其の二十三:真実の欠片
「助けて……。でも、私にはそんな資格はないわよね」
哀はコナンの首を抱え上げ、強引に彼の着物に手を突っ込み、自分が刺した傷口を手探りで見つけた。そこを撫でると、コナンは顔を引きつらせ、苦悶の声を上げた。
「ごめんなさい、江戸川君。やっぱり私、どうしても……あなたに死なれたくない」
彼女は止血すると同時に、刺傷部位に懐から取り出した薬を塗った。そして、彼の口の中にもまた、別の薬を含ませた。
「私には、あなたを助けてあげられないわ。……けど、せめてこの位は」
呟いた彼女は、コナンの耳元に口を寄せる。
「江戸川君。ここはね、工藤の国の隣……工藤家とは親戚筋に当たる王族の治める国と隣接してるの。国民は友好的な筈よ。自力で逃げなさい。あなたが死んだら、彼女も助けられないでしょ?」
それだけ囁いた彼女は、唇を噛み立ち上がった。じっと物恋しいものを見るようにコナンを見つめた彼女だが、袖から取り出した花飾りをコナンに握らせた。
ぴくりと眉に力が入り、コナンは瞳を開けた。
「灰、原……? おめー、なん、で?」
弱弱しく零れた声に、哀はふっと微笑み、立ち上がって一歩分後ろに退いた。
「気付け薬の効果があったようね。その花飾り、母の形見だった大切なものの片割れよ。必ず返して。いつか再会できた時に」
「な、に言って……んだ。今」
「私は、そろそろ行くわ。いい? 右方向に進んで。そして、生きて。いつか別れるとしても、そんなさよならは、ごめんだから」
「灰原……っ、待てよ」
離れてゆく着物に手を伸ばされたが、掴ませてやる気など、彼女には全くなかった。もう一度微笑した彼女は、袖から出したもう一つの花飾りを、頭の左上部につけた。
「また会いましょう、江戸川君。その時は、今度こそ本当の気持ちで、あなたと」
「灰原!」
もう一度だけ振り向き、哀しく微笑んだ彼女は、コナンに背中を向けた。
歩いていく彼女の後姿は、今まで見たどの記憶よりも大人びて、決意と寂しさを纏っていた。揺れる茶髪を眺めながら、コナンは奥歯を噛み締め花飾りを力強く握った。
「く、そ……っ」
そのまま、暫くは彼に起き上がれる力などなかった。それでも時間をかけて必死で身体を起こすコナンの拳に、力が篭る。
もっと早く気づいてやるべきだった、と、どれだけ後悔しても、今更遅い。
自分の世界にある常識に拘り過ぎて、一番根本にある彼女の真実を見逃していた。
「は、灰原。今は、おめーの言う通り生きるよ。……けど、回復したら、必ず、助けてやっから……」
座っていた石に手をおき、歯を食いしばり、渾身の力を腕に込めた。傷口には鈍痛が走ったが、お構いなしに、よろめきながら立ち上がる。すぐそこに置かれていた自分の刀を手に取ると、杖代わりに重心を預けて、一歩二歩と進んだ。
覚束ない足取りで、彼は哀の指した方向へと向かった。
哀は、薄暗い廊下を歩いていた。左手で、頭につけた花飾りに触れ、尚進む。
少し冷えた空気が、身体に吸い付くように纏わりついてくる。哀は目を細めながら、開けた戸の下に続く階段をゆっくりと降りて行った。
下にたどり着いた哀は、俯きながら小さく息をついた。
「江戸川君、あなたはここを見たらなんて言うかしら」
じめじめと湿った冷たい空気が充満している。牢屋の中には、手足を繋がれ身動きもとれない捕虜達がじっと哀を見つめていた。城内にこんな地下牢など、元はなかった筈だった。けれど、昔”あの日”を境にここは変わってしまった。
「あなたの世界とここは違うわ。お姉ちゃんだって」
哀はまっすぐ歩を進めた。一番奥の牢には、特に厳重な鍵が施されている。
牢への道を一歩踏み出した所で、立っていた二人の衛兵に鋭い眼光を向けられた。一人の衛兵は、嘲るように鼻で笑った後、哀に声をかける。
「お帰りか、お姫様」
「その言い方、やめてくれる? お母さんもお父さんも死んだ時から、私は姫でもなんでもないわ」
「今やあの方の最高傑作。堕ちたものですね」
もう一人も嘲笑混じりに言うと、哀は鋭い目つきで彼を睨んだ。
