとしていたが、目をこすりながら外を向く。バスは停留所から発車するところだった。指しているのは窓の外。
「あ~、もう、遅い~。見えなくなっちゃった」
「ごめんごめん。何があったの?」
三駅ほど離れたところにある、ちょっと大きめの神社へ初詣に行った帰りだった。といっても今日はもう1月7日で、世間は正月ムードではない。
「お坊さんがね、絵を描いてたの」
「へ? なんだって?」
「だから、ほら、お寺があったじゃない? ……中でお坊さんが絵を描いてたの」
「へ~。書初めかな。書初めって絵でもいいんだっけ?」
「違うの違うの。紙に書いてたんじゃないんだよ。えーとね、何て言ったかな、あの」
「おわっ」
彼女の話の途中だったが、僕は思わず叫んで窓のへりを指差した。つられてそっちを見た彼女が、軽く悲鳴を上げて僕の方に寄りかかる。窓のへりにいたのは、カエルだった。
「やだ。どっから出てきたの? カエルじゃん。3匹もいる」
「本当だな。窓あけて逃がしてやろうぜ」
「こんな道路の真ん中で放り出したら轢かれちゃうよ」
「お、そっちにもいるぞ、座席の下。1……2匹?」
「奥にもう1匹いるみたい。ね、場所移ろう。あっちの席いこ」
彼女と一緒に通路挟んで斜め前の席に移った。バスの中は相変わらず静かだ。最後尾で喋っている女の子の声だけが聞こえる。
「じゃ次ねママ。せーの、なまむぎなまごめなまたまご。どう、言えたでしょ、ねーママ、ママってば~」
「はいはい。偉い偉い」
「もう、ちゃんときいてよママー」
母親のほうは眠りたそうだった。
僕も、中断した話を彼女に促す。
「で、何の話だったっけ。お坊さんがどうしたって?」
「あのね、絵を描いてたの。それがほら、何ていったかな、あれ。ひな壇の一番上にある……」
「お雛様?」
「じゃなくて……」
「おいなり様」
「おだいり様でしょ。お稲荷様はキツネのやつ」
「え、そうだっけ?」
「そうじゃなくて、人形じゃなくてさ……」
「ひなあられ?」
「あられは飾らないでしょ」
「え、そうかな。飾ると思うけど」
「ええと、あれ、何の話だっけ、わかんなくなっちゃった…………もういいや」
彼女は話すのに飽きてしまったらしい。僕はもやもやしたまま窓の外を眺めた。
「……」
窓の外。何気なく看板を読む。東京……あれ、なんか変だな……。強烈な違和感。看板に書かれた言葉をもう一度よく見ようとしたが、はるか後ろに過ぎ去っていた。何か……書いてある筈のない言葉だったような。必死に思い出そうとしたが、彼女が話しかけてきたので思考は途切れた。
「ねえねえ、ほら見て、おばさまから頂いたお土産、お菓子なんだけど」
「え、ああ、お袋のことだから煎餅とかだろ」
「その通りよ。お煎餅すてきじゃない。ほら、紙が巻いてあるの。とってもカラフル」
今日は、実家にも挨拶をしてきた。ユキは、お袋が土産に持たせてくれたお菓子の箱を開けてみたらしい。中に入っていたのは小分けにされた煎餅の袋。それぞれ、妙に質感の良い紙が巻いてある。
「こんなところで開けなくても……家帰ってからでいいだろ」
「だって、気になったんだもん」
彼女は箱をしまった。バスが信号待ちでエンジンを止める。静かになり、前のほうの席でかすかに酔っ払いが歌っている歌が聞こえた。お~シャンゼリゼ~か。懐かしい歌だ。
「ねーママ、じゃあ次はちゃんと聞いててね。いくよ?」
「はいはい、聞いてる聞いてる」
最後尾の席ではまだ女の子が母親を困らせているようだ。
「竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから竹立てかけたのだ」
「そうなの。それは良かったわねえ」
「ねーママ、聞いてってば」
どうやら早口言葉の載った本を見ながら、ひとつひとつ母親に披露しているようだ。それにしても上手い。全くつっかからずにスラスラと言ってのける。この子は早口言葉の天才なんじゃないだろうか。
そう言おうとしてユキの方を振り返った時、彼女の向こう、バスの通路を挟んで隣の席の男を見てギョっとした。何か果物らしきものをかじっているが、あれは何だ、りんご……じゃないな、柿か。手に提げたビニール袋には大量に入っているようだ。一心不乱に柿を食う乗客。異様なものがある。
「何だあの客」
小声で彼女に話しかける。
「ね。こんなとこで食べなくてもいいのに」
「よっぽど柿が好きなんだな。柿……」
…………柿?
