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断腸 ~母は怒り、世を憎む~
作者:sam


 桓公入蜀、至三峽中。
 部伍中有得猿子者。
 其母縁岸哀號、行百餘里不去。
 遂跳上船、至便即絶。
 破視其腹中、腸皆寸寸斷。
 公聞之怒、命黜其人。




    ●




 岩壁が両側面に(そび)える河を、一隻(いっせき)の舟が流れていた。
 僅かに雲が天を覆う下、舟の上には複数の人間がいる。それらは皆青銅(せいどう)によって作られた甲冑を身にまとい、腰に剣を吊っている。兜に刻まれた天馬の印は(シン)の兵士の証だ。これより長江(ちょうこう)を下り、敵国たる(ショク)を討たんとする部隊、その一端である。
 移動手段としている舟下りは河の流れに任せているため、徒歩よりまし(・・)とは言えさほどの速度は出ない。故に兵士達は暇を持て余し、戦争へと向かう道すがらにも(かかわ)らず完全に士気を落としきっていた。
 彼らは暇潰しを求めていた。そして彼らの視線は、河岸――石と砂で出来た僅かな地面に向けられている。
 そこには、まさに必死と言うべき形相(ぎょうそう)で駆けている一匹の猿がいた。
 猿の視線は時折正面を確認するように振られるが、それ以外では真っ直ぐに舟へと向けられていた。猛禽(もうきん)のような、血走った眼が、舟へと――正確には、一人の兵士へと注がれている。
 船の舳先(へさき)に立つその兵士は、ニヤニヤとした卑屈な笑みを顔面に浮かべ、小脇に何かを抱えている。抵抗するようにもぞもぞと(うごめ)いている薄茶の毛の塊。小猿だ。岸を走る猿は母親だったのだ。
 母猿は、全力で突っ走る中、脳裏で後悔の念を絶えず生み出していた。
 ――少し目を離した隙に、だった。
 近頃あちこちの山々で戦火が上がり、母と子を含む群れは長い間流浪の民と化していた。この長江付近へは旅の途中で休憩がてら訪れたもので、母猿は野山の果実などを採るために辺りを見渡し、その間に小猿は好奇心にくすぐられてかふらふらと水辺へ行ってしまった。母猿自身もそのことには気付いていたが、さして増水しているわけでもないから危険は無かろう、と高を括って放っておいた。
 その放置こそが、間違いだった。
 確かに河は荒れてはいなかった。しかし、不穏な因子は既に存在していた。彼女らが避け、逃げ続けていた戦争の原因――人間だ。
 恐らく、小猿は水辺をたゆたう小魚にでも夢中だったのだろう。周囲への警戒を怠っていたため、足音と気配を消して近づいてきた兵士に気付けなかったのだ。その隙にあっという間に(さら)われ、悲鳴の声を上げている間にさっさと舟へ連れ込まれ、今や河の中流と、逃げようも無い状態に(おちい)っている。
 ――否、と彼女は即座に否定した。あの子が攫われた原因は自分にある、と。
 あの時、勝手に水辺へ行ってしまう子の足を止めていれば。叱るように首根っこに牙を立て、背中にしがみつかせて早いところ山の中へ潜り込んでいれば。自分が必死になって走ることも、何より小猿に怖い思いをさせずに済んだろうに。
 実際、母猿にここまでの自責があるかどうかは不明瞭だ。猿は人間の祖先たる生物ではあるものの、その人間ほどには知能が発達していない。精々が硬い木の実をかち割るだの、木の幹の中に住む虫を枝で突いて誘き出すだのと言った程度だ。
 しかし、子を思う意志そのものは確かに存在していた。
 故に母猿は、離れていってしまう子を追って必死に走っていた。
 剥き出しの足裏は時折転がっている尖った石などによってボロボロであり、呼吸も百余里(ひゃくより)を越える距離を全力で駆けているために荒れている。腹の中の臓器が千切れそうなほどに痛い。しかし、母は地を蹴る動作を止めない。自身の苦痛など全て無視して、ただ一心不乱に子を追いかける。
 と、視線の先にある舟が舳先を傾げた。徐々に進行方向が逸れていき、河岸――母猿がなおも走っている方へと近づいてくる。これを好機と見た母猿は、地を蹴る足に更なる力を込め、速度を上げた。ここで舟に跳び込めなければ我が子を助けられない、と。
 徐々に距離を詰み始める両者の狭間。残り十歩の間合いとなるにもそう間隔は空かず、母猿はここぞとばかりに、さらに加速度を上げ――――、跳んだ。
 しかし、



