第一章「フサフサ頭の青春時代」その1
最愛の妻、美恵子さんとの出会いを、今でも鮮明に覚えている。忘れることなんて僕には一生できやしない。
あのときは、本気で目の前に天使が降り立ったと思ったんだ。
大袈裟にいってるわけじゃない。美恵子さんは、本当に光り輝いているように見えたんだよ。
あれは、僕の髪がフサフサだった26歳の春。まだまだ、人より抜け毛が多いくらいとしか思っていなかった時のこと。
高校卒業後、しばらくは地元の支社で働いていたが、この年、本社での勤務となって上京してきた。
「なんで僕が本社に?」ともが思ったが、ちょっと考えればわかることだった。
僕の地元は、本州の山間にあって、古い人間が多い土地柄で、地元の支社の人々は長男や郷土愛が強い方ばかり。
地元に何の未練もなく、周囲の人間がうるさく言わない三男坊だったことが決め手だったようだ。
支社の考え通り、僕の辞書には郷土愛なんていう項目はなく、素直に辞令をうけとったのだ。
東京の本社で、僕は顧客のクレーム処理を担当する部署に配属された。
当時は今みたいに個人単位のクレームは少なくて、契約先の業者などとの揉め事を解決する仕事が多かったな。
今のクレームは個人が多い。クレームをつける人は自己主張が得意な方ばかりで、抉る角度に容赦がないし、なかなかこちらの言い分を聞いてない人もいたりする。
業者などが相手の場合、相手方も仕事でクレームをつけているだけで、精神的には今ほどつらくはなかったなと振り返る。
ただ、多額のお金を損失してしまうことがあるので、1つ1つの仕事の責任重大だった。
とあるオフィス街の一角にある喫茶店。
その日も大事な顧客に頭を下げに行く予定だった。
先方の都合で会う時間が1時間ほど伸びて、暇をつぶすために、目に入った喫茶店で休憩することにしたのだ。
東京の喫茶店は、こんな小さいところでもオシャレなんだなと感心しながら入る。
そこに、天使がいた。
ウェーブのかかった柔らかそうな髪、二重で少し垂れ下がった目。
すこしペチャンコな鼻も愛嬌があって可愛らしい。
すらっとした手足は細く、小柄な彼女をさらに小さく見せる。
全身が綿あめみたいにフワフワと柔らかそうな雰囲気をもつ女性。
やや厚めの唇だけは女の色気を漂わせているようで、そのギャップがたまらないなと思った。
「1名様でよろしかったですか?」
時を忘れ、目の前にとびこんできた女性に見惚れていたが、急に現実へと戻された。
天使のように可憐な女性はウエイトレスのようで、僕にそう聞いてきた。
彼女にしてみれば、ただの接客用のスマイルだっただんだろうが、僕にとっては、これ以上にないほどの威力があって、心臓を思い切り殴られた気がした。
「は、はいっ!1名様でよろしかったのです!!」
明らかに不自然な日本語だ。
仕方ないだろう、僕はあまりの緊張と動悸で、脳が麻痺していたんだから。
しまいには、ビシッと背筋を伸ばし、奇麗な「気をつけ」まで披露してしまった。
そんな僕の姿が可笑しかったのか、彼女は噴き出すのを必死で堪えているようにみえた。
「で、では、こちらのお席へどうぞっ……」
僕をカウンターテーブルの1席に案内し、メニューを聞くと、彼女は店の奥へとそそくさとひっこんでしまった。
彼女が姿を隠した「従業員専用」とかかれたプレートがかかっているドアを、僕はしばらく未練たっぷりに見つめていた。
「……もう、ダメーーッ! ははっ、あははははははっっ!!!」
突然、耳に大音量の声が店内に響き渡った。
その声は、さっきのウエイトレスのものに他ならない。
やっぱり、彼女は僕のこと、噴き出すのを我慢してたんだ。
ああ、情けない、恥ずかしい。先ほどの自分の醜態が、頭の中で何度も再生する。
「これっ、笑うんじゃないのっ!」
中年くらいの女性の声が、笑い声を制止した。きっと、雇い主にでも怒られたのだろう。
自分のせいで怒られたのかと思うと、申し訳なく感じ、更に気分は下降の一途をたどる。
お昼より前とあって、僕以外のお客さんが、奥の方のテーブルにいる若い男性だけ。それが唯一の救いだった。
「こちら、ウーロン茶とバニラアイスになります」
声から察するに、さきほど彼女を怒っていたであろう中年の女性が、注文したメニューをもってきた。
もしかしたら、彼女がもってきてくれるかも、という淡い期待ははずれた。
「先ほどは、申し訳ありませんでした。あの子には私からきつくお灸をすえますので」
中年の女性は、奥の席にすわっている男性には聞こえないように、小さい声で謝罪してくれた。些細な心づかいが嬉しい。
彼女が怒られるのも可哀想だと思ったから、「いいえ、大丈夫ですよ」と答えた。
それにしても、見た目とは裏腹に何とも豪快に笑う人なんだとビックリした。
奇麗に整っているほんわりとした顔をくしゃくしゃにして、口を大きくあけて笑う彼女の顔を想像する。