何か変だ。何か。このバスに乗ってから、どうも妙な違和感がぬぐえない。カエル……それに看板……。
気づかなくてはいけない、気づかなくては大変なことになる。そんな強い力を感じる。
あと何か……前のほうの席に座っている酔っ払い。最後尾の親子。早口言葉の天才少女……。
……あれ……これはまさか。
その可能性に気づいて、僕はあわてて、記憶を確かめる。これと……これはわかる。あとは……さっきの看板は……。違和感の正体はすぐにわかった。看板の言葉も思い出す。それに……。
「どうしたの? 急に黙り込んじゃって」
さっきのあれも、もしかしたら……。ユキに聞いてみる。
「……なあ、さっき言ってた坊さんの話だけどさ」
「坊さん? ああ、絵を描いてたお坊さんの話?」
「そうそう。もしかして……屏風じゃないか?」
「あ、そう。それよ! 屏風に絵を描いてたの!」
やはり。
「……しかも、坊主の絵だったんじゃないのか?」
「え? そこまでは見えなかったけど……」
いや、きっと坊主の絵だ。上手だったに違いない。
「なんでわかったの?」
待てよ。……ジョーズだった可能性もあるかな。まあそれはどっちでもいい。
「なあユキ。その話をしてた時に、カエルを見つけただろ? 覚えてる?」
「え、もちろん覚えてるけど」
「最初にそこの窓に3匹。座席の下に……2匹だっけ」
「ううん、3匹よ。奥のほうにもう1匹いた」
そう。そうなんだ。最初が3匹、次に3匹。
「……間違いないな」
「何が間違いないの?」
僕は確信を得たので、話すことにした。
「うん。席を移って坊主の話をした後、僕は窓の外を眺めてた。で、変なものを見つけたんだ」
「何々? 教えて教えて」
「役所っぽい立派な建物があって、その前に看板があった」
「何の役所?」
「うん。それがな……いいか、落ち着いてよく聞くんだ。僕もちらっと見ただけだから危うく忘れかけてたんだが、今このことに気づいてから、何と書いてあったかハッキリと思い出せた」
「いいからもったいぶらずに教えてよ」
僕は一呼吸置く。
「東京特許きょこっ」
……チャレンジしたのだが、ダメだった。諦めて、ゆっくり発音する。
「東京……特許、許可局。そう書いてあった」
彼女はポカンとしている。
「何ソレ」
「いや、そんな役所は本当は無い筈なんだ。あるのは、特許庁。特許許可局なんて役所はない」
「無い筈なのに、あったの?」
「そうなんだ。無い筈なのに、あった。だから違和感があった」
「……さっきのお坊さんの絵の話は、何か関係があるの?」
「だから、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた、だよ」
言えた。つっかからずに言えたぞ。おっと感動している場合ではない。
「それに、カエルもだ」
「カエル……?」
「ああ、カエルぴょこぴょこもぴょ」
言えなかった。結構ゆっくり言おうとしたつもりだったのに。
「……カエルぴょこぴょこ、三ぴょこぴょこ、てやつ?」
「そう。あわせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこ、だ。そのとおり、計6匹だった」
「……え、ちょっと待って……え、ホントに? やだ、凄い偶然」
ユキも気づいたようだ。だが、まだあるんだ。僕は小声で言った。一応、隣に聞こえないように。