 銀光が、煌めく。




    ●



「おーおー、まだ追って来てるぜ、あの猿。もう百里も越したって言うのによォ」
「さすが母親、我が子に危険が迫れば必死になって喰らい付く……か。うちのクソババァに見せてやりたいね」
「しっかしまぁ、何でこんなに追っかけてくるのかねぇ。子孫繁栄のための駒を失いたくないとか? あんなちんけな脳味噌で『子を守りたい』とか考えてるとも思えねぇしなぁ……」
 小舟の上で、そんな呑気な会話をしているのは、小猿を抱えた兵士の他にいた者達だ。総数四人全員が如何にも気だるげに座り込み、岸上を猛然と突っ走っている猿を見てへらへらと笑っている。酒瓶(さかびん)の一つもあろうものならば本当に余興として大笑いするだろう、そんな様子だ。
「ところでよォ、もうそろそろ離してやった方が良いんじゃねぇのか? あの調子だとそう長くは保たねぇだろうが、なんつーか、どこまでーも追いかけてきそうだぜ」
 と、内一人が、舳先で高みの見物を決め込んでいる兵に声をかけた。兵は声に手をひらひらと振って応え、さて、と考える。
(どうしたものかね)
 あの猿の狙いは解っている。今自分が小脇に抱えている、もぞもぞと抵抗するように蠢く小猿だ。様子からして未だに何が起こったのか理解していないようで、命の危機であることはさっぱりのようだ。
(ちょっとした暇潰しのつもりだったんだが、あの母親、結構粘るな)
 これは少々予想外だった。母親とは言え所詮は猿、野生の獣だ。無理と判断すればすぐに足を止め、子を諦め、しかし新たな子種を求めるだろう――男に限らず、船上の皆はそう考えていた。
 しかし、母は現に尚も追ってきている。
 それを見た上で、男は考える。どうしたものか、と。
(……元を辿れば、ほんのお遊びの積もりだったんだよな)
 これから自分達が行く場所、蜀の戦場は、この長江を流れても距離がある。しかしあくまでも戦なので、娯楽の類の持ち込みは一切禁じられていた。陣地の休息所に行けばまだ楽しみがあるものの、小舟の上にあるのは換えの剣やら槍やら盾やらと言った物ばかりで、これでは生死を賭けたチャンバラごっこぐらいしかやることが無い。おまけにそれすらも、足場が悪いだの命なんか賭けるかだのと言った理由で実現はしそうに無い。
 故に、舟の上で蜀を目指す兵士達は暇を持て余していた。
 その折に、ふと、男が見つけたのが、河原で水面をじっと覗き込む小猿だった。
 小猿がこんな所で単独で行動している訳がないことは、男にも即座に解かった。近くには母猿の影があるはずだ、と。実際、小猿から二十歩と離れた位置に、体格の成熟した猿が頭上の木の実を仰いでいるのが見えた。
 それらを確認した上で、男は思った。
 しめた、と。
(丁度良い遊び道具が見つかった、と、喜び勇んだわけだよな)
 母親とは正反対の、さらに離れた位置に舟を止め、代表して男が降りた。歩く度に耳障りな音を立てる甲冑を全て脱ぎ捨て、足裏を丸い石が押してくる感触に耐えつつ、小猿と距離を詰め始めた。小猿はその一幕が見えていないようで、ひたすらに川の中に関心を寄せている。恐らく小魚でもいたのだろう。獲れるかどうかを逡巡していたりしたのだろう。
 その隙に、男は小猿を攫った。
 首根っこを掴み、本能的に大人しくさせた上で、小脇に抱えて一目散に駆ける。その間に驚きの悲鳴を小猿は上げたが、結果的に、母猿が間に合うことは無かった。
 そして、今に至るわけである。
 男としては、我が子を突然引き離された親猿がどこまで追いかけてくるかを余興とするつもりだったのだが、これが意外と追随してくる。既に走行距離は百里を越え、並みの小動物ならとっくに息を切らせて立ち止まっているだろう。この執念は一体どこから来るのだろうか。
 とは言え、このままでは状況が停滞してまた暇を持て余してしまう。ここらで一つ、余興を盛り上げる刺激が必要だ。
 さて、
(――どうしたものかね)
 思い、考え、熟慮し、やがて男は結論を出した。ちょっとした思いつき、さほど重くもない(たわむ)れの案を。
「おぅい! 針路(しんろ)変更だ、ちょいと舳先、岸に向けてくれや!」
 言いつつ、男は腰元に下げた鋼造りの剣、その鞘に指をかけた。
 この言葉が、以降数刻に(わた)って起こる一幕の発端であった。



