しろのせかい
Emanon
――パタン――
私は読んでいた本を閉じた。
目の前にはいつものつまらない病室があるだけ。これが現実、そう、つまらない現実、退屈な日常。活字の世界だけが今のところの唯一の楽しみだ。
ふと、「現実感」が揺らぐ。これは現実なのに、現実じゃない気がする。まだ小説の中にいるような気分。なかなか悪いものではないな、と志乃は思った。
ぼんやりしたまま、何とはなしに窓の外を眺めた。切り取られた外界。私には届かない世界。
「制服」を着た女性の一団が道を歩いている。時間からすると「学校」に行くのだろうか? もっとも、そんなところ行った事ないから、私にはよくわからないのだけれど。
ふと、一人に目が止まった。目が悪いから細部はぼやけているが、はじけるような笑顔で友達と話しているのが雰囲気から伝わってくる。ショートカットが良く似合う、健康的な女の子。スカートの裾から伸びる脚部はスラッとしていてどこまでも走っていけそうだ。
すごく憧れる。でも、私には無縁な存在。憧れっていうのは触れられないから憧れる、そういうこと。
軽く手を振ってみた。いつもはそんなことしないのだけれど、そんな気分だったから。
あ、あの子が、コッチを向いた。ちょっと驚いた表情。多分、白い髪とか紅い瞳とかに驚いたのだと思う。
驚いた後、ちょっとはにかみぎみの笑顔で手を振り替えしてくれた。たまにこんなことがあると結構嬉しい。
外の世界と私の世界、ちょっとだけ触れ合った。でもそれだけ、こちらとあちらは所詮別の空間だものね。
『ひまだぁぁ』
星は心の中でつぶやいた。
教壇では中年の教師が熱心に電池の仕組みについて説明しているが、クラスの大半は真面目に聞いていない。星たち、中学生には難しすぎる内容だ。高校の内容らしい。話しているうちに脱線してしまったらしい。テストにも出ないし、好きでもない。じゃ、べつに聞く必要は無いだろう。
『そーいえばこの人、前にも脱線してたっけなぁ』
頬杖を付きながらも一応聞いているフリだけして、ボーっと時間が過ぎるのを待つ。
ふと、朝の女の子を思い出した。
通学路沿いにある病院、いつもはそんな病院など気にも留めずに通り過ぎるのだけれど、ふと、なんとなくそっちのほうを向いたら、10メートルくらい距離を隔て、紅い瞳と目が合った。年齢は大体、同じくらいだろうか。ベッドに腰掛ける姿はまるでお姫様のように可愛かった。白い髪と紅い瞳はもしかして『アルビノ』というのだろうか。まるで、ファンタジーの世界から抜け出たようにおしとやか系の美少女。
少し遠かったが、星の優秀な視力はその姿を事細かに読み取っていた。髪の毛は肩くらいで切りそろえられていて、多分触るとサラサラとシルクみたいな肌触りがしそうだ。わずかに下がった目尻、淡い微笑みが似合うと思う。まるで白薔薇みたい。
『きれいな子だったなぁ』
星もあんなふうになりたいと憧れるけれど、くせッ毛だから髪を伸ばしてもあんなふうにならないし、運動部だから肌も浅黒い。とてもじゃないけど無理。服装だってスカートなんて穿こうものならみんなから「彼氏でもできたの!?」とか言われてしまうだろう。
『一度くらい話してみたいなぁ。どんな子なのだろう』
しかし、会う機会は無いだろう。多分どうにもならない。
そう思うとますます、会いたくなるのが人情だろう。
『どうでもいいけど、ホントひまだぁぁぁぁ』
べしょん、とほっぺたを机にくっつけ、体重を預ける。やる気が無いときのいつものポジションだ。もはや、フリをするのもめんどくさい。
『気分悪いフリして保健室にでも逃げようかなぁ。でも、なんか、ウソつくみたいで嫌だなぁ。一時間休める程度でいいからお腹でも痛くなってくれないかなぁ』
ついついそんな不謹慎なことを思ってしまう。
そんな思考に至ったのがいけなかったのだろうか。
腹部に生まれたわずかな違和感。『あれ?』と感じたときには既に鋭い痛みが、身体を支配していた。
ハンパな痛みではない。めちゃくちゃ痛い。死ぬほど痛い。たまらず、身体を『く』の字に折って、崩れ落ちるようにうずくまる。うずくまったところで痛みはやまない、それどころかますます痛みは増してくる。