「で、隣のお客さん。食べてるよね、柿を。」
チラっと見る。まだむしゃむしゃと食べている男。
「ええ。……ん? ……あ!」
そう、僕は、彼を見て初めて気がついたのだ。
ユキも、通路を挟んだ隣の客を見やる。ビニール袋から次の柿を取り出す男。もう何個目だろう。まったく、隣の客は……よく柿食う客だ。
「……ちょっと待って、まだある!」
「え?」
言って、箱を取り出すユキ。開けて中を見せる。
「これ。おばさまから頂いたお土産のお煎餅。……ほら、巻いてある紙を見て」
見てみると、煎餅に巻いてある紙は……赤、青、黄色。
「あ! 赤巻紙あおまきまき、きまきまみ、か」
「言えてない言えてない」
「……やあ、難しいんだよ。……あの子に言って貰ったら良かったな」
「あの子?」
「ああ、そう、さっき言おうと思ってたんだ。一番後ろに座ってるあの子さ、凄い早口言葉が上手なんだよ。スラスラ言うんだぜ。なまむぎなまもめ……」
「だから言えてない」
「……と、竹垣がどーしたこーした、ってやつ。さっき聞いたんだ」
「あ、うん、私もずっと聞いてたよ。ねっ。凄いよねー。その前には、たしか、新春しゃんしょんしょー」
「言えて……」
「……言えるの。言えるから。ちゃんと新春さんそん……」
「…………」
「……言えるんだってば。今のは言えてないけど本当は言えるの」
まあ、そういうことにしておく。
「……と、もう一つ、隣の客が柿を……えっ。待って。そういえば」
ユキは何かに気づいたようだ。おでこに指を当てて考え込む。
「ちょっと記憶が怪しいけど……ううん、やっぱり間違いない」
「何が。どうしたって?」
「あの子の言ってた早口言葉。シャンソンの前が……柿で。たしか、その前が赤巻紙……てやつ。で、たぶんだけど、その前に言ってたやつが、東京特許こかこくだったと思う」
言えてないことにはもう突っ込まないことにして、僕は記憶を辿る。ユキの言わんとしていることがなんとなくわかったからだ。……特許許可局、赤巻紙、シャンソン、柿。その順番は、なんとなく僕らが見たことの順番と一致するんじゃないか。
「……もしかして、その前は、カエルぴょこぴょこだった……?」
「……ごめんちょっと覚えてない。私たちが乗ってくる前だったかも」
「なんか凄いな。あの子の言った早口言葉の順番、現実と一致してるぞ……?」
「でも待って、一つ抜けて……」
彼女は続きを言おうとして、沈黙した。目が、今バスに乗ってきたおばさんに注がれている。僕もそれを見てわかった。手提げ袋から飛び出している黄土色の草の束。麦、だ。生麦……ということなんだろう。一体、なぜそんなものを? とか、何も穂の状態でなくても、とかいろいろ疑問はわくが、今はおいておく。おそらく、袋の中に入っているのは米と卵だろう。
「なまむみままもめ……」
チャレンジして失敗した彼女の後を引き取って僕は言う。
「……生卵、だな。やっぱり順番どおりだ」
「でも、ねえ、一個抜けてるの。しんすんさんそんそーが抜けてる」
「そうだね、新春しゃんそー……が抜けてる」
もうお互いに言えてないことにはこだわらないことにした。
「あ!」
「どうしたの、ヒロキ」
「酔っ払いのおじさんが歌ってた歌、オーシャンゼリゼだった」
「……やられたわね。新春シャンションショーがあれなの」
彼女はちょっと呆れたように言った。確かに、今は新春で、あの歌はシャンソンだが……ショーか?