    ●



 母猿は、己の身体が宙を飛翔している感覚を得つつ、しかし戦慄(せんりつ)を味わっていた。
 今、視界の端で煌めいた、銀の閃光。
 あれの正体は何か、と、自問し、結論を探すよりも早く、それは来た。



 ショリン、


 と、山に籠もりきりの野生動物たる猿には聞き覚えの無い、金属が流れる音を、母は聞いた。同時に、己が身体を何かとても冷たい物が通り抜ける感触。今まで体感したことの無い、全く以って新しい刺激が、一瞬の間に二つも起きた。
 そして、意図せず、身体が勝手に落下する感覚も。
「……!?」
 何故、という疑問が浮かび、しかし途絶える。そんな余裕が無くなったからだ。
 全身を叩くような衝撃と、自身の左腕、その肩口に、激痛と灼熱が奔る。
 ガンッ、と音を立て、母猿の矮躯(わいく)は小舟に不時着した。顎を先端とする顔面から木の板に衝突し、そこからも痛みと熱が生まれる。
 途端、
「――――ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 一人の男の、狂ったような笑声が、耳に届く。
 舟の上には五つほど、人間の気配がある。しかし笑っているのはそのうち一人――――刀を持ち、その刃先から血を滴らせる男のみだ。他の人間は笑みどころか、感情すら失くしたように呆然としているように見える。
 視界を白ませるほどに、焼けるように襲い掛かってくる痛みに(もだ)えつつ、母猿は微かな意識を振り絞って状況を見直した。
 つまり、こう言うことか。自分の頭上に立ち、高らかに哄笑している男が、自分を――自分の左腕を切り飛ばした、と。
 足りない脳の中で、母猿は思う。何故、と。
 何故、ここで自分が傷つけられなければならないのか。何故ここで五体を欠損し、無様に()(つくば)らねばならないのか。何故子を目の前にして、助けることも出来ず、ただのた打ち回るしか出来ないのか。
 鮮血が噴き出す左肩から、徐々におぞましい冷たさが身体に広がっていく。出血多量により、全身に血が回らなくなっているのだ。意識が朦朧(もうろう)とし、呼吸が浅く遅くなり、力が入らなくなってくる。
 思う。ああ、これは死ぬな、と。
 今までに何度か、母猿は死を経験してきた。と言うより、死の淵に立たされてきた、と言うべきか。人間達の縄張り争いで山が荒れ、過酷な状況の中で仲間内でも(いさか)いが生まれ、結果として食糧問題に度々直面してきた。多くの食べ物は群れ(おさ)の雄猿が独占してしまい、そのお(こぼ)れにありつけるのも側近や(めかけ)の者達ばかり。途中から群れに合流し、どうにか最近打ち解け始めてきた母猿には木の実の枝すら与えられなかった。故に自らの力で探すほかに無く、しかし大概は見つけた端から奪われていった。同じく飢えていた下っ端の猿が隙を窺っているのだ。そんなことの繰り返しばかりで、満足に腹を満たすことも出来ず、それでもどうにか生き延びてきた。最終手段として群れ長に近づき、子を(はら)んだことで、それらの問題はある程度安泰(あんたい)となったが、それでもあの感覚は今でも忘れられない。
 死とは、万物に訪れるものであり、究極的な終焉(しゅうえん)である。
 力が抜けていき、呼吸が浅くなり、意識が薄くなっていく。今までに何度か、体験したことのある間隔だ。
 唯一違う点があるとすれば、今回ばかりは助からない、と言うところか。
 舟底を真っ赤に染め上げている場景(じょうけい)からしても、母猿の出血量は多大なものであり、またこの自然環境では助かりようも無い。このままどうすることも出来ずに、哀れな死に体を晒すのみ。それが母猿に残された運命の道だ。
 それを自覚しつつ、母猿は思う。何故こうなったのか、と。
 群れを少し離れ、河原に赴き、餌を探す。ただそれだけだったのに。
 現実は、子を攫われ、自分は死に物狂いで追いかけ、最後には切られて死ぬ。
 一体何が原因なのか。思い、考え――意識は、頭上の男に向いた。
 今もなお、何が面白いのか狂ったように下品な笑い声を撒き散らす男。その右手には母猿を切った刀があり、対の脇には小猿が抱え込まれている。
 揺らぐ視界の中、それを見て――――突如、意識が覚める。痛みも、熱も、何もかもが遠のき、しかし意識のみがハッキリと冷えていく。
 こいつだ。