こんなに痛いのは生まれて初めてだ。
――何かの奇病!? 多分致死率高いよ、これ。もしかして、あっさりココで死んじゃったりするの? アタシまだ、中学生だよ。ちょっと、やめてよ。痛いんだって。ホント、死んじゃうって……
激痛でどうでもよくなってくる意識のなか、教室が蜂の巣をつついたような騒ぎになるのがわかった。
「ひまだぁぁぁぁ」
ぼやいてみても、暇な状況は変化しないのだが、なんとなくぼやいてみた。
星は病室のベッドに授業中と同じように暇をもてあましていた。クラスメートがお見舞いに来てくれている時は良かったが、夕方になり、みんなが帰ってしまったら、何もやることがなくなってしまった。
教室で意識を失って、次に目を覚ましたのが病院で、そのときにはもう痛みはなかった。
後で聞いた話によると、ただの盲腸――急性の虫垂炎――で、救急車で運び込まれたその日に手術が終わり、事後の経過を看るために入院となった、とそんなわけらしい。
いきなり入院させられたため、漫画などを持ってくる余裕がなく、外に出るのも、手術直後では縫合が開くから、ということで禁止されている。じゃ、どうやって過ごせというのだろう。
病室を見回してみてもなぁんにもない。大部屋ではあったが、入院患者は自分一人、真っ白い壁とシーツが見えるだけだ。せめてもの慰めは中庭がみえる窓際のベッド、ということだろうか。
というわけで、さっきからぼんやりと中庭を眺めている。たいした暇つぶしにはならないけれど。
秋の夕暮れ、空は晴れていて夕焼けがきれいだ。昔の人なら和歌の一編でも作れそうだが、あいにくと彼女にはそんな技能はない。
暑くもなく、寒くも無いちょうど良いくらいの気温なので、多くの人が外で散歩したり、遊んだりしている。――手術跡さえくっつけばアタシもあの中に入れるのになぁ……
自然に漏れるため息。何度目だろうか。
ふと、視界の中に目を惹くものを見つけた。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる姿。――あの子、もしかして――
大きく手を振ってみる。こちらに気づいたのか、その子も手を振り返してくれた。今朝と同じように。
見間違えようが無い。深紅の瞳と雪のような髪と肌。星と同じ入院着だけれど、彼女がきると、風の変わったワンピースのように見える。やっぱり可愛い。
その女の子はしばらくコッチを向いて手を振っていたが、はっと、何か用事を思い出したかのように小走りで院内へと消えた。
『暇つぶしが出来たとおもったんだけどなぁ〜』
星は、再び、ぼんやりと窓の外を眺める。また、暇をもてあます。
五分くらいそうしていただろうか。病室のドアがノックされた。院外への面会時間は終わっている。看護師か医者だろう。
「どうぞ」
星がそういい終わるか言い終わらないか、病室のドアが開け放たれた。
そこにはさっき、自分に手を振っていた少女がいた。
「こんにちは……です。今朝も会いましたよね……」
呼吸が荒い。中庭からここまで走ってきたみたいだ。少し苦しそうに胸を押さえた姿はお城から、お忍びで抜け出したお姫様のようだ。
星は突然乱入してきた彼女を相手に呆然としてしまう。
「いろいろお話ししません? 私、退屈で、退屈で……」
その提案はとても突然であったが、星にとって魅力的で、一夜漬けの後の布団のようにもとめてやまないものだ。どうやら、退屈な生活のなかで考えることは同じのようだ。
「うん。アタシも退屈でさぁ……」
夕食の時間まで口切らずでおしゃべりを続けた後、アルビノの少女は「ごめんなさい。私、志乃といいます。」と名乗った。会ってすぐに名乗らなかったのは、話し相手を見つけたのが自己紹介を忘れるほど嬉しかったのかもしれない。
その言葉の後に
「明日もここにきていいですか?」
と、白い指を赤くなるほど握り締めて聞いた。。
星の答えは決まっていた。
「もちろんっ!」
『断る理由なんてあるわけない。話してると楽しいし、志乃ちゃんは可愛いし』
でも、星は志乃にとってそれがどういう意味を持つか、このときはまだ知らない。
テレビでよく見る機械――CTスキャン。星は目の前を上下する部分をなんとはなしににみつめていた。
