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花嫁人形の夜

作者:うみのまぐろ
 五月の水はとても冷たく、まるで私の体温を彼岸の温度と同化させるようであった。衣服は重く、私はただただ深く暗い水の底へ、奈落へと沈んでいく。

 自死を選ぶことは、逃げであろうか。冒涜であろうか。たとえそのように非難されたとしても、私は自由意思を持って死を選びたい。私たちは本質的にどこまでも自由であり、そして私は死という自由によって完成する。

 どこまでも、どこまでも、水音とともに私は沈んでいく。深い深い夜や闇と一つになって、そしてようやっと私は自由になる。薄れていく意識の中で、私はそっと目を開いた。小さな小さな祈りを込めて。



 水面の向こうに、光が見えた。








「姉さんの髪を、分けてもらえませんか」


 私は、兄さんと相思相愛であった従姉妹の葉子姉さんをまっすぐに見つめ、そうお願いした。葉子姉さんの髪はしっとりと黒く、そして長い。細やかで揃った彼女の髪は、人形の毛髪にするのにこれ以上ないもののように思えた。

 私は、菜の花の咲く畑を抜けて、葉子姉さんの家を訪ねた。葉子姉さんの家である古く大きな日本家屋は、私がよく見知った五年前と変わらずそこにあって、花畑に囲まれた一枚の絵のようであった。

 その玄関口で、葉子姉さんは、困ったように優しく笑った。そうして私の頬へそっと手を差し伸べると、ほのかな指先でそっと私の頬へ触れ、静かに言った。




「私、結婚するの。だから、あの人に髪はあげられないわ」







 兄さんが亡くなってから、もう五年の月日が流れていた。兄さんの死因は滑落死であった。友人たちと一緒の登山の最中に、斜面から足を滑らせたのが原因だ。

 遺体を回収するかどうか選択を迫られたが、私はそれを断った。死亡は確定的であったし、また遺体を回収するのにも多大な危険が伴うということであった。そして何より、たとえ兄さんのものであったとしても、遺体というものにどれほどの価値があるのであろうと思ってしまったからである。

 兄さんは山が好きだった。遺体はやがて風化して、兄さんが好きだった山の一部となり、そしてこの世界の一部となるだろう。それに対して、無理に回収をした上で火葬に付し、骨壺に納め、暗く薄暗い墓の下に安置することが、どれだけの正当性を帯びているのか、私にとっては納得しえないものがあったからである。

 兄さんの骨を、ずっと私の手元に置いておく。それは傷ついた私にとってとても甘美な誘惑であったけれど、けれど私はその欲望をきゅっと飲み込んだ。


 兄さんが亡くなった当時、私は、二十歳で、兄さんは二十五であった。父と母が若くして病死したため、そのころすでに他に身寄りはなかったように思う。私たちの家は、花嫁人形を作る人形師の家系だ。兄さんの受け継いだその技術を、私も大学に行きながら学んでいた最中であった。兄さんの滑落死の報が舞い込んできたのは、私がようやっと一人前として一体の人形を作り上げた夏の暑いころのことだった。

 この北の地では、若くして亡くなった男性が、あの世でも一人なのはさみしかろうと、その死者がもし生きていれば適齢期という頃に、白無垢の花嫁人形を供える風習がある。あの世で妻をめとり、仲睦まじく末永く過ごしてほしいという親の願いが形となったものだ。

 この山は、冥府へと続く山である。この山の頂上には、死者に会うことのできる、思い思いの石が転がる岩山と、それを抜けた先に浄土へと続く浜があり、そして彼岸へ続く湖がある。そこへ、花嫁人形を供えるのだ。


 私たちはそうやって、死者へ手向けるたくさんの人形を作り、そして送り出してきたように思う。




 三十には結婚したいな。そう照れくさそうに漏らした兄さんの横顔を、私は鮮明に覚えている。もうすぐ梅雨を迎え、そして盛りになるであろう今年の夏は、兄さんが生きていれば三十になるはずの夏である。