 ………………こいつが、自分の全てを奪った根源だ。




「…………ギ…………」
 そう結論付けた瞬間、身体の奥底から何かが溢れ出す。血ではない。熱く、激しい、抑えようも無い衝動――。
 白む視界が怒りの紅蓮に染まり、口腔に揃う牙がギリッと音を立てて噛み締められる。身体の芯を氷の柱が通り抜けたように冷め、しかし身体のあらゆる箇所が業火の如く熱い。狂おしいほどに腸が暴れ回り、ただただ向けようの無い激情に駆られる。
 憤怒、憎悪、怨嗟、――殺意。
 男に向けられるのは、それらを含む莫大な感情だった。
 母猿は、こう望む。
 殺させろ、と。
「ギ……ィ、ィィ……」
 自分の全てを奪ったこの男を、殺させろ、と。
 自分が死ぬだけでは耐えられない。子が一人残されていくことには耐えられない。ただこの悲劇を、ただの好奇心や戯れで引き起こしたこの男を、
 殺させろ。
 喉首に爪を立て、牙を刺し、引き裂くでも良い。眼球に手指を突っ込み、ぶち抜くだけでも良い。この男だけでも良い。
 ただ、殺させろ。
 殺させろ。
 殺させろ殺させろ殺させろ殺させろ殺させろころさせろころさせろころさせろコロサセロコロサセロコロサセロ――――――――
「ギィィィィィ…………」
 (はらわた)が煮えくり返り、どうしようもないほどに暴れている。このまま肉を突き破り、表へ蛇のように出てくるのではないかと思えるほどに。
 それでも良い。その腸を男の首に巻きつけて、絞め殺すでも良い。
 灼熱した意識の中、母猿は、再び自らの身体が浮かぶ感覚を得た。その端で、己の身体に異変が起き始めていることも、何となく、感じていた。
 全身の筋肉が隆起する。尻尾が長くのたうつ。腹の膜が破れ、腸が外に垂れ流される。
 喉の奥から、叫びが迸る。
「――――ッギィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!」
 怒りの、殺意の、号砲を。