機械がゆっくりと星の体の周りを動くと同時に、X線が放射され、星の体を輪切り状に投影していく。
「まだ終わらないんですかぁ?」
星はこの機械が苦手だった。もっとも、多分、好んでこんな機械に寝たがる者いないだろうが。
人によって何が嫌い、というのはいろいろあるだろうが、星にとって嫌いな理由はなんといっても「暇」なことだ。そして、星は暇が大嫌いだ。時間を無駄にした気分になるし、なによりつまらない。退屈。
入院してから数日が経つが、毎日毎日、診察ばかりで嫌になる。大体、『術後経過を看る』ためだけに入院までさせなくてもいいではないか、なんでこんなに時間がかかるのだろう。
と、毎回CTやら触診やらの時間に思う。
『その分、シィと話せるから悪くないと思えばわるくないんだけどね』
志乃――星は言いにくいので『シィ』と呼んでいた――入院初日に会ってから、診察の時間以外、ずっと一緒に居る仲だ。早く退院したいけれど、シィと別れることを想うと、少し複雑。
「あぁ、そういえば、君は志乃ちゃんと仲がいいんだってね。院内でも有名だよ、まるで姉妹みたいだって」
医者がカルテに記入しながら言った。
「そうなんですかぁ。へぇ、姉妹かぁ……」
そういわれて悪い気はしない。星が姉で志乃が妹だろうか。
「あの子、物心付いたときからずっと病院だからねぇ。同年代の話し相手ができると嬉しいんだろうねぇ」
「え? ずっと病院っていうのは?」
「アルビノって知ってる?」
「えっとぉ……確か『先天的に色素が無い、または作れない突然変異個体』でしたっけ、教科書のまる覚えですけど」
「そう、よく勉強してるね。アルビノの人って遺伝子が突然変異をおこしていて、生まれつき身体が弱いんだよ。自然界でもカラスのアルビノだとか、ライオンのアルビノだとかは生まれるんだが、大体は生存に不利に働く」
「へぇ〜」
そう言われてもあまり実感はわかない。アルビノの志乃と話していても学校の友達と、白い肌と深紅の瞳が素敵、ということ以外の違いはない。
「志乃ちゃんの場合、他にもいろいろと染色体に異常があってね……っと、はい、終わり。今日も妹君のところに行くのかい?」
「もちろん! 先生、ありがとうございました! それじゃ」
星は機械仕掛けのベッドから降りると、スリッパを引っ掛け、小走りで診察室を出て行った。
取り残された医師は、先ほどまでの微笑を崩し、ため息をもらした。
「仲がいいことは、良いのだが……さて、どう伝えていいものか……」
医師として、患者に病状を正確に報告しなければならない。
「やっほ〜」
「こんにちは、です」
星の大部屋に二人では広すぎて寂しい感じがする。だから、二人が集まるのは志乃の個人病室だ。
志乃はベッドに腰掛け、小説を読んでいるところだった。星が病室に入ってくると、読んでいた小説を閉じ、枕元に置いた。
「あ、読書の最中だった? 邪魔しちゃったかな」
「いえいえ、何度も読んだ本ですから」
星は立てかけてあるパイプ椅子をひっぱりだすと、背もたれを前にして座った。ちょっと行儀が悪いが、体の前の背もたれに寄りかかれるのでこっちのほうが落ち着く。ここ数日間で定着した格好だ。
「そういえば、たまに『〜です』ってアニメのキャラクターみたいにつくのはなんで?」
「ほえ? 変ですか?」
「変って程変じゃないけど、ちょっと特殊な人種だと思われるかもね」
「へぇ〜、特殊な人種って何ですか?」
志乃は小さい頃から病院という閉鎖空間に居るからか、病院外のことをほとんど知らないようだ。
「ま、俗に言うオタクってやつ」
「オタクって?」
「うーん、そうね。オタクの定義かぁ……。マンガとか小説とか、アニメとか、一年中
見てる人かな。行くところまで行っちゃうと自分で描き始めたりとかキャラクターの格好したりとかもするかなぁ」
「えっと、じゃあ、私、『オタク』なのかな? ちっちゃい頃に入院してから、ずっとそんなのばっかり読んでますです」
「え、ちっちゃい頃っていつくらい」
「覚えてる限り、ずっとココです。体が弱いから」
「もしかして、病院の外って一回も出たこと無いの!?」