 人形作りの工程はいくつかある。胴体は、まず木綿(もくめん)を布袋に詰め、途中から木の根が二股に分かれたような胴体部を、開いては縫い締めて、それを繰り返し、胸の形や、腰の形、お尻の形を作っていく。手はその胴体の肩部分に、太い針金を差し込み固定する。私はその上から塗装をして、実際に使われた白無垢を解体し、さらに薄く直した人形用の白無垢を着せる。胴体は、それでいい。でも、顔の部分はそうはいかない。

 兄さんに捧げる人形である。だから、その人形は、兄さんと相思相愛で、おそらくはいつか、きっと二人は結ばれるのだと、そう私が信じていた葉子姉さんの髪で作ろうと思った。そうすれば、兄さんは喜んでくれるんじゃないかって。そう思って、意を決して葉子姉さんのもとを訪ねたのに。






「私、結婚するの。だから、あの人に髪はあげられないわ」

 私の頬に手をやって、静かに葉子姉さんは言った。姉さんは困ったように笑って、眉をゆがめている。私の足元が、がらがらと崩れていくような感覚を覚えた。かたかたと肩が震え、じわ、と視界がゆがむのが分かった。


「ひどい顔してる。今日はもう帰りなさい」


 葉子姉さんに促されて、そのとき私は工房へと逃げ帰るしかなかった。








「そうかいそうかい。それは災難だったねえ」

 トメおばあちゃんは、そう言って静かに緑茶を口に運んだ。五月とはいえ、北の地は冷える。湿度が変わることは人形にとって好ましくないため、備え付けたハロゲンヒーターに当たっている。そこは、私の工房だった。人形の胴体や、手の部分や、顔の部分が、所狭しと並んでいて、完成したたくさんの花嫁人形も並んでいる。

「二郎も、葉子ちゃんがお嫁に来てくれれば、喜んだろうにねぇ」

 二郎とは、兄さんの名前である。兄さんは長男ではあるけれど、神様に良い子だと思われて連れていかれるのを避けるため、二番目のような名前が付けられた。俗にいう忌み名というものだ。しかし両親が残したその思いもむなしく、兄さんは他界してしまったけれど。

 山の麓の工房は、今まさに桜の花が散る頃だ。五月の頃、北の地では春が遅いのである。平屋建て木造の古い工房の窓からは、散りゆく桜の花びらが見え隠れしていた。桜の枝は葉桜となって、新緑が芽吹き始めているようだった。

 トメおばあちゃんは、私の依頼人の一人だ。孫が若くして亡くなってしまったのだけれど、今年そのお孫さんのための花嫁人形を奉納することとなり、私に製作の依頼をしてきた。お孫さんのための花嫁人形はもう間もなく完成し、お納めすることになるだろう。

「いっそのこと、みどりちゃんの髪を使うってのはどうだい?」
「私のですか?」

 トメおばあちゃんは言った。驚いて顔を上げた私が見たトメおばあちゃんの目じりは細く、彼女の目が一体どこを見ているのか、私には判別がつかなかった。

「いやね。小さいころから、みどりちゃんは二郎のお嫁さんになるんだって、そう言って葉子ちゃんと二郎の後をついて回っていたろ? だから二郎、もしかするとみどりちゃんでも喜ぶんじゃないかって。あれは、きっと恋をしている目だったから」

 そう言って、トメおばあちゃんは笑った。私は恥ずかしくなって顔を伏せた。その指摘は図星を突いていた。私は幼いころから、本当に兄さんと結ばれたいと思っていた。それは、たぶん今でもだ。

 兄さんとは、小さなころから二人で遊んでいた。兄さんと一緒に野をかけて遊ぶとき、筋張った手先や、汗に濡れたシャツ、覗いた鎖骨から、兄さんのことを男らしいと思った。私のために不慣れな料理を作ってくれ、いつも笑いかけてくれる兄さんのことが好きだった。それは、兄妹としてのそれではなく、男性としてのそれだ。