    ●



 男は、跳び込んできた猿を目掛け、腰の刀を鞘走(さやばし)らせた。
 ショリン、と、金属特有の音が僅かになり、勢いもそこそこに一閃が飛ぶ。上段から降りるような動きだ。
 狙いは僅かにずれ、正中線通りではなく左半身に向かった。母猿の左腕に刃が届き、差して抵抗も感じず通り抜ける。そう感じた瞬間、男は腕に力を込め、一気に刀を振り抜いた。
 人間のそれと比べてあまりにも小さな腕が、斬り飛ばされ、河に落ちる。
 同時、抵抗は無いと感じてはいたが、猿は舟へと叩きつけられた。顔面から落下し、傍から見ても痛々しいような着地だ。それきり、猿は僅かに悶絶するようにぴくぴくと蠢いていたが、少し間を置くと動かなくなった。
 その様子を見て、男は、胸中にざわめきを感じた。
「…………」
 命を奪う行為自体は、男自身は初めてではない。晋国(しんこく)に雇われている兵士として、仕事は主に人殺しであり、己の得物(えもの)で人を殺めた数など両手の指を揃えても足りないほどだ。故に生き物の死に直面して動揺を起こすなど、男にとってはあまりにも今更なのである。
 しかし、胸がざわめく。言いようの無い、しかし今までの人生で何度か体験したことのある、不思議な衝動だ。
 ああ、と思い至る。これは、酒を飲んだ時。賭け事に勝った時。狩りに出て(けもの)を見事討ち取った時。二度も無いが、敵国との戦争で名のある(しょう)の首を斬り飛ばした時。
 そうだ――、これは、このざわめきは。
 愉悦(ゆえつ)
 楽しくて楽しくて仕方が無いと、幼い子供のような、そんな感情。
 そうだ、今、自分は。
 生き物を殺して、(よろこ)んでいる。
「……ふ、はは……」
 自然と、口端から笑みが零れる。
 楽しい。山に住まう獣とは言え、一つの命を弄ぶことがここまで面白いとは。あまりにも非力な存在を、自分の力で、それこそ指先一つで、あっさりと失くすことが出来る。こんな安物の剣でも、腕を斬り飛ばし、足を断ち、首を刎ねることだって出来る。命を、自然の輪廻(りんね)の中にある僅かな部品を、殺すことが出来る。
 これではまるで――神にでもなったような気分ではないか……。
「は、ははっ。はハははハッ…………」
 洩れる笑いが、次第に大きくなる。音の質も変わってきた。はっきりとした形を作らず、掠れたような不明瞭な笑声。
 神。良いじゃないか。世界を創造し、万物を生み出し、動植物に生命の息吹を与え(たも)うた絶対的な存在。全ての生と死を(つかさど)る、平等と残酷の化身。遥か西洋にある国々などではそれらに加えてあらゆる物体に宿る神々が居るそうだが、そんなものは異端だ。その神を生み出したのもまた神。そして今の自分は、
 ――――全ての死を司る、大いなる神。
「――――ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 楽しい。面白い。生きている甲斐(かい)を感じられる。ここまでの愉悦が、まさかこの世に存在していようとは。今まで見つけることの出来なかった自分は、何と愚かだったのだろう。
 命を(もてあそ)ぶなどと下劣な表現はいけない。自分は死を司っている。遊ぶのではない、操るのだ。一匹の猿であろうと何であろうと――そう、人間であろうとも。
 ああ、と思い至り、男は後ろを振り返った。同じく舟に乗っている兵士達の姿を。
 彼らは一様に、呆然と言った表情を作っていた。目の前にある光景が信じられないと言ったような、そんな顔だ。
 どうしたのだろう。男には、彼らがそんな顔をする理由が解からない。まるで――屠殺場(とさつじょう)にて処理された家畜を初めて見たような、恐怖に凍りつく顔など。
 だから、彼は一歩踏み出した。どうかしたか、と聞くつもりで。
 しかし、その一歩が踏まれた瞬間、
「――ひっ! ひぃぃッ!」
 弾かれたように、正面の兵が悲鳴を上げた。
 兜を被った顔面は蒼白の一言で、恐怖に彩られ歪んでいる。目の前の存在を――血塗られた刀を提げ、血走った(まなこ)で見下ろしてくる男を畏怖するように。
 否、この兵に限らず、船上の全ての兵士達が、男の形相に恐怖していた。返り血が僅かに付着した甲冑や刀などはさほどでもない。むしろそんな有様は戦場では日常茶飯事で、汚れ一つも無い鎧を着ている方がおかしいと言える。
 しかし、恐ろしいのは、男の顔だ。
 瞳孔が縮み、毛細血管が張り巡らされ、これ以上無いほどに見開かれた目。興奮に(たぎ)り、荒く息を吐く鼻。愉悦に歪み、裂けるのではないかと言うほどに吊りあがった口角(こうかく)
 兵士達の感想は、一様に揃う。
 こいつは、人間なんかじゃない。死神と言うにもまだ足りない。狂気に身を乗っ取られた、手の付けようが無い、鬼――。
 しかし男は、そんな困惑など知る由も無い。ただ単なる心配にも似た心持ちで、兵士達に近づく。
 と、その男を止める、二つの動きがある。
 一つは、正面、船尾側で立っていた兵が抜刀し、切っ先をこちらに向けての言葉。
「う、動くな、近づくなッ!」
 もう一つは、背後。猿の亡骸しかないであろう後方から上がった、しかし確かな、獣の叫び。
「――――ッギィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!」
 男の注意の優先順位は、まず咆哮に向かった。
 斬り、息の根を止めたはずの猿。その猿からとしか思えない、激しい怒りに燃え立つような叫び。
 まさか、生き返ったのか。そんなことを思いつつ、しかし胸中にあるのは不気味さなどの負ではない。むしろ正だ。殺しきれていなかったと言う事実が、男を不思議と沸き立たせた。
 ――そうかい、あの程度じゃ足りないのかい。ならば良いとも、今度は完膚なきまでに、その首を刎ね飛ばしてくれる。
 思いつつ、刀の感触を確かめ、背後を振り返り、