「うーん、、言われてみればそうかも知れませんね」
志乃はなんでもないことのように言った。星はどこかで聞いた文句を思い出した『真に悲しいのは悲しいことに気づかないことだ』志乃はまさしく、それだ。
ずっと病院のなか、外にある楽しいこと、面白いこと、何にも知らない。すごくかわいそうだと想う。だけど、それについて言及も慰めもしないようにしていた。多分、無責任な言葉は志乃を苦しめるだけだろうから。
「あ、そういえばシィちゃんってなりたいものとかある? 来年受験だからって、将来の進路決めなきゃなんだけど、イマイチわからなくてさぁ」
「将来ですかぁ。私も全然想像できませんです」
その言葉には星と全く違うニュアンスも含まれている。だが、このときの星にはそんなことなど知る由もなかった。
「そうだよね〜。大人の自分なんて想像もできないよ。でも、その将来に向かっていろいろと努力するために今の自分が生きてるんだろうけど」
「うーん、そういうものですかぁ。私にはよくわかりません」
「あ、ごめん。アタシ、今、ちょっと恥ずかしいこといっちゃった。忘れて」
「ほえ? よくわかりませんが。そういうことなら忘れますですよ」
志乃は小首をかしげて、そう言った。白い髪がサラリと流れる。
「あ、そういえば」
「うん、なになに」
志乃のほうから会話がふられる。ちょっとめずらしい。
「星さんが通ってる学校ってどんなところなんでしょう? 私、行ったことないかわよくわかんないです」
『学校かぁ、どうやって説明すればいいのかなぁ?……』
いつも当たり前に在るものだけに説明しづらい。
「えっと、やっぱり、学校っていきなり異空間に引きずりこまれたりとか、変形してロボットになったりとかって、大変なんですよね」
『いつの時代のアニメよ……』星の表情が少し凍りついたが、持ち直す。この子はずっとこの閉鎖空間の中にいるのだ。うん、いくらオタクな発言でも仕方ない。多分。
「そんなことないって。あれはフィクションの中だけだよ。ただ、みんなで勉強とかするだけだよ」
「あ、そうなんですかぁ。毎日、制服を見るたびに『あの中の何人が生き残るんだろう』ってちょっと怖かったんですよ」
――こいつ……――
「あのね、シィちゃん。いくらアタシでもそんなウソには引っかからないわよ。フィクションだって、学園モノってジャンルあるものねぇ」
ジト目で睨む。といってもフリだけだが。
「あ、やっぱり失敗ですか?」
眉を寄せ、ちょっと落ち込んだ表情。もちろんこちらもフリだけだ。
「騙せたと思ったんですけどね〜」
「よくも、このアタシをたばかろうとしおったな〜」
星はそういいつつ、志乃のほっぺに手を伸ばし、ふに〜と引っ張った。白くてやわらかいほっぺた。いいなぁ、と思う。
「いひゃい、いひゃいへふ」
たーて、たーて、よーこ、よーこ、と、上下左右にひっぱり、最後に横に引っ張ってぺちん、と離した。ほっぺたを抑えて「うにゅう〜」などと言いながらうずくまる志乃。でも、表情は楽しそうだ。
つられて星も笑う。声を上げて笑う。笑いの連鎖。志乃も声を上げる。どうでもいいことだけど、どうしてこんなに笑ってしまうのだろう。
「けほっ、けほっ」
笑いすぎて志乃がむせたように咳をした。
「ちょっと、だいじょうぶ?」
星が声をかける、それでも咳はとまらなかった。
ベッドに突っ伏したまま、志乃の咳がとまらない。さすがに、彼女も異常に気づいた。
あたりを見回し、枕元にあるナースコールのボタンをみつけ、押す。
医者でない星はどんな処置をすればよいのかよくわからない。とりあえず、背中をさすってやる。
『なんて、か細い背中……』
肋骨や背骨がわかるほど細い。すぐに壊れてしまいそうな背中。切なげに震えている。
病室のドアが開き、看護師が小走りに駆け寄り、「代わります」と星に声をかけ、彼女を押しのけるようにして応急処置を行う。体位を変えたり、脈を見たりしているようだった。
隅に追いやられた星はそれを見ている他なかった。何もしてあげられない自分が歯がゆい。
看護師による処置を受けてもまるで効果はない。むしろ、症状は悪化するばかりだ。苦しげに胸を押さえたまま動かない。もしかすると意識が無いのかもしれない。
