ふと目をとめたのは【その店】が記憶の片隅に残っていたからでしょう。
今日もバイト先で言われた小言を思い出しながら、ぶつぶつと愚痴をこぼして歩いていた時のことです。何年も使い込んでいるような色あせた皮ジャンに、痩せこけた身を包んでいる青年は、どこか暮れる年を他人事のように感じさせる無気力感あふれた姿で、見覚えのある店に目をとどめていました。
帰宅途中にあてもなく足を伸ばした盛り場の一角。ちょっとした路地の奥にひっそりと浮かんでいる、小さな洋館のような店です。
あか錆びた銅版の看板は薄汚れていることもあり、刻んであります文字が読み取れません。どこか外国の田舎町にでもありそうな佇まい。ゆっくりと青年は近づいていきました。
『そうだ、この店だ。あれを買ったのは……』
重そうな樫の木で作られた扉の質感。近づくにつれ体重が軽くなったような感覚を覚える、身の失調感。まるで邯鄲の夢にでも踏み入れたような錯覚が青年の五感を惑わせます。それもまた彼には覚えがあるものでした。
『どうぞ、お入りになって。扉は開いていますわ』
突然、導いてきた声に戸惑いもせず、青年は滑るように店内へと入っていきました。
汚れ一つないガラス製のショーウインドゥが並ぶ奥に声の主でしょう、妙齢の女性が淡い茶髪のウェーブをなびかせていました。ほどよい血色の頬には確かな肉感を証明しているのですが、存在そのものが希薄にも思える、不思議な雰囲気をまとった女性です。
肩もあらわな薄紫のドレスを着た女主人。確認するやいなや青年は詰め寄っていきました。
『あんた、そうだ確かにあんただ。覚えてるぞ。やっぱりこの店はあん時、俺が【あれ】を買った店なんだな』
『あら、以前に来たことがおありなの。そう、ね、思い出したわ。あの時お買い上げされた方ね。その後お変わりなくて?』
『こ、これ、こんなんなっちまった。こんなの、こんなの不良品じゃねえか!』
青年は声を荒らげながら、懐中より歪に曲がって、くすんでいる色合いのブレスレットを取り出しました。
『あらあら、ひどいものね。そんなガラクタになってしまったの』
女主人はブレスレットを握りしめる青年を一瞥して、瞳に憐れみとも蔑みともいえない、光を踊らせました。
『それを売った時、私がなんて言ったか覚えてるかしら』
青年はまゆを潜めました。懸命に記憶の扉をノックします。改めて店内のガラスケースを見渡すと、独創的なデザインを宿して並ぶ、数々のアクセサリーが目に飛び込んできました。
三年前、就職浪人となった青年。そんな小さなことで未来に絶望していた最中、彼はこの店の扉を開いたのです。
整然と並んだ美しいアクセサリーの数々。この時も青年の目には魅力的に映りまして、聞いたのです。
『ふうん、綺麗なのばっかりだな。なんか俺に似合うようなのあるかい』
『そうね、これなんてどうかしら?』
女主人がケースから取り出してきたのは、儚さと憂いを形にしたような壊れそうに美しいネックレスでした。
『私の店のアクセサリーにはそれぞれ名前がついてるの。これには【愛】とついてるわ』
『ふ〜ん、確かに綺麗だけど、なんだかもろそうだな。他にないのかい』
すると今度は銀色が渋く輝いている小ぶりのピアス取り出しました。ピアスには【絆】という名を冠していると女主人は紹介しました。なるほど、さきほどのネックレスと違い、ちょっとやそっとでは壊れそうにない品物です。
『まあまあだけど、俺、ピアス付けないんだよな〜』
『それなら、これはどうかしら?』
そう言って三番目に取り出してきたのは七色に輝いているブレスレットでした。何だか見ているだけで、ふわふわといった心地よい印象を与える装身具です。
『これ、いいな。うん、これ買おうかな』
一目見て気に入った青年は買いました。ですがブレスレットの名前までは、どんなに記憶を揺り動かしても思い出せません。女主人と青年の目が合います。
『……これ、なんて名前だったっけ』
現実に戻ってきた青年は先ほどの声より幾分か落ちたトーンでたずねました。
『そのブレスレットは【夢】よ。そう……あなたは忘れてしまったのね。じゃあその後に私が何て続けたのかも』
『夢か、そういやそうだったかな。いや、そんなことより、なんだよこれ、たった三年でこれじゃあよ。返品もんだろ、おい』
再び言葉を強く打ち出した青年。ですが気圧されることなく女主人は白魚のような細指を唇にそえて微笑みました。
『ふふふ、言ったはずよ。そのブレスレットは夢。これからのあなたの人生を具現してくれる夢だと。あなた次第でガラクタにも、珠玉の輝きを持つとも』
居丈高な青年とは違い、静かに詰問するような女主人の口調。先ほどまでの窈窕に満ちた雰囲気が霧消していきます。
『具現? え、人生って。なんだ、なんの話だよ、それ』
『夢はね。見ているだけじゃ駄目。持っているだけじゃ駄目なの。きちんと毎日手入れをするの。毎日、毎日磨いて、一日、一日を大切にしないと、色あせた残骸に成り果てるだけなのよ』
――残骸。その響きが持つ壊れた印象を自らと重ねた時、青年はブレスレットを購入してからの三年間を思い出しました。
『……俺は、俺は自分を磨いてこなかったと。夢を見ているだけだったって言うのかよ』
大学在学中に思い描いていた夢の第一歩が、就職浪人という壁ではね返された後、青年はただその一時のみの事柄で、その日を楽しく過ごせればいいと、その日だけ笑えればいいと怠惰に生きてきたのです。
『どうすりゃいいってんだよ。どうすりゃよかったってんだよ。どうせ今からじゃ、どうせ俺なんて……』
『ふふ、遅くはないわ。だってあなたはまだ若いじゃない。これからでしょう? そのブレスレットが新しい輝きを取り戻すか、更にくすんで黒ずむか、これからの、あなた、次第――』
どうしたことでしょう? 不意に青年は急激な眠気を覚え、あくびを漏らしました。みるみるうちに視界がぼやけて、さきほど歩いていた路地裏前に立っている自分に気づきます。
一体、あの店はなんだったのでしょう?
店が存在した方向に振り返る青年。その手には確かな重さで青年に身を任せるブレスレットだけが、静かに現実だったと主張しています。
青年は歩き出しました。昨日までと違い、しっかりと根を張るように。その踏みしめた歩みは今度こそ未来を見据えるんだという意思をかたく思わせるものでした。
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