 でも、兄さんは葉子姉さんと一緒にいるとき、私といるときには見せることのない照れくさそうな、それでいて安らいだような表情を見せた。二人とも気づいていなかったけれど、それは葉子姉さんも同様だった。そしてある日、熱い夏の、学校からの帰り道、木陰の下で、髪を指で上げ、上向いた葉子姉さんの顔に、兄さんの影が重なり、静かにキスをしているのを見た。そのとき、みんみんとうるさく反響していた蝉の声さえ一切聞こえない無音の状態で、夏の世界は停止していたように思った。


 きっと、葉子姉さんは本当の姉さんになるのだろう。


 それが一番なのだと、そのときは思った。そしてそれは仕方のないことのように思えてなんだか悲しかったけれど、喜ばしいことのようにも思えた。


 私は意識を、記憶の淵から引き戻す。しばし無言になっていたようである。顔を上げればトメおばあちゃんは目を細め、けれど逸らすことなくじっと私を見つめていた。どうして彼女が私をそうやって見つめる必要があるのか、そのときの私にはわからなかった。

「それは、ありません。兄さんは葉子姉さんが好きだったし、私たちは血のつながった兄妹ですから……」
「そうだよね。変なことをいてごめんねぇ」

 トメおばあちゃんは、安心したように笑った。その笑顔に、私もそっと胸を撫で下ろした。そのときだった。がらら、と、勢いよく戸が開いて、ぴしゃりと音を立てて閉じられた。こんな粗暴な開閉音を立てるのは、一人しかいない。


「よお。みどり、俺のところに嫁に来る気になったか?」


 太く、低くて荒い大声であった。仕方なく工房の入り口を見れば、そこには浅黒く日焼けし、体格の良い、趣味の悪い高そうな服を着た男が立っていた。彼は兄さんの友人で、兄さんと同い年の智明である。

 智明は、この地域の名士の息子で、おそらくそのうちに村長にでもなる家柄なのであろう。必要以上に甘やかされて育ったせいか、気は粗暴で自信家だ。兄さんの友人だなんてとても思えなかった。この狭い地域の中では、年の近い者はすべて友人のように扱われてしまうのも、仕方のないことかもしれないけれど。

「いい加減、お前もいい年だろ。俺のところに来いよ。一生可愛がってやるぜ」

 そう言って、にやにやと智明は笑った。私の嫌いな笑い方だった。智明は兄さんの喪が明ける前から、ことあるごとに私を口説くようになった。思えば葬儀のときからそうだ。兄を無くしたかわいそうな孤児みなしごを、優しい俺が助けてやる。彼の言葉はまるでそう言っているようだった。

 私はかわいそうなわけでも、一人で生きていけないわけでも、誰かを頼りたいわけでもなかった。智明が言い寄ってくるのはいい迷惑であったし、口説き文句にもいちいち腹が立った。今でもたまにこうして訪ねてきては、汚い言葉を吐いていく。

 智明の視線が、私の足先から顔までをぬらりと舐めたのがわかった。

「何度もお答えしました通り、私はどこへも嫁にはいきません」
「強がってるんじゃねえよ。俺のところに嫁に来れば、きっと二郎も喜ぶぜ。なあばあさん」

 兄さんの名前を出されて、私はかっとなって立ち上がり、智明に詰め寄っていた。智明はにやにやと笑っている。もしかしたら智明の挑発に乗ってしまったのかもしれなかった。

「あなたが、兄さんを決めないで」

 行く当てもなく振り上げた手を、智明の太い腕がむんずとつかみ、私は力任せに引き寄せられた。女の力では、大男の智明の力に抗することはできない。私は智明の身体、顔近くまで引き寄せられる。鈍い、肌の油の不快なにおいがした。

「おおう。怖い怖い。こんな怖い娘っ子は、俺がちゃんと躾てやらなきゃいけねえなぁ」

 ぎりぎりと手首が締め上げられ、智明のにやついた顔が近づいてくる。その瞳のらんらんとした輝きに私の背筋は凍るようだった。こんな奴にいいようにされるぐらいなら、舌を嚙み切って。そう思った、ときだった。