看護師はベッドのシーツをめくり、そこから露出したレバーを操作すると、下部からタイヤの付いた脚部が現れストレッチャーのようになった。
看護師は星のほうを向き、「付いてきて」と指示を出すと、ストレッチャーとなったベッドと共に駆け出した。
星はいきなりの指示に戸惑ったが、看護師の言うことに従うしかなかった。
集中治療室前にあるベンチ、星はよくあるドラマのように肩を落として座っている。まさか、自分の身がそんなシチュエーションに遭遇するとは思ってもいなかった。もう、一日以上もこうしている気がするが、実際は時計など見ていないからわからない。
両開きの扉は未だ重く閉ざされたままだ。防音になっているのか声も音も聞こえない。中の様子はまったくわからない。
あの後、看護師に志乃について聞かされた。それは以下のようなものだった。
志乃はアルビノであり、アルビノというのは特定の染色体の突然変異により先天的に色素を持たない。だが、志乃の場合、他の染色体――遺伝子に異常があり、それがどのような形質となるのか現代医学ではわからない。つまり、志乃の体はいつどこがおかしくなるかわからない体であるということ。
それは身体の中に時間表示の無い時限爆弾を仕掛けられているのと等しい。
星は遺伝だの、染色体だのという話はよくわからない、しかし、最後の言葉だけは理解できた。
志乃はいつ死んでもおかしくないのだ。
あの笑顔がもう見られないかもしれない。
あの声がもう聞けないかもしれない。
『カミサマって不公平だ』
志乃はどういう気持ちで日々をすごしているのだろう。死を待つ時間。いつ終わるかわからない。そんな不安定な時間だ。
どんなことを感じても、どんなことがわかっても、張り付いた死からは逃れられない。そして死ねば全ては無へと帰るのだ。理不尽だと思う。
だが、医者でない星には、志乃を信じるしかない。
『シィちゃん……』
静かだ。もう就寝時間を過ぎているかもしれない。
「……ちゃん、星ちゃん」
『私の名前?』
知った声で名前を呼ばれる。その声で星の意識が徐々に覚醒する。
ぼんやりとした意識で、まぶたを開いた。目の前に、星を読んだ者――志乃が立っている。
「あ、シィちゃん。身体、大丈夫なの?」
星は寝ぼけながらもそう尋ねた。
志乃は星の問いかけには答えず、淡く微笑むと
「今まで、ありがとう。それじゃぁね」
それは唐突な分かれの言葉。あっけに取られる星にかまわず。志乃はかるく「バイバイ」と手を振る。
――フィクションでよくあるシーン? まさか幽霊? 私に別れを告げに来たの?――
背を向け、歩き出そうとする志乃を星は追いかけた。
「ちょっと! 待ってよ、行かないでよ!」
無駄だと知りつつ、志乃の肩をつかもうとする。無論、その手は空を……
『あれ?』
きるかと思われたが、華奢だが、ちゃんとした肉体の感触が星の手に帰ってきた。
「えへへへ〜」
志乃がしてやったりと言いたげな笑みを浮かべながら振り返った。
「ちょっと小説とかのシーンみたいだったでしょ? 一度やってみたかったんですぅ。ほら、私、結構、集中治療室担ぎ込まれることが多いから……」
「ばかぁ!」
星が志乃の言葉を遮る。
「ホントに、ホントに心配したんだからね! もう、あえないんじゃないかって、このまま死んじゃうんじゃなかったって」
星の瞳に光るものがあった。
泣かせるつもりなど無かった志乃は、あっけに取られ、きょとん、と、真紅の瞳をウサギのようにしばたいた。いままで、人との関わりが薄かった彼女には、こんなときどうして良いのかわからない。
「ちょ、ちょっと、星ちゃん。大げさです。私、こんなこと、しょっちゅうなんですよ。私、そこらじゅうの機能がダメになってるらしいですから、いつ死んでもおかしくないって……」
志乃は、コトもなげに笑いながら誤魔化そうとした。まるで、ちょっとしたイタズラが見つかった子供のように。
「そんなこと言わないでよ! ばかぁっ!」
星はそのまま志乃に飛びついた。腕を首に回し、ぎゅっと抱きしめる。
「死ぬなんてそんな簡単に言わないで!」
声を上げて泣く星に対し、志乃は優しく背中を撫でることしかできなかった。