きっと、すごく可愛いんだろうな。無意識に、口角がにんまりと上がってしまう。
ハッと気がつくとピシッと口を引き締める。しかし、しばらく経つと、またにんまりと笑ってしまう。ずっとこの繰り返し。
何分、そうしていただろうか。ふと店内にあった掛け時計に目をやる。時計は10時をさそうとしていた。
顧客との待ち合わせは30分後。そろそろを席を立って仕事に向かわなければいけない。
「従業員専用」のプレートがかかっているドアの方に視線をずらした。
彼女はドアの向こうに引っ込んでから、いっこうに顔をだしていない。休憩時間なのだろうか。
僕は喫茶店を去るのがとても名残惜しく、1度で良いから、彼女の屈託のない笑った顔が見たかった。
喫茶店にいる間、ずっと彼女のことが心から離れずに、彼女のことばかり考えた。
せっかく注文した大好物のバニラアイスも、ほとんど口にすることなく、皿の上で液体と化してしまった。
「……あ、あの」
会計の時、僕は珍しく勇気を出して、ちょっと大胆な行動をとってしまった。
「はい、なんでしょうか?」
会計をしていた中年の女性が答える。
「あっと、えーと。さっきの、僕にメニューを聞いてくれた女性のことなのですが……」
中年の女性の仕事の邪魔になることは重々承知。ごめんなさいと心の中で謝った。
中年の女性は顔を青くした。
「本当に申し訳ございません。本当にあの子にはちゃんと言い聞かせますのでっ!」
「い、いえっ! それとは違うんです。」
「えっ……? 違う、と言いますと?」
「その、違うの言うか。」
ええいっ、がんばれ僕、負けるな僕! 勇気を出せ、勇気さん、出てきてください!
「か、彼女の、お名前を、し、知りたいのです。」
言えた! 僕は心がふわりと軽くなった感じがした。ただ、顔は沸騰するほど赤かっただろう。
中年の女性はしばらく、鳩が豆鉄砲くらってような顔で僕を見ていたが、僕の茹であがった顔をみてぴんときたようだ。
「あらあら、まぁまぁ。どうしましょう?」
「ダメ、ですか……?」
「そうねぇ」
中年の女性は困ったように手の平を頬に当てた。
彼女は奇麗で可愛らしい。きっと、僕みたいな男性は多いんだろう。いや、僕よりももっとカッコイイ、比べ物にならないほどのイイ男が口説くんだ。
やはり、叶わない、一瞬の夢だったんだ。僕みたいな男が、自分の身の丈を無視して行動すること字体、おこがましかったに違いにない。
「お仕事の邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした」
さあ、早く頭を切り替えて、先方へどうやって謝ろうか考えよう。切り替えられうかどうか自信無いけれど。
「あ、お客さま」
お釣りでも忘れたのかなと思い、開けようとしていたドアから手を放し振り返った。
「もし宜しければ、また当店に足を運んでください。その時に、彼女自身に聞いてみてはいかがですか?」
中年の女性がにこやかにほほ笑んで、そう提案してくれた。
「あの、僕は、またこの店に来ても良いんでしょうか……?」
「当然です。是非、またお立ちよりください」
接客として社交辞令で言っているだけかと思ったが、中年の女性はにっこりと笑っていて、ほんわかとした雰囲気はどこか彼女と重なる。
「ありがとうございます!また、近いうちに」
店に来ることが構わないなら、彼女を眺めるくらいなら、きっと大丈夫だと自分を理由づけた。
「ありがとうございました」
パタンッとしめたドアの向こうから、中年の女性の声と、かすかに彼女の小さい声が聞こえた。
次の週末、早速喫茶店に行った時も、美恵子さんは全開だった。
僕を見るなり、先日の僕の醜態を思い出したのか、あの時と同じように豪快に笑いとばした。
その時は、「従業員専用」のプレートがかかっているドアの向こうではなく、僕の目の前で。
当然、中年の女性に怒られていた。その時、名前も教えてもらえた。
奇跡って、起こるものなんだと僕は思った。いや、今でも思っている。
それからというもの、毎週末、自宅から車で1時間もかけて、美恵子さんのいる喫茶店へと足を運んだ。
当時の僕はとしては、このままで終わりなくないな、と柄にもないことを望んでしまったのだ。
「恋は盲目」というのを身をもって体験中だった僕は、どうしても次につながるものがほしかった。
自分の身の丈をよくよく理解している今の僕では、絶対にしなかった行動だ。
どんなに自分のことをわかったつもりでいても、僕も、昔は若かったのだ。
一瞬にして美恵子さんの虜になってしまった僕は、真っ暗でジメジメとしていた日々が突如としてピンク色に変化したのだ。
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