 一閃が跳び、視界を赤が染めた。



「…………ッ、ぐ、オォ……!?」
 熱が、目元を占めている。火にでも炙られているような感覚は、しかしすぐに痛みとなって男に突き刺さる。
「ぐ……が、あぁぁぁぁ…………!」
 眼に激痛が迸り、目蓋の裏から血が流れる感覚を得る。事ここに至ってやっと、男は己の目元を斬られたのだと思い至った。一瞬だけ視界が赤に染まったのは血によるものだ、と。
 しかし、何故。一体どこから、己を斬りつける刃が出てくるのだ。
 後ろで脅えている兵によるものではない。あの連中に、瞬時に己の背後を取って斬りつけてくるなどという神業は不可能だ。
 では、残るは母猿か。あるとするなら、野生の獣特有の鋭い爪。あれに穿たれたのならばまだ納得できる――が、それにしては感覚が綺麗過ぎた。乱暴に切り裂かれるのではなく、薄く鋭い刀に斬られたような――――。
 思考がそこにいたり、男は、不意に動きを止めた。同時に、思考も止まった。
 やがて膝が折れ、がっくりと倒れる。しかしその動きの途上で、何かに支えられ、そして貫かれ、今度は宙へと浮かされた。
 どろりとした、熱い液体が、体躯を流れる。流れの源は、男の首元だ。
 切り株のように横一線に切断された男の首から、凄まじい量の血が噴出しているのだ。遥か遠くに、どぼん、と、石が落ちたような水音が響いた。
 男の動きと思考は、止まったのではない。止められたのだ。