「あなた達を絶対に許さないわ。私達の人生を滅茶苦茶にした……」
ありったけの憎悪を込めた瞳を、彼女は男達二人に向けた。すると、二人の男はにやけた。
「おやぁ? 反抗ですかな、姫君様。一応私達は、あなたの命はとるなとは言われてますけど……」
「よいのだな? 他が、どうなっても」
男の言葉に肩を震わせた哀は、目を見開いたまま俯いた。握った拳は、小刻みに震える。
「よくないわ……だから、ちゃんとあなた達に従っているじゃない。もういいでしょ? ここを通して」
男達は顔を見合わせ、にやけ笑いを浮かべながら道を開けた。哀は俯き、唇を噛み締めたまま、震える足を一歩踏み出した。一番奥の牢まで、七〜八十メートル程であろうか。薄暗い中では、近くによらなければ何があるかなど判らない。
哀はにじみ出る涙を拭った。そして、一つ深呼吸をして動揺を心に抑え込む。たどり着いた一番奥の牢に立ち止まると、奥で繋がれていた人物は顔を上げた。
目が合うと、哀はゆっくりと微笑みかける。
「ただいま。私ちゃんと、無事に帰って来れたわ」
小さな声で告げると、牢の中からも微笑が返される。
哀は微笑を崩さず、僅かに目を細めながら、言葉を続けた。
「私ね、好きな人が出来たのよ」
そう言って左手をあげ、花飾りに触れる。
「図々しい願い事押し付けてきちゃったけど、きっと彼が何とかしてくれるわ」
哀はそう言って、精一杯の笑顔を浮かべた。
「おい、そろそろ時間だぞー!」
「……ええ、行くわ」
先ほどの男の一人に、大声で呼ばれ、哀は明るく保っていた表情を一変させ、抑揚のない声で答えた。牢の中に一言別れを言って、彼女は踵を返し、元来た道へと歩いた。
道中、彼に凶刃を向けた手を、彼女はきつく握った。コナンを刺した時の嫌な感触が、ほんの短い間に何度よみがえった事だろうか。胸が裂けそうになる嫌な感情の渦は、恐らく一生忘れられない。
ただ、彼が無事であればいいと願う気持ちだけが、彼女の心を支配していた。
刀を杖代わりにして、地面に突き刺しながら、どの位進んだろうか。コナンが吐く息は、段々と荒く変わってきていた。更に、一歩進むごとに刀にかける重心は増え、腹部を押さえる手には変な力が篭り、数歩手前より猫背になっていた。
ようやく、町の影にまで到達したところだが、そろそろ限界だ。霞み揺れる視界に、自然と足はもつれた。倒れてはいけないという事だけ頭にあった。倒れた途端、恐らくもう二度と立ち上がる事が出来ない。
しかし、もう立っている事自体が限界だった。ほんの一瞬、クラッとして意識が遠のいただけで、バランスが崩れた。身体がよろけ、倒れかけたその時、視界に人の姿が映る。
「あ……」
助けを求めようと手を伸ばしたが、そのまま支えられていた柄から手が外れ、身体は地面に落ちた。その衝撃に、コナンの表情が歪む。
目を細めたせいで狭まった視界に映る彼は、コナンが倒れたのと同時に振り向いた。はっとして、駆け寄ってくる姿を霞む視界に映しながらも、コナンはゆっくりと目を閉じた。
「お、おい!? 大丈夫か?」
抱き上げられた事だけは、感覚で判った。霞んだ目で見た為、顔もはっきりしなかったが、声が若い事は判った。しかし、再度瞼を持ち上げる事は出来ずに、力の入らない身体は、されるがまま、その腕に従った。
少年の顔を見た途端、彼は目を丸くし、息をのんだ。
「似てる。オレ……いや、工藤家の縁者か。身なりも武家の子のようだしな。に、しても」
彼は、コナンの腹部に目をやった。着物には血が滲み、すぐ横の地面に突き刺さった脇差の刃先にも、まだ新しい血の痕が残っている。
「こんな幼子に、一体誰が……」
呟いた彼は、一先ずコナンを抱き上げ、大きく建つ城の方角へと走っていった。
「待ってろよ。今、助けてやるからな」
腕に全体重を預けたまま横たわるコナンを励ましながら、彼は只管道を走った。
抱きかかえられながら眠るコナンは、”夢”を見ていた。
そこには、今や遠く離れた現し世があった。
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