「やめなさい。智明」

 凛とした声が響いて、それと同時に智明の私の手首を握りつぶすような力が弱まった。見れば入り口には、葉子姉さんがいて、糾弾するような視線を智明に向けていた。

「チッ。なんだよ葉子。お前が俺のものになれば、こんなことしなくてよかったかもしれないんだぜ」
「いいから出ていきなさい。トメばあちゃんも、もう日が暮れるから帰りなさいな」


 葉子姉さんの言葉に従うように、智明とトメおばあちゃんは、日も傾き始めた工房を後にした。薄暗い、作りかけの人形たちが立ち並ぶ工房の中には、私と葉子姉さんだけが残されて、差し込む西日が彼女の影を長く作った。

「座っていい?」

 葉子姉さんは小さい上がりを上がると、膝を立て、洗練された動作で急須にお茶を入れた。湯気のゆれる湯呑が差し出され、その向こうに困ったように眉を細める姉さんの姿があった。姉さんは小さく、昼間はごめんなさいね、と言った。

「葉子姉さん、どうして、兄さんに髪を下さらないの? 姉さんが結婚していたとしても、兄さんは喜ぶと思う。兄さんは、姉さんのことが好きだった。姉さんも」

 あふれ出した私の言葉に、姉さんは仕方なさそうに笑い、は小さくかぶりを振ると、小さく祈るような声を出した。

「私が髪を渡しても、きっと二郎は喜ばないわ」

 その、小さく、悲しんだような言葉に私は衝撃を受けた。だって、姉さんは兄さんのことが好きで、兄さんだって姉さんのことを一番に思っていたはずなのに。

「たぶん、私は二郎でなくても幸せになれる。ううん。幸せになろうと決めたの。むしろ二郎でなければダメなのは、みどり、あなたなんじゃない? きっと私よりも、あなたのほうが二郎のことが好きだった。好きの強さで選ぶなら、二郎への花嫁人形はあなたの髪で作るべきよ」

「でも、私たちは実の兄妹で」

「あの世に行けば、兄も妹もないわ。むしろこの世では報われない、愛や恋だってあふれている。それならもしかしたら、あなたの髪で花嫁人形を作ることは、とても素敵なことなのかもしれないわね。みどり、あなたはどう思うかしら?」

 その答えは、私の中にはなかった。私の視線は、姉さんの淹れてくれたお茶の、水面に立つ波紋に落とされて、答えのないまま日は暮れていく。ようやく日が落ちたころ、姉さんは静かに立ち上がると、音も立てずに菜の花の咲く家へと帰っていった。






 数日後、人形作りはいよいよ佳境を迎えていた。私の工房には、人形の手や胴体や、着物の部分や、そして在庫として作ったたくさんの人形たちがある。一見さんであれば、このなかから持って帰ってもらうことも可能だけれど、けれどもトメおばあちゃんの人形は特注だった。

 鶴を刺繍した白の絹。打掛から掛下着、合わせる帯や小物にいたるまですべてを白で揃え、綿帽子を被せ、私は神経を研ぎ澄ませ最後の仕上げをした。花嫁人形が転んでしまわないように、箱の中に固定する作業だ。
 その作業を、トメおばあちゃんは遠くからじっと見守ってくれていた。

「できましたよ。トメおばあちゃん、ご確認を」

 額の汗をぬぐえば、もう夕暮れどきだった。
 トメおばあちゃんは、人形を見る前に、私の身体を気遣って、淹れたてのお茶を出してくれたように思う。集中していたためか、喉がからからだった私は、トメおばあちゃんの厚意をありがたくいただくことにした。

「いい出来だねえ」

 そう言いながら、トメおばあちゃんはしばらく、出来上がった花嫁人形をしげしげと眺めていたように思う。それがしばらく続いて、私はどうしてだか、ひどく眠くなってしまった。私の意識はずるずると引きずられるように闇に落ち、おや、というトメおばあちゃんの声が響いた。






 小さいころ、人形を作る兄さんに尋ねたことがある。兄さんはいつも作業台に向かい、花嫁人形を作っていた。薄明りで照らされた作業台の上には、人形の手や胴体がたくさんつるされていて、そのわきに、完成した花嫁人形があった。どうやっても及びつかない、兄さんが作った人形である。私はその見事さに、ただキラキラとした目で見入っていたように思う。

