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無垢なほど人は正常に狂いゆく
作:椎名 奎



三頁『あの部屋の光景は僕の脳裏を離れないだろう』


 雨が降り続ける梅雨、僕は一人で家の留守番をしていた。お父さんは休日出勤で、お継母さんは駅前の料理教室に通い、季衣は友達の家に遊びに出かけ、お婆ちゃんは足の治療のために病院へ出かけていた。
 僕は玄関の鍵をかけると、そのままお婆ちゃんが起居する和室に向かった。誰に断るでもなく、箪笥の引き出しを開けたり、棚に飾った小さな小物をひとつひとつ持ち上げてみたり、押し入れに頭から突っ込んで奥の方に腕を伸ばしたり、とにかくこの部屋にあるはずの “モノ” を探した。
 帰ってくるまでに探さなければという焦りから、僕は叩きの先端で天井を突ついた拍子にバランスを崩してしまい、棚に飾った正方形の小物を落としてしまった。それはサイコロのように畳の上を転がり、壁に当たって動きを止めた。拾い上げようと手を伸ばすと、小物の上辺が横にスライドしていた。どこにも蓋が見あたらなくて、ただの彫刻を施された飾りと思っていたけど、それは偶然に開いたカラクリ小箱だった。
 中には二種類の鍵が入っていて、一方は手垢がついて古く、もう一方は比較的新しい。それは間違いなく探し求めていたもので、僕は早速二つの鍵を持って、物置部屋へ向かった。
 怖い夢を見なければ、独りで留守番をしなければ、偶然が鍵を提示しなければ、僕の人生は世間一般のそれと変わりない生涯を終えたのだろうか。
 それとも、例え回り道をしたところで、結局は同じ道を辿ったろうか。
 けど運命は、少なくとも僕が決断して下した運命は、それぞれの鍵を鍵穴に挿入し、小気味良い音を鳴らして、いとも簡単にドアノブを押し開けたのだった。
 薄暗くカビっぽい部屋。内側から板で塞いだ窓からは一条の光さえ入ってこず、家具がシルエットになってはっきり見えない。僕は壁に手を這わせて、電源のスイッチを探り当てた。
 六帖ほどの広さの洋間で、ピンクの花柄の壁紙と幾何学模様の絨毯、天井にはシャンデリア風の電気が下がっている。物置部屋というよりは、女性の部屋のようで、ベッドや人形を飾った棚、洋服ダンスや書棚がなどが置いてある。
 確かここには家宝がしまってあると聞いていたけど、どう見ても、通販で売ってそうな家具ばかりだ。
 開けっ放しの扉から細い風が侵入し、他のよりも長く垂れた奥のカーテンを揺らした。壁と思われた向こう側は空間で、カーテンに寄って仕切られていたのだ。
 僕は淡い色のカーテンを引いて、息をのんだ。総毛立った身体が、恐怖で血が失せたように一気に寒くなる。
 顔のない人形が、壁一面に首を釣って下がっていた。胸に何本もの釘が刺さったもの、鋭いもので胴を切り裂かれて中の綿をはみだしたもの、全身針だらけなものや、形が変わるほど紐で縛ったものもある。それらが顔をこちらに向け、折り重なるようにして、向こうの壁紙を見えなくしている。
 片隅には、首のないマネキンが置かれてあり、茶色の汚れが染みついた、モスグリーンのワンピースが着せられていた。珈琲の染みというより、それはまるで血が広がって乾いたようだ。もちろん、誰のものか、僕は知らない。
 床に散らばった人形の残骸を足で押しのけながら、奥の飾りけのない机に向かった。卓上は傷だらけで、胸に包丁を突き立てられた無惨な人形が横たわっている。
 僕は引き寄せられるように、ブックエンドに数冊あるなかの、赤い背表紙のノートを手に取った。
 かなり使い古された表紙には、達筆な字で『記録』と簡潔に題されてある。
 ただそれだけなのに、何故か、見てはいけないような気がした。
 僕の中で、二つの感情がせめぎあう。
 見てしまったらもう後戻りできないぞと諭し、同時に好奇心が見たいとうるさいほど叫ぶ。


 そして僕は、ゆっくりした動作で、表紙を、めくった。


【愛する(ひこ)兄さまに永久の復讐を誓う】
 歩けない彦兄さまを山に置き去りにした弥太郎が憎い。息子を庇って捜索隊を出さなかった柴田が憎い。大地主の息子だからといって餓死して骨になり果てた彦兄さまに謝りもせず、罰にも処せられない柴田一族が憎い憎い憎い。どんなに年月が経とうと、どんなに彼奴等が改心しようと、一族の血が根絶するまで、わたしと彦兄さまの怨みは消えず、決して許しもしない……。


 僕は読めない漢字を抜かしつつも、柴田一族の恨みが切々と綴られていることを感じた。そうして彦の妹が、僕のお婆ちゃんなのだということも。
 ページをめくっていた僕は、文章から年表にかわったところで手を止めた。しかしそれは年表ではなく、人の死の記録だった。


【柴田一族の末路】
 柴田弥太郎(23)溺死。
 柴田喜治郎(18)転落死。
 柴田弥平(45)轢死。
 柴田路代(15)毒死。
  ・
  ・
  ・


 何代にも渡って、柴田一族の死が簡潔に記されている。けどなぜか、老衰した人はひとりもいなくて、全員が若くしてこの世を去っていた。昔の人は今ほど長命ではないにしても、彦に誓った言葉といい、まるで意図的に殺されたかのようだ。
 以前僕が夜中に聞いた名前は、一番最後に『柴田智明』と書かれてあった。けど年齢39才の後は空白で、まだ生きているようだ。足腰が悪くなって、復讐できずにいるのだろうか。
 僕はお婆ちゃんの優しい笑みを思い浮かべた。町のために塵を拾い、子供が遊びやすいように腰を屈めて雑草を抜いている姿を。足を悪くしても、ガーデニングの水やりは欠かさず、花が咲いたら子供みたいにはしゃいで僕の名前を呼ぶ声を。
 けどその裏では、激しい怨みで毎日を生きてきた。


 人を殺した手で花に命を与え、人を殺した目で僕を見詰めていたのだ。


 入り口のドアを閉めたはずなのに、顔のない人形達が踊るように揺れる。乾いた音をたてて、僕を嘲笑する。
 耳を塞いだ拍子に、ノートを卓上に落とした。すると最後のページ付近から、一枚の紙切れが顔を出した。
 どういう手段で手に入れたのか、それは柴田智明の履歴書だった。

 季衣が帰る頃には、僕は居間のソファで悠々とテレビを見ていた。
 少し雨に濡れた妹の頭をタオルで拭いてやりながら、ポケットに忍ばせた紙切れを、無邪気な目が穢れないよう、もっと奥へと突っ込む。
 お婆ちゃんの憎しみが籠ったあのノートを読んでも、僕の心には、少しの憎しみも芽生えなかった。確かに彦という人は可哀想だと思うし、復讐に人生を捧げたお婆ちゃんも可哀想だと思う。けど、僕はそこに存在しないし、血の繋がりはあっても直接体験したわけじゃない。
 こう言ったらお婆ちゃんに嫌われそうだけど、僕にしたら、所詮はノートの中のできごとにすぎない昔話だ。


 僕を殺人に至らしめる動機には、まだ足りない。












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