彼女には星がどうして泣いているのかわからなかった。彼女にとって死は日常。いつも近くにあるもの。ルームメイトのような存在でしかない。
秋晴れの日差しが穏やかに差し込む。午後の診察開始までの時間を志乃の病室で過ごす。すっかり恒例になった光景。
「やっぱりあれは失敗でした」
「なによ、人をあれだけ驚かせておいて」
「絶対安静なときに病室を抜け出すなって、先生に怒られて、看護師さんにも怒られて……。もう、酷いですぅ、いじめですぅ。ショボーンですぅ」
意識不明に近い状態で、集中治療室に担ぎ込まれたら、処置が終わったとしてもすぐに動いていいはずがない。普通は絶対安静だ。しかし、この間のイタズラのとき、志乃はこっそりと病室を抜け出して、星をからかったのだ。何も言われないはずない。
「そんなの当たり前。死んじゃうかもしれないのに、どうして絶対安静って言われて出歩けるのか知らないよ」
「だって、絶対安静って暇なんですぅ、集中治療室に担ぎ込まれるなんてのはよくあるから別に慣れてるですぅ。だから別にいいんですぅ」
死に掛けた少女は、頬を膨らまし、むくれながら言った。
「だぁかぁらぁ……」
星は思わず頭を抱えた。どうして志乃は死に直面していても笑っていられるのだろうか。
そう思ったとき、午後からの診療を開始するベルが鳴った。
「あ、アタシ行かなきゃ。今日、午後一に呼ばれてるんだ」
「ふぅん。そういえば、星ちゃんどこか悪いですか? 毎日、毎日診察ばっかり」
「うーん、よくわかんない。なんか術後経過が良くないから検査入院って話なんだけど、別に調子悪いわけじゃないし……、それじゃ、診察終わったらまた来るからね」
「ではでは、いってらっしゃいです」
志乃にそう挨拶をすると、星は病室を出た。
早く行けばその分だけ早く終わる。星は早歩きで診察室へと向かった。
いつものようにドアをノックし、「どうぞ」と言われてから入室する。
いつものようにドアを開ける。
いつもと同じ診察を終え。そして、昨日までと同じように志乃のところに遊びに行こう。そう考えながら。
しかし、今日はいつもとは違う。
ドアをあけると陰鬱な表情をした医師と、同じく陰鬱な表情の両親が居た。
星を見送り、志乃は枕元に置いてある文庫本を開いた。
病室にある音は規則的にページをめくる音だけだ。志乃は独りの時間をずっとこうして潰してきた。欠陥品として生まれ、今では両親でさえ見舞いに来ない。半ば死んでいるようなもの、それでも志乃は生きている。
小説を読むのが志乃の暇つぶしだ。そう、暇つぶし。暇を潰すしかやることがない。どれだけの暇を潰そうと、その向こうに何もない。志乃に待っているのは、いつ来るかわからない死、それだけだ。
そんな生。
小説を読み進み、ページをめくった。
物語はクライマックスに差し掛かり、ヒロインの少女が瀕死の重傷を負った。よくあるパターン。
いつの頃からだろうか、自分を小説のキャラクターと重ねるようになったのは。
彼らにとって死は身近だ。アクションもの、恋愛もの、ホラー、病死や、他殺、自殺。いろいろ。同じだ。
それは自分の妄想なのか。
私のストーリーはいつ潰えるのだろうか。志乃はふとそう思うが、そんな思考は意味がないことだと思い直し、考えるのをやめる。それもいつものこと。いい加減に慣れた。
時計を見やる。
気づいたらかなり時間がたっている。そろそろ、診察を終えた星が遊びに来る時間だ。
そういえば、いつも星が遊びに来ている。たまには志乃が遊びに行くのもいいかも知れない。
志乃はベッドから起き上がり、スリッパを突っかけると、星の病室へ向かった。
志乃は病室のドアを開けた。
星のベッドの上に丸い布団の塊が見える。昼間から布団をかぶって眠っているようだ。
『約束も守れない子にはイタズラです。うふふふ〜』
志乃は足音を忍ばせてベッドに近づいた。ニヤリと邪悪な笑みに口元を歪め。布団の裾を一気にへっぺがした。
すると案の定、うずくまって枕を抱いている星が居た。
「わざわざ起こしにきてあげたんですよ。さぁ、さっさと起きるです」