『きれい……。こんなお嫁さんをもらったら、きっと死んだ人だって喜ぶね』

 おしろいに紅をさした人形の横顔が、薄明りの炎に揺れていた。私の言葉を認めると、兄さんはその作業の手を止めることなく、また新しい人形を作っていた。

『人形をもらって、死者は本当に喜ぶだろうか』

 その兄さんの表情は、幼い私にはうかがい知ることはできなかったけれど、ただ、静かに苦悩しているように、後悔しているようにだけ見えた。

『じゃあ、人形は幸せなんだろうか。嫁に行くためだけに作られて、死者へ奉ぜられる。人形に魂が宿るとしたら、この人形たちは幸せなのだろうか』

 兄さんの声は、悲しそうに響き、薄明りに影が小さく揺れていた。私はそのとき返す言葉の一つもなくて、私はただ、小さくなる兄さんの背姿を見つめている。






 ひどい頭痛とともに、私は目が覚めた。舌がぴりぴりと痺れていて、意識は朦朧としていた。目を開ければ、どうやら畳の上に寝かされているようであった。

 体は痺れていて、自由が利かなかった。まるで私自身が人形になってしまったかのようだ。普段と違う締め付けるような衣の感覚に、目を落とせば、白の布地に鶴の刺繍が目に入って、それはとても見知った柄であることに気が付いた。私は白無垢をまとっているのだ。

 髪を櫛削る感覚に、ふと目を上げると、トメおばあちゃんが私の髪をまとめている。動こうとするけれど、やはり体が痺れているようで言うことを聞かず、そうでなくてもどうやら、私の両手は後ろ手に縛られているようだった。

 トメおばあちゃんは私が目覚めたのを認めると、黒瑠璃の深い闇をたたえた瞳で、嬉しそうに笑った。私の髪を結い終えると、そのしわしわの、温度の低い手で、私の頬を撫でる。

 薬を盛られたのだ。


「人形なんかで、本当に孫が満足すると思うかぇ?」


 まるで夜気の温度と等しいような、冷やかに笑うような声でトメおばあちゃんは言った。

「孫の嫁にするのなら、年頃の、生娘がよいと思うての。なあに、みどりちゃんは別嬪さんじゃ。きっと孫も喜んでくれるじゃろうて」

 けらけらと、トメおばあちゃんは笑っている。その枯れ木のような腕のどこにそんな力あったのだろうか。トメおばあちゃんは動けない私を引き起こすと、引きずるようにして小上がりのほうへと動いていく。そこには荷車があって、それで私をどこかに運ぶつもりらしい。


「きいっと、みどりちゃんも幸せになるよ。何せ、孫は優しい子じゃったからのう。大丈夫、きっといい夫婦になるよ」




 私は、死ぬのか。

 人形のように動かない身体で、人形のように死者へ捧げられ、そして誰とも知らぬ死者と結ばれる。それはもしかすると、ひたすら死者のため奉ぜられ、黄泉に渡る定めにある花嫁人形を作り続けた、私に課せられたカルマなのかもしれない。

 私はせめてもに、人形の気持ちになり考えることにした。私はこれから黄泉に渡り、誰とも知れぬ人の妻になるだろう。それが果たして幸せか、不幸せか。白無垢の姿のまま、痺れた頭で考えても、その答えは出なかった。きっとどうでもよかったのかもしれない。きっと私は誰とも知れぬ人の妻になったとしても、それなりの日々を過ごすことができるのだろう。



 では、死はどうだろう。


 私は静かに目を閉じて、おそらく近づいているであろう死の足音に耳を澄ませてみた。私はこのままどことも知れぬところに運ばれて、そして、このつまらない二十五年の生涯を終えて黄泉へ行く。それは恐怖すべきことであろうか。死に近しいこの状態で、どんなに思考を巡らせてみても、死への恐怖はみじんもわいてこなかった。