だが、とりあえず今はそれどころじゃない。確か、もう一つ、まだあった筈だ。
「じゃあ次はなんだ……えーと、竹垣だ、竹垣を探せ」
「えーと……あった、あれ!! ほら窓の外、後ろ、後ろ、あー……過ぎちゃった」
「竹は? 竹たけかけてあった?」
「うん、間違いないよ。たてかけてあった」
「竹たてかけたのは?」
「……竹たてかけたかったからよ、もちろん!」
ユキはにっと笑った。僕も笑う。こいつは……目が離せない。目じゃない、耳だ。最後尾の親子の会話に耳をそばだてる。
「ねー、ママー。寝ちゃったの?」
「起きてるわよー」
「じゃあ、次いくね?」
さっそくだ。「きた!」僕とユキは目配せしあい黙って、次なる大予言を聞き逃さないようにする。
「赤パジャマ青パジャマ黄パジャマ」
流れるように言う早口言葉の天才少女。僕らはあたりを見回した。ちょうどバスが停車したところだ。
「わお」
次の停留所で乗ってきた家族連れは、三人ともパジャマだった。父親が青、母親が赤、息子は黄色いパジャマ。
柿の時にもちょっと思ったが、だんだん露骨になってきている。パジャマでバスに乗ってくるなんて無茶な。寝ぼけるにも程がある。だが今はいい。見事予言は成就した。ハイタッチする僕とユキ。
「この釘は引き抜きにくい釘だ」
ユキが嬉しそうに、あれ! と叫んだ。そうだろうとも、その視線の先には釘がある。斜め前の座席のど真ん中に飛び出した、太さ2センチはあろうかという巨大な釘。そんなもの今まであったか? と一瞬思うが気にしない。僕はつかつかと歩み寄り、むんずとつかむ。抜こうとしてみる……。うん、間違いない。
「ひきぬきぬくい?」
「ああ、ひくぬくぬくいよ」
流暢に問う彼女に流暢に答える僕。互いに親指を立てた手を突き出す。いえー。
「瓜売りが瓜売りに来て瓜売り帰る瓜売りの声」
次の停留所で乗ってきた男は、もちろん両脇に大きな瓜を抱えている。そうだろうとも。そして車内だというのに、大声を出し始めた。
「瓜はいりませんか~瓜はいりませんか~。……ああ、やっぱいらないよなあ誰も。……帰るか」
すぐに諦めてしまったようで、その次の停留所で降りていく。それを見ながら僕とユキは歓声を上げ肩を叩き合った。
「お綾や、八百屋にお謝り」
と、窓から見えたのは、去っていく瓜売りにぶつかる女性が一人。瓜を取り落として尻餅をつく瓜売りに、ペコペコと頭を下げている。なるほどね。彼女の名前はアヤさんと言うんだろうね、とユキに言う。そりゃあ瓜を売ってるのは八百屋に決まってるわよね、とユキ。興奮を隠し切れない僕ら。
「ねーママってばー。もう、聞いてないでしょー」
「聞いてるわよー。あ、次で降りるわよ」
「えー。じゃあ、これで最後だから、ちゃんと聞いててよー」
だが少女が予言を口にするより早く、母親は少女の手を引いて立ち上がった。停留所だ。なんてことだ。突然のショーの終わり。
*
「あ~、凄かったなあ」
残された車内で、僕らは余韻にひたっていた。もう車内には僕ら二人だけだ。
「ねっ。最後のってなんだったのかな」
ユキが聞いてくる。思えば、どれもメジャーな早口言葉ばかりだ。あの子の持っている子供向けの本(しかし予言の書とでも言うべきものだ)に載っているのだろう。
「僕が聞いたことあるのはそろそろ出尽くしたかな……。あとは何があったかな……あ、あれかも」
「あ、私も思いついた」
僕とユキは笑いあった。
そして同時に青ざめる。二人の脳裏に浮かんだのは同じ言葉だっただろう。
「……なあ、なんか……ガス臭くないか?」