仁王立ちで星を見下ろす志乃だったが、様子がおかしいことに気がついた。彼女がここまでやられっぱなしということはありえない。いつもの星なら起き上がって反撃するなり文句を言うなりするはずだ。
枕を抱いたまま、星はゆっくりと目を開け、志乃のほうを向いた。目が赤い。
「泣いて……いるですか……?」
星は志乃の姿を認めると、目が見えない、生まれたての子猫のように、志乃に腕をのばす。
志乃は一瞬どうすればいいか迷った後、彼女の手を自分の色素の無い手で握り、星の身体を引き寄せる。そのまま胸に抱き、腕を星の背中にまわした。いつか、自分がしてもらったように。
腕に伝わる感触で星が小さくしゃくりあげているのがわかった。小さく震える星の背中をさする。
「……ありがとう」
星が彼女らしくない弱弱しい声で礼を述べた。なにかよほどのことがあったのだろう。
「何が、あったんです? あ、言いたくなかったら言わなくてもいいですよ」
「今日ね、今日の診察の時間。診察室に入ったら、いつもは居ないお父さんとお母さんが居たの。それで、先生が、レントゲンの、写真を指しながら、言ったの」
ところどころ、言葉を切りながら星は言う。思い出すのだろう。ところどころ言葉が詰まる。
「胃に、腫瘍が、あるんだって……」
「腫瘍って、ガンですか?」
「……うん、発見が、早かったから、今なら、手術で、取れるんだけど……どこに、転移してるかわからないって」
星は泣きじゃくり、志乃の入院着の裾を握り締めた。
「いつ、また、ガンになるかわからないって! いつ死ぬのかわからないって!」
星の手、より力が増す。関節が白くなっている。生への執着。生が今、つかんでいるのは自らの生だ。絶対に離すまいとつかんでいる。しかし……
「私、死ぬの? 死んじゃうの? 死んじゃう。死んぢゃう。この身体も、記憶も、思い出も、過去も、未来も全部、無くなっちゃう。死んだら全部無くなっちゃうんだ」
焦点の合っていない瞳。空虚な表情。
「全部無くなっちゃう。アタシが無くなっちゃう。じゃあ、アタシってなんでここにいるの? ただ死ぬために今まで生きてきたの? 意味もなく死ぬため? そんな人生に何の意味があるの? そんなの許せない! そんな理不尽、許せないッ!」
嗚咽を漏らしながら志乃の腕の中で震える星を、志乃はしばらく、紅の瞳で見つめていた。死のすぐそばにいる紅の瞳で。
彼女の興奮が収まるのを待ち、志乃はゆっくりと唇を開いた。勤めて明るい口調だった。
「気分転換に、ちょっとお散歩するですよ? 取って置きの場所があるんです」
志乃は星抱き起こすと、手を引っ張って歩き出した。
星は虚ろな目をしながらも彼女に続いた。壊れた心でも、彼女が自分を慰めようとしてくれていると感じたからだ。
しかし、志乃の真意はそれとは全く異なるものだった。
病院の最上階まで登り、立ち入り禁止と描かれた扉。
鍵は掛かっていなかった。
志乃が扉を開けると同時に、秋風が志乃の白い、色素を欠いた真っ白い髪を嬲った。
彼女は星の手を引くと屋上へと歩みを進めた。
秋の空はどこまでも青く、どこまで澄んでいて、どこまでも空っぽだった。
志乃は星の腕を引っ張り、屋上の縁まで進むと腰を下ろした。星もそれに従い、志乃の隣に腰を下ろす。
人が出入りするように作られていないため、落下防止用のフェンスはない。そのため、地上が直接見える。
高い。人や自動車、建物でさえまるでミニチュアに見える。
「ちっちゃくて安っぽく見えません? まるで怪獣映画とかですぐに壊されてしまうミニチュアセットみたいに」
志乃が言う。 星は変わらず、死人のような表情。かまわず志乃は続けた。
「ここ、私が大好きな場所なんですよ。病院の閉じられた空間の中で、ココが一番開かれた場所だから。でも、開かれてはいても、つながってはいない、まるでフィクションの世界のように」
どこからか風の音がする。
「でも、私、星ちゃんが入院してから、それは違うってコトに気づいたんです。嬉しかったですよ。気づけたことは」
風が強くなった
「窓の向こうに、違う世界にいる人がこちらに来てくれた。そして今、死に面している。そう、世界は繋がっているんです」
『死』という単語に、星がほんのわずかに反応した。だが、顔は伏せられたままだ。