 おそらく、私の生きる時間は止まっていたのかもしれない。兄さんが滑落して、亡くなったあの日から。きっと私のこころは凍ったままで、ただひたすらに、抜け殻のような花嫁人形を作り続けてきたのかもしれなかった。


 いいよ。死ぬのなら。
 殺してくれるのなら。


 それはもしかしたら、私がこの世から自由になれるすべの一つなのだ。




 しかし、その死は叶えられることはなかった。いよいよ荷車が近づいとき、強く開け放たれた引き戸から、大きな黒い塊が飛び込んできた。その塊はトメおばあちゃんを力任せに殴打すると、トメおばあちゃんは数間の間を吹き飛んで、そして悲鳴を上げて外へ飛び出していった。再び畳の上にたおれた私が見上げると、そこには息を切らせた智明の姿があった。

 ……助かった?

 その一瞬のひらめきは、すぐさま、杞憂であったことを知った。なぜなら智明のその太い腕は、闇の中からぬらりと伸びると、きつく締められた白無垢の胸元を引き開け、乳房をわしづかみにしたからであった。

 にやにやと、黒瑠璃の目で、智明は嗤っている。

「ずっとこの時を待っていたんだ。トメばばあ、きっと今日行動に起こすと思って、張っておいてよかったぜ。ずっとお前を手籠めにしてやろうと思っていたんだ。お高くとまったプライドの高い、お前の生娘を奪って犯したら、どんなに気持ちいいだろうってな」

 智明は、引きちぎるように白無垢を剥き、私の下腹部へそれを押し当てた。薬が効いているためか、私の身体は痛みを覚えず、ただ下腹部への圧迫感と異物感があった。智明は満悦したようによだれを滴らせると、白無垢の袖を押さえつけて、思うがままに、乱暴に動き始める。

「どうだ? これでお前は俺のものだ。俺のところに来いよ。こうやって毎晩かわいがってやるぜ。俺が幸せを教えてやるよ。忘れられなくしてやるよ」



 男の理屈は、いつも勝手だ。


 別に、犯されたって、私があなたのものになるわけじゃない。私はいつ死んだってかまわないのだ。

 私は冷やかな目で、智明を見た。そのまなざしを認めたのか、智明は目を血走らせてわなわなをと震えた。


「お前にとっておきのことを教えてやるよ」


 その口元が、厭にゆがんだ。


「あの日、二郎を殺したのは、俺さ。仲間と山を登ってったとき、霧が深くなったときに、ここぞと思って突き落としてやったのさ」


 その言葉を聞いたとき、痺れていた私の瞳孔が、きっと開くのが分かった。どくん、と、心臓が強く打ち、体を血流が駆け巡りだす。

「二郎を殺せば、お前が簡単に手に入ると思ってよ。お前はまさか、実の兄に情欲を抱いている不埒な女だったからなあ。それにしたって五年もかかるとは計算違いだったぜ。身寄りもない、独り身の、吹けば飛ぶような弱っちい女のくせに強情張りやがって。俺がどれだけ優しくしてやったと思ってるんだ」

 悪鬼が、にやにやと嗤っている。よだれを振りまきながら、満悦として、楽し気に腰を打っている。呼吸が苦しい。心臓がばくばくとなっていた。兄さんが、死んだ。兄さんは、あの日、あの山で、こいつに。私の、せいで、兄さんは、こいつに。こいつが。


 こいつが。


 私は、ゆがむ視界をきゅっと引き絞った。


 そのときどうしてだか、手のしびれが取れ、智明が激しく動いたせいか、緩んでいた縄の拘束が取れた。

 何の偶然なのだろう。私の傍には人形を断つときに使う鋏が落ちていて、私は強くそれを握った。



 こいつは、兄さんのかたきなのだ。こいつが兄さんを殺したのだ。


 私は、鋏にあらん限りの力を込め、そして。




 こいつを。


 殺して――






 薄明りの炎が揺れている。




 ねえ。兄さん。


 私はこいつが許せない? トメおばあちゃんが許せない? 葉子姉さんが許せない? 私のことが許せない?