 正面、左腕を失くし、その代償に身体のあら(・・・・・・・・・・)ゆる部分を化物として(・・・・・・・・・・)復活した(・・・・)、猿の亡骸に。




 今、男の身体は、無数の肉の槍に貫かれている。その根元は猿の腹にあり、そこから幾十と生えている。男を貫いているのはそのうち四本、更に数本はその矮躯を支える足として舟底に突き立っていた。母猿が必死に河原を走った末に千切れてしまった腸の先端が、鋭利な切っ先を持ち、その腹を突き破ったのだ。
 猿の身体を突き破っているのは腹のみならず、その背中もだ。本来は背骨があった場所も引き裂かれ、代わりに巨大な鎌を露出させている。血が汚し、所々が白い、硬質で薄い刃は、紛れも無く生物の骨だった。そしてその鎌を含め、猿から生えている《臓器》は、全て独立した意識を持っているように、不気味にうねうねと揺れている。
 腸の槍と、骨の鎌。
 子を奪われ、無残に殺された母猿の怨念が、形を成して男を殺した。神にでもなったような、度し難い思い上がりの塊となった男を、その醜い命を、母猿は奪ったのだ。
 と、一閃、腸が乱暴に振られ、男を突き放した。胴のほとんどを貫かれた男の身体は、さして抵抗も無く舟の上から放り出され、長江の大河の底へと落ちていった。小脇に抱えられていた小猿も、小さな悲鳴と共に川に投げ出された。
 しかし、《臓器》はそれだけでは収まらない。宿主である母猿の怨嗟(えんさ)はそれだけでは鎮められない。
 次なる狙いは、これらの光景に呆然としていた兵士達に向けられた。
 突如、目にも止まらぬ速さで鎌が振られ、まず先頭の兵の身体を二分した。それなりの硬度を持っているはずの甲冑など意味を持たず、紙切れのように斬り飛ばされた。
 それを始めとして、腸の槍が次々に襲い掛かる。時に横っ面を殴り、腹を一撃で貫き、全ての人間を舟の上から弾き出した。抵抗する暇すら与えられず、各々が醜悪な、なおも助けを呼ぶような悲鳴を上げ、しかし河に落ち、それらも途切れる。
 と、一幕がそこまで落ち着いた時、ついに舟が決壊した。猿と言う名を被った化物の動きがあまりにも激しすぎたため、舟の基礎構造を崩してしまったのだ。
 しかし猿はうろたえず、無数の破片と散っていく板を器用に踏み抜き、対岸まで跳ね飛んで行った。やがて山の中に入り、急な斜面を駆け上って、山頂に至る。
 そこに至って、猿は焦点の合っていない虚ろな目を天に向けた。
 いつしか曇天の空からは雨粒が降り頻り、その激しさに水煙を起こしていた。長江の水面にも無数の小さな波紋が穿(うが)たれ、僅かに血の赤みを増した大河に水飛沫が上がる。
 天が泣くような豪雨の中、化物と化した猿は思う。否、既に自意識をほとんど失っている彼女に、『思う』等と言う表現は当てはまらない。
 正確には、『感じる』、か。
 この母猿は、子を奪われて怒り、弄ばれた事を恨み、変貌した。たかが一人の人間の戯れとは言え、それは一人の母を怒り狂わせるには充分すぎる仕打ちだった。故に母は怒り、男を殺し、他も巻き添えにし、一人だけ残った。しかしそれでもなお、彼女の内に滾る憤怒や怨恨は絶えず、尽きず、むしろ増えていっている。
 先の己のように、あの子のように。この世界で人間に弄ばれている命は、どれだけ居ることだろう?
 食肉として産まれ、屠場(とじょう)で殺され、喰われるのみの家畜。皮を剥がれて楽器の彩りに使われたり、根も葉もない伝承を鵜呑みにされ身体の一部を刈り取られた犬猫(けんびょう)。観賞のために()()から引き離され、不要となったらそこらに打ち棄てられる小さな鳥や魚。気味が悪いという理由だけで、潰されていった(むし)。全て人間の身勝手で殺され、無念のまま絶えて行った者達だ。
 彼女は今、その無念を、全身を持って感じている。
 それが運命だと、諦めた魂もある。しかし中には、母猿のように激しい憤怒を覚え、この世に未練を遺した魂もある。
 ああ、と、彼女は感じる。それで良い、と。
 全てを私に授けろ。怒り、恨み、辛み、嫉み。それらの『未練』を、全て預けろ。
 私は、それらを『復讐』で以って、返してやろう。
 好き勝手に我等を荒らしてくれた人間への復讐。それを以って、私は『未練』を晴らしてやろう。
 自然の理などと言う都合など知ったことか。もともと向こうが、こちらの都合も構わずに勝手に命を奪っていったのだ。たかが人間風情が例外として認められるなど、私は断じて認めず、許さない。
 復讐だ。これまで人間が犯してきた無自覚の罪を粛清し、存分に『未練』を晴らしてやる。
 だから、人間よ、覚えておけ。私と言う存在を。命をぞんざいに扱えば降りかかるであろう、私と言う名の復讐鬼の存在を。
 覚えておけ。私はいつも、お前達を見ている。
 お前たちが今一度、命を弄んだ時を待ち侘びて、お前たちの首を刈りとらんと、すぐ傍で見ていてやる。
 努々(ゆめゆめ)忘れるな。私と言う存在を。
 バクン、と、腸の槍の穂先が割れた。それは生々しい唾液を引く大口となり、(いびつ)に揃った牙を見せ、しゅうしゅうと呼気を洩らしている。
 猿の矮躯、その顔面も、天を向きつつ、口を開いた。元の猿には在り得ないほどに発達した犬歯が露出し、また顎骨(あごぼね)による解禁の限界を超えて、大きく開かれる。
 すう、と、五拍ほど息を吸う音が続き、次いで音が、全ての口から放たれた。
 轟く。雷鳴を物ともせず、ただ打ち震える激情のままに迸る咆哮を。
 ただ、その音は、どこか悲しみを湛える色も含まれていた。怒りや恨みだけではない、それよりも深く、暗い、哀号(アイゴウ)
 それが何を示すのか、何を哀れんでいるのかは、遠く聞いた者達にも分からなかった。ただ恐ろしく、まるでこれから殺しに行くと告げてくるような、号砲。





「――――ッギィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」








 天に()く、全ての生命を脅しにかかるような死神の慟哭(どうこく)は、世界の果てまで響き渡り、震わせて行ったと言う。





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