「あんなに元気に見えた星ちゃんが、今はこちらの世界にいるんです。さっき言いましたよね、『いつ死ぬのかわからない。死ぬために生きるなんて嫌だ、みんな無くなるのは嫌だ』って、私もですよ。ずっとずっとそうでした。いつも死はすぐ隣でワルツを踊りながら手招きしているんですよ。でも、安心してください。星さんがこちらに来てくれたように、ココから見えるミニチュアみたいな人たちもこちら側の世界。死が露に見える世界。死露の世界にいるんです」
志乃の口元が笑みの形を刻んでいる。
何年も何年も死とともに居る少女。
風が、さらに強くなった。
背中を煽られる。
十数センチ前にはミニチュアが見える。虚無が見える。死が見える。
星が一言だけ口を開いた。小さな、声で。
「……貴女は、どうして、そんな世界で生きてこれたの? 何をしても無意味だと言いながら……」
彼女はその問いに直接答えることはしなかった。かわりに、微笑みを浮かべるのみ。それは聖人のようにも狂人のようにも、見えた。
「いつ、壊れるかも知れない世界。そんな不安定な世界。それなら、今すぐ壊してしまいませんか?」
志乃が星の腕をつかんだ。細くて真っ白い手首。死露の手首。
「ほら、後もう数十センチ、前に出れば、世界を終わらせることができるです。一緒に逝きましょう」
志乃が星を引っ張る。星の視界にミニチュアのような世界が映る。小さな人、固そうなアスファルト。
星の身体が淵の方へと乗り出す。
「いやっ」
星は死露の手を振り払うと、その場にうずくまった。彼女の瞳に意思が戻る。
「怖い、怖いよ」
「怖いことなんてないです。死は全部壊せるんです。そんな感情も壊してくれます。さぁ」
「だって、こんな高さから飛び降りるんだよ? きっと、すごく痛いよ。盲腸でも死にそうなくらい痛かったのに……」
「……こうなったら、仕方ないです」
志乃は星の手首を無理矢理つかんだ。
エピローグ
――お元気ですか……って始まるのも変ですけど。お元気ですか? 私のほうも……、元気ではないけれど、一応、まだ生きてます。昨日もちょっと集中治療室まで行ってきましたけど。
と、この後、何を書けばいいのでしょう? 手紙なんて書いたことないから。うーん、そうそう。あの後は大変でしたね。立ち入り禁止の屋上に入ったことがバレちゃって、先生には怒られるわ、看護師さんには怒られるわ……、集中治療室抜け出した時の比では在りませんでした。さすがの私も、ちょっとクタクタでしたよ。
実は私、ちっちゃいころ、屋上によく登ってたんですよ。見つからないように。好きな場所だからっていうのもあるんですが、一番の目的はあの時と同じです。
あの時、私に聞きましたよね。『どうしてこんな世界で生きてこれたの?』って。簡単なんですよ。死ねなかったんですよ、怖くて。淵までは歩けてもそこから先に足がでないんです。やっぱりアスファルトって痛そうですよね。
だから、星ちゃんとならって思ったんですけど、やっぱりできませんでした。
吹けば飛ぶような命なのに、いざ飛ばすとなるとなかなか簡単にはいかないものですね。(笑)
うん、もう書く事ないかな。(ホント、伝えたいこといっぱいあるけど、いざ書くとなると書けませんね)
私、この白い病室でいつでも待ってます。寂しいので早く遊びに来てね。できれば、泊り込みで……って『また、入院してくれない?』って言ってるんだけど、まぁ、正直、待たれても困っちゃうよね(苦笑)
うん、それじゃあ。またね。
愛しの星ちゃんへ 志乃より――
電車を待つ間、星は志乃から届いた手紙を読んでいた。
待合室では様々な音が聞こえる。
電車が到着するアナウンス、外から聞こえる自動車のクラクション、雑踏のざわめき、待合室の始終付けっぱなしのテレビ。日常の光景。
テレビではニュース番組が放映されている。『一家四人惨殺、犯人は付近の高校生か!?』『高速道路で事故、二人が重症、うち一人が現在も意識不明の重体』『自殺者数過去最多』これも日常の――いつもの光景。
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