 きっとね、そんなことは、私にとってどうでもよかったんだ。


 私はきっと、もう五年も前に終わっていた。私は終わりに向かって、一つ一つ、準備を整えていただけなんだ。ねえ兄さん、私は、きっとそこへはいかないから。私の思いは、絶対に兄さんを縛らない。そうすれば、きっとあなたは自由だから。






 智明は行為が終わった後、満足げにどこかへ行ってしまった。そのころにはもう夜も深まりつつあって、そこにあるのは深淵とした常闇である。


 私は体のしびれが取れているのを確認すると、ぼろぼろの身体と白無垢を引きずるようにして、闇夜の山を登った。不思議と疲れや痛みは感じなかった。

 この山には、死者と出会える岩山と砂浜があり、そして、死者が涅槃に行きつくという湖がある。

 私は、この山に転がる石たちを集めて集めて、たくさんの思いを、集めて集めて、石ころだらけの山路を過ぎて、そうして宵闇に沈む砂浜を過ぎて、涅槃の湖にたどり着いた。ざあ、と小さく、岸に押し寄せる波の音がする。その音のする先に、湖に向こう岸と、闇に沈んだ山の端がある。


 砂浜の一角に、小舟があった。私は重い身を引きずるようにその小舟を押すと、夜の湖に漕ぎ出でた。湖面は静かな凪で、風はない。ただ静かな暗黒に満ちていた。





 私は、ただ。

 兄さんに、笑って欲しくて。

 それで。








 いいや。きっと、違うのだ。



 凪に、小さな風が吹いた。

 風は、つむじのように舞い上がり、空を覆う暗雲を静かに揺らしていく。




 そんなことで、兄さんは、死者は本当に喜ぶだろうか。

 きっとそれは、結局のところ私たち生きている人の願いでしかなくて、本当の意味で死者が笑うかどうかなんて、わからない。


 それならばせめて、私は死者に自由であってほしいと祈る。


 私たちが残した、死者を思うがゆえの願望の怨嗟、そういった余計なおせっかいを全部集めて水の底に沈めたなら、きっと死者は自由に何かを選ぶことができる。



 そのためには、まずは私自身が自由でありたいのだ。



 きっと、生まれを自分で決めることはできない。道半ばで倒れる者もいる。

 でも、私は自由に生き、自由に何かを決定し、そして自由に死を選ぶ。

 誰かのためではなく、私は私自身のために、自由意思によって私自身を決定する。




 だから私は、何の救いもなく見えるこの世界が、美しいものであると信じよう。






 私は、空を振り仰ぐように立ちあがり、そうして静かに湖面へと身を投げた。



 たくさんの石ころをしたためた袖は重く、白無垢の私は引き込まれるように、沈んでいく。誰のものにも、なにものにもなることを選ばなかった人形は、そうして湖底に没していく。


 五月の水はとても冷たく、まるで私の体温を彼岸の温度と同化させるようであった。衣服は重く、私はただただ深く暗い水の底へ、奈落へと沈むのだ。



 私は、兄さんのところへは、行かない。



 私はこの集めた思いを、どこでもない、この涅槃の湖底に沈めよう。恨みに妬み、嫉みに呪い、そんな思いを、集めて集めて、夢や希望、奇跡や愛、そんな思いを、集めて集めて、そして、なにものでもないものとなる。

 自死を選ぶことは、逃げであろうか。冒涜であろうか。たとえそのように非難されたとしても、私は自由意思を持って死を選びたい。私たちは本質的にどこまでも自由であり、そして私は死という自由によって完成する。

 どこまでも、どこまでも、水音とともに私は沈んでいく。深い深い夜や闇と一つになって、そしてようやっと私は自由になる。薄れていく意識の中で、私はそっと目を開いた。小さな小さな祈りを込めて。




 水面の向こうに、光が見えた。月の光だった。




 祈るなら。




 この世界が、もう少しだけ、等しく、正しく、優しくありますように。



















見方によっては花嫁人形やムカサリ絵馬といった冥婚の文化が、やや否定的に描かれることになってしまったのは作者の技量不足です。

冥婚は、生きている方々の思いのこもった、素晴らしい儀式だと思っています。

最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。

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